ミッシェル・ジョナス「シュペール・ナナ」
Michel Jonasz "Super Nana"
詞曲:ジャン=クロード・ヴァニエ
ジャン=クロード・ヴァニエは1943年パリ郊外オー・ド・セーヌ県の小さな町ベコン・レ・ブリュイエール生れ(同地に生まれた先輩にミッシェル・ルグランがいます)。独学の音楽家で、最初は録音スタジオのサウンドエンジニアとしてプロになります。とりわけアラブ音楽の録音に立ち会っていて、この経験が後年のストリングス編曲に大きな影響を与えることになります。その編曲/オーケストレーションは、学校に行かずに「クセジュ文庫」の1冊で習得したという伝説があります。編曲家ヴァニエのデビューはサラヴァ・レコード、ブリジット・フォンテーヌの初LPアルバム『ブリジット・フォンテーヌは狂女である!』(1968年)で、 その中の2曲("Il pleut", "Je suis inaaptée")の作曲も手がけています。
メジャーシーンでちょっとヴァニエの名が知られるようになったのは、ジョニー・アリデイの全キャリア通じての最大級のヒット曲「ク・ジュテーム(Que Je t'aime)」(邦題「とどかぬ愛」1969年)のオーケストレーションで、その静から動、さらに疾風怒濤にクレッシェンドして静に戻るというドラマチック編曲の手本中の手本、と後世に伝えられています。同時期同系のヴァニエ編曲でミッシェル・ポルナレフ「渚の思い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」(1969年)というのもありますが、前者には到底かないません。なおポルナレフとは73年制作(発表74年)のアルバム "Michel Polnareff"(別名ポルナレーヴ、別名アイラブユービコーズ)のプロデュースにも関わってます。
しかしヴァニエにとってこの時期の最も大きな事件となったのは、セルジュ・ゲンズブールのアルバム『メロディー・ネルソンの物語』 (1971年)の編曲と作曲です。当時27歳の気鋭の編曲家君は、その後世に歴史的名盤を残すなんてことはつゆも思わず(実際その当時は全く売れなかったし、注目もされなかった)に、「これも仕事ですから」と職人的にロンドンのスタジオでゲンズブールとおつきあいしていた。この辺の事情は、今、雑誌原稿を準備中なので、そちらにまかせますが、『メロディー・ネルソン』が歴史的アルバムの座に昇格するのって、80年代(世界的には90年代?)のことですから、ヴァニエさんはその日まで、一介の編曲家・作曲家・作詞家・映画音楽作者・楽団指揮者そして数枚のアルバムのあるマイナーな自作自演歌手にすぎなかったのです。
その不発の『メロディー・ネルソン』の後も、ヴァニエはフランスのヴァリエテ界で仕事をしていて、ジェーン・バーキン、マイク・ブラント、シルヴィー・ヴァルタン、ダリダ、フランソワーズ・アルディ、クロード・ヌーガロ、ジュリアン・クレールなどの曲提供者・編曲者となっています。その中のひとりが1972年にデビューしたミッシェル・ジョナス (1947 - )でした。イヴ・シモン、アラン・スーション、ヴェロニク・サンソンなどと共に70年代の自作自演歌手(シンガーソングライター)の時代を作った旗手のひとりですが、ミッシェル・ジョナスの初の大ヒット曲は、自作曲ではなく、ジャン=クロード・ヴァニエの詞曲だったのです。おそらくこれがフランスで今日まで最も知られているヴァニエの作品ですが、誰もがこれをジョナスの曲だと思っていて、ヴァニエのことなど知らないのです。
これ、今から40年前の歌ですよ。荒廃した郊外の一篇のポエジー。錯乱的でカラフルでサイケデリックで...。こういう歌詞だとヒット曲になんかなりっこないと思われるムキもありましょうが、21世紀の今日も、ミッシェル・ジョナスの古典として歌い継がれています。(リフレインしか唱和できないですけどね)
(↓)ミッシェル・ジョナス「シュペール・ナナ」(1974年)
Michel Jonasz "Super Nana"
詞曲:ジャン=クロード・ヴァニエ
ジャン=クロード・ヴァニエは1943年パリ郊外オー・ド・セーヌ県の小さな町ベコン・レ・ブリュイエール生れ(同地に生まれた先輩にミッシェル・ルグランがいます)。独学の音楽家で、最初は録音スタジオのサウンドエンジニアとしてプロになります。とりわけアラブ音楽の録音に立ち会っていて、この経験が後年のストリングス編曲に大きな影響を与えることになります。その編曲/オーケストレーションは、学校に行かずに「クセジュ文庫」の1冊で習得したという伝説があります。編曲家ヴァニエのデビューはサラヴァ・レコード、ブリジット・フォンテーヌの初LPアルバム『ブリジット・フォンテーヌは狂女である!』(1968年)で、 その中の2曲("Il pleut", "Je suis inaaptée")の作曲も手がけています。
