2014年10月25日土曜日

記憶の取る捨てる(トルステル)

Patrick Modiano "Pour que tu ne te perdes pas dans le quartier"
パトリック・モディアノ『おまえが迷子にならないように』


 2014年10月はじめに出版されたモディアノ最新作ですが、その直後の10月9日にああいうことになって、その後急遽(←)こういう赤い「腰巻き」がつけられるようになりました。この作品が受賞作品というわけではないですが、パトリック・モディアノ(1945 - )は2014年度ノーベル文学賞を授与されました。おめでたいことです。
 さて、そのおめでたいことを打ち消すように、この小説の第一行は
Presque rien.
(プレスク・リヤン)と始まります。「ほとんどなんでもないこと」。そして「自分では最初はまったく軽いことに思われた虫刺されのようなもの」と続きます。最初からこんなこと言われても、と読者は毎度のモディアノ小説のように挫かれそうになります。ここで、よおし、こうなったら何が何でも着いていくぞ、という意気込みを持つことが肝心なのです、モディアノ読者は。
 スタート地点は2010年代の現代です。60歳を過ぎた一人暮らしの老作家(とは言っても昨今は何も書いていない)のジャン・ダラガーヌの自宅電話が、しつこくしつこく鳴っている。もう誰も電話連絡などしなくなって久しいのに。受話器を取ってみると、「あなたが落とした住所録手帖を見つけたので届けたい」と。その柔和ながら威圧的な電話の主は「ご自宅までお届けに上がりたい」と迫ってくるので、ダラガーヌは不穏ならぬものを察して「いや、どこか外でお会いしましょう」と巻きを計ります。読者は開始早々、サスペンス小説の雰囲気を感じとります。Eメールとスマートフォンの時代にあって、ほとんど用のなくなった年代ものの住所録手帖はダラガーヌ自身ほとんど使うことがなくなっています。いつ落としたのか?1ヶ月ほど前、南仏へ向かうTGVの中で、車内の検札係にチケットを見せようとポケットから出した際に一緒に落ちたのかもしれないけれど定かではない。だが、それはすでに無くても別に困らないもの。そういう「ほとんどなんでもないこと」だったのです。
 住所録手帖を返してもらいに約束の場所に行ってみたら相手は二人。男はジル・オットリーニ、女はシャンタル・グリッペ。 「たいへん失礼ながら、好奇心から私はこの住所録の中身を見てしまいました。その中でひとつだけ気になった名前があり、それについてお聞かせいただければ、と」。やにわに会見は尋問に変わってしまいます。男は広告会社に働くライターで、連れはその女友だちであり、警察やその筋の人間ではない。拾ってくれたお礼だから、知ってることは教えようという気になりますが、かつて自分自身で住所録に記したその名前「ギィ・トルステル」にはまったく思い当たるものがない。おまけにそのトルステルのところに書かれた電話番号は7桁。フランスの電話番号が7桁から8桁に変わったのが1985年のこと(8桁から現行の10桁に変わったのが1996年のこと)で、手帖に書かれてから少なくとも四半世紀は経っているのです。思い出せません、というダラガーヌにオットリーニは喰い下がります。「実は私はある事件について調べていて、それを記事にする準備をしているのです。私は元ジャーナリストでした。その事件にこのトルステルも関係しているのです」と。そして彼はダラガーヌが発表した何冊かの小説を読んだ、このトルステルという名の人物はダラガーヌの処女作『夏の黒(Le Noir de l'Eté)』に登場しているのだ、と。
 そこまで言われても、忘却の彼方にあるこれらのこと。小説『夏の黒』も、そう言えばそんな作品を書いたことがあったなぁ、程度の記憶で、絶版久しいこの本は自分の手元にも一冊もない。ここで描かれているダラガーヌという老作家(元作家が正しいか)は、モディアノの実像とはかなり距離のある、おそらく作家として成功したことなどなく、その過去を忘れ去りたい、ある種のルーザー的佇まいがあります。ですから、ここで急に「作家ダラガーヌ」に立ち戻らされたような戸惑いがあります。
 日は変わって相手はシャンタル・グリッペ。オットリーニに内密でダラガーヌと会った彼女は、オットリーニに脅されているのか、それともその男を愛しているのか、判然としないやり方でダラガーヌにトリステルに関する記憶を取り戻すように嘆願します。オットリーニを助けてやってほしい、さもなければオットリーニは会社もクビになり、生活も立ち行かなくなってしまう、と彼女は言います。しかしダラガーヌは事前にインターネットでオットリーニの勤める会社が存在しないことを知っているのです。元ジャーナリストというのも本の著者であるというのもウソ。その上、グリッペとの話の上でだんだんわかってくるのは、この男はカジノや競馬などの遊び人であり、カタギの世界の人間ではない、ということ。グリッペはその遊び人の帰りを待ちながら、ダンサーなど夜の世界の仕事をして生きる女。モディアノの文章はそうと特定しなくても、このワイルドサイドで生きる人たちの秘密を尊重して明かしません。だからこの二人がなぜトルステルを追っていて、何を探ろうとしているのかは、小説の最後に至ってもわからず仕舞いです。
 しかしここからダラガーヌはだんだんそれが何だったのか、記憶が戻っていくのです。この「待っている女」グリッペの姿はどこかで見たことがある。その記憶は50年以上も前に遡っていくのです。母にも父にも育てられなかった少年ジャン(・ダラガーヌ)を育てた若い女性アニー・アストランは、グリッペと同じように「待っている女」だったのです。
