エロズ・ラマッツォッティ+パッツィー・ケンジット「美しい星あかり」
作詞作曲:エロズ・ラマッツォッティ、アデリオ・コリアティ、ピエランジェロ・カッサーノ、パトリシア・ジュード・ケンジット
1987年エロズ・ラマッツォッティ アルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti』所収
1987年7月1日、青森の病院で父が肺ガンで亡くなった。73歳だった。2025年の今、私はあと2年で父親の行年になる。私の糖尿病とガンは父親から受け継いだものだと私は思っている。2ヶ月に一度理容サロンへ行く度に、髪の毛を短く整えてもらうと、鏡の中には(実家の仏間に飾ってある)父親の遺影とほぼ同じになってきた自分の顔があり、これはカルマでありマクトゥーブである、と観念してしまう。ここ数年髪を切ってくれているセリーヌさんが「眉毛も整えましょうか?」と言ってくれるのだけれど、そう言えば父親も眉毛は不揃いのままギザギザしていたな、と思い出す。で、鏡の中の父親像=自分像が変わってしまうのを恐れて、セリーヌさんに「いいです、このままにしておいて」と言ってしまう。ほんと、どんどんそっくりになっていっているのだよ....。
1987年、私は33歳で、1979年にフランスに移住してから職はすでに4回も変わっていて、職業的および経済的には不安定だったが、(83年に離婚もして)独り身自由でテキトーに生きていた。もらう給料の多くはレコードに費やされ、レ・アールのFNAC、ポンピドゥー・センターの図書館(と最上階カフェ)、サン=ドニ通りのバー(全部レ・アール地区か)が行動範囲だったが、3度目の就職先は出張が多く、数週間をフランス東部ロレーヌ地方で過ごしたこともあり、その時は本当にパリが恋しかった。その5月、父親の容態がいよいよ危ないと言われ、勤め先にかくなる事情で日本に一時帰国するため長期で休ませて欲しいと願い出た。その時辞めてもよかったんだが。結局その2ヶ月後辞めたんだが。その約3ヶ月間でパリ/青森は3往復した。2度の容態急変は2度持ち直し、その度に往復したが、3度めは臨終に立ち会うことができず、遅れて着いて、「喪主」をつとめた。C'était moche...。 葬儀後の処理でするべきことはたくさんあったんだが、全権を母親(あの時まだ65歳)に委託すると書面に書いて、パリに逃げてきた。そして仕事にも就かず、フラフラしていた。日本の音楽雑誌から初めて原稿依頼が来て、カッサヴとズークについてまとめて書いた。ライターの真似事はこの頃から始まってる。(1989年の1年間文芸誌「すばる」に連載していた、というのは今でも自慢している。)
1987年、ドイツはまだ西ドイツと東ドイツがあり、ソ連はまだソ連だった。1981年フランス第五共和制初の左派大統領となったフランソワ・ミッテランは、国会多数派だった左派が1986年3月の選挙で敗れ少数派に転落、保守RPR党のジャック・シラクを首相とする保守政府が誕生し、第一次コアビタシオンの2年めが1987年。8月29日、そのシラクが首相官邸で迎えたのが、"Who's That Girl Tour"で初フランス公演をするルイーズ・チコーネ・マドンナ(当時29歳)、シラク友リーヌ・ルノーのエイズ救済基金への巨額寄付を感謝してシラクがマドンナにビーズをするという役得。そのあとマドンナは屋外メガコンサート会場の(パリ南郊外)ソー公園へ。集まったファンの数13万人。その様子をヘリコプターで上空から見ていたアラン・ドロン。コンサート大詰め、マドンナは13万人の前で履いていたパンティーを脱ぎ、オーディエンスに放り投げたのだった...。その2日後の8月31日、マイケル・ジャクソンがアルバム『バッド』をリリースし、そのBad World Tourは9月12日東京・後楽園球場(東京ドームはまだ出来ていない)で始まった... 。
1987年、フランス大衆音楽界では、圧倒的にヴァネッサ・パラディ「ジョー・ル・タクシー」(全世界で320万枚ヒット)とジプシー・キングス「バンボレーオ」だった。カッサヴのメジャー(CBS)世界デビューアルバム"Vini pou"が87年12月。世界ヒット「イエケ・イエケ」の入ったモリ・カンテのアルバム"Akwaba Beach"も同じ年。ライ(アルジェリア)のフランス上陸という画期的な事件だったパリ北郊外ボビニーでの第1回ライ・フェスティヴァル(シェブ・ハミド、シェブ・サハラウイ、シャブ・ハレド、シェブ・マミ)が1986年1月、ハレドのメジャーデビューアルバム”Kutché"(プロデュース:マルタン・メソニエ)が1988年....。いわゆる「パリ発ワールドミュージック」がこの1987年をはさむ2、3年で大いに脚光を浴びるようになり、日本でその種の音楽の紹介者が少なかった頃、業界とは縁がなかったもののフランス語ができてその種のレコードをいっぱい買ってたということだけで、フラフラ暮らしていた私に日本の音楽業界と音楽メディアから声が掛かるようになった。そしてその2年後の1989年に、私はフランスの独立系レコード流通会社に入社することになるのだが...。
