2014年6月10日火曜日

アメリー・アメロー

アメリー・レ・クレヨン『メリ・メロ』
Amélie-Les-Crayons "Méli-Mélo"

  2002年から珠玉のスタジオアルバム4枚、ファンタジーあふれるライヴDVD2枚、もうアメリー・レ・クレヨンの魅力は知り尽くされているでしょうが、前作『海にいたるまで』のツアーのあと、息抜きにベスト盤を作ろうか、という話があったそうです。デビュー10年を超えたのですから、ベスト盤というのはごく自然な(ショービジネス的な)なりゆきです。ところが、アメリーさんはそれを嫌がって、やるんだったらアルバム既収録のヴァージョンは外して、未発表&レアだけでということにしたのです。アメリーの代表的な楽曲を未発表ライヴと、別テイク、ラジオセッション、別アレンジの再録などで集めた15トラックに加えて、私のインタヴューの時も若い日のアイドルだったと言っていたブールヴィル(アメリーの芸名の元「レ・クレヨン」の歌手)の「アイルランドのバラード」のカヴァー(実はこのトラックが私は一番好きです)、敬愛する童話シャンソン(ファビュレット)の大御所アンヌ・シルヴェストルとのデュエット「疑う人々(Les Gens Qui Doutent)」(シルヴェストル作)、そしてアメリーの同時代人の軽妙シンガー・ソングライター、アルドベールとのデュエット「いま何時?(Quelle heure est-il ?)」、さらにリミックス1トラック、インストルメンタル1トラックの合計20トラックのCDアルバム。シンプルなディジパック装(アメリーにしては凝らない装釘など初めて!)の作りで、黒い「目出し目隠し」(こんな日本語ないですね)のアメリーさんのいたずらっぽさが光る素敵なフロントカヴァーです。
 「メリ・メロ」とはフランス語の話語表現で、スタンダード仏和辞典では「ごたまぜ、ごった返し」という訳語が載っています。たしかにゴチャゴチャで、泉のように溢れ出る想像力であれもこれものアイディアをこなしてしまうアメリーさんの本領がよく出ています。でも基本的にステージの人。あのステージでの八面六臂のハチャメチャもさることながら、しっとりとポエジーを体現してしまうアメリーさんの表現は、絶対にライヴにまさるものはありません。
 不思議な力を持った少女の声、語るストーリーがふわふわしていたり、夏の雨上がりのように涼やかだったり。しあわせに近いですよ。

<<< トラックリスト >>>
1. LA MAIGRELETTE & LE GROS COSTAUD (LIVE)
2. LES PISSOTIERES (LIVE)
3. MON DOCTEUR (REVISITE)
4. TA PETITE FLAMME (REVISITE)
5. LA BALLADE IRLANDAISE (BOURVIL COVER)
6. TOUT DE NOUS (LIVE)
7. CHAMELET (REVISITE)
8. CANNIBALE (REVISITE)
9. PORTES !
10. LA GARDE ROSE D'ELIZABETH (LIVE)
11. LES GENS QUI DOUTE (ANNE SYLVESTRE) (avec ANNE SYLVESTRE)
12. LE P'TIT CAILLOU (REVISITE)
13. LE LINGE DE NOS MERES (REVISITE)
14. LES FILLES DES FORGES (LIVE)
15. LE DANSEUR DE LUNE (REVISITE)
16. QUELLE HEURE EST-IL (ALDEBERT) (avec ALDEBERT)
17. LES JOURS DE NEIGE EN VILLE (LIVE)
18. LES COUSSINS ?
19. TA P'TITE FLAMME (REMIX)
20. TA P'TITE FLAMME (INSTRUMENTAL)

AMELIE LES CRAYONS "MELI MELO"
NEOMME CD OP19AC3250
フランスでのリリース:2014年6月23日

(↓)"MELI MELO" MIXTAPE


2014年6月9日月曜日

空港とホテルとスズメ

『バード・ピープル』

2013年フランス映画

"Bird People"
監督:パスカル・フェラン
主演:アナイス・ドムースティエ、ジョシュ・チャールズ
2014年カンヌ映画祭「ある視線」出品作
フランス公開:2014年6月4日

 イリー・ニューマンというのがジョシュ・チャールズ演じるアメリカ人ITエンジニアの名前です。綴りこそ"Newman"となっていますけど、私のような20世紀人にはゲイリー・ニューマンと言えば、当然この人です。


 人間がアンドロイド化していく近未来を80年代的に退廃的に表現したのがこの音楽アーチスト、ゲイリー・ニューマンだとすると、この映画のゲイリー・ニューマンは人間のままでロボットのような極度のタスクをこなし、ある日それがキレてしまうのです。
 時はある年の12月、場所はパリ(+パリの空港であるロワッシー)。多国籍間の大企業間の契約のカギを握るタスク修正が、このゲイリーの肩にかかっていて、パリでの折衝会議のツメのために、ゲイリーは翌日ドバイの現場に飛んで、その問題を12月31日までに解決する任務を負わされていました。ドバイへのフライトは翌朝8時。そのためにゲイリーはその夜の宿泊をCDG空港のホテルに変えて、翌朝のために万全を整えます。
 その夜ゲイリーはエアポート・ホテルの部屋で、深夜に目が覚め、眠れないのです。眠れないどころか、この日までのストレス、不安、圧迫感、強迫観念などが一挙に爆発して(今日的日本語では「キレて」) 、もうすべてを放棄して、「いち抜〜けたっ!」を決め込むことにしたのです。ドバイに行かない。ビジネスを放棄する。妻と子供たちを見捨てる。もうこんな生活には二度と還らない。
 映画はビジネス上のパニックを描き、次いで、長〜いシークエンスの妻エリザベスとのスカイプ対話のシーンがあります。ゲイリーの心は変わりません。もうこの世界がどうなろうが、俺の決心は変わらない。それは「俺は自由を選んだ」という能動的なものではなく、「俺はもうこれ以上この生活を続けられない」というギリギリの叫びなのです。
 一方、そのエアポート・ホテルでルーム係としてパートで働く女子学生オードレイ(演アナイス・ドムースティエ)がいます。彼女は2014年的な、経営者側に言われるままの条件の労働を強いられ、いつかは「キレる」だろうことを知っています。そして仲間の多くは「キレ」そうな人間ばかりなのです。ホームレスで車の中に寝泊まりしながらホテルで夜番のレセプション係を務めるシモン(ロシュディー・ゼム)、何度誘っても動かないオードレイをなんとかして外に連れ出そうとする女友だちレイラ(歌手のカメリア=ジョルダナ、好演です)...。そしてこの条件で自分を殺すのはもう絶対に出来っこない、と思った時、オードレイには奇跡が起こり、エアポートホテルの屋上で、オードレイはスズメに変身してしまうのです...。
 この映画を評する新聞&雑誌の記事は、このスズメ変身を記述していません。これは映画の核心のネタバレだからです。しかしスズメに変身したオードレイの自由と歓喜は、この映画の詩的表現の魔法のすべてなのです。この映画を観る人でこの魔法に酔わない者がありましょうか。カメラアイは私たちを鳥にしてくれるし、私たちはオードレイのスズメ変身中、間違いなく鳥の仲間なのです。そして実際にスズメの仲間になってしまう人間まで現れるのです。エアポート・ホテルに「引き蘢って」筆ペン画を描いている日本人画家アキラ(演タクリット・ヴォンダラ)がそうです。そのアキラが人間の娘に戻ったオードレイをこちら側の世界に再び迎えてくれるのです。
 映画は絶望から違う世界に出ようとした人間たちの出会いで終ります。ゲイリーは鳥から人間に戻ったオードレイと出会い、オードレイは自分たちは"pareil"(似通っている)と思うのです。オードレイ、シモン、レイラ、アキラ、そしてゲイリーはみんな鳥になりたがっている同類である、と。タイトルの『バード・ピープル』 はここで了解されるのです。
 詩的でわかりやすく、極端な21世紀的な状況に生きる人たちに、勇気を与えてくれる映画です。飛ぶことを恐れてはいけません。
 スズメに変身したオードレイが空港滑走路に沿って飛び、そこから急上昇する時に、デヴィッド・ボウイーの「スペース・オディティー」が流れます。なんてわかりやすい。20世紀人はここで泣いてしまうかもしれません。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『バード・ピープル』 予告編



