『ドヌーヴの勝手に逃げろ(という邦題を提案したい)』2013年フランス映画
"Elle s'en va"
(日本上映題『ミス・ブルターニュの恋』)
監督:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ネモ・シフマン、ジェラール・ガルースト、カミーユ
フランス公開:2013年9月18日
のっけからこんなこと言ったらナンですが、この人、何歳だと思います? - 1943年生れ。これを書いてる時点で言うと、もうすぐ70歳になられます。言うまでもなくこの方は20世紀フランス映画のイコンです。もとい20世紀映画の大文字と定冠詞つきの一等賞女優そのものであります。モニュメントであります。そのモニュメントに対して、「あんた本当は何歳なんだい?」と若い男が聞くシーンがあります。
ディープ・フランス、ブルターニュの内陸部の村におそらく一軒しかないファミレス兼バー兼ディスコ兼ゲームセンターに迷い込んだベティー(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、土地の風来坊マルコ(ポール・アミ。ワイルドなダメ男風貌+5日髭で、獄中時代のベルトラン・カンタによく似ている)にしこたまアルコールを飲まされて、朝目が醒めたら、ホテルのダブルベッドで男と裸で寝ている、という具合。朝食をトレイに載せて持ってきたマルコに、一体昨夜何があって、どうしてここにいるのかの一部始終を聞いて、そんなバカな、と愕然とするベティー。「あんた本当は何歳なんだい?若かった頃はきれいだったろうなって想像しながらあんたとセックスしてたんだ」なんてことをこの田舎の若造が言ってしまうのですよ!ええい、控え居ろうっ!ここにおわすお方をどなたと心得る! 天下のカトリーヌ・ドヌーヴなるぞ...。....ではないのですが、この映画では若い頃はとびきりきれいだった女で、1969年の「ミス・ブルターニュ」に選出されたということになっています。
これまで汚れ役やお笑い役がなかったわけではないのに、「美人」「大女優」の看板が邪魔して、何やっても硬質で、理知的で、元・お嬢さん的で、ブルジョワ的で、体感温度低めで、というイメージがあった人です。まあ、それを本人も気にしていたようです。
カトリーヌ・ドヌーヴは変わった。老いたし、体重も増えた(体型はずいぶん変わった)。しかし、今この大女優がありのままで出てきても、多くの人は、やっぱり幾多の輝かしい過去を背負った大女優の姿を見てしまうでしょうね。
映画の最初の舞台はブルターニュ地方の漁港の町コンカルノーです。ベティーは母親と二人暮らしで、レストランを経営していますが、このレストランが今や経営破綻状態です。おまけに30年来愛人関係にあった妻ある男エチエンヌ(画面に登場しない)が他の若い女のところに逃げてしまいます。ベティーはその夜、長年やめていたタバコを深々と吸ってしまいます。す〜〜〜〜っ... ふぅぅぅぅぅ〜〜〜〜っ....。なんとおいしそうにタバコを吸う大女優でしょうか。21世紀になってから、フランスではタバコは社会悪のチャンピオンの座にあり、テレビや映画からどんどんシャットアウトされてきました。ところが、この映画はこの瞬間から「タバコへのオード」とでも言うべき、タバコによる恵みと救いがサブ・テーマのように随所に登場します。私は元・スモーカーですから、この救いは実体験としてわかってしまう部分があります。そもそもタバコは南米古代マヤ文明の沈痛薬・悪霊祓い薬として使われていたそうですから、歴史的に長い間これは痛みや悪から救ってくれるものだったはずでしょう。
倒産の危機&愛人の離反という目の前真っ暗な事態に、ベティーはタバコでいっときの落ち着きを取り戻すのですが、タバコが切れた時点でパニックはまたやってくるのです。つまり長年やめていたタバコに手を出したその時から、ベティーは仮性「モク中」に陥ってしまったのです。レストランの昼の営業中、この女主人は「ちょっと出て来る、すぐに帰ってくる」と言い残して、ベージュ色のメルセデス・ベンツ・ブレーク(90年代ものでしょう)に乗り込み、さまざまな暗澹たる思念に涙しながら、タバコを買いに出かけるのです。こうしてこのロード・ムーヴィーは始まります。
ところが2013年的今日、タバコを買うというのは大変なことなのです。場所はフランス深部、時は日曜日、開いているタバコ屋などあるはずがない。ベージュのベンツは出発点からどんどん遠ざかっていきます。その道々でベティーはさまざな人(一人暮らしの手巻きタバコの老人、深夜のショッピングセンターのガードマン、バーのテーブルの一角を占拠している気のいいレズのお姉さんたち、そして上に述べた若い風来坊...)と遭遇して、相手の身の上話を聞いたり、自分の身の上のあることないこと(かなりデマカセを言うこともある)を話したりということで、自分が抱えた山ほどの厄介ごとから少しずつ離れていくのです。
という老女の家出行が軌道に乗り始めた頃に、普段全く音信のなかった娘ミュリエル(カミーユ!怪演!)から携帯電話にメッセージが入ります。夫を失い、女手ひとつで息子シャルリー(ネモ・シフマン。これまた怪演)を育てていますが、ずっと失業中だったミュリエルにやっと就職のチャンスが見つかり、明日面接という時に、息子シャルリーの夏ヴァカンスの世話を見なければならず、困り果てているから(普段には嫌っている)母ベティーにSOSを発信。すなわち、息子を亡夫の父のところでヴァカンスを過ごすために、そこまでベティーに送り届けて欲しい、と。普段にはあり得ないこの娘の願いをベティーは受け入れ、ここから第二のロード・ムーヴィーが始まるのです。
ベージュ色のベンツはブルターニュからマイエンヌ地方に入って、娘の家でシャルリーをピックアップし、進路を南東に取り、ローヌ・アルプ地方までの長い旅路に出ます。ところが、このシャルリーという少年が、母親(ミュリエル)似の手に負えない120%自己主張の子である上、120%情緒過敏な子なのです。道中はトラブルが絶えませんが、始終ベティーは「いいおばあちゃん」であり続けます。しかし、突然に(ベティーのレストランの経営破綻の結果として)彼女のクレジット・カードが支払い停止となり、支払いが出来ないばかりか、現金引き出しも拒否されて、高速道路上のサービスエリアでベティーは一文無しになってしまいます。金もない、食べるものもない、タバコもない。シャルリーは役立たずとなった祖母に反逆し、車を降りてひとり逃走し、映画は最大の窮地に陥ります。はらはら、ドキドキ。
美は危機を打開する。上にちらりと書いたように、ベティーは1969年度の「ミス・ブルターニュ」に選出されるほどの美人であった。その往年のミス・フランスを一堂に集めての写真セッション(チャリティーと化粧品メーカー宣伝の目的で旧ミスばかりで写真カレンダーを作る)が、ローヌ・アルプ地方アン(Ain)県(県番号01。フランス人だったら他の県は知らなくても、誰でもこの県は知っているのです)の湖畔の町の豪華ホテルで催されている。ベティーはその招待をずっと断っていたのですが、(金と食べ物のために)急遽その招待を受諾して、シャルリーを連れて豪華ホテルに乗り込むのです。 ミス・ノルマンディー、ミス・ピカルディー、ミス・ラングドック、ミス・アキテーヌ、ミス・プロヴァンス、ミス・イル・ド・フランス.... たくさんの旧ミスたちとの再会。このシーンは大いに笑えます。しかしみんな美しい。その美しさを人工的に保っている人もいれば、内面から保っている人もいれば... ここは教えられるもの多いですね。
この写真セッションの虚飾に満ちた世界のストロボ・フラッシュの連続の果てに、ベティーは気を失って倒れてしまいます。その収容された病院に、ミュリエルの義理の父、すなわちシャルリーの祖父であるアラン(ジェラール・ガルースト)が現れます。この男は気難しくも不器用で、シャルリーとベティーの自分の領域への出現を全く歓迎していないような対応をします。しかし.... このアランはスモーカーなのです。ベティーとアランのぎくしゃくした最初の出会いは、一本のタバコの共有です〜っと救われるものがあるのです。
アランはこのアン県の小さな町 の町長で、折しも地方選挙の真っ最中、「この大事な選挙の時に、あんたたちにかまっているヒマはない」みたいなナーヴァスな態度だったのですが、選挙当日、支持者たちを自宅庭園に招いて昼食会、その料理を(現職レストラン経営者である)ベティーが準備します。そこへ、ベティーの失踪を案じてブルターニュからベティーの母親がかけつけます。その上、就職活動で忙しいはずの娘のミュリエルもやってきます。ミュリエルは積年の恨みをぶちまけるように、ベティーへの悪口雑言(曰く、あんたは自分の夫=ミュリエルの父よりも愛人を愛した不貞の妻・母、娘=ミュリエルを愛したことのない冷血な母...)を衆人に聞こえる大声&早口で超ワイルドに長広舌します(このシーン、本当にカミーユのキャラクターにはまりすぎ)。
田舎の庭園の大昼食会には、(絵に描いたようなフランスのように)アコーディオンがつきものなのです。そして古いシャンソンがあります。おいしいワインがあります。ここでユートピアが出現してしまうのです。ミュリエルとベティーは和解し、その夜、ベティーとアランは恋に落ちます。なんでや、この結末は,,,,
これは70歳のカトリーヌ・ドヌーヴだから可能だった映画なのです。シナリオの弱さやこじつけはままあるとしても、この最後の幸せに至るまでの極端な紆余曲折を、ベージュのメルセデス・ベンツとタバコの煙を伴わせて、老いてなお(太ってなお)魅力にあふれたカトリーヌ・ドヌーヴ、地についた人生ひきずったカトリーヌ・ドヌーヴ、恋するカトリーヌ・ドヌーヴとして撮ることができたエマニュエル・ベルコという若い女流監督にシャポー。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓ "Elle s'en va" 予告編)
PS (2015年1月31日)
この映画に関するカトリーヌ・ドヌーヴのコメント「彼女はすべてを投げ出したんじゃない。全然劇的なものなんかない。でも彼女は行ってしまうのよ。それはね、そういう瞬間だということ。人生において、疲労や怒りのあまり、人はそうしたいと思うことがよくあるわよ。もうたくさん、いち抜けた、ってね。でも結局そういうことって絶対しないのよ。私はそれを実行した人って知らないわ。唯一の例外は、タバコを買いに行くって外に出て、そのまま帰らなかったヴェロニク・サンソンね。」(ローラン・カリュ&ヤン・モルヴァン著 "VERONIQUE SANSON - LES ANNEES AMERICAINES" P14)
2013年9月21日土曜日
2013年9月5日木曜日
渋谷で「見性」するアメリー・ノトンブ
Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
アメリー・ノトンブ『幸福なる郷愁』
