2015年4月21日火曜日

恋人たちの死

Babx と書いて「バビックス」と読む。1981年パリ生れ。本名ダヴィッド・ババン。母親がピアニストで音楽学者。ダヴィッドは母親からピアノを教わるだけでなく、母親を通してその共演者であったパキスタンのスーフィズム音楽カッワーリーの大歌手ヌスラット・ファテ・アリ・カーン(1948-1997)との出会いを果たしている。その上、祖父が楽団指揮者、義理の父が映画舞台装飾家であったり、アーティスティックな環境で育ったカエルの子である。
 17歳で学校をやめ、厳格なクラシック音楽教育に背を向けて、ラップ/ヒップホップ、インダストリアル・ロック、コンテンポラリー・ジャズを聞きまくり、「グローブ・トロッターズ」と名乗るワールド系ポリフォニーグループに参加してアーティストデビューしている。「音楽は反抗である」などと悟ってしまう20歳の時にレオ・フェレ(1916-1993)の音楽と邂逅(そのレコードは『レオ・フェレ 1969』ボビノ座ライヴ録音盤)し、電撃的なショックを受けている。
このフェレがバビックスの心の師となるのだが、ランボー、ボードレール、アポリネール、アラゴンといった詩人の作品にもフェレの曲を通して心酔していく。おそらくこのフェレ体験が、今度の新しいアルバム『クリスタル・オートマティック』(ランボー、ボードレール、ジャック・ケルーアック、エメ・セゼール、ジャン・ジュネ、ジャック・プレヴェール等の詩にバビックスが曲をつけた作品)の直接のインスピレーションとなっているようだ。フェレの影響とフェレへの敬意は、まだ自分のファーストアルバムも出ていない2004年に、レオ・フェレが1940年代にその初期作品を録音したスタジオ Studio Pigalle を買い取って修理復元再稼働させたということにも顕著であり、このスタジオの中でフェレの霊の震えを感じながら、バビックスのファーストアルバム『バビックス』(2006年 Warner Music)は制作された。
 現在までアルバムは3枚、トム・ウェイツ、アラン・バシュング、レオ・フェレなどと比較される黒い叙情性とダンディズムと精緻な音楽性を評価され、一方、その録音スタジオ環境を使ってプロデューサー/作編曲/作詞家としてカメリア・ジョルダナ、ジュリアン・ドレ、ポニ・オアックス、"L"(ラファエル・ラナデール)などと仕事している。どちらかと言うと後者の影の仕事の方が良く知られていて、言わば「新世代のバンジャマン・ビオレー」のような捉え方をされているようだ。
 バビックスとは4月14日、デュパンのコンサート(於:ステュディオ・ド・レルミタージュ) の時に、ビュダ・ミュージックのジル・フリュショーから紹介されて初対面。「影の大物」のことは前々から気にかけていたので、その突然の出会いに「ご高名はかねがねと...」とかしこまって挨拶すべきところだったのだろうが、目の前にいる気さくそうな青年の笑顔に、一挙にガードが下がって...。今度出る新しいアルバム(6月発売予定)について、ぜひ一緒に「仕事」ができれば、と。「仕事」と言っても私の場合は、雑誌にもの書いたり、業者に情報流したり、という程度のものだけど、そんなんでよければ。"Cool, je compte sur toi"(クール!あてにしてるよ)なんて言われると、"Tu peux compter sur moi"(まかしとき)と答えてしまう私だった。
 私はたしかに惚れっぽいタチではあり、出会ったアーティストたちはそれぞれにそこから放射するヴァイブレーションがあって、簡単にこの才能にはなんとかしてあげたいものだと思ってしまう傾向があるが、バビックスの波長はすごい。すごくでかくて鋭いものを感じた。これ大切ですよ。みんながそう感知するわけではないのだから。
 新しいアルバムの音はまだもらっていない。上に書いたように、ランボー、ボードレール、ジュネ、ケルーアックなどの詩を音楽化したもので、アルバムタイトルの『クリスタル・オートマティック』は、マルチニック島出身のネグリチュード詩人エメ・セゼール(1913-2008) の詩。ランボー、ボードレール、アラゴンなどを歌うのは、ジョルジュ・ブラッサッス、レオ・フェレ、ジャン・フェラ、バルバラ、カトリーヌ・ソヴァージュなど「大」シャンソンパフォーマー、あるいは左岸(リヴ・ゴーシュ)の文芸シャンソン派。私はどれもあまり好きではない。詩とは言葉と音韻の総合であり、詩はすでに音楽である。この点で音楽である詩にさらに音楽をつけるというのは、大変なリスクであり、中途半端な音楽では詩が絶対に堪えられないはずなのである。私は多くを知らないが、70年代80年代に日本のフォーク系の人たちが「中原中也を歌う」だの「富永太郎を歌う」だのそういう試みをしたのだが、本当に堪えられないものだった。だからバビックスのこの企図も相当なリスクを覚悟の上だろう。
 今現在、ウェブ上でバビックスのこの新アルバムの試みが垣間みれるのは、ランボーの「絞首刑者たちの舞踏会("Le bal des pendus"、中原中也訳では「首吊人等の踊り」)」と、ボードレールの「恋人たちの死("La morts des amants")」(詩集『悪の華』の一篇)の2曲だけである。後者はレオ・フォレも曲をつけて歌っているが、その前にクロード・ドビュッシー(1862-1918)も歌曲化している。では、僭越ながらボードレールの「恋人たちの死」の向風三郎訳を試みる。

私たち二人にはほのかな匂いにつつまれた寝床
墓穴のように深い寝椅子
棚の上には不思議な花々が
この上なく美しい空の下で私たちのために咲き誇る

私たちの二つの心は競ってその最後の熱を使い果たそうとする
二つの巨大な松明となる
私たちの二つの魂の中で、二つの光を反映して向かい合う
一対の鏡となる

宵は神秘のバラ色と青から成り
私たち二人はただひとつの閃光を交わし合う
別れの言葉が詰められた、最後の長い嗚咽のごとく

そしてしばらくののち天使が扉を開き
恭しくも楽しげに、曇った二つの鏡と死に絶えた二つの炎を
再び燃え上がらせに来るだろう

(シャルル・ボードレール「恋人たちの死」)

 エクスタシーはひとつの死である。死ぬほどの恍惚のあとに来るもの、それが音楽になるのだと思う。バビックスの解釈による「恋人たちの死」が(↓)です。音楽になるのは詩のあとだという展開。象徴的。これでアルバムがとても楽しみになったのですよ。



 


2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんにちは。UBUPEREです。chanson litterareは健在ですね。しかもフェレの精神が脈々と息づいている。La morts des amantsがフェレ以外でも聴けるとは...すばらしい!

Pere Castor さんのコメント...

Ubu pèreさん、コメントありがとうございました。アルバムは6月リリースですが、私家限定版(豪華な作りで300部限定)が出て、高価にも関わらずつい手が出てしまいました。満員のメゾン・ド・ラ・ポエジーでのお披露目コンサートは、ランボー、ボードレール、ジュネ、アルトー、ケルーアック、エメ・セゼールなどの高踏的な演目でしたが、オーディエンスからはブラボー、ブラボーの連続で、これはエリート的な世界かなぁ、と呆気に取られることしばし。もうちょっと地上に降りてきて欲しいというのが、正直な印象でした。