2008年12月20日土曜日

BUDAはビュダですか? ブダですか?



 (←イランの笛/打楽器アンサンブル:サイード・シャンベエザデーの3人と、ジル・フリュショー、灰色上着の銀髪紳士は民俗音楽研究家アンリ・ルコント = 元テニス選手とは無関係、頭のヘッドフォンだけが見えるのが番組主フランソワーズ・ドジョルジュ。写真をクリックすると大きく見れます。)

 12月19日、ラジオ・フランスの中にあるシャルル・トレネ・スタジオで、国営FMフランス・ミュージックの番組「Couleurs du monde(世界いろいろ、とでも訳せましょうか)」の公開録音がありました。番組主はフランソワーズ・ドジョルジュというエレガントな女性で、世界音楽を紹介するプログラムです。当夜のメインゲストは、世界音楽の世界では世界的なレーベル(世界が3つ並んだなあ)Buda Musiqueのディレクター、ジル・フリュショーで、同レーベルの21周年を祝おうというものです。「21年」とは半端な数字と思われましょうが、フランスでは1974年まで成人は21歳でした。あの頃は21歳まで、あれもしてはいけない、これもしてはいけない、喫煙飲酒だけではなく、ご交際もご外泊もご休憩もしたら咎められる、そういう封建的な風潮があり、21歳になる、というのは大変なお祝いごとだったのです。その日には堂々とホテルを予約する、そういうものでした(どうも話題が違う方に行っているなあ)。
 というわけでBuda Musiqueの「元服」を祝おうという宴で、Buda Musiqueのオールスターズが集まって演奏を披露しました。箏と唄の千田悦子さん、ウード二重奏のロープイット親子、イランの笛/打楽器の三重奏アンサンブルのサイード・シャンベエザデー親子、オクシタン・ポリフォニーのルー・クワール・デ・ラ・プラーノ(ロ・コール・ド・ラ・プラナ)、そしてクレズマー・クラリネットの新王ヨムのクアルテットが出演しました。
 2〜3曲演奏したあとで、アーチストがフランソワーズ・ドジョルジュとジル・フリュショーのいるテーブルに合流して、自分とBuda Musiqueとの関わりみたいな話をして、ジルにヨイショするわけですね。ルー・クワール・デ・ラ・プラーノのマニュ・テロンは、その席で「ところで、これはビュダなのか、ブダなのか?」とジルに核心的な質問をしました。ジルは「それには諸説あるが、ハンガリーの首都の川を挟んだ半分という説と、パリ11区のチベットレストランの定食メニューの名であるという説がかなり有力である」とはぐらかしました。(★)
 テロンはプロデューサーとしてのフリュショーの徳は、とことんまでの相互信頼を許すパートナーであることだ、とも言いました。実はテロンは最新アルバム『Tant Deman 明日があるさ』の制作の前に、いろいろなレーベルを当たってパートナー探しをしていたのですが、その時をことを:「なんて言う名前だったっけ?ほら、シニックの反対語の会社、あそこはひどかったぜ」などと公然とNaiveの悪口を始めたりして...。まあ、その末にフリュショーという真に信頼できるパートナーを見つけるのですが、それは二人とも大変な飲ん兵衛であり、酒振る舞いの気前よさで意気投合したような内情を、私は知っています(秘密)。
 トリをつとめたヨム君は、例の王様扮装で登場してくれず、会場をがっかりさせたものですが、「ラジオだからいいじゃん!」という言い訳で。その1曲めの、超高速フレーズにジングルベルのメロディーを盛ったりして、サービス、サービス。そう言えば、この日の録音が国営フランス・ミュージックの電波でオンエアされるのは、12月24日午後8時から10時半。一体この日のこの時間帯に、この地味なラジオ放送局のこの番組を聞く人たちは、どれだけいるでしょうか?
 (↓)この日もちょっとだけディジカメでヴィデオ録りしました。Lo Cor de la Planaですが、この日は一人足りずに5人。欠席君は4日前にパパになったので、というめでたい話でした。

 



爺註(★)
Buda Musiqueの創始者は二人います。Dominique Buscail(ドミニク・ビュスカイユ = 故人)とFrançois Dacla(フランソワ・ダクラ = 現EPM社長)です。この二人の姓のあたま2文字ずつを取って、Bu Da → BUDA という社名になったのです。ですから「ビュダ」と読まれるのが妥当なわけですが、現代表のフリュショーやわたしなんぞはどっちだっていいじゃんという態度で、フツーに「ブダ・ミュージック」と言ってます。


PS 1 (12月23日)
 フリュショーさんに会っていろいろ話を聞きました。その恰幅の良さと,地方人風のたたずまいと,何でも知っている老教師みたいなわかりやすい語り口... そういう雰囲気が漢字で「古庄」と振るとぴったりでしょう。寒い日にお宅にうかがうと,おかみさんがすす〜っとお椀ものを出してきて,これ飲んだらあったまるけえのお,とすすめてくれる,熱い湯気をふうふう吹いて,お椀からずずず〜っと音を立てて飲み込む「古庄汁」(ブダ汁とも言う),そういう光景が目に浮かびませんか? ジル・フリュショーはそういう大地のヒューマンが香る音楽人です。机の上の仏陀の文鎮に注目あれ。

2008年12月17日水曜日

Ma plus belle histoire d'amour...



