それは2019年8月15日18時ごろに起こった。
私たち一家(私、奥様、娘、愛犬ウィンキー)はこのメンバーで初めての長期ヴァカンスに出ていた。私にしてみれば闘病開始後3年ぶりの夏ヴァカンスであった。私たちは8月3日に自宅のあるブーローニュ・ビヤンクールを車で出発し、第一夜をヴォークルーズ県アヴィニョンのホテルで過ごした。初めて自分のテリトリーを長期で離れるウィンキーのことで私たちが一番心配だったのはピピカカ(排泄)のことだった。牝犬でテリトリーマーキングをしないので、普段のピピカカは我が家アパルトマンのベランダか、散歩で慣れているいくつかの公園の中でしていた。心配は的中し、アヴィニョンに着く前、何度か高速道路サービスエリアで外に出してもピピカカができず、アヴィニョンに着く直前に車の後部座席に敷いてあったマットレスの上で...。アヴィニョンの一夜、奥様はホテルの室内でそれをされては困ると新聞紙でピピ場所を用意したが、そこにはしなかった。翌朝早く目が覚めてしまった私はホテルからウィンキーを連れ出し、シテ・デ・パップ(アヴィニョン幽閉時代のローマ法王庁)からさらに遠くローヌ川沿いのアヴィニョン橋まで早朝散歩。誰もいない安心感だったのか、川沿い遊歩道でピピとカカを続けざまに。
翌4日、私たちはさらに南下してコート・ダジュール海岸ヴァール県サント・マキシムへ、連続12泊をこの町のレジデンスで過ごした。ここも広いバルコニーがあるので、ウィンキーのピピカカはここで慣れてもらおうと、いろいろ指導(バルコニーにウィンキーを出してガラス戸を閉めて新聞紙ピピカカゾーンに用を足すまで閉じ込めてしまう)したのだが、なかなか...。コート・ダジュールのビーチの多くは「犬禁止」なのだが、隣町サン・トロペの”極端な”動物愛護主義者で知られるブリジット・バルドーのご威光か、この近辺も「犬OK」ビーチが少々ある。私たちはサント・マキシム滞在中、日中のほとんどをウィンキー連れでビーチで過ごしたが、いくつかの「犬OK」ビーチで私たちは本当にしあわせだった。毎日が晴れ、気温も29度から31度と暑すぎない程度、そして海水の温度が24〜25度。海は初めてではないが、地中海での海水浴は初めてのウィンキーは、最初は恐る恐るだったのに、滞在の終盤には水辺に向かって突進していくほど海での水遊びが好きになった。老夫婦と娘と愛犬が一緒になって水辺で遊ぶ様子は、人からは絵に描いたような犬好き一家に見えたろうなぁと思う。
ウィンキーがわが家に来たのは2017年4月29日のこと(→保護センターで初めて奥様に抱かれたウィンキー。推定2歳)。2016年10月に15歳で死んだドミノ(ジャック・ラッセル種。テンカンやアトピーなど様々な病気を持っていたがよく長生きした) を私たちはあまりにも溺愛していたので、それを失ったショックの大きさでもう二度と犬を飼うのはやめようと言っていたのだが...。2016年11月に私の(2015年夏に2回の手術で切除したはずの)肝細胞ガンがかなり進行した状態で再発したのがわかり、それからかなり重い治療を受け続けなければならないことになった。運営していた会社を畳み、仕事をやめ、早期退職年金生活者となって治療に専念する生活が始まった。奥様と娘は私が重いケモセラピーなどで体力的に消耗していったのを知っていたので、運動嫌いのあなたを動かすには犬との散歩が一番と、(私に内緒で)インターネットで”養犬”候補を探していた。そしてフランスで最も知られている動物愛護財団のひとつ"30 MILLIONS D'AMIS"(3千万匹の友だち)のサイトを検索して見つけたのがウィンキー。ジャック・ラッセル系雑種、牝犬、推定年齢2歳の捨て犬。生後約1歳の頃に同団体に保護されたが、それまでは不明(洞窟に潜んで生きていたらしい)。保護センターで健康体にしてもらい、去勢もして、人間や他の犬との社会的な触れ合いを経験した約1年間。それでも極度の怖がりは抜けず、今も(私たちを除く)人間たち、犬たち、自動車そのほか動くもの、大きな音などすべてが怖い。はっきりとした美人顔、愛くるしい目、死んだドミノと違ってスマートなボディーと長い脚、そんなウィンキーに奥様と娘は一目ぼれしたのだけど、わが家に来た当時はその「すべてに対する恐怖症」のために慣らすのにたいへんな努力を要したのだった。リードをつけて散歩しようにも、すべてが怖いので前に進むのも引っ張って方向を変えさせるのも全力で抵抗するので、家の周辺を一周するのに慣れるだけでもかなりの日数がかかった。その代り家の中では安心して自分の場所と悟ったときから縦横無尽に走り回って愛嬌を振りまくようになった。奥様の作ったものを食べることや、ベランダでピピカカをすることも、それほど時間がかかることなく慣れてくれた。
月日のかかることではあったけど、私が連れていく大きな公園(サン・クルー、ブーローニュの森、エドモン・ド・ロッチルド公園、イル・ムッシュー...)では、リードを外して全く自由にさせても心配の要らない(止まれ、戻れ、リードに繋がれろ、といった命令に従う)ところまで慣れてくれた。しかし難敵は「犬」である。ほかの犬すべてが怖い。挨拶をしよう、話そう、一緒に遊ぼう、交流しよう、という意思が皆無。ほんの小さな犬ですら、近づいてくると避けてしまう。ましてや大きくマッチョな犬が来たりしたら、一目散に逃げようとするのだ。リードを外したウィンキーが私の制止も聞かず、脱兎のごとく全速力で逃げてしまい、見失ってしまう、という経験を私は二度している。一度めはロッチルド公園の奥から逃げ出し、当時(治療副作用のせいで)走ることができなかった私が早足で追いかけ、「白で黒ぶちの小型犬を見ませんでしたか?」を周りの人たちに聞きまくって、公園の出口から公道に出たところに駐車していた私の車の前でうろうろしながら待っていたウィンキーに再会した。二度めは、セーヌ川脇のボートクラブなどがあるイル・ムッシューの広大な芝地で大型犬に吠えられて逃走、サッカー場大の芝地を縦断して、トラムウェイの線路とかなりビュンビュン飛ばす車の行き交う川岸幹線道路を全速力で渡り、向かいのサン・クルー城址の緑地に入って、セーヴル陶器博物館側の出口を出て、さらにセーヴル橋から上り坂で続いていく高速道路A10号線の方向に逃げて行った。私はこの時は走れないと思ったが走った。走って走って、人々に聞きながら(ほんとにこういう時ってみんな親切に教えてくれるんだ。一緒に追ってくれる人まで出てくる)セーヴルの坂道を登っていった。セーヴルの町の入り口まで来たところで、途中のサン・クルー公園を縦断する有料自動車道のゲートのところで犬を見たという証言。そこまで引き返して公園敷地に入り、ゲートの料金所の番人(女性だった)に「見ませんでしたか?」と聞いたら、あっちよ、と道を示してくれた。その道はやはり私が車を停めた場所に通じる道で、行き着くとわが車の前でやはりうろうろしながら私を待っているウィンキーがいた。このバカっ!!! なんてことしてくれるんだ! ウィンキーは涼しい顔をしていた。
この犬は頭がいい、と私は思った。私と確実に再会できて、安全を確保できるところというのを理解している、と。しかし、それは何度も行っていて、慣れたところの話ではないだろうか。
8月15日(祝日:聖母マリア昇天祭)、私たちは十二分に夏を満喫して、海と太陽から恵みをたくさんいただいて、良い思い出しかないサント・マキシムを後にして、300キロほど北上して、ドローム県オートリーヴという町にやってきた。ブーローニュに帰宅する途中の一泊で、長年来たい来たいを思いながら果たせていなかった「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」 を見るためだった。予約した宿はちょっとユニークで、普通のホテル部屋の他に、敷地内にゆったりと庭付きで停留しているルーロット(ロマと呼ばれる「旅する人々」が使っていた移動住居キャラバン)が4車宿泊用に用意されていて、そのうちのひとつにわが家は泊まることにした。昔ながらの木造のルーロットで、中はキャンピングカー並みにバス・トイレ・台所・エアコン・テレビつき。気分はボヘミアン。