「人が愛するものはすべてフィクションになる(Tout ce que l'on aime devient une fiction)」と小説の第一行は書きます。なにか最初から言い訳しているなあ、と思いました。この人の立場は「フィクション」を書く作家です。彼女が好きなものを追いかけて突き詰めていったら、それは小説になったのです。その最愛の対象のひとつが「日本」であり、ノトンブはこれまで発表した22作の小説のうち、4作が日本と関連しています。愛するがゆえのフィクションなので、誇張やイマジネーションの産物や故意な曲解もまま顔を出し、私には居心地の悪くなるウソっぽい日本が登場します。フィクションですから。
ノトンブを世に知らしめ、大ベストセラー作家としてメディアに(その奇怪な帽子と共に)登場させるきっかけとなったのが、『畏れ慄いて(Stuppeurs et tremblements)』(1999年)です。ベルギー人女性「アメリー」が就職した東京の大商社ユミモトで、日本人と西欧人の文化摩擦ゆえに社内で忌み嫌われ、苛められ、最後には便所掃除係にまで転落するという小説です。これは1年後の2000年に日本語訳されて作品社という出版社から日本発売されました。また2004年にはアラン・コルノー監督によって映画化されていますが、日本で一般公開はされませんでした。ノトンブはこの小説が日本で出版されたら、この日本社会の暗部の暴露が大醜聞となり、日本とベルギー、および日本と西欧の間に大きな国際問題にまで発展するだろうと思っていました。出版当時ノトンブは「私は日本ではペルソナ・ノン・グラータである」と誇らしげに言ってましたから。
その翌年2000年に発表された『管の形而上学(Métaphysique des Tubes)』(2011年に日本語訳も刊行) は、彼女が生れ育った神戸・夙川での 0歳から3歳までの記憶をつづったフィクション。0歳から3歳までの記憶を保持しているとは希有な人だと思われましょうが、フィクションですから。日本人として生れ育ったと確信し、乳母ニシオ・サンを自分の理想の母と慕ってきたのに、それが真実でないと知り、3歳で自殺未遂をはかるという小説。そして2007年に発表された『イヴでもアダムでもなく(Ni D'Eve Ni D'Adam)』は、『畏れ慄いて』のユミモトに入社する1年前に、当時21歳の「アメリー」が東京でフランス語を家庭教師していた日本人学生リンリと交際していて、その関係は2年間続くのだけれど、この日本人青年は金持ち(宝石会社社長・ジュエリー専門学校校長の息子)で優しく気立てはよく交際相手としては申し分ないのに、「恋」に至らないというフィクションです。この小説に関してはこのブログのここで長々と論じています。(かなり批判的です)。
ノトンブにとって最愛の「日本」とそれに関してフィクションしてしまったこの3作の重要な小説を、この新作小説は再検証しようとします。2012年春、アメリー・ノトンブは16年ぶりに日本を再訪します。なぜ「最愛の」と言いながら、16年間も離れていられたのか。まず私の素朴な疑問はこれです。ノトンブが言うように『畏れ慄いて』で日本社会を誹謗中傷した(と取られてもしかたがないことをした)ゆえに、「国際問題・外交問題」を避けるために自粛していたのか。そうではないでしょう。彼女は日本を「熟知」していることを土台に、西欧(ノトンブは誇らしげに "occidentale"と自称します。欧州人 "européenne"とは言いません)と日本の文化の差異と、それによって避けられなく生じてしまう文化摩擦の「生き証人」としてフィクションを書いてきたのです。それそのものが小説の中心的主題ではないにしても、多くの読者たちはノトンブによって「知られざる・意外な日本」を知りました。ところが読者の中には、ノトンブよりも日本を「熟知」している人たちがいたり、私のようにノトンブの「熟知」を疑問視する人間も少なくないのです。私は彼女の日本語理解という点はかなり問題があるのではないか、思っていました。
おそらくノトンブはボロを出すまいと思っていたところがあると思います。断じて日本熟知者であり続けなければならない。その思いが、今ひとりでのこのこ日本に行ったら、赤っ恥をかくことになる、という恐怖にもなっていたかもしれません。
そこへ、フランス国営テレビFrance 5から「アメリー・ノトンブと日本」というテーマでもドキュメンタリー映画を制作したい、という申し出が来ます。私はこれはノトンブにとって「渡りに船」のプロポーザルであったと思うのですよ。フランスのテレビの制作スタッフと共に日本に行き、その行状がすべてヴィデオ・カメラに収められ、「ノトンブによる日本」を映像化して、「ノトンブの書いていた日本」が確かに存在したことを証明してくれることになるわけですから。ノトンブの「私の最愛の日本」はここで優れた共犯者を見つけたのです。
かくして2012年春、アメリー・ノトンブとテレビ局の撮影スタッフは日本に降り立ちます。16年ぶり。それは神戸に生まれてから5歳で日本を離れ、再び21歳で日本に住むという、最初の日本との別れの16年間と一致します。バイオグラフィーから演算すると、ノトンブは28歳で日本を去り、その後16年間一度も日本に足を踏み入れていないということになります。2度めの16年間よりも1度めの16年間の方がずっと辛かった。5歳6歳の時は机の下に隠れて、その失われた庭や音楽を想い、その思い出をよりはっきり再現するために暗闇の中で泣いていた、と言います。そして誰かが彼女を見つけて「どうして泣いているの?」と聞くと、彼女は "C'est la nostalgie(ノスタルジーよ)"と答えていた。彼女が感じた最初のノスタルジーは目を開けたまま泣けるほどの悲しみだったのです。
日本の滞在は神戸に6日間、東京に3日間。その間撮影スタッフのカメラはアメリーとその夢の国日本を撮り続けます。23年ぶりに訪れる神戸では『管の形而上学』の舞台である夙川に向かいますが、彼女が住んでいた「家」は影も形もありません。1995年の神戸震災で倒壊したのかもしれません。次に「日本人アメリー」の理想の母であったニシオ・サンに会いに行きます。79歳のニシオ・サンは、実の娘から見捨てられ、神戸郊外のごく小さな公団アパートでひとり暮らしをしています。この再会のシーンは当然全員がおいおい泣き出すようなことになるのですが、テレビはしっかり撮影しています。しかしアメリーが5歳の時に無理矢理引き裂かれて別れた「実の母」と思っていたこの老女は、その遠い昔に育てた外人のお嬢さんと、あまり「まともな」話ができないのです。アメリーが「東北大震災の余震が神戸でもありましたか?」と聞くと、「何のこと?」と老女は答えられません。「フクシマのことですよ」とアメリーが言うと、「さっぱりわからない」と取り合いません。これを作者はこの老女の頭が、神戸空襲や神戸大震災などを経験してきたゆえに、もうこれ以上の大惨事を受け入れられなくなっているのだ、と解釈しています。そうでしょうか? 私には別の説明があります。フランスで超有名な大ベストセラー作家が、テレビカメラとマイクロフォンを引き連れて、一人暮らしの老人の貧乏アパートにやってきたら、その人は一体何が話せると言うのですか?目の前にいるテレビカメラが一体私の何を撮ろうとしているのか、どうやって理解できるのですか? テレビカメラの凶暴さ、ということをアメリー・ノトンブは考えたことがあるのでしょうか?
次に夙川でアメリーが通ったということになっている聖母マリア幼稚園を訪れ、園の人から見せられた70-71年組の集合写真の中に、ふくれっ面をした幼女を見つけ「watashi desu !」と叫ぶのです。それから京都に行き、「バガンと同じほど神秘的で崇高で、ボルドーと同じほど豊かでブルジョワ的で、シアトルと同じほどテクノロジックで混沌とした町」 というノトンブ流の京都講釈があります。
取ってつけたように(としか私には言いようがない)、一行は「フクシマ」に向かいます。小説の文面では一体どの辺まで行ったのか判然としませんが、あの日から1年と20数日経った東北のあの辺りでしょう、目の前に見える廃墟とそれに集まるサギ鳥の群れなどを、数時間にわたって表敬訪問するのです。
終わって福島から東京に向かう電車は、チケットを急いで買ったので一行の座席が離ればなれになってしまいます。通訳君(ユメトと名乗る21歳の若者)が乗り合わせた乗客と席交換を交渉しますが、その客は譲らず「席番号を尊守せよ」の一点張りです。ま、こういう日本もある、というエピソードにしたかったんでしょうが。
翌日4月4日は、この小説で最も出来事が集中した日で、言わばクライマックスです。まず、アンスティテュ・フランセでとある日本の女性ジャーナリストとのインタヴューがあります。話は主に『管の形而上学』(2011年末日本刊行)のことになるのですが(日本語でなされたのかフランス語でなされたのかが文面では判然としない)、通じなくなると、通訳(日本で最も有名な仏日語通訳と書かれている)のコリンヌ・カンタンが助けてくれます。アメリーはここで自分が幼い頃に暮らしていた関西の日々にどれだけ "nostalgique"であるか、と強調します。この "nostalgique"という言葉を通訳のカンタンは日本語で「なつかしい」とせずに、カタカナ英語で「ノスタルジック」と日本語通訳するのです。あとでアメリーはこのことに怒り、カンタンにどうして「なつかしい」と訳さなかったのか、と詰めよります。
お立ち会い、よくお聞き。ここでコリンヌ・カンタンは(私のめちゃくちゃ入れこんだ意訳で説明すると)、あなたの言う"nostalgique"は日本語の「なつかしい」に相当しない、なぜならば、あなたの言わんとする"nostalgie"は、良い思い出、悪い思い出、楽しい思い出、悲しい思い出がゴッチャの過去への郷愁であるはずで、日本語の「なつかしい」は良いも悪いも楽しいも悲しいもすべて「幸福」の領域で包みこんでしまう、全面的に肯定的な回顧感なのである、と説明するのです。日本語の「なつかしい」は幸福な回想である、と断言的に定義するのです。 作者はここで初めて日本語の「なつかしみ」とフランス語の"Nostalgie"は根本的に異なるということを知るのです。そして、この小説の題名、およびこの小説の大趣旨が生まれるのです。すなわち『幸福な郷愁 (La Nostalgie Heureuse)』であり、これは日本人に特化した回顧感なのである、と。
そのインタヴューと出版社が用意した昼食が終わり、アメリーはこの日本再訪のハイライト中のハイライトである、21歳の時の日本人フィアンセ、リンリと再会します。ここだけテレビ局のカメラは遠慮します。『イヴでもアダムでもなく』 で描かれたナイーヴな日本青年リンリは、アメリーとの不可解な別離にも関わらず(なぜならばノトンブの理屈では、日本語の「恋」は仏語の"amour"に相当せずに、「好き嫌い」「好み」でしかなく、自分はリンリに遂に amoureuse になることができなかったと言うのです)、その後人間的にも社会的にも成長し、企業家として成功して、愛する人を見つけて家庭をつくり一児を得て、幸せで魅力的な40男に変身しています。アメリーは予想していなかったその変身ぶりに目眩がします。そして、この再会をリンリはフランス語でこう形容するのです:indicible :(スタンダード仏和辞典の説明)アンディシブル:[文語](喜びなどが)言うに言われぬ。言語を絶する。
わぉーッ!
