『ラ・リトゥルネル』
(日本公開タイトル『間奏曲はパリで』)
2013年フランス映画
"La Ritournelle"
監督:マルク・フィトゥーシ
主演:イザベル・ユッペール、ジャン=ピエール・ダルーサン
フランス公開:2014年6月11日
今年の東京の「フランス映画祭」の参加作品で、日本題がどういうわけか『間奏曲はパリで』となっています。原題の"La Ritournelle"には「間奏曲」と言う意味はありません。音楽用語(イタリア語)で間奏曲はインテルメッゾ。フランス語のリトゥルネルは、音楽用語(イタリア語)のリトルネロに由来していて、当ブログで私はこのことをル・クレジオの小説『飢餓のリトルネロ』(2008年)のところで説明しています。これは主題が何度も繰り返される作曲形式で、日常用語的にはくりかえしや反復やリフレインや決まり文句やよくあることといった意味になります。
そんなことにひっかかってないで先に行きましょう。
場所はノルマンディーです。パリから車で2時間、電車ならば1時間半、そこはよく雨が降り、牧場が広がり、肉牛や乳牛が風景となっている地方です。グザヴィエ(ジャン=ピエール・ダルーサン)とブリジット(イザベル・ユッペール)は畜産業を営む夫婦で、それも毎春パリで開かれるフランス農業展の肉牛品評会で優勝するほどの、ある種ハイクラスに位置する農家です。しかし役どころとは言え、女優イザベル・ユッペールが農業展出品の巨大な牛にブラシをかけたり、牛の出産を手伝ったりという姿は結構堂に入ったもので、明るい農村を思わせます。グザヴィエは実直・無骨な畜産マンで、アートやファンタジーの心を保持しているブリジットとは対照的です。例えば映画冒頭で、肉牛品評会に出場する雌牛にブリジットがちょっと目立たせるために、おもちゃの女王様の冠をかぶせたがるのですが、グザヴィエは「おまえはこの牛を落選させたいのか?」と相手にしません。ま、こういう冒頭からもうトーンは感じられるわけです。つまり、この夫婦は倦怠期にある、と。
息子は家業には全く興味がなく、サーカス学校に入学してアクロバット・アーチストを目指しています。なんでそんな道に進んだのか、と周囲の人間たちは思うのですが、それが母親ブリジットから受け継いだDNAであるということをグザヴィエは映画の後半で悟ります。息子が不在でこの畜産農家は夫と妻、そしてたった一人の頼りになる従業員レジス(ジャン=シャルル・クリシェ)の3人で稼働しています。何十頭という牛をこの3人が飼育管理し、経理会計などはブリジットがキーボードを叩くという具合。牛舎の修繕やら牛の出産やら、毎日やることは山ほどある。そういう日々をこの夫婦は30年近くも生きてきたわけです。
ブリジットには胸の上部に原因不明の紅斑があり、皮膚科治療でも消えず、忙しさにかまけて放っておいています。気にならない。これを気にかける男はどうせこのグザヴィエしかいないんだから、という気持ちでしょう。それが気になり始めるのです。
ある日ブリジットは土地のスーパーで店内に流れている音楽が耳から離れなくなります。何だったっけこの曲? スーパーのレジに聞いてもわからず、管理人に聞いてもわからず(「これは本社が送ってくるソフトを流しているだけですから」なんて言うのです)...。お立ち会い、よろしいですか? これがリトゥルネルなのです。頭の中で反復してしまうメロディー、リズム、ハーモニー。耳からも頭からも離れなくなる必殺のリフレイン。映画の重要なテーマがここにあります。
そしてグザヴィエ&ブリジットの住居の隣りの大きな一軒家を使って、姪のマリオン(おお、『バード・ピープル』 のアナイス・ドムースティエ!)が若い衆をわんさと呼んでパーティーを開きます。その集まってきた若い衆の中に好男子スタン(ピオ・マルメ)がいます。娘たちの中でスタンを目当てにこのパーティーに来た子もいるのですが、「俺には若すぎるんだよね」と見向きもしないスタンなんですが、ブリジットには誘惑的な視線を浴びせるのです。