16時前に宿に着いた私たちは、「配達夫シュヴァルの理想宮」が19時まで見学可能というので、ウィンキーをルーロットの中に残して3人で徒歩で現地へ。現地でわかったのは理想宮では「犬禁止」の入場制限がなく、犬連れOKだったことで、ウィンキーを連れて来なかったことを大いに後悔。約1時間かけて世界でも唯一無比の手作り理想宮に驚嘆・堪能の素晴らしい体験。
帰りに冷えたビールを買って、長旅の最後の宵のプレリュード的な乾杯をルーロットの前の庭に置かれたテーブルで。ホテルに予約した夕食は19時から。それまで時間があるので、ウィンキーを連れて散歩に行こう(ここに来てピピカカもまだしてないし)、とルーロットは離れて野歩きに。周りにはこの雨不足ですっかり干上がった小川があり、その橋を渡ると右側には羊や豚を飼っている農家があり、この羊の鳴き声にウィンキーはかなりビビっていた。幅50センチもない野の小径を進んでいくと、周りは広大なトウモロコシ畑が広がる。この道を進んでいくと、配達夫ジョゼフ=フェルディナン・シュヴァルが自ら生前に建立した理想宮によく似たシュヴァル家の墓がある。こんな野の道を自由に歩いたら気分も良かろうと私はウィンキーのリードを外して歩かせた。気分が落ち着いたのだろう、この道でピピとカカもした。おお、この環境にも慣れてくれたんだ、とほっとしていたのも束の間、18時頃、両側に野ばらの生い茂った細い小径でウィンキーが蒸発。
小径の分岐点になっていたところで一方はさっきの畜産農家への道、もうひとつはトウモロコシ畑に囲まれた道。何秒も目を離していたわけではない。私たち3人はウィンキーがどっちに走り去ったのかも知らず、その蒸発に驚き、名前を大声で連呼した。野ばらの茂みに入ってしまったのか。何か怖いものを見て隠れてしまったのか。通常ならば何度か呼べばすぐに帰ってくるはずのウィンキー。人間は私たち3人の他に誰もいなかった。野ばらの茂みに挟まれた道を3人で何度も往復し、トウモロコシ畑の中も、農家の敷地も、その向こうにある一戸建ての住宅の並びも「ウィンキー! ウィンキー!」と大声で名を呼びながら探した。野ばらの道を往復するたびに短パン姿の私は野ばらのツルの棘でスネを何箇所も切り、血も出ていた。
ウィンキー! ウィンキー!
私はどれほど叫んだろうか。少なくとも1時間はその名を叫び続けていた。その声を聞きつけたのか、村の人たちが出てきてくれた。娘が状況を説明すると、一緒に探してくれる人たちもいた。一戸建ての住宅の庭にいたマダムに「見ませんでしたか?」と聞いたら、見ないけれどこの子に手伝わせて、と10歳ぐらいの少年に一緒に探してあげて、と指示した。大人の男の人が長い棒を持ってきて、ウィンキーがいなくなった場所に近い野ばらの茂みをつついたり叩いたりして刺激して、潜んでいるかもしれないウィンキーを出させようとした。
ウィンキー! ウィンキー!
私の声は村中に響いたのだろう、遠くで(明らかにウィンキーの声ではない)犬の鳴き声が四方から聞こえてきた。いろいろな人たちが動いてくれて、車で周りをぐるっと回ってくれた人、ジャンダルムリー(憲兵署)に通報するべきと勧めてくれる人、トウモロコシ畑のフィールドの道路向こうのキャンプ場に(もしかして食べ物を求めてくるかもしれないから)声をかけておく、などなど。19時を過ぎ、20時近くになってさすがに辺りは暗くなり始める。ホテルに予約しておいた夕食をキャンセルしに、奥様と娘がホテルのレセプションに行き、ジャンダルムリーの電話番号を聞いた。娘が電話すると言っていたのだが「お父さん、私泣いちゃって言葉にならないから」(娘にはとても珍しいこと)と私にiPhoneを渡した。一応、名前と犬の容姿と首に「Winky」と奥様の電話番号の書いてある名札がついてあることなどを告げた。前述のようにその日は祝日。電話での訴えはレジスターしておき、明朝までにジャンダルムリーに連絡があれば娘に電話するが、さもなければ正式な行方不明届けを明朝地区の役場か警察署・憲兵署にするように、と。対応はたいへんコレクトだと思った。そしてホテルのレセプションから出たところで、ホテルの経営者(二代目。若い40代の男性。あとでわかったのだがルーロット宿泊の発案者)が子供たちとの食事(自分のホテルのレストランで食事するんだ)を終えて出てきて、娘から事情を聞いたあと、こう言った:
「私も犬を飼っているし、まれにだが逃げたりもする。だが、この村には犬を取ったり、悪く扱ったりする人はいない。みんながみんなを知っているので、情報はすぐに伝わり、失せた犬もほどなくして見つかる。あなたたちの犬は電話番号つきの名札がついているのでしょう?この村の中だったら、見つけた人はすぐに電話してくれますよ。心配しないで連絡を待ってなさい。」
18時から会った何人かの人たち、そしてこのホテル主人、この村の人たちはすごい。こんなに心優しい人たちばかりなのだ。信じますよ、信じますけど、ウィンキーはいなくなったきりなのだ。
20時すぎ、村の人に進言で私たちも車でトウモロコシ畑のフィールドの周囲をゆっくり回ってみた。白いものが見えるとすぐに車を降りて近寄ってみたがすべて違っていた。奥様と娘がキャンピング場へ行き、管理人に協力をお願いして電話番号を置いてきた。再びウィンキーが蒸発した現場へ行って、ひとしきり名前を呼んでみるが、辺りは暗く、目で探すのはもう不可能だった。
とりあえず夕食がわりに何か食べようと、奥様と娘がテークアウトのピッツァを二枚買ってきてくれた。22時頃、遅い夕食。だが、半分も食べられなかった。
土曜日(17日)にはボーイ・フレンドとイタリアにヴァカンスに出る予定にしていた娘が、もしもウィンキーが見つからなかったら、そんな旅行行けない、と泣き出した。こんなに泣く娘を見るのは本当に稀なことである。見つかるまでここに何日でもいよう、という考えもあった。村の人たちの暖かい言葉に助けられながらも、私たちの想像は悪い方へ悪い方へと向かい、二度とウィンキーが現れなかったら、どうするんだ、どうすればいいんだ、とそんなことばかり口から出てきた。何が信じられないかと言えば、これだけ充実してみんな心の底まで海や太陽な紺碧海岸の美しさと野の天才シュヴァルの偉業を享受して未だ嘗て体験したこともない素晴らしかった13日間の最後に、どうしてこんなことが起こるのか、ということ。もしかしてこのルーロットまで戻ってきてくれるかもしれないから、戸口の灯りは点けておこう、あるいは戸口を開けっ放しにしておこうとまで考えていたのだけれど。娘はずっと夜更けまで戸口の階段に腰かけて、彼氏とのSMSでその思いをぶつけて泣いていた。私はもう一度、とiPhoneの灯りをトーチにして、トウモロコシ畑の方まで行ってみた。時間的に大きな声は出せない(実際声が枯れてしまって大声は出せなくなっていた)から小声で何度も名前を呼びながら。
私たちとウィンキーが18時近くにトウモロコシ畑の方に行った時、私たちはホテルとルーロットの駐車場の鉄門ゲートを通って行った。そのゲートは夜には閉まっていて道側からはルーロットの停まってある場所に入れない。私たちはその後で、ルーロットの側からトウモロコシ畑の方向に抜けられる裏道があることを知った。だが、ウィンキーはその裏道を一度も通ったことがない。もしもウィンキーがもと来た道をたどって私たちのいるルーロットに戻ろうとするとゲートに閉ざされて入ることができない。私たちの想像力は、もしも戻ろうとしても壁に突き当たるウィンキーのことを思い、ますます暗くなった。なにか食べているだろうか?怪我などしていないだろうか?他の動物に襲われていたりしないだろうか?
