J'sais pas pas pas pas pas pas pas j'sais pas pas pas
Alain Bashung "Résidents de la République" アラン・バシュング「共和国の住人たち」 2008年アルバム『ブルー・ペトロル』所収 詞曲:ガエタン・ルーセル 更新申請から8ヶ月待たされたが、2035年5月まで有効の Carte de résident(カルト・ド・レジダン=居住許可証)がやっと手に入った。この10年有効カードの更新はこれが5回め。フランス共和国のレジデントになって40有余年、その間に6人大統領が変わった。その間私のような外国人居住者には比較的寛容な時期もあったし冷ややかな時期もあったが、毎回このような居住許可更新のときはフランス共和国の役所は”おまえを住まわせてやっている”という態度をあからさまにする。ずっと納税者だし、犯罪歴ゼロだし、少額ながらチャリティー寄付はまあまあしてるし、事業者だった頃はフランス音楽の振興に(微力とは言え)いくらかは貢献していたという自負があるのだが、移民担当窓口はそんな個人プロフィールを考慮するわけがない。私は”移民A"であり、必要書類の不備がなければ、居住許可は延長できる ー とは言え...。多くのメディアのアンケート調査によると、2027年フランス大統領選挙では(アメリカやかなりの数の主要国がそうなったように)極右ポピュリスト候補が勝ってしまう可能性がかなり高い。その空気は私たちの日々の生活現場でも感じることができる。
アラン・バシュング(1947 - 2009)のこの「共和国の住人たち Résidents de la République 」はその死(2009年3月14日)のほぼ1年前の2008年3月24日にリリースされた最後のアルバム『ブルー・ペトロル』(20万枚、プラチナ・ディスク)のA面2曲め、すなわちアルバム代表曲として発表された。2009年2月28日(死の15日前)、ヴィクトワール賞セレモニー(3部門で受賞)のステージで歌われたのが、この歌(YouTubeリンク)で、その後2度と公の場に姿を現さなかったから、これが文字通り白鳥の歌となったのですよ。この時バシュング61歳、肺がん最末期。 この歌の作詞作曲はガエタン・ルーセル(1972 - )で、90年代の人気バンドルイーズ・アタックのフロントマン(ヴォーカル/作詞作曲)であったが、2009年からソロアーチストとしても活動している。骨のあるビートフォークロック系の人という印象はあるが、政治的なメッセージを歌う/書くことは稀だったと思う。時代背景を少し説明しておくと、2007年5月フランスの選挙民たちはニコラ・サルコジを新共和国大統領として選出している。このショックは後年に「トランプ2016」「トランプ2024」を体験した今となっては、たいしたものではなかったと思われようが、当時は私もずいぶん揺れたものだった。娘がまだローティーンだったから、この子はこのサルコジ治世下の共和国で生きていけるだろうか、と不安になっていた。私の業界はCD売上の落ち込みがいよいよ厳しく、運営していた会社を閉める覚悟もしていた頃だ。仕事の方はフランスのパートナーたちに支えられて(本当に感謝している)何とか続けられたが、今はあらゆる意味でレジスタンスの時期である、と念じてサルコジの諸政策にも耐えていた。
J'sais pas pas pas pas pas pas pas, j'sais pas pas pas... いつの日か、おまえへの愛が薄らいでいき おまえをまったく愛せなくなってしまう いつの日か、私は笑うことが少なくなり 全く笑えなくなってしまう いつの日か、私は走ることが稀になり 全く走れなくなってしまう
(↑)このヴィデオクリップに主演しているのはメルヴィル・プーポーである。 この歌の中で共和国は "Chérie"=最愛の女性である。昨日まで見つめ合うこともできた愛する人である。背伸びして耳に手をかざせばその言葉が聞き取れ、互いに近づけばその姿を認めて微笑み合うこともでき、愛する人のために走ることもできた。共和国は疲れ、姿を変え、バラ色(左派/社会党のシンボル)も青色(保守のシンボル)も曖昧になり、その建国原理(この歌では”元素たち”という言葉を使っている)も好き勝手に変えられてしまう。いつか私は共和国に愛想を尽かしてしまうかもしれないのですよ。共和国は病み、共和国は疲れ、私たちも疲れてしまう時があるのですよ。 J'sais pas pas pas pas pas pas pas, j'sais pas pas pas... これは聞いての通り、シェパパパパパパパ、シェパパパ... と言っているのです。"Je ne sais pas"(ジュ・ヌ・セ・パ = 私は知らない)のくだけた口語表現、と言うよりはほとんど幼児語であろう。知らねえよ、知るか、知ったこっちゃねえよ... ー そういうニュアンスなのだろうか。それよりも、”私にはまったくわからないのだよ”と年寄りが嘆いているようにも聞こえる。私たちの信じてきた共和国って何だったのか、とも聞こえる。嘆き節なのですよ。
