2012年3月25日日曜日

合言葉はマルシャ!

Lo Còr de la Plana " Marcha ! "
ルー・クワール・デ・ラ・プラーノ『マルシャ!』

 (ほとんど独語のイントロ)前のアルバム(2007年)の日本仕様盤を作るにあたって、バンド名を「ルー・クワール・デ・ラ・プラーノ」とオック(プロヴァンサル)語の読み方に近いカタカナ表記にしたのは私です。読みづらいね。フランス人のようにそのまま「ロ・コール・ド・ラ・プラナ」と呼んだって構わないのですがね。アルバムタイトル"Tant Deman"を『明日があるさ』としたのも私です。よくどこからも文句が来なかったものですね。
 LCDLPは2001年からマルセイユで活動を始めたアカペラ・ポリフォニー・コーラス団です。マルセイユと言ってもマルセイユ1区と5区と6区にまたがる高台"La Plaine"(ラ・プレーヌ)地区である、という地域特殊性を強調して "La Plaine"の"Le Choeur"(ル・クール=合唱団)という名(仏語では "Le Choeur de la Plaine")をオック語(プロヴァンサル語)で名乗って"LO COR DE LA PLANA"となりました。マルセイユにあってラ・プレーヌは下町ではありません。アーチストや文化人の集まる先端的な街区で、ニューヨークで例えるならグリニッジ・ヴィレッジ、パリで例えるならバスチーユ〜マレー地区、といったところでしょうか。
 マルセイユもさまざまな特色ある街区(カルチエ)があるのです。マルセイユには16の区があり、その各区が小さなカルチエに区分されていて、1946年の政令で定められたマルセイユの正規のカルチエの数は111あります。その他にラ・プレーヌのように複数のカルチエにまたがったり、古い呼称で使われたりという非正規のカルチエが20余りあります。この130以上のカルチエがそれぞれ特色を持って蠢いている都市がマルセイユで、この新しいアルバム『マルシャ!』の中で、8曲めの「区々のファランドル(Farandola dei Bàris)」という歌は、この100を越えるカルチエ名を歌と踊りの輪(ファランドル)でつなぐ、という途方もない落語「寿限無」のような長〜い歌(9分超)です。寿限無、moi non plus。おまけにこの歌は最終トラック9曲めの「俺は聖職者が嫌い (Aimi pas lei capelans)」が終わったあとに、ゴーストトラックとして別ヴァージョンで収録されていて、また9分超のカルチエ名つなぎのファランドルで踊らされることになります。
 さて、LCDLPの3枚目のアルバム『マルシャ!』です。ジャケット写真の指サインを見てわかるように、これは「オッケー」なのです。うまく行く、調子良く機能する、順調である、フランス語で言うところの "ça marche!"(サ・マルシュ!)と同じなのです。『マルシャ!』のレパートリー9曲は2010年に初演されたもので、テーマは大きく3つに分かれますが、これはすべて中世トゥルバドゥール以来のオクシタニア文化が培ってきた異議申し立て/権利請求/人生謳歌の伝統の中に見られるものです。まず第一は遠くに離れていながら圧政を強いる権力(法皇、王政、帝政、中央集権共和制)を拒否すること。第二は人民の闘いを裏切る者たちをユーモアを込めて糾弾すること。第三は最大多数の人々のより良い生活を希望すること。この3つはいずれも政治的状況と大きく関係したことがらであり、その嘆きや抗議や糾弾の末にポジティヴな明日が来なければならない、という願いがあります。結果は「マルシャ!」なのです。
 このアルバムのフランスでの発売日が2012年4月30日であるのは偶然のことではありません。大統領選挙第一次投票(4月22日)と第二次投票(5月6日)の真ん中です。『マルシャ!』の歌々はこのタイミングで鳴って欲しいというマニュ・テロンの強い意志が感じられます。世界は変わらなければならない。そのチャンスにつながるかもしれない二回の投票の間に、5曲めの「われらが国 Nòste País」や7曲めの「ラ・リベルタ La Libertat」のような強いメッセージの歌が聞かれること、これは緊急で大きな意味のあることなのです。
  このアルバムの制作中にLCDLPは6人組から5人組に変わりました。マニュエル・バルテレミーは10年のLCDLP活動の後にグループから離脱したのですが、その理由は「子供が出来たから育児に専念する」(!)ですよ。なんてカッコいい辞め方なんでしょう!