夜が更け、畜産夫婦は床につくのですが、隣家のパーティーは最高潮。眠れないブリジットが階下に降りて、タバコを吸っていると(そう『バード・ピープル』もそうでしたが、この映画も登場人物のほとんどがタバコを吸う 。タバコ復権の傾向か?)、トントンと窓戸を叩くスタンがいます。一緒にタバコを吸い、文学の話などをひとしきり(グザヴィエとは絶対にできない話でしょう)。打ち解けたムード。スタンは隣家のパーティーに来いよ、と誘います。そしてブリジットは着替えて、きれいきれいになって、若い衆で熱気ムンムンの隣家に乗り込んで行きます。
スタンはすぐに飛んで来てホスト役を買って出ます。けたたましい音楽の中で、スタンはブリジットに「とてもきれいだよ」と言います。「え、今何て言ったの?」、するとスタンは大声で「とてもきれいだよ」と繰り返します。もう何年もこんなセリフ聞いたことないわ、そんな感じの顔をします。そこに、あのスーパーで聞いた音楽が介入します。「え?これこれ、この音楽なのよ、私がずっと頭について離れなかった音楽!」とブリジットはぴょんぴょん跳ねの喜びを表現します。スタンはすかさず「レッツ・ダンス!」とピストに誘い出し、二人は酔いしれるように踊るのです。
この時、ブリジットにはもう何年も何十年も失っていたある感覚がぞわ〜っと蘇ってくるのです。2014年的流行ことばで言えば「パルピテーション」でしょうか。イザベル・ユッペールの実生活での年齢は今年61歳です。この役どころではグザヴィエも含めて55〜65歳層でしょう。つまりわれわれ中高年です。そんな歳でもパルピテーションはある日突然に還ってくる。あなた、身に覚えがあるでしょう?
ここから物語は同じノルマンディーを舞台にしたギュスタヴ・フローベールの小説『ボヴァリー夫人』の軽めのコメディー映画版ヴァリエーションのような展開になりますが、ブリジットの軽い狂気は止まらなくなるのです。グザヴィエには、胸の紅斑の治療のために、パリの高名な皮膚科医とアポイントと取れたと理由をつけて、パリに2泊旅行を敢行してしまいます。それはあの若くて魅惑的なスタンに再会するため。なぜ皮膚科医とのアポのために2泊を要するのか(ノルマンディーですから日帰り距離なのです)、とグザヴィエは訝しみます。しかもたくさんの着替え衣装を持って!「私だってたまにはパリでショッピングしたいわよ」とブリジットは切り返します。
(はしょります)スタンとは再会できるのですが、こいつぁダメだった、という話。しかし、逗留したパリのホテルで、国際会議のためにやってきた中高年デンマーク人ジェスパー(ミカエル・ニクヴィスト)と出会い、その北欧人らしからぬラテン的なオープンで積極的な身のこなしと懐の厚さで、ブリジットはどんどん魅了されていきます。後半のスタンに見えてくる「パリ的」な上辺の薄さとクールネス(言い換えれば冷たさですが)と対照的です。言わば気のいい紳士のようなオッサンというキャラです。ノルマンディーとデンマークという田舎から出てきた「お上りさん」二人という態の、くっついては離れ、くっついては離れのパリの追いかけごっこです。たとえ1日だけでも、こういうほのかなパルピテーションの舞台に、パリはこの上なく美しいのです。(この辺を強調するということでは『間奏曲はパリで』という日本語題はそれなりに意味あるんですが、本筋は絶対にそれではない)。
ところが、この追いかけごっこの後方に、もう一人ブリジットを追跡していた者があるのです。グザヴィエは パリの皮膚科医とのアポということがウソとわかって、いてもたってもいられなくなり、ブリジットを追ってパリに来ていたのです。グザヴィエはブリジットとジェスパーが仲良くパリを闊歩しているシーンを見てしまい、大ショックを受けるのですが、そこで「不倫の現場見つけたり!」と登場してその場をぶちこわすのではなく、「なぜなんだろう?」と問題を熟考してしまう優しさが(何十年ぶりに)グザヴィエに蘇ってしまうのです。
