「誰もリーダーなんか望んでいなかった」
68年5月革命はいつから始まったのか、ということには諸説あるが、後に大学のみならず工場や公務員(学校、病院、公営交通、役所...)やメディアや一般企業を巻き込んだ社会革命になっていくこの運動、大学から火がついたとするなら、この3月22日夜のパリ大学ナンテール校のバリケード封鎖が大きな出発点と言えるだろう。この50年後の今日のリベラシオン紙は、この革命から生まれたと言われる日刊紙リベラシオンの歴史的創刊者の一人で、その後33年に渡って編集長を務めてきたセルジュ・ジュリー(2006年の経営陣交替を機に同紙を解任させられている。↓写真)に、ナンテールにいた68年闘士としてインタヴュー(4面)を掲載している。
ジュリーは68年当時すでに学生ではなく、高校教師兼ジャーナリストとなっていたが、60年代初めにフランス共産党と対立していた共産主義学生同盟(UEC)のメンバーであり、ジュリーの妻がナンテール校の図書館に勤めていて、68年3月22日の大学本部占拠は妻(既にバリケードの中で学生たちと一緒だった)から連絡があり、ジャーナリストとして駆けつけている。 奥さんが建物の鍵束を持っていたと言うから、占拠に重要な役割を果たしたのだろう。
同じ時期に諸外国でも同じような学生運動があったのに、フランスの68年闘争が他に類を見ない広範囲な市民連帯を得て、社会運動と文化運動の大きなうねりとなって長期化したのはなぜか。ジュリーはそれはまず「リーダーの不在」が功を奏したと言う。誰もリーダーを望んでいなかった。そして既成の政治グループの組織性/党派性を超えられたから、ノンポリ学生やノンポリ市民たちに共感されたのだ、と。スローガンの一つ一つが詩であり、落書きの一つ一つがアートである時、私は日本の当時の立て看の「断固粉砕」の文字とは違うものを感じてしまう。インタヴューの一部を訳してみる・
ー リベラシオン「学生運動が賃金労働者の運動に拡張していったことを、どのように説明できますか?」
SJ : 大学生の反抗はアメリカ、メキシコ、日本、ヨーロッパ諸国のいたるところで起こっていたし、それはベビーブーム、ヴェトナム戦争、じわじわと進行していた文化革命がもたらしたものだ。これらの異議申し立て運動が油のシミのように広がっていった唯一の国がフランスだ。そこには学生運動の5月、社会運動の5月、その総合の5月があった。これには様々な理由がある。警察による弾圧はある重要な役割を果たした。学生たちの親たちはこの弾圧を信じ難く恥ずべきものという見方をしたのだ。2番目の理由は、当時既に闘争の危機が時代の空気としてあったということ。67年から68年初めにかけてのすべての労働争議は、監禁や占拠や機動隊との激しい衝突といった労働者側の暴力的な実力行使が特徴的だった。その春のルノー公社ル・マン工場の争議の最中に、かの1947年のスローガン「CRS = SS(機動隊=ナチ親衛隊)」が68年に再登場したのだ。これらの闘争の苛烈さは、地方からの人口移動のもたらした結果でもある。多くの田舎の農家の子弟たちが農家を離れ工場に就職した。彼らはCGT(フランス労働総同盟)に牛耳られた伝統的な労働組合の影響を受けず、農民一揆(Jacquerie)の伝統を受け継ぎ、警官隊を攻撃することをためらわなかった。彼らは県警本部に攻撃をかけ、逮捕され、2時間後には釈放された。というのは政治権力は農民運動を恐れていたのだ。私が思うにこれらの農村出身の若い工場労働者たちが、5月13日の巨大デモ(註:パリで80万人を動員した反ド・ゴールのデモ行進。高校生+学生+労組+市民)の後、ストライキの全国波及の最重要の要素を担ったはずである( ー 後略 ー )。
ー リベラシオン「この拡大はどのような形態をとったのですか?」
