2023年7月16日日曜日

追悼ジェーン・バーキン/その極私的日記(1/2)を読む

2023年7月16日、ジェーン・バーキンがパリの自宅で亡くなった。76歳だった。
この女性を語ること、それはかつて私たちには「セルジュ・ゲンズブールの」という枕詞なしにはできなかったのだ。それがジェーン・Bというひとりの女性像として確かに把握できるようになったのは、2018年10月とその翌年10月に発表されたジェーン・バーキンのプライベートな日記の上下巻800ページが暴き出した”生きざま”によってだった。「ゲンズブール史の一部」として限定されるわけのない、自由なエゴと共に不安定に紆余曲折してきた生身の女性の記録、それは必ずしもすべて正直なものではあるまい。日記とはそういうものだろう。私はこの上下巻に魅了され、雑誌「ラティーナ」にそれぞれ3ページずつの紹介記事を掲載してもらった。もう一度この女性の生きた軌跡を(ゲンズブール絡みでない多くの部分を含んで)知っていただきたく、追悼の意をこめて、ここに再録します。ジェーン、安らかに。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2018年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ジェーン・バーキンの極私的日記を読む(1)

 イギリス出身の女優・歌手ジェーン・バーキン(1946― )が、11歳の時から断続的に書き続けてきた極私的日記を(書き直しなしで)整理編集、自らフランス語翻訳して発表出版、題して『マンキー・ダイアリーズ』。マンキーとは少女の時に縁日くじ引きで当てた猿のぬいぐるみ人形の名前で、日記の告白相手となった。それは少女時代から大人になってさえもいつも寝床に一緒にいてくれないと眠れないフェティッシュで、旅先にも必ず持っていった。103日に刊行されたその第1巻は、1957年から1982年までの日記を集めたもの。ロンドンでの少女時代から、18歳で女優デビュー、20歳で映画音楽作曲家ジョン・バリー(007シリーズの音楽)と結婚、女児ケイトを出産後離婚、フランスに渡りセルジュ・ゲンズブールと邂逅恋仲に、その後ろ盾でフランスで歌手・女優として大成功、シャルロット出産をはさむ12年の愛情生活が1980年に破綻、映画監督ジャック・ドワイヨンと新生活、女児ルーを出産するところでこの第1巻は終わっている。来年出版予定の第2巻はそこから2013年の長女ケイト・バリーの謎の死(事故説と自殺説あり)までが収められる予定で、バーキンはケイトの死で日記の役目は終わったとして、その後は全く書いていない。

 映画と音楽のスターであったジェーン・Bの私生活は隠されていたわけではなく、私たちは芸能誌などでかなりスキャンダラスな部分まで知っている。それはとりわけゲンズブールの「生涯の女性」として、その1991年の死の頃から世界的に高まったゲンズブール評価によっても大きくクローズアップされた。わずか12年のカップルであったが、言わば「世紀のカップル」のような神話化が進行した。そのため、メディアがこの女性を語るときどうしても「ゲンズブール史の一部」という限定がついているように思えてしまう。その死から年月が経てば経つほどエスカレートする神格化にともない、彼女はその最重要証人としてその生涯と作品を繰り返し繰り返し語っていくしかない。2016年から始まった、中島ノブユキを編曲者・音楽監督とする「バーキン/ゲンズブール・シンフォニック」の世界ツアーが大成功で今日も続いているのを見るにつけ、この女性は死ぬまで「ゲンズブールのミューズ」であり続ける運命を背負っているは間違いない。しかし人間ジェーン・Bはそれだけに集約されるわけではない。たぶん私たちはこの日記で初めて人間ジェーン・Bに接しているのである。主語「私」がジェーンである人間に。

 自ら定めた編集方針では、原文の英語からフランス語に翻訳はしても、シンタックス・エラーや不適切な表現があっても訂正や書き直しはしない、としている。現在(2018年)のバーキンからの補足と注釈は別書体印刷で付記されているものの、本文はリアルタイムでその時・その場での肉声なのである。12歳の少女は不安で、意地悪で、嫉妬深く、コンプレックスがあり、大人を呪ってみたりするのである。18歳の無鉄砲な娘は、15歳年上で離婚歴も子供もある作曲家ジョン・バリーとの結婚がどんな不幸になるものかなど全く予想していない。日記の現在地点の視点は未来から修正されることはできない。間違いも非合理もどうすることもできない。

 ロンドンでの少女時代とワイト島での寄宿学校生活などを読み進めていくうちに否応なく了解されるのは、この小ブルジョワ家族の絆の強さである。第二次大戦中イギリス海軍の士官としてイギリス南岸とブルターニュ半島を往復してフランスのレジスタンスを支援した父デヴィッド・バーキン(1914-1991)はその戦傷が後を引き、何度も入院と手術を繰り返すのだが、この父へのジェーンの思いは後年のゲンズブールへの思いと等価できるほどの厚みがあり、この日記の第二部で読むことになろう19913月にたった5日の間を置いて相次いでこの世を去ったゲンズブールと父デヴィッドの死の衝撃は想像を絶する。母である女優ジュディー・キャンベル(1916-2004)には、自分が女優になる上でコンプレックス絡みの複雑な感情もあった。少女の頃妹のリンダには、姉の自分に比べて何でもうまくでき、自分には許されないことも何でも許されている、というジェラシーがあった。学業成績だけでなくアート全般に長けた兄アンドリューは、一生に渡ってジェーンの守護者兼スーパー助っ人となる。この一家は彼女が家を出てからも、ロンドン、パリ、ヴァカンス地、女優ジェーンの外国のロケ地などに集まって、幸福な家族の時間を過ごすのである。それは父親の違うジェーンの二人の娘ケイトとシャルロットが加わっても事情は同じで、バーキン家の結束は堅固そのものである。

 ゲンズブール絡みの興味で読み始めた読者には、第1巻の3分の1の少女からハイティーン時代の稚拙で感覚的で非論理的な文章は興味を殺がれるかもしれない。それでも1963年、エディット・ピアフが死んだ時、たまたま語学研修合宿でパリに来ていたジェーンの民泊したアパルトマンがピアフ邸の隣で、訃報を聞きつけてやってきた報道陣や有名人たちで大混雑の隣家の前で、無名イギリス人少女ジェーンが報道陣からフランソワーズ・アルディに間違われて取材を受ける、というとんでもないエピソードも見つかる。

 奥手のハイティーンだったようだ。初めての重要な恋関係はジョン・バリーという15歳年上の有名作曲家、それがそのまま結婚、出産へと発展した。後年のゲンズブールとは22歳の年の差。年齢差と社会的上位に基づく権威的で教育的で支配的な男に傅く傾向があったということか。1966年ミケランジェロ・アントニオーニ監督映画『欲望』(67年カンヌ映画祭パルム・ドール)での全裸演技(当時としては大スキャンダル)で少し脚光を浴びたバーキンだったが、新人女優の将来は不安定だった。ダンディーにして既に作曲家として映画界の重要な地位にあったバリーは、精神的職業的不安定を一時的に解消することにはなるのだが、不在の多い夫であった。当時の日記の文面は彼女の旺盛な性的好奇心を隠せない。この性的冒険欲は、同好者にしてその道一流の通人であったゲンズブールによって大きく開花することになる(68年に色街ピガールの安宿での体験エピソードあり)が、その愛はもちろん性的魅力のみによって燃え上がったものではない。


彼は甘く優しく強く、官能的で性的な素晴らしさを持ち合わせているけれど、私は単なるセクシーな男以上のたくさんのものを持っていて、輝きがありユニークだと感じている。もしも彼を失うとしたら、私がこれまで失ってきたすべてのものよりも大きな損失となる。なぜなら私はこれほどまでに満たされた感覚を今まで持ったことがなかったのだから。これは真実の愛であり、私は自分がとても強くなった。私たちはお互いを補っていると思う。ジョンと私がお互いを破壊しあっていたのとは逆に。
19701月の日記。『マンキー・ダイアリーズ』p139-140

 その「真実の愛」は1968年から81年まで続く。映画女優ジェーン・バーキンはフランスで開花し、ゲンズブールというパートナーは彼女を第一線のヒット歌手にもしてしまう。そのデビューに冷ややかだったイギリスを後にして、ジェーン・Bはフランスで真実の愛と確固たるアーチスト(女優・歌手)の地位を得た。それはすべてゲンズブールが与えたものと言われるかもしれないが、それは徐々に重苦しいものとなり、12年後には耐えられなくなる。しかしその破局まで、この世紀のカップルはほとんど夢のような素晴らしい日々を送るのである。パリ7区ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸を本拠に、セルジュ、ジェーン、ケイト、シャルロット(71年生まれ)の4人家族は円満で笑いが絶えなかった。特にこの日記で描かれているゲンズブールの良きパパ、良き家長ぶりには驚かされる。家族キャンプで自転車やボート遊び、さらに自炊などに奮闘するゲンズブールの姿がジェーンのイラスト入りで描かれる。イギリスのバーキン家ともフランスのギンズブルグ家とも調和的な関係が築かれ、破天荒というパブリックイメージとは程遠いゲンズブールであった。