私たちは(最初の好奇心的な喜びとは裏腹に、ホテル支配人には失礼ながら)あまり寝心地がいいとは言えないルーロット内の寝台に横になり、眠ることにした。明朝は万が一あるかもしれない村の人の(名札についていた電話番号を見ての) 電話を待ちながら、昼まではブーローニュに出発しないでおこう。その後でも、その日でなくても、何日か後でももしもその電話があったら、すぐにオートリーヴの村に駆けつけられるようにしておこう。そう言い合いながら、おやすみの挨拶をして、床についた。日が明けたら、またトウモロコシ畑に行ってみよう、とも言い合った。床についたけれど、誰もちゃんと眠っていなかったと思う。
8月16日、朝6時。最初に目を覚ましたのは奥様だった。履物をはかない裸足の状態でルーロットの戸を開け、ワゴン車の手すりガードに覆われたバルコニーのような戸口から辺りを見回したがウィンキーらしい姿は見当たらなかった。次に起きたのが私だった。6時15分頃、歯磨き洗顔を終え、気温が下がっているので長ズボンを履いて外に出た。ルーロットの床下、車輪の陰、庭においてあるテーブルのひとつひとつ、隣に停車してある3台のルーロットも同じように床下などを探してみた。いない。やはり戻る道は閉ざされていたのか。さあ、長い1日が始まるぞ、と覚悟したその瞬間、ルーロットの置いてある後ろにある生け垣の灌木がザザザザっと鳴った。リードをつける胴衣のストラップに右前脚を挟み込まれ(たぶん胴衣を脱ごうと努力したんだろうな)、3本脚のような状態で、不自由なさまで、ザザザザっと音を立てて、ヒィーヒィーと声を上げて、
ウィンキーが私の前に現れた。
(↓)サント・マキシムの浜辺で、サン・トロペのビーチで、カーニュ・シュル・メールの水辺で、地方ラジオKISS FMのヘビロテで、何度も何度も聞いて、娘も私も大好きになった2019年夏のチューブ "CALMA" (Pedro Capó & Farruko feat. Alicia Keys)。私はこの曲を聴いて素晴らしかった2019年夏とウィンキー蒸発事件のことをずっとずっと想い返すことになろう。
2019年8月17日土曜日
2019年7月30日火曜日
「80万」ビュー突破に寄せて
同志たち、ありがっとう!
2019年7月29日23時頃、爺ブログのビュー・カウンターが「80万」を突破しました。毎度お越しの同志たち、ありがとうございます。統計を取ったりしているわけではありませんが、やはり読まれているかいないかは大変気になり、こうして10万単位の山を越していくと、続けることの意味を感じさせてくれます。

カウンターの数字はどこまで信用してよいものかわかりません。日付では60万突破が(←)2018年1月6日、70万突破が2018年3月12日(→)、つまり60万と70万の間の10万ビューに2ヶ月ちょっとしかかかっていない。そして70万から今度の80万ビューにいたるまでには16ヶ月(1年4ヶ月)以上かかっています。10万ビューにかかった時間の差は何なのか。インターネット上の奇怪現象というのか、むしろ「機械現象」とでも言うべき、人間ではない機械(ロボット)による集中ビューとしか想像できません。
統計の始まった2010年5月から今日までの全期間ビュー数の折れ線グラフ(←)を見ると、2017年12月から2018年3月の4ヶ月間が異常に高く月に4〜5万のビジターがあったことになっています。これは明白にロボットのしわざです。この期間にアクセスのあったビジター(?)の国籍もちょっと考えづらい国(東欧、アラブ首長国連邦、中央アジア...)が多く、普段のビジターたち(日本、フランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、アメリカ、カナダ、オーストラリア...)ではありませんでした。何のために? 乗っ取り目的か? どこかいじくられたのではないか? と不安にはなったのですが、今のところ被害はありません。そして折れ線グラフの続きでは2018年4月からは月間ビュー数4000程度と(たいへん低く)安定しています。つまりこの頃は1日のビュー数100〜150程度( ! )です。これが爺ブログの自然のありのままの姿かな、と思ってます。
2017年6月で自営の会社をたたみ隠居(闘病)老人となり時間も増えたので、ブログをいじくる時間も増えて記事数も格段に増えています。「ビュー数を増やさなければ」というつもりで書いているわけではないし、ましてや「商売」ではないので、この状態に嘆いているわけではまったくありません。自分のためにやっていることですから。
新規記事だけではなく、古い記事も資料性のあるものはこれからインデックス化して読んでいただく努力をしてみましょう。あなたが出会っていない意外な記事も多分少なからずあるかもしれません。
『カストール爺の生活と意見』はもう少し続くと思います。「いつまで」という考えは捨てました。だけどもう少し。楽しみながら続けますから、おつきあいください、同志たち!
(↓)久しぶりにテーマソングでも聞いてやってください。
2019年7月29日23時頃、爺ブログのビュー・カウンターが「80万」を突破しました。毎度お越しの同志たち、ありがとうございます。統計を取ったりしているわけではありませんが、やはり読まれているかいないかは大変気になり、こうして10万単位の山を越していくと、続けることの意味を感じさせてくれます。

カウンターの数字はどこまで信用してよいものかわかりません。日付では60万突破が(←)2018年1月6日、70万突破が2018年3月12日(→)、つまり60万と70万の間の10万ビューに2ヶ月ちょっとしかかかっていない。そして70万から今度の80万ビューにいたるまでには16ヶ月(1年4ヶ月)以上かかっています。10万ビューにかかった時間の差は何なのか。インターネット上の奇怪現象というのか、むしろ「機械現象」とでも言うべき、人間ではない機械(ロボット)による集中ビューとしか想像できません。統計の始まった2010年5月から今日までの全期間ビュー数の折れ線グラフ(←)を見ると、2017年12月から2018年3月の4ヶ月間が異常に高く月に4〜5万のビジターがあったことになっています。これは明白にロボットのしわざです。この期間にアクセスのあったビジター(?)の国籍もちょっと考えづらい国(東欧、アラブ首長国連邦、中央アジア...)が多く、普段のビジターたち(日本、フランス、ベルギー、イギリス、アイルランド、アメリカ、カナダ、オーストラリア...)ではありませんでした。何のために? 乗っ取り目的か? どこかいじくられたのではないか? と不安にはなったのですが、今のところ被害はありません。そして折れ線グラフの続きでは2018年4月からは月間ビュー数4000程度と(たいへん低く)安定しています。つまりこの頃は1日のビュー数100〜150程度( ! )です。これが爺ブログの自然のありのままの姿かな、と思ってます。
2017年6月で自営の会社をたたみ隠居(闘病)老人となり時間も増えたので、ブログをいじくる時間も増えて記事数も格段に増えています。「ビュー数を増やさなければ」というつもりで書いているわけではないし、ましてや「商売」ではないので、この状態に嘆いているわけではまったくありません。自分のためにやっていることですから。
新規記事だけではなく、古い記事も資料性のあるものはこれからインデックス化して読んでいただく努力をしてみましょう。あなたが出会っていない意外な記事も多分少なからずあるかもしれません。
『カストール爺の生活と意見』はもう少し続くと思います。「いつまで」という考えは捨てました。だけどもう少し。楽しみながら続けますから、おつきあいください、同志たち!
