2019年10月30日水曜日

どれだけ泣かせるトレダノ&ナカッシュ

『規格はずれ』
"Hors Normes"

2019年フランス映画
監督:エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカッシュ
主演:ヴァンサン・カセル、レダ・カテブ
フランスでの公開:2019年10月23日

上映は2019年5月のカンヌ映画祭の閉幕上映で、その時から大反響を呼んでました。私たち家族は一般上映よりも1ヶ月半前の9月3日にわが町のパテ・ブーローニュ座でプレミア特別上映(両監督との懇談会つき)を観ることができ、満席の観客と共にエンドロールでの大喝采に参加し、両監督の登壇をスタンディングオベーションで迎えたのでした。
これは勇気ある映画です。これ、笑っていいんですか? ー という戸惑いはトレダノ&ナカッシュ映画には無用。"Hors Normes"(規格はずれ)とはこの映画ではダブル、トリプル、クアドループル...  ミーニングであり、規格にそった世の中を正常とするならば、それから外れたものを異常として排除しようとする「正常」側の圧力を跳ね返すには、並外れた、言わば規格はずれのパワーを要するわけです。この映画のヒーローふたりは基準に従っていたら絶対にやれっこないことをしているがゆえの「普通人」ヒーローであるのです。
 対象は "autisme"(オティスム、自閉症)と言われる障害を持った子供たちです。この障害は軽度から重度までいろいろのレベルがあります。普通の学校でも受け入れられる程度、専門施設でケアできる程度、いろいろです。しかし、どの公共施設でも受け入れてもらえない"基準外”のケースも多くあり、その場合に(人道的にあとに引けない)民間のNGOが面倒みることになります。普通は公の機関がやるべきことと思うのですが、病人が病院で収容しきれないケースと同じ現象がここにあります。ブルーノ(演ヴァンサン・カセル)は、そういう民間NGOでしかも一般の住宅建物の中に設けられた収容施設を切り盛りする代表者で、彼のスマホはひっきりなしに入所可能かどうかの問い合わせで鳴りっぱなし。いろんなところで断られ、なんとかなりませんか、という悲痛な願いばかり。それに対してブルーノは、こっちもいっぱいいっぱいです、と断りたい気持ちは山々なのに、断れない性分。すべてが"特殊なケース"であり、おのおのの障害に合わせた特殊なケアが必要なのに、その特殊さに合わせてひとりの子供の場所を作ってやり、施設の一員としてひとり、またひとりと加えていくのです。問題や事故は常に一触即発。映画の冒頭は、通りに脱兎の如く逃げていく少女、それを何人も手分けして全速力で追いかけ、地面に倒して取り押さえる、というシーン。周りにいる一般市民は、一体何事か、少女に対する虐待か暴行か、という厳しい視線と反応、それに対して「いえいえ、何でもないんです、えへへへ...」とごまかして、少女をなだめすかしてその場を立ち去るブルーノたち。映画を観る者は、これはフツー人にはなかなか理解されない、という現場を最初から具体的に見せつけられるわけです。
 ところが、この規格に収まらない子供たちの世界をも、規格の縛りの中に閉じ込めようとする権力があります。このようなNGOも国からの援助金がなければ機能しない。その援助金を得るためには、建物の広さやその環境、衛生管理、ケアヘルパーの数やその資格などさまざまな条件をクリアーしていなければなりません。ブルーノのセンターは何度か役所の抜き打ち検査を受け、改善を命令されていることばかり。そしてこの映画では、検査官が最終通告(つまりNGOの認可を取り下げる)も辞さない態度で追求してきます。予算がない、収容人員オーバー、ケアヘルパーに給料が払えない、それでもブルーノはひっきりなしにかかってくる電話に、いやと言えないのです。
 一方、そのケアヘルパーたちを養成して、ブルーノの施設に送り込んだりしているのが、ソーシャルワーカーのマリック(演レダ・カテブ)。十代半ばで全く将来の希望がないルーザーとして世に投げ出される"郊外”の難しい子たちを集めて、人の身を預かる重大でヒューマンな仕事のやりがいを教える熱血教官。問題児たちが自分たちと違う問題を抱えた子供たちと触れ合っていくボディー・トゥー・ボディーの実地教育。無責任な子らがどんどん「兄貴・姉貴」分に変わっていきます。その総兄貴分がマリックというわけですが、強靭な肉体と睨みの利く目線が欠かせません。
このブルーノというお人好し+自閉症 A to Zを知り尽くしたケア魔術師と、現場の修羅場を(出来の悪い)ヘルパーたちと丸く収める行動人のマリック、このコンビが解決していくさまざまな"規格はずれ”な無理難題を描いた映画です。特にクローズアップされるのが2件のケース。ひとつは年齢が成人になったので(比較的軽度の自閉症と言っていいのだろうか)、施設を卒業して社会人デビューを試みるジョゼフ(演バンジャマン・ルシユー。現・自閉症者です。 素晴らしい演技)。何度言い聞かせても地下鉄に乗ると非常停止レバーを引いてしまう常習犯。工場の単純労働に研修で入るのですが....。
 もうひとつは"重度”の少年ヴァランタン(演マルコ・ロカテリ。これはプロの子役役者が演じてますが、実はマルコの弟がやはり重度の自閉症で、このヴァランタンのことが本当に理解できるんだ、という本人の弁でこの役に抜擢。こちらも素晴らしい演技)で、凶暴性があり、自暴自棄になると自分の頭をあたり構わず打ち付けてしまうので、24時間ヘッドギアを装着していないといけない。どこも受け入れ先のないヴァランタンを引き受けたブルーノは、とりあえず入れる個室がないので、ホテルの一室を(ホテルに内緒で)即席に閉鎖保護室に変え、マリックの教え子で問題児のディラン(演ブライアン・ミアルーンダマ。一応断っておくとアフリカ系ブラックの子です)を見張りにつけて一夜を過ごすはずでした。ところがディランがタバコを吸いに外に出たすきに、ヴァランタンは逃亡し... マリックとブルーノの配下の若者たち全員でパリ中を探し回り、ついに見つけたのが、ペリフェリック(パリをぐるりと囲む環状自動車道路)の上をヘッドギアをつけながら、車のクラクションの怒号を浴びながらとぼとぼ歩いているヴァランタン...。
 このようなスキャンダルが公になれば、ブルーノのセンターは認可を取り上げられ閉鎖させられるのは当然のこと。ブルーノとマリックの必死の奮戦はどこまで続けられるのか。
映画はこの超人的ヒューマンな二人とその仲間たち、そして障害のあるなしにかかわらず人間として生きる権利を認め合う人たち、この世で生きる自閉症者たち、そういう生命たちへのオードです。それを "規格”で推し測ろうとする人々へのおおきなバッテンです。
 ディテールですが、ブルーノは誇り高いユダヤ人でキッパーをかぶっています。その下で働く事務の女の人はヒジャブで髪を覆っています。マリックは北アフリカ系アラブ人で、教え子の郊外の子たちはブラックもアジアも"白人”もいます。さらにディテールですが、映画中の自閉症の子たちは(前述のヴァランタン役を除いて)すべて生身ですし、施設のケアヘルパーさんたちもそうです。そんなものにこだわっていたら、自閉症の子たちに笑われる、という含みかもしれません。それらもさまざまな"規格"にすぎないのです。私たちは"規格”を超えてみなければ、見えないものがたくさんあります。多くのガチガチ"規格”尊守にんげんたちに見て欲しい作品です。
 蛇足ながら、これでトレダノ&ナカッシュ映画に出演するの3回めですけど、エレーヌ・ヴァンサン(前述の成人自閉症児ジョゼフの非常に"感じやすい”優しい母親エレーヌの役で登場)毎回本当に素晴らしいです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓) "Hors Normes"予告編


2019年10月24日木曜日

Could it be まじ(っすか?)

