ファブリス・カロ『無重力状態最後の日々』
I stand alone without beliefs
The only truth I know is you
僕は信念もなく独り立ち尽くしている
僕の知る唯一の真実、それはきみだ
--- Kathy's Song (Simon & Garfunkel 1966)
嗚呼、青春小説。BD 作家、ミュージシャン、小説家のファブリス・カロの7作めの長編小説である。小説家として「年1作」のペースが定着したようで、このペースは大家アメリー・ノトンブに肩を並べようとしているかのようだ。そう言えば前作『アラモの砦(Fort Alamo)』(2024年)を爺ブログは紹介していないが、それははっきり言えば”平均点未満”だったからである(後日気が変わったら紹介するかも)。その前作にひきかえ、新作のぶっ飛び方はすごい。カロはこうでなくちゃ、と膝を叩いて感服する。
小説の重要な軸のひとつが、この元カノへの未練である。不可解な理由で他の男に鞍替えした彼女。できることならもう一度ヨリを戻したい。過去数ヶ月間続いた甘く切ない青春交際の日々、カティ・ムーリエに気に入られるためだったら何でもできそうだった熱情、それを端的に描写した箇所が(↓)
彼女に好まれるためだったら、僕は自分のエゴを全面的にその方向で加工することができていた。彼女は映画『いまを生きる(Dead Poets Society)』を大絶賛していた。ホントかよ?それ僕のカルト映画だよ。彼女はスティングのファンで、とりわけその最新アルバム 『ナッシング・ライク・ザ・サン』を激賞していた。僕はもう無条件にこのアルバムを崇拝してしまったよ。彼女はアマゾンの自然林を守るためにラオニ酋長の傍らに立って行動するスティングを敬愛していた。それを聞いた次の日、僕は下くちびるの中にセトモノの円盤を挟んでリセに登校する決心までしていたんだ。(p15 – 16)この純愛ダニエルが、80年代小僧にしてはやや稀だったかもしれないことに、サイモン&ガーファンクルの信奉者であった。コレージュ生の弟ジェローム(15歳)はゴリゴリのハードロックファン(袖無しパッチGジャン派)であるのに。小説中にアルバム『サウンド・オブ・サイレンス』と『ブックエンズ』を厳かに拝聴するシーンあり。そして元カノのカティ・ムーリエを恋慕するばかりに、かの「キャシーの歌 Kathy's Song」(アルバム『サウンド・オブ・サイレンス』所収)に激しく自己投影して、これをアコースティック・ギター(フォークギターと言うべきか)で完コピしてカティ・ムーリエに捧げて歌いたいという野望を抱いている。お立ち会い、これ、私ら昭和期(1970年頃)高校フォーク小僧たちには、必修のスリー・フィンガー・ピッキング奏法教材だったのですよ。これと「四月になれば彼女は April come she will」の2曲は必修中の必修で、初心者でも耳で聞くほど難しいものではなくて短い練習で弾けるようになる。それが弾けるようになったら、どれだけ嬉しいか。人前で披露したくなるんだ、これが。難しいテクのように聞こえるけど実はそんなでもないんだよ。おっと、青春の思い出に浸ってしまったではないか。ごめんなさい。
さて小説はダニエルのバカロレア合格ということに何の心配もしていないダニエルの母親が人に頼まれて、概ね優等生のダニエルに弟ジェロームと同い年の女子コレージュ生に数学の家庭教師の口を持ちかけるところから始まる。コレージュ最終年で年度末に中等教育修了試験(Brevet=ブルヴェ)を控えているが、数学が不得意で落ちる可能性がある、と。どれくらい悪いのかと言うと、現時点で20点満点の8,5ほどの成績だ、と。これを合格点の10点以上まで上げなければならない。夕方1時間で週3回、レッスン料は50フラン(これは悪くない、かなり高額)。その依頼者リゴー家に行ってみると、丘の上の豪奢な大邸宅、マダム・リゴーは何枚持っているのかわからない同じ高級ブランドものポロシャツを毎回色違いで着て出てくる。グランドピアノのある広いサロンでダニエルのレッスンを受けるベアトリス(15歳)はもの静かだが聞き分けの良いお嬢さんで、ダニエルの教え方に"Oui oui(ウイウイ)"と二つ返事で答える。物分かりがいい印象(これが罠)。そして1時間のレッスンが終わると、ムッシュー・リゴーがサロンに現れ、帰る前に私とアペロを付き合ってくれたまえ、と。