ファブリス・アンベール『エデン・ユトピー』
題名は文字通り「エデン」と「ユトピー」というこの世にない二つのものです。この二つの単語をスタンダード仏和辞典で調べると次のような説明があります。
éden [eden] n.m. 1. (jardin de) l'E〜 【聖】エデンの園。2. 楽園。
utopie[ytɔpie] 〈Utopia,トマス・モーアの小説〉n.f. 1. l'U〜 ユートピア、理想国。l'U〜 de Fénelon フェヌロンの描くユートピア。2. 理想境;夢みたいな計画。Le désarmement total est-il une 〜?軍備の全廃は夢物語か?
絵空事とわかっていながら、いつの世も私たちのような世俗の民は惹かれてきましたし、瞬時でも良いからその現出の場に立ち会ってみたいものだと思っていました。遠くから見ているだけではなく、ある日理想の社会というヴィジョンに突き動かされ、心も体もそれを目指して動くようになったりします。若い日に、どんな種類でもいい、そういう運動に多少なりとも関わった人たちは少なくないでしょう。もちろん私もその一人です。で、そのあと、なぜそれから遠ざかったのか覚えてますか?個々人の差はありましょうけど、大体が「夢から醒めて現実へ」のような苦いリアリズムであり、「現実に喰っていかなければならない」ことを受け入れることだったのではないでしょうか。70年代では「日和る」だの「挫折」だのとネガティブに言われたものですけど、あの時「現実を受け入れる」という「立ち止まり」をしなかったら、言い換えれば世界と自分との平衡感覚を修正するということをしなかったら、あなたの今はどうなっているかということを想像したことがありますか? ー 最初からこの小説の主題を提示しておきます。それは131ページめに書かれている一行です。
Il me semble qu'il existe un problème assez net dans la vie : comment sortir de l'imaginaire ?
私には人生においてかなりはっきりしたひとつの問題があると思われる:それはいかにして想像界から抜け出すかだ。
小説『エデン・ユトピー』 は20世紀に生きた二つの家系の史実に基づいたクロノロジーです。作者ファブリス・アンベールもその一方の家系の第三世代として実名で登場し、この作者が双方の家系の人々に取材を取って、このフィクションを排した壮大なる現代史のリアリティーを裏付けています。作者は気が利いていて、冒頭ページにこの二つの簡略家系図を載せていて、私のように名前を一度では覚えられない外国人中高年読者にはたいへん重宝です。
さて出発点はいとこ同士の二人の女性、マドレーヌ(作者の祖母に当たります)とサラです。1910年代に生を受けた二人は家庭の事情で姉妹同様に育てられ、生涯を通じての親交を続けていきますが、まさに出発点が違うのです。労働者家系とブルジョワ家系です。マドレーヌは教育も物質も足りない環境で育ち、最初の結婚も恵まれないもので、家を出るために最初にあてがわれた男と18歳で結婚しました。夫のガブリエルはアル中で乱暴者で、家には金がほとんどなかったが、1934年に夫が肺結核で急死してしまい、幼い3人の子供をすべて里子に出して、自分は働き詰めに働き詰めに働かなければなります。それに引き替え、サラの方は、戦争でいささか勢力を失ったとは言えブルジョワでエンジニアのアンドレ・クートリと結婚し、クートリはやがて電気会社の社長として成功し、インテリで人望も厚い夫のおかげで、サラは名士の夫人として、一児(娘、ミッシェル)の母として裕福・平穏な日々を送ります。この二つの家系がどう変遷していくかの年代記です。これを作者は、文中で自然主義文学の祖エミール・ゾラ(1840-1902)の20巻におよぶ大作『ルーゴン・マッカール叢書』(第二帝政下の二つの家系ルーゴン家とマッカール家に関係を持つ全社会階層の人物1200人が登場するゾラのライフワーク作)をリファレンスとして出します。両者にあって「貧」と「富」、「不幸」と「幸」は交錯し、時勢や事件の中で流転するわけですが、長さはともかくとしてアンベールのこの小説もスケールの大きな時代絵巻を感じさせます。
