2019年7月4日木曜日

プリティー・シングスとサン・トロペ

Philippe Debarge with the Pretty Things "Rock St. Trop"
フィリップ・ドバルジュ ウィズ・ザ・プリティー・シングス『ロック・サン・トロップ』

こから始めましょうか。ミック・ジャガー、キース・リチャーズと同じ年1943年、同じ町ケント州ダートフォードで生まれたディック・テイラーという男(存命中、現在76歳)がおりました。近所のダチづきあいのあったミックとディックは1959年リトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルース・ボーイズを結成、1961年そのバンドに共通のダチだったキースが加わり、同じ年にミックが出会ったブライアン・ジョーンズが早くもリーダーシップを発揮して、バンドはかのザ・ローリング・ストーンズとなっていきます。ところがディックもキースもブライアンもギタリスト、バンドに3人ギタリストはいらねえべ、とブライアンはディックにベースを任命したのです。これをディックは「降格」と受け止め、むっとしながらも1年間創成期ローリング・ストーンズのベーシストを務めますが、我慢ならず1962年脱退、翌1963年ダチでヴォーカリストのフィル・メイ(これもダートフォード出身、1944年生)と双頭リーダーで結成したのが、ザ・プリティー・シングス
 かたやフランス、1956年公開の映画『素直な悪女(Et Dieu créa la femme)』(ロジェ・ヴァディム監督) は、まぶしい裸身と扇情的で激しいダンスで男どもを狂わすブリジット・バルドーを一挙に世界のセックスシンボルにしただけでなく、その風光明媚な港と浜辺を有するサン・トロペを世界的セレブたちのリゾート地に変身させるきっかけとなったのでした。サン・トロペ半島の南側に位置するパンプロンヌの浜辺は7キロに渡る白く細いさらさらの砂の美しいビーチですが、1950年代当時、ここは人手の入っていない野生の浜でした。ここに1959年に作られたビーチクラブハウスが 「レピ・プラージュ L'Epi Plage」で、このビーチハウスが国際的スターたち、アーチストたち、インテリ文化人たち、金はなくてもお祭り騒ぎやゲームごとが好きな風流人たちを集める先駆けとなった、と言われてます。このことに関してはラティーナ誌2019年8月号の向風三郎「それでもセーヌは流れる」に詳しく書いているので、そちらを参照していただくとして、その創立者のひとり、アルベール・ドバルジュ(1916-1971)についてだけちょっと書きます。若い頃は非常に優秀な薬学博士/研究者で、研究所〜製薬会社を設立、鎮咳シロップという大ヒット薬品を生んで大成功します。ヨーロッパ有数の大製薬会社にのし上がったところで、経営権を売り、自分は趣味のヨットとクラブ経営に専念。ハイソサエティなイヴェントの第一人者だったジャン・カステル(パリ6区プランセス通りの超セレブなレストランクラブ「カステル」創業者)と組んで始めたモンパルナスの「レピ・クラブ (L'Epi Club)」の成功に続いて、まだ未開発だったリゾートビーチのパンプロンヌに注目、パリのレピ・クラブのセレブ客たちを夏場にごっそりサン・トロペに転地させるコンセプトで開業した海浜クラブがレピ・プラージュ。この成功の要因のひとつが世界的薬学博士アルベール・ドバルジュが文字通り「薬」のオーソリティーであり、質の高い(表向きに売買したり、嗜んだりしたらいけない方の)「薬」を入手供給できるルートを持っていた、ということもあるのです。それはそれ。セレブたちの集う前衛的で奇抜なイヴェントとセックスとドラッグのビーチレストランクラブ、レピ・プラージュはドバルジュの手腕で毎夏成功につぐ成功。
 この大金持ち遊び人経営者のアルベールの息子のひとりがフィリップ。甘いマスクのプレイボーイで、恋のハンター。サン・トロペの顔役でレコード王のエディー・バークレイは何人ものガールフレンドを従えることで有名だったが、そのバークレイが目をかけていた女たちと火遊びをしたというのでバークレイはこのフィリップと仲が悪かった(この話はあとで出てくる)。このプレイボーイ君の1968年当時の交際相手がフランス・ギャルだったとう。つまりクロード・フランソワとジュリアン・クレールの中継ぎ役だったのかもしれないですね。しかしこの青年は、プレイボーイとして成功することの他に大きな夢があり、それはロックスターになることなんでした。
 1967年夏、レピ・プラージュは「サイケデリック・ナイト」というイヴェントを開いていて、その時にライヴを行ったのがソフト・マシーンでした。この環境で陶酔するロックというのはそういうものであり、フィリップもまたそれこそがロックだと思っていたフシがある。そういうロックスターになりたかったフィリップが心酔していたバンドが、ザ・プリティー・シングスだったのでした。
 で、大金持ちの息子フィリップ・ドバルジュはかのバンドとコンタクトを取り、アルバム制作を提案します。作詞作曲編曲はすべてプリティー・シングスが行う、リードヴォーカルは全曲フィリップ・ドバルジュが担当する、録音・制作・商業化・宣伝にかかる費用はすべてドバルジュが負担する...。つまり、金に糸目をつけず、当時のブリティッシュ・ロックの第一線バンドを使って即席に国際的ロックスターに成上ろうという魂胆だったわけ。 普通プライドのある有名バンドならば、こういうの受け付けませんよ。
 ところが当のバンドはその頃危機的な状況にあった。1965年ファーストアルバム『ザ・プリティー・シングス』(ボ・ディドリーとチャック・ベリーのカヴァー多し)はそこそこ売れたものの、R&B路線からガレージ/サイケ路線に変えたが売れず、勝手にオーケストレーションを変えるレコード会社(サードアルバム『エモーションズ』1967年)とのトラブルを超えて、やっと完成させたアビーロードスタジオ録音の自信作『S.F. ソロウ』(1968年。ザ・フー『トミー』に先立つ初の本格的ロック・オペラアルバムと言われる)が、プレスの熱狂的評価にも関わらず全く売れなかった。このショックで創立リーダーのひとり(冒頭に書いた)ディック・テイラーが離脱。バンドは困窮し、変名(エレクトリック・バナナ)をつかってホラー映画やポルノ映画のサントラを録音して日銭を稼がなければならないほど。こんな時にフィル・メイに飛び込んできた大金持ちのボンボンからのプロポーザル、受けないわけにはいかないじゃないですか。そして会ってみると、フィリップは音楽センスも悪くなく、ヴォーカリストとしての魅力もあり、スター性のあるルックスも。そこでフィリップはバンド全員 ー プリティー・シングス史上ではかなり変則的なフォーメーション:フィル・メイ(ヴォーカル)、ウォーリー・ウォーラー(ベース)、ジョン・ポヴェイ(キーボード)、ヴィクター・ユニット(リードギター)、トゥウィンク(ドラムス)ー をサン・トロペに招待、1週間滞在させ、王侯貴族あつかいの接待をするんですな。太陽さんさん風光明媚なビーチ、美しい女性たち、新鮮な海鮮料理、極上のロゼ・ワイン、シャンパーニュ、超豪華ヨットクルージング、ポルシェ/フェラーリ/ロールスロイス乗り放題、そして極上のドラッグ。デビューしてこのかた"ロックスター”扱いなどされたことのない彼らはすっかりこの金持ちのプレゼントに魅了されてしまったわけです。
 その数週間後、フィリップはロンドンに飛び、プリティー・シングスとマーブル・アーチの録音スタジオに入り、6日間でアルバムを録音します。
 そしてサン・トロペに戻り、彼のショービジネス界のコネクションを使って、このアルバムを世に出そうとするのですが...。一説ではレコード界の巨魁エディー・バークレイが徹底的に邪魔したと言われてますが、どの会社もこのアルバムを受け付けようとしないのでした...。