小説はこういうクライマックスを迎えるわけです。
16年後に訪れた日本で、幸福なノスタルジーを抱えながらも、ニシオ・サンはあんな風に変わり、リンリはこんな風に変わった。作者はここで、幸福なノスタルジーの延長に、とてつもない虚無の淵に自分が立たされていることを悟ります。あ、この「悟り」という言葉ですが、作者もこの禅語に非常にセンシブルで、「悟り」などという境地はブッダかごく少数の高僧にしか至れるものではなく、私のような人間には到底近寄れぬものであると認識しています。しかし「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、これをノトンブのこの小説では"kenshô"とローマ字表記していて、この"kenshô"には作者は何度か至っているのだ、と書いています。
無の始まりを感知すること、これをノトンブは"kenshô"と言い、私はその言葉を知らず、あれこれ調べた結果それが「見性」 であることをやっと突き止めました。この見性の体験は、アメリーに突然やってきて、渋谷の交差点で極端な人ごみの中で歩いている彼女をテレビカメラが撮影している時に「見性」を感じ取り、彼女はその中でバタっと足を止めてトランス状態に入っていくのです。
さあ、この小説をどうするか。「人が愛するものはすべてフィクションになる」ー この第一行がこの小説のすべてを救済していて、泣き笑いもすべて含めて、ノトンブのフィクションの力に翻弄されてしまうのです。私は少なくとも「幸福なノスタルジー」という日本語的な「なつかしさ」をこの小説から教わったことだけでも、シャポー!と言いたい気持ちでこの本を閉じました。奇抜なシャポーをいつもかぶっている、イヤ〜なタイプの女性ですが...。
カストール爺の採点:★★★★☆
Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
(Albin Michel 刊。2013年8月 。152ページ。16.50ユーロ)
(↓France 5制作のドキュメンタリー番組 "Amélie Nothomb - Une vie entre deux eaux"の予告編)
(↓『幸福な郷愁』発表時の出版社主催のインタヴュー)
アメリー・ノトンブ『幸福なる郷愁』
「人が愛するものはすべてフィクションになる(Tout ce que l'on aime devient une fiction)」と小説の第一行は書きます。なにか最初から言い訳しているなあ、と思いました。この人の立場は「フィクション」を書く作家です。彼女が好きなものを追いかけて突き詰めていったら、それは小説になったのです。その最愛の対象のひとつが「日本」であり、ノトンブはこれまで発表した22作の小説のうち、4作が日本と関連しています。愛するがゆえのフィクションなので、誇張やイマジネーションの産物や故意な曲解もまま顔を出し、私には居心地の悪くなるウソっぽい日本が登場します。フィクションですから。
ノトンブを世に知らしめ、大ベストセラー作家としてメディアに(その奇怪な帽子と共に)登場させるきっかけとなったのが、『畏れ慄いて(Stuppeurs et tremblements)』(1999年)です。ベルギー人女性「アメリー」が就職した東京の大商社ユミモトで、日本人と西欧人の文化摩擦ゆえに社内で忌み嫌われ、苛められ、最後には便所掃除係にまで転落するという小説です。これは1年後の2000年に日本語訳されて作品社という出版社から日本発売されました。また2004年にはアラン・コルノー監督によって映画化されていますが、日本で一般公開はされませんでした。ノトンブはこの小説が日本で出版されたら、この日本社会の暗部の暴露が大醜聞となり、日本とベルギー、および日本と西欧の間に大きな国際問題にまで発展するだろうと思っていました。出版当時ノトンブは「私は日本ではペルソナ・ノン・グラータである」と誇らしげに言ってましたから。
その翌年2000年に発表された『管の形而上学(Métaphysique des Tubes)』(2011年に日本語訳も刊行) は、彼女が生れ育った神戸・夙川での 0歳から3歳までの記憶をつづったフィクション。0歳から3歳までの記憶を保持しているとは希有な人だと思われましょうが、フィクションですから。日本人として生れ育ったと確信し、乳母ニシオ・サンを自分の理想の母と慕ってきたのに、それが真実でないと知り、3歳で自殺未遂をはかるという小説。そして2007年に発表された『イヴでもアダムでもなく(Ni D'Eve Ni D'Adam)』は、『畏れ慄いて』のユミモトに入社する1年前に、当時21歳の「アメリー」が東京でフランス語を家庭教師していた日本人学生リンリと交際していて、その関係は2年間続くのだけれど、この日本人青年は金持ち(宝石会社社長・ジュエリー専門学校校長の息子)で優しく気立てはよく交際相手としては申し分ないのに、「恋」に至らないというフィクションです。この小説に関してはこのブログのここで長々と論じています。(かなり批判的です)。
ノトンブにとって最愛の「日本」とそれに関してフィクションしてしまったこの3作の重要な小説を、この新作小説は再検証しようとします。2012年春、アメリー・ノトンブは16年ぶりに日本を再訪します。なぜ「最愛の」と言いながら、16年間も離れていられたのか。まず私の素朴な疑問はこれです。ノトンブが言うように『畏れ慄いて』で日本社会を誹謗中傷した(と取られてもしかたがないことをした)ゆえに、「国際問題・外交問題」を避けるために自粛していたのか。そうではないでしょう。彼女は日本を「熟知」していることを土台に、西欧(ノトンブは誇らしげに "occidentale"と自称します。欧州人 "européenne"とは言いません)と日本の文化の差異と、それによって避けられなく生じてしまう文化摩擦の「生き証人」としてフィクションを書いてきたのです。それそのものが小説の中心的主題ではないにしても、多くの読者たちはノトンブによって「知られざる・意外な日本」を知りました。ところが読者の中には、ノトンブよりも日本を「熟知」している人たちがいたり、私のようにノトンブの「熟知」を疑問視する人間も少なくないのです。私は彼女の日本語理解という点はかなり問題があるのではないか、思っていました。
おそらくノトンブはボロを出すまいと思っていたところがあると思います。断じて日本熟知者であり続けなければならない。その思いが、今ひとりでのこのこ日本に行ったら、赤っ恥をかくことになる、という恐怖にもなっていたかもしれません。
そこへ、フランス国営テレビFrance 5から「アメリー・ノトンブと日本」というテーマでもドキュメンタリー映画を制作したい、という申し出が来ます。私はこれはノトンブにとって「渡りに船」のプロポーザルであったと思うのですよ。フランスのテレビの制作スタッフと共に日本に行き、その行状がすべてヴィデオ・カメラに収められ、「ノトンブによる日本」を映像化して、「ノトンブの書いていた日本」が確かに存在したことを証明してくれることになるわけですから。ノトンブの「私の最愛の日本」はここで優れた共犯者を見つけたのです。
かくして2012年春、アメリー・ノトンブとテレビ局の撮影スタッフは日本に降り立ちます。16年ぶり。それは神戸に生まれてから5歳で日本を離れ、再び21歳で日本に住むという、最初の日本との別れの16年間と一致します。バイオグラフィーから演算すると、ノトンブは28歳で日本を去り、その後16年間一度も日本に足を踏み入れていないということになります。2度めの16年間よりも1度めの16年間の方がずっと辛かった。5歳6歳の時は机の下に隠れて、その失われた庭や音楽を想い、その思い出をよりはっきり再現するために暗闇の中で泣いていた、と言います。そして誰かが彼女を見つけて「どうして泣いているの?」と聞くと、彼女は "C'est la nostalgie(ノスタルジーよ)"と答えていた。彼女が感じた最初のノスタルジーは目を開けたまま泣けるほどの悲しみだったのです。
日本の滞在は神戸に6日間、東京に3日間。その間撮影スタッフのカメラはアメリーとその夢の国日本を撮り続けます。23年ぶりに訪れる神戸では『管の形而上学』の舞台である夙川に向かいますが、彼女が住んでいた「家」は影も形もありません。1995年の神戸震災で倒壊したのかもしれません。次に「日本人アメリー」の理想の母であったニシオ・サンに会いに行きます。79歳のニシオ・サンは、実の娘から見捨てられ、神戸郊外のごく小さな公団アパートでひとり暮らしをしています。この再会のシーンは当然全員がおいおい泣き出すようなことになるのですが、テレビはしっかり撮影しています。しかしアメリーが5歳の時に無理矢理引き裂かれて別れた「実の母」と思っていたこの老女は、その遠い昔に育てた外人のお嬢さんと、あまり「まともな」話ができないのです。アメリーが「東北大震災の余震が神戸でもありましたか?」と聞くと、「何のこと?」と老女は答えられません。「フクシマのことですよ」とアメリーが言うと、「さっぱりわからない」と取り合いません。これを作者はこの老女の頭が、神戸空襲や神戸大震災などを経験してきたゆえに、もうこれ以上の大惨事を受け入れられなくなっているのだ、と解釈しています。そうでしょうか? 私には別の説明があります。フランスで超有名な大ベストセラー作家が、テレビカメラとマイクロフォンを引き連れて、一人暮らしの老人の貧乏アパートにやってきたら、その人は一体何が話せると言うのですか?目の前にいるテレビカメラが一体私の何を撮ろうとしているのか、どうやって理解できるのですか? テレビカメラの凶暴さ、ということをアメリー・ノトンブは考えたことがあるのでしょうか?
次に夙川でアメリーが通ったということになっている聖母マリア幼稚園を訪れ、園の人から見せられた70-71年組の集合写真の中に、ふくれっ面をした幼女を見つけ「watashi desu !」と叫ぶのです。それから京都に行き、「バガンと同じほど神秘的で崇高で、ボルドーと同じほど豊かでブルジョワ的で、シアトルと同じほどテクノロジックで混沌とした町」 というノトンブ流の京都講釈があります。
取ってつけたように(としか私には言いようがない)、一行は「フクシマ」に向かいます。小説の文面では一体どの辺まで行ったのか判然としませんが、あの日から1年と20数日経った東北のあの辺りでしょう、目の前に見える廃墟とそれに集まるサギ鳥の群れなどを、数時間にわたって表敬訪問するのです。
終わって福島から東京に向かう電車は、チケットを急いで買ったので一行の座席が離ればなれになってしまいます。通訳君(ユメトと名乗る21歳の若者)が乗り合わせた乗客と席交換を交渉しますが、その客は譲らず「席番号を尊守せよ」の一点張りです。ま、こういう日本もある、というエピソードにしたかったんでしょうが。
翌日4月4日は、この小説で最も出来事が集中した日で、言わばクライマックスです。まず、アンスティテュ・フランセでとある日本の女性ジャーナリストとのインタヴューがあります。話は主に『管の形而上学』(2011年末日本刊行)のことになるのですが(日本語でなされたのかフランス語でなされたのかが文面では判然としない)、通じなくなると、通訳(日本で最も有名な仏日語通訳と書かれている)のコリンヌ・カンタンが助けてくれます。アメリーはここで自分が幼い頃に暮らしていた関西の日々にどれだけ "nostalgique"であるか、と強調します。この "nostalgique"という言葉を通訳のカンタンは日本語で「なつかしい」とせずに、カタカナ英語で「ノスタルジック」と日本語通訳するのです。あとでアメリーはこのことに怒り、カンタンにどうして「なつかしい」と訳さなかったのか、と詰めよります。
お立ち会い、よくお聞き。ここでコリンヌ・カンタンは(私のめちゃくちゃ入れこんだ意訳で説明すると)、あなたの言う"nostalgique"は日本語の「なつかしい」に相当しない、なぜならば、あなたの言わんとする"nostalgie"は、良い思い出、悪い思い出、楽しい思い出、悲しい思い出がゴッチャの過去への郷愁であるはずで、日本語の「なつかしい」は良いも悪いも楽しいも悲しいもすべて「幸福」の領域で包みこんでしまう、全面的に肯定的な回顧感なのである、と説明するのです。日本語の「なつかしい」は幸福な回想である、と断言的に定義するのです。 作者はここで初めて日本語の「なつかしみ」とフランス語の"Nostalgie"は根本的に異なるということを知るのです。そして、この小説の題名、およびこの小説の大趣旨が生まれるのです。すなわち『幸福な郷愁 (La Nostalgie Heureuse)』であり、これは日本人に特化した回顧感なのである、と。
そのインタヴューと出版社が用意した昼食が終わり、アメリーはこの日本再訪のハイライト中のハイライトである、21歳の時の日本人フィアンセ、リンリと再会します。ここだけテレビ局のカメラは遠慮します。『イヴでもアダムでもなく』 で描かれたナイーヴな日本青年リンリは、アメリーとの不可解な別離にも関わらず(なぜならばノトンブの理屈では、日本語の「恋」は仏語の"amour"に相当せずに、「好き嫌い」「好み」でしかなく、自分はリンリに遂に amoureuse になることができなかったと言うのです)、その後人間的にも社会的にも成長し、企業家として成功して、愛する人を見つけて家庭をつくり一児を得て、幸せで魅力的な40男に変身しています。アメリーは予想していなかったその変身ぶりに目眩がします。そして、この再会をリンリはフランス語でこう形容するのです:indicible :(スタンダード仏和辞典の説明)アンディシブル:[文語](喜びなどが)言うに言われぬ。言語を絶する。
わぉーッ!
小説はこういうクライマックスを迎えるわけです。
16年後に訪れた日本で、幸福なノスタルジーを抱えながらも、ニシオ・サンはあんな風に変わり、リンリはこんな風に変わった。作者はここで、幸福なノスタルジーの延長に、とてつもない虚無の淵に自分が立たされていることを悟ります。あ、この「悟り」という言葉ですが、作者もこの禅語に非常にセンシブルで、「悟り」などという境地はブッダかごく少数の高僧にしか至れるものではなく、私のような人間には到底近寄れぬものであると認識しています。しかし「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、これをノトンブのこの小説では"kenshô"とローマ字表記していて、この"kenshô"には作者は何度か至っているのだ、と書いています。
無の始まりを感知すること、これをノトンブは"kenshô"と言い、私はその言葉を知らず、あれこれ調べた結果それが「見性」 であることをやっと突き止めました。この見性の体験は、アメリーに突然やってきて、渋谷の交差点で極端な人ごみの中で歩いている彼女をテレビカメラが撮影している時に「見性」を感じ取り、彼女はその中でバタっと足を止めてトランス状態に入っていくのです。
さあ、この小説をどうするか。「人が愛するものはすべてフィクションになる」ー この第一行がこの小説のすべてを救済していて、泣き笑いもすべて含めて、ノトンブのフィクションの力に翻弄されてしまうのです。私は少なくとも「幸福なノスタルジー」という日本語的な「なつかしさ」をこの小説から教わったことだけでも、シャポー!と言いたい気持ちでこの本を閉じました。奇抜なシャポーをいつもかぶっている、イヤ〜なタイプの女性ですが...。
カストール爺の採点:★★★★☆
Amélie Nothomb "La Nostalgie Heureuse"
(Albin Michel 刊。2013年8月 。152ページ。16.50ユーロ)
(↓France 5制作のドキュメンタリー番組 "Amélie Nothomb - Une vie entre deux eaux"の予告編)
(↓『幸福な郷愁』発表時の出版社主催のインタヴュー)
2013年8月21日水曜日
Have you heard the word ?
