2018年2月18日日曜日

おお、作家のお嬢さん

マリー・モディアノ『哀れな歌』
Marie Modiano "Pauvre Chanson"

 作自演歌手としてもう5枚目のアルバムなんですが、初めてのフランス語アルバムです(それまでは英語)。歳のことで恐縮ですがこの秋(2018年9月)に40歳になられます。ノーベル文学賞作家のお嬢さんで、シンガーソングライターを本業にしていると自称していますが、詩集2編、小説1編を天下のガリマール書店から発表しています。誰から見ても「親の七光り」ですが、それでいいんじゃないでしょうか。今度の新アルバムにも、「パトリック・モディアノ作詞」が1曲含まれてますし。
 2006年のファーストアルバム『私はバラじゃない(I'm not a rose)』(これ当時カルラ・ブルーニなどで景気の良かったNAIVEから出た。同じ頃のリリースで、同社から米作家ポール・オースターの娘ソフィー・オースターのデビューアルバムもあった)の前年に、マリー・モディアノはスウェーデン出身(フランス在)のミュージシャン、ピーター・ヴォン・ポエル(読み方はこれが正しいとは思わないが、フランスではこう呼ばれている)と出会っている。このピーターはベルトラン・ビュルガラのA.S. ドラゴンのギタリストだった人で、同バンドでミッシェル・ウーエルベックをサポートしたことがあります(あ、これはこの記事を文学の方向に引っ張ろうとする私の無意識の行動です。忘れて)。このスエドワ君がリー・モディアノの公私共のパートナーとなり、マリーのアルバムの作編曲プロデュースをしながら、マリーの一児のパパになり、音楽レコード業界が不振となると自分でレーベルNEST & SOUNDを設立して、2013年からはこのレーベルからマリーとピーターの作品を発表しています。
 ピーター・ヴォン・ポエルだから、ということなんでしょうが、マリー・モディアノのアルバムのサウンドはヴェルサイユ系に近いものを感じさせますし、ビュルガラやエールやシャルロット・ゲンズブールなどで聞き慣れているアトモスフィアがあり、構えなくても安心な「フレンチ・タッチ」と言えます。今回のアルバムも木管アンサンブルやエアリアルなジャズや20世紀仏クラシック(ラヴェル、サティー、ドビュッシー...)なテイストがとても心地良いわけですが...。あとは曖昧でアンニュイなマリー・モディアノのヴォーカルと「詩」がどれだけものを言うか、というのがこのアルバムの真価です。初めてのフランス語ですから。
『哀れな歌(ポーヴル・シャンソン)』 はこのCDアルバムと同時に、天下のガリマール書店から詩集としても刊行されました(だからCDには歌詞ブックレットが付いていない。別で詩集を買えという魂胆でしょう)。文学の人の娘は文学。そういう望まれた文学性なのか。
例えば、このアルバムからの初のヴィデオクリップ作品で、スウェーデンの写真家/映画作家イエンス・アスールがクリップを制作した「怒りを癒す Guérir ma colère」という佳曲があります。アルバム最初の曲です。
 Guérir ma colère 私の怒りを癒す
Avant d’aller plus loin. 遠くへ行く前に
Sourire sur cette terre, この土地で微笑み
Se taire dans un coin. 街角で黙り込み
Oublier ma peine, 私の痛みを忘れる
Je ne vous la donnerai pas. 私はそれをあなたには与えない
Je dépose les armes, 私は武器を捨てる
C’est mon dernier combat. これが私の最後の闘い
Où est-il le vent lointain 野の草を揺らす
Qui berce les herbes folles ? 遠くの風はどこにある?
Où est-elle la main amie あなたにすべてを忘れさせてくれる
Qui vous fait tout oublier ? あの親しい手はどこにある?
Guérir ma colère 私の怒りを癒す
Guérir ma colère 私の怒りを癒す
Guérir ma colère… 私の怒りを癒す...

クリップはミニマル(え、たったこれだけのことなんですか?)で孤独で厳しく内省地獄で、文学性ありますよね(てか)。アンニュイなドラマですこと。

 そう、曖昧でアンニュイであることについていけなかったら、モディアノ世界には一生入り込めないわけです。これは父親のことですから、娘には何の関係もないと言っていいのですが、「モディアノ」という印をかざすからには、やっぱり聴く者/読む者はどうしても「そうでしょう」と思いたいところがある。で、3曲め、アルバムタイトル曲にして、詩集の表題でもある「哀れな歌」を聞いてみます。
Au dernier rang se ferment les paupières, 最後部の席でまぶたは閉じる
Des songes en contrechamp 夢は肩越しからの
Qu’on porte en bandoulière. 切り返しショットで
Non, je n’ai pas vu la captive ノン、私は波の中に消える
Se perdre dans les vagues, 囚われの美女を見なかった
Non, je n’ai pas vu sa silhouette ノン、私は海藻の中で踊る
Danser parmi les algues. 彼女のシルエットを見なかった
Mais le cœur a parlé, しかし心は語り
A vaincu la raison, 理性に打ち勝った
Les larmes séchées 涙を乾かし
On chante à l’unisson みんな声を一つに歌おう
Nos rêves déclinés  我らの衰弱した夢に
Pauvre chanson ! 哀れな歌を!
Les ombres qui passent 過ぎていく影は
Ne laissent pas de trace, あとを残さない
Toujours la même balade いつも同じ足取りで
Afin que le temps passe. ただ時をやり過ごすために
Mais je n’ai pas cru aux mirages しかし私は心の中に描かれた
Tracés dans mon esprit, 蜃気楼を信じはしなかった
Ces déserts, ces beaux paysages この砂漠、この美しい景色を
Que le jour a repris. 日はまた取り戻した
Mais le cœur a parlé, しかし心は語り
A vaincu la raison, 理性に打ち勝った
Les larmes séchées 涙を乾かし
On chante à l’unisson みんな声を一つに歌おう
Nos rêves déclinés  我らの衰弱した夢に
Pauvre chanson ! 哀れな歌を!
Sans un regret, 少しの悔いも無く
Je m’en vais solitaire 私は一人去っていく
Au gré des années 私が地下に放っておいた
Que j’ai laissées sous terre, 年月の流れに身をまかせ
Mais je n’ai pas dit que l’aurore me dicterait ses lois, しかし夜明けが私に決まりごとを教えてくれたりはしない
Non, je n’ai pas dit que le vent me mènerait à toi. ノン、風が私をあなたの元に連れていくことはない
Mais le cœur a parlé, しかし心は語り
A vaincu la raison, 理性に打ち勝った
Les larmes séchées 涙を乾かし
On chante à l’unisson みんな声を一つに歌おう
Nos rêves déclinés  我らの衰弱した夢に
Pauvre chanson ! 哀れな歌を!