饒舌で博識なムッシューは”未来のITエンジニア”君を相手に縦横無尽な話題で一人で喋りまくる。これが初回1回のことではなく、毎回レッスン終了後の習慣になってしまう。そしてこの家庭教師訪問には、もうひとつ不可解/奇妙な習慣ができてしまう。それはレッスン中にマダム・リゴーが急に入ってきて、娘ベアトリスに”XXXを(家の中の)どこどこに取りに行ってちょうだい”やら”庭にいる召使にXXXと伝言しに行ってちょうだい”やらと言いつけて、娘をサロンから退場させ、その間に無言でダニエルの頭を両手で掴み、自分の両の乳房の間に挟み込みゆさゆさ揺するのである。その突飛な行為には何の説明もなく、娘が再びサロンに入室する直前にそれは何事もなかったように終わっている。一体これは何なのだ? この唐突なバスト締め揺すりは、毎回のレッスン中に必ず(娘不在の数分間に)行われるナラワシになってしまうが、マダムは何もこのことに言及することなく、レッスンが終われば授業料の50フランをダニエルに手渡す。
ベアトリスは両親にダニエルの教え方はわかりやすくためになると称賛し、両親もとても満足している。しかしそれとは裏腹に、ベアトリスのテストの点はどんどん落ちていき、20点満点の8,5点は4点に下がり、さらにその次のテストでは2点にまで転落する。こうなるとダニエルは抜けるに抜けられなくなってしまう...。
それに加えてリセでは穏やかならぬ事件が連続する。最終学年”G(商科)第三クラス”(劣等生クラスというニュアンスわかってね)の男子ニコラ・モランが(仲間三人とクラブで遊んだ未明の帰り道)自動車事故で死んだ。ファブリス・カロの筆はここでリセ中がヒソヒソと始めてしまう故人の噂話(だがリセ全体に瞬く間に広がってしまう)のあることないこと尾鰭の枝葉末節の凄まじさを名調子で伝えるのだが、SNSなど数十年後にしか登場しないこの環境でも超絶な伝播の勢いは今とほとんど同じだったのだね。そしてその数週間後、ニコラ・モランと同じ”G科第三クラス”の男子フェリシアン・リュバックが行方不明となり、正式な捜索願が出されたのを受けてリセ校長が全生徒の前で捜査に協力するよう通達する。リセ中が再びあることないことの尾鰭つきの噂話を始めるのだが、この二者に共通する”G科第三クラス”は呪われている、なんていう話になるのね。フェリシアン・リュバックと最も親しくつるんでいたローラン・シフルなる目立たない男子が、何度か捜査尋問を受けたりして、にわかに時の人になって斜めからの視線を浴びるようになる。
奇妙な富豪屋敷リゴー家にはもう一人面妖な人物が出入りしている。それは音大ピアノ科の女学生エロディーで、彼女はダニエルの数学レッスンの前の時間帯にベアトリスにピアノ家庭教師をしている。マダムとベアトリスが所用で不在ということを知らされていなかったダニエルは、レッスンがあるものとリゴー家に出向き、門口で誰の応答もないので屋敷に入っていき、成り行き上奥まで侵入することになったのだが、その奥の部屋の開いているドアの隙間からムッシュー・リゴーとピアノ教師エロディーがまさに情事をはじめようとしているシーンを見てしまう...。
後日、ダニエルは町のスーパーマーケットで、ピアノ教師エロディーの姿を遠目に見てしまう。そのそばには失踪したフェリシアン・リュバックのダチであるローラン・シフルがいて、スーパーのレジ列に並んで何やら親しげに会話をしているではないか。狭い町とは言え、これはリゴー家とフェリシアン・リュバック失踪事件をつなげる何かがあるのではないか。翌日ダニエルはリセで思い切ってローラン・シフルを呼び止め、奇遇だなぁ、エロディーを知ってるのか、てな調子で話しかけていく。シフルはその唐突さを疑うこともせず、淡々と「彼女とは同じ通りに住むご近所付き合いで、同じく隣人同士だったフェリシアン・リュバックのその後を心配して話してたんだ」と。むむむ....。これは....。