 さて曲を聞いていきましょう。
 1) La Despartida (別離)
 愛し合っていた若い男女、男の親が無理矢理金持ちの娘と結婚させ、二人は別れなければならない。婚姻の宴に男は愛する女を招き、最後のダンス(クーラント。17世紀に流行ったダンス)を踊り、女はそのまま倒れ死んでしまう。周りの人々は大騒ぎ、「なんて惜しいこと、こんなに美しい娘だったのに...」。 - 荘厳な雰囲気のコーラスワークで歌われるこの歌は、LCDLP風の教訓があります。「別離、断絶、変化は穏やかなものであるわけがない、マルシャ!」
 2) La Canalha (ワル)
 原語では「ラ・カナーリャ」、フランス語では「カナイユ(canaille)」、これは不良、悪ガキ、げす野郎、という侮蔑を込めた呼称です。マルセイユでも世界のどこでも21世紀的現実として、金持ちはどんどん金持ちになり、貧乏人はますます貧乏の度を増しています。後者の数は急激に増し、道にあふれかえっています。フランスには失業者を怠け者と見なす大統領と政府があり、その視点に同調する市民たちも「貧乏人=ラ・カナーリャ」と白眼視します。それに対してLCDLPのこの歌は、仕事のない若者たち、低賃金労働者たち、ホームレスたち、これらは「ラ・カナーリャ」ではないんだ、と訴えます。ところがこの詞は今日に書かれたものではなく、20世紀初めのオック語詩人ジョゼフ・サレールの作品です。またこの詞はこのLCDLPヴァージョンの前に、2003年にデュパンのアルバム『ユジナ』の中の曲"La Canalha"(このヴァージョンの作曲はサム・カルピエニア)でも使われています。
 3) Masurka Mafiosa Marseilhesa (マルセイユ・マフィアのマズルカ)
 マ・マ・マ、マが3つ並びました。マルセイユは残念なことに「犯罪都市」という悪いイメージで語られることの多い町です。アメリカで言えばシカゴ、日本で言えば神戸、悪いやつらが肥え太る町です。その悪いやつらに政治家がいるのもマルセイユで、それまで一般的傾向として悪い政治家というのは保守と決まっていたのに、当地マルセイユでは社会党なのです。ジャン=ノエル・ゲリニ(元マルセイユ市議、元社会党ブーシュ・デュ・ローヌ県連会長、現ブーシュ・デュ・ローヌ県知事、上院議員)はコルシカ出身の政治家で、弟のアレクサンドル・ゲリニは清掃事業およびゴミ処理事業で一旗揚げた実業家。この二人が手を組んでマルセイユおよびブーシュ・デュ・ローヌ県の公共事業参入で不当な利益を上げ、しかもそれが社会党組織をも利用した恐喝や選挙汚職となっていたことが2011年に分かったのです。ゲリニ兄は書類送検されたものの、県知事の地位を退かず、社会党中央部もゲリニ兄に辞職を求めていません。それほどの大有力者ということになりますが、世論的には現在の大統領選挙の社会党候補フランソワ・オランドの最大の汚点がこのゲリニ問題を解消していないことです。この歌のリフレインはこう歌います「俺たちは策謀の魔術師、政治家という立派な職業を選んだのだから」。
 4)Sant Trofima (聖トロフィマ)
 聖トロフィマ(仏語では Saint Trophime)は、ブーシュ・デュ・ローヌ県アルルに伝えられるキリスト教聖人で、ガリアの地を布教するために紀元46年にアルルに辿り着いたとされ、アルルにはこの聖人を祭る聖トロフィマ教会があります。歌はその聖人と関係しているんだか、いないんだか、ある戦争の最中に、大砲の玉が聖トロフィマの頭に命中して、頭を失ってしまった、という話から、いやいや、あるおっかさんが、聖トロフィマを盗賊と間違って鉄砲をぶっ放したら、聖トロフィマの頭に命中して...に変わり、おっかさんは狙いをつけたら百発百中、恐いぞ...。これは聖人の名前を使った戯れ歌でしょうか。しかしこの歌を書いたシャンソニエ(シャンソン作家)のミケウ・カポドゥーロは、後述の「マルセイユ・コミューン」(1871年)に立ち会った人。コミューンの兵士とヴェルサイユ臨時政府軍の戦闘のことかもしれません。要・確認。
 (※後日、この日本盤の解説を書いたおきよしさんが、マニュ・テロンに直接メールでこの歌のことを尋ねたところ、これはやはりマルセイユ・コミューンの歌で、鎮圧にやってきた政府軍が放った大砲の玉が、自軍が助けに来た政府側陣営の立てこもっているマルセイユ市庁舎を囲んで立っている聖人像を次々に倒していった、という間抜けな図を風刺した歌、ということがわかりました。おきよしさん、ありがっとう!)
 5) Nòste País (われらが国)
 この歌はこの国の外国人(移民)政策の現状をストレートに糾弾しています。「私たちは外国人たちが自由に来れて、気楽に住める国で生きたい」、「この国が毎日外国人を酷使し続けたいなら、少なくとも彼らに自由に来させることを許し、危険なくこの国に居させるべきだ」、「 金を夢見てやってきた彼らは地獄よりもひどいところに住んでいる、虚偽と搾取の法律に耐えながら」...「奴隷状態で彼らを使うパトロンたちはその利益のために彼らを絞り尽くす、レイシズムの国家が県警を使って彼らを追い立てる脅迫をしているというのに」...。強くストレートな言葉が続きます。「レイシズムの国家」とまで決めつけていますから。変わらなければなりません。マルシャ!
 6)  La Tautena E La Patineta (ヤリ烏賊とキックスクーター)
 この歌も3曲めと同様に政治とマフィアとマルセイユという三題噺みたいなものですが、ちょっと長い説明が必要です。1994年に実際にあった事件で、保守系UDF党の女性国会議員でヴァール県イエールに住んでいたヤン・ピア(当時44歳)が、車で帰宅途中にスクーターに乗った二人組に銃撃され死亡しました。この女性議員はクリーン派で土地のマフィア撲滅のためにも運動していたので、マフィアによる暗殺説が有力でしたが、彼女の死に前後して土地のマフィアのボスや有力者たちが次々に死体になります。その3年後にこの事件を調査していた二人のジャーナリストが事件真相暴露の本を出版します。その本によると、ヤン・ピア議員を殺害したとして捕えられた二人は真犯人ではなく、暗殺は別の犯人グループによるもので、その背後にはコート・ダジュール地方の軍用地の売却をめぐるマフィアの大規模な不正不動産売買の計画があり、それに「ヤリ烏賊」と「キックスクーター」と陰名されている政界の大物が絡んでいる、と言うのです。その大物二人とはジャン=クロード・ゴーダン(当時プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方評議会総裁、当時も今もマルセイユ市長)とフランソワ・レオタール(当時防衛大臣)で、それを知らぬピア議員がこの不動産不正の計画を知った時この地方でUDF党の第一の有力者であるゴーダンに相談に行ったために、逆に消されるハメになった、という話。話としては面白いのですが、実際はこの真相暴露本にはまったく証拠がなく、逆に二人の大物から逆告訴され、本は発禁になりました。まだこの話は続くのですが、ここらでやめときます。- 歌はこの「ヤリ烏賊とキックスクーター」の恋物語〜結婚〜金銭的大成功という寓話的な展開にしてありますが、大宮殿、カジノ賭博、女、麻薬、軍隊、政党親衛隊、ギャングたちがごちゃまぜに登場する「暗黒のコート・ダジュール」絵巻となっています。
 7)La Libertat (ラ・リベルタ)
 アルバム中最も重い歌です。「ラ・リベルタ」はもちろん自由という意味ですが、この自由は歴史的に夥しい人たちが血を流して守ってきたものです。このオック語詩は1892年にJ・クローゼルが書いたものです。詩人はその21年前(1871年)に起こった「コミューン」革命にインスパイアされてこの詩を書いています。私たちはこの事件を「パリ・コミューン(Commune de Paris)」と歴史の授業で習っていて、パリの市民蜂起のこととばかり思っていました。しかし1871年3月18日にパリに始まったこの革命は、3月22日にマルセイユに飛び火し、蜂起したマルセイユ市民たちも自治コミューンを樹立し、「マルセイユ・コミューン」は14日間保たれたのち、4月5日にヴェルサイユ臨時政府軍によって鎮圧されています。「あなたは裸のまま火のように燃え、両拳を腰に構え、ラッパのような力強い声で、胸いっぱいの息で呼びかける、おお良きミューズよ」、「あなたは貧しい人々のミューズ、あなたの顔は煙に汚れて黒く、あなたの目は銃撃戦を映し出し、あなたはバリケードに咲いた一輪の花、あなたはヴィーナス」、「あなたは飢える人々と衣服のない人々の守護者、靴もなく歩く人々、パンのない人々、寝床のない人々をあなたは愛撫する」、「しかし他の者たちはあなたを蹂躙する、大成金たちとその同類たち、貧民に敵対する者たちは。なぜなら、聖なる娘よ、あなたの名前は自由(ラ・リベルタ)だから」( . . . )。この詩に曲をつけたのはマニュ・テロンです。この歌はトゥールーズの合唱団
ルー・クワール・ダウ・ランパロ(Lo Cor Dau Lambaro)によって録音されて以来、MP3やユーチューブを介して南仏のオック語人たちに広く伝播し、今や「オクシタニア自由讃歌」のように歌われるようになりました。ユーチューブのコメントには「心のオクシタニア国家」とまで称されています。LCDLPでは初録音。これは後世まで残る「本歌版」となりましょう。
 8)La Farandòla Dei Bàrris (区々のファランドル)
 歌詞が全部で34番まである、長大なフォークダンス(ファランドル)曲です。イントロ部で述べたように、130とも150とも言われるマルセイユの新旧のカルチエ(小街区)の名前をつなげて、その区々の顔を描きながら、ファランドル(手つなぎで大きく蛇行して進むスキップダンス)するという気の遠くなるような歌。「マルセイユについてはいろんなことが言われているが、たくさんのことが言われすぎるから、この多弁家たちはおしゃべりの神様から送られてきた人たちじゃないか、と思うほど。物知りやわけ知りたちは自分たちがこの美しい町の文化をすべて知ってると思っている」、「 ところが俺たちには頭が痛くなるような七面倒くさい文人や知識人がいないけれど、俺たち凡人にはやつらの小難しい御託は必要ない、土地言葉(パトワ:プロヴァンサル語)さえわかればいいんだ、やつらは阿呆さ、なぜなら文化の鍵は言葉の中にあるんだから」と始まり、区々をプロヴァンサル語で描写する30番のスケッチが展開されます。おしまいに「全部のカルチエを歌いきってないけれど、正直言ってこれ以上は無理だけど、ラ・プレーヌの陽気者たちが元気に歌ってみせました」と締めます。拍手喝采したくなります。
9) Aimi Pas Lei Capelans (聖職者が嫌い)
 4曲め同様、この詩を書いたミケウ・カポドゥロは1871年の「マルセイユ・コミューン」の証人のシャンソニエです。これは "Capelan"という言葉がキーで、プロヴァンサル語でこれは「司祭、聖職者、僧侶」という意味になるようなのですが、フランス語では魚の名前で私のスタンダード仏和辞典では「からふとししゃもの一種、たら科の魚」とあります。歌詞の中では、この魚は漁師たちが釣っても何の値打ちもないと港に捨ててしまう類いの魚で、嫌な臭いを放ち、誰も欲しがらないものだったのが、たっぷり塩をして干し魚にすると保存がきくというので、縄に縛りつけて吊るすようになった(これも聖職者を縛り首にする、というダブルミーニング)。しかし誰も欲しがらないこの魚を、マルセイユの教会の司教や司祭が貧民へのほどこしとして無知な人々に与えたので、マルセイユの人々はその毒に当たったのだ、と。そのために人々は"Capelan"(魚、聖職者)が嫌いになり、貧乏人でさえも"Capelan"を海に捨てるようになった、という落ち。ファビュルス・トロバドールのアンジュ・Bがアレンジで参加しているため、ヒューマン・ビートボックスや機械音・サンプル音その他エフェクトが目立つ音作りです。
+ (ゴーストトラック)
 La Farandòla Dei Bàrris (区々のファランドル) セカンドヴァージョン

