2019年11月22日金曜日

負けないイッサ

『レ・ミゼラブル』
"Les Misérables"

2019年フランス映画
監督:ラドジ・リ
主演:ダミアン・ボナール、アレクシ・マネンティ、ジェブリル・ディディエ・ゾンガ、イッサ・ペリカ
2019年カンヌ映画祭審査員賞
フランスでの公開:2019年11月20日


Mes amis, retenez ceci, il n'y a ni mauvaises herbes ni mauvais hommes. Il n'y a que de mauvais cultivateurs.    
(Victor Hugo "Les Misérables" )  
わが友人たちよ、このことを覚えておきなさい、悪い雑草も悪い人間たちも存在しない、あるのは悪い耕作者たちだけなのだ。
(ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』)

ーヌ・サン・ドニ県(93県)の町モンフェルメイユは、ヴィクトール・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』(1862年)においてジャン・ヴァルジャンが幼いコゼットと出会う場所として知られる。また2005年10月から11月、20日間に渡って続いたパリ郊外暴動事件において93県クリシー・スー・ボワと並んで全国規模の暴動となる同事件の最初の発火点となった町でもある。映画はこの二つと大きく関係している。特に2005年の事件は人々の記憶に新しく、連夜の襲撃/警官隊との衝突で町も人心も激しく破壊されたのち「一体なにが残ったのか」と問うセリフが出てくる。破壊は何も生まなかったという記憶から、この町は様々なコミュニティーのすべてが「2005年」の繰り返しは絶対に避けるべき、という賢明な考えであり、不文律のアレンジメントで危うい平和環境を保っていた。この平和秩序は警察権力によって保たれているわけでは全くない。産業も仕事もないこの郊外の一角では、"並行経済””地下経済”が市場を支配し、偽物・盗品・無許可営業がまかり通り、麻薬と売春はこの経済上不可欠であるかのような重要度である。法による摘発はありうる。だがそれは起こらない。
 この映画に登場するだけで、ロマの共同体(サーカス巡業)、闇カジノを財源とするグループ、サラフィスト系イスラム原理主義集団、露天市を取り仕切る"偽市長”とその配下の自警団など、とても市や警察では統御できそうにない、各縄張りを固く守っているコミュニティーがある。そんな危うい平和の時に、2018年、93県のヒーロー、キリアン・ンバッペを筆頭とするレ・ブルー(サッカーフランス代表チーム)がW杯で世界一に輝き、このモンフェルメイユの町からも郊外電車を乗り継いで子供たちがシャンゼリゼ大通りに繰り出し、優勝の大騒ぎに酔いしれる。(この映画の冒頭シーンだけでも涙が出そうになる)
 幻覚、蜃気楼、ミラージュのような無数の三色旗がひるがえるシャンゼリゼ大通り。

まさにミラージュなのであるが。

 この十数年の平和を保ってきたモンフェルメイユの警察署に転任してきた巡査ステファヌ(あだ名を"ペント")(演ダミアン・ボナール)の、転任初日の24時間に起こってしまう事件が映画の前半である。町の各コミュニティーが混在して暮らす集合高層住宅地区"シテ・デ・ボスケ"の巡回パトロール班に配属されたステファヌは、その地区巡回の十年選手である百戦錬磨の猛者警官であるクリス(演アレクシ・マネンティ、怪演!)とグワダ(演ジェブリル・ディディエ・ゾンガ)と3人チームを形成する。難しい地区の秩序維持を任された彼らは、現場を知り抜いているゆえに、住民に対して高圧的になったり融和的になったりの加減を熟知している。一面的に権力を盾にとった公僕でいられるわけがない。この描写が難しいところで、特に表面的に"粗暴警官”のように見えるクリスが、現場主義のロジックに最も忠実な一貫性があることが映画の進行にしたがってわかってくる。ステファヌは最初は警官としてのデオントロジーから、クリスのシニックで短絡的な住民との接し方に反感を覚えるのだが。

 事件の発端は町外れに大テントを設置してサーカス興行をしているロマ系のコミュニティーのボスのゾロが、バットや鉄パイプで武装した部下たちを引き連れてシテに押しかけ、「サーカスのライオンの子供がシテに住む子供に盗まれた」と、シテ中を力尽くで探し回ってライオンの子を奪回すると息巻いている。シテ住民を代表してその蛮行を防ごうと立ちはだかる"偽市長(ル・メール)"を名乗る自治会長(アフリカ系)(演ニザール・ベン・ファトマ)とその自警団。 この両グループによる押し問答のさなかに、クリスら巡回警官が割って入る。24時間中にライオンの子を見つけ出さなければ、シテを焼き払うと脅迫するロマ団。ライオンは必ず見つけるから、この場は俺たちにまかせてサーカスに戻れ、とクリス。

 その昔からフランスで「ニワトリ泥棒  voleur de poulet」と呼ばれていたロマの人々、その風聞の逆でロマのキャンプからニワトリを盗む少年イッサ。映画の最初にフランスW杯優勝に狂喜し、シャンゼリゼまで繰り出して行った少年だ。ありふれた、どこにでもいる郊外少年で、家庭・家族に問題があり、シテのダチたちとつるんで行動する日常(ベンチでだべったり、フットボールしたり)。フツーにこの郊外環境で育ってしまった肌の浅黒いこの子がライオンの子を盗んで地下室に閉じ込め、近所の子たちに見せびらかして得意になっていた。だから簡単に問題の「ライオン泥棒」はこの子と特定された。
 一方、 バズ(buzz)と呼ばれる黒人のメガネの 少年(演アル=ハッサン・リ、この映画の監督ラドジ・リの息子)がいて、ドローンを使っての動画撮影に凝っている オタク型のキャラクター。その撮影対象は集合住宅建物に住む女子たちの窓であり、その着替えシーンをドローンから盗撮し、動画をコレクションしてスマホにため込んでいる。こういうオタク的な引きこもり型の少年だが、放課後にはフレール・ムジュルマン(ムスリム同胞団)系の顎ひげ男たちに連れられてモスクに通っていて、ひ弱ながらイスラムへの信頼度は高い。これはこの映画全体のトーンと考えられるが、この映画で描かれるイスラム十全主義(サラフィスム/ムスリム同胞団等)は多くのフランス映画に現れる戯画的にネガティヴなイメージは全くない。子供たちにとって一番真っ当な考えはこれだ、と信じさせる何かがある、という面がこの映画でわかってくる。