ピアノのワンノートが8回トントントントントントントントンと。これだけで必殺のバラード曲になってしまうんです。いい曲、いい編曲じゃないですか。しかし、私の翻訳も下手ですけど、このよく分からない歌詞。このフラットな歌唱。情緒が乾いてしまいますよね。高踏ですよね。この「モディアノ」という名前がなければ、成立しないものだと私は思いますよ(悪口です)。

で、ブツブツ言いながらアルバムの最後までくると、終曲10曲めに「悲しみの黒犬(Le chien noir du chagrin)」というタイトルからしてちょっと惹かれてしまうオーラを持った歌があります。

そんなこんなの後で
きみは通りの名前を忘れてしまった
でもそいつはきみをあのバーまで連れて行ってくれる
人っ子ひとりいたためしのないバーへ

その犬はこう呼ばれていた
悲しみの黒犬
悲しみの黒犬


覚えてるかい? きみは言ってた
夢の中でそいつを見たって
そいつはいつも同じ時刻にやってきた
7時、夜の7時に

そいつはこう呼ばれていた
悲しみの黒犬
悲しみの黒犬


そいつはあのバーの前で止まるんだ
人っ子ひとりいたためしのないバーへ
すると二人の楽士が演奏するんだ
くだらない曲をね、くだらない曲さ

きみは中に入っていく、すると私がいるんだ
隅っこのテーブルで、きみを待っている

ずっと前から
このバーには人っ子人りいたためしがない

1匹の犬を除いてはね、そいつはこう呼ばれていた
悲しみの黒犬
悲しみの黒犬

ミステリアスで不透明で一体何がここで、と不安がもくもくもくと煙ってくるじゃないですか。たったこれだけの歌詞で、得体の知れない暗黒物語を視覚化できるのですよ。これ、作詞がパトリック・モディアノその人です。モディアノ印というのはこういうものなのだよ、と教示しているような。かないませんなぁ。

<<< トラックリスト  >>> 
1. GUERIR MA COLERE
2. IDEAL & BANCALE
3. PAUVRE CHANSON
4. SI LA SI RE
5. L'AMOUR A REBOURS (feat PETER VON POEHL)
6. IMPASSE DES OUBLIES
7. NOS REVES
8. ENTRE CHIEN ET LOUP
9. L'INDIANA
10. LE CHIEN NOIR DU CHAGRIN

MARIE MODIANO "PAUVRE CHANSON"
CD PVP / NEST & SOUND  PVP12CD
フランスでのリリース: 2018年2月9日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"ENTRE CHIEN ET LOUP" (ライヴ): マリー・モディアノ+ピーター・ヴォン・ポエル(g)




 

2018年2月15日木曜日

I saw the light

"L'Apparition"
『顕現』

2017年制作フランス映画
監督:グザヴィエ・ジャノリ
主演:ヴァンサン・ランドン、ガラテア・ベルージ
フランス公開:2018年2月14日

 画の始まりは戦争です。フランスの大手日刊紙ウェスト・フランスの特派戦場リポーターのジャック(演ヴァンサン・ランドン)は、かの戦場(特定されてませんがシリア)で相棒のカメラマンを失い、自分も耳を負傷してフランスに戻ってきます。友の死と戦場のトラウマから抜けられずに、自宅の窓を全て段ボール紙で覆い、家族とも他人とも交わることができません。そんなボロボロの状態の時に、バチカン法王庁から仕事の依頼が来ます。
 南東フランス、アルプス地方の小さな村で、当時16歳の孤児の修道女アンナ(演ガラテア・ベルージ)が山中で聖母マリアの顕現を体験し、その告白を受けた村の教会の司祭ボロディン(演パトリック・ダサンサオ)がそれを信じてアンナを聖母と交信したメッセンジャーとして奉り、その噂は急速に世界のカトリック信者に広がり、今やおびただしい数の巡礼者たちがアンナを一目見ようと世界からこの村の教会に押し寄せるようになりました。その現象の異常な拡大にカトリック本山のバチカンも黙っていられず、バチカンからの調査協力を拒み続けるボロディン(反権威主義的な田舎司祭という位置づけ)の元に正式な教理典範調査団(この「奇跡」を法王庁として認可するか否かの調査団)を送りつけます。キリスト法学者や心理学者など5人からなるバチカン調査団の一員として、ジャーナリストのジャックも依頼されたのです。「俺はこの分野とは何の関係もない」と最初は断るのですが、関係ないから客観的でジャーナリスティック(証拠がない事実は認めないというプロの視点)な方法での調査が可能であるというバチカン側の見方。つまりバチカンは常にこのような「奇跡」には懐疑的であり、ほとんどの場合否定し「異端化」するのが慣例。なぜジャックがこの仕事を受けたか、という答えはないんですが、この映画の傾向として「ミステリー解き」が大きな流れで、最初の戦争との符合というのも最後にわかるんです。なぜこれとこれが繋がるのか? ー というのにハッと気づく時、偶然ではなく必然だと思うと、そこに神の手の介在を思ったりするじゃないですか。無宗教者にとっての宗教のちょっとしたきっかけでしょうに。まあ、それはそれ。
 山の村に来てみたらびっくり。何台ものバスが外国人巡礼者たちを連れてやってきて、村の広場や「顕現」目撃現場の野にはすでにアンナが見たとされる白装束&青いベールのマリア像が建立され、周りで巡礼者たちや奇跡にすがろうとする病人や障害者たちが讃美歌を歌ったり祈りを捧げたり...。観光名所化して、お土産屋にはアンナの肖像絵ハガキ、ロウソク、マグカップ、スノーグローブなど様々な「アンナ・グッズ」が売られているのです。そういう巡礼者たちの群れを割って司祭ボロディンと今や18歳になったアンナが教会への道を進むと、ハレルヤの声、アヴェ・マリアの合唱、アンナに近づき祝福の言葉をいただこう、アンナに触れようという人たちが蟻んこのように寄ってきます。アンナはと言えば、聖女の装いではなく、見習い修道女という身分で尼僧着やヴェールをかぶることもなく、質素な灰色のスウェットパーカー+ウールのカーディガンを着ています。しかしその顔、その物腰は...。
 映画はこのガラテア・ベルージという若い女優の素晴らしさに多くを負っていると思いますよ。キリッと上がった眉、見据えたら動かない大きな目、 幼さと狂気を秘めた顔立ち、何事にも動じず全てに答えを持っているような語り方...。「私は嘘つきではない」と言う時、こちらはそれを信じるしかないではないか。調査団は心理医学の検査も行うのだが、反応は全て正常で、アンナの発言に虚偽の可能性は少ない。しかし...。
 身元不明(sous X)の新生児として収容され、施設と受け入れ家庭と転々として育ち、学校も特別な問題はないが目立たない子だった。賞罰なし。フランソワはそういうアンナの境遇上にあるはずの何か隠されたものを追っていきます。学校と施設での交友関係をしらみつぶしに一人一人当たっていく、という地味な探偵捜査活動です。
 他の調査団は目の前にある証拠品から崩していくのが手っ取り早いと、アンヌがマリア顕現の時に拾ったとされる「聖遺物」である、古い血痕のついた布切れ(これをボロディン司祭はガラスの容器に納め、聖骸布のように奉って教会の宝物にしている)を、科学分析にかけるのです。この時、バチカンからフランスの裁判所を通じて、フランスの警察が強制執行で教会に入り込み、抗議する信者たちをなぎ倒して暴力的にこの聖遺物を押収するシーンがあり、かなりショッキングです。この聖遺物を守ろうとした者たちの先頭にアンナもいたのです。聖女的な立ち振る舞いです、が...。
 科学分析の末、その聖遺物が全くの偽物であったとわかった時点で、もうこの顕現奇跡の話は全部ウソという結論で調査は終わるはずでした。少なくともフランソワを除く調査団員たちはこれ以上何もすることがないと...。
 しかし、フランソワの執拗な探索は、アンナの特殊な交友関係やある殺人事件との関わりなど複雑な要因に次々にぶち当たり、アンナが守り通そうとしている秘密に近づいていきます。一方アンナは聖母顕現の真実が危うくなることの重さ、そして守るべき最重要の秘密の重さに食事ができなくなり衰弱していきます。「俺は真実しか知りたくない」とフランソワは言います。フランソワの真実とは顕現が本当か嘘かということだけでなく、その事件に関わる全てのことの真実なのです。なぜここまで懐疑的で執拗なのかは、映画最初の戦争トラウマがおおいに原因していて、戦争によって壊された何かが取り戻せないからなのです。アンナはフランソワに言います。
Il y a trop de colère en vous pour accepter ce que j'ai vu.
あなたの中には怒りが多すぎて私が見たものを認めるわけにはいかないのです。
  フランソワもそこから抜け出そうとしているのです。アンナはその手がかりである、ということにフランソワは気づいていきます。そしてその兆しとして、この映画は(あくまでも奇跡としてではなく)フランソワに襲ってきた(戦争で傷つけられた)耳の激痛に、アンナが手をその耳に触れ、フランソワの頭部を胸に抱き寄せることによって痛みを止めてしまうのです。やはり奇跡なのかもしれません。
 アンナが最後まで隠そうとしていた、施設時代の唯一無二の親友メリエム(演アリシア・アヴァ)のことが、フランソワに突き止められそうになり、アンナによる顕現体験が偽りであったことが確定的になったとき、アンナは嵐の山中で苦しみの果てに殉教者のように命を落とします。フランソワは、ヨルダンでNGOの一員として難民支援活動をしているメリエム(結婚して一児あり)のもとに赴き、アンナの事件の顛末を報告し、そこで新しい事実を知るのです。すなわち、顕現の奇跡は本当にあり、聖女となるべき少女は本当にいたということを...。