ここまでの話をダニエルはダチのジュスタンとマルクに(マダム・リゴーの奇行とムッシュー・リゴーの不倫も含めて)洗いざらい全部話す。ここから理系受験生の明晰な頭脳3つによるあちらこちらに飛躍する想像力を駆使した事件推理が始まる。(中略)まあ、詰まるところこの三人の推理では、フェリシアン・リュバックは隣近所顔見知りであるエロディーが丘の上富豪のリゴー氏と不倫関係にあるのを知って証拠動画などをちらつかしてリゴー氏を脅迫していた、その暴露を恐れてリゴー氏がリュバックを誘拐し、どこかに監禁しているか、最悪の場合は殺害してしまっている。リュバックはまだ生きているかもしれない。三人は俄かに少年探偵団となって、エロディー周辺とリゴー家周辺を洗いはじめ、願わくばリュバックの”生還”をわれらの手でと高揚してしまうのだが...。
もうバカロレアどころではない。
この三人に共通しているのは恋愛のゼロメートル地点にいることで、ダニエルのカティ・ムーリエを含めて、意中の女性への第一歩踏み出しのところで足踏みしている。マルクのエピソードは、彼女にスーパートランプ『ブレックファスト・イン・アメリカ』(1979年、必殺ですとも、当時みんなうっとりして聴いたものさ)を録音したカセットをプレゼントして、そこから交際のきっかけを掴むという算段だったのが、なんと手渡したカセットに入っていたのがミッシェル・サルドゥーだった、という考えられない手違い。あんたとは趣味が違うみたいよ、と冷たく返品され、事態を悟ったマルクが何度も弁解して本物のスーパートランプのカセットを再度手渡そうともがくのだが...。
ジュスタンの場合は、上述の週末”乱痴気”パーティーの一夜で、アルコールとドラッグの効果なのか極端に盛り上がっていちゃいちゃできた相手に、その後シラフでリセで出会っても、あの時のことが信じられなくて(つまりあれはあの時の勢いにすぎず、ホンモノであるわけがないと疑って)、交際しようと言い出すことができない。何度もすれ違うのだが、面と向かって言うことができない....。あるある。
ジュスタンに関してはもうひとつ重要なエピソードがあって、歴史の授業中に、隣に座ったダニエルに克明な解剖図のように描かれた女性器のデッサンを見せながら、ヒソヒソ声で「Gスポット」の正確な位置について講釈しているところを、女性教師に見つかってしまい、その精巧な手書きデッサンを没収されてしまう。お立ち会い、80年代当時、これは世紀の「女体の神秘」であり、この快楽の泉の位置をみんな探してたんです。真面目なテレビ(医学系)番組のテーマになり、女性誌の記事にもあり、カフェのカウンターでご婦人方を交えて侃侃諤諤の議論にもなってたんです。そういう状況はともかくとして、この件で、ジュスタンとダニエルの二人は後日教員室に呼び出しを喰らってしまう。まずい。バカロレアを前にして、二人はどんな処分を受けることになるのか? ひょっとして「Gスポット」は二人の学業の未来を閉ざしてしまうことになるのではないか....?
そんななんやかんやをいっぱい詰め込んで、小説はバカロレア試験というクライマックスに向かって突き進む。"Ride on time" (Black Box) 、"Like a prayer"(Madonna) 、"Pump up the jam"(Technotronic)、”U can't touch this" (MC Hammer) .... 挿入される時のヒットチューンは18歳男子たちの焦燥と混沌によくマッチしている。若いという字は苦しい字に似てるわ。ファブリス・カロ小説のすべての主人公がそうであるように、このダニエルも押されると弱い。状況を目の前に立ち止まって負けそうになりながら、”受け入れる”タイプ。たとえそれがどんなに不条理なものであろうとも。カティ・ムーリエは想っても想っても、結局帰ってこないのだ。フェリシアン・リュバックはある日、家出の生活に耐えられず、ひょっこり姿を現してしまう。リゴー家の家庭教師問題やリゴー氏の不倫問題、リゴー夫人のエロい奇行問題は、どうでもいいことのように収拾されてしまう。
そしてバカロレア試験合格発表の日、リセの大掲示板に張り出された合格名簿を見に集まってくる男子女子の群衆のラッシュアワー状態の中で、彼らの青春時代は終わるのである。もうこれが終われば、二度と同じ階段教室のベンチで隣り合わせることもない若者たちの最後の瞬間を、彼らは歓声と涙とバッキャロー怒号を混ぜ合わせて、もう何も聞こえないのである。無重力状態最後の日々、これからは地面の上を歩かなければならない。さようならカティ・モーリエ。
Fabrice Caro "Les Derniers Jours de l'Apesanteur"
Sygne/Gallimard刊 2025年8月14日 220ページ 20ユーロ
