2024年11月18日月曜日

Jay le taxi, c'est sa vie.

"Une part manquante"
『また君に会えるまで』


2024年フランス+ベルギー映画
監督:ギヨーム・スネ
主演:ロマン・デュリス、メイ・シルネ=マスキ、ジュディット・シェムラ、あがた森魚
フランス公開:2024年11月13日

 

上映ポスターに日本語題を印字して挿れたり、エンドロールに出演者などをアルファベットとカタカナで表記する「日本撮影映画」にろくなものはない。この4月に見たエリーズ・ジロー監督『シドニー、日本で』(主演イザベル・ユッペール)のことを言ってるんですが。おまけにヴェンダース『パーフェクト・デイズ』(2023年)と同じように”東京風景”が大いにものを言う映画。それに幻惑されたのかテレラマ誌はこの映画評で「ロマン・デュリスと”東京”という二人の偉大なアクターに照らし出された父性に関する繊細で美しい映画」と高評価を与えている。どうしてどうしてどうして東京がそんなにいいんだろ
 ベルギー人監督ギヨーム・スネが前作『パパは奮闘中(Nos Batailles)』(2018年)のプロモーションで主演のロマン・デュリスと来日した時に、この「子の親権問題」(日本が世界でも稀な”単独親権”法を堅持している国であり、両親の別離に際して片親が独占的に親権を行使できる)について知り、特に国際結婚・離婚に多い、子が半誘拐状態で片親に養育され旧伴侶の子供との接触をシャットアウトしている多くのケースに興味を抱いた。フランスと日本の国際結婚・離婚に起因する子の親権問題(フランス及び世界のほとんどの国が共同親権を認めている)だけでも数十件に上り、フランスでのニュース沙汰になっている。
 ただしこのスネの新作は上段に構えた社会派(つまり日本の単独親権制度を告発するといった)映画ではない。(国際離婚・国内離婚を問わず)親権を与えられず子供と引き離された片親の不幸と子との再会のための闘いが強調されて画面に登場するわけでもない。ここに見えるのはやはり「不思議の国ニッポン」と「不思議の都トーキョー」なのである。
 フランス人ジェローム・ダ・コスタ(演ロマン・デュリス)は愛称を「ジェイ(Jay)」と言い、日本人からは「ジェイさん」と呼ばれる。東京の大手タクシー会社(KMタクシーという名前、まあ、ありなんでしょ)に所属するタクシードライバーであり、そこそこ流暢な日本語をしゃべり、東京の隅々の道路を知り尽くしている(同業運転手からカーナビに出てこない新住所への行き方を訊ねられて、スラスラと答えてやるシーンあり、笑ってしまう)。かつては上級レストランシェフだったが、日本人女性ケイコ(演Yumi Narita 在フランス女優)と結婚し、娘リリイが3歳の時に破局別居。離婚はしていない。離婚したら”単独親権の国”日本では完全に親権を失ってしまうのでそれを避けるために離婚を拒否している。しかしケイコはリリイを連れて行方不明になり、ジェイとのコンタクトを絶っている(映画の後半でジェイがずっと養育費を払い続けているという話になっていて、この辺辻褄が合わないが、ま、いいか)。それから9年、ジェイはタクシー運転手に身をやつし、巨大な東京で娘リリイを探し回り、娘に再会することだけを希みに東京に住み続けている。Jay le taxi, c'est sa vie.
 流しのタクシーという言葉があるので、「東京流し者」とでもダジャレてみたいところだが、KMタクシー予約制のシフトに入っているので、会社の運用センターの無線指示通りに走る雇われドライバー。ある日同僚のホンダというドライバーが病欠(実は”過労バーンアウト”気味の仮病休みで、これは"エムケイ”社への当てこすりのようにも見える)で、ジェイが代役で起用され、脚負傷で松葉杖歩行の女子中学生の学校送迎を担当、この女子中学生がなんとリリイ(演メイ・シルネ=マスキ)だったのだ。

 この偶然を絶対に逃してはならないと、ジェイはホンダに頼み込み女子中学生送迎の担当を続けさせてもらい、露骨に父親を名乗ることを避け、少しずつ接触の切り口を開こうと...。言わば中年ストーカーの未成年少女接近なのだが、それは名優ロマン・デュリスのチャーミングな日本語トーキングも手伝ってもどかしくも切なくて...。ブルジョワ女子中学生リリイは「おじさん日本語上手ねえ」などと事情を理解しようとしないコメントあり。「ハーフはいろいろ大変なのよ」などとしたり顔のコメントあり。怪我リハビリ中のアーティスティックスウィミング選手であるリリイのプールに忍者のように忍び込み、水着姿のリリイをスマホで盗撮するシーンあり→やはりこれは不思議の国ニッポンの性風俗への当てこすりなのだろうか。それはそれとして、タクシー車内という密室空間で、ジェイとリリイの距離は少しずつ埋まっていくのだが...。
 さてこの映画に撮り込まれた不思議の国ニッポンと不思議の都トーキョーであるが、タクシーの車窓はヴェンダース『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃作業ライトバンからのトラヴェリングと似て、どこか哀愁の近未来メガポリスなのである。『パーフェクト・デイズ』と同じように何度か銭湯シーンあり。ジェイが脇腹にLilyという文字と花の刺青があり、それが銭湯では”禁止”という不思議の国ニッポンの掟に従って、大きな絆創膏を脇腹に貼って入浴しなければならない。何度めかに「お客さん、タトゥー見えちゃってるんですよ」と銭湯の親父にたしなめられるシーンあり。
 単独親権の犠牲になって子供と離ればなれになって生きる片親たちの互助サークルがあり、9年目のジェイはその世話人のような役割を担っているが、そこに集う親たちは外国人だけでなく日本人もいる。一緒にその苦労を語り合ったり、カラオケでウサを晴らしたり...。その種のパーティーでそのメンバーの二人、フランス人のジェシカ(演ジュディット・シェムラ)と日本人のユウ(演阿部進之介)が泥酔してしまい、送っていくジェイのタクシーの中で、ジェイのカーステからジョニー・アリデイの「とどかぬ愛("Que je t'aime"日本語ヴァージョン)」(1970年)が流れ、酔漢のユウが(日本語で)歌い出し、リフレイン「ク・ジュテーム」を3人で大唱和するというシーンあり。ありえないシーンではあるが、私の観た映画館の観客はどっと湧いた。
 加えてトーキョーの一種の文化風景とも言える町の古本屋があり、気の良い隠居インテリのような風情の本屋主人の役であがた森魚が登場し、ジェイとカタコトのフランス語でやりとりするシーンあり。ジェイの苦労をよく知っているように描かれているのは”下町人情”演出にしたかったのだろうか。
 といったふうに、日本好きフランス人観客の心をくすぐるような細かいところは結構あるんだけどね...。

 映画はジェイの娘可愛さに迅る心がエスカレートして、タクシー会社の規則やぶりがバレたり、元伴侶ケイコ(+その母)にジェイのリリイ接近が発覚され、大きな揉め事に発展していく。ジェイはやむことができず暴走し、リリイはジェイの正体を知ってしまい....。ところが、(映画ですから)、娘は父の熱情ク・ジュテームを一瞬で理解し、自分から「行こう!」とジェイを促し、タクシーのナビや通信装置を壊し、ジェイ・ル・タクシー、父娘二人の逃避行が始まる...。映画ですから。
 暴走ジェイのタクシーは(たぶん)房総の海浜へ。不思議の国ニッポンにはこんな素敵な超長い砂浜の海辺があって、たくさんの老若男女が集まって地引き網を引いている(たぶん有名な九十九里浜)、リリイもジェイも一緒になって地引き網を引いている(このシーンは美しい)。地引き網は大漁。採れた多量の魚を早速海辺テントで焼き魚に。この時ジェイは昔取った杵柄で焼き魚シェフに変身、みんなに絶品の魚グリルをふれ回るのであった。ジェイもリリイも満面の笑顔。ひとときのしあわせは(映画ですから)長続きはしない...。

 結末はジェイが逮捕され、日本の司法はジェイを即座にフランスへ強制送還してしまうのだけど...。

 軽い。親権問題の実際の当事者たちには極めて重いテーマのはずなのだが、軽く不思議の国ニッポンの映画になってしまいましたね。すべすべした日本とトーキョーのエキゾティスムだけでもありがたがって観る人たちが多いんだ、このフランスは。(日本で配給上映される可能性が高いので、日本ではどう観られるか、ちょっと興味はある)

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)『Une part manquante  また君に会えるまで』予告編