(↓)久しぶりにテーマソングでも聞いてやってください。
2019年7月28日日曜日
主は私の羊飼い
ダニエル・ダルク「詩篇23」
Daniel Darc "Psaume 23"
(album "Crève Coeur" 2004)
2019年7月24日にフランス公開されたダニエル・ダルク(1959-2013)のドキュメンタリー映画『ダニエル・ダルク - ピーシズ・オブ・マイ・ライフ(Daniel Darc - Pieces of my life)』に関する原稿(ラティーナ2019年9月号掲載予定)を書いていて出会った(と言うかアルバムリリース当時は全く気にとめていなかった)2004年のアルバム『心臓破り(Crève Coeur)』の最終曲(12曲め)。詞は旧約聖書「詩篇23篇」より。日本語訳はダニエルの歌ったフランス語詞から私が訳した。
(↓)Daniel Darc "Psaume 23" (from album "CREVE COEUR" 2004)
(↓)ダニエル・ダルク「詩篇23」2008年ユーロケンヌ・フェス(ベルフォール)でのライヴ。
Daniel Darc "Psaume 23"
(album "Crève Coeur" 2004)
2019年7月24日にフランス公開されたダニエル・ダルク(1959-2013)のドキュメンタリー映画『ダニエル・ダルク - ピーシズ・オブ・マイ・ライフ(Daniel Darc - Pieces of my life)』に関する原稿(ラティーナ2019年9月号掲載予定)を書いていて出会った(と言うかアルバムリリース当時は全く気にとめていなかった)2004年のアルバム『心臓破り(Crève Coeur)』の最終曲(12曲め)。詞は旧約聖書「詩篇23篇」より。日本語訳はダニエルの歌ったフランス語詞から私が訳した。
主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
涼しい草はらの上に
主は私を横たわせる
主は静かな水辺へと私を導き
そして私を蘇らせる
主は御名を讃えるために
私を正義の道へと導く
私が死の谷を渡るとしても
私は何も恐れない
なぜならあなたは私と共にあり
あなたの杖が私たちを導き、私の心を確かなものにする
あなたは私の敵たちの前で
私のために食卓を用意し
あなたが私の頭に香りをふりかけると
私の盃は飲み物で満たされる
恩寵と幸福が
私の生涯の毎日、私と共にあり
私は生きている限りずっと
主の家に住むことができる
主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
涼しい草はらの上に
主は私を横たわせる
恩寵と幸福が
私の生涯の毎日、私と共にあり
私は生きている限りずっと
主の家に住むことができる
主は私の羊飼い
私に足りないものは何もない
(↓)Daniel Darc "Psaume 23" (from album "CREVE COEUR" 2004)
(↓)ダニエル・ダルク「詩篇23」2008年ユーロケンヌ・フェス(ベルフォール)でのライヴ。
2019年7月25日木曜日
ヴィラ神楽坂から
ルネ・ド・セカティ『わが日本の歳月』
René de Ceccatty "Mes années japonaises"
初めて読む著者である。ルネ・ド・セカティ(1952 - )は小説家(随筆家)・劇作家・翻訳家として非常に多くの著作がある(ウィキに列挙されているだけでも150点以上)。翻訳はイタリア語からの仏訳(ピエル・パオロ・パゾリーニ、アルベルト・モラヴィア等)と日本語からの仏訳(夏目漱石、大江健三郎、横溝正史、三島由紀夫等)であり、日本語翻訳の方はすべてNakamura Ryôji(この名前ネット検索では特定できない)との共訳ということになっている。
Roman(小説)と言っていいのだろうか。本書はルネ・ド・セカティの自分史のほとんどすべてであり、その自分を形成した最重要な要素に「日本」があり、その関わりの(ほとんど)すべてを詳らかにした246ページである。日本愛などと定義できるものではない。日本との出会いが彼にとっての「第二の誕生」であったのだから。
話者(ルネ・ド・セカッティ)は1977年9月に初めて日本の土を踏んでいる。成田空港が反対運動の激化で開港延期となり、羽田に着いてモノレールで都内に入っている。その時25歳。作家として初めて出版社と契約が取れた時期。職業的には北フランスで高校教師(哲学)をしていたが、兵役に代わる外国での教職活動として東京で2年間、かの九段の学校で教鞭を取ることになった。すでに東京のフランス村となっていた神楽坂界隈が彼のホームグラウンドになるのだが、その宿舎にあてられた「ヴィラ神楽坂」の窓に聞こえてくる石焼きイモ屋台の呼び声や、ちり紙交換軽トラックのアナウンス、よその学生寮のマージャンの音といったものに反応して快いカルチャーショックを。この40年前の衝撃の記憶を、話者はまめに保管しておいた母やその他の人々とやりとりした書簡をもとに再構築しようとする。ネットやE-メールなど遠い遠い未来だった頃のことである。ありがたき亡き母の証言、その残された書簡だけがこの自分史に客観的な視点を与えている。さもなければこの本は、意識的にも無意識的にも取捨選択された記憶断片の自身に都合のいい寄せ集めになっていたかもしれない。おまけにこの話者は前述のように非常に多作の(私小説的作品の)書き手であり、その時その時の恋愛関係で小説をぼんぼん書いてしまっている。だからこの作品の中でも、「だれだれとの関係のことはどれどれの小説で書いている」という断り書きが何箇所にも現れる。おいおい、これではこの著者の熱心な読者でない者にはとても読みづらい本ではないか、と思われる。大丈夫。それは全然重要なことではない。
彼はゲイである。それを隠したことはない。しかしこの77年の日本渡航の前に、ルネはセシルという女性と恋仲になり、東京には「夫婦」として移住する。セシルも先進的な女性であり、闘士的な活動もする芸術家(画家)であり、おそらくこの男をゲイと知りながらも全く新しい男女関係という冒険に賭けていたのかもしれない。少なくとも一時的にはこの二人は熱愛するのだ。だがこの脆い関係はすぐに壊れ、セシルは東京でどんどん不幸になっていく。逆にセシルからの罵詈雑言泣き言を散々浴びせられながらも、ルネはどんどん東京と日本の魅力にとりつかれ、「第二の誕生」と言うべきメタモルフォーズを実現していく。日本に関して全くの素人だったわけではない。若くして作家・演劇人としてデビューしていた話者はその豊富な教養の中に日本は含まれていたし、渡航前には日本の近代/現代作家(漱石、芥川、三島...)の仏訳本を読み漁った。渡航後は苦労しながら日本語習得にもつとめ、週刊「ぴあ」で映画・コンサート・演劇などのイヴェントを探せるようにもなった。それから在東京のフランス人ゲイ・コミュニティーや日仏学院の男子学生たちとも深く交流するようになり、その世界の深部へとどんどん入っていく。こんなだからセシルはどんどんどんどん不幸になっていき、ルネの家族をはじめ友人たちにもルネの裏切り不貞を言いふらし、ルネに対して極端に攻撃的になっていく。地獄のようだったと表現したりもするが、実のところルネはセシルの不幸を頓着していないのだ。
頻繁に恋に落ち(その度に小説に書いてしまう)、その果てにリョウジ(ナカムラ)という最重要のパートナーと出会うわけだが、この作品で奇妙なのは、このリョウジとの関係がどのようにパッショネートなものであったかを書き綴っている部分は一切ないのだ。話者が日本文学の奥の奥まで入っていく道先案内人となった、フランス語を完璧にあやつるこの長年の公私のパートナーに関して、書き方があまりに淡々としているのではないか。この二人は京都、鎌倉、金沢、七里ガ浜、尾道... その他日本の文学史跡を探訪し、ルネは日本(文学)を内在化できるほどに理解を深めていった。その結果、十数年に渡るリョウジと共同での日本文学のフランス語訳はウィキペディアに載っているものだけでも35点もある。大江健三郎、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、井上靖、河野多恵子、津島佑子...。その中には道元「正法眼蔵」というたいへんなものまで含まれている。この二人は1990年代には場所をブルゴーニュ地方の田舎家に移し、そこに十余年篭って日夜翻訳に没頭することになる。
ルネ・ド・セカティには失礼だが、この共同翻訳というのは両者の割合がどの程度のものなのか疑問がある。ほとんどはリョウジ・ナカムラの仕事ではないか。全プロセスの最後のフランス語文として雅文化するところがセカティの主な役目ではないか。ファイナル・タッチ係、それはそれで重要で決定的な役割ではあるが。日本文学/文化への理解がどれほど深いかが決め手なのだから。だからこの「共訳」では二人の立場はフェアーではなく、主任と助手のようなヒエラルキーがあったのではないか。「日本文学狂」的な尋常ならぬ熱情で短期間でこの分野のエキスパートとなったルネとて、リョウジの既に蓄積された莫大な知識と情報なくしては、できることは限定されていたと思うのが自然である。いみじくも私は「フェアーではない」と数行前に書いたが、このフェアーでないことが二人の関係の限界だったと私は読む。そのことは本書には書かれていない。
