2018年3月30日金曜日

フランスという名の王国

ジャン=ミッシェル・キャラデック「68年5月」(1974年)
Jean-Michel Caradec "Mai 68"

詞曲:ジャン=ミッシェル・キャラデック
アルバム "Ma petite fille de rêve"(1974年)より

 1946年ブルターニュ生まれのシンガー・ソングライター、ジャン=ミッシェル・キャラデックは、1968年にパリに上り、マキシム・ル・フォレスティエ、カトリーヌ・ソヴァージュ、イーヴ・シモン等と共に左岸派フォーク・フーテナニーのフィールドで実力をつけ、ボビノ座でジョルジュ・ブラッサンスの前座歌手として世人に知られるところとなります。1981年に自動車事故で34歳の若さでこの世を去っていて、生前アルバムは8枚発表されました。1974年のセカンドアルバム "Ma peite fille de rêve"に収められたこの68年5月革命を歌った作品は、僚友マキシム・ル・フォレスティエに寄ってもカヴァーされていますが、74年という時期の「あれから6年後」の思いは苦々しく、敗北感すら匂わせています。運動は尻すぼみ、日常の倦怠は恒常化し、ジスカール=デスタン大統領期の経済安定消費文化時代/テレビ支配時代から振り返れば、近い過去である68年5月は一体何だったのだろうか、という無常感はあったでしょうね。しかし68年5月は10年経ち、20年経ち、今や50年経ち、その画期的な社会革命/意識革命としての評価をどんどん高いものにしていっている。そのノスタルジーは、本当にフランスの良き時代へのそれよりも大きなものになっている。どうしてなんでしょうか?
 それはこの歌の中でいみじくも繰り返される「フランスという名の王国」、つまり共和国とは名ばかりの権威主義的で封建的なフランス=旧時代のフランスが、74年のジャン=ミッシェル・キャラデックの視点から見れば「68年5月」の希望は挫かれ、ついに倒れることはなかった、という結論を持ってくるのだけれど、10年後、20年後、50年後の長いタームで振り返ってみると、やっぱりあの時にすべてが変わったのだ、と思えるようになった、ということなのでしょう。
 ではその「68年5月」の弔いのようなジャン=ミッシェル・キャラデックの歌を訳してみます。(訳註も入れてます)


La branche a cru dompter ses feuilles
Mais l'arbre
éclate de colère
Le soir que montent les clameurs,
Le vent a des souffles nouveaux
Au royaume de France

枝は葉の萌え出るのを抑えて我慢していたつもりが
その木は怒りで破裂してしまった
怒号が湧き上がる夜
風が新しい息吹を取り戻した
フランスという名の王国で

Le peintre est mont
é sur les pierres
On l'a jeté par la frontière
Je crois qu'il s'appelait Julio
Tout le monde ne peut pas s'appeler Pablo
Au royaume de France

画家が石で積んだ山に登ったのに
彼は国境で振り落とされた
彼の名前はたしかフリオ(※1
誰もがパブロという名前ではないんだ
フランスという名の王国では

(1 : Julio Le Parc : アルゼンチン人画家。闘争ポスターの制作に積極的に参加していたという理由で国外追放処分になる)

Et le sang des gars de Nanterre
A fait l'amour avec la terre
Et fait fleurir les oripeaux
Le sang est couleur du drapeau
Au royaume de France

ナンテールの若者たちが流した血が
大地と愛し合って
金メッキの花を地上に咲かせた
血は旗の色
フランスという名の王国では

Et plus on viole la Sorbonne
Plus Sochaux ressemble
à Charonne
Plus Beaujon ressemble à Dachau
Et moins nous courberons le dos
Au royaume de France

そしてソルボンヌ(※2)が強姦されるにつけ
ソショーがシャロンヌ(※3)に似通っていくにつけ
ボージョンがダショー(※4)に似通っていくにつけ
我々はもはや譲歩のしようがなくなっていく
このフランスという王国で

(2 : 1968
5月3日、学生たちが封鎖して立てこもったソルボンヌ校の警察による強制排除)
3: 1968年6月スト封鎖中のプジョー自動車ソショー工場の警察による強制排除、死者名。1962年2月、アルジェリア戦争反対デモ、地下鉄シャロンヌ駅出口付近で機動隊の襲撃で死者8名)
(4:ボージョンはパリ市内の警察機動隊駐屯施設。ダショーは
1933年に開設されたナチスの強制収容所の名)

Perché sur une barricade
L'oiseau chantait sous les grenades
Son chant de folie était beau
Et fous les enfants de Rimbaud
Au royaume de France

バリケードにとまり
催涙弾の雨にさらされながら鳥は歌っていた
その狂気の歌は美しかった
そしてランボーの子供たちは熱に浮かれていた
このフランスという王国で

La branche a cru dompter ses feuilles
Mais elle en portera le deuil
Et l'emportera au tombeau
L'automne fera pas de cadeau
Au royaume de France

枝は葉の萌え出るのを抑えて我慢していたつもりが
それはその死の悲しみに伏し
墓まで運んでいくだろう
この秋には実りの贈り物などありはしない
このフランスという名の王国では

私もあの古めかしい「王国」は 、1968年を転機にしてフランスから消えていったのだと思います。そういう原稿を今、準備しています。

(↓)ジャン=ミッシェル・キャラデック「68年5月」


(↓)マキシム・ル・フォレスティエによるカヴァー「68年5月」


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