『212号室』
"Chambre 212"

2019年フランス映画
監督:クリストフ・オノレ
主演:キアラ・マストロヤンニ、ヴァンサン・ラコスト、カミーユ・コタン、バンジャマン・ビオレー
2019年カンヌ映画祭主演女優賞(キアラ・マストロヤンニ)
フランスでの公開:2019年10月9日

所はパリ14区モンパルナス界隈、地下鉄ヴァヴァン駅とエドガール・キネ駅をつなぐドランブル通り(Rue Delambre)、藤田嗣治や米ロスト・ジェネレーション作家群などのゆかりの地であり、ヴァヴァン側から見ると最初にビストロ・デュ・ドーム(Bistrot du Dôme)があって、道のず〜っと奥にモンパルナス・タワーが見える。その16番地に独立系の映画シアターとして名高い「セット・パルナシアン(Les 7 Parnassiens)」があり、その向いの15番地にヘンリー・ミラーやマン・レイが常宿にしていたホテル・ルノックス(Hôtel Lenox)がある。この16番地と通りを挟んで向かいの15番地、これを中心にした数十メートルのドランブル通り空間を、クリストフ・オノレはスタジオ内セットにしたのである。
 個人的なことで恐縮だが、1980年代の中頃、その約10年後に私の奥様になる女性がダランブル通りに2年ほど住んでいて、私はしょっちゅう通っていたのでこの界隈はとても思い出があるのです。映画館もよく行ったし、よく朝買いに行かされた5番地のパン屋も、ホテル・ルノックスの数軒先にあったインド料理屋も、映画館の隣にあった焼肉レストラン「東京」も...。それはそれ。
 さて映画はそのドランブル通りの映画館の入り口のある建物の2階(日本式には3階)のアパルトマンに住んでいる夫婦の突然の破局が発端である。歴史学の大学教授であるマリア(演キアラ・マストロヤンニ)は、出不精・非活動的・メランコリックだが貞節な夫であるリシャール(演バンジャマン・ビオレー)の知らぬところで、その旺盛なリビドーを発散させるために数多くのセフレ(大多数は教え子たち)をつくってきたが、結婚25年になった今、ある冬の雪の日(昔ながらのスタジオ内映画セットに降る雪、美しい)に、初めて妻のスマホに畳みかけて受信されるセフレからのしつこいメッセージを見てしまった夫が動揺する。「いつからこんなことになっているのか?」「あら、ずいぶん最初の頃からよ」とあっけらかんと答えるマリア。リビドーの処理にはしかたないじゃないの、そんなの愛情とは何の関係もないわ。ー お立ち会い、これは世間的にはマッチョな「男の理屈」だったわけですよ。欲望のままに生きることが許容されていた側のリクツである。この論を妻一筋に25年間貞節に生きてきた夫の前で展開するわけだから、リシャールは一体俺の25年間は何だったのか、と崩れていく。そんな男を正視できなくなったマリアも、自分の過去・現在・未来を考え直す必要がある、とその雪の夜、アパルトマンをこっそり抜け出し、向かいのホテル・ルノックスの212号室に投宿する。この212号室の窓から、ドランブル通りを挟んだ向かい側に、リシャールがひとり取り残されたアパルトマンが丸見え、というスタジオセット映画のトリック。
 ここから奇想天外ストーリーが始まり、この212号室に次々と闖入者が。まず今から20年前のリシャール(演ヴァンサン・ラコスト)登場。これが20年後の自分(アパルトマンの中に一人残され、なんともみすぼらしい部屋着姿で自暴自棄になっている)を窓越し・通り越しに見ながら、こんな結果を招いたマリアを激しくなじる。そんな若いリシャールに魅了され、逆に誘惑してしまうマリア ー 若い頃の夫に浮気することは夫への不倫にならないというロジック! ー この映画でキアラ・マストロヤンニは四六時中全裸で、生身の47歳(美しいとは言えないけれど生身の裸体)を曝け出しているのだけど、リビドー丸出しというわけでは全くなく、肉体の悲しさも出てしまっているところがクリストフ・オノレの狙いであろうな。
 次いで登場するのが、リシャールが少年の頃から恋い憧れていたピアノ教師イレーヌ(演カミーユ・コタン、素ン晴らしい!)で、リシャールが出会った頃の年齢で現れた彼女は、少年→青年→成人までリシャールの心を奪い誘惑し、性のイロハまで教えた過去を持ち出し、マリアという結婚相手の登場によって「禁じられた年上の女」は姿を消すことになったが、あの時姿を消さなかったら、リシャールの人生は全く違うものになっていたという仮説をヴィジュアル化してリシャールを再誘惑する。その再誘惑の矛先は若リシャール(ヴァンサン・ラコスト)に始まって、次いで通りの向かい側のアパルトマンにいる現リシャール(バンジャマン・ビオレー)に魔手を伸ばしていく。これを必死になって止めようとするマリアだったが、イレーヌはここで(あの頃のあのままで進んで行っていれば)生まれていたはずの赤ん坊まで登場させて(あなたの子よぉっ!)、違う人生の道へと強引に誘うのである。
キアラ・マストロヤンニはこの映画の文字通りの体当たり演技でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞したが、私はこの映画はカミーユ・コタンの怪演の功績の方が上だと思っている。クーガー/ルーザーの逆襲、しかもマリアよりも一枚も二枚も役者が上の悪魔のような誘惑者。このカミーユ・コタンという言わば「遅れてきた女優」は、30代後半でテレビ(カナル・プリュス)の2分寸劇「コナス Connasse」(どうしようもない高慢軽薄パリ娘役)で出てきた人。こんな強烈な高慢軽薄イメージのついてしまった芸人が、どう脱皮できるのかと心配だったが、え?の女優変身に成功。このブログでもひと月前に紹介したセドリック・クラピッシュの『ふたりの自分 Deux Moi』でも、主人公アナの気難しくも的を得た心理カウンセラー役で、え?の怪演。たしかな個性派女優の地位にたどり着いたコタン、祝福してやりたいです。
 さて映画は、マリアとリシャールの過去と現在が交錯して、マリアのリシャールのそれぞれの違う人生の仮説/可能性を、マリア+過去リシャール+現リシャール+過去イレーヌの4つのパーソナリティーの絡み合いで可視化していき、その他にマリアの母と祖母の亡霊まで出てきてその男グセの悪い血筋をばらしたり、賢者の化身で「意志 la volonté」と名乗るシャルル・アズナヴールの歌ばかり引用するステージ衣装男が登場したり、それに加えてマリアがハントしたあらゆる人種の十数人の若いセフレたちも212号室に押し寄せてきて...。この大混乱の上に、しんしんと雪は降ってくる。美しい。
 イレーヌは結局リシャールの心を取り戻すことができない。打ちひしがれたイレーヌにマリアはシンパシーまで感じるようになり、一緒にイレーヌが25年前にパリを捨てて隠居したピカルディー地方ソム湾の海辺の家へ行ってみると、そこには過去とすっぱり切れてサバサバと達観して生きる老女イレーヌ(演キャロル・ブーケ!)がいて、過去イレーヌ(カミーヌ・コタン)の未練をカラカラ笑うのだよ。
 こんな奇想天外だが、アラン・レネやベルトラン・ブリエといったフランス映画の先人たちがやってきたシュールでファンタジーなコメディー仕立ての映画。音楽は前述したようにシャルル・アズナヴールが多用されている。これはクリストフ・オノレのアズナヴールへのオマージュであろう。
 そして終盤の大団円と呼べるシーンは、ドランブル通り11番地のバー「ローズバッド」にかのセフレ連中を含んだ全員がそれぞれのテーブルについてドリンクを。元ピアノ教師イレーヌがバーのピアノで、ポロン、ポロンとショパンのプレリュード20番を弾き、そこから自然の流れのように(それが原曲なので当たり前か)"Spirit move me, every time I'm near you..."とイレーヌが歌い出し、バリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"になってしまう。歌詞どおり、ここがこの映画のマジックの瞬間なのだ。大混乱はこの美しいメロディーで和解と収拾に昇華していき、4人(マリア、過去リシャール、現リシャール、過去イレーヌ)がチークダンスを踊るのだよ。踊りの輪はバー全体に広がり、メロディーはバーのレコードプレイヤーに取って代られバリー・マニロウのそれがほぼフルコーラス(6分)聞かされることになるだが、なんというしあわせ。この大団円、すべて許せる。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『212号室』 予告編


(↓)『212号室』 サウンドトラックよりバリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"

2019年10月20日日曜日

浮かび上がるインク文字(あの)

