2016年9月30日金曜日

捨てましょう 捨てましょう

ラリー・グレコ「指輪を捨てろ」(1965)
Larry Greco "Jette-la"

リー・グレコは本名をクロード・ドガリエと言い、1941年スイスのベルンに生まれました。父親の楽団でベーシストとしてデビューしたのち、1961年にダチのジャン=ジャック・エリーとローザンヌでロックバンド「レ・ムスクテール」を結成し、62年にバンドはパリに上って活動し、それに注目したのがシルヴィー・ヴァルタンと兄のエディー・ヴァルタンで、レ・ムスクテールはシルヴィーと共にツアーするようになります。63年、ラリー・グレコ(&レ・ムスクテール)初シングル&初ヒットが「マリー・リザ」。好調にヒットを出し、シルヴィーやジョニー・アリディなどにも曲を提供する活躍ぶりで、65年にはなんとザ・ローリング・ストーンズの前座でオランピア劇場に出演します。スイス産ワイルド・ロックンローラーがその65年に発表した、おそらくラリーの最大のヒット曲がこの「指輪を捨てろ Jette-la」で、エディー・ヴァルタン楽団がなかなかいいバッキングの断腸ロックです。
 その後60年代末ぐらいまでは、まだスターだったようですが、ヒットも止まり、75年には芸能界を退き、故国スイスでスキーインストラクターになり、さらにフランスの地方でレストランを開業したり...。2006年にカムバック、2010年にベストCD、そして2015年11月、人知れず74歳でこの世を去っています。
 この断腸の結婚破棄ロカバラード「指輪を捨てろ」ですが、歌詞訳してわかったのは、「おまえ」と二人称で語りかけてるのは自分なんですね。振られた自分を自分で説得してるんです。本当に悲しいです。

教会の前に、朝早くから、おまえは立ち尽くしている
おまえは結婚するはずだった
だけど彼女は来なかった
あの女はおまえをコケにしたのさ
だから、指輪を抜いて、捨てちまいな

手のひらの中に指輪握りしめて
おまえはまだ大丈夫だと思ってるのか
おまえは本当にお利口さんで

おまえは本当におめでたいな
ひとりの女に振られたって
そんなもの何でもないんだ
どうってことないんだ

結婚なんておまえ向きじゃない
おまえには向いてないんだ
おまえとは縁がないんだ
わかるか?
だからおまえは何も後悔することなんかないんだ
俺を信じろ
おまえは
指輪をはめて
首に縄をかけて
もう後に引けないと思ってるんだろう
おまえはそんなこと思ってるのか
一体何を考えてるんだ?
おい答えろよ
おまえしっかりしろ
おまえってやつは、おおおお!

冗談じゃないぜ、冗談はよせよ
シャレにならないぜ
ノンノンノンノン...
いつかこんなことみんな笑い飛ばせるんだ
いつか笑い話になっちまうって
だからおまえの悲しみなんか置いていけ
ここにおまえの悲しみを放っておくんだ
いいか、そうしろ
だがその前に、この結婚指輪を捨てるんだ
捨てろ、そうさ、捨てろ、
捨てるんだ
 ("Jette-la"  詞:ジル・チボー/曲:ラリー・グレコ)

(↓ LARRY GRECO "JETTE-LA" 1965年)

2016年9月25日日曜日

まれ!異例のレイ・レマ

レイ・レマ&ローラン・ド・ヴィルド『リドルズ』
Ray Lema & Laurent De Wilde "Riddles"

 レイ・レマ(コンゴ出身のマルチインストルメンタリスト。今回はピアノ専業)とローラン・ド・ヴィルド(ワシントン生れのニューヨーク派仏ジャズ・ピアニスト)のピアノ二重奏アルバム "RIDDLES(謎)"。
 準備期間6ヶ月、リハーサル1ヶ月。だからある日偶然にスタジオに居合わせて作ったアルバムとはまるで違う。全く違う道のりを歩んできた(放浪してきたと言うべきか)二人の音楽家が、(レイの言葉では)「その道が実はひとつだったような」ところまで歩み寄る。(ローランの言葉では)「ひとりのピアニストというのは全部がひとりでできる世界の王者だ。それが目の前にもうひとりの世界の王者が現れて対話する時には、良質の謙虚さが要求される」。腕の競い合いではない。ひとつのメロディーを二人で違う方法で愛でていくような。全体的な印象としてはレイのアフリカ的なるものが、ローランの包み込みで輝きや色彩が増していく感じ。ジャズ的けれんみを排除し、音符数を減らし、二人が相手の次の呼吸を読み合えるまでに近づいていく。バラフォンのような音を出すローランのピアノ(3曲め "Fantani")は鮮やかなアフリカへのオマージュ。ブルース、マンダング、タンゴ、ラグタイム、ジャマイカン... 二人の呼吸が合ったらあれもできる、これもできる、という茶目っ気混じりのオリジナル曲(ほとんどレマ/ド・ヴィルドの共作)は、優美さが際立っている。録音の数日前に知ったプリンスの死を悼んで、録音演目に入れた「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ナ・デイ」(10曲め)。2016年に聞いた最も美しいアルバムの1枚。
<<< トラックリスト >>>
1. INTRO (Lema/De Wilde)
2. COOKIES (Lema/De Wilde)
3. FANTANI  (Lema/De Wilde)
4. RIDDLES (Lema/De Wilde)
5. CONGO RAG  (Lema/De Wilde)
6. TOO MANY KEYS (Lema/De Wilde)
7. THE WIZARD  (Lema/De Wilde)
8. LIANE ET BANIAN (De Wilde)
9. MATONGUE (Lema)
10. AROUND THE WORLD IN A DAY (Prince/John L Nelson/David Coleman)
11. FANTANI - Radio Edit
(Lema/De Wilde)
RAY LEMA & LAURENT DE WILDE "RIDDLES"
CD GAZEBO GAZ127
フランスでのリリース:2016年10月21日
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)メーキング・オブ
 
 
 