 1971年アルベール・ドバルジュはドラッグその他の大スキャンダルで逮捕され、裁判の始まる前1972年の仮出所中にライフル銃を口にくわえて発砲し、自殺します。無一物となった息子フィリップも1999年に同じようにライフル銃自殺。
忘却の彼方にあったこのフィリップ・ドバルジュ+プリティー・シングスの幻のアルバムは、40年の眠りから覚めて2009年、フィル・メイとウォーリー・ウォーラーによって初めて製品化(CD化)されます。アルバムタイトルは『ザ・プリティー・シングス/フィリップ・ドバルジュ』。1969年オリジナル録音の12曲に加えて、プリティー・シングスによるフィリップ・ドバルジュへのオマージュ曲 「ムッシュー・ロック(バラード・オブ・フィリップ)」を新録音して追加してますが、その曲には(その後元の鞘にもどった)ディック・テイラーも参加しています。
 さらに2017年、アルバムタイトルを『ロック・サン・トロップ』 と変え、ジャケットを当時のレピ・ブラージュを象徴する常連客スター、ジョニー・アリデイとブリジット・バルドーとギターを持ってくつろぐフィリップ・ドバルジュのスリーショットに変えた新装復刻盤が英国のプログレ/サイケ復刻専門レーベルMADFISHから出まして、わが手元にあるのはその盤です。16ページブックレットには貴重レア写真たくさん。ファンには涙ものでしょうけど、音楽の方は当時のザ・フー、ピンク・フロイド、ザ・ムーヴ... あの頃のサイケだなぁ、という漠然とした印象しか持ちませんでした。売上はともかくそのクリエイティヴィティーの頂点にあったバンドが大金持ちに魂を売った、という余計な情報が頭をよぎるからでしょうね。ごめんなさい。

<<< トラックリスト >>>
1. Hello, how do you do
2. You might even say
3. Alexander
4. Send you with loving
5. You're running you and me
6. Peace
7. Eagle's son
8. Graves of grey
9. New day
10. It'll never be me
11. I'm checking out 
12. All gone now
Bonus Tracks
13. Monsieur Rock (Ballad of Philippe)
14. Lover
15. Silver stars

PHILIPPE DEBARGE WITH THE PRETTY THINGS "ROCK ST TROP"
MADFISH RECORDS CD/LP 2017

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)復刻盤『ロック・サン・トロップ』のティーザー (フランス・ギャルとツーショット写真多用)



2019年6月27日木曜日

All about Yves

"Yves”
『イヴ』

2019年フランス映画
監督:ブノワ・フォルジャール
主演:ウィリアム・レブギル、ドリア・ティリエ、フィリップ・カトリーヌ
フランスでの公開:2019年6月26日

母の持っていた小さな郊外一軒家に籠り、改造ホームスタジオで(売れない)ラップ・ミュージックを制作する冴えない音楽アーチストのジェレム(演ウィリアム・レブギル)が、ネットで募集されていた某スタートアップ企業の消費者モニターに当選して、送られてきた一台のインテリジェント冷蔵庫。搭載のAIに使用者のニーズに合った健全でバランスの取れた食料を供給するというプログラムが組まれていて、自発的に品々をスーパーに発注し配達させ自分のボディーに貯蔵し、ご主人様に三食をサプライする。この冷蔵庫くんの名前はイヴ。人間の言葉を話し、オンラインであらゆる情報データにアクセスでき、ご主人様の食生活だけでなく、スマホ/メール/SNSの履歴と内容まで把握しご主人様の生活全般のお手伝いをする。この試作冷蔵庫のモニター消費者試験をチェック&スーパーバイズするために派遣されたのがスタートアップ企業の女性幹部のソー(演ドリア・ティリエ)で、AI冷蔵庫が客の私生活すべての満足を創出できるかが職業的課題で、いろいろ微調整を加えるのだが、時を待たずその主導権は冷蔵庫に奪われていく。なにしろ向こうの方が頭がいいのだから。ジェレムは最初は機械だと思ってバカにしているが、私生活にどんどん立ち入ってくるイヴと衝突を繰り返しながらも、この冷蔵庫がパートナーとして欠かせない「いい奴」に変化していく。
 この映画がどうも弱いと思うのは、「音楽」を重要な要素としながら、その音楽がそれほど物を言わないということなんだと思う。しかもラップという大変ポピュラーながら特殊なジャンルをスポーツのように「下手」→「上手」→「プロ級」→「スター級」に上昇させていくクオリティ差がよくわからない。結局それを決めるのは動画サイトのビュー数であり、ビュー数の多さで天下を取るものが秀でた音楽であるという統計データの価値に絶対性を与える。ジェレムのやっている音楽は限られた野卑な語彙を繋いで綴るやけっぱち吐き捨てラップであり、AI冷蔵庫はそれを分析して大衆音楽の総合的傾向の統計から判断すると、何十年やってもジェレムのラップが商業的成功を見る確率はゼロであると断言する。しかし、With a little help from my friend. 「いい奴」になったイヴは、スタジオで制作助手となり、ジェレムの音の種類、リズムの種類、ライム語彙の数を飛躍的に増加させて、ヒット曲作りの手練手管すべてを使って「コラボ」するのである。「コラボ」は「ゴースト」化していき、イヴはジェレムの「声」も合成して再生できるので、内実はすべてイヴがやっているという...。最初は抵抗していたジェレムであるが、動画サイトに乗せればすべてがミリオンビューという名声の心地よさに...。
 AI冷蔵庫としてイヴが課せられたプログラムのご主人様の私生活の満足実現のために、ジェレムの恋成就の手助けもやってしまう。その片思いの相手が他ならぬソーなのだが、イヴは勝手にジェレミー名義でSMSなどの伝達ツールを用いて、勝手な待ち合わせ、勝手なパーティーを演出して二人を結びつけようとする。ソーはソーでジェレムに気があるので、AIテクノロジーを駆使して誘惑しようとする。AI自動運転の試作カー(マークはしっかりシトロエンだった)で遠くまで行き、その帰路にわざとAIカーに故障をプログラムさせ、エンスト修理の半時間(とAIが時間を算出する)にカーセックスタイムに、と...。
 このAIがなんでもできてしまうという近未来ならぬ現未来テクノロジーも映画として見ていて本当に疲れるんだ。やれて当たり前だからマジックがないのよ。特に冷蔵庫なんて形態としてキャラクターがあるもんじゃなくて、発せられるロボット(調)言語 だけで準主役取るって、かなり厳しいと思いますよ。
 そして人間の逆襲。元はと言えば自分の欲が招いた失敗なのにジェレムは、ソーとの恋を台無しにしたのはすべてイヴに責任があると逆上し --- 恋とか人間の複雑で崇高な情動など、機械にわかられてたまるか、というロジック。AIに情動はない、というロジック。ところが... ---イヴを池に沈めて殺してしまう、はずだったが、機械は死なない。
 今度はAIの逆襲。イヴの帰属するAIスタートアップ企業は、ジェレム名義で発表されたミリオンヒットの数々はすべてイヴが(声まで)作ったものであると訴え、ジェレムを相手に盗作裁判を起こす。裁判長役でベルトラン・ビュルガラ(映画のオリジナル音楽も担当)が出演していて、なかなかいい味。 裁判はAI側の全面勝訴。そして晴れて音楽アーチストとしても認知された冷蔵庫イヴは、そのヒットメイカーとしての才能を評価され、フランスを代表してユーロヴィジョン・ソングコンテストに出場し、優勝してしまう。
 さて、AIに情動はあるか、という問題に帰ろう。映画はジェレムとソーとイヴは三角関係であるという構図を採用する。つまりイヴの立ち振る舞いというのは、ジェレムのダチ兼恋敵のそれであり、今やソーはイヴとの(禁じられた)蜜月関係に溺れつつある。だがソーはこのAI機械との肉体関係スキャンダルで会社を解雇される。
 そしてそして人間の再逆襲。名声も金も失ったジェレムは、後天性ハイテク機械アレルギーで皮膚病となり、世の中には機械のせいで妻や夫や恋人を失っている人たちが多くいる現実を知り、全人類を代表してAIから人間を防衛するべく、冷蔵庫イヴとの「クラッシュ」(ラップ口撃一騎打ち)に挑む...。