Paul Gasnier "La Collision" Gallimard刊 2025年8月21日 161ページ 19ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番ソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えて、『衝突 La Collision』について語るポール・ガスニエ
(↓)2017年5月、マンチェスター・アリーナ/アリアナ・グランデのコンサートで起こった爆弾テロ(死者22人)の犠牲者に対するオマージュで、フランス対イングランドの試合(於スタッド・ド・フランス)の前にフランス共和国近衛軍楽隊(ガルド・レピュブリケーヌ)が(オアシス)”Don't look back in anger"を演奏。
Paolo Vallesi "La Forza Della Vita" パオロ・ヴェレージ「ラ・フォルツァ・デッラ・ヴィータ(生命の力)」
詞 : ベッペ・ダティ 曲:パオロ・ヴァレージ 1992年サンレモ音楽祭3位
ポール・ガスニエ作『衝突 La Collision』(2025年)の中で、公道曲乗りオートバイ(ロデオ・ユルバン)のウィリー走行に追突されて作者の母が50代の若さで死ぬのだが、収容された病院でもう助かる可能性がないと判断されるや、未来の遺族に臓器提供の許諾を求めてくるくだりがある。50代だからまだフル稼働の臓器がたくさんあっただろうから、それで”命”や”機能”が救われた人たちもあっただろう。私は2017年のガン再発以来、浅い時も深い時もあるが、死を考えることがままある。私の臓器はまだ使いものになるものがあるのだろうか。私の何かが、他の人の”命”や”身体機能”の助けになる可能性があるだろうか。若い時は献血も何度かしたことがある。2015年の初手術以来、大きな手術は3度しているが、その度に大量の血をいただいているので、私にはフランス人の血が多く混じっている(笑)はずだ。私が今生きているのは、この血だけでなく、10年もの間さまざまな治療で注入された薬や照射された放射線のおかげなのだけど、自分の体がどんどん変わっていって、”自力”で生きていない感覚は日々増大している。自分の体がどんなものにも頼らずに自力で生きてたこともあった。なつかしい。そんなことを言うと、いやいやあなたは自力で生きてますよ、あなたを守っているのは、あなた自身の免疫の力なのですよ、と言ってくれた人がいた(故・土屋早苗のことです)。私自身の命の力がまだあるからなのですよね。ラ・フォルツァ・デッラ・ヴィータ。
1992年、私はまだ再婚していないひとり身で、まだ30代で、フランスの独立系レコード会社メディア・セット(在ナンテール)の社員だった。かなりヘヴィーなスモーカーだったし、アルコールはもっとひどかった。仕事場に冷蔵庫を持ち込んで私設バー("Toshi's Bar"の始まり)を開設して、周囲に何もないナンテールでも深夜までToshi's Barで同僚たちと飲んで”フランスの大衆音楽の現在と未来”を口角泡飛ばして論じていた。ほぼ毎晩泥酔状態でナンテールからブーローニュまで車で帰ったものだ。あの時クルマはFIAT Unoだった。イタリア好き。ミラノにも取引先があって、個人的に好きなカンタウトーレの新譜なんかを送ってもらっていたし、日本の取引先に依頼されてミラノに新譜買い付けに行くこともあった。だから社内的にも「イタリアにも詳しい」変なヤツと思われていた。 パオロ・ヴァレージ、1964年フィレンツェ生れ、自作自演歌手(カンタウトーレ)、1991年サンレモ音楽祭新人セクションで優勝した「Le persone inutili (無用の人)」でブレイク。まあ、あえて言えば、リカルド・コッチャンテ/エロズ・ラマッツォッティ系の熱唱カンツォーネ・ロマンティカの人。私が当時好んでいたイタロポップロック系とは違うんだけど。1992年サンレモ音楽祭メジャーセクションで3位になり、イタリアのチャートNo.1、パオロ・ヴァレージの最大のヒット曲となったのがこの「La Forza Della Vita(生命の力)」。まあ一発屋と思っても差し支えないと思う。そのサンレモ本選ステージでの熱唱がこれ(↓)
では歌詞を紹介しましょう。
Anche quando ci buttiamo via 慰めようのない恋のために per rabbia o per vigliaccheria 怒りややるせなさで per un amore inconsolabile 自暴自棄になる時も anche quando in casa il posto è più invivibile 家に住めなくなって e piangi e non lo sai che cosa vuoi 泣いて、どうしていいのかわからなくなってしまう時も credi c'è una forza in noi amore mio 愛する人よ、僕たちには力があるんだ più forte dello scintillio この狂ってしまって無用になった世界の di questo mondo pazzo e inutile 偽りの光よりも強くて è più forte di una morte incomprensibile 不可解な死よりも e di questa nostalgia che non ci lascia mai. 僕たちを苛み続けるノスタルジーよりももっと強い力が