 さてクリスら巡査3人によるイッサ狩りが始まる。まさにこれは”狩り=ハンティング"であり、野外グラウンドで遊んでいるイッサの姿を確認するやいなや、警官3人は周囲のたくさんの子供たちなど目に入らぬさまで、手加減なしの乱暴さでイッサを追い詰めていく。激しい捕物アクション。必死で逃げるイッサに子供たちは加勢し、3人の警官にものを投げつけてイッサを逃そうとする。催涙スプレーなどではこの勢いのついた子供たちを止めることができない。やっとのことイッサに手錠をはめることができたが、イッサの抵抗は止まない。子供たちは集中して警官たちに投石を激化していく。たまりかねたグアダが水平方向にフラッシュボールを発射し、その球がイッサの顔面を直撃する。 
 これをフランスでは "bavure"(バヴュール:スタンダード仏和辞典では「手落ち、失策、警察のやり過ぎ」と訳語あり)と言う。一般に正当防衛でもないのに、警官が武器を乱用し、相手を殺傷してしまう時に使われる。このグアダのフラッシュボールの発射の時点で、クリスはこれがバヴュールであることを直感する。非常にまずい。これは証拠をつきつけられたら言い逃れができない。警察の不祥事→住民の抗議の爆発→2005年の再燃... 一瞬にしてクリスにはこのシナリオが見えてしまった。だからバヴュールであることを隠蔽しなければならない。目撃者は子供たちだけだ。誰もこの現場を動画撮影していたりはしない...と空を見上げるとドローンが舞っているではないか!
 捕物は一転して、警官3人はこのドローンの主バズを追跡し、その目的はいち早く動画証拠を奪って消去しなければならない、になる。バズもまたことの重大さを一瞬にして把握し、 警察の追及を逃れるためにフレール・ムジュルマンに助けを求める。そのリーダー格の男サラー(演アルマニー・カヌート)はケバブ店を営む物静かな男であるが、警察からは以前から「Sファイル」(イスラム・テロリストに転じる可能性のある要注意人物リスト)上の人物としてマークされている。厳格なイスラム者であるサラーは終始厳しい顔つきで、自然のさだめや人のなすべきことを理路整然と語り、その重みはしばしば相手を圧倒する(相手が警官であっても)。サラーが匿ったバズは簡単には警察の手に引き渡されることはない。
 一方フラッシュボール弾を顔面に受けて顔が歪んでしまったイッサは、その屈辱に加えてライオンの子をサーカス団長ゾロに返却の上謝罪を強いられる。ただで謝罪を受け入れるほどお人好しではないゾロは、イッサを警官3人の面前で親ライオンの檻に閉じ込めるというサディスティックな制裁を加え高笑いをする。イッサの屈辱感は頂点に達してしまう。
 また一方クリスは力づく(冤罪別件逮捕も辞さぬ態度)で サラーから撮影データの入ったSDカードを取り上げようとするが、両者の不信感の壁は厚く埒が明かない。そこへ新任のステファヌが割って出て、サラーとの一対一の対話を申し出て.... 。一瞬ここで魂と魂の会話ができたような、この映画後半で唯一の緊張のほぐれる空間が現出する。
 これらの人々が求めているのは何か?ロマのサーカス団、住民組合、ムスリム同胞団、警察、これらの「大人たち」は波風を立てず、「どうにかまるくおさめる」ことしか考えていないのだ。誰も傷つかず、誰も利益を失わず、この生活が続けられれば、それでいいではないか。転任地の初勤務の24時間でこれだけの重い事件を体験したステファヌは自問する。この薄氷の秩序の番人であるということに自分は耐えられるか。

 バズがドローンで撮影した"バヴュール”の動画データの入ったSDカードは今、サラーから託されてステファヌの手の中にある。これをどうするか。「秩序か正義か」という二者択一ではない、「この世界を守って生きるのか、この世界を捨てるのか」の水準まで問題は引き上げられるのだ。文豪ヴィクトール・ユゴーの描いた「悲惨の人々 レ・ミゼラブル」のように。夜中、ステファヌはグワダ(フラッシュボールを誤射した"バヴュール”の張本人)を呼び出し、SDカードを手渡す。そのシーンの前後には、本当は気の弱い独身で母と二人暮らしのグワダの私生活、そして気難しく血気早く「俺こそが法律だ」と叫ぶほど権力の化身として振る舞うクリスも家に帰れば二人の娘の良き父親という私生活が映し出される。この映画で3人の警官は戯画的な警察権力の代行者ではないということを強調してのことだろうが。
 映画は収束に向かう? とんでもない。対立する勢力や警察行政との敵対関係をうまくまるくおさめて、"バヴュール"事件は終わったものと思っていたクリス、グワダ、ステファヌの3人の巡回パトロールは、まんまと罠にはまり、イッサが組織した子供たちの”重”武装集団の集中攻撃を浴び、シテ(集合高層住宅)の建物の奥に追い詰められる。出口のない廊下の角に押しやられた3人の前には、火のついた火炎瓶を持ち、今まさに投げんとするイッサがいる。その廊下の角に一箇所だけあるドアを叩いてスタファヌは助けを乞い絶叫する。そのドアの裏側では、ノブを開けようか開けまいか迷っている、メガネのオタク少年バズがいる...。(エンドマーク)

 最終の戦闘シーンの凶暴さは、戦争映画的である。郊外戦争をこの町モンフェルメイユでしっかりとその目で見た監督ラドジ・リのリアリズムと解釈できる。大人たちの口裏合わせアレンジメントを子供たちは拒否した。火炎瓶、手製爆弾、手製ロケット砲など、殺傷力のある兵器で武装して、子供たちは組織的に戦術を立てて警官3人に報復戦を実行した。W杯優勝を祝う子供たちの無邪気でナイーヴな姿は何だったのか。束の間のミラージュだったのか。この町は子供たちの絶望に歯止めをかけられなくなってしまったのか。
最終場面のあとで画面に映し出されるのが、本稿冒頭で引用したヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』からの一節である。「悪い草も悪い人間もいない。いるのは悪い耕作者だけである」ー 郊外は悪く耕されたのだと思う。この土は誰が耕したのか、という責任論ではない。この子供たちはこの土で成長したのだが、この土に馴染ませようとばかりする大人たちは子供たちに転覆されよう。映画がつきつける超強烈なクエスチョン・マークはこれである。私たちが生返事でごまかそうとすると、この子たちは本当に私たちに戦争をふっかけてくるだろう。ステファヌの最後の絶叫を子供たちは聞くのか、無視するのか、この答えは私たちが考えなければならない。
一言だけ苦言を言えば、女性たちの出る幕がほとんどない映画。郊外で女性たちが出る幕がないということはありえないはず。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『レ・ミゼラブル』予告編