 アンナを短時間に世界的に知らしめたのはインターネットです。21世紀が舞台ですから、こういうネット上での世界同時中継や、アンナ・グッズの販売や、イカサマにしか見えないことも映画は見せます。ハイテクを使ってアメリカやオーストラリアにまでアンナを「プロモーション」しようとする米人聖職者アントン(演アナトール・トーブマン)という奇妙な人物も登場します。「バチカンが信じなくても、世界の何百万という信者がそれを信じれば、それはキリスト教的真実になる」とアントンは言います。確かに。
 アンナを信じそうになる瞬間は、フランソワにも映画を観る者にも確実に訪れます。観る者のエモーションは、殉教者のように息絶えるアンナで最高に高鳴るはずです。たとえ真実はそこになくても。こういう映画ですから、救済がなければいけません。そういう点では、フランソワは戦争で壊された自分をやっと治癒することができる結末であり、聖なるものもこの目で見てしまうような稀有な体験者として人間界に戻るんでしょう、多分。
 アンナとメリエムの関係については、もっと映像も時間もあってもいいと思いましたし、ここが最もミスティック、という点がぼかされているのがやや不満。しかし、不器用に迷う生身無骨者をやらせたらヴァンサン・ランドンに勝てる者はないですね。すごい俳優です。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『顕現(l'Apparition)』予告編


  
 

2018年2月13日火曜日

世界の起源

(この記事は向風三郎FBタイムラインの2018年2月13日ポストの再録です)

レラマ誌今週号は、こんな感じで大きな女性器デザインの表紙で、8ページの女性器に関する特集記事、題して “Le sexe féminin est fabuleux”(信じがたきかな女性器)。信じがたいほど素晴らしいというのは漠然と知っているのだが、その実体というのはタブーが多すぎて誰にも知られないようにされてきたではないですか。これはノルウェーのまだ31歳と28歳という若い二人の女医さんニーナ・ブロシュマンとエレン・ストッケン=ダールの共著で世界的ベストセラーとなっている(33ヶ国語で翻訳されている。日本語まだですか?)”GLEDEN MED SKJDEN” (2017年1月発表。フランス語訳 “LES JOIES D’EN BAS”(=下の方の悦び)(→表紙写真)は2018年1月刊行、ちなみに英語版のタイトルは “WONDER DOWN UNDER - A USER’S GUIDE TO THE VAGINA”)のフランス発売に合わせての著者インタヴュー込みの紹介記事です。
 
フランス語版は”Tout sur le sexe féminin(女性器のすべて)という副題がついていますが、知らないことがあまりにも多すぎるのは、女性たちや医学界でも事情は同じ。有史以来綿々とこういうものらしいからこういう風に扱って、子供にこのように教えられるべき、というリクツは「男性」識者/「男性」医学者が作ってきたもの。快楽のメカニズムさえ、男がこうなんじゃないの?と考えたものでしょう。女性の性的オーガズムとは膣に陰茎が挿入されなければ得られない、という嘘が暴かれたのは20世紀後半になってからのこと。原理的に女性は受身である、という男性支配原則は何の根拠もない、ということは女性器そのものが証明しているのです。
それからヒーメンという得体の知れない「膜」(!)、一体誰があのような「出血劇」を考え出したのでしょうか? 
男の私が言うと、いろいろとアレですが、タブーを一つ一つ壊していかないと、女も男も「こんなものが性的快楽なのか」の程度で終わってしまうと思うのです。私はこの本読みますよ。女性器のこと好きですが、何も知らないのですから。
なお、この若き女医お二人、「男性器編」も準備しているそう。男性器についても、私たちは何も知らないでしょうに。

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追記(2018年2月14日)