Lo Còr de la Plana " Marcha ! "
CD Buda Musique 2799095
フランスでのリリース:2012年4月30日 

(↓2010年アルルでのLCDLP のライヴ映像「ラ・リベルタ」)



2012年3月22日木曜日

外側から見ると(Vu de l'extérieur)

Frédéric Régent "Gainsbourg par ses interprètes"
フレデリック・レジャン編『ゲンズブール共演者たちの証言集』


 年がかりの本だそうです。活字が小さい!440ページの本ですが、読みやすい大きさの活字に変えたら千ページを超す大著になりましょうね。この表紙の写真は近頃どこかで見たことがありますね。そうです、フレモオ&アソシエ社から2011年10月に出た3枚組CD『セルジュ・ゲンズブールとその演奏者たち全録音集1957-1960』のジャケットです。フレデリック・デジャンはこのCDの監修者のひとりで、ブックレットに詳細な解説を書いていた人です。私はこのCDを拙ブログで紹介した時にタイトル中の "ses interprètes"を苦し紛れに「その演奏者たち」と訳したのですが、要はゲンズブールが書いた曲や詞を歌ったり演奏したりする音楽アーチストのことです。「その歌手たち」とすると楽団演奏などが含まれなくなりそうなので「その演奏者たち」としたのですが、この本のタイトルにも "ses interprètes"という言葉が出てきます。"Gainsbourg par ses interprètes"、前例に従うと「その演奏者たちによるゲンズブール」と訳されるべきところでしょうが、この膨大な活字量の本を見て、この場合それは違うんじゃないか、と思ったのです。
 ここに収められたのは、有名/無名を問わず、ヒットした/しないに関わらず、ゲンズブールの詞・曲を歌った歌手たち、演奏したミュージシャンたち、編曲などで共同作業をした人たち65人の人物像、ゲンズブールに関する証言、インタヴューなどをまとめたものです。ソースは新聞・雑誌・テレビ・ラジオでの記録が主ですが、直接に取材したものもあります。ミッシェル・アルノー、ジュリエット・グレコ、ブリジット・バルドー、フランス・ギャル、フランソワーズ・アルディ、イザベル・アジャーニ、ヴァネッサ・パラディ、シャルロット・ゲンズブール、ジェーン・バーキン(最終章の65人目として長さ25ページの編集インタヴュー集)といったゲンズブール史に大きく関わった人たちだけではなく、彼がピアニストをしていた倒錯キャバレー「マダム・アルチュール」の一座や、1曲や2曲で彼と仕事をしただけの人たち(ニコ、ストーン、マリアンヌ・フェイスフル、シェイク、ミッシェル・シモン、マルタン・シルキュス、ジェラール・ドパルデュー...)、そして編曲や共同作曲で彼を支えた人たち(アラン・ゴラゲール、ミッシェル・コロンビエ、ジャン=クロード・ヴァニエ...)といったように網羅的です。さらに補追の第66章("Les autres et caetera"と題されている)として、生前にゲンズブール曲をカヴァーした有名/無名のアーチストたち126人(フランシス・ルマルク、ミレイユ・マチュー、シェイラ、ヴェロニク・サンソン、ミッシェル・サルドゥー、スライ&ロビー、ジョディー・フォスター、スクリーミン・ジェイ・ホーキンス...)が紹介されています。
 すなわち、この本は大なり小なりゲンズブールと共に仕事をした人たちから見たゲンズブール像を集めたもので、フレデリック・レジャンがいみじくも本書の序章のタイトルに使っているように"SERGE GAINSBOURG VU(ES) DE L'EXTERIEUR"(外側から見たセルジュ・ゲンズブール)なのです。その意味合いから、私はこの本での"ses interprètes"を単純に「歌手」や「演奏家」とするよりは、ゲンズブールと共同で作業をした人たち、というニュアンスで「共演者たち」としたのです。
本書は中央フランスの町シャトールーの小さな出版社エディシオン・エポニムから2012年2月に刊行され,私はフランス最大のブックフェア「サロン・デュ・リーヴル」(3月16-19日,ポルト・ド・ヴェルサイユ見本市会場)で同出版社のブースで初めて見て,即座に購入しました。この分厚いドキュメントが13ユーロ(約1400円)という良心的な値段です。これを書いている時点から4日前に手にしたばかりなので,全ページを読み通したわけではありません。毎朝/毎夕の通勤地下鉄の友として,気になる人たちから拾い読みしていますが,ジェーン・バーキンを別格としても、例えばフランス・ギャルだけでも一冊の本ができてしまうのではないか、という内容の濃さです。 

「フランス・ギャルは俺の命を救った」(ゲンズブール)