2024年11月8日金曜日

首裂け女が声を取り戻すまで

Kamel Daoud "Houris"
カメル・ダウード『天女たち』

2024年ゴンクール賞

れを書いている10月末現在、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』と並んで2024年度ゴンクール賞の最有力候補に挙げられているアルジェリア人仏語作家カメル・ダウードの3作目の長編小説(412ページ)。『ジャカランダ』が1994年のルワンダ大虐殺(死者80万〜100万人)を題材にしているように、この『天女たち』も1992年から2002年のアルジェリア内戦(「暗黒の10年」)(死者15万〜20万人)をめぐる小説である。
 まず作者のカメル・ダウードに関して。1970年生れのアルジェリア人でフランス語表現の新聞/雑誌ジャーナリストを経て作家に。2013年、カミュ『異邦人』(1942年)中で主人公ムルソーに殺されたアラブ人の弟を話者にして同小説をアラブ人側から書き直した『ムルソー再捜査(Meursault, contre-enquète)』 で、ゴンクール賞の最終選考まで残って注目された(同作品は日本語訳あり)。ジャーナリストとしても作家としても、アルジェリア現体制とイスラム原理主義に対する批判的言辞のため、当局と宗教組織の両方から脅迫を受けていて、自らの言論表現の自由を維持するためにフランスに移住せざるをえなくなっている。
 本書も故国アルジェリアでは書くことが困難だった小説であり、実際、2024年8月に仏ガリマール社から刊行された本書はアルジェリアでは発禁となっている。発禁の根拠となっているのはこの小説がアルジェリア内戦(1992年〜2002年)を題材としているからであり、それは内戦終結後2005年に(国民和解政策=Concorde civileを推進する)ブーテフリカ大統領が国民投票の審判を得て発布した「平和と国民和解のための憲章」の第46項に明記されている”国家的悲劇(=アルジェリア内戦)”の文書その他による記述利用の禁止(3年から5年の禁錮及び25万から50万ディナールの罰金)であり、この項目は小説の本編に入る前の前文資料として抜粋されている。
 小説は2018年6月のオランから始まる。話者はオーブという名の26歳の女性であり、彼女は妊娠していて、小説はオーブが胎内の子供(娘と断定している)に語りかけるというモノローグ体で進行する。この胎児を彼女は "ma houri"(私の天女)と呼びかける。"houri(フーリー)"とは私のスタンダード仏和辞典では「(イスラム教徒に約束されている)極楽の美女」と説明されている。日本語版ウィキペディアでは「フーリーは天国に来たイスラーム信徒の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれる」とある。信心深い男のイスラム教徒の死後の天国で約束されている美貌の処女たち。戯画的な意味合いもあろうが、イスラム原理主義的ジハード戦士たちが死を恐れないのはこの来世に約束されているフーリーのおかげと言われる。
 オーブはこの胎児を産み育てるつもりはない。中絶薬で”殺す”ことにしている(もちろん非合法であり、見つかれば禁錮10年から20年の刑を喰らう)。天からやってきた娘をそのまま天に返してやるというヴィジョン。その方が娘にとってずっと幸せである、という考え方。この世(現世のアルジェリア)に女が自由に自己実現する可能性があるとは思えない。その生きた証拠が自分オーブである。オーブは自分の体験してきたことをすべてこの胎児に語り、おまえをなぜ生かしておけないのかを理解してもらおうとしているのだ。
 1999年12月31日の夜、5歳だった彼女は、家族全員(父、母、姉)をテロリストたちによって惨殺され、自らも深く喉を切られ瀕死の重症を負った。一命はとりとめたものの、声帯を失い、喉に気孔を開けられ、斬喉の傷痕は顎の下の首に耳から耳まで17センチの長さで生々しく残っている。これを彼女は"sourire(微笑み、スマイル)”と呼んでいるが、それを見た者は戦慄する。彼女はその悍ましい形相と共に少女から大人になった。声帯が復元できなかったので、彼女は無声音でしか話せず、人からは唖のように思われている。彼女は言葉を失ったわけではなく、声帯を失ったのだが、それは象徴的にあの内戦の10年を語ることを禁止されたアルジェリアのメタファーとなっている。
 内戦がどのようにして始まり激化していったかを小説は詳しく書いていないので、簡単に言えば1992年、アルジェリアで急速に勢力を伸ばしてきたイスラム原理主義政党(イスラム法=シャリーアに則った社会実現を標榜する)のイスラム救国戦線(FIS)が選挙で多数派を獲得するのが確実となったことに反発する軍部がクーデターを起こし、選挙の無効を宣言、FISの解党を命じ指導者及び党員たちを逮捕した。非合法化されたイスラム原理主義勢力が山岳地帯に篭り武装化(その最大勢力がGIA = Groupe Islamique Armé イスラム武装集団)し、反政府テロ活動を展開し、政府軍と交戦する一方、イスラム法シャリーアによる社会支配を強行すべく非イスラム者(不信心者)/異教徒/西欧文化に毒された市民たちを弾圧し、エスカレートして村ぐるみの刎首虐殺まで行われるようになった。これが10年間も続き内戦による死者は15万人から20万人に及ぶと言われる。
  そのテロ集団のイメージはカラシニコフ銃を乱射するというよりも、ギラギラに研がれた巨大な屠殺包丁をかざして、老若男女構わず無差別に目についた人間すべての喉首を刎ねるもので、私は(アルジェリア内戦で皆殺しにされるカトリック修道院道士たちを描いた)グザヴィエ・ボーヴォワ監督映画『神々と男たち(Des Hommes et Des Dieux)』(2010年カンヌ映画祭グランプリ)のシーンを想った。
 喉首を切り裂かれた5歳の少女は生き残り、ハディジャと名乗る女性(弁護士、家族をすべて失ったこの少女の養母となる)に発見されて病院に収容され、声帯こそ失ったものの奇跡的に(つぎはぎだらけの)健康体に回復された。子供のいなかったハディジャは1999年12月31日から2000年1月1日の夜半に刎首され再生したこの子をAube(夜明け)と名付け、この子の母になった。そしてその後もこの子の”声”を戻してやるべく、ヨーロッパやアメリカの先端医学機関を当たり、(大金を用意して)声帯再生の可能性を探し続けているが、実現に至っていない。
 少女は自分と家族に起こった世にも残酷な出来事がその後追及されないばかりか、人々の忘却の彼方に押し去られていることに憤っている。学校の歴史の授業で20世紀最大の事件としてフランスからの独立戦争のことは徹底的に教え込まれ、その一部始終と英雄たちの名前は暗記させられるのに、”内戦”のことは一切教えない。歴史の課題で自分の体験をレポートすると、そのせいで歴史の採点はゼロになり、進学を断念させられる。この国のいたるところに、独立戦争の戦勝記念碑や犠牲者の慰霊碑はあるのに、”内戦”の夥しい犠牲者のそれはどこにもない。ブーテフリカの国民和解政策は、この内戦をなかったことにすることだった。大多数の旧テロリストたちを恩赦し、アルジェリア社会に「魚屋」として復権させた(テロ政治犯に「魚屋」になる宣誓を条件に釈放する、というこの小説で説明されているエピソード)。そしてかのイスラム原理主義はやや”ソフト”に変容するも、アルジェリアの男たちの間に再び浸透していく。
 上の学校に行けなかったオーブは美容師になり、オランで美容サロン「シェヘラザード」(この名前も象徴的、自分の死刑執行を免れるために1001夜にわたって物語を創作して語る女)を経営するようになった。その近所にイスラム礼拝所があり、そのイマームはあからさまにこの美容サロンの存在を敵視している。女性が美しく装身したり、”扇情的”な身なりをしたり、女性たちが集まって談笑することを禁止したい。集団礼拝の席で集まった男たちにそう説法しているのだ。イマームの差し金か、美容サロンには嫌がらせや空き巣狙いが後を立たない。この小説の中で、美容サロンは重要な原理主義への抵抗の場所のように描かれる。
 オーブの妊娠を知らない母ハディジャはその時オランにおらず、オーブの声帯復元の可能性を聞きにブリュッセルの医師のところに行っている。この不在の間にオーブは胎児を始末しようと考えている(実は殺すかどうかはまだ迷いがある)。
 1999年12月31日の夜、(オーブとその家族が住んでいた)ハド・シェカラ(Had Chekala)の村はテロリスト軍の襲撃に遭い、1000人の村人が殺された(註:史実としてのハド・シェカラ村の大虐殺は1997年12月に起こっている。リンクした記事は日刊オラン紙2006年に同紙記者だったカメル・ダウード自身が書いている)しかしこの事実は誰も語ろうとしない、あるいは国によって隠蔽されている。オーブがただ一人の生存者かもしれないが、この事実が公けになっていないので、オーブの瀕死の負傷も首に大きく残っている刎喉の傷も自分がいくら主張しても「交通事故によるものではないか?」と疑われても証拠がない。10年の内戦は消され、証言者は私ひとりしかいないのか?声帯を失ったオーブは、事実を伝える言葉も失ってしまったのか。私はひとりでも私の家族と私の声を奪った戦争があったことを語り続ける。明日のないこの胎児に向かって語り続ける。
 話は前後するが、おなかの中の子供の父親に関するエピソードが小説の第二章の後半の259ページめから270ページめまで展開されている。オラン郊外の漁村の漁師の青年で名前はミムーンと言う。オーブの孤独な海辺散歩で出会ったこの青年は、冬の海で泳ぐ逞しい肉体を持つ。父親は軍人だったがテロリストに殺された。母親ザーラは農村の出だったが、村がテロで壊滅される前に国防軍の隊長だったミムーンという軍人の手引きで別村に移住して難を逃れている。二人は恋に落ち、30日間だけの蜜月の日々を送るが、その棲み家にもテロの魔手が襲いかかり、ミムーン隊長は殺害され、妻ザーラは誘拐され(テロキャンプ地で暴行され)救出された時は身重の体になっている。ミムーン隊長の母、つまりザーラの義母は生まれてくる子はテロリストとの間の不義の子であると決めてかかる。その子は生まれ、近所の子たちから”Batard! Batard!"とはやしたてられいじめられながら大きくなるが、そのおかげで誰にも負けない水泳少年になる(水泳ストロークに"Batard! Batard!と自らかけ声をかける)。少年が10歳になった時、母ザーラは義母のところに少年を連れて行くと、義母は少年にわが子ミムーン大佐とうり二つの姿を見て抱きしめ、ザーラに詫び、その子にミムーンの名を与えたのだった。その後母も祖母も亡くなり、漁師ミムーンはヨーロッパ大陸(スペイン)に渡ることだけを夢見て、渡航資金(passeur = 密航あっせん人に渡す金)を貯めている。海の匂いのする逞しい青年はオーブを”ma muette”(俺の唖娘)と呼んで愛し、何も言わぬオーブに自分のすべてを語り、舟小屋での逢瀬を重ねた。そのことを言うべきか言うまいか逡巡の数日ののち、オーブが再び舟小屋を訪れると、その姿はない。漁師仲間が言うには、哀れなミムーンは密航あっせん人と出て行ったと...。
 この小説のなかで唯一のオーブの純愛・悲恋のパッセージであり、胎内のミムーンの子を殺そうか生き延びさせそうかの揺れ動きの振幅は大きくなる。