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5月、シャルロットを身籠った体で映画『ガラスの墓標』のプロモーションのためにゲンズブールと共に日本を訪問、この時の日記分量は6ページに及び、エキゾチックな描写が続くが、日本は遠い国だったのだ、と改めて思う。その2ヶ月後にジェーン・Bはロンドンの病院でシャルロットを出産するのだが、新生児に原因不明の黄疸症状が現れパニックに陥る。その時の日記の補足説明文に「目が細くて真っ黄色だったのを見て、2ヶ月前にセルジュと私が日本を旅行したせいだと思った」(前掲書 p176)という記述あり。ジェーン・Bにしてこのようなレイシスト・ジョークを発するものなのか。
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年夏の終わり、ブルターニュからパリに帰る途中、ゲンズブールは思いつきで、戦争中に(ロシア系ユダヤ人の子ゆえ)匿ってもらっていたサルト地方の農家に寄りたいと言いだす。12歳で絵の上手い少年だったリュシアン・ギンズブルグの痕跡を約30年後に見つけられるか。場所が近くにつれてゲンズブールは興奮しだし、ここはこうだった、あそこはどうだった、とジェーンに解説していく。そして件の農家に着いた時、大きな家という記憶があるのに、実際は小さなものであることに驚く。あの窓から隣家に住む19歳の娘が髪を解くのを見ていた。絵がうまいということで、入り口に自分の絵を貼ってもらっていた村の教会。そんな記憶が蘇るのだが、今住んでいる人に聞くと当時の家主も住人もいなくなったり、死んでしまったりで。「俺、リュリュなんだけど、憶えてないですか?」と聞くも虚し。時も人も移ってしまう。途方もない寂寥がゲンズブールを襲い、それを見ていたジェーンがこの悲しい午後を日記で記録する。私にはこれがこの第1巻で最もエモーショナルなパッセージであり、ジェーン・Bの眼差しの暖かさが感じられる日記文も胸に迫る。

 
 この本のちょっとした暴露部分として、出版時にフランスの芸能各誌で話題にもなったことだが、ゲンズブールは3ヶ月も風呂に入らないと記されている。汗をかかない体質だそうで、洗面台やビデなどを使って少量の水分で体を洗うことはあっても、浴槽はめったに入らない。しかし清潔さは申し分ない、と。

 心臓疾患で何度病院に収容されても、タバコもアルコールもやめない。ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸の一階サロンは、マニアックに博物館化されていて、そこにあるものは配置を変えることも触ることもできない。79年ジャマイカ録音アルバム『オ・ザルム・エトセテラ』でゲンズブールは13枚目にして初めてチャート1位、プラチナ・ディスクを獲得、ヴィクトワール賞を総なめ、さらにフランス国歌ラ・マルセイエーズのレゲエ版のため極右団体から抗議と脅迫を受けるというスキャンダルも起きた。それまで音楽的にはバーキンの影に隠れていたのに、ここで一挙にゲンズブール・スーパースターが誕生する。暴言、奇行、極度のアルコール依存、ゲンズブールの「ガンズバール化」(ジキルとハイドに模した悪の別人格)はこの頃から顕著になり、家庭内でも暴力的・暴君的になることもあった。

 日記はそれと同時期の事件として、ジェーンのお抱えヘアメイク担当で彼女のすべての映画撮影現場に同行させていた腹心の友アヴァの突然の病死の衝撃に多くのページが割かれ、死後何度も夢の中に現れるこの女性への断腸の哀惜が綴られる。ジェーンではもうコントロールが難しく、健康など全く意に介せず暴走をエスカレートさせるゲンズブール、そして消えることのない失った親友への思い、79年から80年の日記は自らの死をも喚起させる暗さが支配的になる。成長して難しくなる娘たち、父デヴィッドの度重なる入院、いろいろなものがひとつのカタストロフに向かって渦巻き上がっていくような日々の中で、79年夏、ジェーン・Bは同世代(2つ年上)の若手映画作家ジャック・ドワイヨンと出会っている。日記は彼女の情動の高まりを隠せないし、セルジュへの愛は揺るぎないものとしても、この別の強いセンセーションを失いたくない。虫の良い話だが、ジェーンB
はゲンズブールとドワイヨンとの調和的な三人の関係というのはできないものだろうか、と苦悩する。ドワイヨンもまた苦悩しながらジェーンを熱愛する

 この日記本第1巻の大詰めにして最大の山は809月、ジュリアン・クレールとセルジュが録音していたスタジオから、ひとりジェーンが抜け出し、タクシーを拾ってパリ右岸のノルマンディー・ホテルに部屋を取り、そこから電話帳でドワイヨンの名を探し、当てずっぽうでかけてみる。

最初に出た相手はご婦人で、私はジャック・ドワイヨンという人をご存知ありませんか、と尋ねた。すると彼女はそれは私の息子ですと答えた。私は彼がどこにいるのか知りたいのですが、と言うと、ご婦人は今私の横で眠っていますよ、と。これがおしまいであり、これがはじまりでもあった。(前掲書 p334

 「真実の愛」はこの夜、いったん壊れてしまうのであるが、日記第1巻の最終部はこの夜からたった1年後既にセルジュとの復縁(同じような関係はもう持てないと知りつつも)を願う述懐が綴られている。そしてお腹の中にはルー・ドワイヤンが宿っている、というところでこの本は終わる。

 芸能伝記本にありがちな脚色や修正を一切排したジェーン・Bのリアルな過去、葛藤も矛盾も邪気もそのまま曝け出した日記、私はこの人が本当に好きになった。

(ラティーナ誌2018年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)『マンキー・ダイアリーズ』発表時、ボルドーのMollat書店のインタヴューに答えるジェーン・バーキン。愛犬ドリーも出演。


2023年6月30日金曜日

(たぶん)あなたの知らないヴェロニク・サンソン

Revue "SCHNOCK" No47
Véronique Sanson
季刊ムック『シュノック』第47号
ヴェロニク・サンソン
(2023年6月7日刊)