(↓)筆ペン画家アキラとスズメ(オードレイ)の出会い。

2014年5月23日金曜日

われわれはエミール・ゾラの時代に生きている

『二日とひと夜』
2013年ベルギー映画
"Deux jours, une nuit"
(日本上映題『サンドラの週末』)

監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ
主演:マリオン・コティヤール、ファブリツィオ・ロンジオーヌ
2014年カンヌ映画祭正式出品作(コンペティション)
フランス公開:2014年5月21日

 カンヌ映画祭で既に2度のパルム・ドール賞を獲得しているベルギーの社会派映画監督ダルデンヌ兄弟が、マリオン・コティアールという(悪口で言うと)ハリウッド主演クラスのセレブな(つまり社会派映画などとは縁のなさそうな)フランス女優と組んだ作品です。
 舞台はワロニー(ベルギー南部フランス語圏)の地方部です。サンドラ(マリオン・コティヤール)は夫マニュ(ファブリツィオ・ロンジオーヌ)と子供2人で4人暮らし。夫はレストランで働いていて、妻サンドラは太陽光発電パネルを作る中小企業の工場で働いていました。再生エネルギーの成長株だったこの分野も、欧州では数年前から中国産の安価なパネルに押されて、状況は非常に厳しくなっています。サンドラはその職場を病気(たぶん神経症)で長い間休職していましたが、完治(したことになっていますが、服用する安定剤の量がすごい)と共に復職する段になって、経営側はサンドラの所属した作業班(サンドラを入れて17人いた)の「自主的決定」としてサンドラを解雇しようとします。それはその班が17人分の仕事を16人で回してくれたら、その16人にはひとり1000ユーロの一時金を支給するというもの。
 これが労働各法において合法的なものかどうかは私は知りませんし、映画も問いません。これが危機の時代の労使関係の現実でしょう。私たちは20世紀的な発想で、そんな時は労働組合や労使調停委員会が労働者を守ってくれると思いたいのですが、これまで世界的水準からすれば恵まれていたと思われていた西欧の労働事情の今日は、まったくそれどころではなくなってしまった。どんなことがあっても「職を失わないこと」が第一目的になってしまう。職を失ったら、次はない。これがこの映画のリアリティーです。だから、この映画に出て来る労働者たちはもちろん未組織で、ひとりひとりこのことに関して多くを語りたくないのです。
 サンドラの復職をとるか、千ユーロのボーナスをとるか ー 問われた作業班の16人はどう答えられますか? さらにそこに、作業責任者のジャン=マルク(オリヴィエ・グルメ)がいて、工員ひとりひとりに圧力(恫喝)をかけ、サンドラ解雇は動かしようが無い状態です。
 映画はここから始まるのです。作業班の票決でサンドラ解雇が決まったものの、作業仲間のジュリエット(カトリーヌ・サレ。画面には多く登場しませんが、最も多く電話登場し、サンドラ復職のために奔走する人)が、経営者に異議申し立てをし、票決は作業責任者立ち会いで行われたため、その圧力が顕著であり、公正ではない、と再票決を願い出たところ、受け入れられ、翌週月曜日にそれが行われることになります。これが金曜日夕刻。
 初めから勝てる見込みのない闘い。予め挫かれてしまっているサンドラに、夫マニュは献身的に後押しをし、絶対に諦めてはいけない、と、残る2日間(土曜日と日曜日)に16人(ジュリエットを除くので実際は15人になりますが) ひとりひとりを説得して歩くプランを立てます。2日間で(ジュリエットを除いて)8人のサンドラ復職の賛意を取り付けること。戦う映画の始まりです。
 そこに現れるのは男女を問わず、みんなキツキツで生きている人たちなのです。馬の鼻の先のニンジンのように、千ユーロという大金をつきつけられ、それで「一息」がつける人たちばかりです。だから、サンドラが訪問しても、戸口に顔も出さず、門前払いや居留守をつかう人たちもいます。これをサンドラは理解してあげなければなりません。
 問題は初めからすりかえられています。病気で休職するということが解雇の理由になるわけがありません。サンドラは解雇される理由がない。ところが経営側は、従業員たちのつながりを分断させ、彼らの意志としてサンドラを辞めさせる方向に持っていこうとする。経営者は手を汚さない。観る者はまるで19世紀のエミール・ゾラの小説の中にいるような、理不尽がまかり通る世界を体験します。まるで20世紀に労働者たちが獲得したことなど、すべてご破算になってしまったかのような。
 しかし、奇跡は少しずつ起こっていくのです。「人間の尊厳 」のレベルでのせめぎ合いのようです。ひとり、またひとりと、サンドラの側につく者が現れます。サンドラは絶望と希望の浮き沈みに大揺れになりながら、その安定剤の投与量を増していきます。しかしサンドラが堪えられないのは、その目の前でその千ユーロをめぐって家族の激しい諍いが起こったり、夫婦が決裂したり、兄弟が流血の喧嘩をしてしまうことなのです。自分のことが原因で巻き起こってしまうもめ事やドラマに、サンドラは罪の意識に苛まれます。そして大量の薬物を飲み込み、自殺を図ることさえしてしまうのです。
 そのドラマのひとつに、家を購入したばかりの若いカップルがあり、サンドラの仕事同僚の女が、夫にいくら相談しても千ユーロを守れの一点ばりで、彼女は激しい口論の末、夫を捨てて家を飛び出してしまうのです。夫と別れる決心をした、と彼女はサンドラの家を訪れて言います。そして晴れやかな顔で「私は初めて自分の行き方を決めた」と言うのです。なんという救済! そして車の中でサンドラとマニュと彼女は、カーステから流れてくるゼム「グローリア」を大声で唱和 するのです。なんと美しいシーン。涙、涙。
 2日とひと夜、サンドラは歩き回り、走り回り、そのサンドラ票はあとひとりで過半数というところまでこぎつけます。どうしても会えなかった者もいるので、あとは翌日月曜の実際の投票に天命をかけるしかない...。