 2018年6月、アイード(犠牲祭)の前日、女たちは家に閉じこもってラマダン明け祝祭の準備に明け暮れ、男たちはモスクに祈祷に行き、街の人通りがない頃、オーブが着くと美容サロン「シェヘラザード」はめちゃめちゃに荒らされている。美容サロンを娼婦たちの巣窟とプロパガンダするイマームの信奉者によるものであることは明白だ。犠牲祭のせいで誰も仕事しようとしない警察署でけんもほろろに突き放され、その上路上で暴漢に襲われ、ボロボロになって彷徨っているところを、一台のトラックに拾われる。
 第一章「声 la voix」に続く第二章「迷路 le labyrinthe」は157ページめから298ページめまで(全三章中最も長い)で、オーブを拾ったこのトラックの男とオランからルリザンヌに至る自動車道路を行く一種のロードムーヴィーである。第一章はもっぱらオーブが胎児に語りかけるモノローグであったが、第二章はそのトラックの男アイッサが運転中に一方的にオーブに捲し立てる内容をオーブが聞き書きする体をとっている。
 アイッサも一家をテロで失ったが、家は代々続いていた書店/出版社であった。かつて本屋は地区の文化知識とコーラン解釈をつかさどり、地区全体の敬意を集めていたものだが、イスラム原理主義者たちからは退廃を蔓延させるとして目の敵にされ、暗黒の10年は多くの書店を潰し、出版は激減した。アイッサの父がやっていた書店はテロリストたちが唯一「有益」と認めた料理の本だけを出版することが許された。父と兄を殺されたアイッサはそれでも細々と料理の本を出版し続け、アルジェリア全土のまだ残っている本屋にアイッサ自らがトラックで配達していた。人生のほとんどを自動車道路上で過ごしている。アイッサは優秀で父に可愛がられた兄と違って学業を放棄して読み書きができなかった。読み書きのできない本屋、このコンプレックス! だがアイッサは本屋をやめない。文字で過去(暗黒の10年)を記録できなかったことを悔やみながら。なぜなら彼はその10年にラジオで報道されたテロ襲撃事件のニュースをすべて記憶しているのだ。日時、場所、被害者の数と名前... 。この10年間の大悲劇のほぼ全データがアイッサの記憶の中にある。これを配達出張で出向いた土地のカフェで語り始める。内戦が沈静化した後の1、2年は熱心に聞いてくれた人たちもいたが、やがて誰も聞かなくなるばかりか、狂人扱いされてカフェから追い出されてしまう。誰もこんな大悲劇があったことなど信じてくれない。内戦がどれほどの犠牲者を出したことかを誰も文字にしていないのだから。アイッサは絶望しながらもこのトラック全国巡回をやめない。
 第二章の初めでアイッサはこの言葉の出ない女との出会いを「天から使わされた」と直観した。この女の首に生々しく残った17センチの刃物傷を見た時、これは内戦の生き証人であり、初めて自分と同じ側の人間と出会ったと歓喜したのだ。トラックはオランから東に向けてルリザンヌへの自動車道を進み、運転席のアイッサはもの言わぬオーブに立板に水のごとく自分のことと内戦のことを喋り続ける。オーブは最初はいかにしてこの狂ったような喋り男から逃れてオランに戻ることができるかのチャンスばかりうかがっていた。
 文字のない男と音声のない女。二人に共通するのは奪われ消された10年の内戦の真実を取り戻し、明らかにすること。これがこの小説が書かれた第一の理由である。だが第二章の中での二人の意気投合はない。オーブはたった一人(加えてたった一人の自分の聞き役/証人になった胎児のフーリー/天女)の戦いにすることを選んで、トラックから逃走する。

 第三章「刃 Couteau」はルリザンヌから90キロ離れたハド・シェカラの村まで乗合タクシー(ふつう女性ひとりを男性客の乗ったタクシーに同乗させることはない)を使ってやってきたオーブのたった一人の戦い。19年前、父と母と姉を含む1000人の村人が虐殺された "L'endroit mort(死の場所)"へやってきたのだ。「私の名はルビア(オーブになる前の名前)、この村の地主だったハレド・アジャマの娘」と村人たちに告げ、村人たちの反応を知りたかった。ところがそんなオーブの声に聞き耳を立てず、村はそれどころではないスキャンダルが巻き起こっていた。村のシャイフ(長老)でモスクのイマームでもある男が営んでいるハラル肉屋が、犠牲祭用に屠されハラル認定された羊肉として売っていたものが実はロバの肉だったという噂に、村中の男たちはモスクのその男に詰め寄っていくが、シャイフはアッラーに審判を仰ぐ、と...。村のラブハと名乗る少女がオーブに近寄ってきて「あなたはTVジャーナリストでしょう、このスキャンダルを報道するためにやってきたんでしょう?」と。少女は村の女たちに「ジャーナリストがやってきた」と言いふらし、テレビで流したいことがあるならこの人に話したらいい、と。最初オーブに対して門戸を閉じていた村の女たちは次第にその扉を開いていく。
 オーブをジャーナリストと信じて自分のすべてを語り始めるハムラと名乗る女のストーリーがこの小説で最も凄絶なエピソードであり、それは330ページめから356ページめまで25ページのヴォリュームで展開される。その女はかつてテロリストと見なされ乳飲子を抱いて3年の牢獄生活を送って出獄したが、テロリストの烙印はついて周り、仕事をすることも役所に援助を求めることもできず乞食生活をしていたが、ハド・シェカラの叔母が引き取ってくれ、絶対に家から外に出ない、外部に顔や名前を晒さないという条件で生き延びている。その存在が知られたらテロリストの汚名によって再び放逐されるのは明白だから。内戦が終結し、男のテロリストたちは恩赦され社会復帰が許されたのに、女たちは許されないとハムラは言う。しかもその女たちはみんな村から誘拐されて山中のテロリストキャンプで強制労働/強制結婚/強制出産させられ、監禁状態でテロ協力者にさせられたにも関わらず...。ハムラはアイン・タレックの村の出身で一人娘だった。将来を誓い合った隣家の若者と言葉の少ない清い恋を続けていたが、山から降りてきたテロリストたちは若者に結婚式用の白装束を着せた上で”半刎首”して生きて血を流している状態で、ハムラとの逢引きの場所だったオリーブの木の枝に吊るし、悶死させた。18歳でハムラは村の処女たち(13歳から15歳)5人と共に誘拐され、絶対服従と私語禁止、昼は料理・育児・家事一切、夜は着飾って”夫”をあてがわれて性奉仕を強いられた。”アッラーの兵士”たちは日中は村に降りて殺戮と金銭物資食糧の略奪をもっぱらにし、夜は”アッラーの国”実現のための子孫兵力再生産に勤しんだ。ハムラはその2年間のキャンプでの隷属生活で3度”夫”をあてがわれ、2度妊娠した。だが、キャンプの牢獄で同じように誘拐されてきた政府軍兵士で爆弾製造技術者(テロリストのために爆弾を作らされている)の男と目と目で交信することができるようになり、彼の目から奴らのテロ計画で使う予定の爆弾をキャンプ地内で爆破させてしまう意図を読み取る。その日が来て、爆弾技師はその意図通り大爆発と共に自爆してしまうが、それに乗じて妊娠9ヶ月だったハムラは全速力でキャンプを脱走することに成功する。逃走中に羊水が流れ出し、ハムラは森の暗闇の中で一人で分娩し、石で臍帯を打ち切り新生児を置き去りにして逃走を続けるがやがて力尽き...。
 気がつくとハムラは政府軍に救出されている。新生児も無事回収されている。ハムラはこれですべてが解決したと思った。政府軍はハムラにテロリストキャンプに関するすべての情報を求め、ハムラは包み隠さずすべての情報を与えた。それに基づいて政府軍は山中のテロリストキャンプに総攻撃をかけるのだが、反政府テロ軍団はそれを待ち伏せしていたかのように政府軍を大破してしまう。このことでハムラのテロ組織との共謀が疑われ、3年の禁固刑を喰らってしまう。以来ハムラは一生テロリストの汚名を着続けることになる...。ハムラはこのジャーナリストがこれをテレビルポルタージュで伝えることで自分の汚名が晴らされると...。
 オーブはこれは自分と同じように言葉と内戦の事実を消されてしまった女だと思い、大泣きするのだった。

 第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。
 このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。
 
 ”忘却論”に翻弄され、自分の戦争の真実を取り戻しにこの地"L'endroit mort(死の場所)"までやってきたのに、何も得ることなくモスクを出て行ったオーブは、電柱が示す方角を頼りに、電柱沿いに道なき道を降りていくうちに夜になり、何者かに石で頭を打たれ気を失う。気がつくと、手足を縛られて、廃屋倉庫の中にいる。 そこにいた男は明らかに精神を病んでいて、取り止めのない独語を繰り返していたが、女が気を取り戻したと見るや近寄ってきて「誰に頼まれた?俺を警察に密告するためか?嫉妬深い嘘吐き野郎の俺の兄の差し金か?」と激しく詰め寄ってくる。その顔はその午後モスクで会っていたイマーム・ザブリとうり二つ、すなわち消息不明の双子の弟ハメドであり、この倉庫はロバ屠殺場として使われていた。
 おそらく翌朝にはハメドに刎首殺害されることを覚悟したオーブはその夜、この倉庫の隙間から見える外の景色が父が持っていた小さな農場であることを知り、このすぐ近くで1999年12月31日夜、姉とオードがテロリストの刃で首を切られたのだった。その光景ははっきりとオードの脳裏に焼きついていて今日まで何度も脳内反芻されるのだが、その時首を切られながら姉はオードの方を向いて何かを言おうとしていた、そのメッセージが何だったのかをこの夜にはっきりと読み取ることができたのである。それは幼かった姉妹が好んでしていた”数かぞえ遊び”の合言葉「クーカ couca」。私の方を見ないで目を閉じて死んだふりをして数を数えるのよ。そうはっきりと読み取れたのである。オーブはその時まで死んだ姉への負い目(姉が死に、自分だけが生き残ったことへの罪悪感)ばかり感じて姉への詫びばかり唱えていたのに、それは間違いだった。姉は首を切られながら、私に数えよと命じていた。何千、何万という数字を数えることで”生”を延長させよ、と。それは生へのメッセージであり、おまえは生きよ、姉の分まで二人分生きよ、という教えであった、と。このことを理解した時、オーブは胎内の子の命を守りたいと初めて思ったのであるが、しかしそれは遅すぎる、私はもうすぐロバ屠殺人ハメドに殺されるのだから... 。

 ここまで書いたら、結末を隠すわけにはいかないので....。その朝、オーブを廃屋倉庫から救出したのは(本屋トラックから彼女が逃げ出した時からずっと追跡していた)アイッサだった。ロバ屠殺人・元テロリスト隊長のハメドと、その兄イマーム・ザブリは憲兵隊に逮捕されるだろうという村人たちの話だったが、それは重要なことではない(たぶんそうはならないだろう)。しかしアイッサに救われ、その腕の中に抱きしめられたオーブは初めて二人分の命を体感する。
 1年後、オランの夏の浜辺で、オーブ、アイッサ、ハディジャ、そして乳児が陽光を浴びてくつろいでいる、という最終シーン。生まれた女児はカルトゥームと名付けられる。もちろんエジプトの大歌手にあやかった名前であり、それは”声”の象徴である。生まれたカルトゥームはオーブの”声”になった。(完)