The Legend of Steve Kipner & Steve Grooves 1969 / 1973
スティーヴ・キプナー&スティーヴ・グルーヴスの伝説
マルシアル・マルチネーのMAGIC RECORDSから、数年前に復刻されていたスティーヴ・キプナーとスティーヴ・グルーヴスのデュオ、スティーヴ&スティーヴィー名義のアルバム"STEVE & STEVIE"(1968年)と、ティンティン名義のアルバム"TIN TIN"(1970年)と "ASTRAL TAXI"(1973年)の3枚のアルバムを2CDにまとめて新装再発したものです。
まあ、それなりにソフト・ロック界では隠れた名盤として評価は高かったようですが、キプナーは日本ではもっぱら1979年のアルバム"Knock The Walls Down"(ジェイ・グレイドンのプロデュースで日本ではAOR傑作となっているようです)によって知られているでしょうし、作曲者としてはオリヴィア・ニュートン=ジョンの「フィジカル」(1981年)を、また松田聖子に「マラケシュ」(1988年。ちょっとひどい歌だな)を提供していて、後年は巨万セールスソングライターとして幸せな人生を送りましたとさ。
キプナーは1950年オハイオ州 シンシナティ生れ、1歳の時に家族と共に豪州ブリスベンに移住し、教育も文化もすべて豪州仕込みで育ちます。15歳でバンドを組み、父親ナット・キプナーの曲でレコーディングして早くも全豪1位のヒットになっています。最初のバンド、スティーヴ&ザ・ボード(Steve & The Board)解散して、68年にオーストラリア人スティーヴ・グルーヴスと組んで、スティーヴ&スティーヴィー(Steve & Stevie)を結成、イギリスでレコード契約を結んで世界デビュー(ま、豪州外デビューですけど)を果たします。この時に力になってくれたのが、同じ豪州組であったザ・ビージーズ(英国バンドですけど、1958年から66年まで豪州で下積みをしていたんです)のギブ三兄弟だったのです。とりわけモーリス・ギブとは親交があり、スティーヴ&スティーヴィーをロバート・スティグウッド(当時の超大物ジャーマネ&プロデューサー。クリーム、ビージーズ、ヘアー、サタディ・ナイト・フィーバー...。この人も豪州人)に引き合わせたり、スティーヴィー&スティーヴィーの録音に参加したりプロデュースしたり...。
1968年のスティーヴ&スティーヴィー(↓)"Merry Go Round"
まんまビージーズみたいなところがありますが。
1969年、スティッグウッドの工作で、大レコード会社ポリドール・アトコからレコードが出せるようになったスティーヴ二人組は、モーリス・ギブのプロデュースで新たにレコーディングを始めますが、この時ティン・ティン(Tin Tin)とバンド名を改称します。この名前はベルギーが誇る世界的ヒットのカートゥーン『タンタンの冒険』(エルジェ作)からインスパイアされたそうです。1970年、最初のシングルはスカだったんですが、セカンドシングル "Toast and Marmalade for Tea"が全米TOP20のヒットになってしまいます。(↓)これです。
このふらつく(エフェクトの)ピアノの音がヒットの隠し味でしょうが、これはスティーヴ・グルーヴスの曲で、モーリス・ギブもベースで参加してます。モーリス・ギブはその当時、英国のトップ女性シンガー、ルルと結婚したばかりで、ルルの弟でミュージシャンのビリー・ローリーも、義理の兄と共にこのスティーヴ&スティーヴィー〜ティン・ティンの録音セッションに大きく関係しています。こうして二人のスティーヴはそこそこのヒットも出たし、ファーストアルバムも好調だし、二人組からミュージシャンを追加してちゃんとしたバンド Tin Tin としてコンサートもしようか、なんて欲も出てきます。そんな感じでティン・ティンはある種余裕ある態度で、セカンドアルバム用のセッションをしておりました。
そんな1969年のある日(正確には8月6日)、スティーヴ・キプナー、スティーヴ・グルーヴス、モーリス・ギブ、ビリー・ローリーにとんでもない茶目っ気が生じて、"Have You Heard The Word"という曲を録音してしまいます。 その日、モーリス・ギブは階段からすべり落ちて腕を折ってしまい、痛み止めをたくさん打ってのスタジオ登場、それでも痛むからスタジオのバーでしょっちゅうアルコールを補給。セッションはひどいもので、モーリス・ギブのヴォーカルも本人のものとは思えず(奇しくも誰かに極端に似てしまう)、ベースもギターもピアノもめちゃくちゃ。
この録音がどういうわけか、1970年3月7日に Beacon Recordsからシングル盤で発売されます。レコード上のバンドの名前は The Fut (ザ・フット)、曲作者のクレジットはThe Fut。その他すべて不明の状態でシングル盤 "Have you heard the word ?"は発売されたのでした。それがこれ(↓)です。
これはすぐさま、「ビートルズのブートレグ録音である」と大変な噂になったのでした。この声がジョン・レノンでないわけがない。小野洋子までがそう信じて、この曲の著作権を取得しようとしたのでした。
この真実をその当初は誰も明かそうとせずに、この謎の「ビートルズ海賊録音」の噂は雪だるま式に大きくなっていったのでした。
このCD2枚組はスティーヴ&スティーヴィー、ティン・ティンの2枚のアルバムの他にボーナスとしてこの The Fut "Have you heard the word"も収録されています。私たちの興味はこの1曲に集中してしまいますが、どう聞いてもこれはジョン・レノンですよ、という人たちが世の中にはまだまだいらっしゃるそうです。
<<< トラックリスト >>>
CD 1
Steve & Stevie
1. Merry Go Round
2. Remains to be seen
3. Sunshine on snow
4. Liza
5. As I see my life
6. Shine
7. To whom it may concern
8. Melissa Green
9. SHe's getting married
10. The Birds
11. Fairy tale princess
12. I can see it in the moon
Tin Tin
13. She said ride
14. Swans on the canal
15. Flag
16. Put your money on my dog
17. Nobody moves me like you
18. Tuesday's Dreamer
19. Only ladies play croquet
20. Family tree
21. Spanish Shepherd
22. He wants to be a star
CD 2
Tin Tin
1. Toast and marmalade for tea
2. Come on over again
3. Manhattan Woman
4. Lady in blue
5. Love her that way (bonus)
6. Back to Winona (bonus)
The Fut
7. Have you heard the word (bonus)
Tin Tin "Astral Taxi"
8. Astral Taxi
9. Ships on the starboard
10. Our destiny
11. Tomorrow today
12. Jenny B.
13. I took a holiday
14. Tag around
15. Set sail for England
16. The Cavalry's coming
17. Benny and the Wonder Dog
18. Is that the way
19. Talking Turkey (bonus)
20. Strange one (bonus)
21. I'm afraid (bonus)
THE LEGEND OF STEVE KIPNER & STEVE GROOVES 1968 / 1973
2CD MAGIC RECORDS 3930975
フランスでのリリース:2013年8月12日
スティーヴ・キプナー&スティーヴ・グルーヴスの伝説
マルシアル・マルチネーのMAGIC RECORDSから、数年前に復刻されていたスティーヴ・キプナーとスティーヴ・グルーヴスのデュオ、スティーヴ&スティーヴィー名義のアルバム"STEVE & STEVIE"(1968年)と、ティンティン名義のアルバム"TIN TIN"(1970年)と "ASTRAL TAXI"(1973年)の3枚のアルバムを2CDにまとめて新装再発したものです。
まあ、それなりにソフト・ロック界では隠れた名盤として評価は高かったようですが、キプナーは日本ではもっぱら1979年のアルバム"Knock The Walls Down"(ジェイ・グレイドンのプロデュースで日本ではAOR傑作となっているようです)によって知られているでしょうし、作曲者としてはオリヴィア・ニュートン=ジョンの「フィジカル」(1981年)を、また松田聖子に「マラケシュ」(1988年。ちょっとひどい歌だな)を提供していて、後年は巨万セールスソングライターとして幸せな人生を送りましたとさ。
キプナーは1950年オハイオ州 シンシナティ生れ、1歳の時に家族と共に豪州ブリスベンに移住し、教育も文化もすべて豪州仕込みで育ちます。15歳でバンドを組み、父親ナット・キプナーの曲でレコーディングして早くも全豪1位のヒットになっています。最初のバンド、スティーヴ&ザ・ボード(Steve & The Board)解散して、68年にオーストラリア人スティーヴ・グルーヴスと組んで、スティーヴ&スティーヴィー(Steve & Stevie)を結成、イギリスでレコード契約を結んで世界デビュー(ま、豪州外デビューですけど)を果たします。この時に力になってくれたのが、同じ豪州組であったザ・ビージーズ(英国バンドですけど、1958年から66年まで豪州で下積みをしていたんです)のギブ三兄弟だったのです。とりわけモーリス・ギブとは親交があり、スティーヴ&スティーヴィーをロバート・スティグウッド(当時の超大物ジャーマネ&プロデューサー。クリーム、ビージーズ、ヘアー、サタディ・ナイト・フィーバー...。この人も豪州人)に引き合わせたり、スティーヴィー&スティーヴィーの録音に参加したりプロデュースしたり...。
1968年のスティーヴ&スティーヴィー(↓)"Merry Go Round"
まんまビージーズみたいなところがありますが。
1969年、スティッグウッドの工作で、大レコード会社ポリドール・アトコからレコードが出せるようになったスティーヴ二人組は、モーリス・ギブのプロデュースで新たにレコーディングを始めますが、この時ティン・ティン(Tin Tin)とバンド名を改称します。この名前はベルギーが誇る世界的ヒットのカートゥーン『タンタンの冒険』(エルジェ作)からインスパイアされたそうです。1970年、最初のシングルはスカだったんですが、セカンドシングル "Toast and Marmalade for Tea"が全米TOP20のヒットになってしまいます。(↓)これです。
このふらつく(エフェクトの)ピアノの音がヒットの隠し味でしょうが、これはスティーヴ・グルーヴスの曲で、モーリス・ギブもベースで参加してます。モーリス・ギブはその当時、英国のトップ女性シンガー、ルルと結婚したばかりで、ルルの弟でミュージシャンのビリー・ローリーも、義理の兄と共にこのスティーヴ&スティーヴィー〜ティン・ティンの録音セッションに大きく関係しています。こうして二人のスティーヴはそこそこのヒットも出たし、ファーストアルバムも好調だし、二人組からミュージシャンを追加してちゃんとしたバンド Tin Tin としてコンサートもしようか、なんて欲も出てきます。そんな感じでティン・ティンはある種余裕ある態度で、セカンドアルバム用のセッションをしておりました。
そんな1969年のある日(正確には8月6日)、スティーヴ・キプナー、スティーヴ・グルーヴス、モーリス・ギブ、ビリー・ローリーにとんでもない茶目っ気が生じて、"Have You Heard The Word"という曲を録音してしまいます。 その日、モーリス・ギブは階段からすべり落ちて腕を折ってしまい、痛み止めをたくさん打ってのスタジオ登場、それでも痛むからスタジオのバーでしょっちゅうアルコールを補給。セッションはひどいもので、モーリス・ギブのヴォーカルも本人のものとは思えず(奇しくも誰かに極端に似てしまう)、ベースもギターもピアノもめちゃくちゃ。
この録音がどういうわけか、1970年3月7日に Beacon Recordsからシングル盤で発売されます。レコード上のバンドの名前は The Fut (ザ・フット)、曲作者のクレジットはThe Fut。その他すべて不明の状態でシングル盤 "Have you heard the word ?"は発売されたのでした。それがこれ(↓)です。
これはすぐさま、「ビートルズのブートレグ録音である」と大変な噂になったのでした。この声がジョン・レノンでないわけがない。小野洋子までがそう信じて、この曲の著作権を取得しようとしたのでした。
この真実をその当初は誰も明かそうとせずに、この謎の「ビートルズ海賊録音」の噂は雪だるま式に大きくなっていったのでした。
このCD2枚組はスティーヴ&スティーヴィー、ティン・ティンの2枚のアルバムの他にボーナスとしてこの The Fut "Have you heard the word"も収録されています。私たちの興味はこの1曲に集中してしまいますが、どう聞いてもこれはジョン・レノンですよ、という人たちが世の中にはまだまだいらっしゃるそうです。
<<< トラックリスト >>>
CD 1
Steve & Stevie
1. Merry Go Round
2. Remains to be seen
3. Sunshine on snow
4. Liza
5. As I see my life
6. Shine
7. To whom it may concern
8. Melissa Green
9. SHe's getting married
10. The Birds
11. Fairy tale princess
12. I can see it in the moon
Tin Tin
13. She said ride
14. Swans on the canal
15. Flag
16. Put your money on my dog
17. Nobody moves me like you
18. Tuesday's Dreamer
19. Only ladies play croquet
20. Family tree
21. Spanish Shepherd
22. He wants to be a star
CD 2
Tin Tin
1. Toast and marmalade for tea
2. Come on over again
3. Manhattan Woman
4. Lady in blue
5. Love her that way (bonus)
6. Back to Winona (bonus)
The Fut
7. Have you heard the word (bonus)
Tin Tin "Astral Taxi"