この三人に共通しているのは恋愛のゼロメートル地点にいることで、ダニエルのカティ・ムーリエを含めて、意中の女性への第一歩踏み出しのところで足踏みしている。マルクのエピソードは、彼女にスーパートランプ『ブレックファスト・イン・アメリカ』(1979年、必殺ですとも、当時みんなうっとりして聴いたものさ)を録音したカセットをプレゼントして、そこから交際のきっかけを掴むという算段だったのが、なんと手渡したカセットに入っていたのがミッシェル・サルドゥーだった、という考えられない手違い。あんたとは趣味が違うみたいよ、と冷たく返品され、事態を悟ったマルクが何度も弁解して本物のスーパートランプのカセットを再度手渡そうともがくのだが...。
ジュスタンの場合は、上述の週末”乱痴気”パーティーの一夜で、アルコールとドラッグの効果なのか極端に盛り上がっていちゃいちゃできた相手に、その後シラフでリセで出会っても、あの時のことが信じられなくて(つまりあれはあの時の勢いにすぎず、ホンモノであるわけがないと疑って)、交際しようと言い出すことができない。何度もすれ違うのだが、面と向かって言うことができない....。あるある。
ジュスタンに関してはもうひとつ重要なエピソードがあって、歴史の授業中に、隣に座ったダニエルに克明な解剖図のように描かれた女性器のデッサンを見せながら、ヒソヒソ声で「Gスポット」の正確な位置について講釈しているところを、女性教師に見つかってしまい、その精巧な手書きデッサンを没収されてしまう。お立ち会い、80年代当時、これは世紀の「女体の神秘」であり、この快楽の泉の位置をみんな探してたんです。真面目なテレビ(医学系)番組のテーマになり、女性誌の記事にもあり、カフェのカウンターでご婦人方を交えて侃侃諤諤の議論にもなってたんです。そういう状況はともかくとして、この件で、ジュスタンとダニエルの二人は後日教員室に呼び出しを喰らってしまう。まずい。バカロレアを前にして、二人はどんな処分を受けることになるのか? ひょっとして「Gスポット」は二人の学業の未来を閉ざしてしまうことになるのではないか....?
そんななんやかんやをいっぱい詰め込んで、小説はバカロレア試験というクライマックスに向かって突き進む。"Ride on time" (Black Box) 、"Like a prayer"(Madonna) 、"Pump up the jam"(Technotronic)、”U can't touch this" (MC Hammer) .... 挿入される時のヒットチューンは18歳男子たちの焦燥と混沌によくマッチしている。若いという字は苦しい字に似てるわ。ファブリス・カロ小説のすべての主人公がそうであるように、このダニエルも押されると弱い。状況を目の前に立ち止まって負けそうになりながら、”受け入れる”タイプ。たとえそれがどんなに不条理なものであろうとも。カティ・ムーリエは想っても想っても、結局帰ってこないのだ。フェリシアン・リュバックはある日、家出の生活に耐えられず、ひょっこり姿を現してしまう。リゴー家の家庭教師問題やリゴー氏の不倫問題、リゴー夫人のエロい奇行問題は、どうでもいいことのように収拾されてしまう。
そしてバカロレア試験合格発表の日、リセの大掲示板に張り出された合格名簿を見に集まってくる男子女子の群衆のラッシュアワー状態の中で、彼らの青春時代は終わるのである。もうこれが終われば、二度と同じ階段教室のベンチで隣り合わせることもない若者たちの最後の瞬間を、彼らは歓声と涙とバッキャロー怒号を混ぜ合わせて、もう何も聞こえないのである。無重力状態最後の日々、これからは地面の上を歩かなければならない。さようならカティ・モーリエ。
Fabrice Caro "Les Derniers Jours de l'Apesanteur"
Sygne/Gallimard刊 2025年8月14日 220ページ 20ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)サイモンとガーファンクル「キャシーの歌 Kathy's Song」(1966年)
(↓)ブラックボックス「ライド・オン・タイム」(1989年)
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