Quando toccherai il fondo con le dita きみの手の指が谷底に届いたとたん a un tratto sentirai la forza della vita きみは生命の力を感じとるんだ che ti trascinerà con sé そしてきみを連れ戻してくれる amore non lo sai 愛する人よ、わからないかい? vedrai una via d'uscita c'è. きみには見えるよ、出口はあるんだって
Anche quando mangi per dolore 辛苦を舐めさせられ e nel silenzio senti il cuore 静寂の中で聞こえるきみの心臓の音が come un rumore insopportabile 辛抱できない雑音のように響く e non vuoi più alzarti きみはもう起き上がれない e il mondo è irraggiungibile 世界は近づきがたいものになる e anche quando la speranza もはや希望でさえ oramai non basterà. 何の役にも立たない
C'è una volontà che questa morte sfida でもこの死に抗う意志が存在するんだ è la nostra dignità la forza della vita それが僕たちの尊さ、生命の力なんだ che non si chiede mai cos'è l'eternità それは永遠が何かなんて問わないものなんだ anche se c'è chi la offende ある種の人々がそれを傷つけようとしたり o chi le vende l'aldilà. それを売っ払おうとしたりしようとも
Quando sentirai che afferra le tue dita きみの指が触れて感じられたら la riconoscerai la forza della vita きみはそれが生命の力だとわかるんだ che ti trascinerà con se それがきみを連れ戻してくれる non lasciarti andare mai きみを決して去らせたりしない non lasciarmi senza te. 僕をきみから離さないものなんだ
Anche dentro alle prigioni 人々の偽善の della nostra ipocrisia 監獄の中にあっても anche in fondo agli ospedali 新しい病気に冒されて della nuova malattia 病院の奥の奥に隔離されても c'è una forza che ti guarda きみを見守ってくれる力があって e che riconoscerai きみにはそれがわかるんだ è la forza più testarda che c'è in noi それは夢を見、決して降伏しない che sogna e non si arrende mai. 私たちの内にあって最も頑強な力なんだ
(Coro:) E' la volontà それは意志なんだ più fragile e infinita 最も壊れやすいけれど、無限なんだ la nostra dignità それが僕たちの尊さ la forza della vita. 生命の力なんだ
Amore mio è la forza della vita 愛する人よ、それが生命の力なんだ che non si chiede mai 永遠が何かなんて cos'è l'eternità 絶対に問わないものなんだ ma che lotta tutti i giorni insieme a noi でもそれはいつも僕たちのそばにいて戦っている finché non finirà 終わりの日が来るまで
(Coro:) Quando sentirai きみが指先を握りしめられてる che afferra le tue dita と感じたら la riconoscerai きみにはわかるはず la forza della vita. それが生命の力なんだって
La forza è dentro di noi 力は僕たちの内にある amore mio prima o poi la sentirai 愛する人よ、きみも遅かれ早かれわかるはず la forza della vita 生命の力が che ti trascinerà con sé それがきみを引っ張っていくんだよ che sussurra intenerita: そしてきみにやさしくこう囁くんだ "guarda ancora quanta vita c'è!" 「ごらん、命はまだ確かにここにあるんだよ」
