2021年2月20日土曜日

酔うて消えろ

Daniel Fernández "Si tu me perds"
ダニエル・フェルナンデス「僕が姿を消したら」(1981年)

ルダ・フェルナンデス(1957 - 2019)はバルセロナで生まれたがカタロニア人ではない。アンダルシアから仕事を求めてバルセルナに”国内移民"したアンダルシア人の子供であり、誇り高いバルセロナ/カタロニア人たちから差別を受けた記憶がある。おまけにフェルナンデス家の信仰はプロテスタントだった。アンダルシア人でプロテスタント、これは(スペインでもフランスでも)マジョリティーとは違う生き方である。ジタンと同じように、フラメンコはDNAに刷り込まれているとニルダは言う。ノマド的性向もしかり。6歳の時にフランスに渡り、リヨンで少年時代を過ごす。スペイン語教師となった頃ギターを作詞作曲、妹とバンドを組み、小さなホールで歌い始める。イエスのジョン・アンダーソンとよく比較される小柄な体から出る高音のハスキーヴォーカルは早くから評判になっている。
 1981年パテ・マルコーニ(EMI→現ワーナー)と契約、バルバラの制作プロデューサーとして知られるクロード・ドジャック(Claude Dejacques 1928 - 1998)のプロデュースで本名ダニエル・フェルナンデス名義のアルバム(全曲フェルナンデス作詞作曲)を発表。この"Si tu me perds"を含む13曲入りLPアルバムは、当時大きな注目を集めることはなかったが、1993年に"Le Bonheur Comptant"というタイトルでCD再発されている。
 才能への揺るぎない自信のせいなのか、DNAに刷り込まれたと自ら認めているノマド的な性格のせいなのか、彼はレコード会社とのトラブルが死ぬまで絶えなかった。”ヒット曲”を求めるレコード会社の方針と衝突し、プロモーションを嫌う。1981年のメジャーデビュー後、ダニエルは姿を消し放浪の旅へ。1987年ディスク・ドレフュス(クリストフ、ジャン=ミッシェル・ジャール...)からシングル「マドリー・マドリー」で再デビュー、ニルダ・フェルナンデスと改名。妖しいアンドロギュノスの出で立ちは、多くの男女(ここ重要)の心を虜にしたに違いない。このシングルヒットの後、アーチストは再び姿を消し、1991年にEMIからアルバム『ニルダ・フェルナンデス』で再々デビュー、"Nos fiançailles"、"Mes yeux dans ton regard"など大ヒットシングルも出て、その年のシャルル・クロ・ディスク大賞とヴィクトワール賞も獲得し、全国区的評価を確かなものにした。私はその1991年にフランスEMIの社屋でニルダと会い、半時間ほど話した。繊細さが小さな全身から伝わってくる青年という印象だった。しかし、そのまま安定したアーチストポジションになることを拒絶して、その後もレコード会社とのトラブル、蒸発、放浪を繰り返し、南米(とりわけアルゼンチン、メルセデス・ソーサと共演)、ニューヨーク、スペインなどに出没し、2001年からは5年間ロシアに居を構えていた。旅と出会いこそがニルダのアートの糧、と言えば聞こえはいいが、追い続ける熱心なファンたちも少なくなかった。
 音楽業界とのトラブル(メジャー会社を公然と批判攻撃している)のせいかもしれないが、後年のニルダはアルバム作りをあまり大事にしていなかったと思う。レコード/CDを軽視しても、ライヴでのファンたちとの交感を最重要に考えるタイプのアーチストだった、と。
 それにひきかえ、1981年のこの『ダニエル・フェルナンデス』というアルバムは、どれだけ丁寧に作られていたか、と頭が下がる。きちんと再評価されるべき。
 中でもこの"Si tu me perds"は何度聞いてもうっとりする。アンドロギュノス的で少年少女が想うような死や別離が、モノクロのスライドショーのように連写されるイメージ。詞はこんな感じ。

アマゾンの流れに飲まれて、

サイクロンに巻き込まれて、庭のガラクタの山に埋れて
僕が姿を消したら
きみの記憶の中に僕の眼差しだけをとどめておいて

 

何のためかは知らないけれど

ひとりで行かせるべきじゃなかったね

行って、行ったきりで帰ってこない、
それはほんものの愛じゃないね


狂った群衆に連れ去られて、

猛った波に巻き込まれて、物置のごちゃごちゃの下に埋まって

僕が姿を消したら

きみの思い出の中に、僕の微笑みだけを残しておいて

何のためかは知らないけれど

ひとりで行かせるべきじゃなかったね

行って、行ったきりで帰ってこない、
それはほんものの愛じゃないね

すべてのことを語り合ってないのに

ひとりで死なせたらいけなかったね
死ぬなんて、何も告げずに死ぬなんて
それは友だちじゃないよね

 

アマゾンの流れに飲まれて、

サイクロンに巻き込まれて、僕の家の瓦礫に埋れて

きみの姿が消えたら
僕の記憶の中に、きみの物語だけしまっておいて

僕の記憶の中に、きみの眼差しだけをとどめておいて

きみの思い出の中に、僕の微笑みだけを残しておいて

このダニエル/ニルダ・フェルナンデスというのは詞もメロもその歌唱もふるまいも”少女マンガのキャラ”だったと思っているし、たぶん私は丁寧に描かれた少女マンガを愛するようにこのアーチストを愛していたのだと思う。丁寧に作られたサウンドもすばらしい。この録音でギターを弾いていたフランソワ・オヴィド(1952-2002)はプログレ系で日本でも知られた人だったが、プリミティヴ・デュ・フュチュール、ウクレレ・クラブ・ド・パリにも在籍しており、2002年窓からの転落死という最後だった。そして耽美な音色のバンドネオンはジルベール・ルーセル(1930-2002)という50-60年代の名アコ奏者。本当に丹精込めた録音だったと思う。


