2020年1月31日金曜日

Mehr Licht (もっと光を)

Brigitte Fontaine "Terre Neuve"
ブリジット・フォンテーヌ『新天地』


そらくこれは遺作となろう。2016年10月(於サン・カトル 104)の2回コンサートのキャンセル以来、フォンテーヌの病状は悪いと伝えられていた。歌えなくなったフォンテーヌは書を綴っていた。闘病中に出版された3冊のうちのひとつ、30数ページの小冊子で、詩人アルチュール・ランボーへの一方的書簡のように書かれた詩エッセイ『転落と歓喜(Chute et ravissement)』(2017年5月)について、私は当時のオヴニー紙記事(2017年7月15日)の中でこう書いた。
無限には終わりがあり、永遠には果てがある。この悲報を告げにフォンテーヌはこの本を書いたのだろう。悲報を告知するのは詩人の役目だ。「無より無である無はない(rien n’est plus rien que rien)」。
あの頃、ネット上で「死亡説」もまま見られたが、私は本当にこの人は死ぬと思っていた。私はずっと前から(そんなに頻繁ではないが)テレビ、ラジオ、YouTubeなどでのこの人のトークショー出演やインタヴューが嫌いだった、と言うよりは見て(聞いて)られなかった。誰とも噛み合わない対話は、結局"笑いもの"にしかならなかった。低級ギャグにされてしまった。偉大な”詩人”を辱めている、と悲しくなった。
しかしフォンテーヌは死なず、新しいアルバムを作った。かなり緊急な作り方だ。くりかえすが、おそらくこれは遺作となるであろう。ゲーテの臨終の辞 "Mehr licht !(もっと光を!)"まで神妙に登場する(12曲め"Parlons d'autre chose")。制作の鍵を握る男はアレスキーではない。ギタリスト、ヤン・ペシャン。90年代のいわゆる "ヌーヴェル・セーヌ・フランセーズ(Nouvelle scène française)"の百戦錬磨の裏方ギタリスト。ミオセック、イジュラン、マリー=フランス、バシュングなどのレコーディングとツアーでプレイしていた。私がオーベルカンフ通りに事務所を持っていた頃、イニアテュスや(故)マチュー・バレーと二、三度遊びに来てくれたことがある(ヤンとの話は主にマリー=フランスのことで、日本にプロモしてくれよ、ということだったんだが、私は力不足で何もできなかった。マリー=フランスというアーチストは難しかったのよ)。フォンテーヌの緊急な新アルバムは、このヤン・ペシャンのノイジー&メタルな多重(もしくはループ)ギター音のアンビエントに、バシュングやノワール・デジールのサウンドエンジニアだったジャン・ラモートのさまざまなプログラミングが絡まり、その上にフォンテーヌのポエトリー・リーディング、歌、ヴォイス・パフォーマンスがかぶさる。フォンテーヌが60年代小劇場運動から出てきた頃の"サイケデリックな前衛"への回帰のような。ハードコアパンク再訪のような。なによりも老女詩人の声と言葉を聞かせるための装置のような。
第一曲めから今度のフォンテーヌはギリギリで崇高だ。

わたしはすべてである
わたしはすべての人たちと同じように
死ぬために生まれた
しかし
わたしはすべてである
すべてである者は死なない
すべてである者は生まれない
しかし人が生命と呼ぶもの
その生命は死に至る病いである
すべての人たちは生まれ
すべての人たちは死ぬ
この地球の上で
天文写真の暗闇の中で
光る埃の粒となって
わたしはすべてである
生きたことすら知ろうとしない
すべての人たちと同様なのか
わたしは知らないが
わたしは生きた
それには疑いの余地はない
そういうものなのだ
それほど怖いことはない
しがみつきさえすればいいのだ
そういうものなのだ
わたしはすべてである
そういうものなのだ
わたしはすべてである
("Le Tout pour le Tout" すべてのすべて)
2曲めはセルフカヴァーで、1969年サラヴァからシングル盤で発表した"Les Beaux Animaux(美しき獣たち)"で、詞フォンテーヌ/曲ジャック・イジュラン(2018年歿)。何を思ったのだろう。先に逝ってしまった同僚イジュランのことか、50年前の"前衛”のことか。
ああ美しい獣たち
石灰と鉄と煙の
私たちの森の中で
野放しで生きている