8. Astral Taxi
9. Ships on the starboard
10. Our destiny
11. Tomorrow today
12. Jenny B.
13. I took a holiday
14. Tag around
15. Set sail for England
16. The Cavalry's coming
17. Benny and the Wonder Dog
18. Is that the way
19. Talking Turkey (bonus)
20. Strange one (bonus)
21. I'm afraid (bonus)
THE LEGEND OF STEVE KIPNER & STEVE GROOVES 1968 / 1973
2CD MAGIC RECORDS 3930975
フランスでのリリース:2013年8月12日
2013年8月19日月曜日
あたりまえだのストロマエ
ストロマエ『√(平方根)』
STROMAE "√ (Racine Carrée)"
「平方根(へいほうこん)」という訳語を見つけたら、そのままストロマエに "Hé, ho, con!" と呼び返したくなったのでした。お立ち会い、2013年夏、最高のアルバムです。"Brel Electro"(エレポップのジャック・ブレル)とまで評されるようになったベルギー男のセカンドアルバムです。できるだけ多くの人たちに聞いて欲しいです。
言うまでもないことでしょうが、ストロマエ(Stromaé)という芸名は「マエストロ(Maeetro)」のベルラン(逆さ言葉)です。こう名乗るんだから、最初から自信あったんです。1985年ブリュッセル生れのこのやせっぽち君は、母親がベルギー人、父親がルワンダ人で、その父親はかのルワンダ大虐殺(1994年)で亡くなっています。新アルバムの2曲め "Papaoutai"はこの不在の父親というテーマの歌で、「赤ん坊をどうやって作るのかは誰でも知っているが、父親をどうやって作るのかは誰も知らない」という強烈な歌詞が出てきます。ジョニー・アリディ、フランソワーズ・アルディ、ロジャー・ウォーターズ(ピンフロ)の例を出すまでなく、父親の不在のアンニュイは多くのロック・ヒストリーを作っていくのですが、ストロマエはその系譜のひとりでしょう。
3曲め"Batard" (バタール、英語のバスタードとほぼ同じで、混血児、私生児、雑種、その他良い意味では絶対に使われない侮蔑語)も、ストロマエ自身のアイデンティティーの問題に直接関係した歌で、白でも黒でもない、右でも左でもない、男でも女でもない、フランドル人でもワロン人でもない、ラシーヌ(根、ルーツ)のはっきりしない自分をマニフェスト的に過去・現在・未来にわたって俺は「どっちつかず」の道を選ぶ、と歌います。
とは言いながら、自分にまとわりつくアフリカとヨーロッパ(ベルギー)を誇らしげに見せることもあります。2011年に急逝したカボ・ヴェルデの「裸足のディーヴァ」セザリア・エヴォラに捧げる "Ave Césaria" (5曲め)、ベルギーの国民食「ムール・フリット」(ムール貝の白ワイン蒸し+フライドポテト)を南アフリカのズールー・コーラス風に讃歌してしまう "Moules Frites"(7曲目)など、ストロマエの一筋縄ではいかないひねくれたワールド音楽アプローチに脱帽します。
アルバムタイトルの"Racine carrée"とは数学のルート(√ =平方根)のことですが、別の訳をしてみると「はっきりとした根」ということになりましょう。アルバム全体を通して感じられるのは、「はっきりとした根」など持っていないストロマエが、必死になってアイデンティティー探しをしているような実直さに胸が痛くなります。3年前のファーストアルバム "Cheese" では、もっともっと冗談の側の人だったし、自分でやっているエレクトロ・ミュージックを小馬鹿にするような皮肉と黒い諧謔が印象深かったアーチストでした。まあ、多くの人たちがシングルヒット "Alors on danse"だけで消えてしまうだろう、という予想をしていたこともありますが...。それが、ベルギーのエレクトロ小僧から、「ジャック・ブレルの再来」という尾鰭までついて、「シャンソン・フランセーズの巨大新星」みたいに言われるようになったんですよ。
そのきっかけになったのが、先行で2013年5月からオン・エアされた "Formidable"(アルバム6曲目)のヴィデオ・クリップなんです(↓)。
YouTubeで本日の数字で17百万ビュー。
その他、ビゼーの「カルメン」をベースにして、「恋はツイッターの鳥のようなもんで、人がブルーでいられるは48時間だけ」なんていう憎たらしく2013年的に的を得た歌い出しから始まる"Carmen"(8曲め)、そして某レヴューによると「リタ・ミツコ『マルシア・バイーラ』以来」のガン(癌)と死に正面から向かって歌い上げた"Quand c'est ?"(10曲め。「いつなの?』 - カタカナ読みすると「カンセ」、癌のcancer「カンセール」と掛けてます)、仏ラッパーのオレルサン、セクシオン・ダソーのメートル・ジムと元気いっぱいに世の中に毒づいている "+AVF"(13曲め)など、納得のいく曲にあふれています。しかし、キーワードはメランコリーでしょうか。泣きながら、汗まみれで歌ってしまうジャック・ブレルとは継承も断絶もありましょう。
<<< トラックリスト >>>
1. Ta fête
2. Papaoutai
3. Bâtard
4. Ave Césaria
5. Tous les mêmes
6. Formidable
7. Moules frites
8. Carmen
9. Humain à l'eau
10. Quand c'est ?
11. Sommeil
12. Merci
13. + AVF
STROMAE "√ "
CD MOSAERT/UNIVERSAL 3747987
フランスでのリリース:2013年8月19日
(↓ "Papaoutai" 父ちゃんどこにいたの?)
STROMAE "√ (Racine Carrée)"
「平方根(へいほうこん)」という訳語を見つけたら、そのままストロマエに "Hé, ho, con!" と呼び返したくなったのでした。お立ち会い、2013年夏、最高のアルバムです。"Brel Electro"(エレポップのジャック・ブレル)とまで評されるようになったベルギー男のセカンドアルバムです。できるだけ多くの人たちに聞いて欲しいです。
言うまでもないことでしょうが、ストロマエ(Stromaé)という芸名は「マエストロ(Maeetro)」のベルラン(逆さ言葉)です。こう名乗るんだから、最初から自信あったんです。1985年ブリュッセル生れのこのやせっぽち君は、母親がベルギー人、父親がルワンダ人で、その父親はかのルワンダ大虐殺(1994年)で亡くなっています。新アルバムの2曲め "Papaoutai"はこの不在の父親というテーマの歌で、「赤ん坊をどうやって作るのかは誰でも知っているが、父親をどうやって作るのかは誰も知らない」という強烈な歌詞が出てきます。ジョニー・アリディ、フランソワーズ・アルディ、ロジャー・ウォーターズ(ピンフロ)の例を出すまでなく、父親の不在のアンニュイは多くのロック・ヒストリーを作っていくのですが、ストロマエはその系譜のひとりでしょう。
3曲め"Batard" (バタール、英語のバスタードとほぼ同じで、混血児、私生児、雑種、その他良い意味では絶対に使われない侮蔑語)も、ストロマエ自身のアイデンティティーの問題に直接関係した歌で、白でも黒でもない、右でも左でもない、男でも女でもない、フランドル人でもワロン人でもない、ラシーヌ(根、ルーツ)のはっきりしない自分をマニフェスト的に過去・現在・未来にわたって俺は「どっちつかず」の道を選ぶ、と歌います。
とは言いながら、自分にまとわりつくアフリカとヨーロッパ(ベルギー)を誇らしげに見せることもあります。2011年に急逝したカボ・ヴェルデの「裸足のディーヴァ」セザリア・エヴォラに捧げる "Ave Césaria" (5曲め)、ベルギーの国民食「ムール・フリット」(ムール貝の白ワイン蒸し+フライドポテト)を南アフリカのズールー・コーラス風に讃歌してしまう "Moules Frites"(7曲目)など、ストロマエの一筋縄ではいかないひねくれたワールド音楽アプローチに脱帽します。
アルバムタイトルの"Racine carrée"とは数学のルート(√ =平方根)のことですが、別の訳をしてみると「はっきりとした根」ということになりましょう。アルバム全体を通して感じられるのは、「はっきりとした根」など持っていないストロマエが、必死になってアイデンティティー探しをしているような実直さに胸が痛くなります。3年前のファーストアルバム "Cheese" では、もっともっと冗談の側の人だったし、自分でやっているエレクトロ・ミュージックを小馬鹿にするような皮肉と黒い諧謔が印象深かったアーチストでした。まあ、多くの人たちがシングルヒット "Alors on danse"だけで消えてしまうだろう、という予想をしていたこともありますが...。それが、ベルギーのエレクトロ小僧から、「ジャック・ブレルの再来」という尾鰭までついて、「シャンソン・フランセーズの巨大新星」みたいに言われるようになったんですよ。
そのきっかけになったのが、先行で2013年5月からオン・エアされた "Formidable"(アルバム6曲目)のヴィデオ・クリップなんです(↓)。
YouTubeで本日の数字で17百万ビュー。
その他、ビゼーの「カルメン」をベースにして、「恋はツイッターの鳥のようなもんで、人がブルーでいられるは48時間だけ」なんていう憎たらしく2013年的に的を得た歌い出しから始まる"Carmen"(8曲め)、そして某レヴューによると「リタ・ミツコ『マルシア・バイーラ』以来」のガン(癌)と死に正面から向かって歌い上げた"Quand c'est ?"(10曲め。「いつなの?』 - カタカナ読みすると「カンセ」、癌のcancer「カンセール」と掛けてます)、仏ラッパーのオレルサン、セクシオン・ダソーのメートル・ジムと元気いっぱいに世の中に毒づいている "+AVF"(13曲め)など、納得のいく曲にあふれています。しかし、キーワードはメランコリーでしょうか。泣きながら、汗まみれで歌ってしまうジャック・ブレルとは継承も断絶もありましょう。
<<< トラックリスト >>>
1. Ta fête
2. Papaoutai
3. Bâtard
4. Ave Césaria
5. Tous les mêmes
6. Formidable
7. Moules frites
8. Carmen
9. Humain à l'eau
10. Quand c'est ?
11. Sommeil
12. Merci
13. + AVF
STROMAE "√ "
CD MOSAERT/UNIVERSAL 3747987
フランスでのリリース:2013年8月19日
(↓ "Papaoutai" 父ちゃんどこにいたの?)