第3章はその16年後の1962年春、レンの葬儀から幕を開く。あの婚姻の夜、画家として蘇ったレンは、根津の家の改造アトリエで日夜憑かれたように大作の絵を描き続け、口に咥えた絵筆と足の指に挟んだ絵筆だけでなく、額、鼻、前腕、肘など使える体の部位全てを使って絵の具をカンバスに塗りつけていった。そのテクニックは驚くべき進化をとげ、ダイナミックな表現からデリケートな細部描写まで可能な肉体のペインティングツールを獲得していった。また足の指も挟んだ鉛筆で文字が書けるほど鍛錬され、ノートや日記を書き記せるようになっていた。そのインスピレーションの源はすべてあの満州の戦場の燃え上がる森の阿鼻叫喚地獄図であった。レンはその特大版の作品を連作で15枚描き、総題を『炎と影の森(La forêt de flammes et d'ombres)』と名付けた。それには画号として”Mitsu(光)"とサインが入っていた。それが完成した時、精も魂も尽き果てたように、レンは息を引き取ったのだった。人これをライフワークと言ふ。
その間に親友ビンは1946年にヨーロッパに移住し、ユーディ・メニューインとアルチュール・グリュミオーに師事し、フランス、英国を経て、スイスに迎えられ、ジュネーヴの有名オケ(と言えばスイス・ロマンド管弦楽団と特定されると思うが)のコンサートマスターに着任する。驚異的な出世。 その間にレンとユキの間に女児アヤが誕生し、このレンの葬儀の時アヤは13歳の中学生。絵の道を共にした父と母の子なのに、幼い頃からクラシック・ヴァイオリンを習っている。 公開展示されることなく根津のアトリエに置かれたままになっている『炎と影の森』連作は、通夜・葬儀に訪れる人々の目に触れ、大きな衝撃と感動をもたらす。とりわけ、上述した満州前線での上官タカダが葬儀の数日後突然未亡人ユキを訪問し、レンの作品を内心高く評価していたのに軍基準に従って不合格にした経緯を詫び、その戦時中のレンの作品およびデッサンを返還するのであるが、その時にそのアトリエに置かれていた『炎と影の森』を見て号泣するのである。この大作はなんとかして世間に公開しなければならない、という強い意志はユキにも生まれているのだが、それが実現するのはさらに数年後(次章)のこと。 ビンはジュネーヴで訃報を受け取り、ユキに追悼のためにとレコードを2種(フルトヴェングラー指揮ベートーヴェン第9、そしてベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番第5楽章「カヴァティーナ」←この後者がビンにとって世界で最も美しい音楽であり、生涯を通じて極めたいレパートリーであった)を送ったのち、自らもスイスから飛行機(所要時間30時間とあり)で東京に飛ぶのであるが、レコードが届いたのが葬儀の40日後、ビン自身が根津のユキ宅に到着したのは65日後であった。62年当時、飛行機でヨーロッパから日本にやってくると言うのは大変なことだったのですね。 ユキとレンの娘アヤとビンの初対面。才能あるヴァイオリニスト同士のフィーリング合致。アヤはすぐさま親しみをこめて「ビンおじさん (Oncle Bin)」と呼ぶ。Oncle Ben's il ne colle jamais. オンクル・ビンはアヤにとって師となり第二の父となり、将来において多大な影響を与えることになる。16年後に再会したユキのもうひとりの恋人ビン、そのエモーションを隠し貞節を装う二人であったが、短い滞在が終わり、ジュネーヴに帰っていくビンはユキに何度も”A bientôt(また近いうちに!)”と繰り返すのだが、ユキはこの言葉を信じないでいる。しかし....。ここまでが第3章。
第4章。時は1979年。両親を失い、娘アヤもヨーロッパ留学してしまい、ハンナと二人暮らしになったユキは、意を決して思い出深い根津の家を売却し、ハンナを共にしてパリに移住する。この時ユキ56歳。パリには既に娘のアヤとその伴侶のポールが住んでいて、住居の手配などは娘が済ませていて、新住所はパリ14区ボワソナード通り(モンパルナス界隈)。 この章で語られる重要なテーマはこの”ヨーロッパ移住”である。戦中の上野3人組が渇望した憧憬の地ヨーロッパに、ビンは根を据え大音楽家となってしまったが、ユキも遂に錨を下ろした。娘アヤは22歳で渡欧し、父レンが若き日に貪るように通った美術館の数々の洗礼を受け、第二の父オンクル・ビンが出会ったような名演奏家たちの教えや演奏に深く影響され、欧州を謳歌している。小説のその後の半世紀の流れで、アヤの娘も孫娘も(なぜか女系)ヨーロッパ(フランス)人として根付いていくが、ユキに発するこの女系の子孫たちはすべてハンナという名の柴犬を愛玩している(不思議)。 このパリ移住に際して、ユキはアパルトマンの他にその近くにかなり大きな倉庫の賃貸契約も結んでいる。そして自身のパリ到着の半年後、『炎と影の森』全作をはじめレンのほぼ全作品が船便で到着し、その倉庫に納められる。ここから月日をかけてユキはレンの作品館をつくりあげていくのだった。そのプロジェクトの初めの頃(1980年春)にジュネーヴからパリに足を運んだビンは、亡き親友のライフワーク『炎と影の森』全作を初めて目にし、その想像を絶する表現の塊に感無量となり、その場にいられなくなってホテルに戻り休まねばならぬほどであった。