2016年9月15日木曜日

やせガエル、負けるな

Gaël Faye "Pili Pili Sur Un Croissant Au Beurre"
ガエル・ファイユ『唐辛子の乗ったクロワッサン』

 2016年秋、ガエル・ファイユの初小説『プティ・ペイ(小さな国)』(グラッセ刊, 2016年8月)は大変な話題となっていて、FNAC小説賞を受賞したあと、フランスの権威ある文学賞であるゴンクール賞とメディシス賞の候補に選ばれ、ベストセラーを続行中。この小説についてはOVNI2016年9月15日号の「しょっぱい音符」で紹介したので、詳細はそちらにゆずるが、ガエル・ファイユの自伝的なフィクションで、ルアンダ人の母とフランス人の父の間にブルンディで生まれた主人公ガブリエルの幸福な少年時代が、90年代に始まる政変、クーデター、大統領暗殺、フツ族とツチ族の民族紛争から大虐殺へと進展していく歴史に巻き込まれていく10歳から13歳の日々が描かれている。素晴らしいテンポ、小気味良く出て来るアフリカ的ボキャブラリーと言い回し、少年のナイーヴさと大地の子供のしたたかさ、平和から大惨劇までを当事者として見つめる観察眼.... 大変な小説の登場だと思った。
 この当年34歳の作者は、音楽アーチストとして2008年から活動していて、 ラップ、スラム、ヒップホップのシーンではかなり知られている(ということを私は知らなかった)。カメルーン系フランス人のエドガール・セクロカ(aka シュガ)とのデュオ「ミルク・コーヒー・アンド・シュガー」を経て、2013年にガエルがソロアーチストとして発表したアルバムがこの "PILI PILI SUR UN CROISSANT AU BEURRE"。メジャーの仏ユニヴァーサル傘下のモータウン・フランスから。このレーベルはかのベン・ロンクル・ソウルが稼ぎ頭で、ガエルのこのデビュー・アルバムにもベン・ロンクル・ソウルがゲスト参加している。
 さてかく言う私はあの小説を読んだあとで、このガエルのアルバムを3年遅れで発見したというわけなのだ。アルバムの12曲めに未来の小説と同じ題の「プティ・ペイ」というトラックがあるように、このアルバムもまたこの青年の私小説的に、アフリカ、混血、ブジュンブラ(ガエルが生まれ育ったブルンディの首都)、99%の得票率で選ばれる大統領...など小説『プティ・ペイ』に現れる原風景があちらこちらに。冒頭の「A-France(アフランス)」(アフリカとフランスの結造語)から、タンガニーカ湖で一緒に遊んだ悪ガキ仲間の思い出がどれだけ恋しいかを歌うのだが、アフリカとフランスに身を裂かれてしまっていることを死ぬほどの苦しみと言う。フランスの血とアフリカの血の融合によって本来ならば溶け合ったもののはずなのに、この混血は「分離」していると歌う10曲め「メティス」。
 J'ai le cul entre deux chaises, j'ai décidé de m'asseoir par terre.
  僕の尻は二つの椅子の間にあるんだが、僕は地べたに座ることに決めた
              ("Métis")
このようなテーマは同じような混血だが、ルアンダ人(父)とベルギー人(母)の間に生まれたベルギーのスーパースター、ストロマエにも繰り返し現れるものである。ガエルとストロマエに共通する「引き裂かれ」の事件は、ルアンダとブルンディでの大虐殺であるが、ストロマエの場合はその父がその事件で死に、少年ガエルは自身がそれを実体験した。この二人はこの後も歌や小説でそれを語り続けるだろう。
 詞の世界もさることながら、サウンド構成や曲作りもかなり手が混んでいて、その仕掛人はギヨーム・ポンスレという作編曲家プロデューサー/キーボディスト/トランぺッターである。1978年グルノーブル生れのポンスレは、ミュージシャンとしてはもっぱらジャズの世界にいた人で、2011年までONJ(オルケストル・ナシオナル・ド・ジャズ)の一員だった。こちら側の世界ではMCソラールやミッシェル・ジョナスなどと仕事してきた人だが、ガエル・ファイユとはミルク・コーヒー&シュガー以来作編曲プロデュースでペアを組んでいる。ポンスレはこのガエルの初ソロアルバムのために、28人のミュージシャンを集め、録音はパリとブジュンブラ(ブルンディ)で行われている。大きなプロジェクトだったのだ。ブルンディの演劇/映画人/ミュージシャンのフランシス・ムイレ(「プティ・ペイ」)、セネガルのジュリア・サール(「スローオペレーション」)、アンゴラのボンガ・クエンダ(「大統領」)、南アフリカ・ジョハネスバーグのヒップホップバンド、トゥミ&ザ・ヴォリューム(「ブレンド」)、RDC(キンシャサ・コンゴ)のピチェンス・カンビロ(「アフランス」)、フランス人シンガーソングライター/フランソワ・グロワンスキから(偽)セネガル人ミュージシャンに転身したウースマン・ダネジョ(「メティス」)、 そしてフランス随一のソウルマン、ベン・ロンクル・ソウル(「イシンビ」)といった人たちがドンピシャの場所にいてガエルをサポートしている。
 あの本の後なので、私の興味は真っ先に12曲め「プティ・ペイ」に向かうわけだが、「小さな国、おまえは押しつぶされてしまったが死ななかった。おまえは苦しんだがその苦しみはおまえを倒すことはなかった」と満身創痍でも立ち続けた小国ブルンディをいとおしむ。自分自身も引き裂かれたままなのに。勇気ある大作アルバム。もっともっと知られるべき1枚。小説が引き金になったとは言え、こうやって3年後にアルバムを手にする人たちは少なくないはず。

<<< トラックリスト >>>
1. A-France (feat PYTSHENS KAMBILO)
2. Je Pars
3. Ma Femme
4. Slow Operation (feat JULIA SARR)
5. QWERTY
6. Blend (feat TUMI)
7. Charivari
8. Fils Du Hip Hop
9. Isimbi (feat BEN L'ONCLE SOUL)
10. Métis (feat OUSMAN DANEDJO)
11. Président (feat BONGA)
12. Petit Pays (feat FRANCIS MUHIRE)
13. Bouge à Buja
14. Pili Pili Sur Un Croissant Au Beurre
15. L'ennui Des Après-Midi Sans Fin