(↓ YouTube) 者の女医さん二人ニーナ・ブロシュマンとエレン・ストッケン=ダールによる、ヒーメン神話の嘘に関するレクチャー。女性のこの部分で性交体験者/未体験者を判断できるという太古からある俗説が医学的根拠がないことを具体的に説明。フラフープにサランラップ張って、それをパンチで破るというイメージ化が笑える(これは俗説のイメージ)。俗説から解き放たれよ。未体験者であるかどうかは女性本人に聞くしかないのだが、その問いに答える・答えないは女性が決めること、という結論、喝釆ものです。


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再追記(2018年2月15日

レラマ記事ですごくいいなぁと思ったこと : 一般向けとは言えこれはぶ厚い「医学書」なので最初はそんなに部数が出るものではなかったし話題にもならなかった。最初の書評は、ノルウェー放送協会のウェブサイト上で、その中で評者ジャーナリストは「あまりの情報の多さに辟易して」「本書は読者たちからあらゆるセックスへの欲望を奪い去ってしまうだろう」という酷いものだった。この批評は即座に大変な数のノルウェー女性たちから大反撃を受けて(たぶん今日日の日本語的表現では)「炎上」してしまうのですよ。ここからこの本のブームは始まったのです。だから著者の二人は今やその火付け役となったジャーナリスト氏に感謝しているほどだ、と。余裕余裕。




2018年1月29日月曜日

Ta douleur efface ta faute

"La Douleur"
『苦悩』

2017年制作フランス映画
監督:エマニュエル・フィンキエル
原作:マルグリット・デュラス
主演:メラニー・ティエリー、ブノワ・マジメル、バンジャマン・ビオレー
フランス公開:2018年1月24日

 が痛くなるシークエンス多し。撮影技術のことはよくわからないが、たぶん望遠レンズで近くに焦点を合わせると背景はボケボケになるという効果だろうと思う。焦点の合ったところだけしか見えないが、人間の目って見えないところを見ようとして、そのボケボケの外周や背景に「自分の目で」焦点を合わせようとするんですね。ところがそれはそう作られた映像なので、ボケボケはボケボケのまま。無駄な努力を何度も試みた私の目は痛くなってしまう。
 として不透明な部分の多い映像。そしてサラウンドで取り巻く(雑音を含む)すべての音がどんどん入ってくる音響効果。だからいろんなことが気になって仕方がない。観客席に座っているだけで不安になる。「デュラスですから」と言って済むことではないんでは。
 デュラス『苦悩』は1944年から46年にかけての自身のノートをベースにした6編の短編集で40年後の1985年に発表され、その中心的作品で表題作でもある「苦悩」は、ナチス占領下のパリで政治犯として捕らえられ強制収容所に送られた夫、ロベール・アンテルムの生還を信じて待ち、人間として生きる姿をほとんど留めない状態で帰ってきたロベールを長い月日をかけて献身的な介護で人間の姿に戻してやり、そして別れを告げるという話。
 時代も場所も不透明なナチス占領下のパリで、夫と共に地下レジスタンス運動に関わっていたマルグリット(演メラニー・ティエリー)。捕らわれた夫はフランス国内の監獄にいるはずなのだが、情報がなく、監獄宛の手紙や小包にも返事がない。その差し入れを届けに行った占領軍役所で、マルグリットは夫ロベールを逮捕したゲシュタポのフランス人刑事ラビエ(演ブノワ・マジメル)と出会う。ラビエは文学に精通した男でマルグリットとロベールが何者であるかも知っていて、彼女の才能を評価していて、彼女のためにロベールに差し入れを届けることはもちろん、ロベールの現在の状況を教える、と言う。ラビエはその日から毎日のようにマルグリットを呼び出し、ロベールの情報を提供する見返りに、マルグリットからレジスタンス組織の情報を聞き出そうとする。
 モルラン(演グレゴワール・ルプランス=ランゲ)というコード名の人物(実はフランソワ・ミッテラン)に指導された地下レジスタンス組織には、ロベールの親友にしてマルグリットの愛人でもあるディオニス・マスコロ(演バンジャマン・ビオレー)がいて、ゲシュタポのラビエがマルグリットに接近してくるのを危険視するが、リーダーのモルランはラビエからナチスの情報が得られるという利用すべきチャンスとして、マルグリットの諜報活動を指示する。
 ゲシュタポだからという目で見るからかもしれないがラビエは面妖なキャラクターであり、文学的であり、ナチスは人類の未来であると自ら飛び込んで行った純な右翼青年であり、十分に誘惑的でもある。複雑な誘いの手で何度も密会に呼び出される度にマルグリットは、この男の蛇のような性格に屈してはならないと身構える。
 一方の愛人ディオニスも、マルグリットを彼なりに支えようとするのだが、映画はその「愛人性」を極力隠そうとしているような描き方に見えた。ここでディオニスがロベールの生還を望まないようなそぶりでも見せたら、映画はさぞチープなものになったろう。バンジャマン・ビオレーは良い役者だ。「裏切らない愛人 」というのは難しい/ほとんど困難な役ではないか。
 しかし、最も大切なことは、マルグリットにとっても映画にとっても「ロベールの生還」なのである。そのしょっぱなからマルグリットにはその生還に確信があったし、ロベールが「私が待っていることを知っている」ことにも疑いの余地がないのである。だが、いつなのか、そしてどんな状態で還ってくるのか。この「待ち」の長さが、計り知れない苦悩となるのである。
 1944年から45年、戦況は変わり、ラビエと対独協力ブルジョワ女たちが優雅にレストランで昼食していると、空襲警報のサイレンが鳴り、マルグリットはラビエたちの敗北が近いことを知り、勝ち誇ったように「誘惑者」ラビエに接吻する。そして赤いセーターを着たマルグリットがたった一人自転車で無人のコンコルド広場をぐるりと回るという、なんとも言えぬ美しいシーンがあるのですよ。
 ドイツ軍の敗走、連合軍の入城、パリ解放。われわれがナチスがいかに残虐であったかを知るのはその後なのだ。待てど暮らせど消息のしれないロベール。その間に駅に次々に帰ってくる生存兵たちや収容所生存者たち。特に後者は、ガスで痛めつけられ、激しい栄養失調で骨と皮になり、かの悪名高き収容所のパジャマ姿でそのまま汽車から降りてくる。映画はたとえエキストラとは言え、よくぞここまで衰弱した姿の人々を集めたものだと、観る者の正視を妨げるほどである。
 映画はこの後半の耐え難い「待つこと」の深みで窒息しそうになる。ギリギリのところでマルグリットは自問する「これ以上の苦悩が来れば、私は存在できない」。なぜロベールを待たねばならないのか、なぜ他の人であってはいけないのか。そういう苦悩の頂点に、愛人ディオニスは残酷にもこう言うのだ。
A qui êtes-vous le plus attaché ? (あなたが何に最も執着しているのですか?)
A Robert Antelme ou à votre douleur ? (ロベール・アンテルムにですか?それともあなたの苦悩にですか?)