2013年8月16日金曜日
白い水曜日
Caracol "Blanc Mercredi"
キャラコル『白い水曜日』
左のジャケ、クリックして拡大して見てください。わしらの世代では、あ、これ倉多江美って思う人おりましょうね。違います。イラストを担当したのはMalleusという人で、そのwebページを見ると、アール・ヌーヴォー(ミュシャ)風もあれば、ベルナール・ビュフェ風もあれば、ロジャー・ディーン(イエス)風もあればもののけ姫風もあれば、というやや偏ったヴァリエーションの夢幻系ロック・イラストレーターであることがわかります。このフクロウが赤い心臓を運んでくるのを迎える乱れ髪の娘という図、マニエリスム風でレトロな字体で書かれた "Caracol - Blanc Mercredi"の文字、なにやら(わかりやすい)「ワンダーランドへようこそ」の誘いのようです。
一年中雪が降っていてもおかしくない国、ケベックの人です。キャロル・ファカル、人呼んでキャラコルのセカンド(ソロ)アルバムです。モンレアル(モントリオール)大学で音響工学を学び、ミキシング・コンソールのこちら側にいたのに、いつのまにかそちら側に行って舞台に立ち、レゲエバンドのバッキング・コーラスを経て、1998年ドリアンヌ・ファブレグ(人呼んでドバ)と、アフロ&ワールド寄りレゲエ・デュオのドバ・キャラコルを結成、2枚のアルバムを発表しています。(↓こんな感じ)
寒い国の人たちが、暑い国の音楽にアプローチする、この気持ちはわかります。寒冷地ロックの人、OKIさんだって出発点はレゲエでした。逆のこともあって、セネガルとアンティルの血を引くテテが、2002年にモンレアル(モントリオール)に長期に滞在することがきっかけで自分の季節感にはなかった「秋」を発見してしまい、"A la faveur de l'automne"(秋に加担して)という大傑作を生んでしまったというケースもあります。 さて、キャラコルはこの(熱めの)デュオだったドバ・キャラコルを一旦解消して、ソロ活動に転じますが、一転してアコースティック・フォーク路線になるのです。ファーストソロアルバム "L'arbre aux parfums"(2008年)の中の曲"Le Mepris"(軽蔑)のクリップ(↓)
このアルバムは「ラジオ・カナダ・ミュージック」新人賞などを獲得したほか、カナダのレコ大的なJUNO賞とADISQ賞に「最優秀フランス語アルバム」としてノミネートされました。(だからどうだ、という評価が私にはできないのは、まだ聞いてないからなんですが)。
そして2011年にケベックでリリース(フランスでは2年遅れてこの夏リリース)されたセカンドアルバム『白い水曜日』はこんな第1曲目から始まります。
お立ち会い、わかりますか? ディメンションが違うのです。「北の国では悲しみを暖炉に」なんていう緯度ではないのです。すべてが凍りついてしまう国で、心(心臓)を燃やし続ける愛、凍てついた真っ白な世界の中で真っ赤に燃え続ける心臓、そういう歌なんです。「あなたは光であり続けて」という願いが、この氷の世界では不十分で、最終部の歌詞は「あなたは燃え盛る火災になって」とラジカルに変わります。光(lumière)じゃだめなんだ、あなたは火災(incendie)になって、そうじゃないとこの極寒の世界では恋は死んでしまうんだ、と。こんなラヴ・ソング、そうめったにあるものではないでしょう。「八百屋お七」を思う方もいらっしゃいましょうが、それはまた別のディメンションなのです。
とりあえず、私はこの第1曲めでガツ〜んと来ました。こういうスケールの曲ばかりだといいんですが、アルバム全体となると、なかなか...。6曲めにこんな歌があります。
恋の終わりを花火のように散らしてしまいたい、という歌ですけど、「玉屋がとりもつ縁かいな」とはディメンションが違うんです。 激しくもダイナミックな失恋の歌で、この人のキーワードは「火」かなぁ、なんて思ってしまいました。
キャラコルは多くのケベコワと同様に仏語・英語バイリンガルで、この12曲のアルバムでも英語曲が5曲入っています。 英語?いいですよね。北米にして合衆国の隣国なので、われわれのような旧大陸の古ぼけたサウンドに慣れた耳には、「あ、これが世界標準のポピュラー音楽の音なのだな」と思わせる耳障りの良さで、実はこれが私をしてケベック音楽を敬遠させる最大の原因だったのですが。
おしまいに、2011年に日本でも公開されたケベック映画『人生ブラボー(原題:Starbuck)』 という映画(日本語予告編のリンクもここに)の挿入歌として使われた "Quelque Part"という歌も、映画観て泣いたオヤジのひとりとして、うるうるしないわけにはいかなかったのです。
<<< トラックリスト >>>
1. Blanc Mercredi
2. Certitudes
3. J'ai soif
4. Strange Film
5. All the girls
6. Feu d'artifice
7. Sailor Boy
8. Fantômes
9. Horseshoe Woman
10. Good Reasons
11. Je volerai ton baiser
12. Quelque part
CARACOL "BLANC MERCREDI"
CD INDICA RECORDS / L'AUTRE DISTRIBUTION AD2682C
フランスでのリリース:2013年7月22日
(↓ "Quelque Part" )
キャラコル『白い水曜日』
左のジャケ、クリックして拡大して見てください。わしらの世代では、あ、これ倉多江美って思う人おりましょうね。違います。イラストを担当したのはMalleusという人で、そのwebページを見ると、アール・ヌーヴォー(ミュシャ)風もあれば、ベルナール・ビュフェ風もあれば、ロジャー・ディーン(イエス)風もあればもののけ姫風もあれば、というやや偏ったヴァリエーションの夢幻系ロック・イラストレーターであることがわかります。このフクロウが赤い心臓を運んでくるのを迎える乱れ髪の娘という図、マニエリスム風でレトロな字体で書かれた "Caracol - Blanc Mercredi"の文字、なにやら(わかりやすい)「ワンダーランドへようこそ」の誘いのようです。
一年中雪が降っていてもおかしくない国、ケベックの人です。キャロル・ファカル、人呼んでキャラコルのセカンド(ソロ)アルバムです。モンレアル(モントリオール)大学で音響工学を学び、ミキシング・コンソールのこちら側にいたのに、いつのまにかそちら側に行って舞台に立ち、レゲエバンドのバッキング・コーラスを経て、1998年ドリアンヌ・ファブレグ(人呼んでドバ)と、アフロ&ワールド寄りレゲエ・デュオのドバ・キャラコルを結成、2枚のアルバムを発表しています。(↓こんな感じ)
寒い国の人たちが、暑い国の音楽にアプローチする、この気持ちはわかります。寒冷地ロックの人、OKIさんだって出発点はレゲエでした。逆のこともあって、セネガルとアンティルの血を引くテテが、2002年にモンレアル(モントリオール)に長期に滞在することがきっかけで自分の季節感にはなかった「秋」を発見してしまい、"A la faveur de l'automne"(秋に加担して)という大傑作を生んでしまったというケースもあります。 さて、キャラコルはこの(熱めの)デュオだったドバ・キャラコルを一旦解消して、ソロ活動に転じますが、一転してアコースティック・フォーク路線になるのです。ファーストソロアルバム "L'arbre aux parfums"(2008年)の中の曲"Le Mepris"(軽蔑)のクリップ(↓)
このアルバムは「ラジオ・カナダ・ミュージック」新人賞などを獲得したほか、カナダのレコ大的なJUNO賞とADISQ賞に「最優秀フランス語アルバム」としてノミネートされました。(だからどうだ、という評価が私にはできないのは、まだ聞いてないからなんですが)。
そして2011年にケベックでリリース(フランスでは2年遅れてこの夏リリース)されたセカンドアルバム『白い水曜日』はこんな第1曲目から始まります。
もし万一、月曜日に氷霧が私たちの心臓の上に凍りついてしまって「白い水曜日」のオフィシャル・ヴィデオクリップです(↓)
火曜日には私たちが霜で覆われてしまって、みんな死んでしまったら
最悪のことのあとにも最良のものが残っていることもあるって言うから
この白い水曜日に幸運の女神が私に微笑むってこともありうる?
あなたは私の光のままでいて
この美しい雪の下であなたの心を開いたままにしておいて
私の心はまだ燃えているわ
白い水曜日に幸運が私に微笑むわ
今夜天窓を抜け出して私の両目が狩りに飛び立つわ
冬が過ぎ去っても雪は降り続けるわ
私の両目はあなたの足跡を探しに行く
あなたをずっと愛しているわ
今だからそれが言える
「僕も愛しているよ」と答えるのは簡単なことよ
この白い水曜日にそれは可能なの?
あなたがそう言うのを感じたいの
あなたは私の光でいて、ずっとずっと
この美しい雪の下であなたの心を開いたままにしておいて
私の心はまだ燃えているわ
お願い、あなたは私の燃え盛る火災のままでいて
この白い水曜日、灰に覆われた空の下で
私の心はまだ燃えているわ
もし万一、月曜日に氷霧が私たちの心臓の上に凍りついてしまったら
この白い水曜日、あなたは私を愛してくれるかしら?("Blanc Mercredi")
お立ち会い、わかりますか? ディメンションが違うのです。「北の国では悲しみを暖炉に」なんていう緯度ではないのです。すべてが凍りついてしまう国で、心(心臓)を燃やし続ける愛、凍てついた真っ白な世界の中で真っ赤に燃え続ける心臓、そういう歌なんです。「あなたは光であり続けて」という願いが、この氷の世界では不十分で、最終部の歌詞は「あなたは燃え盛る火災になって」とラジカルに変わります。光(lumière)じゃだめなんだ、あなたは火災(incendie)になって、そうじゃないとこの極寒の世界では恋は死んでしまうんだ、と。こんなラヴ・ソング、そうめったにあるものではないでしょう。「八百屋お七」を思う方もいらっしゃいましょうが、それはまた別のディメンションなのです。
とりあえず、私はこの第1曲めでガツ〜んと来ました。こういうスケールの曲ばかりだといいんですが、アルバム全体となると、なかなか...。6曲めにこんな歌があります。
マッチをシュッと擦って点火して
私は花火になって飛んでいって
今夜私たちの物語の最後に照らすのよ
今夜ほんの束の間 私の心を燃やして空を照らすの
バラバラに飛び散る勇気はどうやって見つけるの?
火の破片となって四方に飛び散っていく花火のように
火の粉の私が空の彼方に飛ばされて目から見えなくなる前に
私はこの夢にさよならを言うの
大気の中でぐるぐる回って私の心は塵になってしまうの
バラバラに飛び散る勇気はどうやって見つけるの?