GAEL FAYE "PILI PILI SUR UN CROISSANT AU BEURRE"
CD Mercury/Motown/6D Production 3701593
フランスでのリリース:2013年2月

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ガエル・ファイユ「プティ・ペイ」


(↓)ガエル・ファイユ「メティス」

2016年8月30日火曜日

ピアノマン

Romain Didier "Dans ce piano tout noir"
ロマン・ディディエ『この真っ黒なピアノの中に』

 マン・ディディエさん(1949年生、現在67歳)には、2011年に亡くなったアラン・ルプレストの縁で、生前のルプレストのコンサート楽屋で2度会ったことがあります。酔いどれの詩人ルプレストとは1985年以来作詞作曲の盟友関係でしたが、ルプレストがパフォーマーとして激しく前面に出て行ったのに対して、ロマン・ディディエは自作自演歌手としては比較的地味なアーチストとして通っていました。ピアノのヴィルツオーゾ、編曲者として多くのシャンソン・アーチストの裏方だったような職人人生。自身の名義のアルバムは20枚以上出しているのに。そんなシャンソン人生を振り返って、「ロマン・ディディエ、ロマン・ディディエを歌う」という形式の全曲メドレーつながりのピアノ弾き語りアルバム。36曲76分。その歌の発表時期を振り返るように、ミッシェル・ルグランやジョルジュ・ブラッサンスなどのメロディーをインターリュードとして挟みながら、自分のシャンソン人生を噛み締めるように自作曲を歌い込みます。これは2015年のアヴィニョン演劇祭の時にスペクタクルとして立ち上げたロマン・ディディエ・ワンマンショーとして創作されたもの。ピアノと歌唱だけの一人世界。目の前で歌ってくれるような息づかい、指づかい。この黒いピアノの中に全てが詰まっている、というピアノマンアーチストのカタルシス。それがアルバムタイトルであり、1988年発表の「この真っ黒のピアノの中に Dans ce piano tout noir」という歌です。
この真っ黒なピアノの中には

この真っ黒なピアノの中には子供時代の霧がある
そのピンク色の霞はあなたの肌にくっついて離れない
シャン・ド・マルスの回転木馬、少し運がよければ
当たりの輪をつかみ取って、もう1回タダで乗れる
この真っ黒のピアノの中にはパリの通りがある
近所の人たちはあまりに早く通り過ぎていった
そこには1台のグランドピアノがあり、夜にはぬいぐるみがひとつ
文豪ユゴーの肖像画は、5フラン札1枚で買えた
この真っ黒なピアノの中には、古い市バスが走っている
大西部を想像して遊んだ郊外の公園がある
夏ヴァカンスはブルターニュに行き、秋にはふさぎの虫にとりつかれた
沢山の恋の悲しみがあり、いろんな名前が心に残っている

この真っ黒なピアノの中にはアナーキストの黒旗がある
海なんて一度も見たことがないサン・ミッシェルの舗石がある
金融資本のこと、(貧民救済)炊き出しスープのことなどを語りながら
映画スターのようにゴロワーズの煙を吹き出した
この真っ黒なピアノの中にはヴェトナムの傷がある
たくさんのボートが死神と出くわしている
戦争があり、流血があり、ドルと武器がある
俺がそれを売らなければ、別の人間がしてしまうのさ
この真っ黒なピアノの中には8時の定時ニュースがある
NASAが映し出す写真、サハラ砂漠の映像
サンチャゴ、ワルシャワ、どこかの不幸の岬
そこでは子供たちが別種の石蹴りで遊んでいる

この真っ黒なピアノの中には白い絹ドレスをまとった娼婦がいる
聖女の乳房はカララ大理石でできている
日曜の装いをした純朴な人たちの惨めさ
ビストロカウンターの語り手たちの長広舌
この真っ黒なピアノの中には私の生命線がある
人っ子ひとりいないカジノに続く緑の絨毯がある
飢えた猫のように待ち伏せている死神がいる
それを笑って見ていたナチ占領時代がある
この真っ黒なピアノの中に私の愛する女がいる
低音の弦と希望の音符を持った女だ
愛から生まれた子供たちが私に主題をくれる
そしてそれを今夜歌うためにすぎていく時間がある

この真っ黒なピアノの中には子供時代の霧がある
そのピンク色の霞はあなたの肌にくっついて離れない
シャン・ド・マルスの回転木馬、少し運がよければ
当たりの輪をつかみ取って、もう1回タダで乗れる

ミッシェル・ジョナス("La Famille" 4曲め)、ムールージ("Un jour tu verras"11曲め)、ジルベール・ベコー("Et maintenant" 24曲め)というロマン・ディディエと共有世界を持つ人の作品3曲を挟みながら、一挙に弾き語ってしまう36曲。多分永遠に終わりたくなさそうなシャンソン職人のとめどない歌心。止めてはいけません。

<<<トラックリスト>>>
1. DANS CE PIANO TOUT NOIR
2. MON ECHARPE GRISE
3. SA JEUNESSE
4. LA FAMILLE (Michel Jonasz)
5. L'ENFANT QUE J'ETAIS
6. MON ENFANCE
7. STASTION EMILE ZOLA
8. JLIE LA LOIRE
9. EN ETE 42 (Michel Legrand)
10. SI UN JOUR C'EST FINI
11. UN JOUR TU VERRAS (Mouloudji)
12. PETIT MATIN
13. LA CHANSON DES VIEUX AMANTS (Georges Brassens)
14. JE T'AIME EN BRAILLE
15. LES PASSANTES
16. LA DAME DE MONTPARNASSE
17. LE DOUX CHAGRIN
18. DANS MA RUE
19. J'AI NOTE
20. TU T'LAISSES ALLER
21. A QUOI CA TIEN
22. TU M'AS VOLE LA MER DU NORD
23. A DES ANNEES LUMIERE
24. ET MAINTENANT (Gilbert Bécaud)
25. IL N'AURAIT FALLU
26. L'AEROPORT DE FIUMICINO
27. PLEURE PAS
28. NE PLEURE PAS JEANNETTE - LE PONT DU NORD
29. LES COMPTINES
30. LA FILLE DU GEOLIER DE NANTES
31. EST-CE AINSI QUE LES HOMMES VIVENT
32. JE ME SOUVIENS
33. DIX PIEDS SOUS TERRE
34. INSOLENTE ET INFIDELE
35. AU BOUT DES RAILS
36. LE CLOCHER DE GREENWICH