この話者は日本を愛し、日本で第二の誕生のような人生の大転換を果たしたが、日本人になろうとか、日本学を極めようとか、そういう意思は薄い。ただ凡百の「日本通(nipponophile)」や「日本専門家(japonologue) 」たちとは一線を画したい。このあたりの自分の立場、日本を深く理解し愛していてもあんたたちとは違うんだ、という個人的で親密な日本との関わりが強調されているから、この本は存在する価値があり、「極私的」日本愛と言ってもいい視点こそが本書の魅力なのだ。言い訳も躊躇もある。ただ、昭和期の神楽坂を練り歩く石焼きイモ売り屋台の呼び声メロディーのように、いいものはいいのだ、という理屈なしの愛着は説得力を超えるものがある。
21世紀の現在、日本通のフランス人たちはフランスにも日本にもゴマンといるし、私にしてみればマンガやアニメの領域でなくてもその種の若いフランス人たちには全く歯が立たないほどだ。情報量ということだけではなく、ものの理解・解釈においても。しかし私とほぼ同世代であるルネ・ド・セカティは、1970年代、どのような「予備知識」で日本を見ていたろう。この本でも話者にとって重要な影響となったとされているが、70年代フランスと日本の知識人たちの必読書となっていたのがロラン・バルトの日本論『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)であった。 バルトは1966年と69年、数度来日+滞在し、この日本論を書き上げたのだが、来日のきっかけは九段の日仏学院の招待であり、67年冬は学院の宿舎に滞在していた。10年後のルネ・ド・セカティと同じ神楽坂の風景を見、袋町の小径の雑踏に揉まれていたことだろうか。話者は先達バルトに敬意を払いつつも、今やその日本論のディテールについて訂正・批判できるものをたくさん手に入れてしまった(p201からp216でバルトに関する考察)。しかたない。しかしバルトよりも多くのものを発見し、日本理解を深めた自分は、それを肥やしにして「専門家」になることも望んでいないし、ましてリョウジなしには先には進めないだろう。1985年にセカッティーはフランスで聖フランシスコ・ザビエルの日本での行状を題材にした評伝小説"L'Extrémité du monde"を上梓する。これを手にしたリョウジはその中の「ザビエルは日本を発見した」という表現におおいに難色を示す。ザビエルの前に日本は存在していなかったような、覇権主義的で植民地主義的な表現だ、と。この辺の無意識に身についてしまったような西欧優越世界観を引きずっているということを身を持って知った話者は、ある種の微妙な事柄には「沈黙」(遠藤周作の作品も引き合いに出している)することを決意するのだが...。
恋多き人であり、90年代にはエイズ死を身近に体験しながら、私小説を何編も書いてきた。パゾリーニや大江健三郎と親交してきたことは、その多作さにどう反映しているのだろうか。恋(と死)のことばかりで文学人を通せてきた稀有な人かもしれない。九段・神楽坂のフランス語文化圏で人生を変えてしまったフランス作家、今、日本は遠きにありて思うものなのだろう。
René de Ceccaty "Mes années japonaises"
Mercure de France 刊 2019年4月 250ページ 18ユーロ
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)ラジオRCJ(ユダヤ系コミュニティー放送局)の文学番組で、新刊『我が日本の歳月』について番組主キャロリーヌ・グットマンのインタヴューに答えるルネ・ド・セカティ。
(↓)2013年マルタン・プロヴォ監督映画『ヴィオレット - ある作家の肖像 - 』、このシナリオを手がけたのがルネ・ド・セカティ。
René de Ceccatty "Mes années japonaises"
初めて読む著者である。ルネ・ド・セカティ(1952 - )は小説家(随筆家)・劇作家・翻訳家として非常に多くの著作がある(ウィキに列挙されているだけでも150点以上)。翻訳はイタリア語からの仏訳(ピエル・パオロ・パゾリーニ、アルベルト・モラヴィア等)と日本語からの仏訳(夏目漱石、大江健三郎、横溝正史、三島由紀夫等)であり、日本語翻訳の方はすべてNakamura Ryôji(この名前ネット検索では特定できない)との共訳ということになっている。
Roman(小説)と言っていいのだろうか。本書はルネ・ド・セカティの自分史のほとんどすべてであり、その自分を形成した最重要な要素に「日本」があり、その関わりの(ほとんど)すべてを詳らかにした246ページである。日本愛などと定義できるものではない。日本との出会いが彼にとっての「第二の誕生」であったのだから。
話者(ルネ・ド・セカッティ)は1977年9月に初めて日本の土を踏んでいる。成田空港が反対運動の激化で開港延期となり、羽田に着いてモノレールで都内に入っている。その時25歳。作家として初めて出版社と契約が取れた時期。職業的には北フランスで高校教師(哲学)をしていたが、兵役に代わる外国での教職活動として東京で2年間、かの九段の学校で教鞭を取ることになった。すでに東京のフランス村となっていた神楽坂界隈が彼のホームグラウンドになるのだが、その宿舎にあてられた「ヴィラ神楽坂」の窓に聞こえてくる石焼きイモ屋台の呼び声や、ちり紙交換軽トラックのアナウンス、よその学生寮のマージャンの音といったものに反応して快いカルチャーショックを。この40年前の衝撃の記憶を、話者はまめに保管しておいた母やその他の人々とやりとりした書簡をもとに再構築しようとする。ネットやE-メールなど遠い遠い未来だった頃のことである。ありがたき亡き母の証言、その残された書簡だけがこの自分史に客観的な視点を与えている。さもなければこの本は、意識的にも無意識的にも取捨選択された記憶断片の自身に都合のいい寄せ集めになっていたかもしれない。おまけにこの話者は前述のように非常に多作の(私小説的作品の)書き手であり、その時その時の恋愛関係で小説をぼんぼん書いてしまっている。だからこの作品の中でも、「だれだれとの関係のことはどれどれの小説で書いている」という断り書きが何箇所にも現れる。おいおい、これではこの著者の熱心な読者でない者にはとても読みづらい本ではないか、と思われる。大丈夫。それは全然重要なことではない。
彼はゲイである。それを隠したことはない。しかしこの77年の日本渡航の前に、ルネはセシルという女性と恋仲になり、東京には「夫婦」として移住する。セシルも先進的な女性であり、闘士的な活動もする芸術家(画家)であり、おそらくこの男をゲイと知りながらも全く新しい男女関係という冒険に賭けていたのかもしれない。少なくとも一時的にはこの二人は熱愛するのだ。だがこの脆い関係はすぐに壊れ、セシルは東京でどんどん不幸になっていく。逆にセシルからの罵詈雑言泣き言を散々浴びせられながらも、ルネはどんどん東京と日本の魅力にとりつかれ、「第二の誕生」と言うべきメタモルフォーズを実現していく。日本に関して全くの素人だったわけではない。若くして作家・演劇人としてデビューしていた話者はその豊富な教養の中に日本は含まれていたし、渡航前には日本の近代/現代作家(漱石、芥川、三島...)の仏訳本を読み漁った。渡航後は苦労しながら日本語習得にもつとめ、週刊「ぴあ」で映画・コンサート・演劇などのイヴェントを探せるようにもなった。それから在東京のフランス人ゲイ・コミュニティーや日仏学院の男子学生たちとも深く交流するようになり、その世界の深部へとどんどん入っていく。こんなだからセシルはどんどんどんどん不幸になっていき、ルネの家族をはじめ友人たちにもルネの裏切り不貞を言いふらし、ルネに対して極端に攻撃的になっていく。地獄のようだったと表現したりもするが、実のところルネはセシルの不幸を頓着していないのだ。
頻繁に恋に落ち(その度に小説に書いてしまう)、その果てにリョウジ(ナカムラ)という最重要のパートナーと出会うわけだが、この作品で奇妙なのは、このリョウジとの関係がどのようにパッショネートなものであったかを書き綴っている部分は一切ないのだ。話者が日本文学の奥の奥まで入っていく道先案内人となった、フランス語を完璧にあやつるこの長年の公私のパートナーに関して、書き方があまりに淡々としているのではないか。この二人は京都、鎌倉、金沢、七里ガ浜、尾道... その他日本の文学史跡を探訪し、ルネは日本(文学)を内在化できるほどに理解を深めていった。その結果、十数年に渡るリョウジと共同での日本文学のフランス語訳はウィキペディアに載っているものだけでも35点もある。大江健三郎、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、井上靖、河野多恵子、津島佑子...。その中には道元「正法眼蔵」というたいへんなものまで含まれている。この二人は1990年代には場所をブルゴーニュ地方の田舎家に移し、そこに十余年篭って日夜翻訳に没頭することになる。