 BARBARA "UNE PASSION MAGNIFIQUE"

 フランスの独立レーベルNocturne(ノクチュルヌ)から2008年10月にリリースされた大変豪華なロングボックス(CD2枚+64頁ブック)です。テレラマ誌(ヴァレリー・ルウー)がffffで絶賛しただけでなく,同誌年末恒例の「理想のギフト選」にも入ってました。シャンソン愛好者ならギフトとしてもらったら感涙ものでしょうね。
 バルバラ(1930-1998)の世界的ファン組織「バルバラ・ペルランパンパン協会」の会長であるディディエ・ミヨーが監修&執筆した64頁の布張りハードカバー写真集&バイオグラフィーにまず圧倒されます。5歳のバルバラ(幼稚園の仮装会。赤ずきんちゃんのよう),20歳のベルギー(ブリュッセル)での下積み時代の写真やポスター,出演した劇や映画のポスター,外国盤のジャケット,ラジオ局の中で毛糸編みをするバルバラ,1988年の日本公演写真など,興味深い写真や図版が多数。これはフランス語がわからなくても十分堪能できるでしょう。
 CDの方は2枚ありますが,2枚目はラジオインタヴューが2編(1970年と1993年)で,これはフランス語のわからない人にはきついでしょうね。かなりの早口で,フランソワーズ・サガンみたいにつっかかるので,聞き取りはかなり疲れます。というわけで,日本の人たちには1枚目のCDに興味が集中するわけですが,これは1971年1月,スイス,ローザンヌでのコンサートの未発表ライヴ録音で,20曲(+MCが3トラック)入りです。
 71年と言いますと,劇「マダム」の失敗,シングル「黒いワシ」の大ヒットの直後になります。ここからバルバラのポピュラリティーは一般化していくわけですが,このスイスでのコンサートでは,フィナーレ3曲が「黒いワシ」,「ナント」,「生きる苦しみ Le mal de vivre」となっていて,「黒いワシ」がすでに多くのファンにとって「この曲を聞くまでは」の1曲になっていたのがわかります。
 バッキングはオーケストラではありません。バルバラのピアノとロラン・ロマネリのアコーディオン(非電気アコと電気アコ)だけです。アコーディオンに電気増幅装置を取り付けた最初の人がフランシス・レイである,という伝説があります。「男と女」「パリのめぐりあい」「白い恋人たち」,ずいぶん後年になってあの音がアコであると聞いて驚いたものですが,原理は電子オルガンと一緒なんですから驚くには当たらないのかしらん。このライヴでもロマネリの電気アコは,電子オルガンのペダルキーみたいな低音まで出たりするから,ほとんど「ヤマハ・エレクトーン」状態です。私はつい数年前まで「エレクトーン・アレルギー」みたいなのがありまして,あの安上がり結婚式みたいな音色に虫酸が走ったものです。セヴンティーズの音ですよね。なぜこのアレルギーから脱することができたかと言うと,多分90年代の一時期アコーディオンばかり聞いていたからなんだと思います。(つじつま合ってるかな,これ?)
 この時バルバラ40歳。私たちが多分一番レコードで慣れ親しんでいる声の頃だと思いますが,既に 「孤独(La Solitude)」の最も高い音は声が出ていなくて...。しかしそれにしても,死や孤独や生きる苦しみ系の歌ばかりなのに,なんという闊達無碍なパフォーマンスでしょうか。すべてではありませんが,のびのびと自作レパートリーを歌い上げている感じがすごいと思います。「いつ帰ってくるの?(Dis quand reviendras-tu?)」は,このライヴの歌が私にはベストのように思いました。逆にオーケストレーション抜きの「黒いワシ」はちょっと盛り上がらなくて...。
 CD2の1993年のインタヴューで「わが麗しき恋物語 Ma plus belle histoire d'amour」は,誰かれという特定人物のことではない,とすごい勢いで語っています。私の"public"のために書いたのだ,と。いいなあ!

 Je donnerais au public jusqu'à la dernière goutte de mon sang

とこのハードカバー本の表紙の裏に書いてあります。「私の血の最後の一滴まで,私は"public"に捧げるだろう」。この "public"という言葉をどう訳すか難しい場合があります。聴衆,観衆,お客さま,ファン...どれも違うような気がします。"public"は文字通り「すべての人々」(公衆,大衆)であるようなところもあります。この人はその歌を聞くすべての人たちのために,最後の血まで捧げた人なんでしょう。