「27歳から87歳までの老人雑誌」を標榜する季刊ムック『シュノック』(2011年創刊、発行部数7000)は、毎回アーチスト/芸能人/著名人を俎上にあげて、芸能誌とは異なる老人的な斜に構えたエディトリアルであれこれ様々な角度から照射していく、図版多数のかなり厚め(今号も180ページ)のカラー印刷で、お値段16.50ユーロの高級雑誌。執筆陣はリベラシオン紙、テクニカート誌、パリマッチ誌、フランステレヴィジオン、ARTEなどでも活動しているジャーナリストや文筆家など。今号のヴェロ特集では、既に数冊あるヴェロの伝記本の著者たちや芸能/音楽ジャーナリストたちよりも、はるかに多くのヴェロ情報を持っているであろう、ヴェロファンジン"Harmonies"(紙版は1979年から1984年、その後インターネットサイトSNSで復活)の主宰者であり、ヴェロのアメリカ滞在時代(1973 - 1980)を特化して書籍化した”Véronique Sanson - Les années américaines"(Grasset社刊 2015年)の著者でもあるローラン・カリュ(Laurent Calut)がインタヴュー/執筆/監修で関わっているので、内容的には信頼できるはず。
 さて、ヴェロニク・サンソン(1949 - )については今さら紹介する必要はないと思うが、1972年アルバム"Amoureuse"で世界に衝撃を与えた(フランス初の本格的)女性シンガーソングライターであり、今日まで16枚のスタジオアルバムを発表してすべてトップクラスのセールスを記録している。私を含め多くのファンにとって、その音楽性と創造性の高さの頂点は1972年の2枚のアルバム、すなわち"Amoureuse"と”De l'autre côté de mon rêve"にあり、それをプロデュースした(当時公私とものパートナーだった)ミッシェル・ベルジェ(1947 - 1992)との共同作業が生んだ2枚の傑作アルバムを超えるものはない。で、音楽的にも”人生ドラマ”的にも、そのピークは72年/73年なのであり、ベルジェ/サンソンの愛情の結晶のような2枚の傑作アルバムの制作中に米ロックのスーパースター、スティーヴン・スティルス(1945 - ) との電撃的恋愛、録音スタジオから「タバコを買いに行ってくるわ」と出たきり、二度とベルジェの前に姿を現すことなくアメリカに行ってしまい(これは尾鰭のついた伝説)ロックヒーローの妻に...。そこから後の話がまた伝説化するのだが、大失恋に打ちひしがれたベルジェと、沖からの呼び声に抗じきれずにベルジェとフランスを去ったサンソンの世にも稀な”相思相愛”関係は永遠に消えることなく、サンソンに続いてWEAからシンガーソングライターとしてアルバムを発表するようになったベルジェのその多くの歌は、名指されれないサンソンへの個人的メッセージ(message personnel)であり、サンソンはアメリカにいてそのベルジェの歌メッセージにひとつひとつ(名指されない)アンサーソングを書いて発表していた、と。ベルジェが”Seras-tu là?(来てくれるかな?)"と歌って問えば、サンソンが"Je serai là(いいとも)”と歌って答える、という具合に。この"静御前と源義経"ストーリーはとりわけ1992年のベルジェの急死の後からサンソンが展開し始めるのだが、20年間妻として二児の母として音楽パートナーとして寄り添って突然未亡人となったフランス・ギャル(1947 - 2018)にしてみれば、たまったもんじゃない話であった。
 サンソンの伝記および評伝の著作と音楽誌や芸能誌の特集などでは、この「サンソン/スティルス」伝説と「サンソン/ベルジェ」伝説のことばかりがページ数を取ることになる。しかし『シュロック』サンソン特集はこの伝説の信憑性にメスを入れる。あたかも青天の霹靂のような電撃恋愛のせいで後先考えずにスティルスに靡かれるままベルジェを捨てアメリカに行ってしまった(そしてそれを後悔した)激情的におろかな女と描かれてきたこのストーリーを、50年後(正確には51年後)もう一度時間軸的に検証し直す、という”La véritable histoire du départ en Amérique(サンソン渡米の真相)"と題された6ページ記事を、前述のローラン・カリュが入魂の執筆。その後はフランスで大スターと化していくサンソンとベルジェであったが、1972年当時はサンソンはファーストアルバムで(ちょっと)注目された駆け出しの女性シンガーソングライター、ベルジェは一般的には無名の音楽プロデューサー、当時の芸能マスコミが追いかけているはずがなかった。その手の資料が希薄ななか、ヴェロ本人、姉のヴィオレーヌ、渡米の飛行機代を貸したとされる歌手のニコレッタ、当時のレコード会社WEAの関係者などの50年前の曖昧な記憶の証言をもとにサンソンとスティルスの出会い(1972年3月、WEAフランスの社長室)から、サンソンの実際の渡米(これが特定できずにいたが、ようやく1973年2月とほぼ断定)まで1年近い月日があったということ。この間にサンソンはセカンドアルバム"De l'autre côté de mon rêve"をベルジェのプロデュースで録音、WEAのスタッフたちはこのセッションにスティルスのギター参加をと画策、サンソンとベルジェの間には別れる/別れないの躊躇の行ったり来たりが....。姉ヴィオレーヌは1972年12月に結婚していて、その結婚式にはヴェロニクとミッシェルがカップルとして列席している。だからサンソンとベルジェは、スティルスの登場(しかも強引で執拗なプロポーズの連続)で瞬く間に破局したわけではなく、その結論を出すには何ヶ月もの月日を費やしたのだ、と。特記すべきは、当時のWEAのスタッフたちはこぞってスティルスがサンソンを射止めることに協力的であり、ミッシェル・ベルジェを「まあ、まあ、まあ、まあ...」と引き止める役を演じていたようなのだ。”企業として”なんだろうか。ショービズ界の感覚からすれば、(弊社の)駆け出しの女性アーチストが世界的スーパーロックスターとくっつけば、世界的名声と売上が、とフツーに考えたんでしょうね。いやだいやだ。スティルスとサンソンを引き合わせるという’コトの発端’をつくった張本人が当時のWEAの社長ベルナール・ド・ボッソン(1935 - )であるが、この『シュノック』では特集の最後に16ページに渡るインタヴュー記事があり(後で触れる)、その社長室でスティルスにサンソンとの結婚に反対して、スティルスに力ずくで猿ぐつわをかまされるという目にあっている。

(→)これが1972年のセカンドアルバム"De l'autre côté de mon rêve"のジャケであるが、サンソン自ら評するに「おぞましい黄色のサボと死人のような顔」の写真は1972年夏のツアー(ジュリアン・クレール、ピエール・ヴァシリウ、イヴァン・ドータンなどの一座)の途中で、南仏ラングドック地方のアグドにあるピエール・ヴァシリウの家で撮影されたもの。その「死人のような顔」は前夜のヴァシリウの家での地獄のような乱痴気パーティーのせいだ、と。それに続くエピソードがヴェロ自身の口から;

でもその日次のツアー目的地マノスクに向けて出発しなければならなかった。ピエールは愛車ポルシェを持っていて、ひとりだけで車で行くのいやだったから私に同乗してと頼んだの。みんな疲労困憊していて、二日酔いの顔してたから、私はピエールに言ったの「(マノスクの)劇場が燃えちゃったらどんなにいいだろうね!そうよ、みんなで劇場が火事になるよう祈ろうよ。」そしてマノスクに着いたら... 劇場が火事に遭ってたの!コンサートは中止だって。私たちは、まさか、と信じられなかった。幸いにして劇場は炎で焼け落ちたわけではなく、ボヤで済んだんだけど。みんな仰天したわよ。それ以来、私は二度と’劇場火事呪い”を試そうとはしなくなったんだけど、でもね、そうなってほしいと思ったことは何度もあるわよ。
(『シュノック』No.47 p29)
(←サンソン、ヴァシリウ、ジュリアン・クレール、1972年夏)(↑)このサンソン自身の『シュノック』インタヴューも他の芸能誌や音楽誌では見られない珍情報にあふれているし、他の証言者たち(姉ヴィオレーヌ・サンソン、ヴィオレーヌとヴェロニクと1969年にトリオ「ロッシュ・マルタン」を組んでいたフランソワ・ベルナイム、1981年にヴェロニクをスティルスから引き離しフランスに連れ帰った当時の恋人/ギタリストのベルナール・スウェル、息子クリストファー・スティルス、既出記事の再録だが母親の故コレット・サンソン、そしてヴェロをメジャーデビューさせた当時のWEA社長ベルナール・ド・ボッソン)もみな一風変わって非常に面白い。クリストファー・スティルスが道で人に呼び止められて「私、あなたのお母さんで大きくなったのよ」と言われ、それに答えて「僕もですよ」と返すあたり、『シュロック』ならではと思うよ。

 さてこの『シュノック』サンソン特集で、最も興味深くかつ衝撃的だったのが、特集最後部に掲載されたベルナール・ド・ボッソンの16ページに渡るロングインタヴューだった。(→写真1973年ベルナール・ド・ボッソンとスティーヴン・スティルス) 元ジャズ・ピアニスト、典型的なセルフメイドマンで、自己流でポリドール、バークレイのA&Rを経て、1969年パリで出会ったアーメット・アーティガンに見初められ(この時同時にスティーヴン・スティルスとも邂逅し親友になっていく)、1971年アーティガン指名でWEAフランスの社長に。
 その71年夏、社長室にはアメリカ本社から二人の経理担当者が来て「繰越税金」の処理について頭の痛い話を長々と。そこへジャン=ピエール・オルフィノ(制作ディレクター)から電話「ベルナール、緊急だからすぐに来てくれ」。

「ジェントルメン、申し訳ないが、レコード会社のボスとしての仕事が入ってしまった。続きは今夜夕食の時に」と私は退席し、ワグラム大通りの見たこともないような汚いスタジオに。中庭の奥の奥に、まるで庭の奥の小屋(訳注;田舎家の便所)のようなところがあり、私は中に入った。真っ暗だ。私はキャビンの中にたどり着いた。真っ暗だがVUメーターだけがほのかな灯りを放っていて、私はシルエットでミッシェル(ベルジェ、WEAの新任制作ディレクター)とオルフィノがいるのがわかった。そこには鏡があるのがわかったがほかは何も見えなかった。(ベルナール・ボッソンは感情の昂りのため、しばし言葉を詰まらせてしまった)... すまないね。これを話すといつもこうなってしまうんだ。(彼は大きく深呼吸して、目を輝かせた)... 私は何も見えなかったが、ピアノの音が聞こえてきた、続いて歌声が、その瞬間、私は涙で崩れてしまったんだ。私は自分の名前を思い出せないほど衝撃で打ち砕かれてしまった。それは女の声だった、それは確かだ、だがその女が大きいのか小さいのか痩せているのか太っているのか年寄りなのか若いのか美しいのか醜いのか、私には何もわからなかった。この声を聞いただけで、私は涙が止まらなくなってしまったんだ。私は人生でこれと同じエモーションを一度だけ経験したことがあった、それはそれより10年前、パレ・デ・スポールでレイ・チャールズを見た時だった。彼がひとりピアノに向かい”Come rain or come shine"を歌い始めた瞬間、崇高さの極み、ブン、ナイフのひと突きさ。私はその時と同じ体感を覚えたんだ、ヴェロが「アムールーズ」を歌うのを初めて聞いたとき!私はむしり取られる思いがした。私の人生すべてにおいて、私はこうやってエモーションに正直に従ってやってきたんだ。私は二人の野郎の手を握りしめ、「おまえら、この女と契約しなかったら、俺はおまえらを殺すぞ!」と言ったんだ。ヴェロニク・サンソンの件はこうやって始まったんだ。そして私は彼女に話しかけることも顔を見せることもせずに立ち去った。彼女と対面するのはその1ヶ月半のことだった....。(p106)