 読みやすい本ではない。読み進めるのに色々と学習させられた。それも読書の徳の一つ。冒頭でも引き合いに出したが、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』(2024年ルノードー賞おめでとう)のルワンダ大虐殺はフランス(ある意味で関与国)でも大きく報道されその全容は掴みやすいものだが、この本のアルジェリア内戦の10年は本国の意志(それに外国メディアの加担もあるのか)は多くが隠されたままであり、正確な死者数も知られていない。都合の悪い過去を隠蔽するのはどの国にもあることと言えるが、人間たちの過去が消されることへの抵抗は屈されてはならない。それが女性たちならばなおさらのことである。カメル・ダウードの本書は本国では孤立無援の闘いのような印象がある。フランスはこの作家を受け入れこの本を書ける環境を提供したがゆえに、アルジェリア当局との摩擦は避けられないが、文学のパワーはそういうものでもある。関わったさまざまな人たちの勇気にも感服するが、カメル・ダウードの筆力は圧倒的だ。多くの人たちに読まれますように。

カストール爺の採点:★★★★☆

Kamel Daoud "Houris"
ガリマール刊 2024年8月 412ページ 23ユーロ


(↓)出版社ガリマール制作のカメル・ダウードによる自著『天女たち』紹介。

2024年10月27日日曜日

アズナ アズ ナンバーワン

"Monsieur Aznavour"
『ムッシュー・アズナヴール』


2024年フランス映画
監督:メーディ・イディール&グラン・コール・マラード
主演:タハール・ラヒム、バスティアン・ブイヨン、マリー=ジュリー・ボープ
フランス公開:2024年10月24日

ず映画制作の背景から。この映画のプロデューサーであるジャン=ラシッド・カルーシュ(1974年生れ、50歳)は2017年のグラン・コール・マラード&メーディ・イディールの監督デビュー映画”Patients"(観客動員数130万人!)以来、2作目"La vie scolaire"(2019年)そしてこの3作目『ムッシュー・アズナヴール』と、両監督とタッグを組んできていて、そのほかに音楽アーチスト、グラン・コール・マラードのプロデューサーでもある。アルジェリア移民の子で、マント・ラ・ジョリー(パリ郊外、同地の元スター歌手フォーデルとは従兄弟の関係)出身、コメディアン、スタンダップ芸人、ミュージシャンなどの下積みがある。この男がゴールデンボーイとなるのは2006年4月のことで、なんとシャルル・アズナヴールの娘カティア(アズナヴールの6人の子のうちの4番目)と結婚したのである。仏ウィキペディアの記述によると、カティアが盗まれた携帯電話をカルーシュが取り戻してやったというのが馴れ初めのようだ。こうしてカルーシュは大アズナヴールの跡取り婿となり、一挙に芸能界でハバを利かすようになった、というわけ。この事情をおさえておかないと、どうしてこれが(遺族アズナヴール家から公認された)”公式”バイオピックなのか理解できないと思う。どうしてこの制作陣?どうしてこのキャスティング?という公開前から多くあった(批判的)疑問が、ある種否定的で偏見がらみの前評判としてモヤモヤしていたのである。
 そのモヤモヤの核みたいなものがタハール・ラヒムにアズナヴール役ができるのか、ということ。映画の評価はタハール・ラヒムの演技がこのモヤモヤを晴らすことができるかどうか、という点に集中するのだと思う。
 
 さてシャルル・アズナヴール(1924 - 2018)の伝記映画(バイオピック)である。実人生においてアズナヴールは偉大な成功者であり、生涯現役で94歳の高齢でその死の2週間までステージに立っていたという、アーチスト冥利に尽きる大往生であった。自邸の湯を張った浴槽に横たわっていた状態で臨終していた、という安らかさも伝説的である。幸福な幕の閉じ方と言えよう。昨今話題になったバイオピックでは、フレディー・マーキュリー、エルヴィス・プレスリー、エミー・ワインハウス、エディット・ピアフ、ダリダ.... など、凄絶ボロボロな生きざまと不遇な人生の閉じ方、という傾向がわれわれにはしっくり来るし、それなりの感動が約束されていたような納得感で観ることができた。ところがこのアズナヴールは(当然たいへんな苦労はしたものの)あらゆる成功と名声と巨万の財産を手に入れ、良い家族に囲まれ、愛したステージを離れることなく、幸福のうちに生涯を閉じた。これはストーリーとして面白いの?と首を傾げたくもなろう。この場合、モロであからさまな「サクセス・ストーリー」にするしか映画として成立しないのではないか。野心と上昇志向を次から次に満たしていく「昇り坂」映画。太閤記もどき。これもどうなんでしょうね....。
 映画は時系列に忠実に、アルメニア難民であるアズナヴーリアン家のパリ移住から始まる。 実際にはアメリカ移住を目指していて、その入国許可待ちでヨーロッパを移動中に、1923年にサロニカでシャルルの姉アイーダが生まれ、翌1924年にパリでシャルルが生まれたことをきっかけにフランスに定住するようになる。映画は歴史的悲劇であるトルコによるアルメニア大虐殺(1915〜16年)と強制移動にまつわるドキュメンタリー映像を映し出し、アズナヴーリアン家族がその当事者的被害者であったことをうながす。そんな歴史的背景によって流謫の苦労と貧困に悩まされる家族であったが、父親ミシャは楽天家であり、飲食店経営を何度も失敗しながらもアルメニア系移民たちを自店に招待して宴会を開いていた。このシーンで流れるのが、ロシア・ツィガーヌの伝承歌「二つのギター」で、幼いシャルルが宴会の真ん中でコサック・ダンスを披露している。この「二つのギター」は1960年にシャルルが仏語詞をつけてレコーディングしていて、その録音の中でロシア語歌詞部分は父親ミシャ・アズナヴール(元バリトン歌手)が歌っている。経済感覚はゼロだったが楽天的で音楽に溢れた家庭を作っていた父親、その家計の穴を塞いで、さまざまな小さい職で小銭を稼いでくるのが、アイーダとシャルルだった。金になることならば何でもするというハングリーさと営業センスは子供の頃から身についていたものだった。アイーダと共に演劇の舞台に立つ(初舞台は9歳の時)ようになったシャルルは、観客の前に出ることとスポットライトを浴びることの快感を知り、これこそが自分の道だ、と。12歳でミュージックホール(アルカザールカジノ・ド・パリ)に雇われ、小間使い、舞台係、給仕、お笑い端役などをこなしながら、幕袖からモーリス・シュヴァリエやシャルル・トレネのステージを見て、「わだばトレネになる」と高い志しを立てた。

 1941年、17歳、ナチスに占領されていたパリで、「ミュージックホール学校(のちにシャンソン俱楽部)」ディレクターだったピエール・ロッシュ(ピアニスト/作曲家 1919 - 2001)(演バスティアン・ブイヨン、好演)と出会っている。この映画の中では運命の出会いは3つあり、ひとつめはこのピエール・ロッシュ、ふたつめはエディット・ピアフ(1915 - 1963)(演マリー=ジュリー・ボープ、快演)、みっつめはアズナヴールの3人目の妻ユラ・トルセル(1940 - )(演ペトラ・シランデール)である。1967年に結婚し、アズナヴールの死まで52年間添い遂げたスウェーデン人マヌカン出身のユラは、その重要度という点で異論はないが、冒頭で述べた事情から憶測するに、アズナヴール/ユラ夫婦の第一子であるカティア(即ちこの映画のプロデューサーの妻)への忖度ではないか、と勘ぐりたくなるところがある。それはそれ。ピエール・ロッシュは、5歳年下でまだ17歳の若者の作詞と即興のセンスに仰天して、作曲/ピアノ/相方歌手となってデュエット「ピエール・ロッシュとシャルル・アズナヴール」(↑写真)を組み、二人で苦楽を共にしながら”シャンソン道”をひた走る。この映画では曲作りや興行元や音楽出版との交渉などでアズナヴールが常にイニシアティヴを取り、ロッシュはその優れたパートナーに寄りかかって興行先各地で女遊びばかりするような描かれ方。
 ナチス占領下のパリでのもうひとつ重要なエピソード、それはこの2024年2月に非フランス人(アルメニア移民/無国籍者)として初めてパンテオン納骨堂に(レジスタンス英雄・国家的偉人として)収められたミサック・マヌーシアン(1909 - 1944)とアズナヴーリアン家に交流があり、少年シャルルがマヌーシアンのチェスの相手だったということ。また(外国人)レジスタンス隊のリーダーだったマヌーシアンを匿っていたという廉で、アズナヴーリアン家にゲシュタポのガサ入れ/検挙の魔手が襲い掛かろうとするが、寸前に逃げのびるというシーンあり。明らかに2024年的トピックスとしてシナリオに加えられたものと思う。