2019年11月16日土曜日

2019年のアルバム:ちんちん鼻の告白

Philippe Katerine "Confessions"
フィリップ・カトリーヌ『告白』

50歳。ジョアン・スファール監督の『ゲンズブール、その英雄的生涯』(2009年)に、ボリズ・ヴィアン役で出演して以来、映画俳優としての存在感をどんどん増していき、ついに2019年のセザール賞では『ル・グラン・バン』(ジル・ルルーシュ監督)の市営プール管理人ティエリーの役で「助演男優賞」に輝いた。その受賞セレモニーで、登壇開口一番カトリーヌは "C'est n'importe quoi"(こんなのデタラメだね)と言って笑いを取った。そう、カトリーヌは映画の世界では n'importe quoi なパブリック・イメージがある。ほとんど演技の必要がない、セリフをそのまましゃべればカトリーヌの不条理なキャラクターが独り立ちする、そういう俳優である。気弱でいながら自己主張があり複雑にぶよぶよしている。どの映画に出てもそのパターンは変わらず、多分"地のまま"と思われているが、実は各監督がそのイメージを利用してそう操作しているのだ。カトリーヌにとっては映画は(監督に)「されるがまま」の仕事で、それをカトリーヌ自身もおおいに楽しんでいると言う。ところが音楽はそういうわけにはいかない。その音楽の創造主は「俺なんだ」という、全く人まかせではない、俺、俺、俺の制作態度を要する。妥協のない100%カトリーヌのクリエーションでなければならない。今度のアルバムでの端的な例は、このジャケであり、どのレコード会社であれ、これを出されたらかなり難色を示すはずであり、当然別案を要求するものだろうが、カトリーヌはこれを通した。発売(公開)後、一部のストリーミング配信サイトでは鼻の部分がボカシ修正されているそうだ。
 カトリーヌのもうひとつの本業、ナイーヴ系イラストレーター(→)では、その"童心”がおおいにものを言うのであるが、その子供ごころは”ちんちん”や"うんち"や"肛門”への尽きない興味を隠さない。人前に出たがらない宅録シンガー・ソングライター風に音楽デビューしたカトリーヌが、露出狂のように裸身を曝け出すのは1999年のダブルアルバム『Les Créatures / L'Homme à 3 mains』の頃からである。なにか悩んでいたのであろうな。2000年代になって、意図的な "醜男”変身があり、頭髪を坂田利夫型にし、体をぶよぶよにして、なおかつ体毛豊富な裸身を機会あるごとに晒した。なにか悩んでいたのであろうな。しかしパブリックイメージを一変させたのは2005年の "Louxor J'adore"(そして大ヒットアルバム "Robots Après Tout")というメガチューブであり、とりわけ年端のいかぬ子供たちが大喜びだったのである。この日からカトリーヌは子供たちに愛される変なぶよぶよしたおじさんになった。2010年の"La Banane”の海浜ふりちん踊りは、またしても子供たちに愛され、「パパ、あれやってよ」とせがまれた父親たちを本当に困らせた。
 ではこのアーチストはお笑いの人なのか、と言われると...。芸術一般における前衛で先端であることを、臆病で恥ずかしがり屋で不器用な"地”を出して表現するから、「笑い」を取ることはあっても、その笑いは不条理であり、時に悪意や得体の知れない含蓄すら思わせる。ダダやシュールレアリスムの普通には笑えない諧謔のようなものも。根が高踏なのよ。
 さて今度のカトリーヌのアルバムは、そのすべてを解き放ったような大盛り多彩な作品で、怒りも嘆きも政治も身体論も音楽論もある18曲。全曲を作曲ツール Garage Bandで作ったというが、エレクトロ、ラップ/ヒップホップ、エスノ/ワールド、ジャズ、アヴァン・シャンソンなどを全く自在にコラージュして1曲に構成してしまう超多芸ポップ。これまでにない多彩さに「予算がすごかったのではないか」という質問に、驚くほどではないと謙遜するが、やり放題にはそれなりのバラマキが必要だったろう。コンプレックスから解き放たれたような"大作”である。"Robots Après Tout"(2005年)以来サウンドの要となっているルノー・ルタンチリー・ゴンザレスの二人に加えてゲスト陣(カミーユ、アンジェル、ドミニク・ア、ジェラール・ドパルデュー、ジュリー・ドパルデュー、レア・セイドゥー、オクスモ・プッチーノ、アラン・スーション、ロムパル...)が大きくものを言っているが、制作のダイレクトリーは明白で、これらの人々はカトリーヌの手足のように制作に貢献している。例えばオクスモ・プッチーノの声、フランスのラップ/ヒップホップ界できわめてユニークな仙人ヴォイス、マリ出身だけにグリオ的な老賢者の叡智を思わせる声の持ち主、カトリーヌはこのアーチストのことをよく知らないが、この歌「鍵(ラ・クレ)」に不可欠なある種の「権威」を付加するのにプッチーノの声ほど最適なものはないと考えたのだそう。その歌「鍵」のテーマは肛門である。
僕の行きたくないところへ連れていってくれ
僕が考えもしなかったところへ
そここそが鍵なんだ
鍵 鍵 鍵
肛門を開いて
僕の中に入ってきて、でも階段を通らないで
僕が考えもしなかった道を通って
そここそが鍵なんだ
鍵 鍵 鍵
肛門を開いて
こんな歌い出しでカトリーヌが展開したあと、オクスモ・プッチーノが老賢者の声でこう閉める。
幸福とはボンジュールのようなもの、それは正当で、天国みたいなもの。わしらが鍵師だ、肛門を開いて、源泉に立ち返ろう、高級なのはロウソクさ、さあ、しよう、スローにやらなきゃだめだ、野獣たちは遠ざけておいて、さもなきゃそれはにせものだ。
歓喜せよ、歓喜せよ、誰って?おまえだよ、キウィの果汁のように流れ出すんだ、お望みの人たちだけだよ、みんなさかさまになって、体内の空気の柱を貫くんだ、みんなさかさまになって。もしもそれが気に入ったら、きみは鍵を得たんだよ。
テレラマ誌2019年11月9日号は、「この歌は"ソドミー礼賛”ですよね?」とカトリーヌに尋ねた。すると作者は「そう解釈してもいいが、"肛門を開け"とはわれわれ歌手の歌唱訓練やヨガでよく使われる表現で、口から肛門までの空気の通り道をつなぐことで得られる人体にとっての"徳”のことなのだよ」と。肛門を開くことによってわれわれが得られる気功(チーコン)の流れ。なるほど。だが誰がこの歌をそんなふうに聴きますかってえの。
 オクスモ・プッチーノの威厳あふれる声よりも、もっと権威あるであろう大俳優ジェラール・ドパルデューは、2010年からフィリップ・カトリーヌが大俳優の娘、ジュリー・ドパルデューと暮らしていて、二児をもうけた関係上、カトリーヌの"義理の父”なのである。この義父の特別出演は何曲かにまたがっているが、数年前から奇行&醜聞が相次ぎパブリックイメージが奇人化したこの巨漢俳優の声は別格の存在感がある。5曲め「ブロン(Blond)」で金髪白人の優位性(絶対に身分証明書検査を受けない、テロ事件があっても絶対に疑われることはない)を自慢げに歌うカトリーヌを「卑劣漢!(salaud !)」と罵倒するドパルデュー。その中でカトリーヌの本名(フィリップ・ブランシャール)をあげつらって、義父はこう言う。
あんたは金髪白人だが、今なお多くのルイジアナ出身の黒人たちがあんたの姓ブランシャールを名乗っていることにあんた驚かないのかい? ナントの港、ボルドーの港、あんたには覚えがないってえのかい、金髪白人さんよ!
この話は勉強になる。17世紀から19世紀にかけてフランスを仲介してアフリカからアメリカ南部に送られた奴隷たち(ナント港経由がのべ50万人、ボルドー港経由がのべ15万人)の多くの子孫たちがブランシャール姓を名乗っているということは、カトリーヌの家系の先祖の中に奴隷商がいたかもしれない。これは身に覚えが(おぼろげに)ある歴史的負目を歌にしてしまったということだろう。
 そして権威ということで言うならば、2017年から突然にフランスの最高権威に上りつめてしまった若い男エマニュエル・マクロンは、第1曲めの「BB パンダ(BB Panda)」で俎上に乗せられている。なぜこんな天狗になってしまったのか。ここで挿入される(マクロンの声もサンプルされている)エピソードは、2018年6月、リセ生たちに握手ぜめにあっているマクロンに、ひとりの男子生徒が「Ca va Manu ?(マニュ公、元気か?)」。これに対してマクロンはむっと来て、「私はきみのダチではない。きみは私をムッシュー・ル・プレジダン(大統領殿)と呼ばなければならない」それに続けて「いつかきみが革命を起こしたいと思ったら、まず学位を取って、自活するようになってからだって覚えておきなさい」と説教した。カトリーヌはこの赤字部分のセリフをサンプル挿入して、その直後にバシッと平手打ちを喰らわす音。
あんたの言うことはクソばかり(しゃべるのをやめろ)
しかも信じられないスピードで(しゃべるのをやめろ)
同じことばかり言う(しゃべるのをやめろ)

会計係の顔をして(しゃべるのをやめろ)
あんたの言うことはクソばかり(しゃべるのをやめろ)
オトコを目立たせる姿勢で(しゃべるのをやめろ)
同じことばかり言う(しゃべるのをやめろ)

聞く者が低脳だと言わんばかりに(しゃべるのをやめろ)
なぜこの若い大統領はここまで尊大・横柄になったのか。カトリーヌの表現はかなり攻撃的であり、憤怒が込められている。曲名となった「ベベ・パンダ」は2017年12月、ボーヴァル動物園で生まれた赤ちゃんパンダを、大統領夫人ブリジット・マクロンが命名セレモニーを行ったという権力私物化エピソードに由来する。
 18曲で、性器や性行為を意味する語や表現が随所に出てくるが、本人の実生活はいたって控えめなのに、歌づくりになると解き放たれたように大胆になる、と言っている。しかしそれも、ちょっとませた子が母親を赤面させたくて言っちゃったみたいなところもある。平手打ちを受けたいみたいな。
 「88%の男はゲイであるが、その73%はそれを公表しない」(10曲め "88 %" feat. ロムパル)という統計は、自分を中心とした半径数十メートル内の現象かもしれないが、妙に説得力がある。 と言うか、ジェンダーの曖昧化はわれわれの時代の現実であり、「女である」とは誇らしげに言っていいけれど、「男である」はどんどん自信を失っていっていい。男たちよ、無駄な抵抗はやめろ。自殺したリセ時代のダチのことを歌った14曲め「ラファエル (Raphaël 1965-1989)」の中で、そのラファエルの言葉として「僕は男女間の平等など欲しくない、僕は下等のままでいたい」というのを引用している。そう、われわれは下等でいいじゃないか。
 鬼才カナダ人チリー・ゴンザレスと、2018年最高の新人だったベルギー人アンジェルと組んだ9曲め「デュオ(Duo)」は、おそらくこのアルバムで最も完成度の高い曲。
(↓)"Duo"(2020年2月12日にアップされたYouTube)

