2025年1月31日金曜日

マル聖女マリア

”La Pie Voleuse"
『泥棒カササギ』

2024年フランス映画
監督:ロベール・ゲディギアン
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン、ジェラール・メイラン
フランス公開:2025年1月29日

棒カササギ (イタリア語原題 "La Gazza Ladra" - フランス語題"La Pie Voleuse")』はジョアキノ・ロッシーニ(1792 -1868)作のオペラで、1817年にミラノのスカラ座で初演されている。大富豪の屋敷で働く召使女が、食器泥棒の嫌疑をかけられ窮地に陥るが、食器を盗んだ真犯人がカササギだったとわかり、ハッピーエンドとなる筋。映画と無縁なわけではない。家事手伝い女性マリア(演アリアーヌ・アスカリード)が雇い主の小切手偽造の嫌疑をかけられ窮地に陥るシナリオであるから。映画はマルセイユのその名も「ラ・ピー・ヴォルーズ(La Pie Voleuse)」という楽器店(ロッシーニゆかりの店名だからおかしくはない)に深夜泥棒2人組が潜入し、金目のものを求めて事務室を荒らしていたが、ドジなことに足場にしていた水道管が外れて破裂し、書類が散乱した床を水浸しにしてしまい、何も取らずにずらかってしまう、という始まり。
 マリアはベテランの派遣家政婦であり、数軒の老人家庭(および体の不自由な人の家庭)を巡回して必要な家事を提供している。その人柄の良さと仕事の質の高さで顧客たちとの関係は申し分なく、みな家族同然の親しさで信頼を寄せている。とりわけ下半身不随のモロー氏(退職者・寡夫。演ジャン=ピエール・ダルーサン)とは良好な関係で、ときおりマリアが市の魚屋から(プロの目で選んで)買ってきて昼食に調理するフィレのパン粉揚げが最高の好物になっている。インテリで言うことに文学的リフェランスも多いモロー氏は密かにマリアに思いを寄せている風もあるが、この距離が最上と自制しているようだ。一方マリアは僅かな年金しかない退職労働者夫ブルーノ(演ジェラール・メイラン)と二人暮らしであるが、キツキツの生活に家政婦業掛け持ちで必死に対応しようとしているマリアをよそに、ブルーノは年金のすべてをトランプ賭博に注ぎ込むばかりか、その負け分をマリアに尻拭いしてもらうダメ(マルセイユ)男。二人で買った(まあまあマシな)住宅はローン支払いで精一杯で、小さな贅沢だった小さなプールはコケで緑色がかった水が澱んでいる。映画の後半でブルーノが(再三迷惑をかけてしまった)マリアに問う「俺たち二人には何かまだ残っているのだろうか?」(シャルル・トレネ"Que reste-t-il de nos amours?"のようなもの)、マリアはきっぱり言う「まだあるのよ」。こういう老夫婦のありようは、アリなのだよ。ここがまたマリアの”聖女性” を浮かび上がらせるポイントなのですよ。だからこの点でモロー氏がマリアの心に隙いることはまず無理、なのだが...。