 この新進のシャンソン・デュオのロッシュ&アズナヴールの噂は既にその世界の女王であったエディット・ピアフにまで届き、(イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーなど気に入った新人男たちを子飼いあるいは愛人として巻き込む傾向のあった)ピアフは若造シャルルをまんまとその影響下に従える。ロッシュ&アズナヴールは入国ヴィザなしでピアフをニューヨークまで追いかけて行き、米移民局に留め置かれ、移民官の前で唯一知っている英語スタンダード曲を歌って審査をパスするという武勇伝シーンあり。ピアフの口利きで、デュオはカナダ/ケベックで仕事を得るが、これが北米ケベックというスモールワールドにおける”大成功”となって二人は鼻高々なのだった。そしてピエール・ロッシュはこの成功に甘んじ、この地で結婚して家庭を作りたいなどという”保守反動”に転じ、デュエット解消へ。だがピアフはそのケベックのような田舎で天狗になるような”志しの低さ”を鼻で笑い、本物の成功を掴んでみろ、とアズナヴールを挑発し、自分の小間使いとして扱き使う。
 エディット・ピアフを演じたマリー=ジュリー・ボープの存在感はたいへんなもので、貫禄の"グアイユ"(gouaille = パリ下町人特有の不平&茶化し口調)、迫力の姉御/芸能女王のアティチュードは、バイオピック”La Môme"(2007年オリヴィエ・ダアン監督、邦題『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』)のマリオン・コティヤールよりもリアリティーの点で優っていると思う。そのピアフはアズナヴールの声がくぐもっている("voix voilée" 不明瞭でよく通らない声)ということが歌手として致命的だと断言する。だから、ピアフはアズナヴールを歌手としてではなく、シャンソン作家として一流にしようとするのだった。小男(1メートル62センチ)、不恰好な鼻、ブサメン、おまけに曇った声、これらのハンディキャップはスター歌手になることを限りなく遠ざけるものであったが、アズナヴールは"不屈の男"であった(というのが映画の全体的トーン)。そして一人前になるには、ピアフの庇護の傘から抜け出さなければならなかった。
 1960年、アズナヴールは36歳になっていた。自作自演ソロ歌手としてなんぼ頑張っても芽が出ない。これが当たらなければ歌手を廃業する、という覚悟でステージに上った1960年12月12日パリ・アランブラ劇場、その歌が"Je m'voyais déjà"(日本題「希望に満ちて」)であった。日本語では「起死回生の一発」と言うのだろうか。独自のジェスチャー演出で歌をドラマチックに仕立て上げるアズナヴールのステージ芸を再現するタハール・ラヒム、このシーンは本当に上手い。一か八かのパフォーマンスの後で大喝采がやってくるという結果がわかっているわれわれ映画観客にしても、このシーンはジ〜ンと来るものがある。これはタハール・ラヒムの力量のなせる技と思うのだが、テレラマ誌は「イミテーション」と酷評する(わからないでもない)。
 このアランブラの一夜のあとは、ヒットに次ぐヒット、押しも押されぬ大スター歌手となり、カーネギーホールを満杯にする国際スターとして(フランク・シナトラに「次はあんたと同じギャラを取って見せるよ」と言うシーンあり)、桁外れの名声と富を得るのだが、このアズナヴールはどこまで行っても上昇志向で、次から次に目標を上方修正していくのであった。この破竹の勢いを一時的にストップさせる不幸な事件はこの映画ではひとつしかない。それはひとりだけ家族にも父アズナヴールの派手な暮らしぶりにも馴染めなかった息子パトリック(1951- 1976)の突然の死であった。映画の中では死因(麻薬オーバードーズ)については触れていなかったと思う。この時だけアズナヴールは立ち止まっておおいに苦悶することになり、映画はここで暗く沈むアズナヴールを映し出すのである。圧倒的サクセスストーリーの唯一の暗部であるかのように。
 
 映画はその他”アズナヴール伝”中のいいとこ取りの数々のエピソードが挿入される。「ラ・ボエーム」やシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーをテーマにした「人が言うように Comme ils disent」がいかにして生まれたか、とか、生涯の女性ユラ・トルセルとの出会いのシーン(←写真)(ここで1974年英国チャートNO.1になった"She"がバックに流れる)とか...。名声、富、最愛の女性、すべて吾れにあり、そういう映画にしてしまったのですよ。グレイテスト・アーチストのグレイテスト・ストーリーに。2時間13分ありがたく拝見しましたが...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ムッシュー・アズナヴール』予告編

2024年10月22日火曜日

味なことやるアズナヴール

Je m'voyais déjà
俺には自分が見えていた

2018年10月1日、シャルル・アズナヴールは南仏ブーシュ・デュ・ローヌ県ムーリエス(Mouliès) 村の自分のオリーヴ畑のある別邸の浴室で亡くなった。94歳だった。そのつい12日前、9月19日NHK大阪ホールでのコンサートが、80年の歌手生涯最後のステージとなった。あれから6年たった今2024年はアズナヴール生誕100年にあたり、さまざまなイヴェントが催されていて、100年記念の完全録音集100CDボックスも発売された。その100歳イヴェントのハイライトとも言えるこの10月23日に公開される公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』(メーディ・イディール&グラン・コール・マラード監督、タハール・ラヒム主演)に合わせて、当ブログも3つの記事でアズナヴール回顧をやっている次第。
 その第2弾として、私が音楽雑誌エリスの第26号(2019年3月)に書いたアズナヴール追悼記事(約8500字)を同誌の許諾をいただいて加筆再録します。音楽誌に書いても歌詞のことばかり書く”歌詞読みライター”だった向風三郎のクセで、歌詞中心の記事だが、フィーチュアリングでジョーン・バエズ、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコ、フランソワ・トリュフォー、ボブ・ディランなども登場する。われながら面白い(あの頃はこんなことが書けたんだね)。お読みください。

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この記事は音楽雑誌エリスの第26号(2019年3月7日発行)に掲載されたシャルル・アズナヴール追悼記事を同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

俺には自分が見えていた
Je m'voyais déjà
 
ー シャルル・アズナヴール頌 ー

2018年夏、引退ツアーのためにヨーロッパに来ていたジョーン・バエズは、仏テレラマ誌のインタヴューで「本当に引退なのか?」という質問に(軽いユーモアで)「私はアズナヴールのようにステージで死にたくないわ」と答えた。この時点でアズナヴールはまだ存命で、それこそ「引退ツアー」の途中にあり、それが917日東京と同19日大阪で本当に終わりになるとは誰も予想だにしなかった。2024年の「100歳コンサート」の企画もあったし、アズナヴールならば普通に可能でしょ、と思われていた。「アズナヴールと引退」はもはやギャグの領域のことだった。この人はかれこれ30年間も「引退公演」「さよなら公演」を続けてきたのだから。
 これで見納めか、と大歌手の最後の晴れ舞台を何回も拝まされた人たちも少なくはない。時が経つにつれてこの「引退商法」は批判と揶揄の対象にもなり、実際に轟々の批難を浴びるコンサートもあった。2007年(当時83歳)10月と11月のパレ・デ・コングレでの20回公演は、さよなら“を期待した人々にはがっかりの、出たばかりの54枚目のアルバムCOLORE MA VIEからのレパートリー中心(新曲ゆえ歌うのにカンペを要した)で、パリ・マッチ誌評は「観客はアズナヴールの靴しか見なかった」と皮肉るほどだった。さらに2011年(当時87歳)9月からのオランピアでの22回公演は、チケットが200ユーロ(約2万5千円)という超高値で、その理由をパリジアン紙インタヴューで「30年ぶりのオランピアの舞台にピアノ一台で登場するわけにはいかないじゃないか、大勢のミュージシャンたちとステージを演るんだ、彼らも報酬を得なければならない」と強気で正当化した。その結果この一連の公演は席が半分も埋まらなかった。

 シャルル・アズナヴール(1924-2018)は満場一致で支持されるシャンソン歌手ではなかった。「フレンチ・シナトラ」として国内同業者とはひとクラスのふたクラスも上の国際的大スターを自認するようになってからは、その高慢な言動を好まぬ人たちは多かった。とりわけ金銭関係に関しては良く思われていない。国際的な歌手と映画俳優となっただけでなく、音楽出版社などの事業でも成功して巨万の富を得たアズナヴールはフランスでの税金を逃れるために、1972年にスイスに移住している。フランス税務局はこれを脱税とみなして追求し、1977年の第一審では禁錮1年(執行猶予つき)+罰金3百万フラン(約2億円)の有罪判決が出た。この裁判に出廷したアズナヴールは「フランスはその金庫に何億という金を私がもたらしていることに感謝すべきではないか?あなたがたは私が78カ国で公演できる世界でただ一人の歌手であることを知らないのか?」と怒りをこめて述べた。判決に承服できない彼は新聞に「祖国に奉仕した廉で、数百万フランと1年の刑」と題した当時の大統領ジスカール=デスタン宛の抗議文を寄稿した。長い裁判抗争の末、無罪を勝ち取ったものの、フランス当局との溝は決定的になり、以後アズナヴールは「フランス非居住者」として年間6ヶ月と1日(つまり半年以上)をスイスで暮らし、プロヴァンス地方(ブーシュ・デュ・ローヌ県ムーリエス村)の館を除いてフランスで持っていた不動産すべてを子供たちに手放した。
 貧しいアルメニア系移民(母親は大虐殺“の生存者である)の子としてパリで生まれ、学校も行かず子供の頃から芸人として舞台に立っていたシャルルは、80年の芸歴の末にどれほどの財を成したのかは知れない。数字で言われているのは、生涯で作詞作曲した曲数800、レコード録音した曲数1200、レコード売上枚数1億8千万枚(世界合計)。アズナヴールの10ヶ月前に他界したフランスのスーパースター、ジョニー・アリデイ(1943-2017)の総売上枚数が1億1千万枚だったと言うから、ジョニーにはなかったアズナヴールの世界的名声がどれほどのものであったかが知れよう。この背の小さい男(1メートル60センチ)は、アイ・アム・ザ・ビッゲストという自負が強かった。しかし自分がトップスターになってからも、フランスの評論家/ジャーナリスト/メディアはシャンソンのビッグスリー「ジャック・ブレル=ジョルジュ・ブラッサンス=レオ・フェレ」の列にアズナヴールを加えることはなかった。これはアズナヴールを大いに傷つけたし、メディアとの関係は長い間こじれたままになっていた。
 アズナヴールはよくChanteur mal aimé(シャントゥール・マレメ)と言われた。これは「嫌われた」歌手という意味ではなく、直訳的には「悪く愛された」つまり「愛されにくい」と解釈されよう。評論家たちからの容赦ない悪評はアズナヴールの名が少し知れるようになった1950年代初めの頃が最もひどかった。スター性のない顔つき、小さな体躯、奇妙な身振り手振り、とりわけその声量の無さと鼻にかかったかすれ声の聞きづらさが攻撃の対象となり「すぐに歌手をやめるべき」と言われた。「悪性の喉頭炎を治療しろ」とも。日本で青江三奈や森進一が出てきた時にここまでは言われなかったのではないだろうか。この特徴ある声を、のちの英米メディアは「アズナヴォイス(Aznavoice)」と名付けて特化した。アズナヴールはメディアの侮蔑攻撃に傷つきながらも、こう自分に言い聞かせて凌いだ「C’est le public qui a raison(正しいのは聴衆だ)」。自分が成功するか否かを決めるのは評論家たちではない、聴衆である。聴衆こそが正しい。
 この小柄な「悪声」歌手の成功伝説はまさにこの聴衆の心を掴めるという自信によって支えられている。シャンソンがまだアートでなかった頃、「シャンソニエ」とは大道や市場の広場の演芸台に乗り、自作の歌と小咄に踊りや曲芸をして聴衆からお金を得る芸人のことであった。何でもできないとつとまらないショーマンであった。元バリトン歌手のアルメニア移民の子としてパリに生まれたシャルルは、父のレストラン業が何度も倒産するなか、幼い姉のアイーダと共に家計を支えるために演劇、歌、ものまね、映画の端役などで日銭を稼いでいた。観客・聴衆とのコンタクトの良し悪しでその日の出来高が違うというリアリズムを早くから叩き込まれたということだ。それは大道から出てきた稀代の大衆シャンソン歌手エディット・ピアフ(1915-1963)とも通底するものだったのだろう。当時既に大歌手の名を欲しいままにしていたピアフは一目でアズナヴールを「天才バカ(genie con)」と呼んで惚れ込み、1946年からピアフ邸住み込みの付き人にしてしまう。
 恋多き女として知られたピアフだったが、この小柄な男とは恋仲にはならなかった。しかしピアフがアズナヴールに課した仕事は、秘書、運転手、舞台係、悩み事の聞き手ほか雑務一切に及んだ。その上にアズナヴールはピアフのために作詞もしなければならなかった。思いつきで「こういう詞を明日までに」と命じられることは多かったが、採用されることは少なかった。6年間ピアフの下で奉公していたが、この経験をアズナヴールは肯定的に(たくさんのことを教わったと)語ろうとするものの、実際はパワハラの連続だったようだ。
 そのピアフからボツにされた歌詞のひとつに「日曜日は嫌い(Je hais les dimanches」がある。フロランス・ヴェランが曲をつけたこの歌は、ピアフの拒否の後にジュリエット・グレコ(1927 - )の手に渡ってレコード録音され、実存主義の歌姫と呼ばれ左岸で人気を博していた彼女の雰囲気に溶け込みヒットした。最大の皮肉は、1951年のSACEM(フランスレコード著作権協会)主催のシャンソン・コンクール「エディット・ピアフ賞」に優勝してしまうのである。