ROMAIN DIDIER "DANS CE PIANO TOUT NOIR"
CD TACET/L'AUTRE DISTRIBUTION TCT-RD-10961606
フランスでのリリース:2016年9月23日

(↓)ロマン・ディディエ「この真っ黒なピアノの中には」




 
 

2016年8月22日月曜日

アロー、ママン、ボボ。

MHD "MHD"

MHD、本名モアメド・シラ。ギネア人の父、セネガル人の母のもとに、1994年ヴァンデ地方ラ・ロッシュ・シュル・ヨンに生まれたフランス人のラッパー。 パリ19区を地盤として、アフリカン・ポップとトラップを融合させた「アフロ・トラップ」の先駆
者のひとり。19区の仲間で結成した19 RESEAUXの中心メンバー。
 2016年4月リリースの初ソロアルバム。どうなんでしょうね? この曲 "Maman, j'ai mal"(ママン、俺は苦しい)は、この夏のヴァカンスの南下(行き)&北上(帰り)のカーステで何度も何度も聞かされましたけど。1977年アラン・スーション「アロー・ママン・ボボ」の直系のかあちゃん泣きつきソングでしょうし、スークースのサウンドをバックにしているところはとうちゃん泣きつきソング「パパウテ」(ストロマエ、2013年)的でもある。かあちゃん大切にな。

おまえが金持ちだろうが貧乏だろうが
元のところは一緒なんだ
全能の神の前では同じように報告しなければならない
俺は信仰を持ち続けよう
天使と悪魔のどちらを信じるか、俺はどちらも信じるね
ママンは俺を信頼し、俺のことを勇敢な子だと言った
ママンを問題から救い出すためだったら、俺は腕一本失ったっていい
お国の家族は毎月末俺の金をあてにしている
俺はもう指一本動かす力もないんだ

相変わらずの俺さ、何も変わっちゃいない
俺は人を傷つけたし、それを申し訳なく思っている
夜になれば気晴らしにガキどもをうちに集めて遊んだ
俺についてきたのはいつも同じ連中
俺を嫌ったのも同じ連中
俺は仲間を変えていない
物語の始まりはこんなふうに綴られたんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

家よりもひんぱんにポーチの下に集まっていた仲間も
季節ごとにその数を減らしていった
仲間は俺に言った「MHD、おまえひとりで行けよ
おまえの棺桶にまでついていくやつはひとりもいないよ」
信用は金で買われ、友情は何の価値もない
俺のママンへの愛が盲目なら、俺はレイ・チャールズさ
腕時計を片目で見れば、もう俺の潮時が近づいている
ここから立ち去る前に、俺は俺の仲間たちを踊らせたいんだ

相変わらずの俺さ、何も変わっちゃいない
俺は人を傷つけたし、それを申し訳なく思っている
夜になれば気晴らしにガキどもをうちに集めて遊んだ
俺についてきたのはいつも同じ連中
俺を嫌ったのも同じ連中
俺は仲間を変えていない
物語の始まりはこんなふうに綴られたんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

あれから時は経った
俺にはわかった、成功は決して遠いものじゃないと
俺はグループから離れた
ステージにのぼる時、俺はいつもびくびくするんだ
俺には群衆の声が聞こえる
ママン、心配するな、あんたの息子は大丈夫やりとげるさ
俺は不平を言わない、俺には俺をささえてくれる家族があるんだ
俺は成功するって人は言う、だから俺はその順番を待ってるんだ

ママン、俺は苦しいよ
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
夜になれば明日はどんな厄介ごとが、と考えてしまう
俺は自分の道を拓こうとしてるんだが、それを妬むやつらがいるんだ
ママン、俺は苦しいよ

(MHD "Maman j'ai mal)
MHD "MHD"
CD UNIVERSAL FRANCE 4785833

フランスでのリリース:2016年4月15日


(↓ MHD "Maman j'ai mal)







2016年8月5日金曜日

ギイがすたればこの世は闇だ

この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で1999年12月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Christophe Bourseiller "Vie Et Mort de Guy Debord"
クリストフ・ブールセイエ『ギイ・ドボールの生と死』 
(1999年10月刊)
 