 さて底辺労働者夫婦マリアとブルーノにはひとり娘のジェニファー(職業ハイパーのレジ、演マリルー・オーシルー)がいて、長距離トラック運転手のケヴィン(演ロバンソン・ステヴナン。ゲディギアン映画では決まって気の良い好青年なのに最後貧乏くじを引かされる男役で、今回もしかり)と所帯を持ち、ニコラというメガネ&長髪の男の子がいる。このメガネ+長髪のか細い少年はどことなく少年ポルナレフを想わせるのだが、実際の少年ポルナレフと同じように並々ならぬピアノの才能がある。この少年をマリアはなんとかしてピアノで成功して欲しいと願うのであるが、底辺労働者夫婦であるジェニファーとケヴィンにはニコラにピアノを買い与えることなどできないばかりでなく、良い先生にお願いするピアノレッスン料も工面することもできない。孫可愛さのあまり、マリアが「私がなんとかするから」と。楽器店から月極レンタルでピアノを借り、来るべきピアノコンクールのために名のあるピアノ教授に特別レッスンをアレンジする。このピアノに関するもろもろの費用が、マリアの家政婦労働の合間に勝手知ったる顧客宅からの”ちょっと拝借"で賄われていたのである。このことは今のところ誰も知らない。特にピアノのレンタル料はモロー氏の小切手(マリアがモロー氏のサインをそっくりに真似て署名する)で支払われていて、ここから”アシ”がつくことになるのである....。
 ところでモロー氏には死に別れた妻(その前に離婚しているが)との間にひとり息子ローラン(演グレゴワール・ルプランス・ランゲ。ゲディギアン映画では決まって卑劣で陰険な野郎という役どころで、今回も前半はそのパターン)がいて、モロー氏との関係は冷え切っている。それはママっ子だったローランがモロー氏が母に酷い仕打ちをしたものと信じ込んでいて、母の死もそのせいだ、と。モロー氏は亡き母と自分に償い続けなければならないという考えに固まってしまっている。ローランはマルセイユ市内で不動産屋を経営していて、不動産業界ではやり手の妻オードレー(演ローラ・ネイマルク。ゲディギアン前作『そして宴は続く!』ではすごくヒューマンで良い役やってたのにぃ。ま、不動産屋がヒューマンであるというのは難しい注文か)を公私のパートナーとしている。このローラン夫婦不動産は見晴らしの良い一級地の稀な良物件であるモロー氏の家を買上げたいと画策しているが、モロー氏は耳を貸さない。その何度めかの売却相談でモロー氏宅を訪れたローランは断られた腹癒せに別れ際に机の上にあったモロー氏宛の封書を盗んでいく。その封書の差出人はマルセイユの楽器店「ラ・ピー・ヴォルーズ」...。
 映画冒頭で見た押入り泥棒事件の被害にあった楽器店は、水道管破裂で経理書類のたぐいがすべて水浸しになり、その中にモロー氏署名の小切手があり、インクが流れて小切手として無効になったので、モローにもう一度小切手を切り直して欲しい、という手紙を出したのだった。はて親父が楽器店と何の関わりが?と訝しんだローランは楽器店に出向き、それがピアノレンタルの保証金(千ユーロ)であることを知り、さらに不審に思い、そのピアノレンタル先の住所を突き止め....。ローランの邪悪な想像力のせいで推理はさまざまに飛躍(父親が若い愛人に貢いだ、etc)するのだが、詰まるところ第三者による小切手偽造詐欺であることは概ね把握され、ピアノの貸し出し先のジェニファーのアパルトマンに押しかけ、ローランはもろに悪徳不動産口調(これ、全世界共通みたいね)で凄んで、モロー名義の小切手で支払った全額返済しろ、告訴してやる... etc。
 ジェニファーはこれがすべて母マリアの仕業とわかり、動顛しながらも、母親ゆずりの勝気さで、誰にも(夫ケヴィンにも母マリアにも)相談せずに、一家に犯罪者の汚名が被さらないように、たった一人で解決しようとする。ここがこの映画のターニングポイント。ジェニファーは当座かき集められるだけのすべての現金を手にして、ひとりローランの不動産会社に。そして現金を差し出し、母を告訴しないでくれと涙の嘆願を...。ここでジェニファーとローランの目と目が超ストレートに視線をぶつけ合う。まさか....。これ、ゲディギアン映画では初めてだと思う。二人は電撃的に恋に落ちてしまうのだよ。
 このまさにパッションと呼ぶべき二人の極端に強烈な惹き合いは、(ゲディギアン映画には例外的な)あからさまな性情リビドーの表現も含めていよいよ昇華して、インターバルの超短い逢瀬を頻繁に重ね二人はどうにも離れられなくなってしまう。これは映画進行をラジカルに変えてしまい、当然双方のカップル(ジェニファーとケヴィン/ローランとオードレー)に壊滅的な打撃を与え、一旦すべての原因である中心人物マリアを蚊帳の外に置いてしまうほどなのだ。小切手詐欺事件の告訴はローランのジェニファーへの盲目的パッションゆえにローランは水に流すつもりだったのだが、ローランから破局別離を言い渡されたオードレーは激しい”逆恨み”で義父モロー氏に変わって告訴してしまう。
 マリアは警察に召喚され、事件当事者たちとの接触を禁止され、派遣家政婦の職を失う。ピアノは楽器店に戻され、ピアノ少年ニコラは途方に暮れる。そしてニコラの父ケヴィンは突然のジェニファーの(どうしようもないパッションゆえの)離別を...(なんてヤワなやつなんだ)涙ながらに受け入れるのですよ(この部分のシナリオ、私、承伏できない)。