 結末は書きませんよ。
 小さな地方都市の中小企業の職のポストひとつが、人間性のギリギリのところまですり減らして傷ついて、多くの人たちを傷つけて...。日々感じていることかもしれませんが、私たちの生きている資本主義社会はここまで非人間的になっているのですよ。
 結末は書きませんけど、サンドラがロッカーから自分の私物を取り出して、工場を後に歩き始めた時に、電話で夫のマニュに笑顔でこう言います:
On s'est bien battu
私たちはよく戦った
それは後悔のない戦いだったのです。拍手。

カストール爺の採点:★★★★☆

↓"DEUX JOURS, UNE NUIT" 予告篇


 
 

2014年5月21日水曜日

生まれてきてすみませんと言う男

ミラン・クンデラ『くだらなさの宴』
Milan Kundera "La fête de l'insignifiance"

 説としての前作が2003年の『無知(L'ignorance)』ですから、11年ぶりの新作です。その間文芸評論書は書いてましたが、フランスではプレイヤード版の「全作品集」2巻が出てしまったので、多くの人はクンデラはもう小説を書かないだろうと思っていたようです(テレラマ誌 2014年4月2日号)。で、前触れもなしの85歳での小説復帰で、ファンは湧いちゃいましたし、テレラマ、レクスプレス、ル・モンドその他各誌が、この高度に軽妙な小説の復活を大歓迎しましたから、日本の読者も長く待つことなく和訳で読める日が近いと思いますよ。
 まず、ずばり題名であり、キーワードである "insignifiance"(アンシニフィアンス)という言葉です。手元のスタンダード仏和辞典では
(人・物の)つまらなさ、下らなさ;(金額などの)取るに足らなさ
という訳語が出ています。これは人物ならば、月並み平凡であったり、空気のように透明であったり、というよりも、どうしてこの場に居合わせているのかわからない、意味がないネガティヴさを背負っちゃっているのです。くだらなさで衆人の目に止まってしまう、そんな人たちなのです。この小説ではこのくだらなさというものが、実はたいへんなものなのだという例を披露していきます。
 主要の登場人物は4人の男友だち(アラン、ラモン、シャルル、カリバン)であり、小説には人物として登場しないもののその4人に共通の "notre maître"(われらが師)というのがいて(それはとりもなおさず作者のミラン・クンデラなのですが)、その師がシャルルに『ニキタ・フルシチョフ自伝』を贈ります。その中でフルシチョフが伝えるスターリンがソヴィエト最高幹部たちに語った小咄という段があり、シャルルはいたく気に入って、これを戯曲化してマリオネット劇として上演したい、などと夢想したりします。
 ここで説明の必要はないと思いますが、スターリンはあのスターリンで、20世紀の歴史において、ある時を境に、社会主義建設の英雄的指導者から、弾圧と血の粛清に明け暮れた独裁暴君というふうに評価が変わってしまった人物です。フルシチョフは史上初めてスターリン批判をしたソ連指導者で、大きな目で見ればそれから長い時間をかけての東側陣営の崩壊の始まりの始まりだった人です。スターリンは終日かけての最高幹部たちの会議の緊張から解けて、その最後に一席自分の私生活の出来事を話すのでした。ところが同席した幹部たちは相手が鬼より怖いスターリンであるから、緊張を解くわけにはいかず厳かにそのお話を頂戴するのでした。冬のある日、スターリンは狩猟に出かけた。古いパーカで身を包み、猟銃を背負い、スキーで13キロを走破した頃、目の前の一本の木に24羽のヤマウズラが停まっていた。しかしその時スターリンは12発の薬莢しか持っていなかった。しかたなく彼はその12発で12羽のヤマウズラを見事射落とした。そして彼は13キロの道のりを引き返して家に戻り、再び12発の薬莢を取り、元の道を13キロ走破して、ヤマウズラの木のところまでやってきた。すると12羽のヤマウズラはまだ停まったままで、スターリンはその12羽を見事射落とし、遂に全部のヤマウズラを獲ることができた。という話。
 スターリンの話が終った時、同席幹部たちは誰ひとりとして喝采も笑いもしなかったのです。誰もが真っ赤なウソの作り話と知りながら! しかしひとりだけフルシチョフは勇気を持って「ヤマウズラは一羽もその枝から逃げなかったと言うのですか?」と聞いたのです。するとスターリンは答えて「いかにも。すべて枝の同じ場所に停まったままだったのだよ」と。
 会合が終わりソヴィエト最高幹部たちはクレムリンの幹部専用トイレの間(幹部の名前が”あさがお”の上に彫られている)に行き、スターリンがいないことをいいことに、自分の”あさがお”に放尿しながら大声でスターリンのホラ話に轟々の非難をするのです。ところがその壁の外ではスターリンがその幹部たちの声高の悪口をこっそり聞いています。
 その幹部たちの中でひとり目立たない男がいて、その名はミハイル・カリーニン(1875-1946)。ソ連の国家元首に相当する最高幹部会議長だった人です。日本語版ウィキペディアには「大粛清において、スターリンは当時まで生存していた革命時代の元勲を自身の脅威と見なし、そのほとんどを追放、処刑していた。しかし、カリーニンはソ連成立初期から実権の無い国家元首という名誉職にあり、権力闘争から遠ざかっていたため粛清対象とはならず、その命と地位を保った。」と記述されています。クンデラのこの小説では、なぜスターリンがこの男だけを容認したのか、という理由をその男の「つまらなさ(アンシニフィアンス)」によるものと展開するのです。
 1945年対ドイツの戦争に勝利し、東プロセイン北部を占領・併合したソ連はその主邑ケーニヒスベルク(王の山という意味)を、スターリンはミハイル・カリーニンに因みカリーニングラード(カリーニンの町)と改名しますが、その当時から21世紀の今日まで数々のロシア革命英雄の名前を冠された通りや町や地方(レニングラード、スターリングラード...)がその名を失っているのに、カリーニングラードはソ連崩壊後も改名されずにそのままなのです。あたかも誰もカリーニンの名前を知らないかのような無視のされ方ですが、そこは批判哲学の祖イマヌエル・カント(1724-1804) が生涯を過ごした町として世界的に有名であり、カリーニングラードはこれからも「カントの町」として世人の記憶に残るはずなのです。つまり、スターリンはカリーニンという目立たず取るに足らない人物を、「カントの町の名の人」というレベルまで押し上げてしまったのです。
 小説に登場するカリーニンは老いて前立腺を患い、頻尿症でトイレにしょっちゅう立つ男です。しかし最高幹部会議では長引けば、スターリンの手前、極限まで我慢するしかなく、場合によっては着座のままズボンの前を濡らしてしまうこともあります。スターリンはそういうカリーニンに慈しみさえ感じていたのではないか、小説の登場人物たちは言うのです。