 月曜から土曜までの毎日は
   何もなく虚ろな響き
   それよりもひどいのは
   バラ色で心豊かであろうとする
   思わせぶりな日曜日
   幸せな一日であることを強いられる日
   私は日曜日が嫌い
    (「私は日曜日が嫌い」)
 週末不休で働く男と暮らしているゆえの、他の人々の日曜日の幸福そうな行状を呪う歌。下層階級の日常の断面がよくある妬みのドラマとして浮かび上がる。この具象的な日常風景活写がアズナヴール・シャンソンのひとつの特徴であり魅力であるが、この歌をグレコの歌唱で知ったピアフは、アズナヴールは最良の歌を私にくれなかった、と逆恨みし、「ピアフ賞」は渡さぬと言わんばかりに、この歌をピアフ自身も吹き込む(対照的なふたつのヴァージョンである)。しかしこれがきっかけでピアフとアズナヴールの関係は悪化し、1952年「天才バカ(Génie con)」はピアフ邸から放逐され、おかげで歌手アズナヴールは独り立ちすることになる。 

 ブレル、ブラッサンス、フェレの三大シャンソン巨星から曲を提供されていたジュリエット・グレコは、後年にアズナヴールの詞をこう分析している:

「シャルルの言語は少しマッチョね。それは男の言語、妻を娶り、子供をたくさん産ませる男たちの言葉よ。フェレやブレルやブラッサンスのような狂気を孕んだ言語ではない。たぶんシャルルは彼らよりノーマルな側面があったということね。」(テレラマ誌20181010日号)
 日常性とノーマル性に近いということがアズナヴールが大衆の心を掴む鍵であったが、それは(1950年代的に)普通っぽい男の女泣かせも含み、往々にして性を暗喩するフレーズが彼の歌を次々に放送禁止に処される原因となった。放送禁止は良いプロモーションともなったのであるが。

 ピアフの庇護圏から離れ、評論家たちの酷評に耐えながら、レコードとステージでじわじわとその実力を蓄えていったアズナヴールの最初の大ヒット曲は1960年の「俺には自分が見えていた(Je m’voyais déjà)」(日本では「希望に満ちて」と訳されている)であった。
俺にはもう見えていたんだ
出演者看板の最上段にある
他の名前の十倍の大きさの俺の名前が
俺にはもう見えていたんだ
賞賛され金持ちになった俺が
殺到するファンにサインしてやる俺が
(「俺には自分が見えていた」)

歌手を目指して18歳で田舎からパリに出てきた男が、確信していた自分の才能にもめげずまったく成功を得られず年老いていくストーリーの歌。この歌は当時の大スター歌手イヴ・モンタンのために書かれたものだが、モンタンは拒否した。売れない歌手のセルフヒストリーなど、シャンソンの題材として不吉きわまりない。 

 19601212日、パリのアランブラ劇場でこの歌は初めて披露された。舞台での演出は、まさにストリップティーズの逆回しで、ボタンをかけないシャツ姿で登場し、次第にシャツのボタンをかけ、カフスを締め、上着を羽織り、ネクタイを締めていく。歌手が楽屋で身繕いをし、颯爽と衣装を決めて舞台に出ていく、という姿を演じながら歌うのである。つまり50歳を過ぎた売れない歌手が、過去を回想しながら、それでも夢が捨てきれずに、30年前に誂えた高級テーラードスーツを着て今夜も舞台に立つ、という話なのだ。歌詞の中で、悪いのは俺ではなく、俺の才能を理解しようとしない観衆が悪いのだ、と毒吐く一節がある。そして歌の結びとして

俺はあまりにも純粋で
あまりにも先端すぎたんだ
だがいつか俺に才能があることを
見せつけられる日はきっと来るさ
(「俺には自分が見えていた」)
と歌い終わり、実際の観客に背を向け、ホリゾントから照明を浴びて歌の中の架空の観客に向かって(舞台に登場するように)両腕を広げて歩んでいく、というエンディング。袖に下がっていったアズナヴールは、ホリゾントからの照明を浴びたままの客席から拍手が全くないことに失望し、今度こそ歌手廃業の時だと覚悟したという。これが最後のあいさつと観念して舞台に再び現れた時、なんとアランブラ劇場は轟々の喝采に包まれたのである。アズナヴールが36歳にして初めて手にした栄光の瞬間だった。

 その同じ1960年、既に映画(性格)俳優として確かな評価を受けつつあったアズナヴールは、ヌーヴェルヴァーグの旗手のひとりフランソワ・トリュフォーが監督したフィルム・ノワールの傑作『ピアニストを撃て』に主演する。アルメニア系のクラシック・ピアニストとして名声を得ていたエドゥアールは、最愛の妻を自殺で失ったショックでクラシック界から退き、シャルリーと名を変えて場末のキャバレーのピアノ弾きに身をやつしている。新たな恋の芽生え。キャバレーのメイドのレナ(演マリー・デュボワ、素晴らしい)は、シャルリーの過去を知っていて、愛し合っているなら再び「エドゥアール」となってやり直そう、と。しかしピアニストの二人の兄はギャングであり、ギャング同士の抗争の中にシャルリーとレナの恋は巻き込まれてしまう。もともと映画俳優としては当時流行りの「歌う映画スター」を拒否して歌手同様の本腰を入れて挑んでいたアズナヴールだが、このヌーヴェル・ヴァーグのフィルム・ノワールでは従来の役とは全くディメンションの異なるアンチ・ヒーローを見事に演じて高い評価を受けた。興行成績も上々で、フランスとほぼ同時期に封切られたイギリスでもヒットし(後年エルトン・ジョンがこの映画にインスパイアされたアルバム『ピアニストを撃つな』を制作)、さらに1962年夏にアメリカで公開されるや大好評で、アメリカでシャルル・アズナヴールの名はまず国際的映画スターとして知られることになったのである(日本公開は1963年)。
 たしかにこの1960年代前半にアズナヴールはビッグヒットを連発し、生涯の代表作となっていく「ラ・マンマ(La Mamma)」、「想い出の瞳(Et pourtant」、「帰り来ぬ青春(Hier encore」、「ラ・ボエーム (La Bohème)」、「悲しみのヴェニス (Que c’est triste Venise)」などはこの時期に集中している。この時点で易々とフランスのみならず仏語圏世界のビッグスターになっていたはずなのだが、並外れた自尊心の持ち主となった彼は「世界制覇を目指す」と言うのである。「世界」とはあの時代、とりもなおさずアメリカ合衆国のことであった。ザ・ビートルズのアメリカ初上陸が19642月、坂本九「上を向いて歩こう(Sukiyaki)」は19636月。アメリカを制する者は世界を制する。この話をアズナヴールは複数のフランスのプロモーターにもちかけるのだが、ことごとく一笑に付される。その時点でアメリカでのアズナヴールの認知度は映画俳優としてであり、歌手としては誰も知らない。無謀である。しかしわれらが天狗アズナヴールは、周囲の反対を押し切って、自腹を切って、1963年3月30日の一夜、ニューヨークのカーネギー・ホールをリザーヴするのである。伝説はそれに、196212月から114日間続いていたニューヨーク市の新聞ストライキというプロモーション上の大ハンディキャップを加える。果たしてカーネギー・ホールの2800席は埋まるのか?
 その内の150席はこれまた自腹でボーイング707一機をチャーターしてフランスからの招待客(ジョニー・アリデイ、フランソワーズ・サガン、フランソワ・トリュフォー、ロジェ・ヴァディム)で埋めた。アメリカの音楽関係者たちも多く招待された(その中にボブ・ディランもいた)。しかしフランスの業界人たちの予想を覆して、チケットは売り切れ、2800席に加えて舞台脇に数列の席を足さなければならないほどの満員御礼であった。舞台の上でのアズナヴール自身の曲紹介はすべて英語、そして演奏された曲の3分の1は英語ヴァージョンで歌われた。2時間のショーは大成功に終わり、一方で『ピアニストを撃て』のピアニストのコンサートと思って来たアメリカ人聴衆は目の前にいた超エンターテイナーに快い不意打ちを喰らった。 
 1963
年はボブ・ディランが「風に吹かれて」を発表した年でもあるが、後年(1987年ローリングストーン誌インタヴュー)ディランはこのカーネギー・ホールのアズナヴールに強い衝撃を受けたと語り、その上1966年のアズナヴール曲「ふたりの時(Les Bons Moments」をThe Times we’ve knownというタイトルでカヴァーしている(1998年マジソン・スクウェア・ガーデンでのライヴ動画がYouTube上にあり)。 

