上映ポスターに日本語題を印字して挿れたり、エンドロールに出演者などをアルファベットとカタカナで表記する「日本撮影映画」にろくなものはない。この4月に見たエリーズ・ジロー監督『シドニー、日本で』(主演イザベル・ユッペール)のことを言ってるんですが。おまけにヴェンダース『パーフェクト・デイズ』(2023年)と同じように”東京風景”が大いにものを言う映画。それに幻惑されたのかテレラマ誌はこの映画評で「ロマン・デュリスと”東京”という二人の偉大なアクターに照らし出された父性に関する繊細で美しい映画」と高評価を与えている。どうしてどうしてどうして東京がそんなにいいんだろ。 ベルギー人監督ギヨーム・スネが前作『パパは奮闘中(Nos Batailles)』(2018年)のプロモーションで主演のロマン・デュリスと来日した時に、この「子の親権問題」(日本が世界でも稀な”単独親権”法を堅持している国であり、両親の別離に際して片親が独占的に親権を行使できる)について知り、特に国際結婚・離婚に多い、子が半誘拐状態で片親に養育され旧伴侶の子供との接触をシャットアウトしている多くのケースに興味を抱いた。フランスと日本の国際結婚・離婚に起因する子の親権問題(フランス及び世界のほとんどの国が共同親権を認めている)だけでも数十件に上り、フランスでのニュース沙汰になっている。 ただしこのスネの新作は上段に構えた社会派(つまり日本の単独親権制度を告発するといった)映画ではない。(国際離婚・国内離婚を問わず)親権を与えられず子供と引き離された片親の不幸と子との再会のための闘いが強調されて画面に登場するわけでもない。ここに見えるのはやはり「不思議の国ニッポン」と「不思議の都トーキョー」なのである。 フランス人ジェローム・ダ・コスタ(演ロマン・デュリス)は愛称を「ジェイ(Jay)」と言い、日本人からは「ジェイさん」と呼ばれる。東京の大手タクシー会社(KMタクシーという名前、まあ、ありなんでしょ)に所属するタクシードライバーであり、そこそこ流暢な日本語をしゃべり、東京の隅々の道路を知り尽くしている(同業運転手からカーナビに出てこない新住所への行き方を訊ねられて、スラスラと答えてやるシーンあり、笑ってしまう)。かつては上級レストランシェフだったが、日本人女性ケイコ(演Yumi Narita 在フランス女優)と結婚し、娘リリイが3歳の時に破局別居。離婚はしていない。離婚したら”単独親権の国”日本では完全に親権を失ってしまうのでそれを避けるために離婚を拒否している。しかしケイコはリリイを連れて行方不明になり、ジェイとのコンタクトを絶っている(映画の後半でジェイがずっと養育費を払い続けているという話になっていて、この辺辻褄が合わないが、ま、いいか)。それから9年、ジェイはタクシー運転手に身をやつし、巨大な東京で娘リリイを探し回り、娘に再会することだけを希みに東京に住み続けている。Jay le taxi, c'est sa vie. 流しのタクシーという言葉があるので、「東京流し者」とでもダジャレてみたいところだが、KMタクシー予約制のシフトに入っているので、会社の運用センターの無線指示通りに走る雇われドライバー。ある日同僚のホンダというドライバーが病欠(実は”過労バーンアウト”気味の仮病休みで、これは"エムケイ”社への当てこすりのようにも見える)で、ジェイが代役で起用され、脚負傷で松葉杖歩行の女子中学生の学校送迎を担当、この女子中学生がなんとリリイ(演メイ・シルネ=マスキ)だったのだ。
この偶然を絶対に逃してはならないと、ジェイはホンダに頼み込み女子中学生送迎の担当を続けさせてもらい、露骨に父親を名乗ることを避け、少しずつ接触の切り口を開こうと...。言わば中年ストーカーの未成年少女接近なのだが、それは名優ロマン・デュリスのチャーミングな日本語トーキングも手伝ってもどかしくも切なくて...。ブルジョワ女子中学生リリイは「おじさん日本語上手ねえ」などと事情を理解しようとしないコメントあり。「ハーフはいろいろ大変なのよ」などとしたり顔のコメントあり。怪我リハビリ中のアーティスティックスウィミング選手であるリリイのプールに忍者のように忍び込み、水着姿のリリイをスマホで盗撮するシーンあり→やはりこれは不思議の国ニッポンの性風俗への当てこすりなのだろうか。それはそれとして、タクシー車内という密室空間で、ジェイとリリイの距離は少しずつ埋まっていくのだが...。 