読んでわかるように良い意味で昔かたぎのレコード会社社長気質、つまり惚れたアーチストとの音楽冒険に”賭ける”タイプ。21世紀以降もうこんな社長いないですよ。ボッソンのインタヴューではサンソンだけでなく、ミッシェル・ベルジェ、フランス・ギャル、ジャン=ジャック・ゴールドマンなどのエピソードも登場する。しかしこの特集なので、当然サンソンとスティルスの話がメインになる。69年以来の旧知であるスティーヴン・スティルスは、72年3月ボッソンの社長室で初めて(発売前の)サンソンのファーストアルバムを聴き、
「こんなものこれまで聞いたことないよ!世界でこんなふうに歌える女、どこにもいないさ!」と言ったので私は言い返して「おいおい、興奮するなよ、おおげさだよ、世界にはジュディー・コリンズもジョニ・ミッチェルもいるじゃないか」と。そしたら「俺はそのふたりとは暮らしたことがあるんだ!」...(p108)

笑っちゃう話である。72年3月27日、スティルスのバンド、マナサスのパリ・オランピアでのコンサートの翌日、ボッソン社長室でスティルスとヴェロニクは火花散る電撃の初対面、スティルスはテックス・アヴェリーアニメの目玉をハート型にして吠えるオオカミのようだったとボッソンは表現している。そこからの狂気のラヴストーリーはもう詳説しなくていいと思うが、ボッソンはそれを近距離から見ていてむしろ後押しをしてような印象があるが、結婚には強硬に反対していた。親友同士だったスティルスとボッソンがこの結婚の件で諍いになり、前述したように社長室でボッソンのネクタイで暴力的にボッソンに猿ぐつわをかませるという結果になっている。スティルスは身内で唯一結婚に異を唱えたボッソンとその後絶交状態になる。1987年3月、ボッソンはWEAフランス社長を解任され、その最後の出張でニューヨークに飛び、ミュージカル『レ・ミゼラブル』(作曲演出クロード=ミッシェル・シェーンベルグ)のブロードウェイ初演に立ち会う。ショーが終わりホテルに帰ると、「Please call back Mr Stephen Stills」のメッセージ。ボッソンはロサンゼルスにいるスティルスに電話する。1973年以来初めてふたりが口を開く。
「ベルナール、あんたが社長職を去ると聞いたよ。俺がずっとあんたのことを思っていたということをあんたに知って欲しかったんだ。あんたにずっと前から言いたかったことがあるんだけど聞いてくれるかい? You have been the only one to have the guts to tell us that it was a real mistake to get married together. そのことで俺はあんたに感謝したかったんだ...」(p111)

いい話じゃないですかぁ...。このボッソンの16ページを読めただけで、この『シュノック』サンソン特集はたいへんな価値を獲得したのでありました。

(←)2018年7月、ラ・ロッシェルの「フランコフォリー」フェスティヴァル(ヴェロニク・サンソン+スティーヴン・スティルス+クリストファー・スティルスのおそらく最後の共演ステージが実現)の楽屋でのスティルス、サンソンとベルナール・ド・ボッソン。(写真ローラン・カリュ)

(↓)その時の演奏シーンが少しだけこのYouTube動画に(2分43秒めから3分07秒まで


2023年6月19日月曜日

(ストーン)返事はいらない

Fred Vargas "Sur La Dalle"
フレッド・ヴァルガス『天井岩の上』


の500ページ超の長編推理小説を、私は6月5日から14日まで9泊10日のアンブロワーズ・パレ病院入院中に読み通した。この読書体験はたくさんの管に繋がれた病床環境と医療スタッフたちの顔々と共に記憶されることになろう。フレッド・ヴァルガスの大人気アダムスベルグ警視シリーズの第10作目であり、この5月17日の発売以来、書店ベストセラー第一位を独走中である。同警視シリーズ前作の『毒糸蜘蛛が出るとき(Quand sort la recluse)』(2017年、ちなみに爺ブログ紹介記事によると、私はこの本を今回と同じように治療入院中に読んでいる!)ではアダムスベルグとその一課が毒蜘蛛連続殺人事件を追ってオクシタニア/ラングドック地方に赴くのだが、新作は神秘の地ブルターニュ地方イル・エ・ヴィレーヌ県(県番号35、県都レンヌ)が舞台である。昨年秋わが娘がレンヌに移住したので、このブルターニュの一角はとても親しみを感じるようになっている。(↑)本の表紙写真を見ていただきたい。ブルターニュ一帯で多く見られるドルメン(数千年前の巨石墓)である。
西ヨーロッパに見られる支石墓は、ブルトン語でdolmen(ドルメン)という。フランス・ブルターニュ地方に多く見られたことから、当地のブルトン語で「石の机」を意味するdol menを語源としている。(日本語版ウィキペディア「支石墓」項)

この岩の支え脚の上に乗った「机」の部分にあたる平たい岩が本小説の題である”la dalle"である。私はとりあえず「天井岩」と訳したが、こんな日本語はない。この小説の中で、われらがアダムスベルグ警視は、推理に行き詰まるたびに、このドルメンの「天井岩」の上に横たわり、瞑想にふけると、おぼろげなヒントがひとつ、またひとつと脳内に湧き上がってくる、というストーンエイジの叡智との交感体験のような... 。

 さて舞台はイル・エ・ヴィレーヌ県の県都レンヌとモン・サン・ミッシェル観光の起点の海浜城壁都市サン・マロのほぼ中間にあるコンブールという文豪シャトーブリアンの城で有名な観光地(実在します)、そしてそこから9キロ離れた人口数百人の村ルーヴィエック(Louviec、架空の村)であり、後者の村で起きた連続殺人事件の捜査でアダムスベルグ一課(の一部、IT検索の超人メルカデ、怪腕武闘女性刑事ルタンクールなど)がパリから送られてきたという次第。最重要ファクターのひとつがフランス文学史上の大偉人にしてフランス・ロマン主義の先駆者フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(1768 - 1848 写真→)である。私も1970年代に仏文科生だったので、『アタラ』『ルネ』という代表作の名は知っているが一度も読んだことがない。それはそれ。登場人物にジョスラン・ド・シャトーブリアンという名の文豪の末裔がいて、観光名所となっているコンブール城には住んでおらず、ルーヴィエックに住居を持つ”一般市民”であるが、その顔立ち容姿がかの文豪と瓜二つなのである。ルーヴィエックの町長はこれに注目し、収入面で恵まれなかったジョスランに19世紀風コスチュームを着させ髪型顔のつくりを文豪に似せた化粧をほどこし、町の由緒ある旅籠屋レストラン「オーベルジュ・デ・ドゥー・ゼキュ(Auberge des Deux Ecus)」にホストとして雇い、レストランに訪れる観光客たちに接待させ、文学談義をしたり一緒に写真撮ったりのサービスをさせるのである。シャトーブリアンのそっくりさんがいるレストランという噂は広まり、この町の観光収入に大きく貢献することにあり、ジョスランは町の”公務員”として十分な収入を得るようになり、このシャトーブリアン演技も板につき、町の名士のレベルまで昇格する。
 一方シャトーブリアンの居城だったコンブール城には幽霊伝説があり、文豪の前に18世紀にこの城に住んでいたコエトクエン伯爵なる人物が戦場で片足を失い、棒状の木製義足をはめていて、"Boiteux"(ボワトゥー = ”びっこ”)領主と呼ばれていたが、その幽霊が今もコンブール城に徘徊し、棒義足が石床を打つコツコツという音が聞こえるというのである。この噂はしばらく(14年間)途絶えていたが、最近になってまた聞こえ始めた、と。
 そうでなくてもさまざまな伝説や迷信がごまんとある神秘の地ブルターニュの深部で、こういう幽霊伝説に影響される人々は多い。この小説の中でもうひとつまことしやかに流布されている迷信として登場するのが「影踏み」である。人の影の頭部や心臓部を踏みつけにして、その人間を呪う”影踏み族”のような人種があり、またその被害者たちでさまざまな障がいを発症させた(と思っている)"影踏まれ族”の人々がセクト的に団結して、”影踏み族”撲滅のために戦う、という...。影踏みによる呪いって、世界中にあって、たぶん日本にもあると思う。それはそれ。
 ルーヴィエックのかの旅籠屋レストランで、常連客で口の悪い酔漢として嫌われているガエルという男が、町中のうわさのコンブール城の幽霊「ボワトゥー」の正体はおまえだろう、とジョスラン・ド・シャトーブリアンに喰ってかかり、罵詈雑言を浴びせる。ジョスランはそれを否定し、この言いがかりに取り合わない。このやりとりに隣のテーブルにたまたま居合わせたのがパリから遊びに来ていたアダムスベルグ警視とレンヌ県警の警視のマチュー。そして翌日パリに戻ったアダムスベルグは、このガエルがナイフふた突きで惨殺されたことを知る。これが「ルーヴィエック連続殺人事件」の始まり。
 事件現場にかけつけた医師が、まだ息のあったガエルの最後の言葉として聞き取ったのが、ジョスランが犯人であることをほのめかすような不明瞭な切れ切れの二言。使用された凶器はガイシャの体に刺されたまま残っていて、ジョスランが愛用している(レンヌの刀剣商で売っている)フェラン印のナイフ。ジョスランと同じ左利きらしい左側からの突き(実は左利きではないことがアダムスベルグが見抜く)。ジョスランには犯行推定時刻前後のアリバイがない...。などなどジョスランに嫌疑がかかるべき材料が次々に出てきて、もはやジョスラン逮捕でキマリ、と思われたが、土地の警視マチューもパリ警視アダムスベルグも、あまりにも簡単に条件が揃ったことに大きな疑問を抱き、厳密な法医鑑定でホシが左利きでないと知るや、これはジョスランを殺人犯として落とし入れる陰謀と断定、ジョスラン擁護に回る。マチューの直属の上司であるイル・エ・ヴィレーヌ県警長官は出世主義の俗物で、県警の手柄を即席にアピールするべくジョスラン逮捕を強要してくる。しかしこの事件は”国”も注視していて、内務省は国宝的文化遺産たる文豪シャトーブリアンに汚名を着せることはできるだけ避けたいという”文化保守”的立場に立ち、ジョスラン無実の可能性に賭けるべく、内務省命令としてパリ警視アダムスベルグを現地に派遣して事件の解決に充てる、と。
 ”国”が後ろ盾になって、ジョスラン・ド・シャトーブリアン無実を前提に捜査を、というのは公正さにおいておおいに問題あるのでは?と思うが、上からの干渉はこの小説でもかなりやっかいなものである。国の威信で”アダムスベルグ投入”を敢行したものの、それに真っ向から挑戦するように「ルーヴィエック連続殺人事件」は第二、第三、第四と犠牲者を出していく。同じフェラン印のナイフで左側から突き刺され、犠牲者の断末魔のセリフは犯人ジョスランを名指しているように聞こえる...。内務省のバックアップのおかげで、ヘリコプター10機、機動警官数百人を動員する大捜査を展開するも、犯人逮捕はならない。そりゃあ内務省も怒るわね。
さらに、このナイフ殺人と全く同じやり方で殺す別の容疑者が現れる。そしてこの土地で最も凶悪なギャング団が事件に絡んでくる。子供の頃からこの地方で(悪ガキというレベルを遥かに超える)極悪な犯罪を繰り返してきた、暴力と詐欺と地下経済の巨魁とその殺人エキスパートの子分たち。怪女レタンクールの超人的な腕力武術でその子分のひとりを逮捕するが、巨魁はその子分の解放を要求し、さもなくばアダムスベルグ本人を殺害すると脅迫。度重なるスナイパー攻撃にアダムスベルグ自身も危機一髪...。
 500ページの大著なので、小説はいろいろな方向にストーリーが拡散していくし、前作の”毒蜘蛛”の時のように生物考古学者でもあるフレッド・ヴァルガスの博識は、ノミ、ハリネズミ、犬の生態などのエピソードも専門クロート談義である。重要登場人物のひとりマエルは、奇形障碍(せむし)で生まれ、それによって幼少時から筆舌尽くしがたい心ないハラスメントを受けてきたが、教育者や医師たちはそれから解放されるには背中のコブを手術で取り除くしかないとマエルを説得する。だがせむしのコブとは、母胎内で双生児を形成するに至らなかったもうひとりの自分の残りである、とマエルは信じていて、このコブ摘出手術によって自分の双子の弟が失われたと思っている。手術によって外見は”ノーマル”化したが、過去に受けたハラスメントの記憶は決して消えない。そして手術によって”最愛の弟”を殺された恨みは甚大なものである。有能な会計士としてさまざまな企業の裏帳簿も知り尽くしているマエルは、自分を虐め尽くし、自分の分身を殺した社会への復讐を考えていた....。
 