同時にこのユキのレン作品展示館のプロジェクトを全面的に支援せねばと心に決め、それは”Espace Ren(エスパス・レン=レンの空間、レンのスペース)"という名で具体化が始まる。その同じ1980年6月、ビンの長年のプロジェクトである弦楽四重奏団”Quatuor Luce クワチュオール・ルーチェ”(レンが画号を”Mitsu = 光”と名乗ったように、ビンも自らの四重奏団を”ルーチェ=光”のクワルテットと名付けた)のお披露目コンサートがジュネーヴで開かれ、ユキはジュネーヴに向かった。1945年以来35年間かけがえのない友情で結ばれていたユキとビンはユキのジュネーヴ滞在最後の夜に恋人同士に変わった。 パリに戻り、ユキはアトリエに籠り、憑かれたように絵の制作を始める。数ヶ月の日々をかけて描き終えた絵は(これは第5章で明らかにされることだが) ,1946年にユキが描いていた一枚の絵と対をなす。旧作は「画家 Peintre」と題され、出来上がった新作は「音楽家 Musicien」となっている。すなわちユキが生涯かけて愛した二人の人物を主題にしているのだ。この2枚の作品をユキは人目の触れない戸棚の中に閉まっておく。そしてかの倉庫は数年の改装工事の末、ユキの念願通り、レンの『炎と影の森』および主要作品を展示するエキスポ・ロフト、そしてレンの絵に囲まれたクラシック室内楽の演奏会場としてオープンする。完成されたそのスペースは"Espace Ren Bin (エスパス・レン・ビン、レンとビンの空間)と正式に名付けられる。ここまでが第4章。
1987年、ドイツはまだ西ドイツと東ドイツがあり、ソ連はまだソ連だった。1981年フランス第五共和制初の左派大統領となったフランソワ・ミッテランは、国会多数派だった左派が1986年3月の選挙で敗れ少数派に転落、保守RPR党のジャック・シラクを首相とする保守政府が誕生し、第一次コアビタシオンの2年めが1987年。8月29日、そのシラクが首相官邸で迎えたのが、"Who's That Girl Tour"で初フランス公演をするルイーズ・チコーネ・マドンナ(当時29歳)、シラク友リーヌ・ルノーのエイズ救済基金への巨額寄付を感謝してシラクがマドンナにビーズをするという役得。そのあとマドンナは屋外メガコンサート会場の(パリ南郊外)ソー公園へ。集まったファンの数13万人。その様子をヘリコプターで上空から見ていたアラン・ドロン。コンサート大詰め、マドンナは13万人の前で履いていたパンティーを脱ぎ、オーディエンスに放り投げたのだった...。その2日後の8月31日、マイケル・ジャクソンがアルバム『バッド』をリリースし、そのBad World Tourは9月12日東京・後楽園球場(東京ドームはまだ出来ていない)で始まった... 。
最初の奥様と別居して(その人は東京へ帰った)、ひとりで住み始めたアパルトマン(20平米のステュディオ)でレコードプレイヤー/ステレオ装置を購入設置したのが1983年春のこと。離日した79年夏から約4年間、私はレコードと無縁の生活で、音楽はもっぱらカセットとFMラジオだった。音楽とレコードに戻ったのは、多分に81年フランスのFM電波解放(自由FMの始まり)のせいでFM上の音楽がめちゃくちゃ面白くなった(幻想か?)からで、日本の人並みの中高生として英米大衆音楽に浸っていた耳には、あんたら(当時の在日本の友人知人たち)の知らない面白い音楽はゴマンとあるぞ、と言いたかったんだね。”最新フランス音楽事情”みたいなお題目の月刊カセット/ミニコミ紙(最大発行部数30どまり)をやり始めた(これは89年まで続くんだよね、われながらすごいことだと思うよ)。 おかげでレコードの所蔵枚数は飛躍的に増えて、月給の大部分がレコード代に消えた。これまでの人生で音楽をこれほど熱心に聴いていた時期はなかった。これが私の1980年代だった。英米音楽はほとんど聴くことがなく、もっぱらフランスとヨーロッパ(加えて”フランス発ワールドミュージック”)の新譜盤ばかり買っていた。ヨーロッパと言っても、当時のフランスのレコード店では隣国のものであっても盤はほとんど流通されてなくて、チョイスは限られていたのだけど、ベルギーとイタリアは何買ってもハズレなしだった(あ、ハズレもあったなぁ...)。この二つの隣国は音楽的にはフランスよりもずっと先を行ってたように思う(←ここで、私がユーロディスコやニュービートが好きだったのがバレる)。 Italians do it better. イタリアのポップミュージックがすごいと思った最初は1982年フランスのテレビ、ジャック・シャンセル司会の(高尚な)総合文化教養番組「ル・グラン・テシキエ(Le Grand Echiquier)」にアンジェロ・ブランドゥアルディがメインゲストとして出演した時。当時私はイタリアのプログレにもヨーロッパ各地のフォークムーヴメントにも疎かったけれど、フィドル弾きながらピョンピョン踊るブランドゥアルディの衝撃が、私をぐぐぐっとイタリアに引き寄せたのですよ。それからルーチョ・ダッラ、ファブリツィオ・デ・アンドレ、ルーチョ・バティスティ、パオロ・コンテ、ピノ・ダニエーレなど硬派から、ミラノのBaby Records(ロンド・ヴェネツィアーノ、リッキ&ポーヴェリ、ガゼボ”I Like Chopin"...)系の軟派、ズッケロ、ウンベルト・トッツィ、トト・クツニョ等のメインストリーム、それから大々好きだったイタロ・ディスコ系(ライアン・パリス "Dolce Vita", フィンツィ・コンティーニ "Cha cha cha", マイケル・フォルトゥナーティ"Give me up", ピノ・ダンジオ "Ma Quale Idea"...)などなど。