さてこの映画に撮り込まれた不思議の国ニッポンと不思議の都トーキョーであるが、タクシーの車窓はヴェンダース『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃作業ライトバンからのトラヴェリングと似て、どこか哀愁の近未来メガポリスなのである。『パーフェクト・デイズ』と同じように何度か銭湯シーンあり。ジェイが脇腹にLilyという文字と花の刺青があり、それが銭湯では”禁止”という不思議の国ニッポンの掟に従って、大きな絆創膏を脇腹に貼って入浴しなければならない。何度めかに「お客さん、タトゥー見えちゃってるんですよ」と銭湯の親父にたしなめられるシーンあり。 単独親権の犠牲になって子供と離ればなれになって生きる片親たちの互助サークルがあり、9年目のジェイはその世話人のような役割を担っているが、そこに集う親たちは外国人だけでなく日本人もいる。一緒にその苦労を語り合ったり、カラオケでウサを晴らしたり...。その種のパーティーでそのメンバーの二人、フランス人のジェシカ(演ジュディット・シェムラ)と日本人のユウ(演阿部進之介)が泥酔してしまい、送っていくジェイのタクシーの中で、ジェイのカーステからジョニー・アリデイの「とどかぬ愛("Que je t'aime"日本語ヴァージョン)」(1970年)が流れ、酔漢のユウが(日本語で)歌い出し、リフレイン「ク・ジュテーム」を3人で大唱和するというシーンあり。ありえないシーンではあるが、私の観た映画館の観客はどっと湧いた。 加えてトーキョーの一種の文化風景とも言える町の古本屋があり、気の良い隠居インテリのような風情の本屋主人の役であがた森魚が登場し、ジェイとカタコトのフランス語でやりとりするシーンあり。ジェイの苦労をよく知っているように描かれているのは”下町人情”演出にしたかったのだろうか。 といったふうに、日本好きフランス人観客の心をくすぐるような細かいところは結構あるんだけどね...。
第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。 このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。
まず映画制作の背景から。この映画のプロデューサーであるジャン=ラシッド・カルーシュ(1974年生れ、50歳)は2017年のグラン・コール・マラード&メーディ・イディールの監督デビュー映画”Patients"(観客動員数130万人!)以来、2作目"La vie scolaire"(2019年)そしてこの3作目『ムッシュー・アズナヴール』と、両監督とタッグを組んできていて、そのほかに音楽アーチスト、グラン・コール・マラードのプロデューサーでもある。アルジェリア移民の子で、マント・ラ・ジョリー(パリ郊外、同地の元スター歌手フォーデルとは従兄弟の関係)出身、コメディアン、スタンダップ芸人、ミュージシャンなどの下積みがある。この男がゴールデンボーイとなるのは2006年4月のことで、なんとシャルル・アズナヴールの娘カティア(アズナヴールの6人の子のうちの4番目)と結婚したのである。仏ウィキペディアの記述によると、カティアが盗まれた携帯電話をカルーシュが取り戻してやったというのが馴れ初めのようだ。こうしてカルーシュは大アズナヴールの跡取り婿となり、一挙に芸能界でハバを利かすようになった、というわけ。この事情をおさえておかないと、どうしてこれが(遺族アズナヴール家から公認された)”公式”バイオピックなのか理解できないと思う。どうしてこの制作陣?どうしてこのキャスティング?という公開前から多くあった(批判的)疑問が、ある種否定的で偏見がらみの前評判としてモヤモヤしていたのである。 そのモヤモヤの核みたいなものがタハール・ラヒムにアズナヴール役ができるのか、ということ。映画の評価はタハール・ラヒムの演技がこのモヤモヤを晴らすことができるかどうか、という点に集中するのだと思う。
映画はその他”アズナヴール伝”中のいいとこ取りの数々のエピソードが挿入される。「ラ・ボエーム」やシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーをテーマにした「人が言うように Comme ils disent」がいかにして生まれたか、とか、生涯の女性ユラ・トルセルとの出会いのシーン(←写真)(ここで1974年英国チャートNO.1になった"She"がバックに流れる)とか...。名声、富、最愛の女性、すべて吾れにあり、そういう映画にしてしまったのですよ。グレイテスト・アーチストのグレイテスト・ストーリーに。2時間13分ありがたく拝見しましたが...。
