『モン・ロワ』
"Mon Roi"
2014年フランス映画
監督:マイウェン
主演:ヴァンサン・カセル、エマニュエル・ベルコ(2015年カンヌ映画祭・主演女優賞)、ルイ・ギャレル
フランス公開:2015年10月21日
まずタイトルである「王(roi)」ということを考えてみました。フランスは王がいない国になって150年近くになります。最後の王は第二帝政のナポレオン三世で1871年の第三共和制の成立によって失座しています。それ以来フランス人は王を知らないのです。隣国ベルギー、スペイン、英国、オランダ、ルクセンブルク、モナコ... などと事情が違う。たとえ立憲王制で、議会が国政を司っていても、平民じゃない人をその上に座らせておいている。この得体の知れない存在が王です。それが隣国諸王国では具体的な身体を持った存在です。フランスはそれをもう150年近くも知らないのです。王というのはフランス人にとってもう何ら具体性のない、おとぎ話なのです。絵本の世界なのです。話を日本のことにしますと、2015年の今日、大変な問題であるかの悪法が国会で成立する前に、一部の人々は、常々平和主義的な慈悲深いお言葉を垂れる平成天皇がこの悪法に関してひとこと言えば事態はおおいに変わるはずだ、と天皇発言を真剣に待望していたはずです。権力はなくても「ひとクラス上」のなにかを発揮できるものという漠然とした期待があったのではないでしょうか。
得体の知れないひとクラス上、今先進国中の王国(日本も含めて)の王はそういうものです。ところがそれを忘れて久しいフランスでは、この「ひとクラス上」の感覚も忘れてしまっているような気がします。人権宣言の国ですから。人間はみんな平等ですから。
さて前作『ポリス』(2011年)を大絶賛した(拙ブログ記事『警察は一体何をしているんだ』)私ですから、本当に待ちかねていたマイウェンの新作(長編映画第4作め)です。残酷で凄絶な恋愛映画です。2時間胸がキリキリ痛む映画です。
これは2015年のカンヌ映画祭で初上映され、エマニュエル・ベルコが主演女優賞を受けました。そのベルコは同じ映画祭で監督として『こうべを高く(LA TETE HAUTE)』(拙ブログ記事『こうべを高く』)をオープニング作品として上映していて、2015年カンヌはベルコが目立った年として記憶されそうです。
世に少ない数でしょうが、イイ男はいます。見栄えも良く、金もあり、ある分野で才能があり、インテリで、ソフトで話術が巧みで、必殺の魅惑視線、そして性が強い。こういう条件が揃えば当然ナルシスティックな男です。みずから「ひとクラス上」感覚が身についちゃっています。この絵に描いたような優男がヴァンサン・カセル演じるところのジョルジオです。風流人で、グルメ通・ワイン通・遊び通(個人プレー/団体プレー両方いけます)です。その上友人たちから信望も厚く、女性たちからはもちろん...。それに対して、トニー(男名前の愛称ですが、女性です。エマニュエル・ベルコ演)はどう見てもフツーっぽいのです。弁護士というハイクラスな仕事をする「できる女」でありながら、どこか花がない。控えめな30代女性として登場します。目立つプレイボーイのジョルジオのことは前から知っていたけれど、ジョルジオがわたしのことを覚えているわけがない、という先入観。ところが覚えているんですよ。「忘れるわけないさ、トニーなんていう名前の女」ー うまいなぁ。このシーンのためにマイウェンはこの名前考えついたのかもしれないですね。
トニーの弟のソラル(ルイ・ギャレル)とそのフィアンセのベベット(イスリッド・ル・ベスコ = マイウェンの妹)と3人で来ていたナイトクラブでジョルジオと出会った(正確には再会した)その早朝、ジョルジオは3人を自宅に朝食に招待します。ジャガーを乗り回し、100平米のフラットにひとりで住むこの男は、広々としたキッチンで本グルメのプチ・デジュネを用意して出すのです。クール!