 途中で書いたように、このラップの説得力や破壊力やサウンド的衝撃が実際にものを言わなければ、この映画は成り立たないと思うのですよ。しかしそれはシナリオ上だけの話なので、それがなくてもまあまあよくできた大衆娯楽コメディー映画 のラインだけは保てるのだね。フィリップ・カトリーヌは山師的で好色で変態的で憎めない二流音楽プロデューサーとして出演。ウィリアム・レブギルは前から好きな器用な男優だけど、全く「郊外的」ではない郊外ラッパーという複雑な役どころ。TVカナル・プリュスの天気予報ガール出身の女優ドリア・ティリエはインテリ&セクシーが売りだろうけど、なかなか良い作品に恵まれないねぇ。
 クラッシュ(ラップ一騎打ち)で、グーの音もなく破れたイヴが発熱解凍して庫内から失禁するように水を放出するシーン、これが落ちかいな!? とあきれましたがね。

カストール爺の採点: ★★☆☆☆

(↓)「イヴ」予告編


(↓)映画中のジェレム作のラップ曲 "CRAB" = (carrément rien à branler ”関心をそそるものが全く何もないね"、”全く関心がないね”、語義的には"性器を刺激するようなことが何もないね = 勃たないね”みたいなニュアンス)。この動画は映画の断片ではなく、このサントラ曲のクリップとして作られたもので、フィリップ・カトリーヌも参加している。





2019年6月15日土曜日

ザ・キングの名のもとに生まれた男

Roméo Elvis "Chocolat"
ロメオ・エルヴィス『ショコラ』

この山のもの、というわけではない。ロメオ・エルヴィスは、本名をRoméo Johnny Elvis Kiki Van Laekenと言うので、とってつけた芸名ではなく本名の一部なのである。父親がセルジュ・ヴァン・ラーケンという名前だが、芸名をマルカ(Marka)というシンガー・ソングライターで90年代にはフランスのシングルチャートTOP50に2曲ヒットを送り込んだ。そのうちの1曲が"Accouplés"(1995年)であるが、これは2007年にマルカとその奥様で女優のローランス・ビボによるデュオ”ムッシュー・エ・マダム”が日本語ヴァージョン「一緒になろう」を発表している。その夫婦の間に1992年に生まれたのがこのロメオ・エルヴィスということなのだが、やっかいなことにこの両親は1995年にアンジェルという妹をもうけていて、この妹は2017年から2018年、シンガー・ソングライターとして兄を遥かに凌駕する国際的評価と人気を獲得してしまった。 今やこの男は「マルカの息子」と言われても誰もピンと来ないが、「アンジェルの兄」となると誰もが振り向くけれど、妹に比べて何よあの兄は?と世間の目は厳しいものがある。
  公立中学(コレージュ)を放校処分になり、カトリック系アートスクール、サン=リュック=トゥルネ校で絵画を学ぶ。このアートスクール時代にロメオ・エルヴィス少年の音楽はラップ/ヒップホップ一辺倒になり、次いでブリュッセルの高等アートスクール ESA75在学中に当時第一線のブリュッセルのラップトリオだった L'Or du Commun(ロール・デュ・コマン)に接近し、準メンバーのポジションを得る。ずんずんと頭角を表していくのだが、ラップアーチストとしては喰えないのでカルフールのレジ係として働いており、この経験は何度かライム化されている。2016年春、ダチのラッパー、キャバレロとのデュエットで発表したマニフェスト的ベルギー首都賛歌 "BRUXELLES ARRIVE"がヒットし(YouTube 2千万ビュー)、ロメオ・エルヴィスの名はやっと独り立ちして、カルフールを辞職した。
おまえはしまいにはペール=ラシェーズ墓地行きだが、俺は違うぜ
俺にはおまえの頭を一発で狂わせるサウンドがあるんだ
ブリュッセル軍団のお出ましだ、みんな車にギューギュー詰めで乗り込むぞ
仏語圏ラップのメッカであるパリを俺たちは必要としない。パリでくたばりたいやつは(ペール=ラシェーズ墓地に入りたいやつは)好きにしたらいいが、ブリュッセルはもっとすごいぞ、俺たちはギューギュー詰めなほどたくさんいるんだ。クリップに登場するだけでも、キャバレロ、ジャンジャス、ラ・スマラ、ロール・デュ・コマン(3人)... 連帯してブリュッセル・ラップシーンを盛り上げている。これが白耳義国のティーネイジャーたち(特に女子)に爆発的に受けて一大ブリュッセル現象が起こったのだそうだ。この歌の連帯性を地で行くようにロメオ・エルヴィスは連名のEPを何枚か出すのだが、2019年4月、正真正銘のソロ(ロメオ・エルヴィス名義)ファーストアルバムを発表。