火の破片となって四方に飛び散っていく花火のように ("Feu d'artifice")
恋の終わりを花火のように散らしてしまいたい、という歌ですけど、「玉屋がとりもつ縁かいな」とはディメンションが違うんです。 激しくもダイナミックな失恋の歌で、この人のキーワードは「火」かなぁ、なんて思ってしまいました。
キャラコルは多くのケベコワと同様に仏語・英語バイリンガルで、この12曲のアルバムでも英語曲が5曲入っています。 英語?いいですよね。北米にして合衆国の隣国なので、われわれのような旧大陸の古ぼけたサウンドに慣れた耳には、「あ、これが世界標準のポピュラー音楽の音なのだな」と思わせる耳障りの良さで、実はこれが私をしてケベック音楽を敬遠させる最大の原因だったのですが。
おしまいに、2011年に日本でも公開されたケベック映画『人生ブラボー(原題:Starbuck)』 という映画(日本語予告編のリンクもここに)の挿入歌として使われた "Quelque Part"という歌も、映画観て泣いたオヤジのひとりとして、うるうるしないわけにはいかなかったのです。
もうおしまいにする時が来た(↓ "Quelque Part" モンレアルの街頭でのアコースティック・ヴァージョン)
私は堂々巡りばかりしていて、時間ばかりが過ぎていった
わかったことと言えば、あなたが隣りにいない年月はとても長かったということ
これは白昼夢ではないわ、嵐がおさまったのよ
世界のどこかで誰かが私のことをほんの少し思ってくれているんじゃないかって
思ったその時に
誰かがどこかにいるんじゃないかって
でも用心しなくてはダメ
人生は短くて、何も得ることがない、
みんなそれぞれ顔を隠しながら生きている、って人は言う
でも嵐はおさまった
私はここであなたを待つわ、辛抱づよく
すべてをやり直すために
世界のどこかで誰かが私のことをほんの少し思ってくれているんじゃないかって
思うから、誰かがどこかにいるんじゃないかって
でも用心しなくてはダメ
("Quelque Part")
<<< トラックリスト >>>
1. Blanc Mercredi
2. Certitudes
3. J'ai soif
4. Strange Film
5. All the girls
6. Feu d'artifice
7. Sailor Boy
8. Fantômes
9. Horseshoe Woman
10. Good Reasons
11. Je volerai ton baiser
12. Quelque part
CARACOL "BLANC MERCREDI"
CD INDICA RECORDS / L'AUTRE DISTRIBUTION AD2682C
フランスでのリリース:2013年7月22日
(↓ "Quelque Part" )
(↓ "Quelque Part" album version )
2013年8月14日水曜日
風の中の4人 (Quatre garçons dans le vent)
『風の息子たち』
2012年フランス映画(ドキュメンタリー)
監督:ブルーノ・ル・ジャン
出演:ニニン・ガルシア、チャヴォロ・シュミット、アンジェロ・ドバール、モレノ
フランス公開:2012年10月
DVD発売:2013年8月26日
7月8月、フランスの高速道路上では、多くのキャンピングカーが移動して行くさまを見ることができるのですが、この人たちは「ヴァカンシエ(vacanciers)」と呼ばれる一般市民のヴァカンス旅行者たちです。彼らは「キャンピング(camping)」と呼ばれる水・電気・衛生施設・遊戯施設などの設備の整った有料のキャンプ場に停まり、快適なヴァカンスを過ごします。ところが、その同じ時期の7月と8月、私たちはテレビの報道番組で「ロマの不法キャンプの強制立ち退き」や「不法滞在ロマの集団検挙」のようなニュースを見ることになります。一方の市民たちには許される「旅」が、これらの人々には許されない。
第二次大戦時にナチスによってユダヤ人と同性愛者と同じように強制収容〜ガス室送りの対象とされていたロマの人々を、戦後になって保護するためのさまざまな法律が作られ、フランスでも人口3万人以上の地方公共団体に水道と電気の設備のある野営キャンプ地の確保が義務づけられています。しかしその法律があっても、市町村はなかなかそのキャンプ地の設置や確保に積極的ではなく、市民団体がその設置に反対行動を起こすところもあります。定住住民たちとのトラブルは、(何十年たっても何百年たっても同じ偏見で)「治安上」と「衛生上」の問題に集中します。
2013年7月、西フランス、メーヌ・エ・ロワール県ショレ市の市長にして国会議員のジル・ブールドゥーレックスなる男が、「ヒトラーは十分な数のロマを殺さなかった」と発言、たいへんなスキャンダルとなり、同議員は「人道に対する犯罪への賛美」の廉で訴追され、所属党(中道派UDI)を除名されました。 日本の人たちにはなかなか理解してもらえないので、強調して言いますが、これは「言論の自由」の範疇ではないのです。フランスでは人種差別や人種憎悪を表現したり唆したりすることは法律で禁止されていて、立件すれば罰金刑・禁固刑に処されるのです。こういう法律は必要なのです。なぜ日本にこれに相当する法律がないのか不思議でなりません。
イントロがちょっと固くなりました。このドキュメンタリー映画は、それぞれ特色のあるマヌーシュ・ギターのマエストロ4人、ニニン・ガルシア、チャヴォロ・シュミット、アンジェロ・ドバール、(リュシアン・)モレノのそれぞれの道程をブルーノ・ル・ジャン監督が8年間に渡って追い続けて撮影されたものです。2012年に劇場公開され(私は見逃しました)、このDVDジャケに貼られたスティッカーによるといろいろなドキュメンタリー映画祭で賞を取ったようです。で、1年後にめでたくもフレモオ&アソシエ社からDVD化です。フレモオ社のありがたいところは同社のDVDはすべてNTSC方式なので、日本でそのまま(パソコンじゃなくてもDVDプレイヤーで)見ることができるのです。
マヌーシュ・ギターの開祖は言うまでもなくジャンゴ・レナール(1910-1953。日本ではどうしてもジャンゴ・ラインハルトというカタカナ表記になりますね)です。 その死後60年になる今日、ジャンゴの後継者たちは継承だけではなく、さまざまな新傾向を融合させて、マヌーシュ・ギターをますますメジャーなアートに成長させて、世界にファン層を拡大させています。毎年6月にはジャンゴ終生の地サモワ・シュル・セーヌで世界屈指のギター祭り「ジャンゴ・フェスティヴァル」が開かれますが、この映画にもそのシーンが登場します。この4人は今日のジャズ・マヌーシュを代表するギタリストであることに違いないのですが、米国の一流ジャズミュージシャンのような「大ホール」「派手な世界ツアー」「メジャーレーベルでの豪華録音」などとはあまり縁がありません。長年のキャラバン生活から足を洗ってパリのアパルトマンに定住してしまったリュシアン・モレノを例外として、3人はずっと家族とキャラバン移動の生活様式を続けています。アンジェロ・ドバールがその野営地に着くまでの運転中に「こんな自然の中で暮らす以上の幸せがあるものか」と語ります。この映画でだんだんわかってくるのは、彼らはさまざまな(社会的な)やっかい事があっても、移動生活を愛してやまないし、音楽は空気のように必要なものだし、彼らは「職業」として音楽を奏でるのではなく、彼らにとっては旅と音楽がそのまま「生きること」であるということです。うらやましいです。こういう人たちは21世紀の西欧社会で生きていけないのではないか、という愚かな疑問をこの映画ははっきり否定してくれます。
思えば「演出された劇映画」としてはトニー・ガトリフ監督の諸作品がありますし、その『ラッチョ・ドローム』 (1993年)にもドラード・シュミットやチャヴォロ・シュミットが出ていましたし、『スウィング』(2002年)ではチャヴォロ・シュミットが主演俳優としても大活躍していました。ところが、マヌーシュ・ギターを題材にしたドキュメンタリー作品というのはあまり例がない。ブルーノ・ル・ジャンはその理由を「この内側は撮りづらいのだ」と説明します。アンジェロ・ドバールは自分をキャラバンで撮影するのは自由だが、その他のキャンプ野営民を撮影するのは絶対許さない、という条件をつけたそうです。しかしそれよりも何よりも、彼らの行動は予測ができず、待っているところにいてくれるわけではない。彼らは自由に動き回る。そういう人間たち4人を、ル・ジャン監督は8年間も辛抱強く追い続けたのです。
また、この映画にはジャンゴの非常に珍しい映像が挿入されています。あれほどの数のレコード録音があるジャンゴでも映像は稀で、しかも映像と音声が同期したものは、全部で3分間しか記録保存されていないのだそうで、その一部が紹介されています。
彼ら4人はそれぞれ違うところから出ています。ニニンは先祖が南方から来たらしいから「ジタン」と呼び、モレノは東方のようだから「ツィガーヌ」と呼びます。北方から来れば「マヌーシュ」。 そういった違いは言葉の訛りや生活様式や音楽にもはっきりとこの映画で出てきます。
パリの北郊外サン・トゥーアン、クリニャンクールののみの市の真ん中にあるビストロ「ラ・ショップ・デ・ピュス」は今やマヌーシュ・ギターの殿堂となっていますが、そこを開いたのがモンディーヌ・ガルシア(この映画は「モンディーヌに捧ぐ」という文字でエンディングします)で、ニニンの父親。ニニンはそこで30年間に渡って(のみの市のある)土曜&日曜のステージをつとめてきましたが、今はその息子ロッキー・ガルシアが跡を継いでいます。
モーゼル地方生れのモレノは、南仏ジタンの聖地サント・マリー・ド・ラ・メールとアルザス地方との往復の旅の中で育ち、チャヴォロ・シュミット、マニタス・デ・プラタなどの影響で腕を上げてきた人。クリミア(ウクライナ)出身のツィガーヌ女性歌手マリナ(この映画でも歌っています)と結婚。音楽的にも東欧ツィガーヌの要素を大きく取り入れます。上に述べたように、キャラバン移動生活をやめ、パリのアパルトマンで定住生活を始めますが、そのいきさつも映画の中で説明しています(警察に夜中に叩き起こされることがトラウマとなってしまったのです)。
この映画で私(おそらく多くのマヌーシュ・ギターのファンたちも)の興味は、チャヴォロ・シュミットとアンジェロ・ドバールに集中します。チャヴォロはその激しいプレイとは裏腹に、温厚で言葉少なく、しかし詩人のように語ります。ブルターニュの海を相手に、その波の音にコード(和声)を探して、一緒に歌うシーンなど、本当に感動的です。
それとは対照的にアンジェロは天才肌で、言葉は鋭く、はっきりした哲学を感じ取ることができます。またロマの現状に対する政治的な意見も明白に語っています。キャラバンのために発電機を回したり(当たり前ですが、めちゃくちゃ図にはまっている)、野営地に水道がないので道ばたの消防水道栓から水を失敬して、水がなければ人は生きられないのに水を取るなと決める西欧社会に皮肉を一言、なんていうシーンは「硬派な男」をよく感じさせてくれます。この4人の中で、旅と自然と音楽を最もピュアーに体現している人間に見えます。
あとはマヌーシュ音楽を十分に楽しんでください。こんな人たちだからできる音楽、ということは(フランス語分からずとも、英語字幕読まずとも)何の説明もいらないでしょう。
カストール爺の採点:★★★★★
Les Fils du Vent (Un film de Bruno Le Jean)
DVD 96分(+ボーナス)
言語:フランス語(英語字幕)
DVD Frémeaux & Associés FA4024
フランスでのDVD発売:2013年8月26日
(↓)"LES FILS DU VENT" 劇場上映時の予告編
2013年6月2日日曜日
悲しき玩具
『危機の時代におけるセックストイの使用について』
2012年フランス映画
"L'usage du sextoy en temps de crise"
監督:エリック・ピタール、主演:エリック・ピタール、マリー・レナル
フランス公開:2013年5月22日
エリック・ピタールは1953年生れの映画人です。ま、私と同世代と言えます。ピタールは一般に名の通った映画監督というわけではなく、ドキュメンタリー作品が圧倒的に多く、その大部分は国内外(特に海外)の社会闘争や民衆運動などを内部に入って取材したものです。闘う映画人、そういう立場です。68年5月革命の時は14歳でしたけど、既にゴダールら「マオ派」に近いポジションにあり、74年から77年までIDHEC(フランス映画高等学院)の教授と学生たちで構成された闘争的映画集団「シネリュット (Cinélutte)」のメンバーでもありました。 往々にしてメディアでは「極左」(extrême gauche)という枕詞がついて紹介される集団ですが。この映画でも、ピタールが回想的に旧マオ派の人たち(いい味の老人たちです)を出演させています。というわけで、それまで一般上映館にはあまりなじみのないドキュメンタリー映画をたくさん撮っていたのですが、私が初めてこの監督の作品を知ったのは、ゼブダが出演し、1998年のトゥールーズ郊外暴動事件を取材した映画 "Le bruit, l'odeur et quelques etoiles" でした。そしてその後2011年にジャズ・サキソフォニストの仲野麻紀さんを雑誌インタヴューした時に、仲野さんと"Ky"というユニットを組んでいるギタリストのヤン・ピタールが、エリック・ピタールの息子であることを知ったのでした。
ヤンの話が出たので、先に音楽のことを書いておくと、この映画の音楽のオリジナルスコアはヤンの手になるもので、映画の最後のクレジットタイトルで流れる歌"La Chanson du Sextoy"は仲野麻紀さんが歌っています。いい歌です。
さて、『危機の時代におけるセックストイの使用について』です。タイトルで構えてしまう人出てきますよね。また、こういうタイトルだから、そういう映画だと思って見に来る人もおりましょうね。ポスターの図柄は、社会党(PS)のロゴマーク(赤いバラ一輪と握りこぶし)のもじりですが、PSが右手握りこぶしなのに、このポスターでは左手握りこぶしであることなんかも、それなりに意味があるのだと思いますよ。