その後のアズナヴールの世界的サクセス・ストーリーは本稿で書くまでもないことと思う。初来日は1968年のことで、度々日本公演しているし、アズナヴール楽曲を日本語で歌う日本のシャンソン歌手たちも少なくない。比較的日本人には親しまれたアーチストだった。「私は日本のホテルが大好きだ。洗面台が私にぴったりのサイズなのだ」と言ったこともある。

 フランス国内では新譜シングルヒットなどの「現役性」は1970年代で影をひそめるのであるが、その70年代にアズナヴールの歌は社会派性も帯びてしまう。35歳女性教師と未成年15歳の男子生徒との恋愛が、犯罪として告発され、裁判訴訟中に女性が自殺した実話事件をモチーフにした「愛のために死す(Mourir d’aimer)(1971)
世界は私を裁こうとしているが
私にはひとつの逃げ場所しかない
すべての出口は塞がれたのだから
愛のために死ぬだけ
(「愛のために死す」)
アニー・ジラルド主演/アンドレ・カヤット監督で映画化もされ、685月革命の解放機運にも倒されなかったこの旧時代のモラルを問い直した事件。恋愛の自由に立ちはだかる世間をドラマティックに糾弾するアズナヴールに人々は喝采した。

 そしてシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーを主題にした歌とされる「人が言うように (Comme ils disent)」は1972年に発表された。その時代フランスではまだ同性愛は精神疾患であり、刑法上では軽犯罪であった(この刑法条項が削除されるのは1981年のこと)。つまり社会の表面に出ることが憚られる風潮が支配的だった頃である。
僕は横になるけれど眠りはしない
僕は喜びもなく笑い話のような
過去の恋の数々を想う
そしてあの神のように美しかった青年
造作もなく僕の記憶に火をつけた
あの青年のことを
僕のこの甘美な秘密を
僕のこの優美なドラマを
決して彼に打ち明けることはない
僕のすべての悩みの元である彼は
ほとんどの時間を女のベッドで
過ごしているのだから
僕を非難したり裁いたりする権利は
本当のところ、誰にもないはずなんだ
はっきり言おう
これは自然界の掟だけに
責任があることなんだ
人が言うように
僕がホモであるということは
(「人が言うように」)


Cest bien la nature qui est seule responsible(自然こそが唯一責任を負っている)― この結論がどれほど多くの人たちを勇気づけたことだろうか。これは画期的な前進の歌であった。ゲイに扮したジェスチャーでこの歌を舞台(とテレビ)で歌ったアズナヴールの勇気、この大胆さはカーネギー・ホールを満杯にすると息巻いた超強烈なエゴとは別のものだろう。自尊心のかたまりであり、高慢であり、金の亡者でもあるアズナヴールを、私たちが百歩も二百歩も譲って最大級の偉大なアーチストと認めざるをえないのは、こういう歌を歌ったということを知っているからなのである。 

 1998
年、米CNNと英タイムスの共同主催の視聴者・読者投票による「世紀のエンターテイナー」選で、得票率18%でエルヴィス・プレスリーとボブ・ディランを抑えて1位になっている。また1988年のアルメニア大地震の時の大規模チャリティー支援の中心だったことなどから、父母の故国アルメニアでは生前から国民的英雄であり、名誉大使にも任命され、首都エレバンにはアズナヴール文化センターもある。政治的なポジションは保守寄りで、70年代からフランス大統領選には一貫して保守候補を支援してきた。 

 2018
10月1日、プロヴァンス地方の自邸の浴槽で94歳で亡くなったシャルル・アズナヴールは、105日、パリ7区アンヴァリッド内庭で国民葬セレモニーによるオマージュを受けた。


 こうやって引退コンサートを永遠に続けていられるのだから、いつかは生の歌を聴く機会もあるだろうと思っていたから、私は一度もアズナヴールのライヴを経験していない。60枚組のアズナヴール全録音集も持っていない。全然熱心なファンではない私が、おこがましくも最も愛するアズナヴールの歌を挙げるとすると。多くの人たちが選ぶように「帰り来ぬ青春」や「ラ・ボエーム」に典型的な、二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったものがこの人ならではの真骨頂/十八番/名人芸だと思うのである。この二十歳を人生の最も美しい頂点としてそれが過ぎ去ったことを無性に悔やむ一連のアズナヴールの歌の最初の原石とされるのが「青春という宝(Sa jeunesse)」と題された歌である

私たちの二十歳の時の刻々は
容赦なく刻まれ
失われた時は
私たちに面と向かうことなく
過ぎ去っていく

ときおり虚しく手を差し伸べて
後悔したりもするが
既に遅すぎる
その道のさなかでは
なにものもそれを止めることはできない
自分の若さを
いつまでも保つことなどできはしない

微笑む前に私たちは子供時代と別れ
知る前に青春時代は遠ざかってしまう
唖然とするほどあまりに短いものだが
理解する前に人は人生から去ってしまう
(「青春という宝」)

アズナヴールがこの歌を発表したのは1957年のことで、この小さな歌手は32歳になっていた。なるほど、と納得できる年齢である。ところが後年にわかるのは、アズナヴールはこの歌を説得力を持って歌える相応の年齢まで、この歌の発表を控えていた、ということ。そしてアズナヴールがこの歌を書いたのは、1942年、つまり彼が十八歳の時だったということ。十八歳にして「二十歳」を回想して悔やむ! 後年に自身が歌うように「Je mvoyais déjà = 俺には自分が見えていた」のだ。たとえ実生活でどんなに鼻持ちならない高慢な人物であったとしても、この天才は疑いようがない、否定しようがないではないか!

 
          (エリス誌2019年春号・向風三郎)


(↓)
【 シャルル・アズナヴール 2018年9月19日大阪 】
アズナヴール人生最後のステージ@NHK大阪ホール、ショー後のバックステージ、日本のファンたちと交流シーン。ファンのひとりが”11月のセーヌ・ミュージカル(わが町ブーローニュ・ビヤンクール)のコンサートに行くから”と言うのだが、いつのことやらわからないという反応のアズナヴール。この9月19日から12日後の10月1日、ムッシュー・シャルルは天に召され...。今見るとなんともエモーショナルな動画である。再・合掌。

2024年10月19日土曜日

アズナヴール流しながら

Tu parles, Charles !
なんとおっしゃるるアズナヴール!

10月23日、シャルル・アズナヴールの公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』(メーディ・イディール&グラン・コール・マラード監督、タハール・ラヒム主演)が公開になるが、これは後日記事として当ブログで紹介できると思う。
そのほか今年2024年はアズナヴールの生誕100年に当たり、センチュリーボックスを銘打った100CD全録音集が出たり、100年記念のシンフォニック・コンサート(中島ノブユキさんの編曲/ピアノ)があったり、(←)こんな記念切手が発売されたり...。

 そんな時、たまたま乗った地下鉄10号線の車内(→)にもこんな横長のアズナヴール「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」の歌詞出だしを見つけたのだった。このアズナヴール初の世界規模ヒットはオリジナルが1964年の発表で、世界ヒットへの踏み台となるのがハーバート・クレッツマー(Herbert Kretzmer 1925 - 2020)によって英詞をつけられ"Yesterday When I was young"というタイトルとなって、まずカントリーバラード曲としてロイ・クラーク(1933 - 2018)が1969年に全米チャート6位にまで上る大ヒットとなった。以来この英詞"Yesterday When I was young"曲は英米有名アーチストたちによって再カヴァーされ、スタンダード化するのだったが、この英米カヴァーは例外なく4拍子バラードになっていて、原曲(アズナヴール詞/ジョルジュ・ガルヴァレンツ曲)”Hier Encore"の3拍子ワルツは踏襲されていない!おそらく日本で最も親しまれたのは英(007)歌手シャーリー・バッシー(1937 - )の1970年録音のヴァージョンであろうが、この熱唱に聴き慣れたであろう日本の歌手たちのカヴァー(尾崎紀世彦弘田三枝子和田アキ子...)はみな4拍子熱唱バラードになっている。これは1967年クロード・フランソワの"Comme d'habitude"(→1969年ポール・アンカ/シナトラ「マイ・ウェイ」)の現象と同じで、日本の歌手たちの手本はオリジナルではなく英米カヴァーなのである。それはそれ。
 フランスでアズナヴールが初めて大成功を博したのは1960年12月12日パリ・アランブラ劇場で歌った"Je m'voyais déjà(俺には自分が見えていた)"であり、この時すでにアズナヴールは36歳だった。この1960年から数年の間に、アズナヴールの定番代表曲(”Les Comédiens", "La Mamma", "Et pourtant", "For me Formidable", "Emmenez-moi", "Désormais"... )のほとんどが大ヒットしていて、シャンソンクリエーターとして最も才気溢れていた時期と言える。その中でとりわけこの「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」(1964年)と翌年1965年の「ラ・ボエーム(La bohème)」の2曲のメランコリック青春懐古シャンソンが群を抜いているように私には思える。二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったアズナヴール十八番には、もう1曲、1957年発表(つまり大歌手として認知される前の頃)の「青春という宝(Sa jeunesse)」というのがあり、これについては電子雑誌エリス2018年春の号に書いたアズナヴール追悼記事に詳しく触れてあり、この記事は当ブログに近日中に再録するので、そちらを読んでください。

 では「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」から歌詞対訳を見ながら聞いてみてください。

Hier encore, j'avais vingt ans
つい昨日まで私は二十歳だった
Je caressais le temps, et jouais de la vie
時を手玉に取り、人生をもてあそんでいた
Comme on joue de l'amour, et je vivais la nuit

恋のゲームをするように、私は夜を生きていた
Sans compter sur mes jours, qui fuyaient dans le temps
時の中に逃げ去っていく残された日々を数えることもなく
J'ai fait tant de projets, qui sont restés en l'air
たくさんの計画を立て、それは宙に浮いたまま
J'ai fondé tant d'espoirs, qui se sont envolés

たくさんの希望は生まれては飛び去っていき
Que je reste perdu, ne sachant où aller
私は自分を見失い、どこに行っていいのかもわからず
Les yeux cherchant le ciel, mais le cœur mis en terre