メジャーシーンでちょっとヴァニエの名が知られるようになったのは、ジョニー・アリデイの全キャリア通じての最大級のヒット曲「ク・ジュテーム(Que Je t'aime)」(邦題「とどかぬ愛」1969年)のオーケストレーションで、その静から動、さらに疾風怒濤にクレッシェンドして静に戻るというドラマチック編曲の手本中の手本、と後世に伝えられています。同時期同系のヴァニエ編曲でミッシェル・ポルナレフ「渚の思い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」(1969年)というのもありますが、前者には到底かないません。なおポルナレフとは73年制作(発表74年)のアルバム "Michel Polnareff"(別名ポルナレーヴ、別名アイラブユービコーズ)のプロデュースにも関わってます。
しかしヴァニエにとってこの時期の最も大きな事件となったのは、セルジュ・ゲンズブールのアルバム『メロディー・ネルソンの物語』 (1971年)の編曲と作曲です。当時27歳の気鋭の編曲家君は、その後世に歴史的名盤を残すなんてことはつゆも思わず(実際その当時は全く売れなかったし、注目もされなかった)に、「これも仕事ですから」と職人的にロンドンのスタジオでゲンズブールとおつきあいしていた。この辺の事情は、今、雑誌原稿を準備中なので、そちらにまかせますが、『メロディー・ネルソン』が歴史的アルバムの座に昇格するのって、80年代(世界的には90年代?)のことですから、ヴァニエさんはその日まで、一介の編曲家・作曲家・作詞家・映画音楽作者・楽団指揮者そして数枚のアルバムのあるマイナーな自作自演歌手にすぎなかったのです。
その不発の『メロディー・ネルソン』の後も、ヴァニエはフランスのヴァリエテ界で仕事をしていて、ジェーン・バーキン、マイク・ブラント、シルヴィー・ヴァルタン、ダリダ、フランソワーズ・アルディ、クロード・ヌーガロ、ジュリアン・クレールなどの曲提供者・編曲者となっています。その中のひとりが1972年にデビューしたミッシェル・ジョナス (1947 - )でした。イヴ・シモン、アラン・スーション、ヴェロニク・サンソンなどと共に70年代の自作自演歌手(シンガーソングライター)の時代を作った旗手のひとりですが、ミッシェル・ジョナスの初の大ヒット曲は、自作曲ではなく、ジャン=クロード・ヴァニエの詞曲だったのです。おそらくこれがフランスで今日まで最も知られているヴァニエの作品ですが、誰もがこれをジョナスの曲だと思っていて、ヴァニエのことなど知らないのです。
俺が通りにゴミ箱を出すと
今日はゴミ収集ストライキ18日め
この郊外団地で
あの娘ほどきれいな子は見たことがない
ミルクバーのおねえちゃんか
映画館の暗闇で
バナナの皮を剥いてくれるおねえちゃんかって?
それは咳に効くやつだろう?
トローチかカシューか
自動販売機のボンボンだろうって?
そんなんじゃない! あの娘は
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
毎日俺はガラガラ鳴る箱を蹴飛ばして
フットボール
こんなブリキ箱みたいに
俺も堂々巡りさ
俺が高いベランダから釣り糸垂らして
彼女を釣ろうとすると
彼女は駐車場の中に俺を連れ込むんだ
セメントの上だって
ここは超安値で行けるブラジルさ
俺は麻酔剤の海をクロールで潜っていき
海底に手を着くと
それは雪になったりナパームの炎になったり
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
俺はこの街区の端っこの
高層住宅のてっぺんに住んでいる
結核菌も
昇ってこれないほど高いんだ
林立するアンテナの向こう
ジェット雲がドッグレースみたいに
交差しているところに
あの娘はいるんだ
彼女は廃棄物の山を歩いている
たぶんチラシ広告かもしれない
その広告では娘たちがサボテン林の影で寝そべっているんだ
俺の言いたいことがわかるかい?
そうじゃないんだ、彼女はまさに
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
シュペール・ナナ
これ、今から40年前の歌ですよ。荒廃した郊外の一篇のポエジー。錯乱的でカラフルでサイケデリックで...。こういう歌詞だとヒット曲になんかなりっこないと思われるムキもありましょうが、21世紀の今日も、ミッシェル・ジョナスの古典として歌い継がれています。(リフレインしか唱和できないですけどね)
(↓)ミッシェル・ジョナス「シュペール・ナナ」(1974年)
(↓)ジャン=クロード・ヴァニエ「シュペール・ナナ」(1975年)
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