ジョルジオの誘惑の手は早くてスマート。トニーに「また会えるかい?」と誘うやいなや、連絡方法はこれ使ってくれと自分の携帯電話(時代設定が10年前だからスマホではなくて、手のひらにすっぽり入るサイズのずんぐりむっくりケータイ)をポーンと投げ出す。それをトニーは見事にナイスキャッチ。あたかも相手のハートをキャッチしてしまったかのように。 ー マイウェン映画はこれがいかにカッコいいことかを証明するように、その場にいた弟ソラルに同じことをさせるのですが、ソラルがバベットに投げたケータイはキャッチに失敗して地面に落ちてグジャっと壊れてしまうのです。ソラルは自問します「なんであいつにはできて、俺にはできないんだ?」ー それがひとクラス上ということなのです。
しかしトニーには不安とコンプレックスがあります。このイイ男は私には不釣り合いである。なぜ私のようなフツーの女に接近してくるのか。これは真剣なことではない。しかしあれよあれよと言う間に二人は惹き合い惹かれ合い、初めてベッドを共にすることになります。情熱的な行為のあと(マイウェン映画ならではの直接的でハードコアなダイアローグです)、トニーはこう聞きます「私のあそこガバガバでしょ?」ー これは世の男の「俺のものは小さい」と同じものでしょう。これは象徴的かつ具体的なコンプレックスで、自分は人より良くないんじゃないか、うまくできないんじゃないか、ひとクラス下なのではないか、ということなのです。ジョルジオは「一体誰がそんなこと言ったんだ?」と執拗に問いつめ、トニーが前の男だと告白すると、ジョルジオはその男の極小チンコを笑いものにし、そいつは connard (コナール:スタンダード仏和辞典の訳ではばか者、まぬけ)だと言うのです。
トニー:T'es pas un connard, toi ?(あなたはばかじゃないの?)と、確信的な王様宣言をするのです。これは状況として冗談のように発言されているけれども、実は冗談ではなくなってしまうというのが、この映画の進行です。
ジョルジオ:Non moi je suis le roi, le roi des connards (いいや、俺は王だ、ばか者どもの王様だ)
そしてこの最初の愛情交わりの夜に、ジョルジオはトニーに Je t'aime と言ってしまうのです。なんて早い!早すぎる!(言っときますけどね、Je t'aimeは一般に日本の人たちが想っているよりも百倍も千倍も重い言葉なのです。生死をかけて発語しなければならない言葉です。むやみやたらと使ってはいけない。とどめで必殺という機会でないといけない。その代わりそれが外れたら、自死も覚悟しなければならない、そういう言葉なのです。歌の文句のように思われたら困るんです)ー これが王のやり方だというのがだんだんわかってきます。
二人は愛し合い、最高に幸福な瞬間瞬間があります。これはウソではない。そしてトニーが妊娠します。ジョルジオの喜びようは、茶々懐妊のしらせを受けた秀吉のよう(と言ってもフランス人にはわかるまい)。二人は結婚し、その数ヶ月後には愛し合うパパとママに祝福されてベビーが誕生することになっていた ー と見えるのですが、映画ですから、事件は起こります。ジョルジオの前の恋人だったアニエス(演クリステル・サン=ルイ・オーギュスタン)が自殺を図ります。このアニエスは第一線のマヌカンとして鳴らしたほどの美貌の持主ですが、激しい気性の持主で、4年間ジョルジオとつきあって別れたということになっています。ジョルジオは自死に至るまで心を病んでいたアニエスを放っておけないと、未遂事件後ひんぱんにアニエスを見舞うようになります。トニーは妊娠という大切な時期に、たとえ病んでいるとは言え元恋人のために出かけていくジョルジオに不信感が募って行きます。ジョルジオは「アニエスに会うのはもうこれが最後だから」というウソを連発します。
俺は誰にも邪魔されずに仕事したい、誰にも邪魔されずに自由に遊びたい、きみも自由でいてほしい、というよくある身勝手な男の「自由尊重」理屈で別居婚を提案し、アパルトマンを用意してトニーと未来の子供を住まわせようとします。