<<< トラックリスト >>>
CD 1
1. Je t’aime
2. Parce que
3. Absynthe
4. Mon enfance
5. A mourir pour mourir
6. Au bois de Saint Amant
7. Une petite cantate
8. La solitude
9. (Intervention Barbara)
10. Joyeux Noel
11. Si la photo est bonne
12. Quand ceux qui vont
13. Dis, quand reviendras-tu?
14. (Intervention Barbara)
15. Drouot
16. Chaque fois
17. Le Soleil Noir
18. (Intervenstion Barbara)
19. Hop la
20. L’Aigle noir
21. Nantes
22. Le Mal de vivre

CD 2

1. 1970年8月放送の国営ラジオ「フランス・キュルチュール」での
エミール・ノエルによるインタヴュー。22分。
2. 1993年10月放送の国営ラジオ「フランス・キュルチュール」での
フランソワ・ドレトラのインタヴュー。22分。

LONGBOX 2CD (+64 pages Book) NOCTURNE ARCH576
フランスでのリリース:2008年10月20日

2008年12月9日火曜日

クレズマー・クラリネットの新王



 今夜はバスチーユ近くのカフェ・ド・ラ・ダンスで、クレズマー・クラリネットの新王ヨム君のクワルテットのコンサートでした。カフェ・ド・ラ・ダンス超満員で、私は袖口で立って見てました。ヨム君は28歳の若造クラリネット奏者ですが、1920年代ニューヨークのクレズマー・クラリネットの王と呼ばれたナフトゥール・ブランドワインに敬意を表して、ナフトゥールの曲ばかりを録音したアルバムを制作しました。ナフトゥールはクラリネットのヴィルツオーゾだっただけでなく、その派手なステージアクションや奇抜なステージ衣装でも知られていて、なおかつベースケで酒好きだったので「ナスティー・ドランク」の異名も取っていました。ヨム君はナフトゥールの後継者を自認して、みずから「新王」を僭称しますが、派手好き、ベースケ、酒好きなところは旧王に負けないと言いたい風です。件のアルバムのジャケ写に見えるような、サルコジ風のブリンブリン(Bling bling)なサングラス、ジャラジャラの金ピカアクセサリー、アフリカ独裁者のような衣装と王冠... このコンサートの第一曲めは本当にこのイデタチで演奏しました。
 クレズマーはもともと東欧ジューイッシュ(アシュケナージュ)の音楽で、15世紀くらいから東欧でユダヤ人の冠婚葬祭を彩る音楽として演奏されてきました。それが新大陸アメリカに渡ったアシュケナージュが伝え、ニューヨークなどの大都会のユダヤ人コミュニティーで演奏されていたんですね。"Klei"と"Zemer"の合成語で「歌の伴奏楽器」を意味するのですが、本来はインストルメンタル・ミュージックです。クレズマーの楽団または楽器のことをクレズモリムと言いますが、花形リード楽器は何と言ってもクラリネットです。
 ヨム君のクワルテットは、ピアノ(クレズマー・ピアノの第一人者ドニ・キュニオ)、チューバ&トロンボーン(ブノワ・ジファール)、パーカッション(アレクサンドル・ジファール)、そしてヨム君(クラリネット)の布陣で、今夜はゲストでトランペットのイブラヒム・マールーフが参加しました。
 ワンパターンと言えないこともないですが、ゆっくりと始まって、超高速で終わるクレッシェンド・トランスミュージックです。会場は踊る人こそいませんでしたが、かなりの陶酔度だったと思います。ヨム君はMCがうまい。ジューイッシュ・ジョークなんでしょうね。巧みな話術と笑わせどころにメリハリのある、達者な芸人です。楽しい1時間半でした。
 (↓またちょっとだけディジカメでヴィデオ撮影しました)

2008年12月7日日曜日

この本はサイテーである。



 マキシム・ヴァレット/ギヨーム・パッサグリア/ペネロープ・バジウ『糞忌々しき人生』
 Maxime Valette / Guillaume Passaglia / Pénélope Bagieu "VIE DE MERDE"


 爺は来年で在仏30年になります。この国は「おおむね」好きです。しかし生活者ですからさまざまな局面でこの国の人たちや制度や慣習などと衝突したり,理不尽に拒否されたり,リスペクトを欠く対応をされたりということがあります。それはしかたのないことだと思っています。この国に限ったことではないですし。
 また,この国の人たちがどうしようもなくアホであると思う時もないわけではありません。サルコジが大統領に当選した時には真剣にそう思いました。また,極々たまにですがフランス最大の民放TV局TF1の超高視聴率の娯楽番組など見てもそう思います。(まあ,日本のテレビ娯楽番組のことを考えたら,まだ救われているような気もします)。スカイロックやFUNラジオのような若者向けFMの早朝や夜の聴取者ダイヤルインの番組などでもそう思いますが,まあこれは若い衆の「程度の低さ」というものだからしかたがない部分もあります。
 イントロが長くなりました。この本は民放ラジオEUROPE 1のルーラン・ルーキエの番組で取り上げられたのを,たまたま車の中で聞いていて,面白そうだと思って帰宅後すぐにインターネット・オンライン・ショップに注文したのでした。しかし,結果は本当にアホな本でした。本というのは本屋店頭でペラペラと読んでみてから買う,という習慣を省いてしまった私が一番アホなんですが。
 "VIE DE MERDE"(クソ人生)は,もともとインターネット上のフォーラムボードでした。アドレスはwww.viedemerde.frです。泣きたくなるような,呆然と立ち尽くすような,場合によっては死にたくなるような失敗談や遭遇事件を,書込み告白して,それをみんなで笑い合うというのが,このサイトの始まりでした。糞忌々しい自分の運命を呪う書き手は,このサイトでみんなに笑われて,一種の厄払いをするわけです。書き方にはルールがあり,必ず "Aujourd'hui"(今日)で始まり,"VDM"(vie de merdeのイニシャル。クソ人生)で終わります。