2018年夏、引退ツアーのためにヨーロッパに来ていたジョーン・バエズは、仏テレラマ誌のインタヴューで「本当に引退なのか?」という質問に(軽いユーモアで)「私はアズナヴールのようにステージで死にたくないわ」と答えた。この時点でアズナヴールはまだ存命で、それこそ「引退ツアー」の途中にあり、それが9月17日東京と同19日大阪で本当に終わりになるとは誰も予想だにしなかった。2024年の「100歳コンサート」の企画もあったし、アズナヴールならば普通に可能でしょ、と思われていた。「アズナヴールと引退」はもはやギャグの領域のことだった。この人はかれこれ30年間も「引退公演」「さよなら公演」を続けてきたのだから。 これで見納めか、と大歌手の最後の晴れ舞台を何回も拝まされた人たちも少なくはない。時が経つにつれてこの「引退商法」は批判と揶揄の対象にもなり、実際に轟々の批難を浴びるコンサートもあった。2007年(当時83歳)10月と11月のパレ・デ・コングレでの20回公演は、”さよなら“を期待した人々にはがっかりの、出たばかりの54枚目のアルバム”COLORE MA VIE”からのレパートリー中心(新曲ゆえ歌うのにカンペを要した)で、パリ・マッチ誌評は「観客はアズナヴールの靴しか見なかった」と皮肉るほどだった。さらに2011年(当時87歳)9月からのオランピアでの22回公演は、チケットが200ユーロ(約2万5千円)という超高値で、その理由をパリジアン紙インタヴューで「30年ぶりのオランピアの舞台にピアノ一台で登場するわけにはいかないじゃないか、大勢のミュージシャンたちとステージを演るんだ、彼らも報酬を得なければならない」と強気で正当化した。その結果この一連の公演は席が半分も埋まらなかった。
シャルル・アズナヴール(1924-2018)は満場一致で支持されるシャンソン歌手ではなかった。「フレンチ・シナトラ」として国内同業者とはひとクラスのふたクラスも上の国際的大スターを自認するようになってからは、その高慢な言動を好まぬ人たちは多かった。とりわけ金銭関係に関しては良く思われていない。国際的な歌手と映画俳優となっただけでなく、音楽出版社などの事業でも成功して巨万の富を得たアズナヴールはフランスでの税金を逃れるために、1972年にスイスに移住している。フランス税務局はこれを脱税とみなして追求し、1977年の第一審では禁錮1年(執行猶予つき)+罰金3百万フラン(約2億円)の有罪判決が出た。この裁判に出廷したアズナヴールは「フランスはその金庫に何億という金を私がもたらしていることに感謝すべきではないか?あなたがたは私が78カ国で公演できる世界でただ一人の歌手であることを知らないのか?」と怒りをこめて述べた。判決に承服できない彼は新聞に「祖国に奉仕した廉で、数百万フランと1年の刑」と題した当時の大統領ジスカール=デスタン宛の抗議文を寄稿した。長い裁判抗争の末、無罪を勝ち取ったものの、フランス当局との溝は決定的になり、以後アズナヴールは「フランス非居住者」として年間6ヶ月と1日(つまり半年以上)をスイスで暮らし、プロヴァンス地方(ブーシュ・デュ・ローヌ県ムーリエス村)の館を除いてフランスで持っていた不動産すべてを子供たちに手放した。 貧しいアルメニア系移民(母親は”大虐殺“の生存者である)の子としてパリで生まれ、学校も行かず子供の頃から芸人として舞台に立っていたシャルルは、80年の芸歴の末にどれほどの財を成したのかは知れない。数字で言われているのは、生涯で作詞作曲した曲数800、レコード録音した曲数1200、レコード売上枚数1億8千万枚(世界合計)。アズナヴールの10ヶ月前に他界したフランスのスーパースター、ジョニー・アリデイ(1943-2017)の総売上枚数が1億1千万枚だったと言うから、ジョニーにはなかったアズナヴールの世界的名声がどれほどのものであったかが知れよう。この背の小さい男(1メートル60センチ)は、アイ・アム・ザ・ビッゲストという自負が強かった。しかし自分がトップスターになってからも、フランスの評論家/ジャーナリスト/メディアはシャンソンのビッグスリー「ジャック・ブレル=ジョルジュ・ブラッサンス=レオ・フェレ」の列にアズナヴールを加えることはなかった。これはアズナヴールを大いに傷つけたし、メディアとの関係は長い間こじれたままになっていた。 アズナヴールはよくChanteur mal