激昂したマルグリットはディオニスに激しい平手打ちを喰らわし、"Salaud(卑劣漢)!”と罵る。映画はその夜、この二人が性交したことを間接的にほのめかす。そしてその朝に二人は「ロベール生存」の知らせを受け取るのである。
 もはやロベール・アンテルムと誰も認知できぬほど衰弱していた、ということを映画は映し出さない。前述のボケボケ映像効果で、ジャコメッティ彫刻のような(あるいはSF映画の異星人のような)デフォルメされた姿が漠然と現れる...。この映画が「映画化不可能」と言われ続けてきたこのデュラス作品を、驚嘆すべき映像作品として完成させた最大の功績は、このボヤボヤ映像であろう。人命の極限、人類の残虐性の極限、私たちは何も知らないかもしれないが、それを文字化(文学化)したり映像化したり、ということに立ち会うことはできる。そしてそのあとで冷静に考えると、私たちはどうしようもなく不透明であり、苦悩は不透明さを少しでも晴らすために受け入れなければならないものなのだと思う。
 マルグリットは、腐敗物のように変わり果てたロベールを献身的な努力で年月をかけて元通りの健康体に戻してやり、再びロベールに笑顔が出るようになった頃、ディオニスの子を宿したことを理由に別れを告げるのである...。上映時間2時間の苦悩。満たされた苦悩だと私は思う。

カストール爺の採点:★★★★☆

↓『苦悩』予告編


↓2019年2月日本公開(日本上映題『あなたはまだ帰ってこない』)の予告編



↓記事タイトルの出展はヴェロニク・サンソン1974年作品"Le Maudit"(呪われ者)
Ta douleur efface ta faute (あなたの苦悩はあなたの誤りを消す)
(1976年ライヴ映像)



2018年1月19日金曜日

裸々ランド

ブリジット『ニュ』
Brigitte "Nues"

 Viens on pleure on pissera moins.
さあ来て、泣くのよ、そしたらオシッコの量が少なくなるわ。
("Palladium") 
女の人たちって、そういう親密な仲になったらこんな話をしているんだろうなぁ、って思う。それを歌にできるかって言うと、そういうわけにもいかないんだろうど、この二人ならできる。ブリジットはデビュー時から「女ウケ」のするアーチストだという印象がある。それも姉御肌。同年代より少し上の頼もしい人。
 80年代にそれをやっていたのが、故フランス・ギャルだったと思う。ミッシェル・ベルジェの詞曲とは言え、そのメッセージは姉御のそれで、
Résiste(抵抗するの)
Prouve que tu existes (自分が存在するってことを証明するの)
Cherche ton bonheur partout, va (自分の幸せを至るところで探すの)
Refuse ce monde égoïste(このエゴイストな世界を拒否するの)
Résiste (抵抗するの)
Suis ton cœur qui insiste (こだわる自分の心に従うの)
Ce monde n'est pas le tien, viens (この世界は自分のとは違う)
Bats-toi, signe et persiste(戦うのよ、自分の名で、頑固に)
Résiste (抵抗するの)
(フランス・ギャル "Résiste"  1981年 詞曲ミッシェル・ベルジェ)
なんて言われて、元気づいた女性たちは多かったと思う。図らずも、21世紀の今、その役をやっているのがブリジットの二人だろう("Battez-vous"とかそういう歌の数々)。  デビューして10年。ギター・フォークから出てきた百戦錬磨。シリヴィー・ウワロー(1970年生、47歳)+オーレリー・サアダ(1978年生、39歳)、双子姉妹(メタファーですよ。「ロッシュフォールの恋人」と同じほどに)のように見えて、実は8歳も歳が離れている不思議。女同士っていいなと思うのは、このペア感覚が歳が関係ないっていうところ。男はそうはいかなくて、年上はどうしたって「先輩」なの。この二人、一緒に泣きあったり、笑いあったり、喧嘩しあったり、が同等=フェアーなのがよくわかるし、ベッタリな時とそうでない時のバランスもはっきりしている。よくある女同士の関係なのかもしれないけれど、実にうらやましい。女の人たちにとってもうらやましいのだと思う。だから良き姉御なんだろう。
 ”Nues"(女性形・複数形の"裸"。つまり複数の女性の"裸”)。「女同士の裸って、そんなに自慢できるもんじゃなくて、素(す)の姿で、見せ合ってホッとするもの」だそう。 いいなぁ。
あなたが泣いてる時もあなたはきれいよ
あなたはエレガントな憂いがあるし、ブルースでもウキウキするようなの
あの男が外に行ってしまったなんて、そいつは目と耳が不自由なのよ
ポーズをとる必要なんかないわ、だって私たちは大人物じゃないんだから
さあここに来て一緒に泣こう、そしたらオシッコの量が少なくなるわ
いつもと同じことよ、過ぎ去ってしまえば何でもないわ
来て、また去っていくのよ
2年も経ったら、笑い話になるわ、あなたも私も
来て、「パラディウム」(※)に連れてってあげるわよ
ロックンロールと一緒に飲もう、くだらない古いヒット曲に乗って
(※註:ジョニー・アリディ、エディー・ミッチェル等にも登竜門だった60年代からのパリのロックンロールの殿堂 Bus Palladium
わおっ。お姐さんたちは、こうやってアホだった恋を葬ってくれるんだ。 素晴らしい。こういう歌は、そういう場面になってもならなくても、女子たちに歌い継がれますよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Palladium
2. Sauver ma peau
3. La morsure
4. Le goût du sel de tes larmes
5. Mon intime étranger
6. Zelda
7. Tomboy manqué
8. Paris
9. La Baby Doll de mon idole
10. Insomniaque
11. Carnivore

BRIGITTE "NUES"
CD/LP Boulou Records / Columbia / Sony Music
フランスでのリリース:2017年11月17日

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓ "Palladium"オフィシャル・クリップ)

(↓ "Palladium" 国営TVフランス5の番組 C à Vous でのライヴ)


2018年1月16日火曜日

逃げてきた民に何の区別があるのか(ル・クレジオ)