 シャトーブリアンの時代のように中世と近世がいたるところに残っているブルターニュ。そして数千年の時を超えて立ち続ける巨石墓も。神秘の国ブルターニュのエッセンスはこの500ページの中にふんだんに盛り込まれている。アダムスベルグの捜査スタッフのミーティング場所兼食事どころのルーヴィエック随一の美食旅籠レストラン「オーベルジュ・デ・ドゥー・ゼキュ」のオーナー兼シェフのジョアンの味のあるキャラクター(ラモー/リュリー歌曲を朗々と歌うバリトン歌手でもある)と、その料理の数々も素晴らしい。そのジョアンがことあるごとにアダムスベルグとそのスタッフに振る舞うのが土地のリキュール酒「シューシェン(Chouchen)」である。かなりの回数ブルターニュを訪れている私ではあるが、この酒は知らなかった。水と蜂蜜の混合を発酵させた琥珀色のリキュールで、度は14〜18度、冷やして(だが氷は入れずに)クイっといきましょう。

 今回のアダムスベルグの推理の数々は、かなり根拠の薄い”想像”が進行していくと”図星”になっていくというパターンが多い。痛快に読めるのではあるが、推理小説の”決まり”には則していないのではないかな。なぜと聞かれるといつものように”je ne sais pas (わからない)"を連発するアダムスベルグ。曖昧模糊としたものをそのまま曖昧模糊のままにしながら。霊感を求めてドルメンの天井岩の上に太陽を浴びて寝転がり、瞑想する。いい図ですね。許してしまおう。
 なおフレッド・ヴァルガスは2017年の前作の小説『毒糸蜘蛛が出るとき』のあと、気候変動と環境問題に言及するエッセイ『危機にある人類(L'Humanité en peril)』(2019年)とその続編『危機にある人類・2(L'Humanité en peril 2)』(2022年)を発表して、にわかに行動的エコロジスト論客としてメディアに登場し、ラジカルな警鐘を鳴らすようになった。この新作小説でも気候変動に関連した部分がないわけではないが、かなり控えめである。なにかあったのかな。

Fred Vargas "Sur La Dalle"
Flammarion刊 2023年5月17日 510ページ 23ユーロ
 
カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)2024年9月、フランスTVでテレビ映画化された『天井岩の上で Sur la dalle』、監督ジョゼ・ダヤン、脚本エマニュエル・カレール、主演イヴァン・アタル、ヴィルジニー・ルドワイヤン....

(↓)Stone Age "Zo Laret"(1994年)
エニグマ、ディープ・フォーレストなどと同世代のエスノ・アムビエント”ワールドミュージック(sic)”。業界人として、わしこのストーンエイジのファースト、かなりの量のCDを日本に売った。ブルターニュのシンボル「トリスケル」印が日本に知れ渡るようになったのは、このCDのおかげではないかと思っている。