シャンソン作家になったのは、ゲンズブールが喰っていかなければならない絶対の必要からのことです。画家になることは天賦の才(同じ言葉ですが"天才" )が必要で、その天才が世に認められるのに50年や100年もかかることがあり、往々にしてその天才は同時代人から認められません。つまりメジャー芸術者は喰わなくてもいいという覚悟が要る。ところが俺は喰わなければならない。マイナー芸術(この場合「シャンソン」「大衆音楽」)は多くの才能がある者は未来を待たずとも今日明日の食い扶持にありつける。類い稀なる自尊心の持主であるゲンズブールは、俺には多くの才能がある、メジャー芸術は無理かもしれないが、マイナー芸術では絶対に喰える、という自信がありました。プロとしてのシャンソン作りは1955年に始まりますが、先達ボリズ・ヴィアンのように高慢なこの青年は、マイナーとは言いながら「低級マイナー」には手を出さず、左岸派の「高級マイナー」にこだわったために、最初は思うように喰えないのです。曲を作ってある歌手に断られると、その同じ曲を違う歌手たちにプロポーズしてまわり、必ず歌い手を見つけてしまうという不屈の営業マンの一面も身につけました。できるだけたくさん曲を書き、できるだけたくさんの歌手に歌ってもらうこと、そうしなければ喰えなかったのです。それが一変するのが、1965年ユーロヴィジョンでのフランス・ギャル「夢見るシャンソン人形(Poupée de cire, poupée de son)」の優勝です。この世界的大ヒットによってゲンズブールには巨額の金が転がり込むのです。
 ゲンズブールはフランス・ギャルによって命を救われたわけですが、この二人の共同作業は5年間続き、フランス・ギャルはかの「アニーのペロペロ・キャンディー」などで深く傷ついたりしながらも、後年にはこの「ゲンズブール期」を再評価し、アーチスト「フランス・ギャル」を創ってくれた3人の人間(父親ロベール・ギャル、セルジュ・ゲンズブール、ミッシェル・ベルジェ)のひとりとまで言っているのです。この5年間を記述した本書の10頁だけでも和訳される価値ありでしょう。
 ユーロヴィジョンで65年「夢見るシャンソン人形」の栄光を見ることができなかったのが、67年モナコ代表曲の「ブン・バダブン」(詞曲:ゲンズブール)です。「サン・ジャンの恋人」の歌手リュシエンヌ・ドリールと花形トランペット奏者/楽団指揮者のエーメ・バレリの間に生まれた娘、ミヌーシュ・バレリ(1947-2004)がその歌手でした。リンクで貼ったヴィデオをごらんになればわかるように、歌うというよりは音符関係なくシャウトするような歌唱法が災いして、この曲は5位どまりでした(因みに同年の優勝はサンディー・ショー「パペット・オン・ナ・ストリング」)。ミヌーシュ・バレリはこの曲の録音リハーサルがとてもアグレッシヴで、彼女の通常のトーンよりも2音階上で歌わされ、15回もNGを出されたことを証言しています。するとゲンズブールが「きみは "もういい加減にしてくれ!”と言いたくなるだろう? 俺はきみがそういう感じで歌ってくれるのを望んでるんだ」と言うんですね。この歌手への無理強いはジェーン・バーキンをはじめ、いろいろな人に実践されるのですが、同じような証言はこの本の他の箇所でも出てきましょうね。
 ニコ(1963年にジャック・ポワトルノー映画『ストリップ・ティーズ』に出演。音楽担当がゲンズブール。主題歌「ストリップ・ティーズ」を録音していますが、ゲンズブールの満足を得られずボツになり、この録音は2008年まで未発表のままでした)に関しては、晩年のゲンズブールの呑友になっているアリ(ニコの息子。父親はアラン・ドロンと言われてますが、ドロンは認めていません)が亡き母に代わってインタヴューに答えています。アリが言うには、63年当時母はまだアルコールにもドラッグにも染まっておらず、クリーンで背が高く、大変な美人だったけれど、性格は悪く正真正銘の「バッド・ガール」で、ゲンズブールはむしろニコを怖がっていたのだそうです。
 また驚いたのはマリアンヌ・フェイスフル(1966年アンナ・カリーナ主演のミュージカル映画『アンナ』の中で「昨日か明日(Hier ou demain)」という曲を歌っています。 この録音を2006年まで未発表でした)が、1968年にゲンズブールから(ブリジット・バルドーとの破局でオクラ入りした)「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」の再録音の相手役にプロポーズされていた、ということ。ジェーンの前に! フェイスフル曰く「彼はいろんな人にそれを依頼していたわ。私はなぜそれを断ったのかしら。たぶん羞恥心からね。私はあの頃ミック・ジャガーとのアバンチュールの最初の頃で、それしか頭になかったの。ミックも多分その歌を好きにはなれないだろうって(...)」。フェイスフルは「私はとてもセクシュアルな人間」と言いながら、セルジュとはずっとプラトニックは友情関係が続いていた、と言います。その関係はフェイスフルが地獄のような転落をしていた時期を越えてずっと続くのです。その友情の証しのような短編フィルムが1982年仏テレビ「レ・ザンファン・デュ・ロック」にあり、フェイスフルのクリップ制作のドキュメントです。
 ほんのかじりだけですが、このように思いがけぬたくさんの証言が詰まった「外側から見たゲンズブール」です。読了後にまた書き足しましょう。研究者諸姉諸兄は今すぐ入手しましょう。

FREDERIC REGENT "GAINSBOURG PAR SES INTERPRETES"
(Editions Eponymes刊 2012年2月、440頁、13ユーロ)

(↓)マリアンヌ・フェイスフル「昨日か明日(Hier ou demain)」

2012年3月10日土曜日

トニー! トニー! トニー!

『インディニャドス』2012年フランス映画
"Indignados" トニー・ガトリフ監督映画

フランス公開 2012年3月7日

 第二次大戦レジスタンス闘士で元外交官の老論客ステファヌ・エッセル(1917 - 。当年95歳)が著した32ページの小冊子『憤激せよ!(Indignez-vous!)』は2010年10月21日に刊行され、その薄さと値段の安さ(3ユーロ、約300円)も手伝って瞬く間に百万部を突破し、1年後には34カ国語に翻訳され、世界で4百万部を売る大ベストセラーになりました。この本は向風三郎がラティーナ2011年2月号で詳しく紹介していますが、世界人権宣言の起草者のひとりであるエッセルが、2000年代に入ってからのフランスと世界において以前にも増して人権が無視され、蹂躙されている現実に激しい憤りを覚え、人生の幕を閉じようとしている老人の最後の声として、若者たちに「憤激せよ、行動せよ」と説いたエッセイです。内容はほとんど政治パンフレットと言っていい、具体的な事実と問題を上げ、それに対してどう行動するべきかが平易な文体で書かれてあります。(日本語版は2011年12月に日経BP社から『怒れ!憤れ!』という題で発売されたようです。)
 トニー・ガトリフのこの作品は、この小冊子にインスパイアされた自由翻案による映画という但し書きがついています。この小冊子にインスパイアされたのはガトリフだけではありません。世界の多くの人たちがこの本に「アジられて」行動しています。パリ、マドリード、バルセロナ、アテネ、ニューヨーク... 世界中で憤激して広場を占拠している人たちがいます。この2011年〜2012年的状況は、世界が極端に悪くなりながら、いたるところで希望の種が芽生えています。この映画はその緊急性の中で制作されました。「アラブの春 」がどういう結論で語られるのかを待っているわけにはいかないのです。重要なのは「アラブの春」が確かに存在したということです。トニー・ガトリフはこの小冊子とそれに呼応する世界の激動に待つことなどできずに、現場に行ってカメラを回しました。待つことのできない映画、私たちがこの作品で見なければならないのは、その映画人の抑えがたい衝動でしょう。その衝動の土台は「憤激」「怒り」なのです。
 映画は地中海の欧州側に打ち寄せる波に始まります。その波は砂浜にたくさんの数のスポーツシューズを運んできます。それはアフリカから欧州に「密航」という手段を使って渡ろうとした夥しい数の若者たちの失われた命を象徴しています。その打ち寄せる波の中で、ひとりのアフリカ少女が生き残って浜辺にたどりつきます。少女はそこから(NikeやAsicsなどのスポーツシューズのコマーシャルフィルムのように)走り始めるのです。 映画はこの少女(ベティーという名前になっています。映画中の警察調書にも"Betty"という名前が現れ、映画最後のクレジットタイトルにも"Betty"という名前になっています。おそらく実名など出せない本物のクランデスティーナ=密航者でしょう。しかしその名の通り「ベティー・ブープ」のような無垢な笑顔をした娘です)が激動する欧州を移動しながらの出会いと体験と受難を描くロード・ムーヴィーという進行です。
 このアフリカ少女は異星人のように、ヨーロッパ言語を一言もしゃべれないのです。ヨーロッパに打ち上げられて、最初から彼女はヨーロッパ人の悲惨を目にします。極端な状態でサバイバルを生きるホームレスたち、人間としての尊厳を一切認められない移民たち、そういう中で彼女は幻滅もせずに、アフリカに残る家族たちにヨーロッパにたどり着いた幸運や未来における成功をポジティヴに語る手紙や電話メッセージを送るのです。目の前にあるものはポジティヴなものは全くないのに、彼女は(フランス語字幕ですが)「ça ira 」(なんとかうまく行くだろう)と独語するのです。この ça ira (サ・イラ)とは、1789年フランス大革命の時に、市民たちが特権階級をギロチンに処する行動を歌った革命歌へのリファレンスです。ベティーがどんな逆境(警察に捉えられ、移民収容所に収監されたり、強制送還に処されたり)にあっても、ポジティヴに「サ・イラ」と自分に言い聞かせるのは、希望が絶対に消えないからなのです。その儚くも淡い希望の炎をベティーはパリで、アテネで、マドリードで見てしまうのです。
 パリの町で、ひとりの少女がスマートフォンの映像を見て小躍りして興奮しています。彼女は友人に電話をかけ「今、チュニジアで何が起こっているのを知ってるか」と昂ってしゃべっています。ここにジャスミン革命の実録映像が挿入され、ベティーはこの踊りながら電話でしゃべっている娘の興奮に微笑みます。無宿無一文のベティー(路上で寝ています)が生きていけるのはこういう娘たちがいるからです。ガトリフ一流のポエティックな映像で、廃墟となったプール跡地(確証はないですが、私が80年代によく通ったパリ16区のピシーヌ・ドトゥイユだと思って見ました)で政治スローガンの紙吹雪の中でフラメンコを踊るジプシーのシーンは、ロマや不法滞在移民たちという逆境にある人々こそが、この起こりつつある革命の表現者となれる、というメッセージと理解しました。
 映画はこの他にもポエティックで象徴的な映像がたくさんあります。チュニジアで起こった革命が、26歳の失業者が街頭で果物(オレンジ)を売ったことを警察に咎められて、その抗議に焼身自殺したことから始まったということへのオマージュとして、無数のオレンジを地中海の南側の町から転がし、そのオレンジが港にあった小舟にも転がり落ち、小舟に乗って地中海の北側のヨーロッパにも転がっていく、という美しいイメージがあります。
アテネで、パリで、マドリードで、ベティーは怒れる人々の非暴力的な運動(「われわれの武器は手拍子である」!)を見ながら、「サ・イラ」という独り言を確かなものにしていきます。
 しかしバスティーユ広場もプエルタ・デル・ソル広場も機動隊はその人々を強制的に排除してしまいます。ベティーも見知らぬ土地の、見知らぬ住宅街工事現場の無人地帯の中で閉じ込められてしまいます。映画はその解決や、次なる革命の可能性などは提示しません。しかし、現在進行形の緊急性は、このままで終わってはならないという「今」を訴えないわけにはいかないのです。
 この映画は用意周到に作られたものでは全くなく、その雑なところは隠しようがありません。トニー・ガトリフは、まるでヌーヴェル・ヴァーグ時代のゴダールのように、震えるハンドカメラで撮っています。そして「政治時代」のゴダールのように、スローガンを字幕で大写しにします。ゴダールが毛沢東語録の断片を引用したように、ガトリフはステファヌ・エッセル『憤激せよ!』を随所で引用して字幕にします。これはそういう映画なのです。
そういうことを理解しようとしないで、テレラマ誌やマリアンヌ誌といった(言わば左翼系の)雑誌はこの映画を酷評しました。プロパガンダ(お)説教映画へのアレルギーでしょう。
 3月10日、ただでさえ上映館の少ないこの映画(パリでは4軒のみ)を、私はわざと隣町のナンテール(オー・ド・セーヌ県)の映画館で見ました。ナンテールはフランスでも最も裕福な県と言われるオー・ド・セーヌ県の県庁所在地でありながら、戦後以来ずっと共産党が市政を司る、我が家の近所で最も「赤い町」です。この町だったらこの映画は満員だろう、という期待で行きました。結果は私の回は客がたったの二人でした。なぜなんだろう、と悲しく思いました。ステファヌ・エッセルの本にうなづき、抵抗の心を鼓舞された何百万という人々はどこに行ったのだろう、と思いました。しかし、人がいようがいまいが、この映画は緊急でスリリングで胸を熱くさせる、いつものトニー・ガトリフ節なのです。音楽も熱い涙を流させるガトリフ節なのです。断じて、請け負います。