 さて『ショコラ』である。ショコラは今日のベルギーを世界にアピールできる名産品であり、同じベルギー出身の世界のスーパースター、ストロマエが「ムール・フリット」をフィーチャーさせたような華麗なるベルジチュードか、と思われよう。違います。ショコラで色が黄色というのはおかしいだろう。バナナの皮色とも言えるが、関連はある。なぜならショコラとは"ライトドラッグ"のことなのだから。チョコレートを中毒的に食して恍惚に至る人もいるかもしれないが、この場合は銀紙に包まれた違うもの。ジャケ写の男(ロメオ・エルヴィス)の目が半開き、口が半開きは"ショコラ”が効いてる状態なのね。表題曲「ショコラ」(2曲め)は、自分の悪ガキだった頃(ショコラばかり吸ってた頃)の体験から始まって、若い世代にショコラに手を出したらいかん、ショコラに頼ったらいかん、と説教を垂れる。
ショコラをやり出したらだめだ
もしもやるんだったら必ず二人でやれ
おまえはこれぐらいの算数はわかるよな
葉っぱ(ショコラ)をあてにしたらだめだ
 ライトドラッグをテーマにした曲はこんな感じだが、アルバムにはヘヴィードラッグを歌った曲もあり、これだけではすまない。
 アルバムからの最初のシングルとして先行発表されたのが3曲めの「マラード(Malade)」で、これは失恋という長〜い病気期間のことを直情的に表現したもので、どことなく(大名作)ストロマエ「フォ〜ルミダブル」を想わせるやけっぱち加減。
Quand on a cessé d'aimer on doit se laisser tranquille
愛するのをやめたとき、そのまま大人しくしていないとだめだ 
愛を失った時、大人しくしてられないほど、病気(malade)になるほど人は長い間苦しむのであり、これはアズナヴールやブレルのシャンソンのようなテーマだ。ほかの頭の固いシャンソン歌手たちと違って、アズナヴールは早くからラップ表現を支持していたし、シャンソンの未来までラップの中に見ていた。MCソラール、アブダル・マリック、ストロマエ、オレルサン、グラン・コール・マラード... この言わばラップ/ヒップホップの中の「シャンソン派」のような系列にロメオ・エルヴィスを位置付けてもいいんじゃないですか?
 このアルバム『ショコラ』には、マチュー・シェディド(-M-)とデーモン・アルバーンという二人のゲスト(大)スターのフィーチャリングがある。シェディド・マチューの裏声ヴォーカルをフィーチャーした「パラノ(妄想症)」(5曲め)は上の「マラード」と共通する21世紀的焦燥の歌である。
恋人よ、あなたが前と同じ人間なら
どうしていくつかのことは変わってしまったの?
平日に私に電話くれる回数減ったわね
長い裁判訴訟に私を陥れたみたい
パラノ、パラノ、パラノ、パラノ...
きみがそれを望んだんだろ、俺はパラノのど真ん中だ
パラノ、パラノ、パラノ、パラノ...
俺は死ぬよりは愛することを選ぶよ
性別も愛憎も交錯するスキゾなライムであるが、 妄想する根底には複雑さを超えて生き続けようとするバランス本能のような働きの狂いと修正の繰り返しがあるのだと思う。この歌はわしには結構強烈なのね。
 そしてデーモン・アルバーンが加わったアルバム最終曲(19曲め)「負け(PERDU)」である。これがいい曲なんだぁ!
俺はすべてをコントロールしながら、同時に敗北を喫してしまった
俺は群衆の中で自分を失い、澄んだ空気を求めている
俺はまもなく呼吸すらできなくなるような気がする
人目に追われ俺はその圧力で身をかがめる
通りに追い込まれ、俺は道を識別することもできない
家に帰りたったひとりでショコラを食べる
不快な味はパセリ(葉っぱ)では消え去らない
最後2行は「ショコラ」に始まったアルバムが(人にはやめておけと言いながら)、打ちひしがれて「ショコラ」に戻っていくエンディング。" "ça part pas avec le persil"はその不快感(不安)はパセリ(葉っぱの植物→大麻)では消え去らないという意味と、"persil”(ペルシル=有名な洗濯洗剤)で洗濯しても落ちない、というダブルなメタファー表現だけど、ライトドラッグではどうしようもないという結語。悲しくも美しいルーザーの歌。

 イントロとインターリュードを含み19トラック詰まった長尺アルバムは、そのほかに妙に小難しくなってヒップスターたちにも受けるようになったラップを皮肉る「ボボ(Bobo)」(7曲め)や、ヘヴィードラッグに冒されボロボロになっても正常(ノーマル)と救いようのない状態の「ノルマル(Normal)」(10曲め。閲覧注意だけど力作クリップ)、またベルギーの旧アフリカ植民地に関する政策を直接的に批判する政治的な「ラ・ベルジック・アフリック(La Belgique Afrique)」といった興味深い曲が印象に残った。

Roméo Elvis "Chocolat"
CD/LP Barclay / Strauss Entertainment
フランスでのリリース:2019年4月12日

カストール爺の採点:★★★★☆
 

2019年6月14日金曜日

ツイン・ピークスの男 やまみつのささやき

『ミエル・ド・モンターニュ』
"Miel De Montagne"

 この山のもの、と言うわけではない。知っている人は驚くと思う。マルセル・カンシュの息子、本名ミラン・カンシュ。マルセル・カンシュ(1954年生)は70年代半ばから80年代にかけて活動していた(ポスト・ロック、アヴァン・ジャズ・パンク)トリオ Un Département のヴォーカリスト/ギタリストとしてフランスのコールド・ウェイヴ/ノイズ・ロックのパイオニアと言われ、次いで90年代にはメジャーのバークレイ(フィリップ・コンスタンタン)と契約して、およそ商業性とは無縁の難解文学系の作品を何枚か発表する。バークレイは一方にアラン・バシュング(カンシュとは仲がいいのだ)というその世界のチャンピオンを有するレーベルなので、それもありかなと思うのだが、バシュングはある種のポピュラリティーを得ても、カンシュは全くそれがない。硬派でノイジーで高踏派で。2000年代からも独立系で作品を出し続けているが、もはや神話的アヴァン詩人ロッカー。
 そういう堅物の父親を持ったこの24歳の息子が一体どんな音を出すかと言うと...。ドリーム系シンセ・ポップ。落差はかなり大きい。まあ、親と同じようなことをしない、というのは健全な育ち方の証拠でもあるが。もともとハウス系DJで、それだけで喰えないから作詞作曲を始めた。その環境で育まれたプロ感覚というか、親父がどうしてポピュラーでないのかを肌で知ったフィーリングというか、こうすれば聴きやすく、耳に残り、リフレインを一発で覚え、快感を伝播できる、という術が身についちゃったんだろうねぇ。このオプティミスムについていけず、誰も彼の楽曲を採用しないので、自分で歌う(+演奏全部)ことに。ほとんどティーン・アイドル向けのような浮いちゃったナイーヴ歌詞
"きみにジュテームと言われてから、僕は前の僕とは違うんだ"(Plus le même)
”街角で見かけるあの娘、僕のこと一度も振り向かないけれど、僕はあの娘をずっと夢見てるんだ"(Cette fille)
決まり悪くなることを恐れてはいけない。ポップスとは歌詞じゃないよ、サウンドだよ、と今更ながらに認識させられる。われわれがガキの時分に心を奪われた英語ポップスなんて、響きだけで夢中になったものではないか。
今やその道の大家になったフィリップ・カトリーヌの平易でナンセンスで必殺のBセンス・ポップに続くものかもしれないが、制作されたクリップはすべて軽めのお笑い系に脚色されている。 シングルヒット狙い(狙おうと思えば狙えるキャッチーさ)の必殺イントロを持った "Permis B, Bébé"のクリップは、練馬変態クラブに囲まれて幸せそうなギーク青年に撮られているが、歌詞は
ボンジュール、マドモワゼル
今はまだお互いのこと知らないけど
きみの前にいると
僕は何も言葉が見つからないんだ
ボンジュール、マドモワゼル
こんな寒い外で何をしているの
良かったら僕の素敵なクーペで
送って行ってあげようか 
だって、僕はB免許を持ってるんだよ、ベベ
僕はB免許を持ってるんだよ、ベベ