Aujourd'hui, en jetant ma cigarette par la fenêtre de la voiture, le vent l'a renvoyée à l'intérieur. Je me suis brûlé tout le pantalon. VDM
 今日,車の窓からタバコをポイ捨てしようとしたら,風に戻されて内側に落ちて,ズボンが全部燃えてしまった。クソ人生。

Aujourd'hui, j'ai fait un don de sperme à l'hôpital. L'infirmière qui était là pour m'aider était ma cousine. VDM
 今日,病院で精子バンクの提供者になった。俺を担当してくれた看護婦はなんと俺のいとこだった。クソ人生。


 こういう投稿による失敗談や事件談を約850編セレクトして本にしたものです。インターネットで大人気を博していたものなので,内容は総じて若いです。当然匿名投稿ですから,至って無責任な内容です。匿名だと何でも書けると思っている人たちは困りものですね。自分の名前で何もできなくなってしまいますよ。
 こういうサイトは最初は真剣に失敗談を書く人の方が多かったんでしょうが,だんだん書く側は面白おかしければそれでいい,になっていくんでしょう。サイト運営者がちゃんとした編集権を発揮して,「実話だけにしぼる」という努力をしないと,ただの笑い話サイトに堕してしまうと思います。笑い話だったら,プロが書くような笑い話の方がずっとずっと面白いのです。しかしそれが真にシロートの書く実体験失敗談ならば,それに増して面白いはずなのです。中には,本当にこれは困ったろうという話も載っています。

 今日,俺の車のドアが開かなくなった。俺はいらいらしてドアに差し込んだキーを力いっぱいひねった。そうしたらキーがカギ穴の中でパキンと折れてしまった。よく見たら俺の車ではなかった。VDM

今日,朝早くまだ仕事場に俺ひとりしかいなかったので,俺は辺りに気にすることなくおならをした。ところが,それはおならだけではない結果になった。俺は仕事場には替えのパンツなど持っていない。その上俺の家はここから45キロも離れている。一日が長くなりそうだ。VDM


 しかし,大半は本当に程度の低いことばかりなのです。重要な場面(就職面接)やお目当ての女性の前でゲップしたりオナラしたり,携帯メールの宛先を間違って悪口や別れ話や愛の告白をしたり,本人が近くにいるにも関わらず大声で悪口を言ったり,数時間の仕事の後「保存」の代わりに「終了」を押したり,パソコンのポルノサイトの履歴を子供や恋人に見られたり,自慰の現場を親や恋人に見られたり,自分で気づかない口臭や体臭を一番言われたくない人から指摘されたり...。これを何十万というフランス人が見て,人の不幸を笑っていると思うと,とても情けない気持ちになります。私がいや〜な感じを持つのは,この人たちは「ウケ狙い」を第一の目的にしているようなところなのですね。

 今日,病院での長い検査の結果,俺は自分の精子が生殖不能であることを宣告された。俺の妻は,今俺たちの二人目の子を妊娠している。俺は今夜妻にいろいろ質問するだろうな。VDM

 今日,会社で仲間たちを集めて,俺が遠隔で自宅のウェブカムを作動させることができることを自慢げに披露したのだ。その結果,その場の全員が俺がコキュであることを知ったのであった。VDM


 上の2つのエピソードはフランスのお家芸のような「コキュ話」でありますが,話としては良く出来ていても,これは実話であるわけはないのが一目瞭然ですよね。こういうところがこの本のいやらしいところだと思うのです。匿名の創作話だったら,笑ってナンボのもんでしょうに。実体験の恥を包み隠さず告白してこそ,それを共有できる笑いの輪が救済となるのでしょうに。
 世界に自分ひとりしかいなくなったような孤独の瞬間があります。誰もこんな思いはわかってくれるわけがない荒野の寂寥と言いましょうか。たぶんこのサイトは,そういう思いを持った人たちが書き始めたと思うのです。他人にわかるはずのない恥,失敗,苦しみをあえて露呈してみようか,と。しかし公開してしまうと,人は平凡なものよりも極端なものをもてはやしてしまうんですね。これはインターネットが持つ,極端なものへ,より極端なものへと人を駆り立てる傾向のせいで,当初の意図なんかとうの昔に消えてしまっているのでしょう。
 インターネット的孤独ということではこういう話も載っていました。買い物やサービスサイトで人は知らず知らずのうちに,あちこちに自分の誕生日というのをばらしているではないですか。自分の誕生日が来て,身内からも友人からも誰からもお祝いメールなど来ないのに,誕生日おめでとうの多数の商業メールばかりが届いている,という話。これはウルトラ・モダンな寂寥 (ultra-moderne solitude)ですよね。

Maxime Valette / Guillaume Passaglia / Pénélope Bagieu "VIE DE MERDE"
(Privé刊。2008年10月。280頁。13.90ユーロ)


 

2008年12月5日金曜日

ケタヌー国ではもう悲しみを暖炉で...