第二次大戦が終わり、レジスタンスとして戦い功績をなしたアンドレ・クートリが中心になって、パリ郊外クラマールに、プロテスタント信者の共同施設「ラ・フラテルニテ」(友愛)が建設されます。戦後のものがなかった時代に、資金は有志のカンパで、設計図面はエンジニアの心得のあるクートリ自らが引き、多くの人たちの手作業で木材、レンガ、セメントで何日もかけてこの建物は形になっていきます。集会場、宿泊施設、図書館、教室などを備えたこの建物は、 パリの南西郊外のプロテスタント信徒たちが集うコミュニティー・ハウスになります。
フランスにおいてプロテスタントはマイノリティーの宗教です。信者数ではカトリック、イスラムに次いで3番目で、ユダヤ教徒よりは多いものの、全人口の2%ほどと言われています。他の3宗教に比べれば、メディアでの発言の機会も少ない。しかしプロテスタントはこの国で中世から弾圧と虐殺の歴史を体験してきましたし、フランス大革命、次いで20世紀初頭の政教分離を経てやっとフランスのプロテスタントはその信仰の自由を勝ち得たという経緯があります。20世紀末になって、プロテスタント者が二人フランス首相になりました。共に社会党員で、ひとりはミッシェル・ロカール(在位1988-1991)、もうひとりはリオネル・ジョスパン(在位1998-2002)で、少年時代にこのクラマールのプロテスタント・コミュニティー「ラ・フラテルニテ」で教育を受けています。「ラ・フラテルニテ」の創設メンバーのひとりにジョスパン家の人間(ダニエル・ジョスパン)がいたのです。小説の中では、少年リオネルは利かん坊で、牧師クリスチアン・ベラル(後にサラとアンドレ・クートリの娘ミッシェルと結婚する)の買ったばかりの自動車(シムカ)を盗んで(もちろん無免許で)乗り回し、捕まってベラルの大いなる平手打ちを喰らう、というエピソードがあります。
創設メンバーはクートリ、ジョスパンの他にもう一人エマニュエル・ロッシュフォールという3人でしたが、政治的にはこの3人は異なっていて、クートリはド・ゴール派、ジョスパンは大戦中「コンバ」派レジスタンスに参加し戦後は無党派、ロッシュフォールは共産党員でした。しかしこの違いを越えて、「ラ・フラテルニテ」は文化・教育・精神の相互互助の場たるプロテスタント共同体として見事に機能して、会員を増やして発展していきます。ある種のユートピアだったかもしれません。それは一重に精神的リーダー、アンドレ・クートリの人徳と教養と良きブルジョワの懐の厚さによるものだったと言えます。 ですから、クートリが1977年に亡くなってから「ラ・フラテルニテ」は見る影もなくなります。
マドレーヌもこの「フラテルニテ」のメンバーです。
そのマドレーヌが再婚した相手アンドレ・メスレもアル中で労働者(電気工)でしたが、経済的な問題は多々あっても、勤勉で人の良い男で、マドレーヌは仕事を続けながらも前夫よりは波風のない日々を送るようになり、アンドレとの間に娘ダニエル(作者ファブリス・アンベールの母)と息子ジャン=ピエールの二児をもうけます。
(全部書いてるときりがなくなるのではしょります)
大きな変動は二つの家系ともそれぞれの「娘」から始まります。
アンドレ・クートリとサラの娘ミッシェルは、「ラ・フラテルニテ」のあるクラマールのプロテスタント寺院の牧師の息子で、自らも牧師の教育を受けたクリスチアン・ベラルと結婚します。このベビーブーマー世代(日本でいう団塊の世代)は、親の世代のすべてに反抗することでその存在理由を証明してきたようなところがありますが、まず、誰もがうすうすと期待していた「ラ・フラテルニテ」の後継ということを二人はきっぱり断り、「ラ・フラテルニテ」とも疎遠になっていきます。そして68年5月革命への積極的な参加です。この時、二人には幼い4人の子供たちがいたのですが、子供を集会やデモに連れて行ったり、大音量の音楽を聞いたり...。ブルジョワ家庭は60年代的に退廃していきます。