(↓『インディニャドス』予告編)

2012年2月29日水曜日

マオい日々


Anne Wiazemsky "Une Année Studieuse"
アンヌ・ヴィアゼムスキー『もう勉強の1年』


 
ンヌ・ヴィアゼムスキー(1947- 2017 )の11作目の長編小説です。1947年生まれのこの女性は、日本ではゴダール映画『中国女』や『ウィークエンド』(共に1967年制作)やパゾリーニの『テオレマ』(1968年)の女優として知られていて、ジャン=リュック・ゴダールとは1967年から72年まで公式に夫婦であったことから、「ゴダールの女」のひとりとしてのみ認識されているきらいがあります。この小説はまさに19歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーがゴダールと邂逅して、激しい恋に落ち、結婚に至る1年間のことと次第が描かれているのですが、私たちはまず、この女性がごく一般的な背景を持った「フツー人」ではない、ということを知っておく必要があります。
 まず母方の祖父がノーベル文学賞作家のフランソワ・モーリヤック(1885-1970)です。『テレーズ・デスケールー』や『愛の砂漠』で知られるカトリック人道主義の大作家で、日本の遠藤周作に多大な影響を与えました。個人的なことですが、私は四谷のカトリック系私立大学の仏文科に入ったのですが、初年度5月に課外で主任教授(フランス人、カトリック司祭)から視聴覚室で映画上映会をするから、映写助手として手伝いに来いと言われて土曜日の午後に映写室から見たのが『テレーズ・デスケールー』(1962年ジョルジュ・フランジュ監督映画。主演テレーズ役にエマニュエル・リヴァ)でした。この重々しくも(超)退屈な映画を大学初年度の5月に見たことは、かなり大きなトラウマとなり、私は大学の選択を間違った、私が学びたかったのはこれではない、という確信の「五月病」に陥り、以後卒業まで劣等生を続けることになったのです。それはそれ。
 その娘のクレール・モーリヤックが結婚したのが、ボルシェヴィキ革命のために亡命してきたロシア大貴族のジャン・ヴィアゼムスキー(ルヴァショフ伯イワン・ヴィアゼムスキー公)で、その間に生まれたのがアンヌ(1947年生れ)とピエール(1949年生れ。のちにヌーヴェル・オプセルヴァトワール誌やリベラシオン紙の風刺画イラストレーターとなります。筆名はWiaz=ヴィアーズ)でした。この姉弟は、父ヴィアゼムスキー公の死後、祖父フランソワ・モーリヤックの庇護のもとに育てられることになりますが、祖父硬派カトリックと亡父貴族の反共主義の家風にさらされながら、パリ16区の大富豪住宅街で何不自由なく大きくなります。しかし、一歩16区から外に出ると、時代の空気は自由で、反抗的で、ヌーヴェル・ヴァーグで、ロックンロールだったわけで、この姉弟も祖父の価値観と相容れない新しい文化に染まっていくのです。特にアンヌはサルトルとボーヴォワール、現象学のモーリス・メルロー=ポンティなどを好んで読み漁る少女だったのですが、さすがに60年代なので実存主義は往時のパワーを失っていたものの、祖父モーリヤックが公然と論敵にしていた思潮でした。
 小説は1966年6月に始まります。アンヌは19歳。当時は成人年齢が21歳だったので、未成年です。バカロレアの筆記試験で芳しくない結果だったので、9月の追試験(口頭試験)のために夏のヴァカンス中に「猛勉強」を強いられています。そんな6月のある日、観たばかりのゴダール最新映画『男性・女性』(1966年制作)に強烈に心惹かれ、その監督にファンレターを送ってしまいます。住所は知らないので、ゴダールが論陣を張っている映画誌カイエ・ド・シネマの編集部気付を宛名にその手紙は書かれます。その映画がとても好きだったこと、そしてそのカメラの背後にいる人間もとても好きだ、とその手紙は告げます。最初からこの小説は、この手紙はその言葉がどういう意味なのかをわからずに書かれていた、と言い訳します。つまり「好き」「愛する」という言葉は、この娘には「言葉」にすぎず、まだ実質のものではなかったのです。
 ゴダールと邂逅する前に、アンヌはこの時期にもうひとつの重要な出会いをしています。哲学者フランシス・ジャンソン(1922-2009)。サルトルの雑誌レ・タン・モデルヌの編集委員をつとめ、アルジェリア独立戦争時にはFLN(独立派=国民解放戦線)を支持してフランス軍脱走兵を救済する地下組織を創設してフランス警察から追われる身になっていました。このサルトルと親交のある哲学者に、ガリマール出版社のカクテルパーティーで初対面するや、大胆にも彼女はバカロレアの追試(哲学の口頭試験)のために個人教授を依頼するのです。こんなことなど以前はできなかったのに。すべては映画『男性・女性』のショックが引き金になっている。急に背伸びを覚えた娘は、哲学者ジャンソンを魅了し、次いで当時光り輝いていた革命的映画作家ジャン=リュック・ゴダールをも魅了してしまいます。
 その夏アンヌは南仏ラングドック=ルーシヨン地方ギャール県のモンフランという小さな町で、親友のナタリーの家が持っている城館でヴァカンスを過ごしています。そこにジャン=リュック・ゴダールと名乗る男から電話がかかってきます。カイエ・ド・シネマに送られた手紙を読んだ、明日会いたい、そこへはどうやって行ったらいいのか、と。パリからマルセイユまで飛行機、その後飛行場でレンタカーを借りてアヴィニョンを目指して走れば、モンフランの表示が出て来る。明日の正午、どこで待合せ?「 市役所前で」とゴダールは指定する。 - 市役所で待合せ、これがその1年後にスイスの小さな町の市役所に二人で出頭する(すなわち結婚を届け出る)ことの予行演習のようであった、とアンヌは述懐します。
 この本を手にする大部分の人々は、たとえ「小説=フィクション」という但し書きがあっても、そこに実名で登場する「ジャン=リュック・ゴダール」は一体どんな人物だったのか、ということに興味を集中させていたと思います。当時この映画人は35歳。『気狂いピエロ』、『アルファヴィル』、『男性・女性』、『メイド・イン・USA』、『彼女について私が知っている二、三の事柄』などを短期間に矢継ぎ早に制作していた頃です。61年に結婚したアンナ・カリーナとは65年に破局していて、『二、三の事柄』の主演女優マリナ・ヴラディとの仲が噂になったりもしていました。で、この小説に登場するゴダールは、やはりメチャクチャにカッコいいのですよ。