 この万事休すの場面に及んで、一体モロー氏は何をしているのだ? ー ゲディギアン映画は善良な人々を救済しないわけがない。すべてを知ったモロー氏は、誰の助けも借りず、車椅子に乗り、自らの両腕の力だけで坂の多いマルセイユの住宅街を通り抜け、警察署に出頭する。そしてモロー氏名義で義娘オードレーがマリアを相手に訴えを起こした小切手偽造詐欺事件告訴をすべて取り下げる。その際、取調官を前にして、暗誦しているヴィクトール・ユゴーの長詩「貧しき人々(Les pauvres gens)」の最終の第10節の48行を朗読して聞かせる。厳しい気候にさらされた漁村に生きる貧しき人々のドラマ、女手ひとつで幼い子二人を育てていた隣家の女が昨夜死んだ、うちにはすでに五人の子供がいてみんな食うのがやっとだ、それでも残された二人の子を迎え入れて生きることを決める...。これは危機の時代(超リベラル資本主義/極端な弱肉強食競争に分断され最底辺で生きることを強いられた人々の時代)にも生き延びるためのヒューマニティーの問題なのですよ。モロー氏/ゲディギアンはそう言ってるんだ、ということがわからないでどうしますか。

 筋のことばかり書いて、マリア(アリアーヌ・アスカリード)の素晴らしさについてほとんど書いてない、と反省。この映画のマリアはその花柄シャツのようにカラフルな花に溢れた陽光さんさんの女性である。顧客の老いた人々への誠意に嘘はなく、彼らが寄せる全的な信頼にすべて応えられるキャパシティーは賞賛するしかない。ある種ルーザー気味に余生を生きている夫のブルーノに対しては観音さまのようだ。経済的に不安定な娘夫婦を援助するだけでなく、孫ニコラのピアニストの夢を叶えるためならどんなことも惜しまない。この家事ヘルパーの仕事が好きだし、労働者であることに誇りを抱いている。そんなマリアの趣味はピアノ音楽であり、イヤホンにはいつもルービンシュタインのショパン。そしてマリアにはどうにも抑えられない小さな贅沢があり、それは採れたての生牡蠣をルービンシュタインのYouTube動画をスマホで見ながら食べること(↑)。
 警察署での最初の取調べの最後に、女性捜査官に対して、顧客たちとの調和的な全幅の信頼関係を自負し誇りに思っているマリアは、この少額の現金をポケットに入れることや自分用に小切手を書き換えることは許容範囲内だと思っていた、と漏らす。映画を観る者は誰もがそうだと思いますよ(そうだ、そうだ)。そういう危機の時代に生き延びるヒューマニティーを喚起する映画なのであり、フランスでも世界でもこういう文法でヒューマニティーを浮かび上がらせる映画作家は本当に稀だと思いますよ。多分にマルセイユの風景がそれを助けていることは確か。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『泥棒カササギ(La Pie Voleuse)』予告編

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