 "Faut-il virer Guy Debord?"(ギイ・ドボールを追い出すべきか?)。こういう見出しの1ページ記事が、世界的女性誌の権威とでも言うべきELLE誌の1999年11月22日号に載ったのである。ブーム(フランス語では "phénomène"フェノメーヌ)なのだそうである。確かに一般的な雑誌メディアで昨今よく見る名前である。このELLE誌の記事の中で、いまどきのギイ・ドボールの 信奉者たちについて「ギイ・ドボールを引用する人たちの半数はギイ・ドボールを一度も読んだことがない。そして残りの半数は一度も理解したことがない」と看破している。その代表的著書『スペクタクルの社会(La société du spectacle)』(初刊1967年。邦訳は遅れに遅れて1993年木下誠訳、平凡社から刊行)を読もうが読むまいが、彼の思想シチュアニショニスム(状況主義)を理解しようがしまいが、今、ギイ・ドボールを持ち上げることは、シックでブランシェ(先端的)なことなのである。それは今日フランスで最も先端のTVジャーナリズムと言えるカナル・プリュスや、雑誌レ・ザンロキュプティーブル、新聞リベラシオンなどの、シックでブランシェなトンガリ人種が信奉しているのだから、軽薄な新しモノ好きたちが放っておくわけがない。
 確かにギイ・ドボールに関する書物は今年になって十数種も刊行されており、大規模総合文化ショップチェーンのFNACの各店では、ギイ・ドボールの特設コーナーができたほどである。本書はその中の一冊で、著者クリストフ・ブールセイエは四十代前半のジャーナリストで、あらゆる前衛に関するスペシャリストという特異な専門分野を持つ、TVやラジオにも出演し、さらに副業で映画俳優もするというマルチな男。私はこのブールセイエという人物がかなり前から気になっていた。80年代にパリの週刊シティーガイド誌で、老舗パリスコープ誌とロフィシエル誌という二大ガイド誌に挑戦した "7 à Paris(セッタ・パリ)"という短命なガイド誌があったが、ブールセイエはその副編集長兼主筆であった。この週刊ガイドは、もう最初から老舗2誌と同じことをするのではダメだと悟っており、ガイド誌的情報はきっちり事務的に網羅しておきながら、他の紙面はほとんど冗談に近いアナーキーさで、B級映画ガイド、誰も読まない本の書評。超くだらないレコードのレヴューなどで。一部の熱狂的な読者層をつかむことになる。そして末期には、パリ市議選挙に比例代表制の政党として立候補し、名誉のX%の得票を得て沈没してしまう。このメジャーなメディア社会の中で、これほど世の中を過激におちょくった雑誌の中心人物がブールセイエであった。そして私はブールセイエ(とその先駆的メディア初期リベラシオン紙)から、学び、受け継いだものがある。それは「タイトル・記事見出し」であり、記事内容と何ら関係がなくても、強烈で冗句的で記憶に留まるものであればいい、という見出し・タイトルの付け方である。それは当ホームぺーじの随所で同じポリシーが機能しているので、読書の諸姉諸兄はもう慣れているだろう。
 かつて日本の某音楽雑誌に、アルジェリアのポップ・ミュージックであるライが、イスラム原理主義のテロの猛威の前にかなり変容しているというかなり深刻な記事を寄稿して、そのタイトルに「揺らぐライの足場、アシバライ」とつけたら、見事にボツになった。わからない人たちには通用しないであろうが、私は内容とシンクロしなくてもいいから目立てばいいタイトルの決め方、ということをブールセイエから多くを学んだ。
 そしてブールセイエはそれをギイ・ドボールから学んでいたのである。それは極端な詩的一行であり、一行で決める落書き的効果であり、「XXX反対」とか「XXX粉砕」とかではない、「真実など何もない、すべては許される Rien est vrai, tout est permis」や「弁証法でレンガが壊せるか? La dialectique peut-elle casser des briques?」や「決して働くことなかれ Ne travaillez jamais」などといった、必殺の一行でなければならないのである。
 1994年ギイ・ドボールが62歳で自殺した時でさえ、一般の人々にはドボールはほとんど無名の人間であった。テレビラジオを初めとした大衆メディアには登場しなかったというだけではない。彼の思想は伝播しづらい性格のものであり、また伝播されることを目的としていない性格もある。
 68年5月革命を準備したと評価されるドボールのシチュアショニスム運動は、その母体となる団体アンテルナシシオナル・シチュアニスト(l'Internationale Situaniste 略称IS)の活動期間(1957-1972),を超えることなく、68年を契機に一時的に広い範囲の支持を得たにも関わらず、度重なる内紛とメディアの黙殺の末に姿を消している。これはメディア的な膨張を極端に嫌うドボールの意図的な拡大防止策であったと言われる。
 パリのブルジョワの家庭に生まれ、南仏に育ち、学生としてパリに登ってきても、自分の衣類を洗濯することも知らなくて、いちいち南仏の祖母に洗濯物を送っていた。1951年、シュールレアリスムから派生した芸術運動レトリスムと合流、1952年、初の長編映画『サドに加担する呻き声』 を発表。この映画は20分のギタギタに分断された対話と、沈黙の1時間、さらに終盤20分は音も映像もない静寂の黒スクリーンが延々と続くというもの。レトリストたちはこの映画の上映によって巻き起こる観客たちの喧騒と怒号を楽しんでいた、というわけである。早くもドボールはこの上映に際して「もはや映画はない。映画は死んだ」と宣言していた。
 スキャンダルと挑発に長けたこの若者は、2年も経たずにレトリスムの頭目イジドール・イズーを乗り越えてしまい、1953年にはその分派アンテルナオシオナル・レトリスト(l'Internationale Lettriste、略称IL)を結成、機関誌ポトラッチ(Potlach)を刊行、芸術と政治の両領域で過激な論を展開するのであった。
 この若き日のドボールにおいて私がとても魅力を感じるのは、彼が若くして無類の酒呑みであり、このような芸術・政治運動の討論も決議も毎日深夜から明け方までのビストロで行われており、彼の周りにはインテリと縁のない泥棒やチンピラなどもいて、猥雑な飲み屋の中の騒然とした環境の中でドボール思想が培われていったということである。そしてビストロの中で居合わせたポルトガル人やモロッコ人と意気投合することが、そのまま「アンテルナシオナル(l'Internationale = 国際組織)」を名乗るスケールになっているのである。深夜の酒場で結団されるアンテルナシオナル、こういう世界の見え方が素敵だ。しかし文字通り「アル中で乱暴者」の彼らは当然の成り行きとして酒場をグジャグジャにしてしまうので、しょっちゅう酒場の出入り禁止を喰らい、行きつけの店をその都度失ってしまい、新しい店に流れていくのである。
 このほとんど愚連隊と言っていいILの行状こそ「日常生活の冒険」として位置付け、第八芸術は生そのものである、という論を機関誌ポトラッチは展開していく。彼らは伝統的左翼のような未来的(社会主義建設)なヴィジョンを問題にせず、今ここにある生、生の場所的現在の変革を訴える。これはドボールと親交のあった(そして後に大げんかして訣別する)唯一の大学人アンリ・ルフェーブルの著『日常生活批判』のベースとなる思想を増幅して戦闘的にしたものと言える。
 その生に局面局面における現場を彼らはシチュアシオン(状況)と呼ぶのである。シュールレアリスム、レトリスム、アナーキズム、そしてアンリ・ルフェーヴルの日常論を母体に、シチュアショニスム(状況主義)(通称SITUシチュ)は生まれた。シチュの基本思想は「剰余労働を強いられた受動的な生と決別して、密度の濃い生の瞬間=状況を作り出すこと」である。またシチュの代表的な68年落書きスローガンでは
Vivre sans temps mort et jouir sans entraves
無為の時間なしに生きること、そして制約なしに楽しむこと
とも言っている。それは彼ら愚連隊が酒場でやっていたことの理論化および思想化であった。
 1957年、アンテルナシオナル・シチュアショニスト(略称IS)が組織され、その同名の機関誌は11年間にわたって縦横無尽言いたい放題の侮辱・誹謗中傷・罵倒の超ラジカル文書を満載していたが、そのほとんどの無署名記事をギイ・ドボールが書いていた。毒筆の矛先は保守体制・政権は言うまでもなく、伝統左翼(スターリニスト)、毛沢東主義者(ジャン=リュック・ゴダールを含む)、既存の権威と共存する思想家(サルトル他)などであった。
 シチュの最も重要なキーワードのひとつが「デトゥルヌマン détournement」である。これは逸らすこと、ずらすこと、といった意味であるが、ハイジャックのような武器の威嚇による無理矢理な方向転換の意味にも使われる。シチュの場合は戦略的な意味の取り違えであったり、強制的な意味の読み替えだったりする。例えばポルノ漫画で性的恍惚に喘ぐ女性の顔の吹き出しに「プロレタリア独裁って素敵だわ...」というセリフを書き込むことである。IS機関誌ではそういうイメージと言葉のコラージュによる強烈な意味の方向転換の図版を多く掲載し、シチュ的デトゥルヌマンのスタイルを作り出す。しかし(...しかしという接続詞ではないか...)80年代頃から商業広告業界が、このデトゥルマンを援用したヒット広告やCMを多数発表することになるのである。