 (←オリヴィエ・レイト。11月29日。パリ)
 
 ラ・リュー・ケタヌーという3人組の記事を書くのにまる10日間費やしました。
 一風変わった演劇工房(大道芸からモリエールまで)テアトル・デュ・フィル(「綱渡り劇団」と訳せるだろうか)出身の3人が、生ギター(ガットギター)とアコーディオンをかついで旅をし、行く先々の町の通りやカフェテラスや辻公園で自作の歌と寸劇のダイレクトパフォーマンスで人々を喜ばせます。この人々とのダイレクトのコンタクトがやみつきになるんですね。受ける芸、受けない芸、地方での人の違い、そういうのがだんだんわかってきます。サルタンバンク(Saltimbanque =大道芸人)という単語には「バンク」という言葉が含まれますが、金には縁のない職業です。20歳そこそこでサルタンバンクの道を歩み始めた3人は、町から町へ、野宿も平気、道あるところ俺たちは行くのさ、ってな、とても90年代後半的ではない生き方をしていたのです。私の偏見かもしれませんが、私はこれは60年代/70年代的には可能だった、と言うか、やる気があれば普通に出来たような記憶があるのです。それは自分が若かっただけでしょうか。あの頃の「明日をも知れない」は、昨今の「明日をも知れない」とは過酷さにおいてかなりの開きがあるのではないか、つまりあの頃はまだ楽天性が優位にあったように思うのです。これは自分だ歳取っただけなのでしょうか。
 それはそれ。
 ムーラド・ミュッセ、オリヴィエ・レイト、フロラン・ヴァントリニェの3人は道祖神の招きのまま、風まかせの旅芸人となります。1998年、彼らはラ・ロッシェル(ジャン=ルイ・フルキエ「フランコフォリー」フェスティヴァルのお膝元です)と、その沖に浮かぶ保養地の島イル・ド・レ(レ島)の、通りとカフェテラスに登場し、フロランの書いた街頭音楽劇を披露します。そのテーマの歌がこんなリフレインでした。

 C'est pas nous qui sommes à la rue
 C'est la rue Kétanou[C’est la rue qui est à nous]
 セ・パ・ヌー・キ・ソム・ア・ラ・リュー
 俺たちは路頭に迷っているんじゃない
 セ・ラ・リュー・ケタヌー
 往来は俺たちのものなのさ