aimé(シャントゥール・マレメ)と言われた。これは「嫌われた」歌手という意味ではなく、直訳的には「悪く愛された」つまり「愛されにくい」と解釈されよう。評論家たちからの容赦ない悪評はアズナヴールの名が少し知れるようになった1950年代初めの頃が最もひどかった。スター性のない顔つき、小さな体躯、奇妙な身振り手振り、とりわけその声量の無さと鼻にかかったかすれ声の聞きづらさが攻撃の対象となり「すぐに歌手をやめるべき」と言われた。「悪性の喉頭炎を治療しろ」とも。日本で青江三奈や森進一が出てきた時にここまでは言われなかったのではないだろうか。この特徴ある声を、のちの英米メディアは「アズナヴォイス(Aznavoice)」と名付けて特化した。アズナヴールはメディアの侮蔑攻撃に傷つきながらも、こう自分に言い聞かせて凌いだ「C’est le public qui a raison(正しいのは聴衆だ)」。自分が成功するか否かを決めるのは評論家たちではない、聴衆である。聴衆こそが正しい。 この小柄な「悪声」歌手の成功伝説はまさにこの聴衆の心を掴めるという自信によって支えられている。シャンソンがまだアートでなかった頃、「シャンソニエ」とは大道や市場の広場の演芸台に乗り、自作の歌と小咄に踊りや曲芸をして聴衆からお金を得る芸人のことであった。何でもできないとつとまらないショーマンであった。元バリトン歌手のアルメニア移民の子としてパリに生まれたシャルルは、父のレストラン業が何度も倒産するなか、幼い姉のアイーダと共に家計を支えるために演劇、歌、ものまね、映画の端役などで日銭を稼いでいた。観客・聴衆とのコンタクトの良し悪しでその日の出来高が違うというリアリズムを早くから叩き込まれたということだ。それは大道から出てきた稀代の大衆シャンソン歌手エディット・ピアフ(1915-1963)とも通底するものだったのだろう。当時既に大歌手の名を欲しいままにしていたピアフは一目でアズナヴールを「天才バカ(genie con)」と呼んで惚れ込み、1946年からピアフ邸住み込みの付き人にしてしまう。 恋多き女として知られたピアフだったが、この小柄な男とは恋仲にはならなかった。しかしピアフがアズナヴールに課した仕事は、秘書、運転手、舞台係、悩み事の聞き手ほか雑務一切に及んだ。その上にアズナヴールはピアフのために作詞もしなければならなかった。思いつきで「こういう詞を明日までに」と命じられることは多かったが、採用されることは少なかった。6年間ピアフの下で奉公していたが、この経験をアズナヴールは肯定的に(たくさんのことを教わったと)語ろうとするものの、実際はパワハラの連続だったようだ。 そのピアフからボツにされた歌詞のひとつに「日曜日は嫌い(Je
hais les dimanches)」がある。フロランス・ヴェランが曲をつけたこの歌は、ピアフの拒否の後にジュリエット・グレコ(1927 - )の手に渡ってレコード録音され、実存主義の歌姫と呼ばれ左岸で人気を博していた彼女の雰囲気に溶け込みヒットした。最大の皮肉は、1951年のSACEM(フランスレコード著作権協会)主催のシャンソン・コンクール「エディット・ピアフ賞」に優勝してしまうのである。
アニー・ジラルド主演/アンドレ・カヤット監督で映画化もされ、68年5月革命の解放機運にも倒されなかったこの旧時代のモラルを問い直した事件。恋愛の自由に立ちはだかる世間をドラマティックに糾弾するアズナヴールに人々は喝采した。 そしてシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーを主題にした歌とされる「人が言うように (Comme ils disent)」は1972年に発表された。その時代フランスではまだ同性愛は精神疾患であり、刑法上では軽犯罪であった(この刑法条項が削除されるのは1981年のこと)。つまり社会の表面に出ることが憚られる風潮が支配的だった頃である。