曲導入部から鬼才音楽家ゴンザレスがわかりやすく力強い音楽論みたいなことを言ってしまう。
(ゴンザレス)テンポは140BPM、一分間に140拍、この数値をリズムボックスに入力するとボックスはグリッドを表示する、ツツツツツツ... とね。そこからパターンを作り出すために何を取り除くかを決定するのはわれわれだ。たとえば大理石の板を前にした彫刻家がそこから彫像とならない部分をすべて削り取っていくように。それが私のパターンだ。 
(カトリーヌとアンジェル)同じテンポだけどパターンは違う
同じテンポだけどパターンは違う...
ここからこの歌はテンポとパターンの違い、メロディーは同じでもオクターヴ声部の違い、歌詞のちょっとした違いといった、音楽作りの複雑さを優しく開陳していく。ストロマエがYouTube連載"Leçons"で公開していた曲作りの現場も彷彿させるが、カトリーヌはこれを4分21秒でやってしまう。マイク・オールドフィールド「チューブラー・ベルズ」やモーリス・ラヴェル「ボレロ」のように、楽器を増やして行ったり、アンサンブルをコラージュしたり、聞く者はここで音楽の創造に立ち会うことになる。その極意は
On joue la même mélodie 同じメロディーを演奏しても
mais pas avec le même son 同じ音で演奏しない
Et ça nous rend moins con それで私たちは少しお利口になるんだよ
みんな同じ音を出さないことで音楽とわれわれはお利口になる。この音楽論は圧倒的に正しい。そして音楽を創造することはパターンを創造することである、人生を創造するのもまたパターンを創造することである、とゴンザレスは大胆に結論するのだ。
(ゴンザレス)そして人生もまたひとつのテンポがある。
この人生のテンポもまたわれわれにグリッド・グラフを示し出す。
1週間に7日、
1日に24時間
1時間に60分
そして多数の秒数
自分自身のパターンに至るために
そこから何を取り除いていくのかを決めるのは
われわれひとりひとりである
Notre pattern, qui n'est pas terne
(われわれのパターンは冴えないものであるわけがない)
Qui n'est jamais terne
(断じて、つまらないわけがない)
うわぁっ!これは音楽マニフェストではないか。

<<< トラックリスト >>>
1. BB Panda
2. Stone Avec Toi
3. KesKesséKçetruc (feat Camille)
4. La Converse Avec Vous
5. Malaise
6. Blond (feat Gérard Depardieu)
7. Bonhommes

8. Aimez-moi
9. Duo (feat Chilly Gonzales & Angèle)
10. 88% (feat Lomepal)
11. Une Journée Sans (feat Clair)

12. Point Noir Sur Feuille Blanche
13. La Clef (feat Oxmo Puccino)
14. Raphaël 1965-1989
15. Bof Génération (feat Dominique A)
16. Rêve Affreux 
17. Rêve Heureux (feat Léa Seydoux)
18. Madame de


Philippe Katerine "Confessions"
LP/CD CINQ7/Wagram

フランスでのリリース:2019年11月8日

カストール爺の採点:2019年のアルバム



(↓)クリップ "Stone Avec Toi"


(↓)クリップ "88% (feat Lomepal)" + "Blond (feat Gérard Depardieu)" + "Bonhommes"

2019年11月6日水曜日

ジェーンBと井上陽水(2004年2月東京)

「日本の巨大な音楽市場に食い込むためですか?」
ジェーン・バーキンの極私的日記の第二巻『ポスト・スクリトム』(2019年10月刊)の中に、2004年発表のアルバム『ランデ・ヴー』に収められた井上陽水作の曲「カナリー・カナリー」に関する記述がある。2004年2月、東京、インタヴュー、口パクヴィデオ撮影、インタヴュー、またインタヴュー...。ジェーンBはかなり疲れている。東芝EMIとフィガロ・マガジンが日本でまだ絶大な力があった頃の話と理解しよう。

ギャルリー・ラファイエット百貨店のような建物の中の美容室にいたように思われたが、気がついたらホテルの鏡の中に私は自分の姿を見出し、すべては明白になった。前夜はめちゃくちゃだった。私は延々と終わらない数回のインタヴューの間じゅう、何リットルもの水を飲んでいた。午後1時にヘアーとメイクに始まり、日本の偉大なシンガー井上陽水の歌「カナリー・カナリー」のプレイバックフィルム撮影のために通りを歩いていった。彼は歩きながらずっと私の背中を撫でていて、彼らは私にも同じことを彼にするように要求し、私は恥ずかしさで真っ赤になり、どこから始めていいのか、怪しげな黒いカラスのような彼の頭髪から始めようか? これに関して私は何も言えないのだ! この優しい"おさわり”はフィガロ・マガジン用なのだ。レッドゾーン、歓楽街を通過していったが、とても興味深く、私はもっとゆっくり進みたかった。白ソックスの悲しげな二人のティーンネイジャーが、物憂く小ぶりな顔で、薄汚い男たちにいかがわしいヴィデオを売り付けようとしていたのが見えた。たぶんこの娘たちは21歳に達しているのだろうが、私には12歳ぐらいにしか見えなかった。
ややこしい質問のインタヴュー。なぜあなたは「カナリー・カナリー」を選んだのですか?それは日本の巨大な音楽市場に食い込むためですか?
井上陽水は私のチョイスだった。なぜなら彼は非常に繊細だから。彼は予想もしていないようなことを私に語った。彼はビートルズを熱愛していて、そのためにマージーサイド橋を渡ってリヴァプールまで行ったのだ。あの当時、日本からは北極回りで飛行機を三度乗り換え、次いで電車で目的地まで到達したのだ。ひとたびそこに着くや、彼は動けなくなり、ただ泣いて震えていた。自分の激愛していたバンドのそばにやってきたひとりの日本青年 ... 私はとても感動した。
(Jane Birkin "Post-Scriptum" p305-306)

(↓)ジェーンB + 井上陽水「カナリー・カナリー」(東京ヴァージョン)