Patrick Modiano "Encre Sympathique"
パトリック・モディアノ『不可視インク』

ディアノの真骨頂である「五里霧中」感に始まり、プルースト風「見出された時」で書を閉じる137ページ体験。好きな人にはたまらないでしょうね。
たった137ページで50年の時が流れます。(会ったこともない←ここがミソですが)消えたひとりの女を追う長い年月です。初ページから109ページめまでの主人公にして話者のジャンは、1960年代にパリの興信所(私立探偵事務所)に雇われていて、所長からパリ15区で失踪したノエル・ルフェーヴルという名の女性の行方の手がかりを探す任をまかされます。渡されたファイルは薄く、名前と住所とおおよその出身地(サヴォワ地方アヌシー周辺)、そして局留め郵便の代理人受け取りを許可する委任状(輪郭識別も難しい彼女の顔写真つき)。ジャンはこの委任状を持ってパリ15区コンヴァンシオン地区の郵便局へ、彼女あての局留め郵便がないかと尋ねに行きます。住所のアパルトマンのコンシエルジュに様子を尋ね、彼女の立ち寄りそうなカフェに張り込みをしたりしますが、会ったことがないのでそこに居ても見つけられないかもしれないほどの曖昧な手がかりしかありません。
 興信所はこれを早々と脈のない&うまみのない一件としてサジを投げます。ところがジャンは執拗にこだわり、興信所を辞めたあともこの未解決の事件ファイルを持ち去り、調査を続けていきます。ある種モディアノ自伝的なモチーフですが、時系列的に作家としてデビューするずっと前でありながら、ジャンはこの事件について本を書くだろうということを直感的に知っていた、というのです。つまり、これは一編の小説の誕生・制作・完成に立ち会うストーリーでもあるわけです。しかしそれが50年もの歳月を要し、ひとつひとつ手がかりを得るために途方もない時間がかかったということにも読者はつきあうことになります。
 カフェで張り込みをしていた時期に接近してきたジェラール・ムーラードという人物、「私」がノエル・ルフェーヴルを探していると聞いて訝しげな態度で理由を尋ねます。興信所の調査と言えばすべてがご破算になる気配があり、「私」はでまかせの嘘(医者の待合室で知り合い、同じアヌシー出身ということで話が合い、勤めの後にカフェで会う仲になった)を交えて、この男を安心させ、情報を引出そうとします。すると「私」の知らなかったことが芋づる式に出てきて、駆け出しの俳優であるムーラードが取り持ってノエルがロジェという男と結婚していて、二人でヴォージュラ通りのアパルトマンに住んでいたこと、ノエルのあとロジェも失踪していたこと、ノエルはオペラ座前の高級鞄店ランセルで働いていたこと、ロジェとノエルは15区グルネル河岸のダンスホール「ラ・マリーヌ」の常連だったこと... etc etc。ムーラードはロジェのアパルトマンの合鍵を持っていて、そこへ行くというので「私」もついていき、ムーラードの見ぬ隙にまんまとロジェとノエルの寝室に侵入し、本能的直感で、そのナイトテーブルの引き出しからノエルのアジェンダ帖を盗み出します。
この行為を私は夢遊病者のように現実から遊離した状態でしたのだが、それは正確で自発的なもので、あたかも私が前もってこのナイトテーブルの引き出しには二重の底がありその中に何かが隠されていたことを知っていたかのような行動だった。ユット(註:興信所のボス)はこの職業をする上で必須の資質のひとつは "l'intuition"(直感)であると私に言っていた。この夜の私の行動を理解するために、私は辞書を開いて調べてみる。"Intuition アンチュイシオン:理性のはたらきに頼らない即座の認識のあり方”
この小説は、手がかりのほとんどない状態に始まり、そのパズルのピースをひとつひとつ見つけていく過程を描くのですが、遅々として進まないその作業をある時突然スピードアップされるきっかけとなるのはこの説明のしようがない「理性のはたらきに頼らない」アンチュイシオン(直感)というものです。そして最初にこの薄い事件ファイルに「私」が運命的なものを感じ取ったのもアンチュイシオンでしょう。それは出会う前から愛してしまっている恋人のようなものとも言えますが、モディアノに限ってそんな含みはないでしょうと思っていると....。
 さて最重要の手がかりであり、多くの情報を含んでいるはずだったこのノエル・ルフェーヴルのアジェンダ帖ですが、きちんとした(「私」にも似た筆跡の)文字で書かれているものの、途切れ途切れの暗号のような名前の羅列、予定、場所、金額、電話番号、ヴェルレーヌの詩断片4行
Le ciel est, par-dessus le toit,  空は 屋根のむこうに あんなにも
Si bleu, si calme ! 青く、しずかです
Un arbre, par-dessus le toit, 一本の木が 屋根のむこうに てのひらを
Berce sa palme ゆすっています (訳:橋本一明)
といったものだけで、大部分のページは何も書かれていないのでした。この極端に限定的な、ほぼ絶望的にわけのわからない情報から、「私」は長い時間をかけて、執拗な推理を進めていくのです。そしてウソから出たまことのように、ノエルと「私」の同じ出身地と言っていたアヌシー(実際は「私」は少年期数年間をかの地の全寮制寄宿学校で過ごしていた)の記憶も重要な断片として蘇ってきます。
 ”警察”と聞くと本能的に警戒してしまう不透明な人々、映画の端役や日雇い運送業といった職業的に不安定な人々、住所や"名前"を二つも三つも持つ人々、そういった人々を通して得られた情報は確かなものなのか、といったすべてが曖昧なモディアノの小説宇宙。時は経ち、建物も街並みも住んでいた人々も変わって、鍵を握っていると思われた人物たちもこの世にいなかったりします。五里霧中は果てしなく続きます。
 小説のおよそ3分の2地点にあたる91ページめに至って、「私=ジャン」は奇妙な印象に襲われる。それはすべては前もって"encre sympathique(アンクル・サンパティック)"によって書かれていたように「私」には思われたというのです。ここで話者はまた辞書を援用して "encre sympathique"を説明します。
「使用する時は無色だが、ある特定の物質の作用によって黒く変化するインク」 
”サンパティック(感じのよい、好意的な)なインク”と綴って、暗号文に用いられる不可視インク(わがスタンダード仏和辞典では "あぶり出しインク"と訳語)を意味します。なぜこの印象に至ったかというと、何度も何度も読み返したはずのかのノエル・ルフェーヴルのアジェンダ帖に、今まで一度も見たことがなかった記載が忽然と青いインク文字で現れたからなのです。一体どういう触媒によってこの文字は現れるのか、それとも長い年月が経てば現れるようになっているのか。もしも後者ならば、待っていれば多くの白紙ページに文字が浮かび上がり、重要な手がかり/情報が次々に明らかになっていくのではないか。
 お立ち会い、ここがモディアノ文学のマジックなのですよ。
 ノエルと名乗る女性の記録/記憶の遺物であったこの白紙だらけのアジェンダ帖、それに書かれた文字は「私」の筆跡に似ている、その白紙部分が少しずつ記録/記憶として蘇ってくるということは、実は「私」の記録/記憶と重なってきてだんだんかたちになってきたということのメタファーなんです。一度も会ったことがなかったと思われていたこの女性(実はノエルという名前ではない。この小説は重要な人物たちがどんどん名前を変えていく、という複雑さ!)は、遠い遠い過去に出会っている(そのことをまだこの91ページ段階の「私」は知らない。 読者だけが知っているという構図)、だから「私」の記録/記録を掘り下げていけば彼女のそれと合わさるはずなのです。
 パリ、アヌシー、何人もの証言(正確・不正確あり、虚偽もあり)で続いてきたジャンの調査は30年過ぎ(100ページ時点)、そして50年を過ぎた頃、110ページめから、話者は「私」ではなくなります。小説最終部に登場する男はたぶんジャンであろうし、女はたぶんノエルと呼ばれていた女でありましょうが、二人とも「三人称体」で客観的に記述されています。現象としては神の手を持ったような作家が書いているような印象です。場所はローマ。ナヴォナ広場に近いアーケード街スクローファ通りにある写真ギャラリー、店名はフランス語で「Gaspard de la nuit (夜のガスパール)」 、フランスからやってきたその男は最初ためらい、ついで「水に飛び込むような決意」で店内に入っていきます。ギャラリーの店番の女性に
「あなたはフランス人ですか?」
ー ええそうです。
ー ローマにはずっと前から住んでいますか?
ー ずっと住んでいますよ」
これが二人の最初の会話です。歳も似通った老人二人。モディアノはここで「ローマは過去を捨てる町である」と詩的なことを書きます。過去のことなどすべて捨て去ってフランス語も時々発語するのが難しくなっている女性。かつての興信所探偵だった男かもしれないこの男は柔らかく女性に近づいていき、このギャラリー主である写真家の展示作品(20世紀のローマの写真)にとても興味がある、と。その中の一枚に60年代のローマの街と3人の男が写っているものがあり、キャプションに真ん中の男の名前が「サンショ・ルフェーヴル(Sancho Lefevbre)」となっているが、彼はフランス人ですか? 彼のことをご存知ですか?、と。 ---- ここで詳しくは述べませんが、サンショ(=これも偽名)はノエルと呼ばれた女をアヌシーからパリに連れ出し、さらにローマに至らせた人物と目され、ノエルを妻として従えていた、と「私」の調査でわかってきた...  ----
ほとんどのことを忘却のかなたへ押しやっていたこの女に、フランスからやってきたひとりの男は少しずつ記憶の蘇りを誘発させます。家出をし、名前を変え、パリで素性のはっきりしない男たちと行動を共にしていたことなど。そして彼女の記憶は(かの「私=ジャン」の記憶を超越して)このフランスからやってきた男の横顔に激しく反応するのです。この横顔が喚起したもの、それはアヌシーの少女時代。いつも満員の路線バスで、寄宿学校前の停留所から乗り降りしていた少年、決まってバスの最後列の座席に二人で隣り合わせて座っていた。ローマの老女はその少年の横顔を記憶していたのです!
 小説最終の137ページめ、翌日に再会することを約束した男と女、最後の2行はこう締めるのです。
明日、最初に口を開くのは彼女だろう。彼女は彼にすべてを説明するだろう。
わおっ! モディアノでこんなエモーショナルな終わり方ありますかいな!
モヤモヤだらけで、モヤモヤが残るのがモディアノ・タッチでしたでしょうに。こんな明日は快晴、のエンディング、どうしたらいんでしょうか。