2023年6月1日木曜日

しこりの父


Marouane Bakhti "Comment sortir du monde"
マルワン・バクティ『いかにしてこの世界から抜け出すか』

ず本の体裁から。やや小柄の幅12センチ縦17センチ、右端の上下が丸くカットされている。表紙本文ページとも淡いピンク色。サンリオショップで見かけそうな”ファンシー”なつくり。およそ硬派の文学作品とは想像できないだろう。これはパリの新座の出版社 Les Nouvelles Editions du réveil ("めざめ新出版社”)の第一回めの出版物。特徴的な縦長装本のActes Sud社と同じように、外見で他社出版物との違いを、という方針なのだろう。しかし私はこれは成功してるとは思わないし、文学書を手にしているという感じがしない。人の好みはそれぞれでしょうが。
 フランス西部ロワール・アトランティック県の首邑ナント出身、1997年生れの現在25歳の作家マルワン・バクティの第一小説。小説の話者は一人称単数の”Je"。名前は一度も登場しないが、作者自身を投影したオートフィクションと読める。
 話者の父はモロッコ人、母は「地元人」すなわちブルターニュの女。子供は話者の他に弟と妹。この家族はロワール・アトランティック県のとある町の人口密度の少ない地区、つまり街区から離れて森や沼地など自然に近いところに一軒家で暮らしている。父は工場労働者、母はたぶん専業主婦。とりたてて孤立しているわけではなく、父方の祖父母(モロッコ人)も母型の祖父母も遠くないところにいて、父方の親戚を含むモロッコ人コミュニティーとも交流がある。主人公はアラブ語をよく理解できない。父親はこの息子にアラブ語を習得するように命じるのだが、叶っていない。
 小説はこのフランスの”地方”という環境での小児→少年時代の話者が実体験した不遇や不条理の呪詛に始まる。この子がいかに不幸であったか。その子の周りで話されるダリジャ(Darija = モロッコアラブ語)がほとんど理解できない。父親は無口であるが強権的であり時に暴力的でもある。父親はこの男児をフツーの男児として育てようとする(スポーツをしろ、球蹴りをしろ...)のだが、この子の”性徴”は早くもフツーとの”違い”を現し始める。作家はホモセクシュアリティーとは書かない。ただ”違い”とだけ表現している。この子はその”違い”は人に明かしてはならないものだと本能的に察知する。この違いを父は気づいただろうか、母は、そして最愛の(母方の)メメ(祖母)は?
Je suis terrifié à l'idée que quelqu'un découvre ce que tout le monde sait déjà.
僕はみんなが既に知っているあのことを誰かが気づくのではないかという考えに恐れ慄いている。
そしてフランスの地方/田舎という環境は、否が応でもこの子に”アラブ”というレッテルを貼り、子供たちの間で嫌われて当たり前の”人種”、虐められるに値する”敵”としてみなされる。加えて性徴の”違い”である。この地方社会の凶暴さを耐え忍ぶ試練は、エドゥアール・ルイのデビュー小説『エディー・ベルグールにけりをつける』(2014年)と共通するものがある。ゆえに、エドゥアール・ルイと同様に、この若者にとってもこの(地方)地獄から脱する唯一の方法は親元を離れ、パリに出ることであった。
 しかしこの主人公はここで大失態をしでかすのである。のちに作家を志すようになるほどもの書きが好きだった少年は、その私的体験を書き溜めていた日記のようなノートが既に数冊あった。男の体や男根のデッサンを含む。それを不在の間に父親に発見されたしまったのである。怒り狂った父は、家の庭でノート全冊を”焚書”に処した。焚書とは(政治的意味においても宗教的にも)強烈な断罪行為であり、この烈火に焼き消されるページのイメージは若者をいよいよ父親と父親の属する世界との完全断絶へと向かわせるのである。
 さて、フランスのゲイ界で定番となっているマッチングアプリは Grindr であり、小説はこのアプリを通じて主人公がくりかえすさまざまな「出会い」も描写されるのだが、常に複数の愛人、複数のセフレがいる状態でありながら、不条理にこの世界から忌避されているようなアンニュイ感はこの若者に常についてまわる。たまに現れる”いい奴”、例外的に気の合ってしまう”いい女”なども登場するが、アンニュイはそれよりも強い。
 そしてかの焚書にも関わらず、彼はときおりモンパルナス駅から電車に乗って実家に帰っていく。絶対不可能な距離と思われた父との隔たりが少しずつ縮まっていく。それは言い換えれば父を少しずつ知っていくことだった。父には不透明なところが多い。まず彼はイスラム教徒ではない。父の周囲はすべてそうなのだろうが、彼は祈祷の仕方も知らなければ、ラマダンもしない。ある葬式の時に祈祷も祈りの言葉も知らない父は、見よう見まねでそれを知っていた”僕”を真似るしかなかった。そして普段は無口なのに時々妻や家族の前であるのも構わず、理由なく激昂して止まらなくなることがある父。何か猛烈なストレスが噴出してしまうような。それに加えて過去について語りたがらないこと。祖父祖母と共に父がモロッコからフランスに渡ってきたのはなぜなのか。これはこの小説の中で明かされることはない。経済的な理由だけなのか。話者はこの故国に背を向けて文化習俗環境を断ち切って異国に渡るということは、非常に痛ましく残酷なことだと思っている。そこに居られなくなったのではないかと想像したりもする。この世界から違うよその世界に行くことを夢見ていた少年の日々の自分と、越境のドラマを生きた父親と、その流謫はまったく違う種類のものなのか。しだいに主人公は父のことを理解したいという願望にかられていく....。
 ブルターニュ生まれのごく浅い根しか持たない主人公は、その根の浅さを呪っていた。モロッコ人とフランス白人の”ハイブリッド”であることを負の要素として考えていた。それが小説の進行につれて、忌み嫌っていた”アラブ”世界との接近、さらにイスラムとの接近も見られるようになる。それは父親との和解が近づけば近づくほどなのである。彼はモロッコ国籍を持っていない。フランスのパスポートしかない。フランスで死んだ祖母の埋葬のために、家族共々遺体と同行してタンジールに渡ったとき、税関でそのパスポートのデリケートな問題を痛感する。モロッコで話者は”故国”の心地よさを満喫する。どうしてフランスに帰らなければならないのか、このままモロッコに留まってもいいのではないか、とすら考える。
Notre vie est en France
私たちの暮らしはフランスにある
と父親は断言する。この父親に「モロッコ国籍を取ろうと思っている」と告げる”僕”、それに対して「必要ない、それは危険すぎる」と答える父。その言葉にモロッコでの同性愛者の置かれた境遇についての含蓄があったのかどうかは小説では明言されていない。この父親のようにそれは単純ではない。

 エドゥアール・ルイにおいて貧困/暴力/性差別/地方因習そのほか自分のあらゆる子供時代の不幸の根源であった父親と決別し、やがて回り回って和解するに至った経緯に比べると、このマルワン・バクティのデビュー小説の息子と父親の和解は時間が短く、悲惨なドラマの性格はない。この133ページの短い小説は、父との和解という大団円に向かう大筋はあるものの、単純ではなく、常に憂愁がつきまとうハイブリッドな魂のさまよいにこそ重点が置かれていて、文体は散文詩に近い。父親のことはまだわかったわけではない、モロッコやイスラムにしてもしかり。上(↑)には私は一言も触れていなかったが、文中で最良の恋人であり話し相手である”S”との関係も鮮明ではない。第一小説/25歳的現在なのであろう。完結などできるわけがない。父親のことを筆頭にすべてにしこりが残って終わっているから、次作を読むしかなくなるんだなぁ。

Marouane Bakhti "Comment sortir du monde"
Les Nouvelles Editions Du Réveil 刊 2023年3月30日 133ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

註;記事タイトルの出典はタモリのファーストアルバム(1977年)のB面4曲め”けねし晴れだぜ花もげら”で、その歌い出しは「まぶたの母か、しこりの父か」というものです。

(↓)ボルドーの気骨の独立書店 Librairie Mollat 制作のインタヴュー動画で『いかにしてこの世界から抜け出すか』について語るマルワン・バクティ

2023年5月26日金曜日

いちご野郎をもう一度

"Omar la Fraise"
『いちご野郎オマール』


2023年フランス/アルジェリア映画
監督:エリアス・ベルケダール
主演:レダ・カテブ、ブノワ・マジメル、メリエム・アミアール
フランスでの公開:2023年5月24日


イルドサイドに生きる男たちの通り名は「まむし」「シャチ」「さそり」「ハゲタカ」など怖いものが一般的だが、このめっぽうワルいことで知られたオマール(演レダ・カテブ)は「いちご」の異名を取る。オマール・ラ・フレーズ、いちご野郎オマール。いちご怖い。古典落語まんじゅう怖いとの関連はない。怖いものなのである。フランス語”fraise”は回転切削工具「フライス」のことでもあり、歯医者が使う回転ドリルもフランス語では”fraise"である。オマールの相棒であるロジェ(演ブノワ・マジメル)の説では「達人の”fraise"使いの名歯科医みたいに狙い撃ちの名手だからさ」ということなのだが、映画の後半で「いちご伝説」が明らかになる。オマールが学童だったガキの時分、品行が悪いことで先公にこっぴどく叱られる。反省のしるしにオマールは先公が大好きだと言ういちごを丁重にお届けする。だがそのいちごの実の中には無数の鋭利な針が仕込まれていた... 。この日からこのワルガキはオマール・ラ・フレーズと呼ばれ恐れられるようになったのだ、と。


 これはアルジェリア(その首都、白い街アルジェ)のワイルドサイドを舞台にした(クエンティン・タランティーノ流儀の)任侠映画である。ドンパチも流血もある。オマールとロジェはフランスからの流れ者である。親の血を引く兄弟よりも、固い契りで結ばれたオマールとロジェであるが、ロジェはフランス白人、オマールはこのブレッドにルーツを持つ放蕩野郎である。その悪行はすでに神話であり、弁護士からフランスでの欠席裁判で刑「20年」が確定したことが知らされる。だからもうフランスの地を踏むことはできない。アルジェリアで大人しく(目立ったことで警察に厄介になることなく)生きていくしかない。
 アルジェの海を見下ろす丘の上の大邸宅(ただし家具調度がほとんどない、修理中らしいプールにはいつまでたっても水が入らない)に住み、筋トレしたり、チェスに興じたり、浴びるほど強いアルコールを飲み干したり、コカインをキメたりするのであるが、おおいなる憂鬱(アンニュイ)がまさってしまう。退屈なのである。パリも恋しくなる。アルジェの高級クラブごときで息巻いてみても虚しい。
 オマールにアルジェで”堅気”の仕事をという弁護士の口利きで、オマールはビスケット製菓会社の雇われ代理社長となり、毎朝製菓工場に”出勤”するようになる。ところがこういう極道者であるから、”雇われ代理”というポジションが気に食わなくてしかたがない。そこで、ひょんなことで仲良くなったアルジェのストリートの子供たち(端的に言えば浮浪児窃盗団)の協力を得て、かなり手荒な方法で現社長を追い出すことに成功する。この10人ほどの子供たちが非常に重要なオマールの”弟分”になっていく。手製の刃物を武器に闇雲に盗みを働いていたこの子らにオマールはチームワークによる計画的強盗のイロハを伝授し、不必要に血を流すな、最も重要なのは生きるも死ぬも一緒という鉄の兄弟仁義である、と極道の極意を説く。この共同体はピーターパン的である。ガキの心を持ち続けるオマールが弟分たちを新たなワクワクするような冒険に導くイメージ。
 そしてオマールはこの製菓工場の責任者である女性サミア(演メリエム・アミアール)に恋慕の情を抱いてしまう。不器用な極道の恋。堅気でインテリでビジネス手腕もあり、そんじょそこらの男らなど問題にならない切れ者であるが、一方でボランティアで慈善活動もする義侠の女。不器用に、時には粗野にサミアの心を掴もうとするがなかなか成就しない。その間をとりもつように、ぎくしゃくした二人の関係を柔和にさせるのがロジェの存在で、お調子者で口はめっぽう立つこの恋の道化師役は素晴らしい。三人で砂漠まで遠出して、ラクダ競走に興じるシーンの美しいこと。このシーンはしあわせになれますよ。ここでロジェにこのラクダレースを大掛かりに主催して、ネットで全世界中継してラクダ賭博の胴元になろうという素晴らしいアイディアが浮かぶ。三人はめちゃ乗り気になるのだが...。
 しかしロジェはその夢を果たせぬまま、麻薬密輸のブツの取り合いに巻き込まれ、アルジェの地元暴力団の頭目に呼び出され、深手の傷を負い、救いに来たオマールの腕の中で息絶える。魂の兄弟を奪われたオマールは復讐に立ち上がる....。