 小説序盤に、4人の男友だちのひとりラモンと、ダルデロと名乗る金持ちの男が、パリのリュクサンブール公園で出会い、ダルデロが自分の誕生日に自宅で開くカクテルパーティーの取り仕切り一切をラモンを通してシャルルに依頼します。ラモンはダルデロの気取りや口のうまさなどから、あまり好感を持っていなかったのですが、この日ダルデロに自分がガンを発病したことを告白され、急に見方が変わってしまいます。ところがダルデロがガンであるというのはデマカセなのです。こういう「小人物的」なやりとりがとても効果的です。ダルデロはよせばいいのにそういうウソが口から出たのに、相手がそれまでにない親愛を見せたものだから、そのウソの効果に酔ってしまって、あとに引けなくなってしまいます。
 妻帯者ながらダルデロ同様「女性との出会い」が好きなラモンは、インテリゆえにこうすればこうなるということを知っているようなのに、誰かに出し抜かれたり、そっぽを向かれてしまう。気の利いた話術の名人であるダルデロは、その高尚さゆえに、意中の女をくだらない話をする男にまんまと取られてしまう。この二人は最終的に良く似ています。
 シャルルはホームパーティー屋のような仕事をしているのですが、そのパートナーがカリバンで、本職は俳優だったのに、まったく仕事がなく、しかたなくシャルルのために白装束でバーマンや給仕で手伝っています。カリバンはその仕事の時は、自分を全く目立たなくさせるために(逆にそれが目立つのですが)、フランス語を一言も話せず、理解もできないふりをして、誰にも理解不可能な偽パキスタン語をぼそぼそ話すのです。だからこの男には何を話しても無駄だというバリアーを作ってしまうわけですね。実は大変な俳優的パフォーマンスなのですが、件のダルデロのパーティーでは、その家のポルトガル人女性使用人に、そのバリアーゆえに不思議な恋慕の情を抱かせてしまう、ということになるのです。つまらない、取るに足らない男になるのは、実は大変難しいことでもあるのです。
 そしてアランはこの中で最もメランコリックな人物で、例えば人とぶつかった時にたとえ向こうが悪くても先に「すみません」と謝るタイプ。これをクンデラは"excusard"(エクスキュザール。謝り男)なる新語を作ってアランを形容するのですが、 何を置いても先に謝ってしまう、悪いのは自分だと思い込んでいる人間なのです。それは彼を幼少の時に捨てて、今は生きているのかどうかもわからない母親との関係に由来しています。彼女を妊娠させて捨て去った男がいたからです。母親はおまえは生まれて来るべきではなかったと言っていました。だから生まれてきてすみません、と太宰治のようなことを言う男になったのです。
 小説の後半で、この女がアランを妊娠中に自殺未遂をしたというエピソードがあります。 衣服をつけたまま海に飛び込み、そのまま溺れ死ぬつもりで潜水していくのですが、潜水できるほど泳ぎのうまい女だったのです。しかし、そこに目撃者がいたのです。その男は「やめなさい!やめなさい!」と繰り返しながら、自らも海に飛び込み、女を救おうとします。潜水途中に女は男に止められ、海面に浮上させられます。自殺を邪魔された女は逆上して、男をつかんで自分の体の下に沈み込ませ、数分の後にその男を溺死させてしまうのです。それほど泳ぎのうまい女だったのです。彼女は自殺する気を失ってしまい、溺死した男を放って地上に戻り、生きてアランを生んだのです。アランが死ぬかわりに、救助男が死んだかのように。アランは生まれる前に殺人を冒していたかのように。
 こんなすごい小話だけではなくて、150ページ足らず(しかもポイントの大きな活字)の短い小説の中に、いろいろ密度の濃い話がいっぱい詰まっていて、細部のわかるわからないは別として(例えば、スターリンによるカント論およびショーペンハウアー論など)、読む者の知的刺激の振幅計は大きく揺れるはずです。例えば、人類最初の人間(この場合エヴァ)にはヘソがない、という説。母胎から生まれたんじゃないから。へえ?そう?って言いたくなるような話でしょ。
 かくして、ダルデロの誕生日のカクテルパーティーと称して、この「くだらなさの宴」は展開されるのですが、天井から落ちて来る(なかなか落ちてこない)羽毛にみんなが見とれてしまうような、見事な「くだらなさ」は感動的ですらあります。
 終盤には現代のリュクサンブール庭園に、狩人姿のスターリンとそれを追いかけるカリーニンまで登場し、スターリンは猟銃を発砲し、頻尿症のがまんができないカリーニンは庭園のフランス歴代女王の石像に失敬してしまう、というシーンまで書かれます。
 音楽で言うならば(クンデラの父は音楽史家であり、クラシック音楽に親しいクンデラは小説をクラシック音楽の形式に則って書いたりする)、こういうのを狂詩曲(ラプソディー)と呼ぶのでしょう。最後の音符が終って(小説ではスターリンとカリーニンの乗った小さな馬車が、リュクサンブール庭園を出て、パリの街の中に消え去っていく)、マエストロが振り向くと大拍手が巻き起こる、そんな小説ですよ。