カストール爺の採点:★★★★★

Patrick Modiano "Encre Sympathique"
Gallimard刊 2019年10月 140ページ 16ユーロ
(↓)民放ラジオRTL 2019年10月、新作『不可視インク(Encre Sympathique)』について自宅インタヴューに答えるパトリック・モディアノ


2019年9月28日土曜日

未刊で未完

Françoise Sagan "Les Quatre Coins du Coeur"
フランソワーズ・サガン『心の四隅』

 ガンさんがしゃがんだ。
(↑だるまさんがころんだのリズムで読むこと)

フランソワーズ・サガン(1935-2004)の死後15経って初めて出版された未発表の未完小説です。本書の序文で息子で写真家のドニ・ウェストホフが、この草稿を母の死後に発見し、そのままでの刊行を試みたが果たせず、ウェストホフ自身が何年かかけて掠れた文字を想像で復元したり、不要と思われる箇所を削除したり、ある種の「校正加筆」をほどこした上で、ようやく出版にこぎつけた経緯を説明しています。サガンの未発表作であれば、大出版社が競って権利争奪戦をしそうなものですが、どうもそうでもない事情なんでしょう。
 何読んでもみな同じ、という頑迷な先入観から、個人的にほとんど読んでいない作家ですが、そういう個人的サガン観も含めて爺ブログでは2008年にディアンヌ・キュリス監督のサガンのバイオピック『サガン』(↓予告編)の紹介記事「流行作家はお好き?」を書いてます。読んでみてください。

 
 さて200ページの未発表・未完小説『心の四隅』です。20世紀後半、80年代頃でしょうか、小説中にフランスからの農産物を輸入している日本の商社をVIP接待するシーンが出てくるので、そういう日本商社マンがフランスで肩で風切って闊歩していた時代でしょう。そう、日本は先端産業国でフランスは農業国とあの頃の人たちは思ってましたわね。それはそれ。フランス中部、ロワール川流れる内陸の古都トゥールの近郊で、クレッソンなどの野菜の輸出で巨万の富を築いたその名もクレッソン家という大富豪家の屋敷が舞台です。大庭園に囲まれたその城館は「ラ・クレッソナード」と呼ばれ、金はあるが審美眼のまるでない当主の悪趣味で、建築様式も家具調度も装飾品(コンテンポラリーアートとミロのヴィーナスのコピーが混在する)もめちゃくちゃだが、住んでいる家族は頓着していない。ゴリ押しのブルドーザー型実業家のアンリ・クレッソンは地場産業(農業)に貢献し、地元に多くの職をもたらした土地の名士にして実力者です。金と権力にものを言わせるけれど、超俗物として描かれているわけではない。出来の悪いひとり息子をなんとかしなければ、という親心もあるし、高級娼館のマダムと懇親の仲という粋人のようなところもある。その出来の悪い息子リュドヴィックは、若くして死んだ先妻との子で、軟弱に育ち、人からもバカ息子に見られ、名門家の後継者として最低の評価をされてきた。それでも20代を過ぎ、パリ出身で都会的に洗練された女性マリー=ロールと恋(これはどうかわからない)に落ち、晴れて結婚して城館ラ・クレッソナードに迎え入れます。
 しかし、リュドヴィックがマリー=ロールにプレゼントした超高級スポーツカーは、新妻の運転中に大事故を起こしてしまい、運転席のマリー=ロールは大したケガもなかったのに助手席にいたリュドヴィックは医師も助からないと判断したほどの瀕死の大重傷を負います。病院の絶望的診断にも関わらず、数日間の昏睡状態からリュドヴィックは奇跡的に蘇り、骨も内臓も治療復元不可能だったのが長い月日をかけて元の状態に戻り、口が全く聞けないほどの精神障害も精神病棟の中で少しずつ回復し、3年の歳月をかけてリュドヴィックはラ・クレッソナードに無事の生還を果たします。
 ところが暖かく帰還を迎えてくれるはずの妻マリー=ロールは、3年前に亡くなってしまえばよかったと言わんばかりに、この幽霊のような夫を終わった男として拒絶し、離婚の意思を表明し、一緒の寝室で眠ることを拒否します。その上弁護士と連絡を取り、巨額の離婚慰謝料はせしめるつもりです。
 この嫁による「寝室拒否」のエピソードを、城館のプラタナスの木の影で聞いていた父親アンリは、性悪な嫁との離婚はしかたないと思いつつも、それよりも出来の悪い息子をどん底から救い出さなければならないと考えるのです。マッチョな家父長の知恵ですが、アンリは長年の裏側のつきあいである(非合法)高級娼館の主マダム・アメルに助けを借り、性快楽によってリュドヴィックに立ち直る下地をつくらせます。3年間薬浸けにされ、療養所、リハビリセンター、精神病棟で植物的に変身させられ、その上妻の拒絶でさらに腑抜けになった男は、性セラピーで回復していきます。
 周辺地方の誰もが知ることになったクレッソン家の跡取り御曹司の瀕死の事故、すなわちクレッソン帝国の存続の危機という悪評を振り払うため、当主アンリは3年後跡取りが全快して復帰したことを公に大々的に示すために、城館での全快大祝賀パーティーを企画します。予算に糸目をつけない大パーティーです。その宴の企画と采配のために、アンリが白羽を立てたのがマリー=ロールの母親のファニーでした。ファニーはパリの有名オート・クチュリエの助手として働くやり手の管理職レディーで、最愛の夫カンタンに先立たれ、女手ひとつでマリー=ロールを育てました。仕事ができ、職業柄上流社会の趣味も知り尽くしていて、美しく、華のある熟女、おまけにクレッソン家の内部事情にも熟知している。これ以上の適材はない、とアンリはファニーの夏のヴァカンスを返上させて、2ヶ月でこの大宴会の準備をさせるため、城館にひと部屋もうけてファニーを滞在させます。
 さて当主アンリ、跡取り息子のリュドヴィック、その妻のマリー=ロール、新しく住人となったファニー、この4人のほかに城館にはアンリの二番目の妻であり病気がちであまり人前に出てこないサンドラ、そしてサンドラの弟でサンドラが嫁いだクレッソン家の財産にたかって生きている遊び人のフィリップの二人がいます。この6人は城館のダイニングで三食を共にするのですが、新座のファニーはこの5人の間に虚飾の会話はあっても、人間的なコミュニケーションが何もない、ということに気づきます。やや暴君的な性格のアンリの財産にすべてを負っている、という恐れからなのか、財産を狙っているという魂胆からなのか、それとも情緒が本当に欠落しているのか。
 異変はリュドヴィックから起こります。軟弱で才気のないボンボンだったこの男は、母親の年齢とも思えるファニー(妻マリー=ロールとの縁からすると"義理の母”)に恋心を抱いてしまいます。ファニーは娘マリー=ロールを不幸にさせたくないからと拒否するのですが、亡き夫カンタンを除いて最愛の男性はないとしながらも、隠れて若いツバメちゃんと楽しむのも...と揺れていきます。その上軟弱だったボンボンは、上述の「性セラピー」のおかげで精悍な男性に変身していたのです。
 それを全く知らない父親アンリは、病気がちでわがままな妻サンドラに愛想を尽かしかけていて、ファニーの城内登場以来、サンドラと離婚してファニーと再婚することを真剣に考えるようになります。
 リュドヴィックとファニーの情事は、よくある「テアトル・ド・ブールヴァール」(大衆喜劇、特に"寝取り””寝取られ”をお笑い題材にするものが多い)のように、城館内でバレそうでバレないコミカルさで描かれます。この小説のサガンの文体は辛口な滑稽さで、おのおのの人物の欠陥部分を意地悪く皮肉ります。辛口人情喜劇風な名調子でもあります。
 それはかの大宴会が近づくにつれて、恋慕もたくらみも破滅の契機もどんどんクレッシェンド的に高ぶっていきます。わくわくですよね。そしてすべての仮面が剝げ落ちるであろうその宴の夜は...。この小説はそこを書くことなく未完成で終わるのです!