 1967年、ギイ・ドボールの主著『スペクタクルの社会』が刊行される。彼はここで当時まだ世界的に熟したとは言えない来るべき「消費社会」の現実を既に看破しており、商品という「もの」へのフェティシズムに侵食され尽くした資本主義経済(今風な例では日本女性の高級ブランド崇拝のようなものが支配的な消費社会)と、スペクタクル(見世物)という形態を取らなければ現実性を持たなくなってしまったマスメディア中心社会が、生の現実を消し去っていく、という明晰な分析をしている。実際に有益なものよりもブランド付きの無益なものを崇拝する社会、実際の人生よりもテレビに映し出される虚構のドラマにリアリティーを求める社会、ドボールは今から32年前にこの社会の嘘っぱちに否を唱えていたのである。
 1968年、パリ五月革命、シチュは少数派ながら最前線にいた。ここでシチュがトロツキストやマオイストなどの68年運動主流派と決定的に違っていたのは、シチュは大学を資本階級エリートを作るための機関として批判していたのではなく、スペクタクルおよび商品の支配する社会の前衛として批判していたわけで、大学をバリケードで占拠することは資本エリート養成機関の解体よりも、スペクタクルを主体の側に奪い返すことが目的でなければならなかった。すなわち、シチュにとって五月革命は闘争と同時に祝祭であり、宴であった。シチュにとってはバリケードの中にどれだけ多くの酒類が持ち込めるかが最優先の課題のひとつであったのだ。 そして世にも強烈な落書きを創作すること。
 そこなのである。私が体験した70年代初めの日本の新左翼的環境の中において、受験勉強の延長のように政治用語を暗記したようなセクト的ディスクールに辟易し、警察権力と敵対セクトへの憎悪を増幅させるだけの「主体性」(あの頃の流行語であるなあ)の没落した運動に失望していた。なぜ日本で運動は「宴」ではなかったのか。なぜ高度成長期のモーレツサラリーマンのようにがむしゃらな組織(セクト)のディスクールを盲信して突き進むしかなかったのだろうか。
 IS(アンテルナシオナル・シチュアショニスト)はセクトではなかった。なぜなら上層部の指示などないからである。自分の置かれたその場の局面状況を自分でなんとかしなければならない。極端に言えば、シチュでは政治的異議申し立てをすることと酒飲んで暴れることの間に違いなどないのである。シチュアシオンを作るのは自分でしかない。トロツキストやマイオスト等が集団的・集合的な闘争と創造を訴える時、シチュは自分ひとりでやれと突っぱねる。
 そしてまさにこのことがシチュアショニスムの孤独であり、結果として党派として存続しえなかった原因である。ドボールはILの時期から少数精鋭主義の組織構成を貫いており、ドボール思想に心酔したからと言って誰もがクラブ会員になれるというものではなかった。ドボールの先駆と言えるシュールレアリスム運動の頭目アンドレ・ブルトンがそうだったように、ほんの些細なことで組織構成員の多くをバサバサと除名していった。右腕と言われた者も、真のブレインと言われた者も破門されていった。ドボールは暴君であった。
 1968年から69年、ISはやっとアンダーグラウンドから脱し、ドボールの著書『スペクタクルの社会』 と共に一般的な評価を得るところとなったが、ドボールはその評価が高まることを忌み嫌うように沈黙してしまう。なにか事件や現象があるたびに、メディアはISがそれに対してどうコメントするかを待つようになったのである。ドボールはこのメディア(すなわち資本側、体制側)によるシチュの「取り込み利用」(仏語のレキュペラシオン récupération。回収、抱き込み)を警戒するが、時すでに遅し、今やドボールとシチュはまさに自分が予見したスペクタクルのスターシステムの中に取り込まれてしまっている、と悟り屈辱的なショックを受ける。シチュだけではない。「68年5月」という事件そのものもブランド化し、見世物化し、体制側に大幅に取り込み利用されてしまっている。もはやシチュアショニスムはISというブランド化した運動媒体で続けることはできない。1972年、ISは解散し、その後、ドボールはあらゆるレキュペラシオンを回避するように、オーヴァーグラウンドに再浮上することなく長い潜行時代に入る。

 今日私たちは「前衛芸術家」が笑ってテレビに出る時代に生きていて、年端もいかぬ日本の少女たちがヴィトンやエルメスを狂ったように買い求める光景を見ている。ドボールが見破った商品=スペクタクルの社会は、とどまることなく拡張し、その包囲をますます堅固にしている。1999年11月のシアトルの世界貿易機構(WTO)会議は、言わば「スペクタクルの社会」のグローバリゼーション化を目的とした会議であった。前書きで述べたように、ドボールが今、社会現象的に再評価されているのは、どういうことなのか。私はブールセイエのこの評伝を読んで、(何度か読みかけては途中で断念してきた)ドボール著『スペクタクルの社会』を読み直そうとしたが、やはり断念した。スペクタクルの社会のことはもうアップアップするほどよく知っている、という拒否反応のようなものだ。もはや「これは一般教養だから」という風に書店に並べられている本なのだから。
 ドボールの言う、苛烈で密度の濃厚な生の瞬間と状況を創造・実現することは、そのまま酒を飲んで暴れることとして翻訳されることは断じてない。私が3年に一度ほどの割でやってしまう正体なくなるまでの酒乱痴態はシチュアショニスムとは何の関係もない。焼酎アショニスムとでも呼ぶべきものである。