カストール爺の採点:★★★★★

Milan Kundera "La fête de l'insignifiance"
ガリマール刊 2014年4月 142ページ  15,90ユーロ

(↓)YouTubeアマチュア投稿で、『くだらなさの宴』の冒頭を女性が朗読しています。アランが初夏になって若い女性たちが街でヘソを露出して闊歩するのを見て、どうしてヘソなのか、ヘソにどんなセックスアピールがあるのか、と考え込むくだりです。

2014年4月21日月曜日

風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ

J.M.G. ル・クレジオ『しけ -  二篇のノヴェラ』
J.M.G. Le Clézio "Tempête - Deux novellas"

 
 二篇の作品なのに、なぜ2冊ではないのか。私なりの説明をしますとね、これはA面B面にそれぞれ1曲の長尺2曲入りのプログレッシヴ・ロックのLPレコードアルバムみたいなものだと思うのですよ。一篇めの『しけ』が長さにして120ページ、二篇めの『身元のない女』が100ページ。独立した二つの中編作品です。この形式を作者はフランス語のヌーヴェル(nouvelle = 中編小説)と呼ばずに、ノヴェラ(novella。元はイタリア語ですが、もっぱら英米文学上での長めの中編小説のこと)と称したのでした。かなりたっぷりな読み応えの2つのノヴェラのAB面カップリングのロングプレイ(LP)と言えます。
 レクスプレス誌(2014年3月27日)の書評によると、第一篇の『しけ』 は元々は小説ではなく映画シナリオであったそうです。韓国のリゾート島チェジュド(済州島)の東側に位置する小さな島ウド(牛島)を舞台にした物語で、ル・クレジオはこのシナリオを持ってプサン(釜山)国際映画祭に乗り込み、韓国人映画監督にその映画化をプロポーズしたのですが、果たせず。「私は俳優の人選までしていたんですよ」とル・クレジオは笑う。しかたがないから、そのシナリオをノヴェラに書き換え、もう一篇の『身元のない女』はその勢いで一気に書き上げたようです。場所もストーリーも全く違う二篇のノヴェラですが、どちらも主人公は少女であり、どちらもある種の不幸を抱えていて、エキセントリックで孤的な戦いを生きている。『しけ』のジューンは父親を知らぬ私生児、『身元のない女』のラシェルは母親を知らぬ私生児、というところも両作品の「呼び合い」を感じさせるところです。

 まず第一篇の『しけ』 です。話者は二人います。ひとりは初老のアメリカ男、フィリップ・キョー。ジャーナリスト/著述家の成り損ないと自称していますが、ヴェトナム戦争時に従軍記者であり、ヴェトナムの旧首都フエで起こった集団婦女暴行事件に関わったとして、有罪になり、3年間監獄に入れられています。罪状は米兵たちの暴行を目の前で見ながら、被害者の救助を求める訴えにも関わらず、ただ見ていた、というものです。この事件以来、男には自分が人間として破綻しているという自覚がついて回ります。その原罪を背負って3年間の地獄のような監獄生活を経ますが、その原罪は消えません。人間性の破綻した男としての生きている価値を問いつめながらの彷徨いの日々の果てに、タイでマリー・ソングというジャズ/ブルース・シンガーと出会います。その生の深さを歌う女性に魅せられ,二人は一緒になり、この韓国の小島ウドに住みつきます。季節には観光客で賑わうが、決して穏やかな海岸ばかりではない野生を残した島です。この島を選んだのはマリーで、この島の海に強烈に惹かれているのです。そして遠泳歴も多く、決して海に溺れて海に飲まれるわけのないマリーは、ある日泳ぎに出たまま帰らぬ人となります。死体は見つかりません。フィリップにはそれが全く理解できません。なぜ最愛の海に行って、そのまま帰らなかったのか。
 30年後、男はウドに帰ってきます。マリーはどうして死んだのかを確かめに。死体が見つからなかったマリーがひょっとして生きているのではないか。マリーと同じようにこの海で死のうとしているのではないか。フィリップはこの島で何もするではなく、スポーツ店から釣り具一式とテントを借りて、釣り方も知らず不器用に海釣りのポーズをしながら毎日海辺に出ています。そこで、少女ジューンと出会うのです。ジューンは韓国女性と米黒人兵の間の私生児として生れ、米兵は逃げ、母親と二人で島に移り住んで来ました。ジューンは肌の色が黒いだの、父なし子だのの差別を受けて育ってきました。母親は島に来て、アワビ採りの海女として生活を立てるようになりました。この英語を流暢に話す少女が現れた時、男はマリーの生まれ変わりと錯覚します。ジューンは釣りの仕方を全く知らぬ初老の外国人に、やり方と魚のいる場所を教え、二人の間に奇妙な交流が始まります。
 小説はここから話者二人になり、男の側からの記述と少女の側からの記述が交互して、二人の過去と現在が展開されます。二人は二人だけのゲームを考案したり、海辺のテントの中で夜を過ごしたり、体を温め合ったり(しかし、一線を越えず、no sex)、親密さは濃くなっていきます。 少女は男がこの島に死ぬためにやってきた、ということを感づいている。男は自分が少女が思っているような人間ではなく、破綻してしまった(悪魔の側の)人間なのだ、といつか告白しなければならないと思っている。その象徴的なパッセージのひとつに、少女が教会でゴスペル歌唱の独唱者として歌う時、男は教会の中に入れず、階段口で隠れるようにして聞く、というのがあります。少女はほとんど恋をしてしまって、フィリップ・キョーは「私の一生の男」と思うようになります。しかし男は絶対にそれを許しません。
 ひとつのカギは海の神秘です。マリーは海の底に吸い寄せられるように消えていったのではないか。人間を吸い込まずにはいない魔力だったのではないか。題名のように小説には荒れ狂う海が描写されます。その犠牲者たちのうち、浜に死体が上がらない人たちはどこへ行ったのか。こういうミトロジーっぽいところがル・クレジオ読者にとってはたまらない魅力ですけど。
 ジューンに生気を少しずつ与えてもらったフィリップは、それでもジューンとの危険な関係を断つかのように、島の薬屋の女主人と動物的に愛し合います。少女はこの性的な拒否を前にどうしようもなくなります。私はこの男とは絶対に一緒になることはできない。そして男と距離を取り、学校をやめ、母親と同じようにアワビ採りの海女になります。 その海女デビューの初潜水に、ジューンは(マリーのように)海の底に吸い寄せられていくのです。海中で失神して漂うジューンは、海女仲間の女たちに助けられて九死に一生を得ます。
 それを知ったフィリップはジューンに再会することもなく、また島で死ぬこともなく、ウド島を去って行きます。ジューンもまた海の女としてひとりで生き始めます。それぞれの再出発みたいなエンディングです。う〜ん....。