 それはフランソワーズ・サガンの本意ではもちろんなかったでしょうが、これでは意地悪ばあさんと言われてもしかたないでしょう。朝吹登水子先生(1917-2005)亡きあと、このサガンの未完成遺作は朝吹由紀子先生がお訳しになるのでしょうが、ファンの方は待っていなさい。上流階級、スポーツカー、城の生活、倦怠、火遊び、年の差のある恋... サガンはサガンである、と思い知りましょう。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

Françoise Sagan "Les Quatre Coins du Coeur"
Plon刊 2019年9月19日 202ページ 19ユーロ

(↓)国営テレビFRANCE TV INFOがこの『心の四隅』の刊行に合わせて作った「サガン、自由に生きる Françoise Sagan, Vivre en liberté」と題するモンタージュ・バイオグラフィー。

2019年9月20日金曜日

Happy End

ラシッド・タハ『アフリカン』
Rachid Tana "Je suis Africain"

2018年9月12日、あと6日で60歳になるはずだったラシッド・タハは心臓発作のためにこの世を去った。1987年に難病「アーノルド・キアリ病」と診断され、この脳の奇形に起因する脊髄の障碍によって、身体の機能が徐々に麻痺していった。長い年月この病気に侵食され、とりわけその平衡感覚が失われていった。ステージでよろける姿を見て、この難病の症状であることを知らぬ人たちはメタメタに酔っ払ってるとなじったものだ。2016年からこのアルバム『アフリカン』をラシッドと二人三脚で準備していたトマ・フェテルマン(Toma Feterman、ラ・キャラヴァン・パスのリーダー。本アルバムのプロデュース、共作曲、編曲、ほとんどの楽器の演奏)は、
骨が少しずつ石灰化していき、彼の腰と右手は完全に麻痺していた。彼は触る感覚も失っていて、ボールペンを持つこともできず、俺が彼の口述する歌詞を書きとめなければならなかった。
と証言している(2019年9月、国営ラジオFRANCE INFOのインタヴュー)
 20歳年が離れたラシッド・タハとトマ・フェテルマンの親交は、ラ・キャラヴァン・パスのアルバム "CANIS CARMINA"(2016年リリース)に2曲ラシッドがゲスト参加したことに始まる。(↓)ラ・キャラヴァン・パス+ラシッド・タハ「ババ」

この曲のヴォーカル録音のためにラシッドは俺の家(ホームスタジオ)に来たんだ。録音が済んで夜になったんだが、機材をそのままにしといてくれって言うんだ。これから歌作りをしよう、ってね。彼にヘッドホンをつけさせ、俺はギターを構えた。そして俺に、悲しくて同時に陽気なようなメロディーを弾いてくれ、と。こうして俺たちのインプロヴィゼーションは始まった。その夜だけで12曲つくった。このアルバムに入っている"Andy Waloo"、"Minouche"、"Happy End"はその時つくったものだ。(同インタヴュー)
それから数ヶ月、二人は定期的に会いトマのホームスタジオで同じようなやり方でインプロセッションをし、しまいにラシッドはトマにこのアルバムをおまえのプロデュースで作ろう、と。このプロジェクトは発端から数えると2年の歳月を費やすことになる。
俺はラシッドにこう言った:「あんたはもうじき60歳になるんだ。あんたがのべつまくなしに叫んだり飛び跳ねたりするようなアルバムにはしたくないんだ。俺はあんたと一緒に"オリエンタル・パンク・クルーナー"のアルバムをつくりたいんだよ」。そしたら彼は目を大きく見開いたんだ。ここアイディアが気にいったのさ。(同インタヴュー)
と、ここのところの話はもうひとりの孤高のロッカー、ダニエル・ダルク(1959-2013)ととてもよく似ている(ラティーナ2019年9月号の拙記事「ダニエル・ダルク、あるロックンローラーの生と死」読んでください)。2004年に年下のシンガーソングライター、フレデリック・ローのホームスタジオで、2年がかりでローと二人三脚でつくった傑作『心臓破り(Crève coeur)』は正真正銘の"パンク・クルーナー"のアルバムだ。ダニエルとラシッド・タハは同じ1959年生まれだった。

 レ・ザンロキュプティーブル(「泣けるほど美しい」)、リベラシオン(「最高の遺作」)、テレラマ(「溢れ出る活力、胸を刺す遺作」)、フィガロ(「いまだかつてなく活き活きとしたラシッド・タハ」)などメディアの大絶賛に迎えられて2019年9月20日にリリースされた、ラシッド・タハ11作目のアルバム『アフリカン(Je suis Africain)』、10曲38分。先行で発表されたアルバムタイトル曲 "Je suis Africain"のヴィデオ・クリップ(↓)は打ち上げ花火のように華やかで祝祭的な雰囲気の中、不在の故人に代わって現れる(レコーディングに参加しているわけではない)ゲストスターたち:オクスモ・プッチーノ、ムース&ハキム、フェミ・クティ、アニエス・B、カトリーヌ・ランジェ、バンジャマン・ビオレー、ジャンヌ・アデッド、クリスチアン・オリヴィエ、ムールード・アシュール...

われらすべてアフリカン、マニフェスト的な誇りに溢れるこのアフロ・オリエンタル・ポップの歌詞に登場する(ネーム・ドロッピングされる)"アフリカ人”たちとは、マンデラ、ラ・カヒナ(7世紀ベルベル女王)、マルコムX、カテブ・ヤシーヌ、ジミ・ヘンドリックス、ジャック・デリダアンジェラ・デイヴィスフランツ・ファノンパトリス・ルムンバトマ・サンカラ、ボブ・マーリー、ハンパテ・バー(マリの作家/人類学者)、エメ・セゼール、そしてラシッド・タハとなっている。
  ジャケットを開くと、ビートルズ「サージェント・ペパーズ」にも似た50人ほどの偉人/著名人たちの似顔絵イラストが中央のラシッドの似顔絵を囲んでいる。上の"Je suis Africain"でネーム・ドロッピングされた人物だけではない。このアルバムはラシッドはもちろん「遺作」を意識してつくったわけではない。しかしこれらの人々はラシッドの人生に大きな影響を与えたであろうし、人生の終わりに謝辞を捧げているようなアルバムになってしまった。それほどアルバム中のネーム・ドロッピングは重要である。
ー 5曲め "Wahdi" : ファリド・エル・アトラッシュ
ー 7曲め "Andy Waloo" : アンディー・ウォーホル、ハリル・ジブランウマル・ハイヤームアブー・ヌワース、エルヴィス・プレスリー、ボ・ディドリー、エディー・コクラン、ウーム・カルスーム、ルー・リード、ジョニー・キャッシュ、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、ジャン・マレー
ー 9曲め "Like A Dervish" : マイルス・デイヴィス、エルヴィス・プレスリー
ー 10曲め "Happy End" :マルレーネ・ディートリッヒ、ウィリアム・シェイクスピア
ジャケット内側のイラストにはこれらの歌に出た人たちのほかに、カール・マルクス、ジョン・レノン、パティー・スミス、カルロス・サンタナ、ブライアン・イーノといった人たちの顔も見て取れる。生きている人も中にはいるが、ラシッドの音楽と思想と生き方にインスピレーションを与えてきたこれらの偉人たちと、ラシッドは今や同じところにいるのかもしれない。
 5曲め "Wahdi"でデュエットしている素晴らしい女性歌手 Flèche Love(フレッシュ・ロヴ)ことアミナ・カデリは、スイス在住のアルジェリア系アーチストで、ラシッドが YouTubeで発見して、アルバムにこの声が欲しいとトマ・フェテルマンに猛烈に要求したのだそう。フランス語とアラブ語とスペイン語の混じるメランコリックなバラード。
 言語のゴチャ混ぜはこれまでもラシッドの特徴でもあったが、このアルバムではなんと英語曲がある。歌詞でもろに "This is my first song in English"と紹介する9曲め"Like A Dervish"。だがすぐにごまかし、インチキをし、"My English is not so rich"と照れる。ダンサブルだし、カルト・ド・セジュール時代のようなアラビックビートだし、2曲め "Aïta"と共にダンスフロアーに直行のナンバー。
 しかし、しかし、俺の言語はアラブなんだよ、と最後に言ってしまう。愛の言葉、俺はどんな言語でも言えるけれど、おまえの心に残るのはアラブ語だろう。そういうことをアルバムの最終曲で、最も美しいシャービに乗せて歌うのですよ。これが幸せな終わり。ハッピーエンド。どうして、こんな出来過ぎの終わりができるのか。本当にこれで終わりなのか。

俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
おまえは俺の命、おまえは俺の愛
おまえは俺の命、おまえは俺の愛
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
イッヒ・リーベ・ディッヒ
だいたいそんなことはどうでもいい
俺はマルレーネ・ディートリッヒが大好きだ
テ・キエロ
アイ・ラヴ・ユー
テ・キエロ
ハビビ
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
俺の目がおまえを見るその前に、俺はおまえを見ていた
アイ・ラヴ・ユー
モナムール
イッヒ・リーベ・ディッヒ
ほかのことはどうだっていい
おまえを心から愛している
それは月並みな言葉だって知っている
おまえをいつだって愛している
こうなると、俺だって美しい
あらゆる言語で俺が歌を歌うことができたら
俺の口からシェイクスピア物語が出てきただろうに
だけど俺の言語はアラブ語なんだ
そんじょそこらにあるアラブ語じゃない
俺の言語はおまえの心に残る
アラブ語なんだ
("Happy End")


<<< トラックリスト >>>
1. Ansit
2. Aïta
3. Minouche
4. Je suis Africain
5. Wahdi (feat. Flèche Love)
6. Insomnia
7. Andy Waloo
8. Striptease
9. Like A Dervish
10. Happy End

RACHID TAHA "JE SUIS AFRICAIN"
CD/LP NAIVE/BELIEVE
フランスでのリリース;2019年9月20日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2018年9月「ラシッド・タハ死去 」を報じるモロッコMEDI 1 TVの仏語ニュース。

2019年9月17日火曜日

秋の日の ヰ゛オロン

Akira Mizubayashi "Ame Brisée"
水林 章 『折れた魂柱』

ジャックは会計をすませ、ギャルソンに食事を長引かせ深夜まで居残ったことを詫びた。そして二人はレストランを出た。
「あらいやだ、雨が降ってるわ」とエレーヌは呟いた。
わが心に涙が降るごとく、巷にも雨が降る
「それ順序があべこべよ」

「知ってるよ、でもこれは自然に僕の口から出てきたんだ...」
               (『折れた魂柱』p110 )

 作者自身もヴェルレーヌを援用しているので、私もこの記事タイトルに、おそらく日本人が最も親しんでいるフランス詩人、ヴェルレーヌを。お立会い、これは壮大なるヴァイオリン小説です。
まず題名の中の"âme"ですが、通常「魂、精神、心」といった訳語が付されるものです。これがヴァイオリン類の弦楽器では、共鳴胴内部で表板と裏板の間に立てられる棒の柱のことであり、日本語では魂柱(こんちゅう、たまばしら)と呼ばれ、表板の振動を裏板に伝え楽器全体が同じ振動で共鳴するために絶対的に必要なものです。ですから題名"Ame brisée"は仮に「折れた魂柱」と訳しましたが、これはもちろん文字通りに訳せる「壊れた魂」「砕けた心」の意味も同時に含んでいるのです。この魂柱を割り砕き、人間たちの心に消え難い傷を負わせるのは日本の軍国主義であり、戦争であるのです。
 小説の始まりは1938年、場所は東京渋谷(神泉)、二人暮らしの父と子、教養人で英語教師でアマチュア音楽家(ヴァイオリニスト)であるミズサワ・ユウが11月の日曜日、子供を連れて区の文化公民館の一室で弦楽四重奏の練習を。11歳の息子レイは一緒についていくが、何よりも今読んでいる本に夢中で、練習中も退屈することなく熱中読書。その本は吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』(1937年新潮社刊。これが2019年9月現在宮崎駿が制作中の最新アニメ作品の題名であり原案小説である、という話はこの小説とは全く関係がない)で、この本はレイの一生の友になっていくのです。さてユウの四重奏団のほかの3人(男2+女1)は中国人留学生で、1937年の日中開戦以来その滞在が危険なものになっているものの、学問の自由をまだ信じて勉学を続けている。紅一点のヴィオラ奏者ヤン・フェンは流暢で誰もがネイティヴと思うような日本語を話す。このことが彼女の運命と大きく関わり、日本・フランス・中国にまたがるこの小説の重要な核のひとつとなります。ここにひとりのフランス人フィリップが介入します。この男はフランスの新聞社の日本駐在記者でしたが、日本の軍国主義化によって報道活動の困難と危険を覚え、緊急にフランスに帰国することになっている。友人のユウにそのことを告げに来たのだが、ユウが四重奏団の練習中だったので、その晩ユウの自宅に出直して話すことに。フィリップが去ったあと、日本人を第一ヴァイオリンとしてあとの3人を中国人で固めた弦楽四重奏団はシューベルト弦楽四重奏曲第13番イ短調『ロザムンデ』D804の練習を繰り返す。
 前章とエピローグに挟まれたこの小説の本編4章は、この『ロザムンデ』の4楽章と同じ  " 1. Allegro ma non troppo / 2. Andante / 3. Menuette - Allegretto / 4. Allegro moderato " と名付けられていて、この小説がこの楽曲とシンクロしていることを示しています。
 そしてこの4人の練習中に、日本兵(憲兵隊)が乱入してきます。その気配にユウは息子のレイを練習広間に隣接する物置場の中の大きな戸棚の中に身を隠させます。レイはその後に起こる事件を戸棚の内部から鍵穴を通してしか知ることができない。憲兵隊はユウを敵国音楽(シューベルトはオーストリア人で、今やオーストリアはナチスドイツに占領されたので敵国ではない、とユウが教養ある反論をし、憲兵の逆上を招く)を敵国人(中国人)と演奏する非国民であり、敵国諜報員に違いないと決めつけ、ユウに殴る蹴るの蛮行、その上ユウのヴァイオリンを叩き割り、軍靴で潰してしまいます。そこへ上官のクロカミ中尉が現れ、部下の乱暴をやめさせ、スパイではなく本当の音楽家であるかもしれないではないか、とユウに一曲演奏するよう命じる。自分の楽器が壊されたので、四重奏曲はできないと、ユウは第二ヴァイオリン奏者からヴァイオリンを借り、ソロで小作品を見事に奏でます。するとクロカミ中尉は「バッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番のガヴォットですね」と曲を言い当て、その演奏を称賛します。 この音楽愛好家の軍士官の登場でその場は救われたと思いきや、軍上層部からの伝令が割り込み、全員検挙の命令が下されます。部下たちが4人の音楽家を逮捕連行したあとも、この光景に無念を感じた中尉は踏みにじられたヴァイオリンの残骸を手にして、控えの物置室に入ると人の気配を感じ、大きな戸棚を開けてみるとひとりの少年が震えながら隠れている。背後から中尉を探して迎えに来た部下たちの声がして、とっさにクロカミはこの壊れたヴァイオリンを少年に手渡し、戸棚をしめて、何事もなかったように部下たちに合流していきます。
 重要なディテール忘れてました。憲兵たちが乱入してきた時に、ユウはヴィオラ奏者ヤン・フェンを「私の妻のアイコです」と日本人と偽って庇おうとします。これが純粋にとっさの機転だったのか、それともユウの秘めた想いが発露したのか、2000年代まで中国で生き残ったヤン・フェンにずっと後をひくことになり、ヤン・フェンは独身を通しました。それはそれ。
 レイは壊れたヴァイオリンと『君たちはどう生きるのか』の本を持って、歩いて家までたどりつきますが、その途中で一匹のシバ犬と出会い、父親が鍵を持ったままなので家に入れず門前で座り込んで寒さに震えているのを、このシバ犬が体を寄せつけて暖をわけてくれるという美しい話が挿入されます。そしてその晩、ユウとの約束でやってきたフィリップがこの状況を完璧に把握して、レイの父ユウはもう生きて戻ることはないと判断し、フランスに孤児としてレイを連れていき、養子としてフランスでフランス人として育てるのです。これが壮大なる小説の始まりです。