C’est bien la nature qui est seule responsible(自然こそが唯一責任を負っている)― この結論がどれほど多くの人たちを勇気づけたことだろうか。これは画期的な前進の歌であった。ゲイに扮したジェスチャーでこの歌を舞台(とテレビ)で歌ったアズナヴールの勇気、この大胆さはカーネギー・ホールを満杯にすると息巻いた超強烈なエゴとは別のものだろう。自尊心のかたまりであり、高慢であり、金の亡者でもあるアズナヴールを、私たちが百歩も二百歩も譲って最大級の偉大なアーチストと認めざるをえないのは、こういう歌を歌ったということを知っているからなのである。 1998年、米CNNと英タイムスの共同主催の視聴者・読者投票による「世紀のエンターテイナー」選で、得票率18%でエルヴィス・プレスリーとボブ・ディランを抑えて1位になっている。また1988年のアルメニア大地震の時の大規模チャリティー支援の中心だったことなどから、父母の故国アルメニアでは生前から国民的英雄であり、名誉大使にも任命され、首都エレバンにはアズナヴール文化センターもある。政治的なポジションは保守寄りで、70年代からフランス大統領選には一貫して保守候補を支援してきた。 2018年10月1日、プロヴァンス地方の自邸の浴槽で94歳で亡くなったシャルル・アズナヴールは、10月5日、パリ7区アンヴァリッド内庭で国民葬セレモニーによるオマージュを受けた。
そんな時、たまたま乗った地下鉄10号線の車内(→)にもこんな横長のアズナヴール「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」の歌詞出だしを見つけたのだった。このアズナヴール初の世界規模ヒットはオリジナルが1964年の発表で、世界ヒットへの踏み台となるのがハーバート・クレッツマー(Herbert Kretzmer 1925 - 2020)によって英詞をつけられ"Yesterday When I was young"というタイトルとなって、まずカントリーバラード曲としてロイ・クラーク(1933 - 2018)が1969年に全米チャート6位にまで上る大ヒットとなった。以来この英詞"Yesterday When I was young"曲は英米有名アーチストたちによって再カヴァーされ、スタンダード化するのだったが、この英米カヴァーは例外なく4拍子バラードになっていて、原曲(アズナヴール詞/ジョルジュ・ガルヴァレンツ曲)”Hier Encore"の3拍子ワルツは踏襲されていない!おそらく日本で最も親しまれたのは英(007)歌手シャーリー・バッシー(1937 - )の1970年録音のヴァージョンであろうが、この熱唱に聴き慣れたであろう日本の歌手たちのカヴァー(尾崎紀世彦、弘田三枝子、和田アキ子...)はみな4拍子熱唱バラードになっている。これは1967年クロード・フランソワの"Comme d'habitude"(→1969年ポール・アンカ/シナトラ「マイ・ウェイ」)の現象と同じで、日本の歌手たちの手本はオリジナルではなく英米カヴァーなのである。それはそれ。 フランスでアズナヴールが初めて大成功を博したのは1960年12月12日パリ・アランブラ劇場で歌った"Je m'voyais déjà(俺には自分が見えていた)"であり、この時すでにアズナヴールは36歳だった。この1960年から数年の間に、アズナヴールの定番代表曲(”Les Comédiens", "La Mamma", "Et pourtant", "For me Formidable", "Emmenez-moi", "Désormais"... )のほとんどが大ヒットしていて、シャンソンクリエーターとして最も才気溢れていた時期と言える。その中でとりわけこの「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」(1964年)と翌年1965年の「ラ・ボエーム(La bohème)」の2曲のメランコリック青春懐古シャンソンが群を抜いているように私には思える。二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったアズナヴール十八番には、もう1曲、1957年発表(つまり大歌手として認知される前の頃)の「青春という宝(Sa jeunesse)」というのがあり、これについては電子雑誌エリス2018年春の号に書いたアズナヴール追悼記事に詳しく触れてあり、この記事は当ブログに近日中に再録するので、そちらを読んでください。