2019年11月3日日曜日

ジェーンBと東日本大震災

「日本に行かなければ」と言い出したのはケイトだった。

ジェーン・バーキンが10歳の時からつけ始め、長女ケイト・バリーの死の日(2013年12月11日)に二度と書けなくなったという長大な日記を、二巻に分けて出版した極私的ダイアリー。第一巻めの『マンキー・ダイアリーズ(1957-1982)』(2018年10月刊行)に続いて、第二巻め『ポスト・スクリトム(1982-2013)』 が2019年10月に発表された。第一巻の紹介記事をラティーナ2018年12月号に書いたので、同様に第二巻の紹介も同誌2019年12月号に掲載される予定(現在執筆中)。
言うなれば、第一巻は「ゲンズブール期」の終焉で幕を閉じ、第二巻は「ポスト・ゲンズブール期」と捉えられるのであるが、この女性はこの「ゲンズブールとの絡み」ということに限定されて生きてきたわけではない。読む者の興味がそこにばかり集中すると、とんでもないしっぺ返しを喰らうことになろう。ジェーンBはゲンズブールの呪縛から解き放たれた日から(ゲンズブールの自由になるあやつり人形を拒否した日から)、「おつむの足りないお色気タレント」を脱皮し、作家主義映画(ジャック・ドワイヨン、ジャック・リヴェット、アニェス・ヴァルダ...)の女優となり、演劇界の風雲児パトリス・シェロー(1944-2013)の舞台女優となり、移民支援/チェチェン/ボスニア/ビルマ(アン・サン・スー・チー)などのために行動する社会派闘士としても重要な役割を果たしている。そして歌唱アーチストとしても大きな変化を感じ取ったのであろう、ゲンズブールは同居時代よりも別離のあとの方がはるかに高度な叙情の楽曲をジェーンBに提供するのである。それらはとりもなおさず最良のゲンズブール楽曲として後世に残るのであるが。これらのことはラティーナ記事の方に詳説するので、ぜひ参照してください。
さて、社会派行動人ジェーンBの大きな仕事のひとつに、2011年東日本大震災の被災者支援があり、中島ノブユキをはじめとした日本のミュージシャンたちを従えて日本と世界を3年がかりで回った "Jane Birkin sings Serge Gainsbourg VIA JAPAN"ツアーで多額の義援金を集めたのである。この大震災に打ちひしがれた東北のためにジェーンBが立ち上がった経緯に関して、この日記の中に記述があるので、その部分を訳してみる。

日本であの津波があった時、私はそのニュースをテレビで見ていたが、その日の真夜中にケイトが電話してきて「すぐ東京に行かなければ」と言った。私は全くケイトの言う通りだと思い、翌日から日本行きのフライトを探した。セルジュにとっても私にとっても20年も前からツアーでたくさんの幸福な思い出を与えてくれた日本のことなのだから。かつてデュマというフランス人(註:フランソワ・デュマ、ハイライフ・インターナショナルというプロモーション会社の代表で、90年代にフランスとワールドのアーチストを多く招聘していた)がいて、私たちを何度も日本に呼んでくれ、「アクワボニスト(無造作紳士)」は外国盤の売上げ1位になったこともあり、「アラベスク」(註:2002年、モロッコ出身のヴァイオリニストのジャメル・ベンイエレスら北アフリカ系のミュージシャンのバンドで、ジェーンBがゲンズブール楽曲をアラビックなアレンジで再録音したアルバム『アラベスク』とそれに続く同じミュージシャンでの世界ツアー)のコンサートは東京だけでなく日本のさまざまな都市を回った。日本の人たちがこの大災害に遭ったというときに、私がその救済支援のためにコンサートで歌いに行くのは至極当然のことではないか? 私はケイトと私のチケットを手配したが、ケイトは土壇場で行けなくなり、数週間後に日本で合流するということで、私ひとりで出発した。私は日本の私のプロデューサーであるサシコ(まま。註:中西幸子氏)に、私がセルジュの曲を数曲歌えるように何人かミュージシャンを見つけておいてほしいと頼み、その結果私は中島ノブユキと出会い、彼とその友人たちでバンドを組むことができた。私は最初ノブは単なるピアニストだと思っていたが、あとで彼は映画音楽の作曲家であることがわかった。グリュズマン(註:オリヴィエ・グリュズマン、ジェーンBのマネージャー)はシャトレ劇場で多くのフランスのアーチストたちを動員したツナミ被災者支援の大コンサートをオーガナイズし、ベルナール・シェレーズ(1959-2013 国営ラジオ音楽ディレクター)はこの模様を国営フランス・アンテール局で2時間生放送中継した。そのあとアメリカでの数回のコンサートのために、私はノブにオーケストレーションを依頼した。この一連のコンサートは「ヴィア・ジャパン Via Japan」と銘打たれた。コンサート会場ではフクシマの女性たちのための小さなブレスレットが売られた。この非常に大きな成功のおかげで、私たちはその続きで日本人とヨーロッパ人混合のバンドでヨーロッパ中を周り、さらにアジア諸国をオリジナルの日本人バンドで周り、そのライヴ録音で『ヴィア・ジャパン』というアルバムを発表した。(....)
ケイトは4月に福島に行って写真を撮り、後日その展示会を京都で行った。

(Jane Birkin "Post-Scritum" p390-391)

JANE BIRKIN "POST-SCRITUM"
FAYARD刊 2019年10月 425ページ 23ユーロ

(↓)国営ラジオ FRANCE INFO イザベル・レイエによるインタヴュー(2019年11月1日)

2019年10月30日水曜日

どれだけ泣かせるトレダノ&ナカッシュ

『規格はずれ』
"Hors Normes"

2019年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:ヴァンサン・カセル、レダ・カテブ
フランスでの公開:2019年10月23日