グザヴィエは普段ブリジットをその名前ではなく、あだ名で「プティット・ベルジェール(可愛い羊飼い娘さん)」と呼びます。そのあだ名の由来は、二人がまだノルマンディーの農業高校の生徒だった頃、その農業的な自分の将来を、先生のどんな職業に就きたいかという質問にブリジットは「羊飼い」と答えた、ということなのです。羊飼いとは、20-21世紀的な農業の分野においては、既に「終ってしまった」「存続することが非常に難しい」職業です。それを敢えてそう答えた若き日のブリジットに、若き日のグザヴィエは心動かされ、これは徒者ではない、と思ったのです。恋はこんなところから芽生え、二人は夫婦になったのです。よくある話かもしれません。これもリトゥルネルなのです。
そういう話をグザヴィエは思い出して、彼はパリに来たついでにオルセー美術館に行き、ジャン=フランソワ・ミレー画の「羊飼い娘とその群れ」 に見入り、その絵葉書を買ってしまうのです。
リトゥルネル=繰り返されるよくある話はこの映画の大きな軸です。ノルマンディーに帰って、グザヴィエはそのショックから、留守番役をしてくれたレジスに「俺の妻は不倫をした」と告白します。するとレジスは「あんた不倫をしたことがないのか?」と切り返します。あの時ブリジットはあんたと同じように泣いていたよ、と。「何でそんなことを知っているのだ?」と問い返すグザヴィエに、「俺は何十年もあんたたち夫婦を見てきたよ。だからあんたたち二人が愛し合っていることはよく知ってるんだ」とレジスは賢者のような口を聞きます。グザヴィエはそれが信じられずに、なんでブリジットはそういうことを知ったのだ?と聞きます。「今のあんたと同じように、ブリジットはあんたを追跡してたのさ」。「だからブリジットはあんたの元に帰ってくるよ、俺はよ〜く知ってるんだ」とレジスは確信をこめてグザヴィエに言います。
倦怠期→不倫。これはよくある話です。よくある話(リトゥルネル)だけでは映画にならないはずなのに、この映画のもたらしてくれる幸福感は極上です。
ブリジットはそのパリの夜の最後をデンマーク人ジェスパーと同じベッドで過ごすのですが、その胸の赤い斑点に気付いたジェスパーは、死海(イスラエル)の水で治るよ、と教えてくれます。ウソか真かわからないこの話をブリジットはその一夜の思い出として取っておきます。
ノルマンディーに帰ってきたブリジットは、(実際の話を知っているくせに)グザヴィエの「皮膚科医の診察はどうだった?」という質問に「死海の水が効くらしい、と教えられた」と答えるのです。グザヴィエはすぐさま死海への二人での旅行を手配し、ブリジットにプレゼントするのです。
何が何だかわからないブリジットは、ある日、グザヴィエの引き出しの中から、オルセー美術館のミュージアムショップの袋を見つけ、その中にミレーの羊飼い娘の絵葉書と、そのレシートチケットを見つけ、あのパリの不倫旅行の日にグザヴィエがパリに居たことを知り、すべてに合点がいくのでした。
このめちゃくちゃに優しい不倫映画の最後は、死海(塩分が極めて多いので、水に入ると浮き袋なしで、体がプカプカ浮く)でプカプカ浮きの遊泳を楽しむブリジットとグザヴィエの図で終ります。リトゥルネルはこんな風に自然に還ってくるのです。中高年でないと了解できない話かもしれません。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『ラ・リトゥルネル』予告編
(註)記事タイトル「心の赤あざ」は言うまでもなくフランソワーズ・サガン『心の青あざ Des Bleus à l'âme』(1972年)のもじりです。為念。
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