Christophe Bourseiller "Vie et mort de Guy Debord"
Plon刊 1999年10月 453頁

(↓)2013年 BNF国立フランソワ・ミッテラン図書館でのギイ・ドボール回顧展のティーザー動画。

2016年8月4日木曜日

テニスでは"40"が瀬戸際


この記事はウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996-2007)上で2002年2月に掲載されたものの加筆修正再録です。

Tonino Benacquista "Quelqu'un d'autre"
トニノ・ベナクイスタ『だれか他の人間』
(2002年1月刊)

 多くの男たちにとって40歳というのは魔の年齢である。論語では「四十不惑」(四十歳にして惑わず)と言うが、反語的にこれほど惑う年齢はないからこそ、惑うなと戒めているのかもしれない。人生のちょうど真ん中にさしかかって、半生を振り返って、これでいいのだと自己に肯定的になれる人の数は、こんなものでよかったのだろうかと懐疑的になったり、こんなもんじゃなかったはずだと後悔と否定的な怒りを自分にぶつける人よりずっと少ないはずである。そしてある男たちは病気になる。大厄(男の数え年の42歳)とはよく言ったもので、それまで若いと思って無理を強いてきた自分の肉体がある日言うことを聞かなくなる。変調がやってくる。こんなはずじゃなかったと思う男はとたんに焦り始める。
 半生に激しい悔恨を持つ男は、ある日自分の過去をことごとく抹消して別の人間として再生することを夢想する。誰か他の人間に成り代わってしまうことである。子供の頃に「大きくなったら何になりたいか」と聞かれて答えたことが実現する人間は少ない。そしてそれは大人になってからでは実現が絶対不可能と考えがちである。だが、現実を知り、経験を積んだ四十男こそ、最も具体的にその可能性が得られる年代ではないか。軌道修正あるいは軌道を全く変えてしまうにはこの時期しかない。あるきっかけが巡ってくれば、男はその最後のチャンスに賭けられるかもしれない。
 この小説の主人公の二人の男のきっかけはテニスであった。パリのテニスクラブで、もう何ヶ月もラケットに触っていないティエリー・ブランが、テニス再開の意を決してクラブ登録して、偶然にクラブからあてがわれたパートナーは、そのクラブに登録してからかれこれ2ヶ月経つがパートナーに恵まれないと嘆いていたニコラ・グレジンスキー。初対面の二人は軽く練習ウォームアップをした後、試合をしてみようということになる。試合は立ち見のギャラリーができるほどの大熱戦となり、二人はそれぞれ自分の持つ水準以上のプレイをしていることに自ら驚きながら、本気むき出しの真剣勝負は、第3セット、タイブレークの末ティエリー・ブランが勝利する。初顔合わせの好敵手二人はその後バーに席を移し、熱いテニス談義を交わすのだが、二人の飲む酒は零度に冷やしたヴォトカ。ティエリー・ブランが何気なしに頼んだこの強い酒は、アルコールがほとんど飲めなかったニコラ・グレジンスキーを後にアルコール漬けにするきっかけとなってしまう。彼らの共通のテニスアイドルはビヨルン・ボルグ。冷徹で完全主義的なプレイヤーである。その一番のライバルであったジミー・コナーズは、それとは対照的な力まかせ&インスピレーション型のテニスで、観客を沸かせることではボルグの数倍の人気があったし、人々は勝つボルグに冷淡で、負けるコナーズに絶大な拍手を送った。
ー コナーズは安定性を欠いた、カオスのエネルギーだった。
ー ボルグは完璧さであり、コナーズは霊感であった。
ー 完璧さは往々にして霊感を欠くものである。 
そしてボルグはある日コナーズになってみたいと思ったであろうし、コナーズもまた逆のことを考えたであろう。自分と全く違う他人になること。二人は酒を重ねていくうちに、今日現在の自分がしたいことは何かをあっさりと確認してしまう。それは自分と全く違う他人になることである。二人はこの夜、自分には到底できるはずのなかった好試合をしたこと、自分と似た新しい友を見つけたこと、酩酊するまで飲んだことによって自信が漲り、こんな約束をする。3年後の今月今夜、この場所でもう一度会おう、その時は二人とも全く違う他人になっていよう、と。