 ニルダ・フェルナンデスはその30年後、イタリアのジェノヴァで録音したアルバム『ティアーモ(Ti amo)』(2010年)の中で、この"Si tu me perds"をワールド/エスノ風味を加えて再録音しているが、オリジナルに比べてまさに丁寧さがかなり欠落しているように聞こえる。



【蛇足】
本稿を書きながら出会ってしまった名アコーディオン奏者ジルベール・ルーセル、シャンソン復刻で知られるマリアンヌ・メロディー社から出ている編集盤CD"Il en faudrait si peu"から、1962年録音(作曲ジルベール・ルーセル)の「セーヴル橋(Pont de Sèvres)」という曲。アルバム『ダニエル・フェルナンデス』も録音された我が町ブーローニュのセーヴル通りにあったパテ・マルコーニ(EMI)の録音スタジオ(ローリング・ストーンズも何枚か録音している)、そこの専属アコ奏者でもあったルーセルが、そこから見えるセーヌ川にかかるセーヴル橋をイメージして書いた曲ではないか、と勝手に想像している。なんて美しいミュゼット・ワルツ。
 

 

3 件のコメント:

Tomi さんのコメント...

ニルダは私の中でも死ぬまで忘れられないアーティストのひとりです。
私がニルダを知ったのは1997年のアルバム「Innu Nikamu」からなので、「Le Bonheur Comptant」の
存在は知っていますが、アルバム全曲を聴いたことがないです。 
でも「Si tu me perds」は2014年に来日してくれた時に歌ってくれて、彼にとっても大切な歌であることはその時聴いていて強く印象に残っています。彼が放蕩を繰り返し、いつも真理を探しているような眼差し、そしてどんなに笑顔であってもどこか寂しげな眼差しが忘れられません。
2014年来日後、遂に2度と彼の歌声を生で聴けなくなってしまったことが残念でなりません。

Pere Castor さんのコメント...

Tomiさん、コメントありがとうございます。ほとんどコメント投稿のないブログなので、たいへん貴重です。
このアーチストに特徴的なことのひとつにレコード会社を敵に回すということがあります。あの当時公然とそれをやっていたのはマニュ・チャオとこのフェルナンデスの二人が目立っていましたが、前者とはセールスの点で大きな差があり、フェルナンデスは声はすれどドン・キホーテ的な闘いのように見えました。ロシア滞在中はスター扱いだったと言いますが、どうもその辺も。自分のやりたいことを通した感はあります。音楽だけでなく著作や劇や映像などでトータルな芸術家のイメージはありますが、やはりそのノマド的な生き方そのものが彼の芸術だったのかもしれません。アンダルシアのDNAだと言いますが、おおかたの世論傾向に逆らって闘牛を擁護する立場です。それからオフィシャルに結婚している女性だけではなく、放浪先ではたくさんストーリーがあるようで、子供の数も定かではないそうです。そういう生き方でした。

トーキョートム さんのコメント...

Nilda Frenandzに関する詳細な記事をありがとうございました。おかげで2000年以降、活動が停滞した原因が少しわかりました。Si tu me perdsはDaniel Fernandez(1981)の中でとびっきりの名曲ですね。Nildaの曲の中でも5指に入ると思います。このアルバム全体については牧歌的な印象であまり聴くことがありませんでしたが、とても丁寧に作られているとのことなので、聴き直してみます。Le Bonheur ComptantがDiscogsにあったのでポチッとしてみました。
今日は車の中でTi amo(2009)バージョンと聴き比べしてました。こちらは少しアップテンポになって力強くこれはこれでイイ感じです。24歳と43歳、繊細でナイーブな印象は変わりません。
Nildaと出会ったのは、M.Polnareff Kama-Sutraがリリースされた少し後の19991年渋谷WAVEでした。「女性と聴き違えるほどの美しいシルキーヴォイス…」解説が添えられており購入しました。これカストロールさんが書かれたのではないでしょうか。以前、Nildaと食事した(?)と書かれていたので、六本木あたりの話と推測してました。パリのEMIでしたか。
話が少し脱線します。昨日の徹子の部屋のゲストがカルーセル麻紀さんでした。現在78歳、白髪が素敵な美しい御婆様になられてました。コロナ禍に脳梗塞になられたそうです。戦時中に生まれて父親から「徹底的に戦う強い男になれ」と徹男と命名されました。中学卒業後、徹男から麻紀に改名する際、親兄弟と縁を切り勘当されたそうです。Nildaの場合どうだったのでしょうか。普通は女の名前を名乗るなんてとんでもないとなるでしょう。レコード会社が女性のような声と容姿の中性的な歌手で売りだそうとしたのか。もしそうであるならそれこそ戦うべきです。もしくは同性愛者であることをカミングアウトしたのか。少女漫画から飛び出してきた王子様のようで、大抵の女性はメロメロになるのにもったいないと思うのです。
tomiさんはNildaのライブに行くことが出来てよかったですね。僕は2014年に来日したのを知ったのはしばらく後のことでした。見逃したことは痛恨の極みです。これからの目標は、ライブCDCompiegne(2003)とBASTAYA(2013)を手に入れることです。