では「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」から歌詞対訳を見ながら聞いてみてください。
Hier encore, j'avais vingt ans つい昨日まで私は二十歳だった
Je caressais le temps, et jouais de la vie 時を手玉に取り、人生をもてあそんでいた
Comme on joue de l'amour, et je vivais la nuit 恋のゲームをするように、私は夜を生きていた Sans compter sur mes jours, qui fuyaient dans le
temps 時の中に逃げ去っていく残された日々を数えることもなく J'ai fait tant de projets, qui sont restés en l'air たくさんの計画を立て、それは宙に浮いたまま
J'ai fondé tant d'espoirs, qui se sont envolés たくさんの希望は生まれては飛び去っていき Que je reste perdu, ne sachant où aller 私は自分を見失い、どこに行っていいのかもわからず
Les yeux cherchant le ciel, mais le cœur mis en terre 目は空を追っても、心は地を這っていた
Hier encore, j'avais vingt ans つい昨日まで私は二十歳だった
Je gaspillais le temps, en croyant l'arrêter 私は時間を無駄に使い、時間を止められるんだと信じて
Et pour le retenir, même le devancer 時間をためておいたり、時間を追い越すこともできるんだと
Je n'ai fait que courir, et me suis essoufflé 私は走ってばかり、そして息を切らした
Ignorant le passé, conjuguant au futur 過去を無視して、未来にばかり話をくっつけ
Je précédais de moi toute conversation 私はあらゆる会話に出しゃばって自己主張した
Et donnais mon avis, que je voulais le bon 自分の意見を述べ、
Pour critiquer le monde, avec désinvolture 世界を批判した、厚かましくも
Hier encore, j'avais vingt ans つい昨日まで私は二十歳だった
Mais j'ai perdu mon temps à faire des folies 私は愚かなことばかりして時間を失った
Qui ne me laissent au fond rien de vraiment précis 結局のところ私に確かなものなど何も残さなかった
Que quelques rides au front, et la peur de l'ennui 私に残っているのは額の皺と、厄介ごとへの恐れだけだ
Car mes amours sont mortes, avant que d'exister 私の数々の恋など芽生える前にすべて死に絶えた
Mes amis sont partis, et ne reviendront pas 友人たちは去っていき、もう戻っては来ない
Par ma faute j'ai fait le vide autour de moi 自分のせいで私は自分の周りを空っぽにしてしまった Et j'ai gâché ma vie, et mes jeunes années そして私は人生と若かった年月を台無しにした
Du meilleur et du pire, en jetant le meilleur 最良と最悪の選択に私は最良を捨て J'ai figé mes sourires, et j'ai glacé mes pleurs 私は作り笑いをして、自分の涙を凍らせた Où sont-ils à présent... 今どこにあるんだ?
À présent mes vingt ans ? 今、私の二十歳の日々は?