危機の時代とは今現在のことです。時代の空気は危機的です。フランスの事情を言ってみれば、(一応 )左翼の大統領が選出されたのに、なぜに危機はますます深刻化していくのか、という不条理にして不可解な状況ではありますが、PSに期待したあんたがアホ、と言う人たちとはあまり口を聞きたくありません。エリック・ピタール(実名で出てきます。言わば主演男優です)は、この危機の時代に、自らも健康の危機に陥ってしまいます。より正確には生命の危機です。私は医学用語は無知で、何を言われてもわからないので、この映画の病院シーンは全く解釈できておりませんが、とにかく大変な事態で、何人もの専門医が稀なるケースとして議論しながら彼の治療に携わっていきます。これは自分は死ぬかもしれないという問題を通り越して、自分の体はもう自分のものではなく、病院に献体された実験材料であるかのような「やられ放題」なわけです。エリック・ピタールはこうしてゾンビーとなっていくのです。
この闘病のいきさつをピタールは自分自身を俳優にして再現ドラマ化し、自分自身を固定カメラで撮影し、カメラに向かって独語します。このピタールのドラマの部分はモノクロで描かれ、独白の背景にブルターニュ海岸に打ち寄せる波が映されたりします。
"J'ai fait le con"(俺はバカをした)とその独白は始まります。「俺に残されたものは、これとこれだけ」とカメラに見せる二つの物体は、右手にセックストイ、左手に映画フィルムの巻物。ピタールは世界中を旅して取材していたリポーターという自己紹介をします。中南米、アフリカ、マグレブ、フランスなどで実際にピタールが撮ったフィルムの断片が回想エピソード的に導入されるのですが、それらはすべてカラー映像で、ほとんどが労働者・人民の闘争シーンなのです。 現在の自分はモノクロで、過去の映像はカラーという意味もわかります。病室の中で、彼は失われた記憶をひとつひとつ取り戻していくのですが、それらは若き日の闘争の記憶なのです。若き日のマルク・ペロンヌ、ベルナール・リュバのアコーディオンも出て来て、私などは「おっ!」とうれしくなったりします。
彼にはレイラ(演マリー・レナル)という(たぶんまだ交際年月の長くない)恋人がいて、二人は並の40歳台&50歳台の恋人同士のように愛し合っている(なにかこの映像ではあまりにも淡々として熱愛ではないように見えますが、40歳台&50歳台なのでこれが並でしょうか)のですが、白血病発病と共にエリックは欲望も失ってしまうのです。しかし映画のタイトルが仄めかすように、ここが最重要のテーマではないのです。
深刻で痛々しい闘病場面は現れません。医者や看護婦たちは冗談好きで、非常にヒューマンな描かれ方です。実体験上お世話になったから敬意を表して、というだけではない、ドキュメンタリー映画人の「現場で働く人々」への厚い視線のようなものまで感じます。そして(私にはさっぱりわけのわからない)様々な治療法の甲斐あって、エリックは入院退院を繰り返す病気の鎮静状態に落ち着いていきます。その退院中に、レイラのアパルトマンでその衣装戸棚の中から偶然セックストイを発見してしまうのです。
その間に国民保険局はエリックのことを重度の障害者として認定してしまい、二度と働くことまかりならずの身になってしまいます。「生」の世界から見放されてしまったようなショックです。
病院で出会った(不法滞在の)アフリカ人に、病院で一緒に撮った写真を届けに行きたい。 「生」の世界への復帰をこういう小さなことから始めていくのですが、相手は不法滞在者ですから、なかなか見つかりません。田舎で休養したいというレイラと連れ立って、エリックはかつて毛沢東主義運動家だった農民の家を訪れ、自分の古い闘士の記憶を刺激されてしまいます。パリに戻って、彼は再びディジタル・ヴィデオカメラを抱え、サン・マルタン運河沿いのホームレスたちのキャンプ村を撮影して、闘士の血を蘇らそうとするのです。ところが、それは撮影された女から唾を吐きかけられる、ということになるのですが。
セックストイは問題ではありません。なぜなら、それに刺激されたこととは言え、エリックには性欲が戻っていくのですから。それは同時に「生」への欲でもあり、危機の時代にも闘争心は「生」へのエネルギー源として機能するのです。
闘争のさまざまな記憶は、彼が撮ったドキュメンタリー映像のコラージュとなって映画に挿入されていきます。その中でカギとなる映像のひとつが、2004年、サン・ナゼール造船所から完成した姿となって出港する超豪華客船クイーン・メリー・2を捉えたイメージです。その頃エリックは造船所の労働者(特に外国人労働者)たちのストライキやデモを撮っていました。そういう運動を経て、この超豪華客船は多くの労働者たちや市民たちから見守られて出港していきます。その中にシルヴェットと名乗る女性もいます。
エリックの「生」への欲求は、こうして、もうひとりの女性、すなわち当時サン・ナゼールで彼が(たぶん)愛してしまった女性の記憶まで蘇らせてしまったのです。レイラはそのことを知りません。エリックはシルヴェットに手紙を書き、その返事の手紙がレイラのアパルトマンに届きます。おそらく彼は自分の病気のことや、レイラのセックストイのことまでも手紙に書いたのでしょう。その返事の手紙を「俺は病気で目が弱くなってしまったから、代わりに」とレイラに音読させるのです。それはシルヴェットが再会を望む手紙なのです。隠れた愛人登場。このバカ男。その手紙が終わって、レイラはエリックの「生」への復帰を祝福するように、二人の情熱の復活を祝福するように、二人でタンゴを踊るのです。
いいですか、お立ち会い、これは男の側のリクツでできた映画ですよ。イージーな「生の讃歌」じゃないですよ。まあ、私は同年代の同性として、ちょっと共感する部分が多いので、まあ、よしとしようじゃないですか。
カストール爺の採点:★★★☆☆
↓エリック・ピタール『危機の時代におけるセックストイの使用について』予告編
De l'usage du sextoy en temps de crise par MonProgrammeTV
2012年フランス映画
"L'usage du sextoy en temps de crise"
監督:エリック・ピタール、主演:エリック・ピタール、マリー・レナル
フランス公開:2013年5月22日
エリック・ピタールは1953年生れの映画人です。ま、私と同世代と言えます。ピタールは一般に名の通った映画監督というわけではなく、ドキュメンタリー作品が圧倒的に多く、その大部分は国内外(特に海外)の社会闘争や民衆運動などを内部に入って取材したものです。闘う映画人、そういう立場です。68年5月革命の時は14歳でしたけど、既にゴダールら「マオ派」に近いポジションにあり、74年から77年までIDHEC(フランス映画高等学院)の教授と学生たちで構成された闘争的映画集団「シネリュット (Cinélutte)」のメンバーでもありました。 往々にしてメディアでは「極左」(extrême gauche)という枕詞がついて紹介される集団ですが。この映画でも、ピタールが回想的に旧マオ派の人たち(いい味の老人たちです)を出演させています。というわけで、それまで一般上映館にはあまりなじみのないドキュメンタリー映画をたくさん撮っていたのですが、私が初めてこの監督の作品を知ったのは、ゼブダが出演し、1998年のトゥールーズ郊外暴動事件を取材した映画 "Le bruit, l'odeur et quelques etoiles" でした。そしてその後2011年にジャズ・サキソフォニストの仲野麻紀さんを雑誌インタヴューした時に、仲野さんと"Ky"というユニットを組んでいるギタリストのヤン・ピタールが、エリック・ピタールの息子であることを知ったのでした。
ヤンの話が出たので、先に音楽のことを書いておくと、この映画の音楽のオリジナルスコアはヤンの手になるもので、映画の最後のクレジットタイトルで流れる歌"La Chanson du Sextoy"は仲野麻紀さんが歌っています。いい歌です。
さて、『危機の時代におけるセックストイの使用について』です。タイトルで構えてしまう人出てきますよね。また、こういうタイトルだから、そういう映画だと思って見に来る人もおりましょうね。ポスターの図柄は、社会党(PS)のロゴマーク(赤いバラ一輪と握りこぶし)のもじりですが、PSが右手握りこぶしなのに、このポスターでは左手握りこぶしであることなんかも、それなりに意味があるのだと思いますよ。
危機の時代とは今現在のことです。時代の空気は危機的です。フランスの事情を言ってみれば、(一応 )左翼の大統領が選出されたのに、なぜに危機はますます深刻化していくのか、という不条理にして不可解な状況ではありますが、PSに期待したあんたがアホ、と言う人たちとはあまり口を聞きたくありません。エリック・ピタール(実名で出てきます。言わば主演男優です)は、この危機の時代に、自らも健康の危機に陥ってしまいます。より正確には生命の危機です。私は医学用語は無知で、何を言われてもわからないので、この映画の病院シーンは全く解釈できておりませんが、とにかく大変な事態で、何人もの専門医が稀なるケースとして議論しながら彼の治療に携わっていきます。これは自分は死ぬかもしれないという問題を通り越して、自分の体はもう自分のものではなく、病院に献体された実験材料であるかのような「やられ放題」なわけです。エリック・ピタールはこうしてゾンビーとなっていくのです。
この闘病のいきさつをピタールは自分自身を俳優にして再現ドラマ化し、自分自身を固定カメラで撮影し、カメラに向かって独語します。このピタールのドラマの部分はモノクロで描かれ、独白の背景にブルターニュ海岸に打ち寄せる波が映されたりします。
"J'ai fait le con"(俺はバカをした)とその独白は始まります。「俺に残されたものは、これとこれだけ」とカメラに見せる二つの物体は、右手にセックストイ、左手に映画フィルムの巻物。ピタールは世界中を旅して取材していたリポーターという自己紹介をします。中南米、アフリカ、マグレブ、フランスなどで実際にピタールが撮ったフィルムの断片が回想エピソード的に導入されるのですが、それらはすべてカラー映像で、ほとんどが労働者・人民の闘争シーンなのです。 現在の自分はモノクロで、過去の映像はカラーという意味もわかります。病室の中で、彼は失われた記憶をひとつひとつ取り戻していくのですが、それらは若き日の闘争の記憶なのです。若き日のマルク・ペロンヌ、ベルナール・リュバのアコーディオンも出て来て、私などは「おっ!」とうれしくなったりします。
彼にはレイラ(演マリー・レナル)という(たぶんまだ交際年月の長くない)恋人がいて、二人は並の40歳台&50歳台の恋人同士のように愛し合っている(なにかこの映像ではあまりにも淡々として熱愛ではないように見えますが、40歳台&50歳台なのでこれが並でしょうか)のですが、白血病発病と共にエリックは欲望も失ってしまうのです。しかし映画のタイトルが仄めかすように、ここが最重要のテーマではないのです。
深刻で痛々しい闘病場面は現れません。医者や看護婦たちは冗談好きで、非常にヒューマンな描かれ方です。実体験上お世話になったから敬意を表して、というだけではない、ドキュメンタリー映画人の「現場で働く人々」への厚い視線のようなものまで感じます。そして(私にはさっぱりわけのわからない)様々な治療法の甲斐あって、エリックは入院退院を繰り返す病気の鎮静状態に落ち着いていきます。その退院中に、レイラのアパルトマンでその衣装戸棚の中から偶然セックストイを発見してしまうのです。
その間に国民保険局はエリックのことを重度の障害者として認定してしまい、二度と働くことまかりならずの身になってしまいます。「生」の世界から見放されてしまったようなショックです。
病院で出会った(不法滞在の)アフリカ人に、病院で一緒に撮った写真を届けに行きたい。 「生」の世界への復帰をこういう小さなことから始めていくのですが、相手は不法滞在者ですから、なかなか見つかりません。田舎で休養したいというレイラと連れ立って、エリックはかつて毛沢東主義運動家だった農民の家を訪れ、自分の古い闘士の記憶を刺激されてしまいます。パリに戻って、彼は再びディジタル・ヴィデオカメラを抱え、サン・マルタン運河沿いのホームレスたちのキャンプ村を撮影して、闘士の血を蘇らそうとするのです。ところが、それは撮影された女から唾を吐きかけられる、ということになるのですが。
セックストイは問題ではありません。なぜなら、それに刺激されたこととは言え、エリックには性欲が戻っていくのですから。それは同時に「生」への欲でもあり、危機の時代にも闘争心は「生」へのエネルギー源として機能するのです。
闘争のさまざまな記憶は、彼が撮ったドキュメンタリー映像のコラージュとなって映画に挿入されていきます。その中でカギとなる映像のひとつが、2004年、サン・ナゼール造船所から完成した姿となって出港する超豪華客船クイーン・メリー・2を捉えたイメージです。その頃エリックは造船所の労働者(特に外国人労働者)たちのストライキやデモを撮っていました。そういう運動を経て、この超豪華客船は多くの労働者たちや市民たちから見守られて出港していきます。その中にシルヴェットと名乗る女性もいます。
エリックの「生」への欲求は、こうして、もうひとりの女性、すなわち当時サン・ナゼールで彼が(たぶん)愛してしまった女性の記憶まで蘇らせてしまったのです。レイラはそのことを知りません。エリックはシルヴェットに手紙を書き、その返事の手紙がレイラのアパルトマンに届きます。おそらく彼は自分の病気のことや、レイラのセックストイのことまでも手紙に書いたのでしょう。その返事の手紙を「俺は病気で目が弱くなってしまったから、代わりに」とレイラに音読させるのです。それはシルヴェットが再会を望む手紙なのです。隠れた愛人登場。このバカ男。その手紙が終わって、レイラはエリックの「生」への復帰を祝福するように、二人の情熱の復活を祝福するように、二人でタンゴを踊るのです。
いいですか、お立ち会い、これは男の側のリクツでできた映画ですよ。イージーな「生の讃歌」じゃないですよ。まあ、私は同年代の同性として、ちょっと共感する部分が多いので、まあ、よしとしようじゃないですか。
カストール爺の採点:★★★☆☆
↓エリック・ピタール『危機の時代におけるセックストイの使用について』予告編
De l'usage du sextoy en temps de crise par MonProgrammeTV
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