("Les Beaux Animaux" 美しい獣たち)
これは男性(男根)讃歌なのである。21世紀にこれを女性が歌うことには良俗人たちは抵抗しようが、フォンテーヌは知ったことではない。そしてその(セルフ)アンサーソングのように、11曲目(LPで考えると、前者がA面2曲目、これがB面2曲目。つまり両面で対照する重要曲)に"Vendetta(復讐)"という歌をもってくる(この曲はアルバムリリース前にプロモーションで最も使われていた曲である)。

男は殺し屋
男は殺し屋
おまんこの復讐
きんたまに死を
オスどもを串刺しにせよ
慈悲もデモも必要ない

議論はもうたくさん
武装闘争ばんざい
男どもを引き摺り下ろせ
やつらに死を、死を、死を!
("Vendetta"復讐)
#MeTooのウルトラ過激ヴァージョンであり、武装蜂起アジテーションであり、男どもへの宣戦布告である。この両極端の二つの男性観が同じ老女の口から迸り出るのであり、それがブリジット・フォンテーヌなのだ。なぜならフォンテーヌは「すべて」なのだから。
そして、この5分1秒の戦闘歌の直後に、おどけたわらべ歌風のアカペラで26秒間のおまけをフォンテーヌは歌うのである。
女歌手がうまく歌ったら
女歌手がうまく歌ったら
男たちはみんな
男たちはみんな
男たちはみんな
彼女にキスしていいのよ
(エフェクトで何度も何度も接吻音)
お笑いのオチを添えるのだ。単純な芸ではない。
 アルバムにもう1曲セルフ・カヴァーがあり、8曲目の"Ragilia"は1974年のブリジット・フォンテーム+アレスキー・ベルカセム名義のアルバム『火事(L'Incendie)』に収められていた歌で詞フォンテーヌ/曲アレスキー。この新アルバムでちゃんとメロディーを歌っている数少ないトラックのひとつ。オリジナルはボロ人形のように捨てられた少女の(自伝的)恨み節であるが、80歳の老女のヴァージョンはその恨みがどれほど増長されるか、という試みのようだ。2001年にアルバム"Kekeland"で共演したソニック・ユースはいい影響をフォンテーヌに残した、と思わせる後半のノイズ。
 アレスキーはこの新アルバムでも作曲で参加しているが、中でも最重要はアルバムタイトル曲の"Terre Neuve(新天地)"(12曲目)と、とりわけフォンテーヌ辞世の歌のような"Parlons d'autre chose(他のことを話そう)"。

だけど、ほかのことを話そうよ
だけど、ほかのことを話そうよ
おぞましいのは濃い青色の空

わたしはまだ生きているのに
ずいぶん前からわたしは
はやい時間に床につくようになった
わたしはパリで死ぬだろう
Mehr Licht (もっと光を)
だけど、ほかのことを話そうよ
もう遅い時間だから
わたしはデスノス、おまえのことを思う
コンピエーニュから身を起こし
サン・トーバン・シュル・メールの墓に

眠っているが
わたしはその墓を知らない
だけど、ほかのことを話そうよ

牝牛たちは眠れない
芸術音楽はわたしたちの欲望には物足りない
決められたプロトコールは
フランス大使夫人とわたしたちが
ダンスを交わすことを要求する
おお、繊細な微笑みの顔合わせ
だけど、ほかのことを話そうよ
("Parlons d'autre chose"ほかのことを話そう)
死の床での入り乱れる思念、何を語ればいいのか、あれもこれも違う、他のことを話そう、もっと光を。こんな悲しい歌、そうそうあるものではない。三度くりかえすことになるが、このアルバムは遺作になるだろう。

<<< トラックリスト >>>
1. LE TOUT POUR LE TOUT
2. LES BEAUX ANIMAUX
3. J'IRAI PAS
4. JE VOUS DETESTE
5. CHRYSLER
6. HAUTE SECURITE
7. BREAK 1
8. RAGILIA
9. GOD GO TO HELL
10. BLUES KENAVO
11. TERRE NEUVE
12. BREAK 2
13. HERMAPHRODITE
14. BREAK 3
15. PARLONS D'AUTRE CHOSE
16. BREAK 4

BRIGITTE FONTAINE "TERRE NEUVE"
VERYCORDS CD/LP/DIGITAL

フランスでのリリース:2020年1月24日

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)新アルバム『新天地』のプロモ、カルチャー誌 GONZAI のための寝っ転がりインタヴュー。

 

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