 それは17も歳が離れたブルジョワ娘に狂おしいまでの恋に落ちてしまった男のアティチュードなのですが、電話、手紙、電報、プヌーマティック(かつてパリの地下に網の目のように通っていた圧縮空気管を使った筒入り速達便)などあらゆる通信手段を使って、愛の言葉とデート約束を送りつけることや、一言書込みを入れた本のプレゼントなど、恋する男の見本のような姿があります。前述のようにアンヌはまだ成人していないので、ゴダールがアンヌを連れ出すことは、訴えられれば「未成年誘拐罪」が成立してしまうのです。私だって経験がありますが、とかく年下の女性を自分の世界に引き寄せようとする時、この本を読め、この音楽を聞け、この映画を観ろ、といった趣味の押しつけ的な教育をしようとしますよね。私はたいがいそこで失敗するのですが、ゴダールはその「こっちへ来〜い、こっちへ来〜い」がゆっくりと分かりやすく、知らず知らずの間にアンヌはゴダールの映画ワールドにまで身を浸してしまうようになるのです。
 フランシス・ジャンソンの個人教授の甲斐あって、アンヌはパリ大学ナンテール校の哲学科に入学します。時は68年5月革命前夜、その発火点のひとつとなるナンテール校では、その前触れのように学生たちがさまざまなグループを作ってヴェトナム戦争反対や新左翼運動を始めています。この小説の中で、未来の5月革命リーダーのひとり、「赤毛のダニー」ダニエル・コーン=ベンディット(現在緑の党選出の欧州議会議員)が、ナンテール校構内でアンヌをナンパしようとするシーンがあります。 「赤毛同士の連帯」とダニーは同じように赤毛のアンヌに言い寄るんですね。いやあ、こういう青春もまぶしいですねっ。
 こうしてアンヌは、政治的アンガージュマンの哲学者や戦闘的映画作家や、若いトロツキストたちやマオイストたちに囲まれて、何も知らなかったウブなブルジョワ娘からぐぐぐぐ〜っと背伸びした19歳に大変身していくのです。しかし、この変貌を容認せず、とりわけジャン=リュック・ゴダールとの交際を絶対に認めようとしないのが、母のクレール・モーリヤックです。母は露骨に二人の関係を壊すよう画策したりもします。ブルジョワ保守主義とヌーヴェル・ヴァーグ世代の全面戦争となるか、とも思われましたが、当然母側の論客になるべき祖父フランソワ・モーリヤックは、最初苦々しく思っていたこの映画作家を一度の面談の後に主義主張に賛同こそしなくてもその人物を「認めてしまう」度量の深さを示してしまいます。こうして孤立してしまう母を、口では喧嘩ばかりしていてもアンヌは愛していて、母とゴダールの和解を密かに望んでいたのです。
 小説は瞬く間に過ぎていく1年の中で、映画『中国女』(1967年)の制作、そして67年7月のスイスでの結婚という大きな山を迎えます。フランソワ・トリュフォー、ジュリエット・ベルト、ジャン=ピエール・レオーなどあの頃の人々も活き活きと描かれています。そして映画『中国女』に関しては、ゴダールが真剣に中国政府にラヴ・コールを送っていて、中国政府はきっとこの映画を評価してくれて、俺たちを中国に招待してくれる、と信じ込んでいた、という驚くべき記述があります。在仏中国大使館での試写上映で徹底的に酷評され、ゴダールは極度に落胆してしまいます。
 アンヌがひとつだけ留保点として上げているのは、ゴダールには激情すると人が変わって暴力的になってしまう面があることです。それを除いては、ダンディで、時には俗っぽく(アルファ・ロメオを持っているのが自慢)、贈り物の名人で(免許証を持たないアンヌが一度としてハンドルを握ることのないクルマをプレゼントしたり)、愛の言葉の名人であるゴダールがいます。
 文章は淡々としていて、湿度も少なめで、66-67年という温度高めの時代を匆々たる人物群像の中で見た19歳の証言は無声の連続スライドのようです。多くの人がゴダールへの興味本位だけで手にしてしまうであろうこの本を、「少女から大人になるための激動の1年」の魂の記録として読み終わらせてしまう、これはヴィアゼムスキーのしたたかな文学性によるものです。発表後のアンヌ・ヴィアゼムスキーのインタヴューでは、刊行前の原稿も、印刷後の本も、ゴダールには送っていないそうです。過去の落とし前は一方的につけるものなのでしょう。

ANNE WIAZEMSKY "UNE ANNEE STUDIEUSE"
(Gallimard刊 2012年1月、262頁、18ユーロ)

(↓)ゴダール映画『中国女』予告編


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追記3年後の2015年に発表された続編『1年後(Un an après)』も爺ブログのここで紹介しています。

2012年2月13日月曜日

ノジャンにカルラ・ブルーニの銅像が立つ

ノジャン・シュル・マルヌはパリの東側の郊外の町で、その名の通りマルヌ川の北岸に位置し、西隣はヴァンセンヌの森(パリ市に属します)です。17世紀には画家ワットーが好んで描いた風光明媚な森林河川の自然があり、現在は人口3万人強の住宅町で、マルヌ川沿いにかなり豪奢な館も並んでいて、裕福さがそこはかとなく感じられますが、20世紀前半にはこのマルヌ川沿いにガンゲットと呼ばれるアコーデオン・ダンスホール兼レストランが立ち並び、民衆の週末娯楽としてたいへんな人気を博しました。「ミュゼットの女王」と呼ばれたイヴェット・オルネールもこの町の出身です。また「小さなイタリア」と呼ばれるほど、産業革命期にイタリア移民が多く住み着いた町です。
 さてこのノジャンの町に、かつてイタリア出身移民労働者の女性たちが多く働いていた羽毛細工工場がありました。今はその工場跡地に新しい住宅区画が開発され、そのデブロッパー会社とノジャン市が、そのまさに「プティット・イタリー(小さなイタリア)」と名付けられた新街区入口の小さな広場に、羽毛細工工場の女工たちにオマージュを捧げるモニュメントを作ろうという話になりました。
 それは北イタリア・エミリア=ロマーニャ州(州都ボローニャ)のヌーレ渓谷地方から移住してきた女性たちがほとんどだった、ということで、モニュメントは『ラ・ヴァルヌレーズ(ヌーレの谷の女)』と名付けられ、羽毛細工女工の姿の銅像(高さ2メートル)とする市長案で、2011年の市議会で投票によって可決されました。しかしノジャンの市長ジャック・JP・マルタン(大統領派与党UMP)は、その議決の時に、最も重要なことを議員たちの前で明らかにしていなかったのです。
 そのイタリア人羽毛細工女工の銅像のモデルとして、ノジャン市長は大統領夫人カルラ・ブルーニ=サルコジを選んだのです。「フランスのファースト・レディにして、最もイタリア的なフランス女性」というのがその理由だそうで、依頼を受けたカルラ・ブルーニ=サルコジは、その名前がモニュメント上に明記されないことという条件でモデルとなることを引き受けたのでした。
 2012年2月11日に、このノジャン市長の突飛なアイディアがメディアで明らかになったとたん、フランスでは大変な論争が巻き上がっています。反対派は「女工へのオマージュのモニュメントが大富豪の娘の顔を持つというのは労働者階級への侮辱である」、「大統領夫人の銅像を作らせるのは、北朝鮮の指導者個人崇拝と同様にグロテスク」と抗議します。市長派は「これはフランスに移住したイタリア人女性のシンボルとして大統領夫人をモデルにしたものであって、 カルラ・ブルーニの銅像ではない。」と説明します。