 これはスローガンであり、マニフェストであり、彼らの生きざまをわずか2行で端的に表現したものです。この歌が大受けに受け、3人は自然と人々から「ケタヌー、ケタヌー」と呼ばれるようになります。いつしか彼らはこれをバンド名として「ラ・リュー・ケタヌー」を名乗るようになります。
 1年間の大道/放浪芸人の末、出会いが出会いを呼び、ロイック・ラントワーヌやアラン・ルプレストなどとも交流するようになります。彼らのシャンソンはブレル、ブラッサンス、フェレ、ピアフ、フレール、ルプレストなどを師とする、旅と出会いと別れを歌うシャンソン・レアリストだったり、ジタン/ツィガーヌ寄りの情念の濁流のような泣きものだったり、祝祭的なジャンプ系だったり、ミニマルの楽器で音響なしの環境で、最後には聴衆の輪を陶酔までもっていくパワーを獲得していきます。
 ブルゴーニュのカフェテラスでその演奏を見ていたひとりのソーシャルワーカーが惚れ込み、彼が主催するコンサートの前座に出てくれないか、と頼みます。ケタヌーの3人がその会場に行ってみたら、その夜のメインはゼブダだったんですね。ゼブダのファンたちは、この全く無名の大道芸人3人を最初はいぶかしげに、しかし最後には熱烈な喝采とジャンプ&ダイブで歓迎することになります。この夜から、ラ・リュー・ケタヌーはストリート・アーチストからステージ・アーチストに転身し、その進撃は止められなくなってしまうんですね。次いでトリオ(Tryo。フランスのアコースティック・レゲエの人気グループ。名に関わらず4人組であるところはチャンバラ・トリオと同じですね)の前座として彼らの全国ツアーに同行し、パリのオランピアにも登場して、ラ・リュー・ケタヌーは全国的に知られることになります。
 トリオの後押しで2001年にファーストアルバム。配給がトリオと同じメジャー会社(SONY)であったこともあるんでしょうけど、たちまちに2万5千枚を売って、ラ・リュー・ケタヌーはレコード・アーチストとしても成功してしまうわけですね。
 まあ、その数々の成功のことは雑誌記事の方を読んでいただくとして、ラ・リュー・ケタヌーは2003年にその破竹の進撃の頂点で活動を休止します。ゼブダやマッシリア・サウンド・システムみたいなもんですが(こういう例は世界のどこの人気バンドでもあるありふれた話ですが)、3人はソロプロジェクトを始めるわけですね。ムーラドが中心になってモン・コテ・パンク(Mon coté Punk)という不定型集合バンド(ムーラド・ミュッセ、ディケス、ロイック・ラントワーヌ、パダム...)が一方にあって、もう一方にフロランの率いるマヌーシュ・スウィング系のトリオ(ギター、コントラバス、アコーディオン)のタンキエット・ラザール(T'inquiete Lazare)があります。オリヴィエは最初モン・コテ・パンクのプロジェクトに参加しますが、3人のうちで最も演劇寄りの彼は、スラム〜ポエトリー・リーディングの方向でソロを準備しています(ジャン・コルティのアコーディオンをバックに一人芝居のようなスペクタクルをしたのを見たことがあります)。
 こういう3人組が5年のブランクの後に再結成して、極上のシャンソン・アルバム『ア・コントルサンス(逆方向に)』を制作します(2009年2月リリース)。先週の土曜日(11月29日)にオリヴィエ・レイトに会ってインタヴューしたんですが、とても面白い話をするヤツだし、大道で鍛え上がられたコミュニケーション術みたいな、一言一言がとても分かりやすくて熱いエモーションが伝わってくる、ありがたい1時間でした。好きになりましたねえ。この伝導力が決め手ですねえ。握手しただけで暖かさが通じてくる人というのがいますが、私はオリヴィエからはなにかとてつもなく熱いものが伝わってきたように感じました。それを日本語で日本人にどう伝えるかが、私に課せられた問題なのですが... 1週間も10日もかかっても、それを日本語化できないのは、私が大道で鍛えられていないからかなあ、と愚考したりします。
 人に出会うことや、旅することを、いつから億劫になってしまったんでしょうか。オン・ザ・ロード・アゲイン。もう一回出ないといかんなあ、とオリヴィエに教えられたような気がします。

 ラ・リュー・ケタヌーのオフィシャル・サイトに, 活動再開後のライヴヴィデオ(2008年3月ル・アーヴルでのライヴ Les Maisons)が張ってあります。これを見たらだいたいの人はわかってくれるんじゃないでしょうか。


PS 1 (12月8日)
オリヴィエの着てるTシャツ良く見て下さい。「オリジンヌ・コンコトロレ」です。ラ・リュー・ケタヌーは11月(このインタヴューの1週間前)に,ブール・カン・ブレス(Bourg-en-Bresse)という町でオリジンヌ・コントロレ(ムース&ハキム)とジョイント・コンサートをしています。