ランスは人権宣言の発祥国であり、内外に「人権の国」と自負してきた。しかし事情はその自慢に反することも少なくないし、それは完全不可欠な国とは誰にも言えないフランスの「人間的」な面として、仕方ないことのようにも思われた。しかし昨今のはひどいと思わせるものがある。事情は2015-2016年からのシリア、イラク、アフガニスタン、アフリカの戦乱国からヨーロッパ大陸に押し寄せてきた何百万という難民の受け入れをめぐって大きく変わってきた。
フランスのMigrants(ミグラン=移動民)受け入れは、アンゲラ・メルケルのドイツのそれに比すればやや消極的ではあるが、それでも...。しかし選挙のたびにこれは2015年前までの「移民問題」の数倍の重さを持って、票の駆け引きの材料になっている。極右には格好の票取り材料で、治安と失業とフランス的アイデンティティーの問題をすべてこのミグラン襲来をタネにすればよく、票も随分伸ばした時期があった。
極右のマリーヌ・ル・ペンを破って2017年5月に大統領になったエマニュエル・マクロンは、積極的なミグラン受け入れ論者ではない。保守&左派の寄り集まりの新政党(大統領派)LREMは移民政策もどっちつかず。
元社会党で元リヨン市長であるジェラール・コロン内務大臣は、2012-2017年のオランド社会党政権時のどちらかと言えば寛容的とも見えた移民政策を継続するつもりは全くない。マクロンの意向でこの春に上程予定の新移民法の骨子は、2007−2012年のサルコジ時代とも似た選択的移民政策で、国に有益な外国人労働力をのみ選択的に滞在を許したいという考え方。現在の問題は、フランスに入国する前にそういう選別をしたいということではなく、現在入国してしまっているミグランたちをどうするかということ。ジェラール・コロンは、国の管理するミグラン収容センターや、ミグラン支援NGO団体がケアするキャンプ村などに、警察の調査官を送り込んで、いわゆる「戦争難民」なのか「経済難民」なのかを識別したい、などとものすごい「経済難民」締め出し策を考えている。これには一斉に反発の声が上がった。一体「人権の国」は どこに行ってしまったのか?(↑)の週刊誌ロプス(L'OBS)2018年1月11号は、マクロンの顔に鉄条網を巻きつけて、『ミグラン : 人権の国へようこそ』と題されたマクロンとコロンの人権無視の移民政策を特集。その中に特別寄稿で、2008年ノーベル文学賞作家、ジャン=マリー=ギュスターヴ・ル・クレジオの怒りの一文「耐えがたい人間性の否定」を掲載。「冷血な怪物」(Monstre froid)、「下司の極み」(Dégueulasse)など激しい言葉で語られる素晴らしいトリビューンなので、無断で全文訳して紹介します。


耐えがたい人間性の否定
テクスト:J-M-G ル・クレジオ

 ミッシェル・ロカール(1989年首相時)の有名な言い回し「フランスは世界のすべての貧困を受け入れることはできない」ー 最近マクロン氏は経済的難民に対する強固な閉鎖政策を正当化するためにこの言い回しを再度援用した。レバノンやヨルダンのような小さな国が受け入れる避難民の数の割合を考えれば、これは全くのナンセンスである。そしてこれは何よりも耐えがたい人間性の否定である。どのようにして選別するのか? 政治的理由において、受け入れに値する人々とそうでない人々をどうやって見分けるのか? その国で彼らが被っている死の危険を理由に庇護を求める人たちと、経済的な理由でその国を逃れてきた人たちとの間にどんな違いがあるのか? 飢え、困窮、棄民によって死ぬことは、暴君の発砲によって死ぬことほど重要でないということか? 往々にしてそういう暴君たちをフランスは支持し、おべっかを使い、可愛がり、クーデターで失脚した時には寛容に国境を開いて暴君たちを迎えるが、彼らこそその国の最も貧しい民たちの命を脅かしているのではないか? フランスが長い間利益を得てきて、今日も利用し続けているこのシステムにおいて、フランスには責任がないのか?
 人は予算のことを言い、分配における限界を口にする。確かにそうだが、すべての技術面で明らかに進んでいて、穏やかな気候に恵まれ、賞賛すべき社会的平和がある非常に豊かな国が、その富の少しを、資源を探し直し、その力を回復し、子供達の未来を準備し、自らの傷を癒し、希望を取り戻す必要がある人たちのために捧げることを拒否する時、どこに分配と言えるものがあるのか?これこれの人々は尊重すべきで、かの人々は何の価値もない、という比較はどのようになされるのか?道に身を投げ出し、砂漠を横断し、命がけで筏に乗り込み、熱い国の衣装のまま冬の雪山を越えていく人々に選択の余地があったなどと平気で言い、それを信じ込ませることなどどうしてできようか?彼らが出発を決意したことは断腸の思いであったということをどうして理解できないのか?彼らが後に残してきたものはすべての人間にとって大切なもの、すなわち生まれた国、先祖たち、そして旅立つには小さすぎる子供たちではないのか?
 ここでは平易な感傷や憐憫はお門違いだ。この移動民たちを直視しましょう。船舶のデッキや地べたに横たわり、太陽に焼かれ、飢えと渇きで痩せけているこの人たちを直視しましょう。彼らは私たちにとって見知らぬ人たちではない。彼らは侵略者たちではない。彼らは私たちに似た人たちだ。彼らは私たちの家族ではないか。
かつて私の母が母方の祖父母と共に私と兄を連れて戦争から逃れるためにフランス中を横断した時、私も彼らのような移動民の一人だった。私たちは庇護の申請者ではなかった。庇護はなかったのだから。私たちはひたすら生き延びるための場所を探していた。私たちが逃げている戦争がこの先10年、20年あるいは100年続くのか私たちにはわからなかった。貧困と飢えが戦争の状態である。それらから逃げる人たちは難民でも亡命申請者でもない。彼らは逃亡者なのである。
 政治は冷血な怪物である。それは法と命令には従うが、人間感情は考慮に入れない。零下6度の寒さで天幕の下に眠っている移動民たちを追い出すために、警備員たちがそのテントを潰してしまうということを知ったとしても。路地にいる哀れな者を一斉検挙し、家族と切り離して隔離した後、その出身国と見なされる国へ飛行機で送り返すということを知ったとしても。この惨めな人たちを野良犬であるかのように追い回すということを知ったとしても。いやはや、これは下司の極み(dégueulasse)としか言いようがないではないか。
 明晰かつ現実的であろう、それが約束ごとだ。悲壮みあふれる言説はそれが役立とうとする大義を邪魔するばかりだ。コミュニケーションと知識と他者の承認によって結ばれているということは私たちの現代社会の素晴らしさである。しかし気をつけよう、この素晴らしさは壊れやすいものであり、私たちには義務のようなものではなく、一つの特権のように作用することもある。私たちの周りに心理的な国境を築かないように注意しよう。それは政治的国境よりもずっと不当なものであるから。まさに「世界のすべての貧困」という言い回しに慣れっこにならないように注意しよう。それは私たちがあたかも不可侵の完璧なる島に住んでいて、気の毒な対岸の住民たちが同士討ちの戦いの末、その不幸の中に圧死していくのを、遠くから昆虫学者のような冷徹な目で眺めるようなものだから。この悲惨に関して目と耳を閉ざさないように気をつけよう。私たちの軍隊と判事たちと立法官たちのまやかしの保護に逃げ込まないように気をつけよう。もしもそれが富の分配やヒューマニズムの問題でないとしたら、それは戦略の問題であればいい。歴史的に不正と奴隷制と侮蔑によって成り立った帝国の数々は長続きしたためしがない。それらは金で堕落したがゆえに内部から腐敗していった。
 行動を起こすには遅すぎることはない。それはさほど複雑なことではない。理屈をひっくり返し、脅迫感にかられた行動をやめるだけでいいのだ。この分配とは受け入れのことだけではなく、未来を準備することでもある。すなわち支援と変化の両方だ。世界中で戦争道具を増やすために使われるありえない額の予算の一部、ほんのひとかけだけでも、危機に瀕した国の市民たちを助けるために、飲料水、教育、医療、企業創立、平衡と公正のためにあてがわれんことを。
(L’OBS 2018年1月11号)
(↓ YouTubeアマチュア投稿による、L'OBS上 ル・クレジオ寄稿の断片コラージュ)