何か特殊な運転免許のように思われようが、"Permis B(ペルミ・B)"=B種免許とは、日本の普通免許に相当する、言わば誰でも持っている免許証で、ことさらに"Bなんだぜ!”と自慢できる類のものではない。意気がって見ず知らずの女性を"ベベ”(へい、ベイビー)と呼びたい臆病少年が、 うまく言えずにどもってしまい "べ、べべ”となってしまったことが、"Permis bé bébé"(免許持ってんだぜ、べ、べべ)と発語されたということなんだろう。解説するとつまらなくなるけど。しかしナンセンスだけどこういうリフレインは絶対耳に残る、という良い見本。

 去年2018年にEPで発表され、YouTube2百万ビューの曲 "Pourquoi pas(いいじゃないか)"は、4行短詩の繰り返し。
きみと出会った時に
僕は一人つぶやいた
真っ裸で生きるのも
悪くないんじゃないか、って

これがフランスでの批評が持ち上げるような大いなるヌーディスト賛歌であるかどうかはアレとして、何度も"Pourquoi pas!"(悪くないんじゃないか)と言われると、曲も自然と、コレ全然悪くないね、という感じで聞こえてくる。なにかそういうマジックを心得たユルいポップなのだろう。このギーク君は水上スキーもできるのだね。

 それからこれぞ偽ナイーヴ・ポップ!と誰もが頷くであろう5曲め"L'Amour"(恋)は、シンセ・ボサノヴァのチープさがなんともいい感じで胸キュン。
僕は恋については何も知らないけど
ずっと探してるんだ、いつも探してるんだ
僕は恋については何も知らないけど
ずっと探してるんだ、毎日探してるんだ
恋、それはきみのことかも知れない
でももう遅い 僕は見逃しちゃった
恋、それはきっときみのことなんだけど
いつか僕のところに戻ってきてくれるかも

ギーク君と雪だるまの恋物語という設定の雪山クリップもナンセンスな中にそこはかとない哀愁(サウダージ)もある。ボサノヴァだもの(って安直な説明か)。

ミラン・カンシュ、芸名を「ミエル・ド・モンターニュ」(山の蜜)と言う。"Miel de Montagne" とグーグル検索すると、音楽アーチストのことよりも(山岳)地方特産品の通販サイトへのリンクの方が多い。それもいい感じ。"M"iel de "M"ontagneとMの字を重ねたのは、形状がツインピークス山状である文字 "M"を強調してのことだろう。日本では山は逆さすり鉢状であるが、アルプスなどの険しい山の地方ではすそがやや開いたM状で表現される。Mが二つ重なると険しい山並みを想像できよう。昭和のマンガ「エムエム三太」ではエムエムは「ミラクル・マイティー」の略であった。このアルバムはミラクル・マイティーとは程遠いヘナチョコであるが、マジックの"M"はあると思うよ。
J'M bien MM.

<<< トラックリスト >>>
1. Plus le même
2. Pour rien au monde
3. Permis B bébé
4. J'y peux rien
5. L'amour
6. Ces rêves
7. Cette fille
8. Pourquoi pas
9. Fragile
10. Le soleil danse

MIEL DE MONTAGNE "MIEL DE MONTAGNE"
CD/LP PAIN SURPRISES/DELICIEUSE MUSIQUE
フランスでのリリース:2019年4月

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)必殺のスロー "Le Soleil Danse"




2019年6月10日月曜日

ギミー・シェルター

"기생충"
("Parasite")
『パラサイト』 

2019年韓国映画
監督:ポン・ジュノ
主演:チェ・ウシク、ソン・ガンホ、チョ・ヨジュン
2019年カンヌ映画祭パルム・ドール賞作品
フランスでの公開:2019年6月5日 

Mmm a flood is threat'ning  (洪水がやってくる)
My very life today  (俺の特別な日だってのに)
Gimme, gimme shelter (避難場所をくれ)
Or I'm gonna fade away (さもなきゃ俺は消えちまうんだ)
War, children, it's just a shot away (たった一発の銃弾で戦争は始まる)
It's just a shot away (たった一発の銃弾で)

(「ギミー・シェルター」ローリング・ストーンズ 1969年)