 銅像の完成は2012年5月。
お立ち会い、よろしいですか、この時にサルコジ王朝はちょうど終焉しているはずなのです。(終焉していなければならない、と言い換えてもいいです)。この5月、私たちは王朝の最期を祝って町に出るでしょう。その行進の波はバスチーユ広場から東に向かって、ヴァンセンヌの森を越え、ノジャンの町まで行くでしょう。民衆がレーニン像や、サダム・フセイン像や、カダフィ像を倒したように、私たちはその像を倒すでしょう。

(↓2012年2月APのニュース)

2012年2月5日日曜日

失われたシャービを求めて

『エル・グスト』2011年アイルランド映画
"El Gusto" サフィネーズ・ブースビア監督ドキュメンタリー
フランス公開 2012年1月10日

 「歴史が男たちを別れさせ、音楽が男たちを再び結びつける」とポスターに書いてあります。いいキャッチです。
 監督サフィネーズ・ブースビアはアルジェリアとアイルランドの混血女性であり、2003年からという長い制作年月をかけたこの映画の筆頭出資国がアイルランドであるため、この映画は「アイルランド映画」ということになっています。ちょっと奇異な感じがしましょうが、これがこの映画のインターナショナル性と中立性の土台にもなっています。この映画で語られるシャービの悲劇はアルジェリア独立戦争が直接の原因となっていて、これに関してはアルジェリアもフランスも言い分がたくさんあるわけで、もしもこれが「フランス映画」か「アルジェリア映画」になっていたら、どちらかに偏りが出てしまうでしょうから。
 サフィネーズ・ブースビアはそのルーツにも関わらず、アルジェリアで暮らしたことがありません。最初はナイーヴな旅行者のような視点だったと思います。 彼女は当初この音楽のことについては何も知りません。
 それは2003年にサフィネーズがアルジェでヴァカンスを過ごした時、カスバ地区でお土産を買いに偶然入った「鏡屋」から始まります。そこにはモアメード・フェルキウイと名乗る老店主がいて、種々の装飾鏡の間に、ある楽団の古いモノクロ写真が飾られています。それに興味を抱いた彼女が、フェルキウイからその楽団のこと、その音楽のことをいろいろ聞き出します。聞かれたフェルキウイは古い写真を次から次に出してきて、また音楽学校の免状なども見せて、今から半世紀も前にこの音楽がカスバでどんなに人気があったかを嬉々として語ります。この若い女性はフェルキウイの封印されていた記憶を解き放ち、強烈なノスタルジー心を掻き立ててしまったのです。彼女もまたこの聞いたことのない音楽に激しく惹かれてしまいます。「あなたの音楽仲間たちはどこに行ってしまったの?」- 「あちらこちら、いろんなところに散ってしまったよ」。
 彼女はここから方々に散ってしまった当時の音楽家たちを追跡するのです。カスバ/アルジェに残っている人たち、マルセイユやパリに移住してしまった人たち、彼女が見つけ出した元カスバの男たちがその音楽シャービと往時のカスバについて証言していく、というのが映画の進行です。
 「シャービ」それは大衆を意味する言葉です。1920年代にこの音楽はカスバで発祥しました。創始者はハジ・マハメド・エル・アンカ(1907-1978)とされ、それまでのアラブ=アンダルシア音楽を「古典」とすると、エル・アンカはそこにカスバに住むさまざまな人々(アラブ人、カビール人、ユダヤ人、イタリア人、スペイン人)の音楽傾向を溶け込ませ、ミクスチャーによる大衆音楽を作り上げたのです。それは大衆歓楽街の音楽であり、カフェ、バー、キャバレー、娼館のひしめく町でのストリート・ミュージックでした。伝統楽器とギター、バンジョー、ピアノ、クラリネット、サックスなどが混じり合った、モダン・ポピュラー・ミュージックで、エル・アンカはフランス植民地政府から許可をとって、シャービのコンセルヴァトワール(音楽学校)クラスも開校しています(それはその大衆性または「低級性」のため、コンセルヴァトワールの地下に置かれたのです)。
 カスバの証言者のひとり、ムスターファ・タハミ(ギタリスト)が話上手で当時の雰囲気をよく伝えてくれますが、彼の名調子の弁では、シャービ楽士たちはみんな「バッド・ボーイズ」なのです。不良たちがやっていたからこそ、カッコいい音楽だったわけです。 この音楽のカッコ良さはピエ・ノワール(欧州からの植民者)やユダヤ人たちも惹き付け、人種/宗教が混在となってこの音楽シーンを盛り上げていたのです。
 アルジェリア独立戦争(1954-1962)はこの音楽を引き裂きます。この映画は当時の記録映像を援用して、カスバで何が起こっていたのかを映し出します。FLN(アルジェリア民族解放戦線)がアルコールの販売を禁止し、カスバのカフェやバーが次々をシャッターを閉じてしまうのですが、フランス軍兵士たちが「アルジェリア人たちの自由に連帯する」という名目でカフェやバーのシャッターを開けていく、というシーンもありました。しかし、カスバは享楽を禁止され、ピエ・ノワールとユダヤ人たちは国外に逃れていきます。これは「棺桶か旅行カバンか」の選択と言われました。
 失われたシャービを求めて。この証言を集めていくにつれて、サフィネーズ・ブースビアには、離れ離れになってしまったこの往年の楽士たちがもう一度集まったら、というとんでもない考えが浮かびます。50年の時を経て、もう一度彼らが一緒に演奏できたら...。
 「エル・グスト」はサフィネーズの熱情から数年の歳月をかけて、2007年に具体的なかたちになった42人のシャービ・オーケストラです。エル・アンカの息子で、今もカスバでシャービ音楽をコンセルヴァトワールで教えているエル・ハジ・ハロ(ピアノ)がバンドマスターとなって、マルセイユの地で初めてこのバッド・ボーイズたちは50年後の再会を果たします。もう楽器を持たなくなって久しくなった者、昔のカンが戻るかどうか不安な者、そういう人たちがリハーサルでどんどん記憶と技能が戻ってくる美しいシーンがあります。
 「エル・グスト」とは文字通りには「味わい」の意味。人生の味わい、生きる喜び、楽天的な見通し、心の高鳴り...。マルセイユの最初のコンサートの前、ひとりのミュージシャンが「このコンサートはのるかそるかだ」と言います。するともうひとりが「ああ、エル・グストだ」と言うのです。なんという緊張した喜び。そしていざステージが終わってみると、予定していた1時間半をはるかに超過して3時間も演奏してしまっていたのです。
 エル・グスト・オーケストラの冒険は、その大所帯(楽団員だけで42人)というハンディキャップにも関わらず、2007年からマルセイユ、アルジェ、パリ、ベルリンなどを巡演していて、ファーストアルバムはデーモン・アルバーン(ブラー、ゴリラズ)のプロデュースで、彼のレーベルであるHonest Jon'sから発表されました。そしてこの映画のサウンドトラック盤としてこの1月に発売された"EL GUSTO"(仏レーベルREMARK RECORDS)が事実上のセカンドアルバムとなっています。
 映画はパリ・ベルシーでエル・グスト楽団が「ヤー・ラーヤ」(ダハマン・エル・ハラシ曲)を 演奏し、ベルシーの大会場が踊りの波で揺れるというシーンで終わります。サフィネーズ・ブースビアが「これは小さな鏡から始まったストーリーなのだ」とナレーションを添えて。パチパチパチパチ....私が観た映画館では大拍手が起こりました。