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2018年4月1日追記
ル・クレジオ4月1日JDD紙上で再びマクロンの難民政策批判
(向風三郎FBの4月1日タイムラインに書いたものの転載です)

月1日付日曜週刊紙ジュルナル・デュ・ディマンシュ紙上のインタヴューで、ル・クレジオが再びマクロンの難民政策を批判している。
1月にル・クレジオがロプス(L'Obs)誌に寄せたトリビューンで「耐え難い人間性の否定」とマクロンを糾弾したのに対して、マクロンは「知識人たちの"偽善的好意 faux bons sentiments"」と揶揄するコメントを出している。カレーなど現地での難民/移動民へのフランス内務省指示による非人道的な冷遇は改善の兆しがない。
ル・クレジオは「マクロンどの、Améliorez-vous!」と呼びかける。

****(JDD紙4月1日号部分訳)****

JDD ー あなたは2018年1月ロプス(L’Obs)誌上の論壇でエマニュエル・マクロンの避難民に関する政策を激しく非難しました。
ル・クレジオ「私はエマニュエル・マクロンの政敵ではないし、そのロプス誌の(マクロンの顔を鉄条網で包んだ)表紙にはショックを受けた。私は避難民の問題に関する自分の意見を表明したかっただけで、(党派や運動の)スポークスマンをしたかったわけではない。私は今でも内務省の指令による避難民の取り扱い方に憤激している。それは毅然とした方策であることをうたっているが、現地では毅然をはるかに通り越した強硬策になっている。彼らは無防備な人々に対して手酷い扱いをし続けている。国境を閉ざすか開くかは、ひとつの問題として議論の余地があるが、ひとたびこの人々がフランスの地にいるかぎり、彼らにひどい処遇を課すことは容認できない。私は国境の開放に賛成する。私は理想主義的にすぎるのか? 世界中のいたるところで、私たちは恐怖に支配されることに甘んじている。バラク・オバマは天使の慈愛に満ちたような大統領ではではなかった。不法移民の強制追放の件数が最も多かったのは、オバマ在任中であった。私はエマニュエル・マクロンが大統領選挙でマリーヌ・ル・ペンを退けたことには感謝しているが、マクロンはもっと不遇な状態にある人々のことを考慮に入れるべきだ。私はその大統領の役目においてエマニュエル・マクロンに失望はしていないが、彼には修正しなければならないことがたくさんある。マクロンさん、もっと良くおなりなさい!(Améliorez-vous, monsieur Macron !)」
JDD ー エマニュエル・マクロンは避難民に対する知識人たちの「偽善的好意」という言葉で語っていますが。
ル・クレジオ「私は自分のナイーヴさを指摘されることには慣れているし、私は子供の時からナイーヴな人間扱いされてきた。私はモーリシャス島的環境で育てられたし、ニースにあっても私は乞食に食べ物を運んでやるのはごく当然のことだと思っていたが、学校仲間たちは乞食に石を投げつけていた。私は植民地の自由も擁護していたのだから、私は群れの中にはいない習慣があったということだ。私はナイーヴではない。私は単に物ごとを違うように見ているだけだ。私は政治家よりも芸術家を好む。しかし私は論戦から逃げたりしないし、しっかりと自分の立場を守る。私の家系的な過去、それはブルターニュとモーリシャスに起源をもつもので、その血は私に分配/共有を優先するよう私を導いている。だから、必要とあらば、私は避難民の冷遇に抗議するトリビューンを新たに書くことになろう。

2018年1月13日土曜日

生まれついての「豚」

「男はみんな狼」という表現と似てはいるのだが、今や「男はみんな豚」と見なされる傾向が現れている。それは例のハーヴェイ・ワインスタイン事件以来のことなのであるが、傷ついた女性たちが勇気を持って一斉に声を挙げるようになったこと、それは革命的な変化であり、女性の二人に一人が性暴力やセクハラの被害に遭っている現状では、徹底的に変えるべきことにようやく動き出した人間たち(女性たち+男性たち)を私は応援する。その動きにやや反して、男はみんな豚というわけではないでしょう、とか、女性たちだって誘惑されて嬉しいでしょう、とかそういう水を差すような論を立てる人たちもいる。1月9日にル・モンド紙上に掲載された100人の女性たちによるトリビューン『私たちは性の自由に不可欠な「口説き」の自由を擁護する』がそれであり、その旗手的な役割を果たしたのが作家・美術評論家・複数自由恋愛実践者のカトリーヌ・ミエ、女優・文筆家・BDSMイヴェントの主宰者のカトリーヌ・ロブ=グリエ(ヌーヴォー・ロマンの旗手であった故アラン・ロブ=グリエの未亡人)、保守系タカ派のジャーナリストで月刊誌Causeurの創刊者/編集長のエリザベート・レヴィで、あろうことか国民的女優・世界的銀幕のスターであるカトリーヌ・ドヌーヴが賛同署名したことで大いに話題になった。
 上に「口説き」と訳した、このトリビューンのキーワードは "Importuner"(アンポルチュネ)という動詞で、この100人の女性たちは、男が女に"アンポルチュネ”する権利と自由を擁護すると言っているのである。手持ちのスタンダード仏和辞典には、こういう訳語が出ている。
(人の)迷惑(邪魔)になる。(を)うるさがらせる、悩ます。(女性に)しつこく言い寄る。
つまり、少しくらい女性に誘惑的で、執拗につきまとったり、愛の言葉を繰り返したりというのは「セクハラ」に当たらないのではないか、むしろ男女関係に不可欠なアプローチではないか、というような論法なのだ。
 この反動的な切り返しに対して、それまでの #BalanceTonPorc (#豚を告発せよ)、#MeTooのムーヴメントに関わったり賛同してきた人たちは大反論している。

 1月12日、2016年度ゴンクール賞作家のレイラ・スリマニは、リベラシオン紙への投稿で「私は"アンポルチュネ”されない権利を求める」と論じています。その中で、男性たちはすべてが生れながらにしての「豚」であるわけがない、とも言及しています。この「生れながらの"豚”」という表現を
”Un porc, tu nais"(アン・ポール、チュ・ネ)
と綴っていて、"importuner"(アンポルチュネ)と地口にしている、というところがミソ。
 ではレイラ・スリマニの素晴らしいトリビューンを全文訳してみます。シャポー!