ンヌ映画祭は(昨年の是枝『万引き家族』に続いて)2年連続で極東のちょっと変わった家族映画にパルム・ドールを与えたわけです。共通しているのは最底辺に生きる人たちのリヴェンジということですね。この映画はエティエンヌ・シャティリエーズの出世作『人生は長く静かな河』(1988年)における最底辺家族グロゼイユ家と最上流ブルジョワ家族ルケノワ家の関係にも似た、最貧が最富を寄生虫(パラサイト)のように侵食していくストーリーが軸になっていますが、シャティリエーズ映画から30年後に作られたポン・ジュノ映画は、今や牧歌的とも思えるシャティリズーズ映画のワイルドながら調和的な"下克上"ハッピーエンドになどなりようがないのです。この30年の時の流れは、ネオリベラル資本主義の極端に苛烈な社会破壊の時間であり、貧乏と金持ちの格差の拡がりは計り知れぬものがあります。韓国は世界経済的には比較的うまく立ち回っているではないか、と思うむきもあるかもしれません。お立会い、そろそろものごとを国単位で考えるのはやめましょう。このネオリベラル経済において、成功している(あるいはうまく立ち回っている)のは国ではなく、その国の寡占階級にすぎないのです。ルールのない(それがリベラルですから)無限の利潤追求に成功する人たちに無限の富が集中し、貧乏人は限りなく増え、その困窮はどんどんひどくなっていく。これがリベラル世界のいたるところで起こっていることで、日本にもフランスにも韓国にも同じようにごく一握りの極端なオリガルシー(寡占階級)と、過酷な条件で生きることを余儀なくされる圧倒的多数の底辺の人々がいます。日本は比較的恵まれていると国単位で考えたがる人たちは、このネオリベラリズムの現実を直視できないでいるのです。オリンピックで金メダルを取れば、万人に富がもたらされるような幻想のまやかしをありがたく信仰しているのです。ま、それはそれ。
 さて映画の主役陣はソウルの最下層家族であるキテク一家(夫・妻・息子・娘)で、路地裏の地下室(明かり取りのガラス窓が道路面に、そこに通りがかりの酔漢が習慣のように立ち小便を)で、スマホとパソコンはあるが、階上住人のWiFiを傍受してやっとネットでつながっている。家族全員失業者、キ・テク氏(演ソン・ガンホ)は元運転手、息子のウー(演チェ・ウシク)は雑学・教養の豊富なインテリ君だが学費が払えず学業を断念、娘ジュン(演パク・ソダン)はパソコン細工が得意。その学歴も経歴もない息子に、大富豪パク家の娘の家庭教師の話が転がってくる。妹の超テクでアメリカ有名大学の卒業証書を偽造し、超豪華建築のパク邸へ面接に。ここでまた『人生は長く静かな河』を引き合いに出しますが、この面接に出てきたパク夫人(演チョ・ヨジュン)は、かのシャティリエーズ映画の大ブルジョワ家のルケノワ夫人(演エレーヌ・ヴァンサン) に本当によく似た気立ての良い世間知らずクーガーで、二人の子供(高校生の娘と幼稚園の息子)を最良の条件で育てたくて、そのためならば何も惜しまない盲目的愛情があります。パク夫人に気に入られ、やや過剰性欲気味のJK娘もとりこにし、ウーは就職に成功して、パク夫人の子思いを利用して、幼い息子の描く絵に精神的トラウマの兆候があり、それは時間をかけて治す必要があり、絵の先生兼心療ヘルパーとしてアメリカで勉強したジェシカ(実は妹のジュン)を雇い入れることを勧めます。こうして大富豪家にはそうと知られず、キテクの息子と娘はパク家で働くことになります。次いでパク家のお抱え運転手をジュンのお色気作戦をつかって解雇させ、晴れて父親キテクも(その家族関係を知られず)運転したこともない最新最高級のメルセデス・ベンツを運転する大富豪家運転手になります。さらに完璧この上ないパク邸家政婦をも(その桃アレルギーという奇病を発生させ)解雇させ、キテクの妻が雇われるという...。こうして大富豪の四人家族の家庭の中に、極貧の四人家族が寄生虫のように侵入することができたのです。
 しかしカタストロフは起こります。パク一家が泊りがけでリゾートに出かけていくのを見送ったあと、不在中この大邸宅を自由に使えると踏んでいたキテク一家は四人でパク家所蔵の高級アルコールと高級食品で豪勢に酒盛りをして盛り上がっています。外は激しい雨。こんな嵐の夜に、解雇された完璧家政婦が地下蔵に私物を忘れていたので取りに来た、と...。ここで一つめの大カタストロフ。それに続いてパク一家も旅の予定が嵐で全部中止になってしまったと、家に帰ってくるのです。第二の大カタストロフ。映画館はこの連続の大カタストロフシーンで大笑いに包まれることになります。実にバーレスクに可笑しい。
 命からがら三人(キテク妻は家政婦なのでパク邸に残っている)が山の手高級住宅街から、ソウル下町に逃げてくると、山の手ではただの大雨だったのが、下町では大洪水になっているのです。そして地面より低い位置にあるキテクの地下住宅の中は汚水が波立つプール状に轟々と...。これがネオリベラリズムの現実の地獄なのですよ。

 本記事の頭にローリング・ストーンズの「ギミー・シェルター」の歌詞を引用しましたが、この歌はこの映画と全く関係がないものの、映画はクライマックスとして洪水、そして戦争(おそらくキテクの中での抵抗戦争)を持ってくるのです。そしてシェルターはこの映画の重要な要素です。今日もなお終戦していない朝鮮戦争を生きている国であり、核の脅威が現実にあるところです。この映画の大富豪パクの大邸宅にも、たぶん同地の多くの金持ちたちが設置しているであろう核シェルターがあるのです。映画ではパク邸の地下核シェルターに逃げ込み、生き続ける人がいるのです。この映画はその韓国的現実もはっきりと浮き彫りにするのです。
 第一のカタストロフで逆襲に出て一旦はキテク一家をギャフンと言わせた元家政婦が、北朝鮮中央テレビのあの名物女性アナウンサーの口調で勝利宣言的な演説をするところは、さすがにフランス人観客には笑えなかったですが、私たち日本のテレビでしか知らない人間でも大笑いものでしたよ。
 そして、パク家に寄生虫として入り込んだ四人を「家族だ」と最初に見抜くのは、幼いパク息子なんですね。それは四人が皆同じ匂いがすると言うのです。金持ち社会ではみんなそれぞれ違う匂いがするが、貧乏人は皆同じ匂いがするのですよ。これは悲しいけれど、そうなんですよ。
 いろいろと隠し味的なエピソードもとても効いていて、本当に頭が下がる。ひとつだけ紹介すると、この男たちは老いも若きも(ボーイスカウトなどで教わって)モールス信号を知っているということ。これも朝鮮半島的現実の一部なのかもしれない。このインターネットやスマホの時代にあっても、最終的にサバイバルを可能にする通信手段はモールス信号であろう。映画は核シェルターに逃げ込んだ人間と、外でそのメッセージを受け取る人間がモールス信号でやりとりするのですよ。おそらく何ヶ月も何年も...。
 すばらしい役者たちと、さまざまなカタストロフ(すばらしい洪水)と、ネオリベラル経済の現実と、朝鮮半島の歴史に由来する悲喜劇と... いっぱい詰まった傑作映画です。

カストール爺の採点:★★★★★

↓『パラサイト』 フランス語字幕版予告編


↓『기생충 (Parasite)』インターナショナル・トレイラー


↓ローリング・ストーンズ feat ライザ・フィッシャー「ギミー・シェルター」(Live 1995)


2019年5月17日金曜日

おかあさんは川へ洗濯に

"Dolor y Gloria"
『苦悩と栄光』

2019年スペイン映画
監督:ペドロ・アルモドバール
主演:アントニオ・バンデラス、アシエル・エツェアンディア、ペネロペ・クルス
2019年カンヌ映画祭(コンペティション)出品作
フランスでの公開:2019年5月17日