ルネ・ド・セカティには失礼だが、この共同翻訳というのは両者の割合がどの程度のものなのか疑問がある。ほとんどはリョウジ・ナカムラの仕事ではないか。全プロセスの最後のフランス語文として雅文化するところがセカティの主な役目ではないか。ファイナル・タッチ係、それはそれで重要で決定的な役割ではあるが。日本文学/文化への理解がどれほど深いかが決め手なのだから。だからこの「共訳」では二人の立場はフェアーではなく、主任と助手のようなヒエラルキーがあったのではないか。「日本文学狂」的な尋常ならぬ熱情で短期間でこの分野のエキスパートとなったルネとて、リョウジの既に蓄積された莫大な知識と情報なくしては、できることは限定されていたと思うのが自然である。いみじくも私は「フェアーではない」と数行前に書いたが、このフェアーでないことが二人の関係の限界だったと私は読む。そのことは本書には書かれていない。
この話者は日本を愛し、日本で第二の誕生のような人生の大転換を果たしたが、日本人になろうとか、日本学を極めようとか、そういう意思は薄い。ただ凡百の「日本通(nipponophile)」や「日本専門家(japonologue) 」たちとは一線を画したい。このあたりの自分の立場、日本を深く理解し愛していてもあんたたちとは違うんだ、という個人的で親密な日本との関わりが強調されているから、この本は存在する価値があり、「極私的」日本愛と言ってもいい視点こそが本書の魅力なのだ。言い訳も躊躇もある。ただ、昭和期の神楽坂を練り歩く石焼きイモ売り屋台の呼び声メロディーのように、いいものはいいのだ、という理屈なしの愛着は説得力を超えるものがある。
21世紀の現在、日本通のフランス人たちはフランスにも日本にもゴマンといるし、私にしてみればマンガやアニメの領域でなくてもその種の若いフランス人たちには全く歯が立たないほどだ。情報量ということだけではなく、ものの理解・解釈においても。しかし私とほぼ同世代であるルネ・ド・セカティは、1970年代、どのような「予備知識」で日本を見ていたろう。この本でも話者にとって重要な影響となったとされているが、70年代フランスと日本の知識人たちの必読書となっていたのがロラン・バルトの日本論『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)であった。 バルトは1966年と69年、数度来日+滞在し、この日本論を書き上げたのだが、来日のきっかけは九段の日仏学院の招待であり、67年冬は学院の宿舎に滞在していた。10年後のルネ・ド・セカティと同じ神楽坂の風景を見、袋町の小径の雑踏に揉まれていたことだろうか。話者は先達バルトに敬意を払いつつも、今やその日本論のディテールについて訂正・批判できるものをたくさん手に入れてしまった(p201からp216でバルトに関する考察)。しかたない。しかしバルトよりも多くのものを発見し、日本理解を深めた自分は、それを肥やしにして「専門家」になることも望んでいないし、ましてリョウジなしには先には進めないだろう。1985年にセカッティーはフランスで聖フランシスコ・ザビエルの日本での行状を題材にした評伝小説"L'Extrémité du monde"を上梓する。これを手にしたリョウジはその中の「ザビエルは日本を発見した」という表現におおいに難色を示す。ザビエルの前に日本は存在していなかったような、覇権主義的で植民地主義的な表現だ、と。この辺の無意識に身についてしまったような西欧優越世界観を引きずっているということを身を持って知った話者は、ある種の微妙な事柄には「沈黙」(遠藤周作の作品も引き合いに出している)することを決意するのだが...。
恋多き人であり、90年代にはエイズ死を身近に体験しながら、私小説を何編も書いてきた。パゾリーニや大江健三郎と親交してきたことは、その多作さにどう反映しているのだろうか。恋(と死)のことばかりで文学人を通せてきた稀有な人かもしれない。九段・神楽坂のフランス語文化圏で人生を変えてしまったフランス作家、今、日本は遠きにありて思うものなのだろう。
René de Ceccaty "Mes années japonaises"
Mercure de France 刊 2019年4月 250ページ 18ユーロ
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)ラジオRCJ(ユダヤ系コミュニティー放送局)の文学番組で、新刊『我が日本の歳月』について番組主キャロリーヌ・グットマンのインタヴューに答えるルネ・ド・セカティ。
(↓)2013年マルタン・プロヴォ監督映画『ヴィオレット - ある作家の肖像 - 』、このシナリオを手がけたのがルネ・ド・セカティ。
2019年7月20日土曜日
明日は月の上で

救世主アダモ『明日は月の上で』
Salvadore Adamo "A demain sur la lune"
(1969年)
(←)2019年7月20日付けリベラシオン紙フロントページです。1969年7月20日、米国宇宙船アポロ11号の2人の飛行士によるウォーキン・オン・ザ・ムーンの50周年を記念しての5面特集記事。主要テレビをはじめ世界中のメディアで同じようなことをやっているはずなので、私がとやかく言うことではありまっせん。リベ紙はその特集のタイトルとして、当時地球的規模で大スターだったベルギー人アーチスト、サルヴァドール・アダモ(1943 - )の1969年のヒット曲のタイトル「A Demain Sur La Lune(明日は月の上で)」を採用しました。言うまでもなく、このサルヴァドールは1963年の「雪が降る」以来、日本で最もポピュラーなシャンソン歌手として君臨し、何度も何度も日本に行くから、日本語も堪能ですし、日本では最もパリ的なベルギー人と奥様がたに評判です。後輩の森進一(1947年生、1966年デビュー)は往時「日本のアダモ」と呼ばれていました。それはそれ。
この「明日は月の上で」もさっそく岩谷時子の素晴らしい日本語詞がついて日本語版が吹き込まれ、毎回日本公演では奥様がたが総立ちで唱和するほどの人気ナンバーになりました。このヴァージョンは越路吹雪など日本のおシャンソンの人たちにも多くカヴァーされています。
明日月の上でオリジナル曲 "A Demain Sur La Lune"は当然1969年人類月面到達という事件にインスパイアされて作られたものです。誰でも子供の頃の夢だったのかもしれませんが、お月見ならぬ「お地球見」の風流も歌詞中に現れます。どうもね、当時はロマンティックな王子さまのような、日本の奥様がたの願望に沿ったイメージが先行していたようで、あの頃、英米のポップス(ロック含め)を聴いていた日本リスナーたちと、フランス語ポップス(イージーリスニングを含め)を好んでいた人たちとの溝を大きく深めた原因のひとつにアダモがなっていたと思うんですよ。ま、(60年代ですから)ビートルズ聴く人はアダモは遠慮すると思いますよ。その溝を一挙に縮めたのがポルナレフである、という主張には一理ありますよ。だって、この歌だって、めちゃくちゃ歯の浮くような歌詞なんだ。
神様のそばで
明日月の上で
大空のすみで
À demain sur la lune 明日は月の上で
Aux quatre coins des dieux 四方を神々に囲まれて
À demain sur la lune 明日は月の上で
À trois bornes des cieux 天国にたった三里の距離のところで
Il y aura un carrosse 馬車は僕たちを
Qui nous emmènera 子供の頃の夢の場所に
Voir mes rêves de gosse 連れていき
Et tu t'y reconnaîtras きみはこれは夢じゃないと気づくだろう
Et pour toi ma jolie 僕の美しい人、きみのために
Le vent, ce magicien 風という名のマジシャンは
Jouera une symphonie 千人のミュージシャンをつかって
De mille musiciens シンフォニーを奏でるだろう
À demain sur la lune 明日は月の上で
Là nous verrons la terre そこから僕たちは地球を見るのさ
Comme une boule de Noël まるでクリスマスツリーの玉飾りみたいに
Se balancer légère 宇宙の大きなもみの木に吊られて
Au grand sapin du ciel 静かに揺れている
Et d'étoile en étoile そして星から星へと