1987年の曲「美しい星あかり La luce buona delle stelle」はラマッツォッティの3枚めのアルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti 』(英語版ウィキによると、世界で2百万枚のセールス、うちイタリア95万枚、ドイツ25万枚、スペイン20万枚...)のA面3曲めに入っている。私の手持ちのLP(品番BMG Ariola 208741)にはデュエット・ヴォーカリストとしてパッツィー・ケンジットの表記はない。次いでラマッツォッティ1988年のLP(7曲所収ほぼミニアルバム)『ムジカ・エ Musica è』にボーナスとして「美しい星あかり」のリミックスヴァージョンが収められているが、それには英語詞の作者としてのクレジットはあるのにヴォーカリストとしてはクレジットされていない。日本語版ウィキのパッツィ・ケンジットの解説によると、日本では1985年にエイス・ワンダー(ヴォーカル:パッツィー・ケンジット当時17歳)の初シングル"Stay with me"が、英国その他で全く不発だったのに、日本だけは洋楽チャート1位になるという人気だったそう。日本で有名、英国&欧州で無名。フランスでも英国でもこのエイス・ワンダー(パッツィー・ケンジット)が初めて大ヒットするのは、1988年、ペットショップ・ボーイズが曲提供した”I'm not scared"(1988年8月、仏チャートTOP50で最高位8位)からなんだよね。だから1987年時点では欧州のスケールではパッツィー・ケンジットよりラマッツォッティの方がずっとずっとビッグだったのですよ。 ヴィデオ・クリップで見比べると「美しい星あかり」と「アイム・ノット・スケアド」ではほぼ同じ容姿、同じ顔のパッツィー・ケンジットである。19/20歳の頃。すごくチャーミングだったし、きれいだった。後年は音楽アーティストとしても女優としてもあまり恵まれなくなったが、1997年から2000年まで4歳年下のリアム・ギャラガー(オアシス)と所帯を持っている。
「美しい星かり」は当時フランスでシングルチャート入りしていない。フランスのくせもの音楽(webradio)サイト Bide & Musiqueの解説には「当時のフランスではほぼ注目されなかった」とある。私はこれはカラオケ向きである、と見抜いていた。フランスにカラオケが本格的に上陸するのは1990年代に入ってからである。私はすでにカラオケを知っていたので、こういう美しいメロの男女デュオはカラオケで絶対ウケると確信していた。だからラマツォッティの歌うパート(イタリア語)を密かに練習して、願わくばフィーリング合いそうな女性に「英語のところ歌ってよ」と誘ってみたらいいんじゃないかな、と妄想していた。私は当時、離婚歴ある33歳ひとり者だった。
「ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ」
(エロズ・ラマッツォッティ) La luce buona delle stelle 星あかりの美しさが Lascia sognare tutti noi 僕たち二人を夢へ誘う (パッツィー・ケンジット) Will you dream of me (エ・ラ) Ma certi sogni son come le stelle ある種の夢は Irraggiungibili Però 星のように手が届かないけれど Quant′è bello alzare gli occhi 夜空を見上げると E vedere che son sempre là いつもそこにあるのが見えるんだ È cresciuto sai そんな夢を見ていた少年は Quel ragazzo che sognava 大きくなったんだよ Non parlava ma 少年はそのことを一度も口にしなかったけれど A suo modo già ti amava 心の中できみをずっと愛していたんだ Tu il sogno きみは夢だった Più sognato でももうそれは夢じゃない Più proibito che mai, che mai もう禁じられたことじゃないんだ (パ・ケ) Every night you know you will dream alone It's never ending of a boy in love with a girl That he can only dream of when you see the