《 Un porc, tu nais ? 》
 テクスト:レイラ・スリマニ
通りを歩く。夜にメトロに乗る。ミニスカート、デコルテ、ハイヒールを身につける。ダンスフロアーでひとりで踊る。誰にもわからないような厚化粧をする。少し酔っ払った状態でタクシーに乗る。ヒッチハイクをする。深夜運行のバスに乗る。ひとりで旅をする。カフェテラスでひとりで一杯飲む。誰もいない小道を走る。ベンチに座って人を待つ。男を誘惑し、気が変わって、家に帰る。RER(高速郊外路線)の混雑の中に身を置く。深夜働く。公衆の場で自分の子に授乳する。賃上げを要求する。毎日のことであり、ありふれたことであるこのような生活の様々な瞬間に、私は ne pas être importnée 「しつこく言い寄られない」権利を要求する。これまで考えもしなかったような権利である。私は人に私の態度、私の衣服、私の歩き方、私のお尻の形、私のバストのサイズについてつべこべ言わせない自由の権利を要求する。私は静穏でいること、孤独でいること、恐れることなく自分を前に進めることの権利を要求する。私がこれが単に内なる自由にとどまることを望まない。私は外で自由に空気を吸って生きる自由が欲しいし、その世界は少しは私のものでもあるのだから。

私はかよわいこわれものではない。私は保護されることを求めてはいないが、私の権利が保障され尊重される価値のあるものにしたいのである。男性たちはすべて豚ではない。全くそんなことはない。この数週間、(セクハラ糾弾の動きに関して)今起こっていることを理解する能力において、どれほど多くの男性たちが私を驚嘆させ、歓喜させたことか? 彼らの共犯者であるまいという意思。世界を変えたいという意思、そして彼ら自身がこのような男性世界の慣習から解放されたいという意思に私はどれだけ心動かされたことか? いわゆる「しつこく言い寄る自由」の背後に隠されているのは、男性に関する恐ろしいほど断言的な観点、すなわち「男は生まれながらにして豚である」という見方である。私を囲む男性たちは、私に罵りの言葉を浴びせる男たちに強く抗議し、怒りを表明する。朝の8時に私の外套に射精する男たちに。私が昇進するために何をしなければならないのかを理解させようとする社長たちに。研修の代価にフェラチオを要求する教授たちに。通りすがりに私に「あんたおまんこする?」と聞き、しまいには私を「色気違い」扱いする男たちに。私が知っている男性たちはこのような時代に逆行する男性精力のヴィジョンに対して著しく嫌悪している。私の息子は、自由な男になるだろうし、私はそれを強く望んでいる。自由であるということは、女にしつこく付きまとう自由ではなく、制御不可能な性衝動に憑かれた女性の天敵と自分を定義しない自由を持つということである。私たちを魅惑する男性たちが持っている何千もの素晴らしい魅惑の方法を知る男になってほしい。

私は被害者ではない、しかし何百万もの女性たちは被害者である。これは道徳的判断でも女性たちの本質化でもなく、一つの事実なのである。そして私の中では、世界中の何千もの都市の街々でこうべを垂れて歩くすべての女性たちの恐怖と同じ、早い心臓の鼓動を感じている。男たちに追われ、脅され、暴行され、罵しりを浴びせられる女たち、公衆の場所で闖入者のように扱われる女たち。私の耳には地面にひれ伏す女たち、恥じ入る女たち、名誉を汚したという理由で道に投げ出される卑賤の女たちの叫びが反響している。その肉体がしつこく誘惑されたいという誘いである可能性があるという理由で長く黒いヴェールに身を隠すことを余儀なくされた女たち。カイロ、ニューデリー、リマ、モスール、キンシャサ、カサブランカの通りで、女たちが誘惑されたりちやほやされたりしなくなるのではないかという心配のためにデモ行進するであろうか?この女たちは男を誘惑したり、選んだり、しつこく言い寄ったりする権利があるのだろうか?

私はいつの日か私の娘がミニスカートとデコルテを身にまとって夜の街を歩けるようになるよう願っている。一人で世界旅行をし、恐怖することもなく、そんなこと頓着することもなく真夜中に地下鉄に乗ることができるようになることを。すなわち私の娘が生きるであろう世界はピューリタンな世界であってはならない。私が確信しているのは、その世界は今よりも公正で、愛情の領域では、快楽や誘惑のゲームがより美しく、より豊富であるはずなのだ。現時点で想像すらできないほどの水準で。
(リベラシオン紙2018年1月12日)

追記(2018年1月14日)
人は豚に生まれるのではない、豚になるのである。
(↓ 1月14日国営テレビFrance 5の政治討論番組 "C politique”に出演したレイラ・スリマニ。)
「女である私たちは、働き、戦い、男たちと同じ抑圧の下に置かれ、男たちと同じ義務を課せられていて、税金を払い、子供たちを育てる。しかし私たちは男たちと同じ給料をもらっていないし、同じように重視されてもいない。そして世界の大部分のところで、女たちは男たちと同等の権利もない。」
「私たちは男たちよりもずっと多くの経済的不安定の被害者であり、ずっと多くの暴力の被害者である。私たちは世界における私たちの均等で公正な分け前を要求したいだけなのである。私たちは最も大きな誇りのうちに安全に外に出て暮らしたい。」
「私はジェンダー間の戦争は望まない。私はみんなが共に生きることを望んでいる。」「私は人々が愛し合い、狂おしいまでに愛し合うことを望んでいる。しかし平等という条件で。相互の尊重の上に。各々の人格の尊重の上に。」
「人は"豚”に生まれるのではなく、"豚”になるのである。私たちの子供たちが生きていく世界を変えることはできる。性的関係における捕食と暴力を一掃できた日には、人はもはや欲望を空にする必要もなく、禁欲的な世界に生きることもない。人はより良く愛し合えるはずだし、もっと良くセックスすることができるはず。そして一緒に生きるということをもっと幸福に営めるはず。それゆえに私はこの暴力と戦わなければならないと考える。一人一人がお互いにより良く生きるために。」