2008年11月23日日曜日

ストーン、世界はストーン

Atiq Rahimi "Syngué sabour - Pierre de patience"
アティック・ラヒミ『シンゲ・サブール 忍耐の石』

 2008年度のゴンクール賞作品です。  
 著者アティック・ラヒミは1962年カブール(アフガニスタン)生まれで、カブールのリセと大学でフランス語を学んでいます。79年から84年にかけてアフガン戦争を体験し、パキスタンを経てフランスに亡命しています。ソルボンヌで映画/視聴覚芸術の博士号を取得し、映画監督として自作の小説を映画化した『大地と灰 Terre et Cendres』(2004年)で、カンヌ映画祭「ある視線 un certain regard」部門で出品し入賞もしています。  フランスで発表した小説は『大地と灰』(2000年)、『夢と恐怖の千の家』(2002年)、『夢想された帰還』(2005年)と3編あり、いずれも母国語であるペルシャ語で書かれたもののフランス語翻訳でしたが、この最新作『シンゲ・サブール』はアティック・ラヒミ自身が初めてフランス語で書いた作品です。  
 この亡命アフガン作家がフランス語で書いて、フランスで最も権威ある文学賞であるゴンクール賞を取ったということから、フランス語で書くことの選択は自由なる表現の選択である、というようなフランス語礼賛をする論評も出たりしました(フィガロ紙11月10日付アティック・ラヒミ・インタヴュー"Le Francais, langue de la liberté")。私のレベルでの解釈では、これはフランス語だから自由に書けたということではなく「他国語」だから、ということにすぎないのではないか、と思っています。私などでも母国語では絶対に書けないことというのがあって、その母国語の呪縛というのは倫理/道徳的なことであったり廉恥であったりしますが、他国語を使う時それからある程度解放されている感じは、私の使うようなフランス語でも日常的に体験します。  最初から話がそれました。  
 『シンゲ・サブール』は「アフガニスタンあるいはどこか他所の地」(p11)を舞台にした小説で、戦争で銃弾を受け呼吸するだけの植物人間と化した夫の床に毎日やってきて、点滴液を補給し、目に目薬を与え、コーランを読謡し、数珠玉を回しながら祈祷する妻の独白の形で書かれています。目を見開いて寝たきりで呼吸するだけの夫に、女はモッラー(イスラム法者)から言われた通りの祈祷をし、その回復を待つ貞節な妻を装いますが、時間が経つにつれてその空しさに憤り、その独白は本音がどんどん出て来るようになります。独白と言っても、それは夫に向けられた言葉であり、返答をすることができない相手に向けられた一方通行のダイアローグです。女は夫に対して、夫が知るはずもないさまざまな女の秘密を告白していきます。  この周囲はまだ内戦状態が続いていて、銃声が聞こえ、誰が敵で誰が味方なのかも、誰が誰を殺すのかもわからない混乱した情勢です。男たちはどちらの陣につくのかも理解せぬまま、聖戦(ジハード)の名によって銃を持たされ、闇雲に戦います。  
 女がこの男と結婚した時、男はすでに戦場にいて、婚姻から3年後に初めて二人は生活を共にし、その後も戦況次第で戦場に戻っていきます。この男は不在の夫です。そしてこの二人は夫婦らしい愛情もなく、夫はそれが気に食わなければ妻を殴打することもありました。この男は多くのこの国の男と同じように何も知らない。コーランやモッラーの教えに従って戦場に行くことはできても、他のことは何も知らない。女をどうやって抱くのか、ということも知らない。例えば性的快楽というのは男の側のものであって、男が短時間でも性的絶頂を迎えてしまえば、それでいいわけです。男はそういうものだと思っているわけですね。ところが女はそれで留まっていろ、という男の理屈を軽々と越えてしまうのです。それを男は知らない。  
 つまりこの夫となった男は世にもつまらない男なのですが、それでもこの世界の中で女はさまざまな秘密でその人生のバランスを保ちながら、男とこの世界とうまくやってきたわけです。しかしこの男が植物人間になった時、女はこの男をかけがえのない男として確認してしまうのです。そしてもの言わぬ夫にこれまでの秘密をすべて告白していくのです。  その周囲は男も女も古い権威に従属する社会で、女姉妹7人で生まれたその女は、親に選ばれた嫁ぎ先に純潔の状態で引き取られるしかなかった。そういう社会の中で、二人の人物がその女を啓蒙していきます。ひとりは自分の叔母で、若くして嫁いだものの、不妊症のために嫁ぎ先から放逐され、娼婦として身を立てるしたたかな女性となってこの世にはばかります。もうひとりは夫の父、すなわち義父ですが、その並外れた教養ゆえに、あらゆる形而上的難問に答えを引き出せる、周りの世人にはわからない超越的な賢人として女を知的に支えます。つまりこの女はこの世界でも孤独ではなかったのです。  女はその秘密の中にそういう知的な解放された女性の感性があり、ただの「従属するべき女性」として実生活で夫と対応していたものとは違う、彼女の素性が次から次へと暴露されていきます。  
 題名になっている「シンゲ・サブール」とは、その義父が教えてくれたものです。それは聖地メッカの大モスクの中にあると言われている伝説の石で、字句通りの意味では「忍耐の石」です。この石は人間のあらゆる苦悩、苦労、艱難辛苦、悲嘆を聞き入れるためにあるもので、人はその石に対して苦しいこと悲しいことを隠さずに言い、石はそれをすべて吸収してしまうのです。石はその忍耐の限界までそれを吸い続け、その限界が来た時に石は破裂してしまいます。この石の破裂が人類の破滅、アポカリプスを招くことになるのです。  
 女は植物人間の夫にさまざまな告白をしていくうちに、このもの言わぬ男は「忍耐の石」に違いないと信じるようになります。女はその告白に、祓いに似た解放感を覚え、「忍耐の石」と化した夫によって救われる思いを感じます。そのことで、この女にはこの不動の男がかけがえのない対話相手となり、精神分析カウンセリングのような効果を生んでいくのです。  
 なんとも魅惑的で形而上的な挿話があります。おとぎ話です。おとぎ話だから幸福な結末がなければなりませんが、幸福な結末は自分で考えなければいけないのです。「昔々あるところにひとりの勇猛な王がおりました。その王は世継ぎは男でなければならないという妄信があり、そのお抱え占星術師も女児が生まれたら王国が滅びると予言しました。しかし妃は皮肉なことに女児ばかりを産み、王はその誕生の度に、刑務役人に新生児を殺してしまうように命じました。刑執行人は最初の女児を殺し、2番めの女児も殺しました。しかし3番めの女児の時、その新生児はなんとこんなことを言ったのです《私の母の女王に伝えてください、私の命を守ってくれたら、女王は自分の王国を持つでしょう、と》。刑執行人はその言葉に驚いて、秘密で女王にそれを伝えました。それを聞いた女王は、王には何も告げず、新生児と刑執行人を連れ立って、その夜のうちに遠い国に旅立っていきました。--- 年月は流れ、かの勇猛な王は征服戦争に勝ち続け、はるか遠方にさる女王が治める小さな王国までその手を伸ばしました。その臣民たちはこの王の侵入を嫌い、服従を拒否しました。そこで王は服従を拒否するのであれば、王国を焼き払うと脅迫しました。女王はその王との交渉を拒否し、王国が焼き払われることを覚悟しました。しかし女王の娘は、女王の反対を押し切って、私に交渉をさせてくださいと、ひとりで王に謁見しました。王は美貌の娘に一目惚れし、娘も王の魅力に屈して一夜を共にしました。そしておまえを妃に迎えることができたら、この王国を救ってやろう、と持ちかけました。その話を持って帰った娘に、元・刑執行人は、実は私はおまえの父親ではなく、おまえの本当の父親はあの王なのだ、と告白します...」  
 このおとぎ話はここで終わりです。この話に幸福な解決という出口はあるのでしょうか。女王の国が焼き払われずに、女王の過去の不倫もとがめられず、かつ娘が王(父親)と近親婚をしなくてもすむ、幸福なエンディングというのは可能でしょうか?このことを主人公の女は何晩も何晩も考え続けます。知識人の義父はこれには犠牲者なくして解決の余地はない、と仮説します。この小説の読者もいろいろな仮説を考えるはずです。こういう謎解きに答えはありません。しかし寝ずに考えて自分なりの答えを探してみたくなるではありませんか。  そしてこの「忍耐の石」は、次から次に暴露される女の秘密に最後には本当に破裂してしまうのです。  
 ここにはタブーがありません。アフガニスタンで起こっていることや、男性原理社会や、宗教で問われていることや、何一つ恐いものはありません。ここに生きた女性は、弱々しく頭巾(ブブカ)をまとったふりをして、あらゆることを見抜いているのです。こんな強烈で射るようなユーモアは、今日毎日のように死傷者のニュースが聞こえてくる土地から出て来ていると思うと、かなり衝撃的です。ここが「フランス語で書いたことの効果」である可能性は疑いようがありません。またコーランの一節から、幻想に惑わされたムハンマッドをその妻ハディジャが迷いから覚めさせる部分をして、予言者は女でもあったという論に至る部分はまさにマニフェストです。この小説は21世紀的今日の世界にあって類い稀な、大いなる女性讃歌と言えましょう。