 続く第二篇めの『身元のない女』 は、最初の舞台はガーナです。白人植民者として成金生活を送るバドゥー夫婦には二人の娘がいますが、姉ラシェルは父親の連れ子(小説の後半で父親の強姦によってできた子供ということがわかります)であり、父親からも母親からも好かれていません。特に母親の方は徹頭徹尾ラシェルを嫌悪しています。その中で妹ビビだけは姉を慕い、姉をモデルとして育っていきます。家庭は荒れています。大邸宅、使用人たち、大型四駆車数台、という派手さの中で、父親は女癖が悪く、虚飾の美貌を誇るマダム・バドゥーとの夫婦ゲンカは絶えません。文字通り食器や置物や刃物が飛び交うケンカです。ラシェルとビビはこの荒れ方にも関わらず、アフリカの自然を愛し、その中で美しく育っていきます。ラシェルには幼少の頃から、自分は愛されていない人間で、身元不明であるという自覚があります。
 やがてバドゥー家は事業に失敗し、破産してしまいます。アフリカを追われ、無一物の父親はブリュッセルでレストランの使用人として再就職し、マダム・バドゥーと娘二人はパリの南郊外クレムラン・ビセートルに住みます。マダムは開業歯科医と愛人関係を持ち、そこで歯科アシスタントとして働き、娘二人のことは放っておきます。そこは絵に描いたようなパリ郊外ですから、二人は加速度的に「郊外=郊外」の娘に変身していきます。ラップ、ヒップホップ、売春、ドラッグ....。ル・クレジオはこんなことまで詳しいのか、とちょっとうれしい驚きですよ。あんな音楽に夢中になっている同級生たちに呆れて、ラシェルがこれが音楽だと言わんばかりにイヤフォンでフェラ・クティを聞かせるんですよ。笑っちゃいますよね。
 ラシェルはそんな荒れた郊外で、演劇をやる青年ハキムと知り合い、彼の脚本で制作中の劇(千夜一夜物語の中のバドゥーレ姫物語)で主役となるべく稽古をしています。これがこれまでのラシェルの人生で最も人間らしかった時期でしょうか。ところが、妹ビビが売春事件に巻き込まれて、麻薬漬けにされ、集団強姦され、大けがを負ってラシェルの前に現れます。ラシェルはあらゆる厄介事を避けるために警察にも救急にも連絡しません。それを知ったマダム・バドゥーはビビをこんな目に遇わせた責任はすべてラシェルにある、とラシェルを追い出してしまいます。ここからラシェルの地獄の彷徨が始まるのですが、この少女の場合、全然ヤワじゃないのですよ。身元がない=sans identitéということが逆に武器になったり、透明になったりできるのですね。高速道路わきのロマの野営地に紛れ込んだりもするのです。
 ところがどんな目にあっても姉ラシェルを慕うビビは、身元不明のラシェルの身元を知ってしまい、それをラシェルに伝え、ラシェルの実の母はラシェルに会いたがっている、と強引にその人物とラシェルの再会(初対面と言うべきか)をセットアップしてしまいます。この対面はうまく行きません。ラシェルは黒々とした憤怒をこの人物に抱き、望みもしないのに突然露呈してしまったこの母子関係を否定しようとします。
 身元を持たなかった人間が30歳にして身元を明らかにされた怒り、それを否定しようとする止むに止まれぬ欲求、それはどんどん膨張していき、ラシェルは実母を殺せば自分の身元も(元通り)不明なものに戻すことができると考えます。しかし実母暗殺計画は、寸でのところで失敗してしまいます...。
 エンディングはアフリカ回帰です。あまりにも美しいので、ここでは書かないでおきます。

 こういうすごいのが二篇ですよ。東洋の小島、アメリカの監獄、アフリカ、パリ郊外、ノルマンディー... 魂も肉体も移動して、ストーリーも波瀾万丈で、ちょっと長めだけど一気読みができる、それがノヴェラの長さかもしれません。このノーベル賞作家は何でも知ってるし、何でも見ていて、何でも体験している。74歳。この万年青年の顔をした老作家は、どんどんわかりやすく、どんどん21世紀的「ヒューマニティー」に直接響くストーリーテラーになっていると思いますよ。いまだにル・クレジオは難解だなどと言う人たちは退場してください。

カストール爺の採点:★★★★☆

J.M.G. LE CLEZIO "TEMPETE  - Deux novellas"
ガリマール刊 2014年3月 235ページ 19,50ユーロ

(↓2014年4月10日、国営テレビFRANCE 5の読書番組LGLに農民作家ピエール・ラビと共に出演したJ.M.G. ル・クレジオ) 

2014年4月17日木曜日

今朝のフランス語:グージャ

goujat [グージャ] n.m 1. (特に女性に対して)無作法な者、無礼者。  se comporter comme un 〜 無作法な振舞いをする。2. 《やや古》粗野な男、田舎者。3. 《古》軍隊付きの従僕 (大修館新スタンダード仏和辞典)

 日本語人にとっては、この語感がすごいですよね。「グジャ」ですよ。堅からず柔からず、スタンダードな硬度の物体を難なく足で踏みつぶした感じ。ぐじゃっ!そう、おまえなんか、潰されたってかまわない、まるでカスタード・プリンの容器みたいなもんだ(あ、これ、あとで解説します)、潰されて不燃ゴミでも可燃ゴミでもいいから、廃物となって清掃車に持って行かれろ、みたいな音ですよ。おまえは人間のクズだ、と同様の響きですよ。
 ちょっと教養ある日本人は、これに「愚者」と漢字を振ろうとしますよね。ところがこの漢字は「ぐじゃ」ではなく「ぐしゃ」と読む。おろかな人間、という意味だけではなく、この単語出すとタロット・カードにおける(ほれほれ、爺の世代はみんな若い日に澁澤龍彦とか種村季弘に夢中だったりしたから...)愚者と賢者の話を夢中になってし始まる人おりまっしゃろ。字面のわりに高尚な言葉だったりするのです。それはそれ。