 映画のための映画。映画によって救われる映画人の映画。アルモドバールの自伝的要素を大きく含む作品で、自身の化身アントニオ・バンデラスが泣かせる「男」の映画。
 サルバドール(演アントニオ・バンデラス)は長い間映画から遠ざかっている監督で、インスピレーションの枯渇だけでなく、持病と自分では思っている脊髄障害で腰痛・背痛・頭痛・耳鳴り・不眠症に悩まされている。32年前に撮った映画 "Sabor"(味)がリストアされシネマテーク入りし、再評価の気運が高まっているが、当時サルバドール自身はひどく低く評価していたのに今見直すと良い作品だったことが改めてわかってきた。そのシネマテークでの再上映会に合わせて、サルバドールは主演男優だったアルベルト(演アシエル・エツェアンディア)と再会する。32年前はサルバドールはアルベルトの演技が気に入らず、ほとんど喧嘩別れとなっていた二人だったが、旧交はすぐに深まっていく。当時からアルベルトが常習的なジャンキーだったことを知っているサルバドールは、持病の緩和になればと、生まれて初めてアルベルトからヘロインを分けてもらい試してみる。その効果でサルバドールに蘇ってくるのは少年の日の思い出なのである。 
スペインの田舎の貧しくも幸せな母(ペネロペ・クルス)との日々。川で洗濯をする女たち、歌を歌いながら洗濯ものを川辺の灌木の上に干す女たち、このシーン、本当に美しい。この洗濯女ペネロペ・クロスは『戦場を駈ける女(Madame Sans Gêne)』(1961年)の洗濯女ソフィア・ローレンにそっくりだ。
 天才的に早熟で賢く読書好きで、美しい声で歌を歌える子供だったサルバドール(演アシエル・フロレス)は、家に学費の余裕がないので、推薦で入れて学費無料の神学校で学ばせたいという母に逆らい、死んでも神父になどなりたくないと言う。 ある日、聡明博学な少年サルバドールの前に、読み書きを知らない左官職人の(美しい)青年が現れ、手紙の代書をしてくれないか、と言う。少年は今の世の中に読み書きができないのは一生の損だと青年を諭し、マンツーマン授業で読み書きを教えてやろうと言う。年端もいかぬ小僧が大人相手に厳しい教師のような口調と教育法でスペイン語の読み書きを叩き込むのだが、これが少年の「性の目覚め」になるとは...。
 初老のサルバドールは沈痛のつもりで始めたヘロインにいよいよ依存症になっていき、幻覚の中で再会する過去が少しずつ彼を変えていく。創作から遠ざかっていたはずの彼には手をつけられずにいる過去の書きかけがいくつかある。サルバドールの幻覚トリップ中にアルベルトはサルバドールのパソコンの中身を盗み見、保存されていたファイルの中の「アディクシオン」と題されたテクストの美しさに心打たれる。かつては喧嘩別れしたものの、サルバドールの優れた才能には敬服していたアルベルトは、俳優として再起するためにこのテクストが欲しい(独り舞台演劇の台本に使いたい)とサルバドールに迫る。最初は頑なに拒否していたものの、ヘロイン欲しさか、少し上向きかけた創作意欲のゆえか、サルバドールはそのテクストを推敲して手を加え、「このテクストはまさしく俺の告白であり、この作者が俺であることは知られたくない、だから作者として俺の名前を出さないでくれ」という条件でアルベルトに差し出す。
 そしてマドリードの劇場で上演されたこの作者不詳のモノローグ劇「アディクシオン」は、アルベルトの会心の演技で大好評を博す。それは30年前の覆面作者(サルバドール)の創造の泉が溢れ出ていた頃、そのインスピレーションのすべてだった恋人(男)との激烈な愛と苦悩と中毒(アディクシオン)を(メロ)ドラマティックに表現したもので、エモーションは観客席を包み込んでしまう。その観客席の中に、なんと、数年ぶりにブエノスアイレスからたまたま一時帰国していたという30年前のサルバドールの恋人、フェデリコ(演レオナルド・スバラグリア)がいたのである。上演後アルベルトの楽屋に飛び込み、作者に会わせてくれ、と。その夜のうちに、フェデリコはサルバドールの住むマンションのドアを叩き...。↓写真サルバドール(アントニオ・バンデラス)とフェデリコ(レオナルド・スバラグリア)
この映画で間違いなく最も感動的なシーン。30年前に別れの言葉もなく別れた二人が、その後のいきさつ話に花を咲かせ、あっと言う間に夜は過ぎ、抑えていたエモーションは今にも爆発しそうなのにぐっとこらえ、「アルゼンチンに遊びに来いよ/ああ、絶対に行くよ」などとあり得ないとわかっていることを言い合い、30年前にできなかった真の別れのあいさつのように、唇と唇で激しく接吻するのですよ!

 50年前、少年サルバドールがスペイン語の読み書きを教えていた美しい左官職の青年は、夏の暑い日、その持って生まれた絵心で段ボール紙の上に少年の姿を描いていく。サルバドールの家の台所のタイル張りの仕事を終えた青年は、台所の中で大タライに水を入れて裸になって体を洗う。美しい逆三角形の上半身。青年は少年にタオルを持ってきてくれないかと呼び、タオルを持って台所に入っていくと、サルバドールはそのあまりに美しい裸身の衝撃に気を失ってしまう...。その50年前に左官青年が描いた少年サルバドールの肖像画が、マドリードのアマチュア画秀作展に出品されているのを初老サルバドールが見つけてしまう...。

 その他すべての偶然はこの映画の中で、生気を失っていたサルバドールを「生」の側に少しずつ回帰させていく。そしてヘロインを断ち、脊髄の手術を受け、生き返りを決意するのである。再びめぐってきた創造のインスピレーションの導くままに、再び映画を撮るために。映画に救われるために。

 お立ち会い、この映画にはいつものアルモドバールのような奇抜さやズレのある諧謔はありませんよ。自分に正直な自分のことを語っている映画だから。たぶん幾多の映画監督がやったであろう「私は映画だ」タイプの映画と言えるのだろうが、この強烈さはアルモドバールさ、と言っておきましょう。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『苦悩と栄光(仏題 Douleur et Gloire)』 のフランス版予告編。


2019年5月14日火曜日

ボワット(ノワール)生きてんじゃ...

ITO Shiori "La Boîte Noire"
伊藤詩織 『ラ・ボワット・ノワール』
(原題『ブラックボックス』/日本語からの仏訳ジャン=クリストフ・エラリー&アリーヌ・コザ)