 サフィネーズ・ブースビアはこの映画が初作品になりますが、この作品のきっかけになった2003年のアルジェ旅行の時は映画監督ではなく、若き建築家でした。20代の若い女性でしたが、鏡屋に入ったことで彼女の人生は激しく変わってしまったわけです。この映画を制作することと同時に、エル・グスト楽団のマネージメントも担当しています。いわば「エル・グスト」は彼女の10年来のエンタープライズという見方もできます。
 映画はこのような性格のドキュメンタリーですから、フランスでの上映館の数は少ないものの、上映館はどこも満員の盛況でした。とかく「アルジェリア版ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」というレッテルがつきますが、甘美なノスタルジーを越えて「エル・グスト」はアラブ/ユダヤ/ピエ・ノワールという異文化の混在が作っていたユートピアを50年後に再創造するという途方もない企てだったのです。そこのところ強調しておきます。

(↓『エル・グスト』予告編)





2012年2月3日金曜日

砂の男

Abdallah Oumbadougou "Zozodinga"
アブダラー・ウンバドゥーグー『ゾゾディンガ』

 トゥアレグ人はサハラ砂漠の西側のほぼ全域で活動する遊牧民で,その数はウィキペディアでは520万人とされています。国別で言いますと,ニジェール,マリ,アルジェリア,ブルキナファソ,リビアがトゥアレグ人の多い地域とされていて,アブダラー・ウンバドゥーグーは1962年(頃)にニジェールのアガデス近郊で生まれています。その来歴については2006年発売のアルバム『デゼール・ルベル』のライナーで書いたので詳しくは繰り返しませんが, 16歳でギターを初めて手にして独習で覚え,ニジェール政府のトゥアレグ迫害に追われ,アルジェリアさらにリビアと亡命の旅を続け,その間にトゥアレグの抵抗を呼びかける歌を書き続け,カセット録音でサハラ中のトゥアレグ野営キャンプにその歌を伝播した廉(反政府プロパガンダ)で,何度も投獄されています。
 90年代フランスのオルタナティヴ・パンクの筆頭バンド,ベリュリエ・ノワールのマネージャーだったファリッド・メラベが呼びかけ人になって,2005年,アブダラーの抵抗運動を支援する在フランスのアーチストたちとアブダラーのバンドの共演プロジェクト「デゼール・ルベル」が立ち上がります。アマジーグ・カテブ(グナワ・ディフュジオン),ギズモ(トリオ),DJイモテップ(I AM),サリー・ニョロ,ダニエル・ジャメ(元マノ・ネグラ)が参加したこのプロジェクトは,2005年からヨーロッパと北米を含むツアー,2006年にCDアルバム,2007年にドキュメンタリーDVDを発表して,その収益金はアブダラーの2校の音楽学校設立の資金に充当されました。

アブダラー・ウンバドゥーグー名義で2011年にパリで制作されたこの新アルバムは,派手なゲストを排して,ダニエル・ジャメ(元マノ・ネグロのギタリスト)がアブダラーのヴォーカルと特にリード・ギターを思いっきりフィーチャーさせた,ギターマン・シップにあふれたアルバムに仕上がっています。ティナリウェンとジャスティン・アダムスの関係を持ち出すまでもなく,この砂漠のギターブルースは,多くの欧米のギタリストたちを魅了しました。アブダラーとダニエル・ジャメは2005年に「デゼール・ルベル」のセッションで出会って以来,ギターの兄弟仁義を通して,6年間もの密なコラボレーションを続け,その結果として産み落とされたのがこのアルバムです。
 曲によっては録音メンバーに,フィリップ・テブール(ドラムス),ジョゼフ・ダアン(ベース)というダニエルと同じマノ・ネグラ出身者の名前が見えます。とは言ってもここでマノ・ネグラの音を期待してもらっても困るのですが,ダニエル・ジャメのアプローチはやはりロックの修辞法だと思います。アブダラーのヴォーカルとギターを決め技にとっておきながら,過度の修飾を避けながらも北側のロックのアンビエントで包み込むということなのです。端的な例を挙げますと,「砂漠のギター」はたくさんの音色がないのです。それに対して「北側のギター」はアタッチメント/エフェクトで多種多様な音色が出るのです。
別の例を言いますと,アジズ・サハマウイのアルバム『グナワ大学』 の中で,3曲でプロデューサーのマルタン・メソニエが(控えめに)自らギターで参加していて,このバンドのギタリストであるエルヴェ・サンブ(セネガル人)とは違う,明らかに「北側」の隠し味として機能しているのです。ダニエル・ジャメはこのアルバムでメソニエよりもやや派手にそれをやっているのだ,という聞き方をしました。ステレオのレンジスケールが東西に広がるのではなく,南北に広がっているようなサウンドと申しましょうか。
 ブックレットではアブダラー自身がその歌詞を解説していますが,それはそれはみんなトゥアレグ抵抗の歌,目覚めよ蜂起せよと煽動する歌,逆に平和のために団結せよと訴える歌,トゥアレグ文化讃歌,戦士の士気を鼓舞する歌... その中で6曲めに恋人と離れてしまった兵士をなぐさめる癒しの歌があります。
これは愛の唄。私の幼なじみの友人のひとりがある娘と恋に落ちた。それは1989年のことで,戦争に突入する前の緊張した時期だった。しかしニジェール政府軍は私と彼を捕まえ,アガデスで20日間監獄に入れられた。釈放されるやいなや,私と彼はリビアに逃れた。恋人と遠く離れて彼はとても不幸になった。彼が持っていた指輪が唯一の思い出の品だった。私は嘆き暮れる友だちを癒す薬としてこの唄を作った。
ほとんどが内戦時代の歌で,これを歌い/聞きながら,トゥアレグ義勇軍兵士や野営キャンプの人々が踊っていたという姿が目に浮かぶのですが,歌詞内容とはうらはらに旋律とリズムは祝祭的でグルーヴにあふれています。
終曲12曲めが,内戦がようやく終結した1998年に書かれた曲です。
この歌は私が1998年に書いたもので戦争の終わりを歌っている。ニジエールは平和の光に包まれた。今日この歌を歌うのは悲しいことだが,ニジェールはいつの日にか幸福が訪れるだろう。平和協定が尊守されるためには,国があらゆる人々に対して門戸を開き,仕事を与えなければならない。自らの自由のために戦った人々を除外してはならない。
アブダラーのアコースティック・ギター弾語りに2声のバックコーラスだけの,静かなアレンジで歌われるこの終曲に,ダニエル・ジャメは砂漠を吹き抜ける風の音を挿入してフェイドアウトします。 砂漠とその民トゥアレグの問題は解決されていないものがたくさんあります。アブダラーが北の友だちと歌わなければならないことは,まだたくさんあるということでしょう。

(追記):アルバムタイトルの『ゾゾディンガ』 はサハラ砂漠の中のニジェール領内のテネレ砂漠(テネレはトゥアレグの言葉で「何もないところ」の意味)にある山の名前で、トゥアレグ人たちから神秘の山として崇められているそうです。

<<< トラックリスト >>>
1. DJEICHE CHAABI
2. ARHAT TOUMAST
3. TADALT
4. TAPSIKT
5. TASILE
6. SOUVENIR NAM
7. ELAN WINA
8. AFRIKYA TAOURA
9. BALOUS
10. ZAGZAN
11. NIRTAI ID WAKHSAN NET
12. ALHER

ABDALLAH OUMBADOUGOU "ZOZODINGA"
CD Culture & Résistance / L'Autre Distribution CD AD1720C
フランスでのリリース:2012年2月27日

(↓アブダラー・ウンバドゥーグー "Tapsikt"のヴィデオクリップ)