 非常にわかりやすく、任侠映画の定番パターンに則ったワクワクものの作品。アルジェリア人エリアス・ベルケダールの初監督長編映画。凄みとやんちゃさが同居する極道というキャラクターを演じるレダ・カテブ、狡猾でお調子者で恰幅の良い(小型のジェラール・ドパルデューのような体型で登場)白人というキャラクターを演じるブノワ・マジメル、この二人の名コンビの怪演でどれほど救われている映画か。白い街アルジェ、地中海の不条理な太陽(あ、アルベール・カミュを想ってください)の下で展開する二人の極道の物語。上に紹介した砂漠とラクダ競走だけでなく、高層社会住宅の広大な中庭で展開される”闘ヤギ”賭博のシーンなど、コアなアルジェリア光景も織り込んでいる。
 それからアルジェリア人音楽アーチストのソフィアン・サイディがオリジナルスコアと選曲を担当したサウンドトラックがのけぞるほど素晴らしい。冒頭から大音量のライナ・ライ「ジナ」(1982年)で煽る。そのほかシェイハ・リミティ、ファデラ、シェブ・ハスニ、ウーム・カルトゥームなど。(復讐が終わって)最後にオマールとサミアと子供たちが平和に海浜ビーチで遊ぶシーンの音楽がソフィア・ローレン「イルカに乗った少年 boy on a dollphin」(1957年)であるところなんか泣かせる泣かせる。(このサントラのトラックリストはこちらのリンクに載っているので参照してください)

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『いちご野郎オマール』予告編


2023年5月23日火曜日

「100万ビュー」を達成しました。

2023年5月23日、朝遅く9時半頃寝床から起き出したら、爺ブログのカウンターが(←写真)100万を超えていました。昨夜就寝した時には999600ほどだったので、眠っている間に1000ビュー近いヒットがあったということです。5月20日にアップした「アリ・ブーローニュ」の記事に爺ブログにしては例外的な関心が集まっているようで、私の予想より2日早い100万突破でした。ありがたいことです。

 2007年7月に創設されたブログなので、この100万まで16年かかっています。長い道のりでした。世の中の人々にとってとびきり面白いことや目立ったことなど記事にしていませんが、音楽・映画・文学を軸にほぼ週に一度の頻度で新記事をアップしていて、極端に多かったり少なかったりということもありましたが、昨今は1日100〜150ビュー、1年に5万ビューというペースで静かに目立たず読まれ続けています。

 2019年7月に「80万ビュー突破に寄せて」という一文を載せました。そこでこのブログのカウンター数字の不思議などについても書いてますが、その当時ゆるやかながら焦燥もある日々の皮膚感覚として持っていた”穏健ノー・フューチャー”観から、

『カストール爺の生活と意見』はもう少し続くと思います。「いつまで」という考えは捨てました。だけどもう少し。
という言葉で閉じていました。約4年前のことですが、あの頃は「100万」などという数字はまるで考えられなかった。こんなに続くわけはないと思っていました。2017年に私は続けたかった仕事をやめ、自分の会社を畳み、在宅&病院通いの”専業”(隠居)ガン闘病者となりました。あの時からこのブログの更新が自分の関心の真ん中に来るようになりました。いつか来るXデーの前に、このブログをちゃんとしたものにしておきたい、という”意気込み”もあったのですが、だんだん、このまま続けられるだけ続けたらいいんじゃないかな、と思うようになりました。Que sera sera, what will be will be。気がついたら100万になっていました。

 創設の時から私のブログの最も熱心な読者で、頻繁にSNSなどでシェア/フィードバックして応援してくれていた川崎の土屋早苗を、私はこの4月20日に失いました。私より10歳年下の早苗は2019年から同じ病いと闘っていました。まだ49日経っていないので、その魂は地上のあちらこちらを漂っていることでしょうし、私は時折り気配を感じます。「100万ビュー」は早苗に祝ってほしかった。まあ、今夜、その気配は感じますよ。
 
 そして私は4年前と同じことを言います。
 『カストール爺の生活と意見』はもう少し続くと思います。「いつまで」という考えは捨てました。だけどもう少し。

                                                    2023年5月23日
                                                    フランス、ブーローニュ・ビヤンクール
                                                    カストール爺(向風三郎/對馬敏彦)


2023年5月20日土曜日

Nico ta mère (追悼アリ・ブーローニュ)

2023年5月20日、パリ15区の自宅アパルトマンでアリ・ブーローニュ(本名クリスチアン・アーロン・ブーローニュ、出生時の名はクリスチアン・アーロン・ペフゲン)が死体(かなり腐敗が進んでいて死後数日後と想定される)で発見された。60歳だった。
 発見者はその伴侶とおぼしき女性(58歳)で、地方への旅行から戻って来てこの状態だったので警察に通報した、と。ただ、アリは既に健康を害していて、最近にジョルジュ・ポンピドゥー病院に緊急収容されたこともあり、半身不随状態で車椅子で生活していたようで、ひとりで自宅にこもれる状態ではなかったとされ、この女性を「危険状態にある人間への補助義務を怠った(non-assistance à personne en danger = フランスでは刑法の規定にある犯罪)」嫌疑で逮捕して事情聴取している。
 母親はドイツ人のトップマヌカン、女優、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌手だったニコ(1938 - 1988、本名クリスタ・ペフゲン)、父親は認知されていないがフランス人俳優アラン・ドロンとアリは主張しており、アリの一生はほぼこのドロンの”父認知”を勝ち取るための法廷闘争に費やされている。ドロンは一貫して否定している。
 母親ニコから遺伝と自ら認めている幼少時からの麻薬常習者であり、職業は写真家であるが、喰えてはいない。2001年に母親ニコとアラン・ドロンのことと自分の半生を綴った『愛は決して忘れない L'amour n'oublie jamaisが 』(Pauvert社刊)という本を発表して、大ベストセラーとなっている。この本を当時私が主宰していたインターネットサイト『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)が2001年5月の「今月の一冊」として紹介している。アリ・ブーローニュへの追悼の意を込めて、以下に再録します。

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2001年5月に掲載された記事の加筆修正再録です。

Ari "L'amour n'oublie jamais"
アリ『愛は決して忘れない』
(Pauvert刊 2001年3月)

 この本の著者はただ Ari とだけ署名している。日常生活では「アリ・ブーローニュ Ari Boulogne」という名前であり、俳優アラン・ドロンの母親のエディット・ブーローニュの戸籍に養子として入籍してその姓を得ており、国籍はフランス人である。ところが著者はそれを認めたくない。母親はクリスタ・ペフゲンという名のドイツ人。ニコという芸名で世界的に知られていた人。1938年ケルンで生まれ、1988年イビサ島で自転車で転倒し、脳震盪を起こしこの世を去っている。アリは出生時の「アリ・ペフゲン」という名に固執しているのではない。母親がクリスタ・ペフゲンと名乗らずに姓なしのニコという名で生き通したことを自分に近づける意味で、姓なしのアリと署名したのである。
 本作はドキュメンタリーでも自伝でもない。題名の下に「レシ récit」(物語)と断られている。物語は実名で事実を記述してもいい。著者は自分が書き続けてきた日記と創作ノート(アリは詩人でもある)をベースに自分の物語を綴っている。そしてヘロイン常習者であるからというだけの理由ではなく、十代の時から精神疾患の自覚症状を持つ彼の記述は、ところどころ不安定で混乱した箇所も出てくるが、それは創作によるものであるかもしれない。
  この作品の大きな目的のひとつは、母ニコの名誉回復である。世界の幾多の「ロック人名事典」のようなものを紐解いて見れば、そのどれもがニコに関して「元トップ・ファッションモデル、アンディー・ウォーホルに見い出され、映画女優そしてヴェルヴェット・アンダーグラウンドと活動を共にする歌手となる。しかし注目された時期は短く、その後は麻薬中毒のために...」ということしか書かれていないだろう。70年代後半以降のニコのイメージは極端に悪い。麻薬の地獄に堕ちてボロボロになった元美人歌手というネガティヴなイメージが支配的である。これを著者はニコというアーチストの同行者として、そのクリエーター/パフォーマーとしてのクオリティーは80年代にもいささかも衰えることはなかった、ということを証言するのである。
 この本と同じ出版社 Pauvertから本書と同時期にニコの詩と散文を集めた”Cible mouvente(動く標的)”と題された本(←写真)が発表された。監修と編集はアリが担当している。知られざる「文字化された」ニコの作品を世に出すことによって、この不当に低く評価されたアンダーグラウンドの詩人/ミューズの再評価のきっかけとしようというわけである。