Je vous parle d'un temps
20歳未満の子たちには Que les moins de vingt ans 知るよしもない昔のことを
Ne peuvent pas connaître 話して聞かせよう
Montmartre en ce temps-là その頃のモンマルトルは
Accrochait ses lilas 僕らの窓のすぐ下まで
Jusque sous nos fenêtres リラの木々が伸びてきた Et si l'humble garni 僕らが巣にして住んでいた Qui nous servait de nid つましい家具付き下宿は
Ne payait pas de mine 見てくれは悪かったが
C’est là qu'on s'est connu そこで二人は知り合ったんだ
Moi qui criais famine 僕はいつも腹ペコだとぼやき
Et toi qui posais nue きみはヌードモデルをしていた
La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire その言葉の意味は
On est heureux 僕らは幸せだったということ La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Nous ne mangions qu'un jour sur deux. 二日に一日は食事抜きだった
Dans les cafés voisins 近くのカフェに行けば
Nous étions quelques-uns 僕らは栄光の日を待ちわびる
Qui attendions la gloire 無名の輩だった
Et bien que miséreux みすぼらしく
Avec le ventre creux 腹を空かしていても
Nous ne cessions d'y croire 僕らは未来を信じることをやめなかった
Et quand quelques bistrots そして某ビストロが
Contre un bon repas chaud 暖かい食事を代金に
Nous prenaient une toile 一枚の絵を買ってくれた時には Nous récitions des vers 僕らはみんな竈の周りに集まり
Groupés autour du poële 詩を朗読したものだ
En oubliant l'hiver 冬の寒さを忘れて
La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire その言葉の意味は Tu es jolie きみはきれいだ、ということ La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous avions tous du génie. そして僕らはみんな天才だった
Souvent il m'arrivait 画架を前にして
Devant mon chevalet 徹夜してしまうことも
De passer des nuits blanches しょっちゅうあった
Retouchant le dessin デッサンを手直し De la ligne d'un sein 乳房のラインを Du galbe d'une hanche 腰のふくらみを
Et ce n'est qu'au matin そして朝になり
Qu'on s'asseyait enfin 一つカップのカフェ・クレームを前に
Devant un café crème 二人はやっと座り込んだ
Épuisés mais ravis 疲れ切っていたけど満足だった
Fallait-il que l'on s'aime 愛し合わなきゃだめだ Et qu'on aime la vie 人生を愛さなければ
La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム Ça voulait dire その言葉の意味は
On a vingt ans 僕らは二十歳だということ
La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous vivions de l'air du temps. そして僕らは時代の先端を生きていた
Quand au hasard des jours 日々の気まぐれで Je m'en vais faire un tour 僕の昔の住所を
A mon ancienne adresse 訪ねることもある
Je ne reconnais plus かつて僕の若い日々を見ていたはずの
Ni les murs ni les rues 壁も通りも Qui ont vu ma jeunesse 僕は全く覚えていない
En haut d'un escalier 階段を登っていき
Je cherche l'atelier かつてのアトリエを探してみるが
Dont plus rien ne subsiste まったく何も残っていない
Dans son nouveau décor その新しい背景の中で
Montmartre semble triste モンマルトルは悲しく見える
Et les lilas sont morts リラの木々はみんな死んでしまった
La bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
On était jeunes 僕たちは若かった
On était fous
僕たちは気狂いじみていた La
bohème, la bohème ラ・ボエーム、ラ・ボエーム Ça ne veut plus rien dire du tout. その言葉はもはや何の意味もない
(↓)「ラ・ボエーム」(1965年、ライヴ動画)
誰にでも自らの「ラ・ボエーム」体験がある。みんな若い頃(20歳の頃)はラ・ボエームだった。そう言われてみれば、それらしい体験がなかったわけではない、と振り返る中年/老年の遠い目がある。2024年公開のアズナヴール公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』の共同監督のひとり、グラン・コール・マラードが「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」というスラム曲を作った。これがなかなかいいので、いかに紹介して、この記事を閉じよう。
[Intro - Grand Corps Malade & Charles
Aznavour]
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ La bohème
(ラ・ボエーム) Je vous parle d'un temps それは昔のことさ La bohème (ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ Ça voulait dire (その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間にあるシンボル À chacun sa bohème 誰にでも自分のラ・ボエームがある