Nos chevaux voleront 僕らの馬は飛んでいくだろう
À l'heure où le ciel se voile 空が白い千の夢のヴェールで
De mille rêves blancs 覆われるとき
À demain sur la lune 明日は月の上で
Le vent te couvrira 風はきみを
D'un voile de dentelle レースのヴェールで包み
Et tu t’endormiras そしてきみは最高に美しい夜のなかで
Dans la nuit la plus belle 眠りにつくだろう
Moi moi moi je te bercerais 僕はきみの揺籠をゆすりながら
J'attendrai ton réveil きみの目覚めを待っていよう
Puis je t’embrasserai 太陽が出たらその目も気にせず
À la barbe du soleil きみにくちづけるのさ
À demain sur la lune 明日は月の上で
なんと饒舌なことでしょう。 「ヴェール」が2回出てくるところなんか、普通作詞家として恥ずかしくてできないんじゃないの?空駆ける馬とか、クリスマスツリーみたいな地球とか、風という名のマジシャンとか、一体この人は本当に1960年代に生きてた人だろうか、と疑いたくなるんですが、その当人が1966年に第三次中東戦争(6日戦争)を勃発するきっかけとなった「インシャラー」という曲も作ってるんですね。
ベルギーで生まれた偉大なマンガ「タンタンの冒険」(エルジェ作) の16作目で「めざすは月(Objectif Lune)」(1953年発表)というのがあります。赤白の市松模様(クロアチアの国旗のよう)のロケットで月世界探検に出発する話です。アポロ11号の16年前の想像力、そのフォルムの美しさに感服します。
さてアダモ「明日は月の上で」に戻りますが、歌詞はどうあれ、一流のメロディー・メイカーであったアダモのこの曲のBメロ、よく聴いてください。このメロディーは1975年、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」にパクられたんじゃないか、と私は真剣に疑っています。
(↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」
(↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」日本語版
2019年7月17日水曜日
ズールーの立ち位置
ジョニー・クレッグ(1953-2019)
7月16日、JCが66歳で亡くなった。"白いズールー”と呼ばれた男の「アシンボナンガ」は私にとって20世紀で最も美しかった歌のひとつだった。合掌。
JCがすい臓ガンと診断されたのは2015年のことだった。その日から死を覚悟して、最後のアルバム("King of Time" 2018年)も作ったし、最後のコンサートツアーもした。"最後の”と銘打っても、アルバムを買う人もコンサートに来る人も、当人が亡くなるまで"最後”は実感しない。しっかりとそれを悟っていたのは本人だけだ。4年間の闘病だった。この孤独な闘いのことを、2018年9月にパリ・マッチ誌のインタヴューで語っていて、そのインタヴュー記事全文がJCの死の直後ウェブ版パリ・マッチに再録された。そのうち、最後の2つの質問の部分だけ、以下に翻訳する。
(↓)「アシンボナンガ」1997年フランクフルトでのコンサート。ネルソン・マンデラがサープライズでステージに現れる。アパルトヘイトは終わった。
7月16日、JCが66歳で亡くなった。"白いズールー”と呼ばれた男の「アシンボナンガ」は私にとって20世紀で最も美しかった歌のひとつだった。合掌。
JCがすい臓ガンと診断されたのは2015年のことだった。その日から死を覚悟して、最後のアルバム("King of Time" 2018年)も作ったし、最後のコンサートツアーもした。"最後の”と銘打っても、アルバムを買う人もコンサートに来る人も、当人が亡くなるまで"最後”は実感しない。しっかりとそれを悟っていたのは本人だけだ。4年間の闘病だった。この孤独な闘いのことを、2018年9月にパリ・マッチ誌のインタヴューで語っていて、そのインタヴュー記事全文がJCの死の直後ウェブ版パリ・マッチに再録された。そのうち、最後の2つの質問の部分だけ、以下に翻訳する。
(パリ・マッチ:今日あなたにとって最も気がかりなことは何ですか?)
JC - 私の家族にとって私の病気がどれほどつらいものか知っている。2015年に家族は私の旅立ちを覚悟していたが、私は生き残ることができた。今日みんなが私の最後が近いことを知っている。最悪なら数ヶ月、最良でも数年のことだ。意志に反したこととは言え、私は家族にいつもプレッシャーをかけていたんだ。「パパはいつ逝ってしまうの?」「彼にはどれくらいの時間が残されているの?」ー 最も耐えられないのはその答えを知らないことだ。私はこの病気が私の体の中で爆発してしまうだろう瞬間のことを恐れている。こういった問題を自問すると私は混乱を起こしてしまう。なぜなら私はこの病気に勝つことはないのだから。私は絶壁から飛び降りる前の、執行猶予状態にあるのだ。
(パリ・マッチ:この試練の中にあって、音楽はあなたを支えていますか?)
JC - コンサートをしている時はもちろんそうだ。私は世界と再びコネクトした状態にあり、私は自分の仕事をしているんだから。でもそれは以前と同じ感触ではない。私は死を背負っていて、そのことを人々は知っている。彼らは私にお別れを言いに来てるんだ。今はとても甘美さと苦味の混じった時期だ。でも、前に進まなければいけない。世界中から送られてくるメッセージのすべてに私はありがとうと答えることはできない。彼らはこの最後の段階に立っている私にとても良いことをしてくれたのに、私はこの段階への準備がまだ出来ていないんだ。私は多くの人々に知られた公のパーソナリテイーかもしれないが、私は今、いまだかつて経験したことのない最も孤独な瞬間を生きている、と悟っている。死神に向かって私はたった一人だ。つまるところこの立ち位置はとてもズールー的なんだ….
(↓)「アシンボナンガ」1997年フランクフルトでのコンサート。ネルソン・マンデラがサープライズでステージに現れる。アパルトヘイトは終わった。
2019年7月16日火曜日
シコさんに叱られそう
2019年7月13日付けリベラシオン紙に南仏カマルグのバンド、ジプシー・キングスの軌跡が3面にわたっての記事で。
このバンドに関しては向風三郎の『ポップ・フランセーズ』(2007年)ではこう紹介されている。
唐突にブライアン・ジョーンズを引き合いに出す。私は熱心なファンではないし、のめり込んでストーンズを聞いたこともない人間だが、ブライアン・ジョーンズに関しては良い印象がない。それはミュージシャンとしての資質よりも、マネージメントおよびリーダーシップに長けた人物として最初期ストーンズの看板だったからであり、音楽よりも「政治」をやっているタイプという印象である。これはシコ・ブーシキと全く重なる点で、カンテ・ホンドのしぼりあげるようなヴォーカルもなく、超絶ギターラ・フラメンカのテクニックもなく、非ヒタノ人の分際でジプシー・キングスのフロントマンでありよくしゃべる。ブライアン・ジョーンズが初期ストーンズの顔だったように、シコ・ブーシキはジプシー・キングスの顔だった。なんで?と思う。
話は飛んで、この7月ラティーナに「サン・トロペの60年代の栄華と退廃」について記事を書いて、その関連でこのブログにも「プリティー・シングスとサン・トロペ」という記事を載せた。その舞台になったのがサン・トロペ半島の南側のビーチ、パンプロンヌの浜辺のクラブ・レストラン「レピ・プラージュ」で、60年開店のこのクラブの最初からの常連にブリジット・バルドーがいた。このクラブのスタッフのひとりで2年間(長い!)にわたってバルドーの恋人だったボブ・ザギュリーが制作したテレビ番組「ブリジット・バルドー・ショー」(1968年1月1日放映)に、バルドーが「ギターのピカソ」と絶賛したマニタス・デ・プラータがバルドー邸(サン・トロペ、ラ・マドラーグ)で彼女の目の前で弾くシーンがある。ブリジット・バルドーはカマルグのジタン音楽の有名人ファン第1号であり、マニタスのプロモーションに大きく貢献したのだが、10年後その甥っ子たち(+α)の楽団ロス・レイエス→ジプシー・キングスもバルドーのサン・トロペの宴には欠かせないものとなり、バルドーによって中央メディアの知るところとなったのだった(写真1978年、サン・トロペのバルドー&キングス)。
リベ記事は皮肉を込めてバルドー、ペレス、アラファト、オランドに目をかけられるとはタダモノではない、と結論するのだが、 どんなものか。音楽的成果は「ジョビ・ジョバ」、「バンボレオ」、日本のテレビ主題歌、CM、「空耳」ネタにとどまっているのじゃないですか?