 さて、2012年からこの国の現職大統領であるフランソワ・オランドという人のことです。この人は愚者ではないとは思いますが、賢者とも言いがたいものがあります。そしてちょっと変わっているのは、この歳(59歳)で一度も結婚したことがありません。結婚してない人間なんて世界にもフランスにもゴマンといるわけですし、結婚してないということで肩身の狭い思いやコンプレックスを持つことなんてないですよ。ただこの世の中には「国の代表者として、国家主席として、結婚してないってえのは、ちょっとまずいんじゃないの?」と思っていた人が少なくなかったようです。2012年5月に大統領選に勝って、エリゼ宮(大統領官邸)に移り住んだ時も、夫人がいないので、当時私生活を共にしていたジャーナリストのヴァレリー・トリエルヴェレールを同居者として連れて入りました。結婚していないので正式には「ファーストレディ」と呼べないので、米国のニュースメディアなどは「ファースト・ガールフレンド」などと珍妙な呼び方で紹介してました。しかし、大統領の正式行事(国家行事や外国の公式訪問など)には、「大統領夫人」の座にこの女性がいらっしゃったのです。もちろん国費予算がこの女性にも使われていたわけですね。
 
 結婚していようがいまいが、大統領カップルがうまく行っていたら、ま、あまりディテールは気にならなかったんですよ。ところが、2014年1月、フランスの週刊黄表紙雑誌クローザー(Closer)が、現職共和国大統領と女優ジュリー・ガイエの密通をすっぱ抜いてしまった。それがもとで、ファースト・ガールフレンドは、現職大統領と破局して、エリゼ宮から出ていってしまったのです。ま、共和国始まって以来の椿事ではありますな。そして、そうでなくても、公約の失業者減らしも国庫赤字減らしもままならず支持率を前代未聞の低さまで落としている大統領は、この一件でさらに信頼度を失ってしまうのです。
 さて、いいですか、ここで私、自分の意見言いますよ。私はですね、「結婚してないんだから、別にいいじゃないですか」という立場です。オランドの前の連れ合いで、両者の間に子供もあるセゴレーヌ・ロワイヤル(2007年大統領選候補者、現フランス環境相)も、結婚という「制度」を採らなかった。「ユニオン・リーブル」だったわけです。このチョイスは尊重されていいはずです。ヴァレリー・トリエルヴェレールもそういう選択をしたはずです。私生活においてオランドとトリエルヴェレールがうまく行かなくなった、新しい恋人が現れた、別れた... これがその極めて高度な公職のゆえに、国に対して重大な支障をきたした、とは私は考えませんよ。「国の体面上...」という理屈を言う人もいますけど、聖人君子と共和国大統領というのは概念として一致するものが少ないと思いますよ。とりわけ「結婚していない」という自由の選択はオランドを護っていますよ。

 では、今朝のフランス語に戻ります。 発言の主は女優ソフィー・マルソーです。言わば国民的女優様のひとりですね。中国や韓国では異常に人気が高いので、大統領の公式訪問にはお供をして、外交上重要な働きもするスター様です。男性月刊誌GQの2014年5月号(4月16日発行)に掲載されたソフィー・マルソーのインタヴューでのフランソワ・オランドに関するコメントです。
"Il a des maîtresses et, quand on le sait, il refuse d'en parler. Un mec qui se conduit comme ça avec les femmes, c'est un goujat. Moi, je n'ai jamais voté pour lui."
 「彼には(複数の)愛人がある、それが発覚した時、彼はそれについて言及することを拒否する。女性に対してこのような態度を取る男、それはグージャよ。私は彼に票を投じたことなど一度もないわ」
  これだけでも大変強烈な罵りですが、それに加えてソフィー・マルソーは "lâche"(ラッシュ)という言葉を畳み掛けます。意味はスタンダード仏和辞典によると「臆病者、卑怯者、卑劣漢」です。
"J'avais envie de l'aimer un peu, de me dire qu'il n'est pas si terrible que ça. Mais là, je me suis dit : 'Quel lâche !'"
「私は彼をそんなに悪い人間じゃないと思おうとしたこともあったのよ。でもこれはひどい。思わず、なんてラッシュなの!と言ってしまったわ」
 はいはい、言ってくださいよ。もうこれで十分ですか?
 この度合いを越えた罵りを現職大統領にぶつけたソフィー・マルソーの発言に対して、著しい憤怒を表明したのが、世界的な映画のイコン、カトリーヌ・ドヌーヴです。われらがドヌーヴは日曜刊新聞ラ・ヌーヴェル・レピュブリック・ディマンシュ(4月20日号)で、ソフィー・マルソーのコメントは"grossier"(グロシエ)で "honteux"(オントゥー) であると反論しています。意味はスタンダード仏和辞典によると、前者が「無教養な、粗野な、下品な」であり、後者が「恥ずかしい、恥ずべき」となっています。で、何を言っているかというと:
Je trouve ça très grossier. Extrêmement grossier. Je suis étonnée de voir la facilité avec laquelle les gens – dont les journalistes – parlent du président de la République. Les couvertures des journaux avec "Flamby"... Je trouve ça honteux. Nous avons atteint un niveau de bassesse. Il y a quand même d'autres choses à dire !
Je comprends qu'on puisse lui reprocher des choses mais pourrait-on rester sur un terrain un peu plus élevé, quand même ? Un "goujat" et un "lâche" ! On dirait qu'on parle du mari de sa meilleure amie qui vient d'être quittée... Je trouve ça incroyable.
これは下品(grossier)だと思う。極めて下品なことよ。共和国大統領について論じる時、人々が(ジャーナリストたちも含めてのことよ)こんなふうな容易さで語るのを見ると、私は仰天してしまう。新聞雑誌の表紙に「フランビー」を使うなんて(下の註で説明します)...。これは恥ずべき(honteux)ことよ。もう甚だしい低俗さ(バッセス:bassesse)の水準に至ってしまった。もっと言い方ってあるはずよ!
大統領を批判することはできることよ、でももう少し高い次元に留まって批判することってできないことなの?「グージャ」だの「ラッシュ」だの!まるで彼女の最良の女友達の逃げた夫の話をしているみたいじゃない。信じられないわ。

 わおっ!  カトリーヌ・ドヌーヴはこんな低次元の話をするな! と言っている。もっとレベルを上げろ! と言っている。カトリーヌ・ドヌーヴ 70歳、ソフィー・マルソー 47歳。年長者のご意見であります。いくら歳を取っても出来の悪い娘だなぁ、という説教でもありますよ。