 舞台はパリ北郊外ヴァル・ドワーズの小さな町サン・ルー・ラ・フォレ、その大きな邸宅の一室で幼いジャンはアニーに育てられました。その館は大きなアメリカ車で競馬場やカジノに出かける男たちの溜まり場で、少年ジャンの夜の眠りの途中で聞こえる大きな物音でおぼろげに記憶されています。子供には全く何のことかわからないけれど、このアニーとの優しい思い出はあります。その周りの怪しげな遊び人たちのひとりに「ギィ・トルステル」という名前の男もいたのですが、この男がオットリーニとグリッペが想定しているような重要性は何なのかは、この小説ではわかりません。真夜中過ぎに館にやってきて、朝早くには消えてしまっているこの男たちは一体何なのか。小説はこのことを後年(15年〜20年先でしょう)になって知りたがっているダラガーヌも登場し、この幼年の日の記憶の取り戻しを試みたのがダラガーヌの最初の小説『夏の黒』 だったこともわかってきます。
 すなわち、この小説は子供の頃のジャン・ダラガーヌ、その記憶を取り戻そうとして小説を書いた青年期のジャン・ダラガーヌ、それをまた思い出そうとする今日の老人ジャン・ダラガーヌという3段階の時制で描かれ、それがゴッチャになっていて、その記憶のどれが正しくどれが正しくないかもはっきりしない、五里霧中のジグソーパズルなのです。わかっているのは、このアニー・アストランを取り巻く男たちはカタギの世界の人間ではなく、パリの歓楽街ピガールのバーでアクロバット・ダンサーでもあったアニー・アストランの同僚ダンサーが暗殺され、その警察捜査の手がサン・ルー・ラ・フォレの館に及んで、アニーと少年ジャンはそこに住めなくなってパリのブランシュ(パリ9区ムーラン・ルージュのあつ界隈)地区に住み、そこからさらにイタリアに逃亡する旅を企て...。後年に青年小説家のダラガーヌが知るのはその時にアニーはフランス/イタリア国境で逮捕され、裁判の末、禁固刑になっていたということ。
 なぜ青年ダラガーヌは小説を書いたか。これを作者は小説のほぼ真ん中の70ページめに書いています。
彼がこの本を書いたのは、彼女がそれに応える合図をしてくれるかもしれないという望みだけのためだった。本を書くこと、それは彼にとって、その後消息知れずとなってしまったある種の人たちに向けて灯台の光やモールス信号を送ることだった。それにはページのここかしこにアトランダムにその名前をばらまき、あとはその人たちが連絡をくれるのを待っていればよかった。(p.70)
小説を書くことは、瓶につめたメッセージを海に流すようなものなのです。そのメッセージは宛てられた当人にしかわからない数行なのです。 青年小説家ダラガーヌの思い通り、彼はアニーと再会できるのですが、アニーは名前も変え、そして過去のことを思い出そうとしない女性に変身しています。そのことを老人作家ダラガーヌはどうしてそうなったのか、と思い出そうとするのです...。
 カタギでないアニーは時々は少年ダラガーヌをひとりで放っておかなければならないことがある。パリのブランシュ地区のホテルに二人で暮らしていた時、アニーは少年に四つ折りの紙にホテルの住所を書いて持たせます。そこには住所だけでなく、古風な文字で「おまえがこの街で迷子にならないように」と書かれています。この紙をず〜っとダラガーヌは肌身離さず持っていたつもりだったのに、いつしか無くなっています。それは記憶のように悲しいものです。
 普通人からはよく見えない「カタギでない人々の世界」はこの小説でもよく見えないままにしておきます。なぜ産みの母親は自分をアニーに預け、なぜ「待っている女」アニーは自分をこれほど愛してくれたのか。そして小説は、若い育ての親アニーが、一時期にはダラガーヌの愛人にまでなっていたことを仄めかしもします。 彼女にもう一度会いたくて小説を書く青年作家。字面ではそう読めなくても、これは繊細な恋愛小説であるということもふわ〜っと浮かび上がってくるのです。そうわかると、なぜ少年の日にこの女は自分の前から消えたのか、なぜ青年の日にこの女は変わってしまったのか、この悲しみは深くキリキリと胸を刺してきます。こういうことすべてを老作家ダラガーヌは忘却の彼方に追いやっていたのに、ある「ほとんどなんでもないこと」をきっかけに、暗闇の中の手探りで少しずつ取り戻して行き、最後には限りない悲しみまで至ってしまうのです。だからモディアノ読みはやめられないのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

Patrick Modiano "Pour que tu ne te perdes pas dans le quartier"
ガリマール刊 2014年10月  150ページ 16,90ユーロ

(↓)2014年10月9日、パトリック・モディアノのノーベル賞受賞を報じるベルギー国営テレビRTBFのニュース。


(↓)2014年10月9日放送の国営TVフランス5の番組「ラ・グランド・リブレーリー」。パトリック・モディアノ「私はいかにして書くか」のルポルタージュ。


<<< 爺ブログで紹介しているモディアノの作品 >>> 
『失われた青春のカフェ』"Dans le café de la jeunesse perdue"(2007年)
『視界』"L'Horizon" (2010年)
『夜の草』"L'herbe des nuits" (2012年)

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