 ニコをことさらにネガティヴに思っていたのは、アラン・ドロンの母エディット・ブーローニュ(→写真少年アリとエディット・ブーローニュ)であった。エディットにとってニコは養育能力が皆無の母親であり、ブーローニュ家の平和を掻き乱す女でもあった。ドロンの母はアリが2歳の時に”孫”の存在を知った。当時アリはニコの母親のもとでイビサ島に住んでいたが、既にその女性は健康を欠いており、ニコはエディットとコンタクトを取り、アリの養育を依頼したのである。パリの西郊外ヌイイにあるニコの友人の写真家ウィリー・メイワルドの家で、エディットは初めてアリと会う。一目見てエディットはこの幼児が自分の孫、つまりアラン・ドロンを父とする子供であることを確信する。
 エディットはこのことをドロンに何度も手紙で知らせるのであるが、ドロンはそれに返答しないばかりか、弁護士を通じて絶対にこの子と関わりを持たないように、と通告してきた。フランスのトップ男優はその後も一貫してアリを息子として認めていない。しかしわが子ドロンの意志に逆らって、エディットはアリをパリの南郊外ブール・ラ・レンヌの自宅に迎え入れ、2歳から18歳までわが子同様に育てるのである。このことによってアラン・ドロンとエディットの関係はきわめて険悪なものになっていく。
 この母子の確執は非常に根が深く、エディットはアランにとっては悪い母親であったに違いない。書かれる前のドロン伝記本を訴訟によって発禁処分にするほど、アラン・ドロンは知られたくない過去を多く持った人間であるうが、相当に荒廃していたと言われる少年時代は、母親の責任もおおいにあっただろうことは想像に難くない。そして兵士アラン・ドロンがインドシナ戦線から帰ってきた時に、母親は駅のプラットフォームで待っていなかった。そういったことをエディットは深く後悔していたからこそ、アランにしてやれなかったことをアリに、という愛情の注ぎ方をしていたようだ。それがまたアランには面白くなかったのであろう。
 そしてアリが6歳だった1968年に、かのマルコヴィッチ殺害事件が持ち上がる。これはアラン・ドロンのボディガードが暗殺され、ドロン自身の関与の可能性で捜査が進められ、ドロンと暗黒街との関係が大きくクローズアップされた事件である。エディットとその近縁の者たちは、この事件の延長として、アリが誘拐される、あるいは暗殺される、という可能性を非常に真剣に恐れていた。そこでエディットはアリを隠すように地方のカトリック系の寄宿学校に送り込んでしまう。この(体罰も日常茶飯事である)極端に厳格な男子寄宿学校でアリは9年間を過ごすことになる。

 学校の休暇や週末などをアリはニコのもとで過ごしていたので、彼は幼少の時からエディット・ブーローニュ家の”普通人”の世界と、母ニコが属するエキセントリックなアーチストの世界の間を行き来する、二つの相反するカルチャーを育んでいった子供であった。ヴェルベット・アンダーグラウンドのマスコット・ボーイのように扱われたり(→写真左すみにニコとアリ)、後にニコが生活を共にするようになる映画監督フィリップ・ガレルの映画作品に子役として出演したり、子供ながらに60-70年代の前衛アートのど真ん中に身を置いていたのだ。これがエディットにとっては、アルコール、ドラッグ、性風俗など、"普通人"として育ててきたアリを破壊する悪影響ばかりをもたらすものであった。
 アリのこの本を読む限りでは、この少年期は曲がりなりにも両世界のバランスが取れていて、おおむね幸せな時代だったのではないか、と想像できる。物質金銭的に比較的に豊かだったブーローニュ家側と、派手だがかなり貧しかったニコ側という違いこそあれ、並みの少年ならおよそ体験できるわけのない、羨まれても不思議のない両世界を股にかけた青少年期である。その平衡を捨てて、ブーローニュ家を去って、ニコと完全に生活行動を共にするようになってから、アリの”地獄の季節”が始まるのだが、アリはその選択を全く後悔していない。地獄の描写はかなりリアルであり、後半はちょっと読むのを投げ出したくなるようなパッセージの連続である。

 この本の主題からやや離れるが、観点を少し変えてみよう。この物語の中では、あらゆる地獄渡りの局面で、必ず助け舟を出す人間が現れる。なぜか。私はそれは造形的に異論の余地のない美貌のおかげだと断言できる。どこにいようが、人を振り向かせずにはおかない美貌を持った人間は、それを持たない人間とは人生の密度がまるで違うものである。美しい少年は、それ自体が詩である。実際アリはベルナール・シャスという詩人に熱愛され、多くの詩を捧げられている。またアリを診た精神分析医もアリに恋い焦がれて苦悩していた。女性たちもしかり。この美しい創造物のために援助を惜しまない女性が次から次に現れる。どんな地獄の底でもこの美貌は彼を救ったに違いない。アリは十分それに自覚的であったはずだ。生半可なナルシストというレベルではない。その美貌は多くが父の血からさずかったものと言えよう。世界中の映画ファンが称賛しているあの美男俳優の顔が、毎朝鏡の中に映し出されるのである。アリは息子として認知されないことでドロンを恨んではいるが、自分を救っている美貌という授かりものには感謝しているに違いない。

 読まれ方は千差万別あろうが、宿命的にこの本はアラン・ドロンに絡む芸能暴露本として話題になることは避けられない。そうでないとこの本は誰からも注目されないだろう。売れる本として世に出したい出版社としてはドロンねたは多ければ多いほどいい。だがアリの文章はそれをできるだけ制御したい配慮はしてある。この本の悲劇はここなのだ。レ・ザンロキュプティーブル誌のインタヴューでアリは「人の興味は自分にあるのではなく、自分の父と母にだけ集中する」と言っているが、まさにその通り。
 ニコが1988年に死んだ時、アリは25歳だった。今、アリは38歳になった。エディット・ブーローニュも今や故人となった。発表の機会のほとんどない写真家、作家、詩人として、アリは今貧しくパリで生きている。この本を書くきっかけとなったのは、長男シャルルの誕生である。自身の父ドロンとは対局であるように、自分の半生を包み隠さず子供に聞かせるように、アリは緊急にこの本を書き、過去に落とし前をつけようとしたのだ。それはドロンへの復讐心と父の愛の渇望がごっちゃになったものである。
 このベストセラー本の印税は少しはアリの生活を楽にするかもしれない。しかし、その美貌と彼を取り巻く”セレブリティー”たちの行状の記述以外、アリという若きルーザーの記録に、彼自身の文章表現の魅力と彼自身の生きざまの魅力を、私をはじめ多くの人たちは読み取ることができないように思う。この痛々しさは印象に長く残らない。
 おそらくこの本の最大の山場として読まれるだろうパッセージは、アラン・ドロンの運転する車の中でのこのドロンのセリフである。
アラン・ドロンは片手でハンドルを持ち、片手を私の肩に置いて、こう語り出した;「おまえは俺のダチだ、わかるか? おまえは俺のダチ。だがこれだけは言っておく。おまえは俺と同じ目をしていない。おまれは俺と同じ髪質ではない。だからおまえは俺の息子じゃないし、未来においても俺の息子になることなどありえないんだ。俺はおまえの母親と一度しか寝ていない。おまえの父親、それは”ポレオン”さ」
(p229)

ポレオンなるどうでもいい口からでまかせの名前を出して、ドロンは父と子の縁を全否定する。この本の核心的な部分はこの箇所ではない。だが、この映画的な図を誰もが鮮明に想像できるこのシーンは、この大役者によって演じられたら、アリは絶対的に不利である。この冷酷な拒否を突きつけられたアリの深い悲しみは、大名優ドロンの演技の前で完全に軽くなってしまうのだ。別の表現をすれば、この残酷なシーンの大いなる悲しみをアリの文章表現は伝えられないのである。この本とアリという存在のコンプレックスはまさにここなのである。

(↓)2001年4月、ティエリー・アルディッソンのトークショー番組"Tout le monde en parle"(国営テレビFrance 2)で、自著『愛は決して忘れない(L'amour n'oublie jamais)』を語るアリ・ブーローニュ


(↓)2002年公開のレティシア・マッソン監督映画『La repentie(更生した女)』(主演イザベル・アジャーニ、サミ・フレイ)に出演したアリ。モロッコ・レストランでのシーン。