2008年度ゴンクール賞受賞作品
Atiq Rahimi "Syngué Sabour - Pierre de patience" (Editions P.O.L刊 2008年10月。156頁。15ユーロ)

2008年11月19日水曜日

ジェリ=ムサは歌いすぎるなあ...



 昨夜は10区ニュー・モーニングでコラ・ジャズ・トリオのコンサートでした。
 奇しくもその夜は,同じくコラの名手トゥーマニ・ジャバテのコンサートが11区のバタクランで催されていて,パリの熱心なコラ愛好者たちはどちらに行こうかと迷ったに違いありません。世紀のコラ対決パリの陣といった感じです。
 32弦コラのヴィルツオーゾ,ジェリ=ムサ・ジャワラはこの夜やたらハイでした。3作続いている「コラ・ジャズ・トリオ」のアルバムがいずれも大変なヒット(とは言っても数万の単位ですが)であるだけでなく,前日までのアフリカツアー(ダカール,コナクリ,バマコ...)を大成功させてきた(本人のMCでの弁ですが)こともあって,たいへんな自信が感じられるエネルギッシュなステージでした。歌うわ踊るわしゃべりまくるわ...。
 ニュー・モーニングはアーチストたちの身内/友人たちを除くと,95%が白人のオーディエンスです。これは国営FMラジオFIP(このコンサートの後援もしてます)のリスナーや,モンドミックス紙やリベラシオンやテレラマ誌の読者層と言える,いわゆるBOBO(ブルジョワ・ボエーム)にも近いような白人たちですね。
 ですから立って踊りまくる人たちは皆無で,ジャズ・コンサートのように座って足踏みしたり首振ったりが関の山で,熱の上がらない客席でした。にも関わらず,ジェリ=ムサはコラ弾くよりもマイク握りしめて歌ったり煽ったりする時間の方が長いんじゃないか,という感じのはしゃぎ方で,ちょっと浮いていましたね。ダカールのオーディエンスとパリのオーディエンスでは違うでしょうに。その辺をちょっと考えて欲しかったですね。
 しかしコラを弾かせりゃ世界一,二の実力,ジェリ=ムサのソロ弾きまくりが始まれば泣く子も黙ります。どちらも32弦のアコースティック・コラとエレクトリック・コラの2台を使いましたが,先日のダヴート・スタジオでのミニ・ライヴの時はさほど感じなかったのに,今夜はエレクトリック・コラの「キンキン」という鋭い響きが強烈で(共鳴胴がついていないので音の丸みはつかないですよね),観客の中には耳を抑える人もちらほらでした。高音部の超高速アルペジオというのがアドリブの見せ場ですが,まあ確かにすごいですね。舌を巻きます。
 昨夜もちょっとだけディジカメでヴィデオ撮影しました。
 ↓サードアルバムに入っているコンパイ・セグンドの「チャン・チャン」のカヴァーです。