上映は2019年5月のカンヌ映画祭の閉幕上映で、その時から大反響を呼んでました。私たち家族は一般上映よりも1ヶ月半前の9月3日にわが町のパテ・ブーローニュ座でプレミア特別上映(両監督との懇談会つき)を観ることができ、満席の観客と共にエンドロールでの大喝采に参加し、両監督の登壇をスタンディングオベーションで迎えたのでした。
これは勇気ある映画です。これ、笑っていいんですか? ー という戸惑いはトレダノ&ナカッシュ映画には無用。"Hors Normes"(規格はずれ)とはこの映画ではダブル、トリプル、クアドループル...  ミーニングであり、規格にそった世の中を正常とするならば、それから外れたものを異常として排除しようとする「正常」側の圧力を跳ね返すには、並外れた、言わば規格はずれのパワーを要するわけです。この映画のヒーローふたりは基準に従っていたら絶対にやれっこないことをしているがゆえの「普通人」ヒーローであるのです。
 対象は "autisme"(オティスム、自閉症)と言われる障害を持った子供たちです。この障害は軽度から重度までいろいろのレベルがあります。普通の学校でも受け入れられる程度、専門施設でケアできる程度、いろいろです。しかし、どの公共施設でも受け入れてもらえない"基準外”のケースも多くあり、その場合に(人道的にあとに引けない)民間のNGOが面倒みることになります。普通は公の機関がやるべきことと思うのですが、病人が病院で収容しきれないケースと同じ現象がここにあります。ブルーノ(演ヴァンサン・カセル)は、そういう民間NGOでしかも一般の住宅建物の中に設けられた収容施設を切り盛りする代表者で、彼のスマホはひっきりなしに入所可能かどうかの問い合わせで鳴りっぱなし。いろんなところで断られ、なんとかなりませんか、という悲痛な願いばかり。それに対してブルーノは、こっちもいっぱいいっぱいです、と断りたい気持ちは山々なのに、断れない性分。すべてが"特殊なケース"であり、おのおのの障害に合わせた特殊なケアが必要なのに、その特殊さに合わせてひとりの子供の場所を作ってやり、施設の一員としてひとり、またひとりと加えていくのです。問題や事故は常に一触即発。映画の冒頭は、通りに脱兎の如く逃げていく少女、それを何人も手分けして全速力で追いかけ、地面に倒して取り押さえる、というシーン。周りにいる一般市民は、一体何事か、少女に対する虐待か暴行か、という厳しい視線と反応、それに対して「いえいえ、何でもないんです、えへへへ...」とごまかして、少女をなだめすかしてその場を立ち去るブルーノたち。映画を観る者は、これはフツー人にはなかなか理解されない、という現場を最初から具体的に見せつけられるわけです。
 ところが、この規格に収まらない子供たちの世界をも、規格の縛りの中に閉じ込めようとする権力があります。このようなNGOも国からの援助金がなければ機能しない。その援助金を得るためには、建物の広さやその環境、衛生管理、ケアヘルパーの数やその資格などさまざまな条件をクリアーしていなければなりません。ブルーノのセンターは何度か役所の抜き打ち検査を受け、改善を命令されていることばかり。そしてこの映画では、検査官が最終通告(つまりNGOの認可を取り下げる)も辞さない態度で追求してきます。予算がない、収容人員オーバー、ケアヘルパーに給料が払えない、それでもブルーノはひっきりなしにかかってくる電話に、いやと言えないのです。
 一方、そのケアヘルパーたちを養成して、ブルーノの施設に送り込んだりしているのが、ソーシャルワーカーのマリック(演レダ・カテブ)。十代半ばで全く将来の希望がないルーザーとして世に投げ出される"郊外”の難しい子たちを集めて、人の身を預かる重大でヒューマンな仕事のやりがいを教える熱血教官。問題児たちが自分たちと違う問題を抱えた子供たちと触れ合っていくボディー・トゥー・ボディーの実地教育。無責任な子らがどんどん「兄貴・姉貴」分に変わっていきます。その総兄貴分がマリックというわけですが、強靭な肉体と睨みの利く目線が欠かせません。
このブルーノというお人好し+自閉症 A to Zを知り尽くしたケア魔術師と、現場の修羅場を(出来の悪い)ヘルパーたちと丸く収める行動人のマリック、このコンビが解決していくさまざまな"規格はずれ”な無理難題を描いた映画です。特にクローズアップされるのが2件のケース。ひとつは年齢が成人になったので(比較的軽度の自閉症と言っていいのだろうか)、施設を卒業して社会人デビューを試みるジョゼフ(演バンジャマン・ルシユー。現・自閉症者です。 素晴らしい演技)。何度言い聞かせても地下鉄に乗ると非常停止レバーを引いてしまう常習犯。工場の単純労働に研修で入るのですが....。
 もうひとつは"重度”の少年ヴァランタン(演マルコ・ロカテリ。これはプロの子役役者が演じてますが、実はマルコの弟がやはり重度の自閉症で、このヴァランタンのことが本当に理解できるんだ、という本人の弁でこの役に抜擢。こちらも素晴らしい演技)で、凶暴性があり、自暴自棄になると自分の頭をあたり構わず打ち付けてしまうので、24時間ヘッドギアを装着していないといけない。どこも受け入れ先のないヴァランタンを引き受けたブルーノは、とりあえず入れる個室がないので、ホテルの一室を(ホテルに内緒で)即席に閉鎖保護室に変え、マリックの教え子で問題児のディラン(演ブライアン・ミアルーンダマ。一応断っておくとアフリカ系ブラックの子です)を見張りにつけて一夜を過ごすはずでした。ところがディランがタバコを吸いに外に出たすきに、ヴァランタンは逃亡し... マリックとブルーノの配下の若者たち全員でパリ中を探し回り、ついに見つけたのが、ペリフェリック(パリをぐるりと囲む環状自動車道路)の上をヘッドギアをつけながら、車のクラクションの怒号を浴びながらとぼとぼ歩いているヴァランタン...。
 このようなスキャンダルが公になれば、ブルーノのセンターは認可を取り上げられ閉鎖させられるのは当然のこと。ブルーノとマリックの必死の奮戦はどこまで続けられるのか。
映画はこの超人的ヒューマンな二人とその仲間たち、そして障害のあるなしにかかわらず人間として生きる権利を認め合う人たち、この世で生きる自閉症者たち、そういう生命たちへのオードです。それを "規格”で推し測ろうとする人々へのおおきなバッテンです。
 ディテールですが、ブルーノは誇り高いユダヤ人でキッパーをかぶっています。その下で働く事務の女の人はヒジャブで髪を覆っています。マリックは北アフリカ系アラブ人で、教え子の郊外の子たちはブラックもアジアも"白人”もいます。さらにディテールですが、映画中の自閉症の子たちは(前述のヴァランタン役を除いて)すべて生身ですし、施設のケアヘルパーさんたちもそうです。そんなものにこだわっていたら、自閉症の子たちに笑われる、という含みかもしれません。それらもさまざまな"規格"にすぎないのです。私たちは"規格”を超えてみなければ、見えないものがたくさんあります。多くのガチガチ"規格”尊守にんげんたちに見て欲しい作品です。
 蛇足ながら、これでトレダノ&ナカッシュ映画に出演するの3回めですけど、エレーヌ・ヴァンサン(前述の成人自閉症児ジョゼフの非常に"感じやすい”優しい母親エレーヌの役で登場)毎回本当に素晴らしいです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓) "Hors Normes"予告編


2019年10月24日木曜日

Could it be まじ(っすか?)

『212号室』
"Chambre 212"

2019年フランス映画
監督:クリストフ・オノレ
主演:キアラ・マストロヤンニ、ヴァンサン・ラコスト、カミーユ・コタン、バンジャマン・ビオレー
2019年カンヌ映画祭主演女優賞(キアラ・マストロヤンニ)
フランスでの公開:2019年10月9日