王国はこうやって徐々に出来上がっていくのです。王が自由に仕事し、自由に遊び、好きな時に妻と子供を愛することができる。トニーはこれを受け入れません。王のルールに従うこと、服従することを拒否してトニーは不幸になります。
こう書くとジョルジオがマッチョな暴君に変身したように取られるかもしれませんが、映画はそんな単純な描写はしません。理屈はどうあれ、ジョルジオはイイ男であり続け、魅力的であり、トニーを(自分の理屈でという条件つきですが)真剣に愛していて、必死になって繋ぎ止めようとするのです。 この魅力は抗しがたい。だから妊娠後に二人の関係が一直線に冷え込んでいくかというとそうではない。大きな波のように上昇したり下降したりするのです。映画は臨月近い大きなお腹をしたトニー(たぶん特撮なしの生身演技。裸。)とジョルジオの幸福そうな性交シーンまで映し出します。
ドラマは出産後にも起こります。この男児はジョルジオの発案であるかのように、ジョルジオによって「シンバッド」と命名されます。かの千夜一夜物語の船乗りの名前(日本ではシンドバッドか)です。勇壮でいい名前だろう、とジョルジオはこの名前がことの他お気に入りです。しかし後日、この名前の本当の発案者、つまり名付けの親はあのアニエスであることを知るのです。 ー 私の知らぬところで、勝手に、勝手にシンバッド!
映画の始まりはその10年後です。10歳になったシンバッドと母親トニーがスキーに出かけ、山の頂上からトニーは(明らかに自殺衝動で)盲目的に直滑降し、膝関節を破壊する大けがを負います。手術のあと、再び正常な歩行ができるように、海辺にある大きなリハビリセンターに入院します。映画はトニーがこのリハビリ訓練を受けながら、痛く、苦しい思いをしている最中にこの10年間を回想する、という形式で展開します。出会い、激愛、諍い〜和解〜より深い諍い〜和解〜よりより深い諍い〜和解...、出産、諍い、離婚... トニーはボロボロなのですが、それはこの王の呪縛から逃れようとすればするほど、地獄に落ちていく、という日々でした。
ジョルジオはいい父親なのです。シンバッドにとって本当にいいパパなのです。これほど素晴らしい父親は世の中にいるだろうか、というシーンが何度かあります。シンバッドも父親を世界一だと思っているに違いありません。
リハビリの苦痛の中で、トニーは少しずつ「生への回帰」の希望を取り戻していきます。この時にこのセンターの中で知り合った若者たち(郊外あんちゃんたち。アラブ、ブラック、メティス...)との交流が、マイウェン一流の救いある笑いのシーンとなっています。うまい挿入部です。
映画の終わりはリハビリが終って、生活に復帰したトニーが、シンバッドの学校から両親呼び出され、担当教師たちとシンバッドのその学期の成績評価などをする面談するシーンです。先に教師たちの前に着いていたトニーと面談が始まった直後に、ジョルジオが入ってきます。改めて教師たちが、シンバッドの評価を二人の前で始めますが、前期に比べてあの点が良くなった、この点が向上した、と良いことずくめ。それを涙も流さんばかりに感動&満足して聞いているジョルジオを、トニーはじっと見つめています。そういう終り方です。
この王は良い王に違いない。そう思わせますが、王を認めてしまったら私はどうなるのか。その地獄の繰り返しの果てに、トニーはやはりふっと柔和な視線でジョルジオを見てしまう。女性たちのご意見を聞きたいです。私はこの「ひとクラス上」は認めてはならないのだ、という意見です。魅力と権威に服従してはならない。飛躍と思われましょうが、政治的な意味においてもこれは認めてはなりません。 しかし...。しかしが残る映画です。すばらしいと思います。
カストール爺の採点:★★★★★
(↓)『モン・ロワ』予告編
4 件のコメント:
本作、一昨年東京のフランス映画祭にて鑑賞しました。
マイウェンの作品は『Polisse』はとくに、私も大好きです。映画として地味にはなりますが、現代人の深層心理や行動の確信的な部分に目をつけ、映像として表現できる稀有な感性の持ち主だと思います。
30前後の女として、この映画は色んな意味で強烈でした。他人事とは思えず、ただただ苦しかったです。