stars Shine brightly I will be thinking of you forever La luce buona delle stelle 美しい星あかり (エ・ラ) La luce buona delle stelle 美しい星あかり (パ・ケ) Stars will shine brightly forever As long as you know my dream's With you think of me as your light In a tunnel think of me As your dreams come true Come true (エ・ラ) Nascerò con te 僕はきみと一緒に生まれ変わり Con te ogni volta きみと一緒に死ぬだろう (パ・ケ) Every night must end But when day begins We'll see another (エ・ラ+パ・ケ) Ma non senti だけどきみには聞こえないの? Che ti chiamo, che 僕が呼んでるのが Ho bisogno di te きみが必要だって言っているのが Di un sogno 夢が必要だって言っているのが (パ・ケ) Together (エ・ラ) Insieme 一緒に (パ・ケ+エ・ラ) When you see the stars Shine brightly I will be thinking of you forever (エ・ラ) I Know (パ・ケ) La luce buona ラ・ルーチェ・ブオナ (エ・ラ + パ・ケ) La luce buona delle stelle ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ
唐突に179ページから始まる第二部は、すべて実名に戻り(とは言っても”ダニエル”あるいは”ダニエル・シェイヴェン”という名前は一度も登場せず、母は "ma mère"あるいは "maman"という形で書かれている)、終わり212ページまで33ページに渡って綴られるアメリー・ノトンブの「母への言い訳」的なほぼ葬式弔辞のようなオマージュである。2020年コロナ禍の中で他界した父パトリック・ノトンブに対して作家アメリー・ノトンブは珠玉のオマージュ小説『最初の血』(2021年ルノードー賞)を捧げているが、その4年後にこの世を去った母ダニエルに対しては、父へのそれのような作家の筆が動かず、しばらく沈黙していたことを彼女はどうしてなのかと自問していたのだ。父はほぼその人格を保った形で一生を全うしたが、母は夫の死後パーキンソン病に蝕まれ、体の機能や記憶の退化によって4年間苦しみながら逝った。二つの死の違いは歴然としている。国家的に重要な役目を歴任した外交官であった父の死はメディアでも大きく報道され、ベルギー王自身も哀悼を示すほどの事件であったが、母の死は全く世人に知られることのないものであった。これをフェアーではないと感じながらも、アメリー・ノトンブ自身も母の死についてなかなか語り始められなかった。父を愛していたように母を愛していたはずだが、その愛し方はかなり異なっている。父親は多くを語る人ではなかったが、その考えと人となりはよく了解できていた。母親はおしゃべりでたくさんのことを口にする人間だったが、それにはよくわからないものがあった。 コロナ禍の最中の病院が死の床となった父の最後の瞬間に、コロナ厳戒体制下で特例的に病室を入室を許され、末期を看取ることができた母に、アメリーが電話でその様子を聞こうとしても肝心なことは何も言わず、「おなかが空いた」、「犬の散歩に行かなきゃ」などとしか答えなった母。
1992年私が初の小説『Hygiène de l'assassin (殺人者の健康法)』を発表した時、父方の親族も母方の親族も大憤激した。私の作品を称賛していた両親のもとに、全親族総動員の罵詈雑言が寄せられた。彼らはこの由々しき問題を両親であるあなたがたが解決しなければならないと迫った。父はそれに答えて「私は娘の作品を高く評価するし、娘の表現の自由を制限することなどもってのほかだ」と言った。それに対して母の答えは私を仰天させた: 「あなたたちは『殺人者の健康法』がお好きでないの?それはわかりますよ、誰だって自分の家にカラヴァッジョがいたら困りますものね。」(p189)
この純愛ダニエルが、80年代小僧にしてはやや稀だったかもしれないことに、サイモン&ガーファンクルの信奉者であった。コレージュ生の弟ジェローム(15歳)はゴリゴリのハードロックファン(袖無しパッチGジャン派)であるのに。小説中にアルバム『サウンド・オブ・サイレンス』と『ブックエンズ』を厳かに拝聴するシーンあり。そして元カノのカティ・ムーリエを恋慕するばかりに、かの「キャシーの歌 Kathy's Song」(アルバム『サウンド・オブ・サイレンス』所収)に激しく自己投影して、これをアコースティック・ギター(フォークギターと言うべきか)で完コピしてカティ・ムーリエに捧げて歌いたいという野望を抱いている。お立ち会い、これ、私ら昭和期(1970年頃)高校フォーク小僧たちには、必修のスリー・フィンガー・ピッキング奏法教材だったのですよ。これと「四月になれば彼女は April come she will」の2曲は必修中の必修で、初心者でも耳で聞くほど難しいものではなくて短い練習で弾けるようになる。それが弾けるようになったら、どれだけ嬉しいか。人前で披露したくなるんだ、これが。難しいテクのように聞こえるけど実はそんなでもないんだよ。おっと、青春の思い出に浸ってしまったではないか。ごめんなさい。