所はパリ14区モンパルナス界隈、地下鉄ヴァヴァン駅とエドガール・キネ駅をつなぐドランブル通り(Rue Delambre)、藤田嗣治や米ロスト・ジェネレーション作家群などのゆかりの地であり、ヴァヴァン側から見ると最初にビストロ・デュ・ドーム(Bistrot du Dôme)があって、道のず〜っと奥にモンパルナス・タワーが見える。その16番地に独立系の映画シアターとして名高い「セット・パルナシアン(Les 7 Parnassiens)」があり、その向いの15番地にヘンリー・ミラーやマン・レイが常宿にしていたホテル・ルノックス(Hôtel Lenox)がある。この16番地と通りを挟んで向かいの15番地、これを中心にした数十メートルのドランブル通り空間を、クリストフ・オノレはスタジオ内セットにしたのである。
 個人的なことで恐縮だが、1980年代の中頃、その約10年後に私の奥様になる女性がダランブル通りに2年ほど住んでいて、私はしょっちゅう通っていたのでこの界隈はとても思い出があるのです。映画館もよく行ったし、よく朝買いに行かされた5番地のパン屋も、ホテル・ルノックスの数軒先にあったインド料理屋も、映画館の隣にあった焼肉レストラン「東京」も...。それはそれ。
 さて映画はそのドランブル通りの映画館の入り口のある建物の2階(日本式には3階)のアパルトマンに住んでいる夫婦の突然の破局が発端である。歴史学の大学教授であるマリア(演キアラ・マストロヤンニ)は、出不精・非活動的・メランコリックだが貞節な夫であるリシャール(演バンジャマン・ビオレー)の知らぬところで、その旺盛なリビドーを発散させるために数多くのセフレ(大多数は教え子たち)をつくってきたが、結婚25年になった今、ある冬の雪の日(昔ながらのスタジオ内映画セットに降る雪、美しい)に、初めて妻のスマホに畳みかけて受信されるセフレからのしつこいメッセージを見てしまった夫が動揺する。「いつからこんなことになっているのか?」「あら、ずいぶん最初の頃からよ」とあっけらかんと答えるマリア。リビドーの処理にはしかたないじゃないの、そんなの愛情とは何の関係もないわ。ー お立ち会い、これは世間的にはマッチョな「男の理屈」だったわけですよ。欲望のままに生きることが許容されていた側のリクツである。この論を妻一筋に25年間貞節に生きてきた夫の前で展開するわけだから、リシャールは一体俺の25年間は何だったのか、と崩れていく。そんな男を正視できなくなったマリアも、自分の過去・現在・未来を考え直す必要がある、とその雪の夜、アパルトマンをこっそり抜け出し、向かいのホテル・ルノックスの212号室に投宿する。この212号室の窓から、ドランブル通りを挟んだ向かい側に、リシャールがひとり取り残されたアパルトマンが丸見え、というスタジオセット映画のトリック。
 ここから奇想天外ストーリーが始まり、この212号室に次々と闖入者が。まず今から20年前のリシャール(演ヴァンサン・ラコスト)登場。これが20年後の自分(アパルトマンの中に一人残され、なんともみすぼらしい部屋着姿で自暴自棄になっている)を窓越し・通り越しに見ながら、こんな結果を招いたマリアを激しくなじる。そんな若いリシャールに魅了され、逆に誘惑してしまうマリア ー 若い頃の夫に浮気することは夫への不倫にならないというロジック! ー この映画でキアラ・マストロヤンニは四六時中全裸で、生身の47歳(美しいとは言えないけれど生身の裸体)を曝け出しているのだけど、リビドー丸出しというわけでは全くなく、肉体の悲しさも出てしまっているところがクリストフ・オノレの狙いであろうな。
 次いで登場するのが、リシャールが少年の頃から恋い憧れていたピアノ教師イレーヌ(演カミーユ・コタン、素ン晴らしい!)で、リシャールが出会った頃の年齢で現れた彼女は、少年→青年→成人までリシャールの心を奪い誘惑し、性のイロハまで教えた過去を持ち出し、マリアという結婚相手の登場によって「禁じられた年上の女」は姿を消すことになったが、あの時姿を消さなかったら、リシャールの人生は全く違うものになっていたという仮説をヴィジュアル化してリシャールを再誘惑する。その再誘惑の矛先は若リシャール(ヴァンサン・ラコスト)に始まって、次いで通りの向かい側のアパルトマンにいる現リシャール(バンジャマン・ビオレー)に魔手を伸ばしていく。これを必死になって止めようとするマリアだったが、イレーヌはここで(あの頃のあのままで進んで行っていれば)生まれていたはずの赤ん坊まで登場させて(あなたの子よぉっ!)、違う人生の道へと強引に誘うのである。
キアラ・マストロヤンニはこの映画の文字通りの体当たり演技でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞したが、私はこの映画はカミーユ・コタンの怪演の功績の方が上だと思っている。クーガー/ルーザーの逆襲、しかもマリアよりも一枚も二枚も役者が上の悪魔のような誘惑者。このカミーユ・コタンという言わば「遅れてきた女優」は、30代後半でテレビ(カナル・プリュス)の2分寸劇「コナス Connasse」(どうしようもない高慢軽薄パリ娘役)で出てきた人。こんな強烈な高慢軽薄イメージのついてしまった芸人が、どう脱皮できるのかと心配だったが、え?の女優変身に成功。このブログでもひと月前に紹介したセドリック・クラピッシュの『ふたりの自分 Deux Moi』でも、主人公アナの気難しくも的を得た心理カウンセラー役で、え?の怪演。たしかな個性派女優の地位にたどり着いたコタン、祝福してやりたいです。
 さて映画は、マリアとリシャールの過去と現在が交錯して、マリアのリシャールのそれぞれの違う人生の仮説/可能性を、マリア+過去リシャール+現リシャール+過去イレーヌの4つのパーソナリティーの絡み合いで可視化していき、その他にマリアの母と祖母の亡霊まで出てきてその男グセの悪い血筋をばらしたり、賢者の化身で「意志 la volonté」と名乗るシャルル・アズナヴールの歌ばかり引用するステージ衣装男が登場したり、それに加えてマリアがハントしたあらゆる人種の十数人の若いセフレたちも212号室に押し寄せてきて...。この大混乱の上に、しんしんと雪は降ってくる。美しい。
 イレーヌは結局リシャールの心を取り戻すことができない。打ちひしがれたイレーヌにマリアはシンパシーまで感じるようになり、一緒にイレーヌが25年前にパリを捨てて隠居したピカルディー地方ソム湾の海辺の家へ行ってみると、そこには過去とすっぱり切れてサバサバと達観して生きる老女イレーヌ(演キャロル・ブーケ!)がいて、過去イレーヌ(カミーヌ・コタン)の未練をカラカラ笑うのだよ。
 こんな奇想天外だが、アラン・レネやベルトラン・ブリエといったフランス映画の先人たちがやってきたシュールでファンタジーなコメディー仕立ての映画。音楽は前述したようにシャルル・アズナヴールが多用されている。これはクリストフ・オノレのアズナヴールへのオマージュであろう。
 そして終盤の大団円と呼べるシーンは、ドランブル通り11番地のバー「ローズバッド」にかのセフレ連中を含んだ全員がそれぞれのテーブルについてドリンクを。元ピアノ教師イレーヌがバーのピアノで、ポロン、ポロンとショパンのプレリュード20番を弾き、そこから自然の流れのように(それが原曲なので当たり前か)"Spirit move me, every time I'm near you..."とイレーヌが歌い出し、バリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"になってしまう。歌詞どおり、ここがこの映画のマジックの瞬間なのだ。大混乱はこの美しいメロディーで和解と収拾に昇華していき、4人(マリア、過去リシャール、現リシャール、過去イレーヌ)がチークダンスを踊るのだよ。踊りの輪はバー全体に広がり、メロディーはバーのレコードプレイヤーに取って代られバリー・マニロウのそれがほぼフルコーラス(6分)聞かされることになるだが、なんというしあわせ。この大団円、すべて許せる。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『212号室』 予告編


(↓)『212号室』 サウンドトラックよりバリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"

2019年10月20日日曜日

浮かび上がるインク文字(あの)