男女の関係に於いて、「私にはもったいない相手」「なんで私なんかと…」という相手を崇めたゆえの劣等感を抱いた瞬間、女は醜くなり、愛されるものも愛されなくなります。女が苦しい立場に置かれること間違いなしの”あまり好ましくないない”関係性です。(「2番目に好きな人と結婚した方がうまくいく」などという出所不明の格言も、ある意味納得させられます。)そんなことは分かっていても恋は女を盲目にしますから、トニーはその”あまり好ましくない運命”を背負っていくことになりました。
口がうまい、元カノと深い絆、別宅をつくる、薬を絶てない、不在がちかと思いきや忽然と現れ愛してるなどほざく、恐喝まがいの発言まで…完全にアウトです。女/妻から旦那に対して、という表現が適切かと。この<軽蔑>という感情、なかなか男性には理解できないかと思います。ゴダールの同名作品の中のふくれっ面のバルドーのように、口では巧く伝えられない複雑なものです。表裏一体の「愛」があってこその感情なので、なかなか複雑で厄介な感情です。
いっそのことこのまま嫌いになって完全に別れてしまえば楽なのですが、ここで出てくるのが<母性>です。どうしようもない(元)夫ですが、どうしても捨てられない。どうしようもないからこそ私が側で支えなくては、という母親的愛情が彼に対して生まれてしまうのは長く付き合った代償でしょうか。映画後半の疲れ切ったトニーの表情からは、入り乱れた<軽蔑>と<母性>を感じとりました。ラスト、彼を見つめる彼女の顔は、地上の王様をさらに「ひとクラス上」から眺める聖母マリアの微笑みのように思えました。
猛獣であり、子供であり、父であり、男であり、元夫であり、理解者であり、パートナーであり、天敵であり、ライバルであり、運命の人。あなたは私の永遠の王です、これまでもこれからも。
自分と重ねてついつい熱くなってしまいました…;
長々と失礼いたしました。
田中めぐみさん、連日のコメントありがとうございます。大変励みになります。
この映画の文法として、最初のトニーの(スキー)自殺未遂から、トニーの生への帰還という大きな流れがあります。その帰還の過程としてセラピーのように過去の捨てるべきところと取っておくべきところを難産ながらも一つ一つ落としていく。それは非常に混然としていて白黒の判断などとてもできない。しかしそれを出し切らないと出口はない。映画はこれを残酷な出口なしのラヴストーリーとするのではなく、出口を与えて終わらせている。さもなければ生への帰還もない。この凄惨なダイナミズムがこの映画の救済だと思っています。
マイウェンの次作は、レイラ・スリマニ『やさしい歌(Chanson Douce)』(2016年ゴンクール賞)の映画化です(どこまで進んでいるのかわかりませんが、2018年制作予定です)。ベテランのベビーシッターによる幼児殺害事件がテーマの原作も強烈な小説です。映画公開前に読まれたら、映画への期待が倍化すると思いますので、ぜひ。
またお越しください。
お返事ありがとうございます。確かに。映画全体の流れは、生に向かうセラピーのようでしたね。男があまりに前の男に似ていたもので…;すっかりトニーの心情にばかり感情移入してしまいました。
『やさしい歌』が映画化されるのは知っていましたが、まさかマイウェンだとは!ますます楽しみになりました。完成が待ち遠しいです。
レイラ・スリマニに関して、先日モロッコの売春婦を描いた『Much Loved(2015)』を観たこともあり『セックスと嘘』が気になっています。ですが私のフランス語はまだ本を一冊完読できるほどのレベルではないので、これを機会により頑張ってみようかなと思っております。
田中めぐみさん、ありがとうございます。
レイラ・スリマニの2016年ゴンクール賞作品『やさしい歌』はまだ日本語訳はないようですが、拙ブログに紹介記事があります。ご参考になれば幸いです。
http://pepecastor.blogspot.fr/2016/11/blog-post_26.html
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