アンドレ・メスレとマドレーヌの娘ダニエルは、労働者階級と貧乏から抜け出す、ということが小さい頃からの夢でした。長身で目立つ美貌の少女は勉学でこつこつ自分の足場を固めていくことなど興味がなく、モデルや映画のキャスティングに応募するような...。就職しても、仕事よりも職場で男性上司にチヤホヤされるのが得意なような...。就職したのはルノー公団で、27歳の時、婚約して結婚式まであと間近という時期に、ルノーに出入りしている法律家と電撃的な恋に落ちて、駆け落ち同然の状態でその男と暮らし始めます。それが作者の父親モーリス・アンベールです。結婚して男児ファブリスをもうけますが、美貌の母親の上昇志向は満たされず、ルノー公団の重役のひとりピエール・エールセンに鞍替えします。エールセンは81年の社会党ミッテラン大統領誕生以来、経済界に多く進出していった社会党に近い経営人たちのひとりで、ルノー(自動車)、アバス(広告)などを経て、フランスの国内航空会社エール・アンテール(1997年にエール・フランスに吸収された)の社長にまでなっています。そして本文中にもその模様が出てきますが、サン・トロペに巨大な別荘を持ち、隣りの古代劇場を使って毎夏開催されるラマチュエル演劇祭の筆頭庇護(資金寄贈)者になっているので、その別荘で毎夏演劇・映画・芸能界のスターたちが集まる大パーティーが開かれます。そういう派手なシーンでひときわ映える社長夫人の姿がダニエルには似合うのです。なにしろず〜っと夢見て来たんですから。同時そこには、私たちの目には「ミッテラン以来」ず〜っと労働者階級を裏切って成功していく左派ブルジョワの姿もあります。
貧しい労働者階級から出たマドレーヌの家系の2代あとが左派ブルジョワの頂点に昇ってしまう、というひとつの軌跡があります。
ブルジョワ階級から出たサラの家系はその全く逆に向かうのです。貧乏になるというわけではありません。現実のヴィジョンとはずれた想像界に入っていくのです。
68年5月革命で夢を見たミッシェルとクリスチアンの夫婦の4人の子供たちは、自分たちの親がその親を超越しようと反抗したように、上の世代よりももっと過激な闘争に入り、革命を実現しようとします。特に三女のエリーズは、クラシック・ピアノの得意な典型的なブルジョワお嬢さんから、テロ組織「アクション・ディレクト」のメンバーとなってテロ襲撃事件に関与していくのです。
本書の後半はこの「鉛の時代」と呼ばれる1970〜80年代のヨーロッパの極左グループによる爆弾、誘拐、殺人、強盗襲撃などの直接行動についての記述が多くなります。ジャン=ジャック・ゴールドマンの兄で暗殺された極左活動家ピエール・ゴールドマンに関する記述もあります。私たちはここで、どうしても21世紀に起こっているイスラム過激派のテロ行動とパラレルなものを見てしまいます。今日もジハード渡航を志願するフランスの若者たちの数は増加の一途と言われます。
多くの報道は「洗脳」「マインドコントロール」ということで説明しようとしますが、あなたや私は一体どうやってその罠から逃れたのか覚えていますか?十代(二十代前半)のことを、「夢」「理想」があった時期のことを? 私は今20歳になる娘がいて「そろそろ現実的なことを考えてみたらどうか」と諭す、イヤ〜なタイプの親になっている自分にがっかりします。「革命」ではなく「小さな幸せ」を探せ、という方便? Fuck !
同じ理想を抱いて人々が集まり、共同で何かを始める ー これは即座に危険セクトと見なされそうです。親・友人たちはこういう何かを始めようとする人を制止する側に回ります。一体この今・現在で、どんなユートピアがまだ可能なのか? ジハードの誘惑に対抗できる夢を若者たちが持つことは可能なのか?
ファブリス・アンベールの6作目の小説で、私は初めて読みました。2009年の小説『暴力の起源(L'Origine de la violence)』(ブッヒェンバルト収容所を訪問した際、そこに展示された収容者写真の中に自分の父親の顔があったと確信する男の驚き...。現在映画化中)を次に読んでみます。
FABRICE HUMBERT "EDEN UTOPIE"
GALLIMARD刊 2015年3月 288ページ。18,90ユーロ (↓)作者自身による作品紹介ティーザー。
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