 
: フランビー Flanby とはネスレ社が商品化しているカップ入りカスタード・プリンの商品名。グリコのプッチンプリンと同じようなもの。対立派サイドからは、オランドの顔つきや体型のたるんでぶよぶよした感じ&しまりがない感じがカスタード・プリンのようだという揶揄からのニックネームとされています。しかしオリジナルは同じ陣営である社会党のアルノー・モントブール(現経済・生産性復興担当大臣)が2003年につけたあだ名であり、「柔らかいが、揺すっても元の形に戻る」という外面軟派 but 内面硬派の性質を喩えたものだそうです。



2014年4月8日火曜日

クロ・ペルガグの奇天烈な世界・3

4月3日パリ11区カフェ・ド・ラ・ダンスでクロ・ペルガグのコンサートがありました。超満員でした。3月11日に18区のレ・トロワ・ボーデで見た時とは全然違ってました。この二つのパリのコンサートの間に3週間あったのですが、ベルギー、スイスを含めて14回のコンサートを消化しています。そういう自分の足もそうですが、テレラマ、レクスプレス、ル・モンド、テレビ局アルテ、国営ラジオ局のFIPとフランス・アンテールなどのバックアップがあって、クロ・ペルガグは飛躍的に知名度を上げたと思います。その評価はすべてポジティヴです。しかしヴァリエテ/大ショービズ界とは違う動き方をしているので、メジャーテレビ局の歌番組に出たり、雑誌の表紙になったり、ということはありません。
 カフェ・ド・ラ・ダンスのコンサートの日の午後、サウンドチェック前の時間を借りて、クロ・ペルガグと20分ほど話すことができました。そのことは雑誌ラティーナの5月号の記事として書きます。私は、この若いアーチストの音楽的ユニークさは、1曲におけるメロディーの多さであり、 AABAやAABCAのようなポップソングの修辞法とはほど遠い、ポップソング十曲分ぐらいのメロディーを一曲に突っ込んでしまう気前の良さであり、大団円に向かうシンフォニックな展開であると思っています。この五線紙のページ数の多さ、しかもその一枚一枚に音符がビシビシに詰まっていて、旋律と和声にスキがないぞ音大で勉強しすぎだぞと思いきや遊びの要素が随所に顔を出す、というケラケラ笑いの作曲才能だと思っています。たしかにケラケラよく笑うお嬢さんでした。
 その曲に、いったいなぜこの歌詞なのか。病気、死、怪物、恐怖、薬物...。人に言わせれば、この曲およびその全体のユーモラスでコミカルな雰囲気とそれに付された詞の「デカラージュ」(ずれ、差)が面白いのだ、と。人、これをシューレアリスムと呼ぶ。それは超有名な引用をしますと「手術台の上のこうもり傘とミシンの思いがけない出会いのように美しい」(ロートレアモン)なのですよ。
 クロ・ペルガグの音楽は美しくも複雑かつ繊細に構築された曲と突拍子もないブラックな詞の若く可憐なお嬢さん上の偶然の出会い、ということになりますかね。
で、病気や怪物の歌ばかりのクロ・ペルガグに思い切ってこう聞いてみました:「あなたのレパートリーにラヴ・ソングはないのですか?」ー ケラケラ笑うお嬢さんは、ここで、キッと顔が変わって、睨むような目つきで「あるわよ。直接的にはそう聞こえないかもしれないけれど、ラヴ・ソングはいっぱいあるわ」と。

 私が見た2回のコンサートでは幕開けの曲がこの「心の病 Les Maladies de Coeur」でした。当然この2014-2015年ツアーではずっとこの曲がオープニングなんでしょう。それくらい重要な曲なんですけど、これはアルバム『怪物たちの錬金術』に入っていません。2012年にケベックでリリースされたクロ・ペルガグのデビューEP(4曲)の中の1曲です。今のところ、私のクロ・ペルガグの最愛の一曲です。以下に歌詞訳を貼付けますね。
あなたたちを驚かせたくて
わたし自分で両脚を叩き壊したの
それをグローブボックスの中にしまっておいたのよ
贈り物用の包装をしようと思ったんだけど
キャベツは見つからなくて、キュウリだけは入れておいたわ
それでもちゃんと皮は剥いておいたのよ
手紙は添えていないけど
もう血痕がサインの代わりだからいいよね
わたしはあなたたちのためにそれをしたのよ
あなたたちの好みは知ってるわ
あなたたちは辛いものが好きなのよね
それから犠牲になるものも好きよね

あなたはわたしにお礼を言わなかったわね
あなたの腕時計をわたしにちょうだい
その時計は狂っていたってかまわないわ
わたしたちは同じ嵐の時をすごすのよ


わたしは連れていかれ、修理にかけられたんだけど
やっかいなことにいっぱい部品が足りない
あの人たちはそれを床下の物置の中で探してくれた

わたしはそれはあなたへのプレゼント用だと言ったのよ
医者たちははわたしと診察予約をとったんだけど
わたしは絶対に行かないわ
医者たちはわたしに
自分をこんなふうに傷つけるなんて信じられないと言った
でもそれは好みの問題でしょ
わたしはあの人たちに言ってやったの
いい?わたしは医者が嫌いなの
あの人たちの心の病が嫌いなの

あなたはわたしにお礼を言わなかったわね
あなたの腕時計をわたしにちょうだい
その時計は狂っていたってかまわないわ
わたしたちは同じ嵐の時をすごすのよ

あなたはわたしに会いに来たけどわたしの顔を見なかった
あなたの目はくらくらしていたのかもね
でも気にしなくていいわ
わたしはあなたの両目が向きを変える前に
捕まえてしまうからね
わたしはあなたと一緒に泳ぎたいのよ
わたしはあなたと一緒に雨のように落ちていきたいのよ

それでもね、わたしはあなたと一緒に大きくなったのよ

それでもね、わたしはあなたと一緒に大きくなったのよ


 訳はずいぶん苦労しました。シュールレアリスムですから(と笑って許していただこう)。で、これ、ひょっとしてラヴ・ソングかな???と思ったのです。男の子の気を引こうとして、自分の脚を傷つけてしまう少女。そうですよね。極端にひねくれてますけど、わかりますよね。

ここに"Les Maladies de Coeur"のヴィデオクリップを貼ろうと思っていたのですが、あらあら、ウェブ上から消えてしまいました。再び見れるようになったら、すぐに貼付けます

(↓)2013年秋、ゲベックのSIRIUS XM によるクロ・ペルガグのインタヴュー。素顔はこんなに素直そうなお嬢さんなのに。



PS : 自慢げに掲載します。クロ・ペルガグさんと筆者