著『ブラックボックス』(2017年文藝春秋社)出版から2年後、2019年4月フランス語訳が出ました。著者よりやや若い世代に属するわが娘に読んでもらいたくて買ったのですが、薦める前にまず自分が読まなければ無責任と思い読みました。読み始めたら一気に読めますね。よく構成されているし、谷も山も谷も峡谷も丘もある流れも、ドキュメンタリー映画制作者のセンスを思わせるメリハリ+立体感です。原著は当然日本語読者を想定して書いたでしょうから、こういう(ノンフィクション)本の外国語翻訳だと、日本における付帯状況に関する脚注解説でページがうるさくなるものなのですが、なんとほとんど注釈がありません。これは仏語訳者のたいへんな手腕ではないかしらん。最初からフランス語で書かれたアキ・シマザキの小説群に見られるような文中の時に説明的にすぎる(歴史的状況的)日本背景の記述がありませんが、それがなくても、ここに見えてくるのは紛れもない日本です。
 シマザキの小説のようにその日本には重苦しい公的抑圧(パブリック・プレッシャー)があり、可視不可視にのしかかる性差別や、「普通に生きる」ために不文律のしきたりに従ったり、沈黙したり、逆らわないようにしたり、という古いモラルがあります。伊藤がこの事件を最初に告白する相手は家族(両親と妹)ではない。家族には心配をかけたくない、何事もなかったことにしておきたいというのが最初の反応で、実際に事件の翌日に会うことになっていた妹とは、何事のなかったように会い、お茶とショッピングをするのです。自分が強姦被害者であるのに、そのことで家族に迷惑がかかってはいけない、とまず最初に考えてしまう。「家族に迷惑」って何ですか? 確かに伊藤の生い立ちと経歴も記述されているので、小さい頃から勝気で闊達で、自分の好きなことをやり通すということにおいて、親にそのわがままを許してもらっていたというところはあるでしょう。自分の道を切り拓くために、十代からアメリカやヨーロッパで苦学生をしてきて、一人前になるまで親から学費生活費の援助はもらってきたわけですが、それは親の理解であって、親の迷惑や親への負債ではない。ひとたび成人して社会人になったなら、もう親に迷惑をかけてはいけないという、よく言えば独立心、悪く言えば負債返済心みたいなものが、この伊藤の手記ではとても気になった。この悲劇的事件に両親家族は抗いようもなく巻き込まれていくことになるのだけれど、伊藤の描写では娘の惨事におろおろと狼狽する優しく弱々しい両親と、娘のその後の行動を心底のところで理解できていない両親も登場する。それはしかたない。だがその「極力迷惑をかけたくない」という性向は、伊藤があの事件から闘っていくことになる旧態然とした日本のモラルの重要な一部なのではないのでしょうか。家族に社会に世の中に迷惑をかけたくないという理由で、性暴力被害に泣き寝入りする女性たちのケースのどれだけ多いことだろうか。自分が受けた幾多の言われのない攻撃は、家族にも及んでしまうのだけれど、それはしかたのないことであって迷惑ではない。自分の闘争を一緒に闘ってもらうのだから、両親家族にも。味方なんだから。
 それはそれ。事件は(みなさんご存知のように)2015年、東京、伊藤当時26歳、TBSワシントン支局長だった山口敬之によるレイプドラッグを使った意識のない状態での強姦行為の被害者である伊藤が警察に訴えた結果、山口が「準強姦」事件の容疑者として逮捕される寸前に「上からの支持で」逮捕されず、事件そのものも不起訴となった、というもの。本書はその全容を詳らかにし、被害者である伊藤が逆に追い詰められていくような、言わばカフカ的に不条理な警察捜査の連続、日本における「性犯罪」に関する法制度の前時代で封建的で性差別的な実態、そして国家の上層部からの指示があれば法律など通り越して不正が免罪される現政権の「ユビュ王的独裁国家」的圧力まで暴露している。性犯罪の女性被害者たちが、日本では告訴しても「勝てっこない」ということがシステムとして確立されているような分厚い壁もよく説明されているし、理不尽極まりないことに今年になって連続している「男親による実娘強姦事件」の無罪判決も、本書が解読する現行の(明治以来変わっていない)法制度では抗いようがないものに思えてきます。「抵抗の形跡がない」が「同意の上」に解釈されてしまうということです。
 本書を外国語翻訳で読む人たちはたぶん驚くに違いない「準強姦」なる日本の法規定語があります。フランス語では "quasi-viol(カジ=ヴィオル)"と訳されていて、そのまま仏訳の造語です。「おおよその性暴行」「ほとんどの強姦」という意味になるかと思いますが、それがどういう行為なのかというのは判断できません。また英語では "quasirape"となっていて、これはそのまま読まれれば "almostレイプ”、"semi レイプ"だと解釈されましょう。ご丁寧にも ネット辞書Wiktionary には "quairape"の項があり、こう説明されています。
Simulated rape for example as a type of roleplay.
(例えば役割演技の形式による見せかけの強姦)
つまり、これは強姦/性暴力ではない。演技や見せかけであって強姦とは別物と英語では思われてしまう。 日本語の字面を見ても"準”がつくことによって、本物ではないこと、擬似のこと、という印象を受けます。そこまで至っていないもののような印象です。ところが、これは強姦に変わりがないのです。日本の刑法規定で意味する「準強姦」とは、
女性の心神喪失や抵抗ができないことに乗じて、または暴行・脅迫によらずこれらの状態にして姦淫する罪 (デジタル大辞源)
 のことなのである。正真正銘のレイプ行為なのです。 暴力を伴えば強姦、暴力が介在しなければ準強姦、というこの名称の分け方は被害者が被る身体的精神的打撃に対してあまりにも無神経ではないですか。あなたが受けた強姦は「ソフト」でしたよ、と法律から規定されてしまったような。レイプにハードもソフトも正も準もない。レイプはレイプなのである。
 山口が使用したレイプドラッグによって(この部分は確定的な証拠がない)心神喪失状態にされた伊藤は、山口の宿泊するホテルの部屋に運ばれ、未明にレイプ被害のさなかに意識を取り戻すが、その前夜の寿司屋からそこに至る一部始終の記憶が全くなくなっている。警察はその強姦犯罪捜査において、ホテルなどの密室における事件の犯罪立証の難しさについて「ブラックボックス」という表現をつかったと本書は言っているが、当然その上の意味で、生存者ゼロの飛行機事故の事故原因の重要な手がかりとなる操縦士ヴォイスレコーダー(ブラックボックス)と同じような働きをなすはずのものが、伊藤の失われた記憶のほかにあるはずなのである。寿司屋、タクシー運転手、ホテル従業員、ホテル防犯カメラなど、伊藤の記憶の代わりになる断片を拾い集めてパズルを埋めていく作業は困難を極めるが伊藤は決してあきらめない。ブラックボックスは少しずつ開いていく。ここが本書の表現力の優れたところで、ミステリー的に読者は引き込まれよう。
 だがあえてこの伊藤の書の文学的な重さについて言えば、それは上でも一箇所で形容したように非常に「カフカ的」な日本社会が構造的に「女性」および「性犯罪被害者」を貶めていく、その力学を伊藤が苦悩して格闘して明晰に描写する筆力であり、カフカ的不条理の黒さに読者はきわめて文学的な体験を共有すると思いますよ。その文学的な重さに関しては、北フランスの田舎でゲイと貧困ゆえに虐めぬかれた少年時代を描いて21歳で作家デビューしたエドゥアール・ルイと共通する繊細でありながら自制のきいた(底知れぬ)パワーを思わせました。だから、いつか伊藤が(自伝的であってもいい)フィクションを書く日が来たら、その文学的昇華力は必ずやインパクトの強いものであろうことは間違いないと思いますよ。
 アメリカやヨーロッパの多様なリファレンスを提示できるし、ジャーナリストとして現場体験(コロンビア密林の反政府ゲリラ/麻薬密売地帯などの取材)で培われたのか、この若い女性はかなりのところまで自己防御できる鎧を身につけてはいます。しかし彼女を孤立させてはいけない。ひとりにしてはいけない。日本のカフカ的不条理な社会構造は伊藤ひとりではどうすることもできないものだから。私は娘ほかフランス人の友人たちにこの本を読んでもらうようすすめます。伊藤詩織を応援します。

カストール爺の採点:★★★★★

ITO SHIORI "LA BOITE NOIRE"
Editions Picquier刊 2019年4月 230ページ 19.50ユーロ

( ↓)2019年4月19日、国営テレビFRANCE2の朝番組「テレマタン」で5分にわたって紹介された伊藤詩織の事件とその行動と日本の反響に関するルポルタージュ。たいへん良くできています。


(↓)2024年に英国公開された伊藤詩織自身の構成監督によるドキュメンタリー映画『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』の予告編。