そんななんやかんやをいっぱい詰め込んで、小説はバカロレア試験というクライマックスに向かって突き進む。"Ride on time" (Black Box) 、"Like a prayer"(Madonna) 、"Pump up the jam"(Technotronic)、”U can't touch this" (MC Hammer) .... 挿入される時のヒットチューンは18歳男子たちの焦燥と混沌によくマッチしている。若いという字は苦しい字に似てるわ。ファブリス・カロ小説のすべての主人公がそうであるように、このダニエルも押されると弱い。状況を目の前に立ち止まって負けそうになりながら、”受け入れる”タイプ。たとえそれがどんなに不条理なものであろうとも。カティ・ムーリエは想っても想っても、結局帰ってこないのだ。フェリシアン・リュバックはある日、家出の生活に耐えられず、ひょっこり姿を現してしまう。リゴー家の家庭教師問題やリゴー氏の不倫問題、リゴー夫人のエロい奇行問題は、どうでもいいことのように収拾されてしまう。 そしてバカロレア試験合格発表の日、リセの大掲示板に張り出された合格名簿を見に集まってくる男子女子の群衆のラッシュアワー状態の中で、彼らの青春時代は終わるのである。もうこれが終われば、二度と同じ階段教室のベンチで隣り合わせることもない若者たちの最後の瞬間を、彼らは歓声と涙とバッキャロー怒号を混ぜ合わせて、もう何も聞こえないのである。無重力状態最後の日々、これからは地面の上を歩かなければならない。さようならカティ・モーリエ。
Fabrice Caro "Les Derniers Jours de l'Apesanteur" Sygne/Gallimard刊 2025年8月14日 220ページ 20ユーロ
Pourtant それにしても Que la montagne est belle 山はなんて美しいんだ Comment peut-on s'imaginer つばめが飛んでいるのを見て En voyant un vol d'hirondelles 秋がやってきたんだ、なんて Que l'automne vient d'arriver? 誰が想像できるかね?
Leur vie, ils seront flics ou fonctionnaires 警察官になろうが公務員になろうが De quoi attendre sans s'en faire 彼らの生活は何の心配もなく Que l'heure de la retraite sonne 定年退職の時を待つのみ
Il faut savoir ce que l'on aime 人々の好むものに従い Et rentrer dans son HLM 公団住宅に帰ってホルモン漬けのチキンを Manger du poulet aux hormones 食べなければならないのさ
Pourtant それにひきかえ Que la montagne est belle なんて山は美しいんだ Comment peut-on s'imaginer つばめが飛んでいるのを見て En voyant un vol d'hirondelles 秋がやってきたんだ、なんて Que l'automne vient d'arriver? 誰が想像できるかね?
日本史上で言われている特定の政治思潮という意味ではなく、私はこの歌手は「労農派」という言葉が似合う人だと思う。その折目正しい歌い方、ビロードの美声、絶やさぬ笑顔。「はてしなき議論のあと”ヴ・ナロード(人民の中へ)!”と叫び出づるものなし」と嘆いた啄木に代わり、ジャン・フェラはパレ・デ・スポールのナロード(人民)の中に立った。しかし多くの非共産党系左派/左翼からは「スターリニスト」呼ばわりもされた。しかしフェラはその歌でも明らかなように党や指導者を愛しているのではない。そこにいる人々の味方なのである。誰にどう言われてもキューバを愛する歌”Cuba, si !(クーバ・シ)”を歌うのは、カストロを賛美するためではなく、その人民を愛しているからに他ならない。 音楽的にはジャン・フェラは変化の乏しい人で、レオ・フェレやセルジュ・ゲンズブールのように新しい音楽と交わることなどなかったが、シンプルで頑固な語り口を続けた点ではジョルジュ・ブラッサンスと共通するものがあろう。死期を察していたかのように2009年秋にリリースされた初のCD3枚組ベストは、何のプロモーションを要することなく数週間で30万セットを売り、2009年フランス盤CDの年間売上の3位となり関係者を驚かせた。