SJ : 3月22日の運動(ナンテール校占拠)は非常に重要な役割を果たした。それはひとつの目標対象、ひとつのモデルとして機能した。それは様々な「革命的な」潮流と、全然革命的でなかった人々を合流させ、あらゆる閉鎖的党派性を超越させたことが重要だった。3月22日グループとアジ演説者ダニー(ダニエル・コーン=ベンディット)は68年革命の雛形となった。それはひとつの運動であり、政党でも政党になりかけているものでもなかった。それは平和主義的であり絶対自由主義的であった。そこには綱領も計画も幹部もなかった。この理由ゆえに「3月22日」運動は組織に属さない人々や政治傾向にとらわれない学生たちに浸透していったのだ。5月と続く6月に唯一必要とされた形態は、「行動委員会」であり、これは絶対的にいたるところに設置された。どの企業にもどの役所にもこれは設けられた。3月22日運動と企業、大学、病院、工場などに次々に生まれた行動委員会は強く連携していた。フランスには何千もの行動委員会が生まれた。この運動はフランス大革命に先立つ三部会の陳情書に近い性格のものである。工場、事務所、病院などが占拠されるが、人々はみんな考えを出し合った。どうやったら別の方法がとれるか。これまでとは違うやり方で働き、生産し、組織化し、健康を守るにはどうしたらいいかを。これこそが68年の主たる現象である。ミッシェル・ド・セルトー(1925-1986 イエズス会司祭)が「1789年に人々がバスチーユ監獄をわがものとしたように、1968年5月に人々は言葉をわがものにした」と語ったのは極めて正当である。68年のスローガンの一つ「あなたの隣人に語りなさい」はこの精神的現象をよく象徴している。そして実際に人々は語り合うことを始めたのだ。これは例外的に共有的な瞬間であった。人々は個人的な仕方と同時に共有的な仕方で存在し始めたのだ。これはあらゆる国の歴史において希少な出来事だった。20世紀のフランスにおいてこの稀な出来事は、人民戦線、レジスタンス、抵抗戦と町々の解放、そして68年であった。これらは歴史を作った融合的な瞬間であった。フランス社会がこの事件で保ってきた奇妙な関係を説明するものは、その例外的な事件の性質であり、その強度であり、その全領土への拡がりとあらゆる職業とあらゆる社会階層の人々への拡がりであった。何百万という人々が68年5月に参加したのだ。この異議申し立てへの反対者たちが街頭に姿を表す(註:5月30日ド・ゴール支持派100万人デモ)には、ド・ゴールのバーデン=バーデンへの雲隠れ(註:5月29日)が必要だった。結論として、68年のゼネストは、フランスの20世紀史を通じて最大の社会事件として残るだろう。
50年前の今日、3月22日、その大きなプレリュードがナンテールで奏でられた。今夜民放ラジオEUROPE 1で、音声ドキュメントによる「3・22」特番あり。「68年5月」に関しては、私も雑誌原稿を準備中です。
(↓)セルジュ・ジュリーはリーダーとして認めたくないのだが、これは「ナンテール校3月22日運動」の顔・スポークスマン・アジテーターだった赤毛のダニーことダニエル・コーン・ベンディット。
(↓)これも68年の歌。メアリー・ホプキン "THOSE WERE THE DAYS"
We'd live the life we choose 私たちは自分が選んだ人生を生きていた
We'd fight and never lose 私たちは戦ったし、負けたことなどなかった
Those were the days, oh yes those were the days そんな日々だった
2 件のコメント:
こんにちは。UBUPEREです。ナンテール、赤毛のダニー、Quartier Latin、Soixantes-hiutards、Leo Ferre、Renaud... 雑誌の発売を楽しみにしています。『ラティーナ』でしょうか?
Ubu Père さん、コメントありがとうございます。
ご期待に添えるよう頑張ります。
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