 ミズサワ・レイは11歳でフィリップ・マイヤールの息子ジャック・マイヤールとして生まれ変わり、フランス人として教育され,、ヨーロッパのヴァイオリン工芸の聖地であるフランスのミルクール(ヴィヨーム)とイタリアのクレモナ(ストラディバリ、アマティ、ガルネリ)で修行を積んで一流のヴァイオリン工芸職人となっていきます。その修行時代のミルクールで知り合ったヴァイオリン弓職人のエレーヌと恋に落ち、二人はカップルとなってパリでヴァイオリンと弓の製造・修繕アトリエを持ちます。ジャックは日本を離れて何年経とうが日本語を忘れることを避けるためにかの『君たちはどう生きるのか』を繰り返し読み続けます。そして十分に腕の立つ職人としての自信がついた時から、父ユウの遺品である砕かれたヴァイオリン(19世紀製造のヴィヨーム)を少しずつ修繕し、十数年の年月をかけて完全に復元することができたのでした。
 ジャックの個人史のすべてを知るエレーヌは、国際ヴァイオリンコンクールで優勝し世界的に注目されている若き日本人ヴァイオリニスト、ヤマザキ・ミドリにジャックとの繋がりを直感します。 そのインタヴューで「元軍人の祖父によってヴァイオリニストへの道を拓かれた」という箇所にピンと来たのです。
 半信半疑でコンタクトを取ったミドリは、まさしく元陸軍中尉クロカミの孫であり、ジャックは60余年もの間帰ったことのなかった日本にミドリに会いに行きます。「ジャック・マイヤール ⇄ミズサワ・レイ」というひとりの中の二つの人格を行き来する小説ではありませんが、この日本への旅は「失われたミズサワ・レイを求めて」の旅という性格を帯びます。ヤマザキ・ミドリとその母のヤマザキ・アヤコ(故クロカミ・ケンゴの娘)の前に立ったフランスからやってきた老ヴァイオリン職人は「ミズサワさん」なのです。この母娘から元陸軍中尉がどんなに戦争を憎み、自分が加担した戦争を恥じ、苦しんでいたか、そしてあの戸棚の中にいた少年がどうなったかをどんなに案じていたかを聞かされます。特に死期が近づき、幻覚が襲ってきて、戦争を呪う妄言が著しくなっていった、と。クラシック音楽、とりわけ弦楽曲を深く愛していた元中尉は、聞くレコードにも偏愛があり、深い想いを持って何度も聴いていたのがシューベルト弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」であった、と。孫のミドリに大きな影響を与え、世界的なヴァイオリニストになるきっかけを与えたクロカミ・ケンゴは、晩年に孫ミドリと娘アヤコを同行者として長年の夢だったヨーロッパのクラシック音楽聖地めぐりの旅に出て、ベルリン、ウィーン、プラハなどを訪問した際に、ヴァイオリンの聖地イタリアのクレモナ、そしてフランスのミルクールも訪れていた。1938年のあの夜、部下憲兵によって砕き壊されたヴァイオリンが19世紀にミルクールで作られたヴィヨームであったことを知っていたからではないか。その旅は元中尉にとって日本の軍国主義によって破壊された音楽と楽器と音楽家への供養と懺悔の旅ではなかったか。
 
小説中最高に美しい小話のひとつ:ミズサワ・レイが東京のヤマザキ・ミドリの家で昼食に母アヤコが料理したトンカツを食べます。白いご飯と味噌汁をなつかしく口にしながら、突然に1938年11月のあの日の朝、父ユウと食べた朝食を思い出し、アヤコに勝手なお願いで恐縮ですが「生卵一個いただけませんか?」と。小鉢に卵を割り、箸でかき混ぜ、醤油を少し垂らし、それをご飯茶碗にかけ「生卵ごはん 」で食べたのです。プルーストのマドレーヌよろしく、ここでレイは60数年前のあの朝の記憶が鮮明に蘇り恍惚となるのです。この光景を見たミドリとアヤコは、クロカミ・ケンゴがあのヨーロッパ旅行中、しかも終盤のフランスのミルクールで、長旅で続いた欧風料理の食事が口に合わず何も食べられなくなり、ミドリとアヤコがここならば食べられるものがあるだとうと連れて行ったミルクールの町の中華レストランで、それでも何も食べられず、ケンゴが「白いご飯と生卵を」とわがままを注文し、本当においしそうに「生卵ごはん」を食べたというエピソードを話すのです。最高じゃないですか、生卵ごはん。フランス人読者にどこまで感動が伝わるか。日仏バイリンガルな自分が本当に徳だと思える瞬間です。この挿話は extrêmement délicieux, un régal、 水林章にごちそうさまと言いたいです。
 
 小説はそれぞれの戦争と戦後を終わらせるための長い旅のようです。戦争を憎み、愛する音楽のために苦しんで死んだクロカミ・ケンゴと、音楽を愛したまま虐殺された父ミズサワ・ユウの魂を鎮める仕事がレイに託されていたわけです。戦争に破壊されたヴィヨームの名器ヴァイオリンは、ジャック・マイヤール/ミズサワ・レイが完璧に復元し、それを試した世界的ヴァイオリニスト、ヤマザキ・ミドリは驚異と感動でヴァイオリンのように打ち震えます。レイはこのヴィヨーム(+エレーヌ作の弓)をミドリに進呈し、ミドリはそれまでの愛器ストラディヴァリウスをしまい、このヴィヨームで世界の演奏会に臨むことになります。
 一方、中国上海の病院で闘病生活を送っていたヤン・フェンとも60数年後にコンタクトが取れます(インターネットってすごいですねぇ、としか言えません)。余命いくばくもないヤン・フェンのいる上海に飛んでいったレイ。ヤン・フェンはレイの父ユウがあの1938年11月の夜に特高に連行されてから、どのように最後の日々を生きていたかを知りうる限り証言します。遺品はふたつ。特高に見つかってはまずいと判断したのだろう、捕まる前にとっさにユウから手渡された小林多喜二『蟹工船』の本(ヤン・フェンはこれをスカートの中に隠して難を逃れた)、そして若くして死んだレイの母が着ていたカーディガン(ユウが寒い練習の日にヤン・フェンに着せて貸したままになっていた)。ユウの最後をレイに話し、遺品ふたつを手渡すことによって、ヤン・フェンの長い戦後は終わったのです。
 そしてフランスに戻り、月日は流れ、ある日、ヤマザキ・ミドリがアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」のプログラムでパリのクラシックの殿堂サル・プレイエルでコンサートを開くので、と招待を受けます。舞台から十数メートル離れた中央席という最良の音響で聴ける場所に座らされたジャックとエレーヌ。かの名器ヴィヨームでベルクの協奏曲を見事に演奏しきったミドリは、アンコール楽曲に入る前にフランス語で聴衆に、手に持っているこのヴィヨームのヴァイオリンの辿った数奇な運命、祖父の陸軍中尉と日本人アマチュア演奏家の出会いと悲劇、その演奏家の息子がフランスに亡命して世界的ヴァイオリン工芸家となり、このホールに臨席していること... を長々とスピーチし、大喝采を浴びるのです。そしてアンコール曲として、あの日ミズサワ・ユウの四重奏団がリハーサルしていたシューベルト弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」を、さらに再アンコールに、あの夜ミズサワ・ユウがクロカミ中尉にソロで演奏して聞かせたバッハ無伴奏パルティータ第3番ガヴォットを...。

 たいへんな音楽小説であり、水林章の音楽愛と、その音楽を描写する詩的な文体から音楽が流麗に聞こえてくる240ページ長編です。前作『千年の愛(Un amour de Mille-ans)』(2017年)については、2017年5月15日号のオヴニー紙に「フランス語愛とモーツァルト:水林章『千年の愛』を読む」という記事を書きました。これもモーツァルト歌劇『フィガロの結婚』 をめぐる壮大な音楽小説でしたが、その記事でも触れているようにその主人公も日本の(ポスト福島的現在の)状況に追われるように、病めるフランス人妻とフランスに移住してきます。日本の戦前回帰的傾向も作者の苦悩の種になっています。軍靴によって踏みにじられたヴァイオリンの魂柱を立て直し、父ユウと元中尉クロカミとヴィオラ奏者ヤン・フェンの戦争と戦後を終わらせ、鎮魂するのは、ジャック⇄レイとエレーヌとミドリ(+アヤコ)の共同体であり、それは音楽によってなされるのです。私はそのオヴニーに書いた前作紹介記事で、水林のフランス語表現の有効性を強く感じて、バイリンガルの狭間に立っても、これはこちら側(フランス語側)の小説であり、日本語訳が遅くなっても別にかまわないと書きました。しかし、この新作『折れた魂柱』 は、戦争のこと、日本の政治/文化状況のことを考えれば、日本人にこそ読まれなければならない小説だと思いますよ。水林先生、ぜひ日本語化を考えてください。