(↓)ジプシー・キングス 「ジョビ・ジョバ」(ライヴ1990年USA ツアー)
このバンドに関しては向風三郎の『ポップ・フランセーズ』(2007年)ではこう紹介されている。
旅する者の王者たちジプシー・キングスは、南仏プロヴァンス地方アルルのはずれのキャラバン野営地のジタン(ヒタノ)であった。近くには野生の白馬が駆ける湿地帯カマルグが広がり、ジタンの聖地サント・マリー・ド・ラ・メールでは毎年5月、聖女サラを讃える祭りのために何十万というジタン巡礼者が訪れる。アルルの名高い歌手ギタリスト、ホセ・レイエスは息子たちを演奏家に育て、父子でロス・レイエスという楽団を組んで、コート・ダジュールの富豪ヴァカンス客たちの宴に出演していた。一方モンペリエにダリにも賞賛される天才ギタリスト 、マニタス・デ・プラータを筆頭とするジタンの音楽一家バリアルド家があり、マニタスの甥にあたるディエゴ、パコ、トニノの3人がホセ・レイエスの死後にロス・レイエスに参加している。その時からレイエス家から3人(ニコラ、パブロ、アンドレ)、バリアルド家から前述の3人、そして故ホセ・レイエスの娘婿のモロッコ人ジャルール(シコ)・ブーシキを加えて合計7人が新ロス・レイエス(未来のジプシー・キングス)であり、これは名門ヒタノ家族連合のスーパーバンドであった。ジプシー・キングスが地球規模のヒット曲「バンボレオ」と「ジョビ・ジョバ」を世に送ったのは1987年のことだった。あれから30余年、バンドは本家、分家、正系、傍系いろいろ分裂しながら、「ジプシー・キングス」という金看板商標の使用をめぐっていろいろもめてきた。特に有名なエピソードがジャルール・シコ・ブーシキの独立(1992年)で、上に引用したようにこのシコはモロッコ人(つまり非ヒタノ)であり、ホセ・レイエスの娘マルトと結婚してこの世界に入ったが、オリジナル・ジプシー・キングスのスポークスマンのようにメディアのインタヴューではひとり目立ってしゃべっていた。ほかのメンバーが口下手と言うか、ほとんど前に出ない。リベラシオンの記事で、エリック・クラプトンに夕食を招待された時、”俺たち英語しゃべらないから"と言い訳しているが、夕食の席で何もしゃべらなかったのは、しゃべり屋のシコが脱退したからと思われる。そのシコは92年に新ジプシー・キングスとして独立したかったのだが、名前の使用に関して訴訟沙汰にまでなり、結局「シコ&ジプシーズ」となった。しかしこの新バンドはジプシー・キングスのレパートリーを演目とするので、一般の人は「ジプシー・キングスなんじゃないの?」とどうでもいいような反応だった。音楽業界およびメディアへのハバの効かせ方の違い、言わばシコの政治力の違いで、シコ&ジプシーズは本家ジプシー・キングス(ニコラ・レイエス&トニノ・バリアルド)を凌駕してメディアと世界市場に露出して、ジプ・キン演目+古今東西有名曲のルンバ・フラメンカカヴァーという商業路線で成功していく。
唐突にブライアン・ジョーンズを引き合いに出す。私は熱心なファンではないし、のめり込んでストーンズを聞いたこともない人間だが、ブライアン・ジョーンズに関しては良い印象がない。それはミュージシャンとしての資質よりも、マネージメントおよびリーダーシップに長けた人物として最初期ストーンズの看板だったからであり、音楽よりも「政治」をやっているタイプという印象である。これはシコ・ブーシキと全く重なる点で、カンテ・ホンドのしぼりあげるようなヴォーカルもなく、超絶ギターラ・フラメンカのテクニックもなく、非ヒタノ人の分際でジプシー・キングスのフロントマンでありよくしゃべる。ブライアン・ジョーンズが初期ストーンズの顔だったように、シコ・ブーシキはジプシー・キングスの顔だった。なんで?と思う。
話は飛んで、この7月ラティーナに「サン・トロペの60年代の栄華と退廃」について記事を書いて、その関連でこのブログにも「プリティー・シングスとサン・トロペ」という記事を載せた。その舞台になったのがサン・トロペ半島の南側のビーチ、パンプロンヌの浜辺のクラブ・レストラン「レピ・プラージュ」で、60年開店のこのクラブの最初からの常連にブリジット・バルドーがいた。このクラブのスタッフのひとりで2年間(長い!)にわたってバルドーの恋人だったボブ・ザギュリーが制作したテレビ番組「ブリジット・バルドー・ショー」(1968年1月1日放映)に、バルドーが「ギターのピカソ」と絶賛したマニタス・デ・プラータがバルドー邸(サン・トロペ、ラ・マドラーグ)で彼女の目の前で弾くシーンがある。ブリジット・バルドーはカマルグのジタン音楽の有名人ファン第1号であり、マニタスのプロモーションに大きく貢献したのだが、10年後その甥っ子たち(+α)の楽団ロス・レイエス→ジプシー・キングスもバルドーのサン・トロペの宴には欠かせないものとなり、バルドーによって中央メディアの知るところとなったのだった(写真1978年、サン・トロペのバルドー&キングス)。
(リベ記事の一部)閑話休題。今度のリベラシオンの記事で知ったシコ・ブーシキに関する意外な事実。モロッコ人の父とアルジェリア人の母の間に生まれたシコにはアハメドという名の兄がいた。アハメドはノルウェー人女性と結婚して(94年冬季五輪の町)リレハンメルに住み、レストラン給仕として働いていた。それが1972年のある日、身篭った妻の目の前でアハメドはイスラエルの秘密警察モサードによって殺害されてしまう。人違い! モサートはアハメドを、ミュンヘン・オリンピック人質事件の首謀者でパレスチナテロ組織「黒い9月」のリーダー、アリ・ハッサン・サラメと混同したのだった...。この事件に深く衝撃を受けたシコは、後年(有名になってから)ユネスコを通じて中東和平・イスラエル/パレスチナ紛争解決にコミットした活動を積極的に行うようになり、1994年にはノルウェーで開かれたオスロ合意の1周年記念式典において、シコ&ジプシーズはシモン・ペレスとヤセル・アラファトの前で歌ったのであった。この平和活動を讃えられて、2016年シコ・ブーシキはフランソワ・オランド大統領からレジオン・ドヌール勲章を受けている(上写真)。
1978年のある日、ギター商人から紹介された仕事でパンプロンヌのレストランの誕生日パーティーで演奏することになった。行ってみたらそれはバルドーのパーティーだった。パリジアン紙のインタヴューでシコ・ブーシキは「それは最高のパーティーだった。彼女は踊り、歌い、ジタン音楽を褒めちぎった」と語っている。次の日、彼女はバンドを自宅ラ・マドラーグに招き、ひとりのジャーナリストがそこで取材していた。バンドは彼女と一緒に写真に写り、そこから彼らの成功物語は始まった。「40年前、誰も俺たちのことを真に受けなかったのに、彼女は知り合いすべてに電話しまくり、このバンド最高よ、と喧伝したんだ」(シコ・ブーシキ、ラジオRMCでの発言)
リベ記事は皮肉を込めてバルドー、ペレス、アラファト、オランドに目をかけられるとはタダモノではない、と結論するのだが、 どんなものか。音楽的成果は「ジョビ・ジョバ」、「バンボレオ」、日本のテレビ主題歌、CM、「空耳」ネタにとどまっているのじゃないですか?
(↓)ジプシー・キングス 「ジョビ・ジョバ」(ライヴ1990年USA ツアー)
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