目は空を追っても、心は地を這っていた

Hier encore, j'avais vingt ans

つい昨日まで私は二十歳だった
Je gaspillais le temps, en croyant l'arrêter

私は時間を無駄に使い、時間を止められるんだと信じて
Et pour le retenir, même le devancer

時間をためておいたり、時間を追い越すこともできるんだと
Je n'ai fait que courir, et me suis essoufflé

私は走ってばかり、そして息を切らした
Ignorant le passé, conjuguant au futur

過去を無視して、未来にばかり話をくっつけ
Je précédais de moi toute conversation

私はあらゆる会話に出しゃばって自己主張した
Et donnais mon avis, que je voulais le bon

自分の意見を述べ、
Pour critiquer le monde, avec désinvolture

世界を批判した、厚かましくも

Hier encore, j'avais vingt ans

つい昨日まで私は二十歳だった
Mais j'ai perdu mon temps à faire des folies

私は愚かなことばかりして時間を失った
Qui ne me laissent au fond rien de vraiment précis

結局のところ私に確かなものなど何も残さなかった
Que quelques rides au front, et la peur de l'ennui

私に残っているのは額の皺と、厄介ごとへの恐れだけだ
Car mes amours sont mortes, avant que d'exister

私の数々の恋など芽生える前にすべて死に絶えた
Mes amis sont partis, et ne reviendront pas

友人たちは去っていき、もう戻っては来ない
Par ma faute j'ai fait le vide autour de moi

自分のせいで私は自分の周りを空っぽにしてしまった
Et j'ai gâché ma vie, et mes jeunes années
そして私は人生と若かった年月を台無しにした


Du meilleur et du pire, en jetant le meilleur

最良と最悪の選択に私は最良を捨て
J'ai figé mes sourires, et j'ai glacé mes pleurs
私は作り笑いをして、自分の涙を凍らせた
Où sont-ils à présent...
今どこにあるんだ?
À présent mes vingt ans ?

今、私の二十歳の日々は?


(↓)2023年に公開された新しい公式クリップ


 若い時は愚かなことばかりして、もう取り返しがつかない現在がある、という無情の歌であるが、まあこういうわかりやすい悔恨抒情はそれまでの大衆的シャンソンではあまり歌われなかったのですよ。
   「ラ・ボエーム」はオペレット劇『ムッシュー・カルナヴァル(Monsieur Carnaval)』(初演1965年12月、脚本フレデリック・ダール、作詞ジャック・プラント、音楽シャルル・アズナヴール)の劇中歌として作られ、舞台では主演のジョルジュ・ゲタリーが歌っている。しかしこのオペレットが上演される前にアズナヴールがシングル盤レコードとして発表してヒットさせてしまったものだから、同じくレコード化する予定でいたゲタリーとアズナヴール、そして双方のレコード会社の間で大揉めに揉めたというエピソードあり。まあ、一聴してヒット間違いなしと誰もが思ったであろうし。「帰り来ぬ青春」(アズナヴール詞)よりも、イメージが鮮明なジャック・プラント(+劇脚本のフレデリック・ダール)の書いたモンマルトルの丘の絵描きたちの青春像、二日に一度しか食事できない、貧しいけれど愛と芸術と夢があった20歳の頃、これは泣かせますわね。

Je vous parle d'un temps
20
歳未満の子たちには
Que les moins de vingt ans

知るよしもない昔のことを
Ne peuvent pas connaître

話して聞かせよう
Montmartre en ce temps-là

その頃のモンマルトルは
Accrochait ses lilas

僕らの窓のすぐ下まで
Jusque sous nos fenêtres

リラの木々が伸びてきた
Et si l'humble garni
僕らが巣にして住んでいた
Qui nous servait de nid
つましい家具付き下宿は
Ne payait pas de mine

見てくれは悪かったが
C’est là qu'on s'est connu

そこで二人は知り合ったんだ
Moi qui criais famine

僕はいつも腹ペコだとぼやき
Et toi qui posais nue

きみはヌードモデルをしていた

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
On est heureux

僕らは幸せだったということ
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Nous ne mangions qu'un jour sur deux.

二日に一日は食事抜きだった

Dans les cafés voisins

近くのカフェに行けば
Nous étions quelques-uns

僕らは栄光の日を待ちわびる
Qui attendions la gloire

無名の輩だった
Et bien que miséreux

みすぼらしく
Avec le ventre creux

腹を空かしていても
Nous ne cessions d'y croire

僕らは未来を信じることをやめなかった
Et quand quelques bistrots

そして某ビストロが
Contre un bon repas chaud

暖かい食事を代金に
Nous prenaient une toile

一枚の絵を買ってくれた時には
Nous récitions des vers
僕らはみんな竈の周りに集まり
Groupés autour du poële

詩を朗読したものだ
En oubliant l'hiver

冬の寒さを忘れて

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
Tu es jolie

きみはきれいだ、ということ
La bohème, la bohème
ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous avions tous du génie.

そして僕らはみんな天才だった

Souvent il m'arrivait

画架を前にして
Devant mon chevalet

徹夜してしまうことも
De passer des nuits blanches

しょっちゅうあった
Retouchant le dessin

デッサンを手直し
De la ligne d'un sein

乳房のラインを
Du galbe d'une hanche
腰のふくらみを
Et ce n'est qu'au matin

そして朝になり
Qu'on s'asseyait enfin

一つカップのカフェ・クレームを前に
Devant un café crème

二人はやっと座り込んだ
Épuisés mais ravis

疲れ切っていたけど満足だった
Fallait-il que l'on s'aime

愛し合わなきゃだめだ
Et qu'on aime la vie
人生を愛さなければ

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
On a vingt ans

僕らは二十歳だということ
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous vivions de l'air du temps.

そして僕らは時代の先端を生きていた

Quand au hasard des jours

日々の気まぐれで
Je m'en vais faire un tour
僕の昔の住所を
A mon ancienne adresse

訪ねることもある
Je ne reconnais plus

かつて僕の若い日々を見ていたはずの
Ni les murs ni les rues

壁も通りも
Qui ont vu ma jeunesse
僕は全く覚えていない
En haut d'un escalier

階段を登っていき
Je cherche l'atelier

かつてのアトリエを探してみるが
Dont plus rien ne subsiste

まったく何も残っていない
Dans son nouveau décor

その新しい背景の中で
Montmartre semble triste

モンマルトルは悲しく見える
Et les lilas sont morts

リラの木々はみんな死んでしまった

La bohème, la bohème
ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
On était jeunes

僕たちは若かった
On était fous

僕たちは気狂いじみていた
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム

Ça ne veut plus rien dire du tout.

その言葉はもはや何の意味もない

 (↓)「ラ・ボエーム」(1965年、ライヴ動画)



 誰にでも自らの「ラ・ボエーム」体験がある。みんな若い頃(20歳の頃)はラ・ボエームだった。そう言われてみれば、それらしい体験がなかったわけではない、と振り返る中年/老年の遠い目がある。2024年公開のアズナヴール公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』の共同監督のひとり、グラン・コール・マラードが「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」というスラム曲を作った。これがなかなかいいので、いかに紹介して、この記事を閉じよう。

[Intro - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire
(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間にあるシンボル
À chacun sa bohème
誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Couplet 1 - Grand Corps Malade]
Je vous parle d'un temps que les moins de vingts ans ne peuvent pas connaitre

20歳未満の子たちが知らない昔のことを話して聞かせよう
Saint-Denis en ce temps là était mon seul décor et mon terrain de fête
その頃俺はサン・ドニは俺の唯一知ってるお楽しみの場所だった
Une terrasse de café, deux trois potos qui passent et le plan s'éternise
カフェのテラス、二、三人のガキが通り過ぎていく、話は尽きない
Et le clocher d'la mairie qui à dix-huit heures chante le temps des cerises

すると18時に市役所のチャイムが「サクランボの頃」のメロディーで鳴る
Je vous parle d'un temps que j'ai connu un temps comme une belle escale

素敵な寄り道だったような懐かしい昔のことを話して聞かせよう
On avait mille projets qu'on fantasmait devant une omelette frite à quatre balles

ポテトつきオムレツを囲んで俺たちは夢中で幾千もの計画を出し合った
On avait des idées et on refaisait le monde au pied des bâtiments
俺たちはアイデアに溢れ、建物の下に集まって世界を再創造したもんだ
Le monde a du nous voir il nous a offert l'espoir

世界は俺たちのことを見ていたに違いない、俺たちに希望を与えてくれた
C'est un bon commencement

それはいい出発点だった

[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire

(その言葉の意味は)
On est heureux

俺たちは幸せだったってことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire

(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème

誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Couplet 2 - Grand Corps Malade]
Souvent il m'arrivait devant mon cahier de passer des nuits blanches

ノートを前にして何晩も徹夜したこともしょっちゅうあった
Noircissant toutes ces pages avec excitation presque comme une revanche

まるで復讐劇のように興奮してノートの全ページを黒く埋めていった
Scander des poésies quelle jolie fantaisie face à des presque frères
まるで兄弟のような連中を前に詩を朗々と読み上げるなんて夢のようだ
Sans enjeux précis se sentir bien en vie et gagner quelques bières
それが何の足しにならなくても俺は気分良く、ビール代ぐらいは稼いだ
L'inspiration était partout je pouvais souvent la voir déborder
俺たちの無邪気さ、無頓着さ、奔放な生き方の中に
De notre innocence, de notre nonchalance, de notre vie débridée
インスピレーションはいくらでも溢れているように俺には見えた

On a laissé une trace en hurlant nos histoires à la gueule du monde
みんなの目の前で俺たちの話を喚き散らし、俺たちはその跡を残した
Je vous parle d'un temps dont je ne changerai pas une seule seconde
俺はその時代のことを言ってるが、俺は全く変わっていないんだ

[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire
(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦労と詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème
誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Outro - Grand Corps Malade]
Quand au hasard des jours je m'en vais faire un tour à mon ancienne adresse

日によってたまたま俺の昔の住所を訪ねることもある
Je reconnais les rues mais l'esprit n'y est plus
その通りに見覚えはあるんだが、エスプリはもうそこにはない
Moins d'envies, moins de promesses

願望も約束も減ってしまっている
Reste alors le souvenir qui me donne le sourire

思い出だけが残っていて、俺は微笑むしかない
Et ce pincement extrême, la nostalgie comme emblème
この激しい心の痛さ、ノスタルジーは
Entre galères et poèmes

生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるしなんだ
À chacun sa bohème

誰にでも自分のラ・ボエームがある

(↓)グラン・コール・マラード 「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」