 小説は二人の変身の過程をパラレルに描いていくが、その道筋はそれぞれ全く違う。ティエリー・ブランは能動的にアクティヴに具体的に自分が全く違う人格を獲得していく方法を練り上げ、それを実行に移していく。額縁職人としてアトリエと店を持ち、いささか冷めた関係になっている同居女性がいて、風采のあがらないブランは、周到な準備のうちに全貯金を別の場所に移し、アトリエを別の職人に譲渡して蒸発してしまう。ブランは額縁職人という職を捨て、私立探偵事務所で見習い修行をし、1年後に一人前の探偵として独立する。そして顔面専門の整形外科医に巨額の手術代金を払って、全く別の顔を持つ男になり、同時に探偵見習いで見つけたヤミの身分証明作成ルートを使って、「ポール・ヴェルメイレン」という全く新しくしかも合法的なアイデンティティーを獲得してしまう。かくしてティエリー・ブランとは全く姿かたちの違う、ポール・ヴェルメイレンという男がパリから遠く離れたところで、私立探偵事務所を開設することになるのである。
 一方ニコラ・グレジンスキーは巨大企業グループの広告部門に勤める目立たない社員であった。それがこのティエリー・ブランとの出会いの翌日から別人のようになってしまう。原因はその前夜に覚えたアルコールのせいで、それまで彼が外面に出したことがなかった雄弁で大胆な話術が口をついて出てしまうようになる。その日上司は不在であったが、クライアントの激烈なクレームに、グレジンスキーは「責任者に代わって補佐の私がお応えします」と電話を取り、そのさわやかなる弁舌でクライアントを説得・論破してしてしまう。上司はこの不手際の責任をグレジンスキーに取らせることで自分の首をつなぐつもりでいたが、事態は逆に進行し、クライアントはニコラの鮮やかな説得を信頼してしまっており、重役会議の末、ニコラを部門チーフに抜擢、その上司は解雇ということになってしまった。出世とアルコールの日々。彼のセクションはどんどん業績を上げていくが、チーフは型破りで模範的とは言い難いアル中の中間管理職である。
 ある日グレジンスキーは缶入りハイネケン・ビールと缶入りコカコーラ・ライトをオフィスに持ち込み、後者の中身を捨て、そのアルミ缶の上蓋部と底部をハサミで切り離し、残った円筒部をタテせんで切り、ハイネケン缶にかぶせた。そうするとハイネケン缶は外面上はコカコーラ・ライト缶となる。オフィスでアルコールを飲むことを見られまいとすることから出た知恵だが、このアイディアをグレジンスキーは「トリックパック」と名付けて、特許局に実用新案として登録してしまう。これが何ヶ月も待たずして、外国の包装会社が次々と権利を買い取り、缶入り飲料の商品名隠しだけでなく、自分の飲み物を個性的に見せる新しいパッケージとして大ヒットしてしまう。飲料名のパロディーや有名キャラクターを使用したもの、さらにアーチストによるオリジナル作品など、「トリックパック」はどんどん新手のものを作っていく。おかげでニコラ・グレジンスキーはこの巨大企業グループの中間管理職として得る収入の数倍の金額が毎月転がり込んでくることになる。
 ポール・ヴェルメイレンとして新しい人生を送っていた男はある日新聞のお悔やみ広告欄に「1年前に姿を消したティエリー・ブランを偲ぶ友の会開催のお知らせ」を見つけて愕然とする。ティエリー・ブランは遂に死んだのである。しかしそのティエリー・ブランを偲ぶ友人たちがいたとは彼自身知りもしなかった。大いに好奇心をそそられ、それに乗じて彼は「友の会」の日にその会場まで出向いてしまうのである。私立探偵ヴェルメイレンは、かつてティエリー・ブランがそのクライアントの一人であったという口実でこの会に紛れ込み、かつての恋人や知り合いたちが事実に忠実だったり忠実でなかったりする死者(つまり自分)の思い出話をするのを聞いている。しかし、この会の中で一人だけティエリー・ブランは死んでいないと確信している人間がいる。額縁アトリエの雇われ女性会計士で、この会を主催した人物であり、彼女はティエリー・ブランに気付かれぬまま長い年月彼を恋慕していたのである。彼女はたとえ警察の捜索が打ち切られてもブランの生存を信じており、その思念の強さのあまり初対面の私立探偵ヴェルメイレンにブランの捜索調査を依頼してしまう。
 巨大企業で誰の目もはばかることなくアルコールに浸りながら業績を上げていく男グレジンスキーは、地位を得、金を得、そして恋も得てしまう。美しくインテリで酒に造詣の深い女性ロレーヌとは常にホテルで会ってホテルで別れる関係(因みにそのホテルはパリ15区の「ニッコー」)である。彼女はその日中の生活については秘密を守っている。二人は深く愛し合い、おたがいを理想のパートナーと思っているが、その関係を崩すのは、木下順二「夕鶴」 の例に同じ、見てはいけないと言っておいたものを見てしまう男の深い業である。グレジンスキーはある日会社を抜け出して、嫌がるロレーヌを昼に呼び出して、その上その後彼女を尾行し、彼女が食品スーパーのレジ係として働いていることを見てしまう。彼女はそれだけは見られたくなかった。ロレーヌは昼はそうして働き、夕方はワイン学の講座で学び、来るべき自分の世界のどこにもないワインショップの開店を準備していたのだ。つまり彼女もティエリー・ブラン、ニコラ・グレジンスキーと同じく、全く別の人間になることを自分に賭けていたのだ。これを見られたロレーヌはニコラを許さない。
 蒸発した過去の自分自身を捜索する私立探偵、この部分はこの小説で最も面白いハイライトの部分であり、ここで多くを説明することは避けるが、名探偵ヴェルメイレンは別のティエリー・ブランを新たに創作し、その実像は依頼主の女会計士が恋い焦がれていたティエリートは似ても似つかぬ男であった、という迷案によってかろうじて逃げ切るのである。これはハラハラものであるが、恋は盲目、女会計士はまんまと説得させられ、このティエリー・ブランもいなかったことにしましょう、という結論で手を打つ。これでヴェルメイレンは二度ティエリー・ブランを殺したことになる。

 この小説の構図はプロローグでのボルグ対コナーズの対比からはっきりしていて、ティエリー・ブラン/ポール・ヴェルメイレンは用意周到完璧主義のボルグのタイプで、ニコラ・グレジンスキーは霊感型で破滅型でもあるコナーズタイプの人間なのだ。グレジンスキーには、企業を放逐され、ロレーヌに捨てられ、かつての上司から銃撃されるというカタストロフが最後にやってくるが、負けてもコナーズは大喝采されるように、作者ベナクイスタはグレジンスキーにハッピーエンドを用意している。
 3年後の約束の日、姿かたちが変わって中身が変わらない完璧主義のブラン/ヴェルメイレンと、姿かたちは変わらないが中身が大変身を遂げた霊感型のグレジンスキーが再会する。素晴らしいエンディング。
 四十男の変身願望を二つの全く異なる対照的な人物像を使って、どちらも成功させてしまうパラレルな小説。テニス論、企業ストーリー、変身蒸発、発明サクセス、探偵ミステリー、アルコール讃歌、ラヴロマンス...、盛り沢山の270ページ。なによりも、人生半ばにさしかかった人たちには応援歌のように受け取れる小説ではないだろうか。

Tonino Benacquista "QUELQU'UN D'AUTRE"
Gallimard刊 2002年1月  270頁  

(↓)ボルグ vs コナーズ (1976 US Open決勝)