[Couplet 1 - Grand Corps Malade]
Je vous parle d'un temps que les moins de vingts ans ne peuvent pas connaitre 20歳未満の子たちが知らない昔のことを話して聞かせよう Saint-Denis en ce temps là était mon seul décor et
mon terrain de fête その頃俺はサン・ドニは俺の唯一知ってるお楽しみの場所だった Une terrasse de café, deux trois potos qui passent
et le plan s'éternise カフェのテラス、二、三人のガキが通り過ぎていく、話は尽きない
Et le clocher d'la mairie qui à dix-huit heures chante le temps des cerises すると18時に市役所のチャイムが「サクランボの頃」のメロディーで鳴る
Je vous parle d'un temps que j'ai connu un temps comme une belle escale 素敵な寄り道だったような懐かしい昔のことを話して聞かせよう
On avait mille projets qu'on fantasmait devant une omelette frite à quatre
balles ポテトつきオムレツを囲んで俺たちは夢中で幾千もの計画を出し合った On avait des idées et on refaisait le monde au pied
des bâtiments 俺たちはアイデアに溢れ、建物の下に集まって世界を再創造したもんだ
Le monde a du nous voir il nous a offert l'espoir 世界は俺たちのことを見ていたに違いない、俺たちに希望を与えてくれた
C'est un bon commencement それはいい出発点だった
[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour] La bohème (ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ La bohème (ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ Ça voulait dire (その言葉の意味は)
On est heureux 俺たちは幸せだったってことさ La bohème (ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ La bohème (ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ Ça voulait dire (その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème 誰にでも自分のラ・ボエームがある
[Couplet 2 - Grand Corps Malade]
Souvent il m'arrivait devant mon cahier de passer des nuits blanches ノートを前にして何晩も徹夜したこともしょっちゅうあった
Noircissant toutes ces pages avec excitation presque comme une revanche まるで復讐劇のように興奮してノートの全ページを黒く埋めていった Scander des poésies quelle jolie fantaisie face à
des presque frères まるで兄弟のような連中を前に詩を朗々と読み上げるなんて夢のようだ Sans enjeux précis se sentir bien en vie et gagner
quelques bières それが何の足しにならなくても俺は気分良く、ビール代ぐらいは稼いだ L'inspiration était partout je pouvais souvent la
voir déborder 俺たちの無邪気さ、無頓着さ、奔放な生き方の中に De notre innocence, de notre nonchalance, de notre
vie débridée インスピレーションはいくらでも溢れているように俺には見えた
On a laissé une trace en hurlant nos histoires à la
gueule du monde みんなの目の前で俺たちの話を喚き散らし、俺たちはその跡を残した Je vous parle d'un temps dont je ne changerai pas
une seule seconde 俺はその時代のことを言ってるが、俺は全く変わっていないんだ
[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour] La bohème
(ラ・ボエーム) Je vous parle d'un temps それは昔のことさ La bohème (ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps それは昔のことさ Ça voulait dire (その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes ノスタルジー、生きる苦労と詩情の間に挟まれたしるし À chacun sa bohème 誰にでも自分のラ・ボエームがある [Outro - Grand Corps Malade]
Quand au hasard des jours je m'en vais faire un tour à mon ancienne adresse 日によってたまたま俺の昔の住所を訪ねることもある Je reconnais les rues mais l'esprit n'y est plus その通りに見覚えはあるんだが、エスプリはもうそこにはない
Moins d'envies, moins de promesses 願望も約束も減ってしまっている
Reste alors le souvenir qui me donne le sourire 思い出だけが残っていて、俺は微笑むしかない Et ce pincement extrême, la nostalgie comme emblème この激しい心の痛さ、ノスタルジーは
Entre galères et poèmes 生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるしなんだ
À chacun sa bohème 誰にでも自分のラ・ボエームがある
(↓)グラン・コール・マラード 「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」