カストール爺の採点:★★★★☆

Akira Mizubayashi "Ame Brisée"
Gallimard刊 2019年8月 240ページ 19ユーロ 

(↓)シューベルト弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」



******* ******* *******
 
2021年8月追記

本記事で「ぜひ日本語化を」と呼び掛けたのは私であるが、それに応えてくださったのかどうかは定かではない。2021年8月2日、みすず書房から本作の日本語訳『壊れた魂』が刊行された。作者名がカタカナで「アキラ・ミズバヤシ」、訳者名が「水林章」。この翻訳でご自分の中の仏語人と日本語人はどう対話・格闘されただろうか、興味深いところである。2019年から当ブログ記事で関心を寄せてくださった多くの日本語人(非フランス語人)の人たち、お待たせしました。日本語でこの壮大なるヴァイオリン小説を味わってみてください。

みすず書房の『壊れた魂』紹介ページへ

 

2019年9月14日土曜日

異端 ・トゥー・フォーエヴァー


『ジャンヌ』
"Jeanne"


2018年フランス映画
監督:ブルーノ・デュモン
主演:リーズ・ルプラ=ブリュドム(ジャンヌ)、特別出演ファブリス・ルキーニ(王シャルル7世)
原作:シャルル・ペギー
音楽:クリストフ
フランスでの公開:2019年9月11日

が観たわが町のランドフスキー名画座(平日15時45分の回。平日のこの時間は客はほとんど老人ばかり)では、上映開始5分後にすでに立って退場する観客が数人いました。開始早々「えらいものを観にきたもんだ」という戸惑いは私にもありました。海が近いであろう灌木と砂丘の荒野、セットなどない殺風景な丘陵に時代(15世紀)の扮装だけはしている少人数の登場人物が、セリフ棒読みアマチュア演劇のようなダイアローグを。ジャンヌ・ダルク物語と聞いて、歴史的大絵巻物のような映画を想って観にきたのかもしれない善良な老人たちは、すぐさま「これは違う」と気付いて退場して行ったのだろう。わかりますよ。私だって、これ最後まで観れるだろうかと不安になりましたもの。低予算、活劇なし、素人演技,,, その上、音楽が大きくフィーチャーされていて、エレクトロニクス楽器の調べに乗って老巨匠クリストフが切れ切れの高音ヴォーカルで長々とジャンヌへのエレジーを歌うのですよ。耐えられない人もいましょう。
歴史的事件はこうです。イギリスとの百年戦争で領地を大幅に奪われたフランスは、1429年、神からのお告げでフランスを救うために立ち上がった少女ジャンヌの率いる軍によりイギリス(+ブルゴーニュ連合)軍を破り、オルレアンを解放し、フランス王位後継者シャルル7世を戴冠させた。ここでジャンヌは救国の聖女と崇められるのですが、シャルル7世は「首都」パリ解放をジャンヌに命じ、この戦いに赴いたジャンヌは初めて敗北を喫してしまいます。英国に同盟したブルゴーニュ軍によりコンピエーニュで捕らえられたジャンヌは、英国軍に引き渡され、ルーアンでカトリック教会聖職者たちによるジャンヌの異端裁判が行われます。
この映画はパリ奪回戦の敗北の責任を、兵士たちに戦意を鼓舞することなくキリスト教的な「愛」を説いたジャンヌに負わせたい軍部、神の啓示による戦争を説きながら破れるという「神の名」を語った詐欺・冒涜を裁こうとするカトリック教会、敵国イギリス+ブルゴーニュによるフランスの敗戦責任の追及を一身に受けた囚われのジャンヌの、敗北→異端裁判→火刑による死までも描いた作品です。
ジャンヌを演じるリーズ・ルプラ=プリュドムは12歳(シジエム=コレージュの初学年=日本式に言えば小学6年生)。後述しますが、映画はこれが初めてではなく、この映画の前のブルーノ・デュモン監督の作品『ジャネット - ジャンヌ・ダルクの子供時代(Jeannette - L'Enfance de Jeanne d'Arc)』(2017年)で既に8歳のジャンヌ・ダルクを演じています。映画『ジャンヌ』(初公開が2019年5月カンヌ映画祭「監督週間」部門)の評価は、何をおいてもこの少女女優の圧倒的なプレゼンスに集中しています。この少女だけで観る者は否応なしにこの映画の最後まで惹きつけられてしまうのです。
意表をついた演出です。予算の関係ということではなく、北部フランス(フランドル)出身の監督ブルーノ・デュモンのエステティスムによるものと思われる荒涼とした北フランスの丘陵の上でフランスのすべてが決まるのです。教会司教、王軍参謀、王の使者らがこの何もない荒野に集まり、甲冑で身を固めた少女ジャンヌにフランス王国の命運をゆだねます。大人と子供の会話のようにも見えます。神のお告げは、雲が払われて輝き出す太陽を見つめるジャンヌにだけ聞こえているようです。このジャンヌには迷いもあります。生身の12歳の少女の目は神がかっている時だけはなく、人間の目にもなってしまう時があります。
莫大な人員を使った歴史的戦闘シーンなど、この映画には登場するわけがない。これをブルーノ・デュモンは、甲冑姿で槍を持って馬上にあるジャンヌを真ん中に、空中から撮影した数十頭の騎馬兵による大掛かりな馬術バレエとして表現します。この馬術バレエはかなり延々と続きます。ん?ん?ん?と思ってしまいますよ。
ジャンヌの功績でフランス王として戴冠したシャルル7世(演ファブリス・ルキーニ。この映画中、おそらく唯一人の"プロの”俳優)は、敗北したジャンヌと面会しても、ジャンヌを擁護せず、軍務から解いて退陣させようとします。このファブリス・ルキーニの"浮いた”演技はまさに名人芸、映画中の最大の「場違い」さはユビュ王と同種の不条理でしょう。
史実ではルーアンでされたとなっているジャンヌを裁く異端裁判は、この映画はアミアンの大聖堂で撮影されたようです。この威圧的な大伽藍は、封建時代の重さ、宗教権力の重さ、中世の重苦しさ、そんなものらがいっぺんにものを言っているようなアトモスフィアを一目瞭然に作り出してしまうのですが、ジャンヌが見上げればそこにも光は差すんですよ。そして法学者、聖職者、権力者らが一方的にジャンヌの異端性を詰問し、その過ちの自白を強要します。ここはアマチュアが演じているからということなのか、露骨な頑迷さと憎悪だけが際立ったものの言い方が逆に迫真的です。その中でひとり、頭巾で顔を隠していた老高僧が、頭巾から顔を覗かせ天を向いてジャンヌへの哀歌を歌い出す、という唐突な展開があり、この歌う老高僧がクリストフその人なのでした...。(↑写真、高僧クリストフに演技指示するブルーノ・デュモン)
 火刑を待つジャンヌが閉じ込められる牢獄は、おそらく北フランスの古戦場(第二次世界大戦?)に残されているコンクリート製のトーチカの趾をつかったものだと思われます。中世と20世紀などひとっ飛びだなぁ、と妙な感心をしてしまいました。その牢獄の中で、汚れ、ボロボロになっていくジャンヌもリアルに描かれていて、異端とされても信仰を捨てない、その神に祈る姿がこれまた不条理なものです。
 この映画の前作『ジャネット - ジャンヌ・ダルクの子供時代』(2017年)は観ていませんが、映画サイト AlloCinéの紹介を読むとこれまたかなり奇抜な演出で、バロック・メタル/デス・メタル系のアーチスト Igorr (イゴール)と組んだミュージカル映画仕立て(振付けがフィリップ・デクーフレ!)です。(↓『ジャネット - ジャンヌ・ダルクの子供時代』予告編)


(↑)この前作観ていたら、この本作の印象も全然違うのでしょうね。しかし心の準備をせずに、予備知識ゼロでこの映画観てよかったと思ってます。意外性の連続が強烈に新鮮でした。カール・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1928年)と同じほどに「顔」がものを言う映画ですが、『裁かるるジャンヌ』はサイレントだったから顔がものを言うしかなかったと言えばそれまでですけど。しかしこの12歳の少女(リーズ・ルプラ=プリュドム)の神がかりの顔は、どんなジャンヌ・ダルク映画の聖処女像よりも心を射る強烈な印象が残ると思いますよ。この映画の突飛性や前衛性はこの顔に支えられれば、全然大丈夫な2時間18分になってしまうのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ジャンヌ』予告編


(↓)2016年ARTEで放映された映画ジャーナリストのフレデリック・バスがまとめた歴代のジャンヌ・ダルク映画の断片集。カール・ドライヤー、ロベルト・ロッセリーニ、ジャック・リヴェット、リュック・ベッソン、ザ・シンプソンズ.... 。やっぱりジーン・セバーグかな。