2018年4月11日水曜日

68年5月のマリアンヌ

ランスの報道カメラマン、ジャン=ピエール・レイ(1936-1995)が1968年5月13日に撮った写真で、初掲載はそれから11日後の5月24日発行のアメリカのグラフ週刊誌「ライフ」。その登場以来、この写真は「パリ5月革命」を象徴するイメージとして、世界中のメディアが取り上げて知られるようになった。その旗を翻すポーズから、ウジェーヌ・ドラクロワの名画「民衆を導く自由の女神」と比較され、いつしかレイのこの写真は「68年5月のマリアンヌ」と呼ばれるようになった。
 68年5月3日、ナンテール大学の「3月22日運動」(ダニエル・コーン=ベンディットをスポークスマンとするアナーキスト派+トロツキスト派+マオイスト派の共闘グループ142人)がソルボンヌ大学構内で集会を開こうとしていたが、大学側の要請で機動隊が出動し、学生たち十数人を逮捕の上、実力で学生たちを排除して校外に追放した。学生たちはおとなしく退散したと見せかけて、ソルボンヌ付近のカルチエラタン街区の道々にバリケードを築き上げる。バリケードの総数は60あったと言われる。支援の学生たち、高校生たち、市民たちがバリケードを支え、機動隊との激しい攻防戦は昼夜を通して繰り広げられ、367人(公式発表)の負傷者を出しながら、5月10日の夜、ついに落城する。この極めて暴力的な警官隊の実力行使はテレビとラジオで実況中継され、多くの市民たちの憤激を買うものとなり、各労組の中央委員会は労働者たちの学生への連帯を訴え、5月13日、ゼネストに突入するのである。
 この学生運動と労働運動が合体した、フランス史上最大のストライキ(スト参加者総数7百万人)の記念すべき初日たる5月13日、フランス全土で500ものデモ行進が組まれ、パリでは労組、未組織労働者、市民、学生、高校生ら数十万人が、レピュブリック広場を出発してダンフェール・ロシュロー広場に至るコースを行進した。件のジャン=ピエール・レイの写真はパリ6区リュクサンブール庭園に近いエドモン・ロスタン広場にさしかかるデモ隊を撮影したもの。
若い女性の名はキャロリーヌ・ド・べンデルン(英国貴族の血を引く23歳、ディオールのマヌカン)、彼女を肩車しているのが画家/造形家/著述家のジャン=ジャック・ルベル(1936 - )。女性が手に持って振っているのは当時の南ヴェトナム解放民族戦線の旗(→)。すなわち、彼女はヴェトナムでのアメリカ軍侵攻に反対する意志表示でこのデモに参加していたというわけである。
 この写真の世界的名声はキャロリーヌ・ド・ベンデルンの人生をおおいに狂わせ、まず、職業としていたオートクチュールのマヌカンができなくなった(「左翼活動家はお断り」)。
 なお、このキャロリーヌ・ド・べンデルンは写真家ジャン=ピエール・レイに対して1978年(10年後)に、肖像権の保護を求める訴訟を起こしているが、裁判では「この写真は歴史的事件の記録が主眼であるである」という理由で肖像権の侵害にあたらないという判断となった。1988年(20年後)と1998年(30年後)にも同様の訴訟を起こしているが、いずれも敗訴している。これが判例となって、歴史的事件の報道写真は中に含まれる人物の肖像権を侵害しない、ということが慣例となったそう。

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 キャロリーヌ・ド・ベンデルンのこと調べていたら、いろいろすごいことがわかってきたので、近々別記事として紹介します。

(↓)キャロリーヌ・ド・ベンデルンが出ている動画(1968年)

 

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