Patrick Modiano "Encre Sympathique"
パトリック・モディアノ『不可視インク』

ディアノの真骨頂である「五里霧中」感に始まり、プルースト風「見出された時」で書を閉じる137ページ体験。好きな人にはたまらないでしょうね。
たった137ページで50年の時が流れます。(会ったこともない←ここがミソですが)消えたひとりの女を追う長い年月です。初ページから109ページめまでの主人公にして話者のジャンは、1960年代にパリの興信所(私立探偵事務所)に雇われていて、所長からパリ15区で失踪したノエル・ルフェーヴルという名の女性の行方の手がかりを探す任をまかされます。渡されたファイルは薄く、名前と住所とおおよその出身地(サヴォワ地方アヌシー周辺)、そして局留め郵便の代理人受け取りを許可する委任状(輪郭識別も難しい彼女の顔写真つき)。ジャンはこの委任状を持ってパリ15区コンヴァンシオン地区の郵便局へ、彼女あての局留め郵便がないかと尋ねに行きます。住所のアパルトマンのコンシエルジュに様子を尋ね、彼女の立ち寄りそうなカフェに張り込みをしたりしますが、会ったことがないのでそこに居ても見つけられないかもしれないほどの曖昧な手がかりしかありません。
 興信所はこれを早々と脈のない&うまみのない一件としてサジを投げます。ところがジャンは執拗にこだわり、興信所を辞めたあともこの未解決の事件ファイルを持ち去り、調査を続けていきます。ある種モディアノ自伝的なモチーフですが、時系列的に作家としてデビューするずっと前でありながら、ジャンはこの事件について本を書くだろうということを直感的に知っていた、というのです。つまり、これは一編の小説の誕生・制作・完成に立ち会うストーリーでもあるわけです。しかしそれが50年もの歳月を要し、ひとつひとつ手がかりを得るために途方もない時間がかかったということにも読者はつきあうことになります。
 カフェで張り込みをしていた時期に接近してきたジェラール・ムーラードという人物、「私」がノエル・ルフェーヴルを探していると聞いて訝しげな態度で理由を尋ねます。興信所の調査と言えばすべてがご破算になる気配があり、「私」はでまかせの嘘(医者の待合室で知り合い、同じアヌシー出身ということで話が合い、勤めの後にカフェで会う仲になった)を交えて、この男を安心させ、情報を引出そうとします。すると「私」の知らなかったことが芋づる式に出てきて、駆け出しの俳優であるムーラードが取り持ってノエルがロジェという男と結婚していて、二人でヴォージュラ通りのアパルトマンに住んでいたこと、ノエルのあとロジェも失踪していたこと、ノエルはオペラ座前の高級鞄店ランセルで働いていたこと、ロジェとノエルは15区グルネル河岸のダンスホール「ラ・マリーヌ」の常連だったこと... etc etc。ムーラードはロジェのアパルトマンの合鍵を持っていて、そこへ行くというので「私」もついていき、ムーラードの見ぬ隙にまんまとロジェとノエルの寝室に侵入し、本能的直感で、そのナイトテーブルの引き出しからノエルのアジェンダ帖を盗み出します。
この行為を私は夢遊病者のように現実から遊離した状態でしたのだが、それは正確で自発的なもので、あたかも私が前もってこのナイトテーブルの引き出しには二重の底がありその中に何かが隠されていたことを知っていたかのような行動だった。ユット(註:興信所のボス)はこの職業をする上で必須の資質のひとつは "l'intuition"(直感)であると私に言っていた。この夜の私の行動を理解するために、私は辞書を開いて調べてみる。"Intuition アンチュイシオン:理性のはたらきに頼らない即座の認識のあり方”
この小説は、手がかりのほとんどない状態に始まり、そのパズルのピースをひとつひとつ見つけていく過程を描くのですが、遅々として進まないその作業をある時突然スピードアップされるきっかけとなるのはこの説明のしようがない「理性のはたらきに頼らない」アンチュイシオン(直感)というものです。そして最初にこの薄い事件ファイルに「私」が運命的なものを感じ取ったのもアンチュイシオンでしょう。それは出会う前から愛してしまっている恋人のようなものとも言えますが、モディアノに限ってそんな含みはないでしょうと思っていると....。
 さて最重要の手がかりであり、多くの情報を含んでいるはずだったこのノエル・ルフェーヴルのアジェンダ帖ですが、きちんとした(「私」にも似た筆跡の)文字で書かれているものの、途切れ途切れの暗号のような名前の羅列、予定、場所、金額、電話番号、ヴェルレーヌの詩断片4行
Le ciel est, par-dessus le toit,  空は 屋根のむこうに あんなにも
Si bleu, si calme ! 青く、しずかです
Un arbre, par-dessus le toit, 一本の木が 屋根のむこうに てのひらを
Berce sa palme ゆすっています (訳:橋本一明)
といったものだけで、大部分のページは何も書かれていないのでした。この極端に限定的な、ほぼ絶望的にわけのわからない情報から、「私」は長い時間をかけて、執拗な推理を進めていくのです。そしてウソから出たまことのように、ノエルと「私」の同じ出身地と言っていたアヌシー(実際は「私」は少年期数年間をかの地の全寮制寄宿学校で過ごしていた)の記憶も重要な断片として蘇ってきます。
 ”警察”と聞くと本能的に警戒してしまう不透明な人々、映画の端役や日雇い運送業といった職業的に不安定な人々、住所や"名前"を二つも三つも持つ人々、そういった人々を通して得られた情報は確かなものなのか、といったすべてが曖昧なモディアノの小説宇宙。時は経ち、建物も街並みも住んでいた人々も変わって、鍵を握っていると思われた人物たちもこの世にいなかったりします。五里霧中は果てしなく続きます。
 小説のおよそ3分の2地点にあたる91ページめに至って、「私=ジャン」は奇妙な印象に襲われる。それはすべては前もって"encre sympathique(アンクル・サンパティック)"によって書かれていたように「私」には思われたというのです。ここで話者はまた辞書を援用して "encre sympathique"を説明します。
「使用する時は無色だが、ある特定の物質の作用によって黒く変化するインク」 
”サンパティック(感じのよい、好意的な)なインク”と綴って、暗号文に用いられる不可視インク(わがスタンダード仏和辞典では "あぶり出しインク"と訳語)を意味します。なぜこの印象に至ったかというと、何度も何度も読み返したはずのかのノエル・ルフェーヴルのアジェンダ帖に、今まで一度も見たことがなかった記載が忽然と青いインク文字で現れたからなのです。一体どういう触媒によってこの文字は現れるのか、それとも長い年月が経てば現れるようになっているのか。もしも後者ならば、待っていれば多くの白紙ページに文字が浮かび上がり、重要な手がかり/情報が次々に明らかになっていくのではないか。
 お立ち会い、ここがモディアノ文学のマジックなのですよ。
 ノエルと名乗る女性の記録/記憶の遺物であったこの白紙だらけのアジェンダ帖、それに書かれた文字は「私」の筆跡に似ている、その白紙部分が少しずつ記録/記憶として蘇ってくるということは、実は「私」の記録/記憶と重なってきてだんだんかたちになってきたということのメタファーなんです。一度も会ったことがなかったと思われていたこの女性(実はノエルという名前ではない。この小説は重要な人物たちがどんどん名前を変えていく、という複雑さ!)は、遠い遠い過去に出会っている(そのことをまだこの91ページ段階の「私」は知らない。 読者だけが知っているという構図)、だから「私」の記録/記録を掘り下げていけば彼女のそれと合わさるはずなのです。
 パリ、アヌシー、何人もの証言(正確・不正確あり、虚偽もあり)で続いてきたジャンの調査は30年過ぎ(100ページ時点)、そして50年を過ぎた頃、110ページめから、話者は「私」ではなくなります。小説最終部に登場する男はたぶんジャンであろうし、女はたぶんノエルと呼ばれていた女でありましょうが、二人とも「三人称体」で客観的に記述されています。現象としては神の手を持ったような作家が書いているような印象です。場所はローマ。ナヴォナ広場に近いアーケード街スクローファ通りにある写真ギャラリー、店名はフランス語で「Gaspard de la nuit (夜のガスパール)」 、フランスからやってきたその男は最初ためらい、ついで「水に飛び込むような決意」で店内に入っていきます。ギャラリーの店番の女性に
「あなたはフランス人ですか?」
ー ええそうです。
ー ローマにはずっと前から住んでいますか?
ー ずっと住んでいますよ」
これが二人の最初の会話です。歳も似通った老人二人。モディアノはここで「ローマは過去を捨てる町である」と詩的なことを書きます。過去のことなどすべて捨て去ってフランス語も時々発語するのが難しくなっている女性。かつての興信所探偵だった男かもしれないこの男は柔らかく女性に近づいていき、このギャラリー主である写真家の展示作品(20世紀のローマの写真)にとても興味がある、と。その中の一枚に60年代のローマの街と3人の男が写っているものがあり、キャプションに真ん中の男の名前が「サンショ・ルフェーヴル(Sancho Lefevbre)」となっているが、彼はフランス人ですか? 彼のことをご存知ですか?、と。 ---- ここで詳しくは述べませんが、サンショ(=これも偽名)はノエルと呼ばれた女をアヌシーからパリに連れ出し、さらにローマに至らせた人物と目され、ノエルを妻として従えていた、と「私」の調査でわかってきた...  ----
ほとんどのことを忘却のかなたへ押しやっていたこの女に、フランスからやってきたひとりの男は少しずつ記憶の蘇りを誘発させます。家出をし、名前を変え、パリで素性のはっきりしない男たちと行動を共にしていたことなど。そして彼女の記憶は(かの「私=ジャン」の記憶を超越して)このフランスからやってきた男の横顔に激しく反応するのです。この横顔が喚起したもの、それはアヌシーの少女時代。いつも満員の路線バスで、寄宿学校前の停留所から乗り降りしていた少年、決まってバスの最後列の座席に二人で隣り合わせて座っていた。ローマの老女はその少年の横顔を記憶していたのです!
 小説最終の137ページめ、翌日に再会することを約束した男と女、最後の2行はこう締めるのです。
明日、最初に口を開くのは彼女だろう。彼女は彼にすべてを説明するだろう。
わおっ! モディアノでこんなエモーショナルな終わり方ありますかいな!
モヤモヤだらけで、モヤモヤが残るのがモディアノ・タッチでしたでしょうに。こんな明日は快晴、のエンディング、どうしたらいんでしょうか。

カストール爺の採点:★★★★★

Patrick Modiano "Encre Sympathique"
Gallimard刊 2019年10月 140ページ 16ユーロ
(↓)民放ラジオRTL 2019年10月、新作『不可視インク(Encre Sympathique)』について自宅インタヴューに答えるパトリック・モディアノ