最初の奥様と別居して(その人は東京へ帰った)、ひとりで住み始めたアパルトマン(20平米のステュディオ)でレコードプレイヤー/ステレオ装置を購入設置したのが1983年春のこと。離日した79年夏から約4年間、私はレコードと無縁の生活で、音楽はもっぱらカセットとFMラジオだった。音楽とレコードに戻ったのは、多分に81年フランスのFM電波解放(自由FMの始まり)のせいでFM上の音楽がめちゃくちゃ面白くなった(幻想か?)からで、日本の人並みの中高生として英米大衆音楽に浸っていた耳には、あんたら(当時の在日本の友人知人たち)の知らない面白い音楽はゴマンとあるぞ、と言いたかったんだね。”最新フランス音楽事情”みたいなお題目の月刊カセット/ミニコミ紙(最大発行部数30どまり)をやり始めた(これは89年まで続くんだよね、われながらすごいことだと思うよ)。
おかげでレコードの所蔵枚数は飛躍的に増えて、月給の大部分がレコード代に消えた。これまでの人生で音楽をこれほど熱心に聴いていた時期はなかった。これが私の1980年代だった。英米音楽はほとんど聴くことがなく、もっぱらフランスとヨーロッパ(加えて”フランス発ワールドミュージック”)の新譜盤ばかり買っていた。ヨーロッパと言っても、当時のフランスのレコード店では隣国のものであっても盤はほとんど流通されてなくて、チョイスは限られていたのだけど、ベルギーとイタリアは何買ってもハズレなしだった(あ、ハズレもあったなぁ...)。この二つの隣国は音楽的にはフランスよりもずっと先を行ってたように思う(←ここで、私がユーロディスコやニュービートが好きだったのがバレる)。
Italians do it better. イタリアのポップミュージックがすごいと思った最初は1982年フランスのテレビ、ジャック・シャンセル司会の(高尚な)総合文化教養番組「ル・グラン・テシキエ(Le Grand Echiquier)」にアンジェロ・ブランドゥアルディがメインゲストとして出演した時。当時私はイタリアのプログレにもヨーロッパ各地のフォークムーヴメントにも疎かったけれど、フィドル弾きながらピョンピョン踊るブランドゥアルディの衝撃が、私をぐぐぐっとイタリアに引き寄せたのですよ。それからルーチョ・ダッラ、ファブリツィオ・デ・アンドレ、ルーチョ・バティスティ、パオロ・コンテ、ピノ・ダニエーレなど硬派から、ミラノのBaby Records(ロンド・ヴェネツィアーノ、リッキ&ポーヴェリ、ガゼボ”I Like Chopin"...)系の軟派、ズッケロ、ウンベルト・トッツィ、トト・クツニョ等のメインストリーム、それから大々好きだったイタロ・ディスコ系(ライアン・パリス "Dolce Vita", フィンツィ・コンティーニ "Cha cha cha", マイケル・フォルトゥナーティ"Give me up", ピノ・ダンジオ "Ma Quale Idea"...)などなど。

エロズ・ラマッツォッティ(1963 - )は王子さまシンガーだった。あの当時は私もどう読むのかわからなくて、フランス人が言ってたように”エロス・ラマゾッティ”と呼んでいた。フランスでのデビューはシングル”Una Stroria Importante"(1985年)で、その年のサンレモ音楽祭で第6位だったが、フランスではシングルチャートTOP50の2位(1985年10月2日週)まで昇り、フランスでのシングル売上は50万枚に達した。あの時エロズは22歳。 ミラノ系ファッション最前線とはちょっと距離がある王子さま、ヴェローナのロメオ、そういうイメージで紹介された”こぶし系”熱唱シンガーソングライターだった。Eros という名前、短髪少年、メランコリックなルックス、私の周囲では、この子はゲイに違いないとみんな言ってたんだが(そうではなかったようです)。
1987年の曲「美しい星あかり La luce buona delle stelle」はラマッツォッティの3枚めのアルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti 』(英語版ウィキによると、世界で2百万枚のセールス、うちイタリア95万枚、ドイツ25万枚、スペイン20万枚...)のA面3曲めに入っている。私の手持ちのLP(品番BMG Ariola 208741)にはデュエット・ヴォーカリストとしてパッツィー・ケンジットの表記はない。次いでラマッツォッティ1988年のLP(7曲所収ほぼミニアルバム)『ムジカ・エ Musica è』にボーナスとして「美しい星あかり」のリミックスヴァージョンが収められているが、それには英語詞の作者としてのクレジットはあるのにヴォーカリストとしてはクレジットされていない。日本語版ウィキのパッツィ・ケンジットの解説によると、日本では1985年にエイス・ワンダー(ヴォーカル:パッツィー・ケンジット当時17歳)の初シングル"Stay with me"が、英国その他で全く不発だったのに、日本だけは洋楽チャート1位になるという人気だったそう。日本で有名、英国&欧州で無名。フランスでも英国でもこのエイス・ワンダー(パッツィー・ケンジット)が初めて大ヒットするのは、1988年、ペットショップ・ボーイズが曲提供した”I'm not scared"(1988年8月、仏チャートTOP50で最高位8位)からなんだよね。だから1987年時点では欧州のスケールではパッツィー・ケンジットよりラマッツォッティの方がずっとずっとビッグだったのですよ。
ヴィデオ・クリップで見比べると「美しい星あかり」と「アイム・ノット・スケアド」ではほぼ同じ容姿、同じ顔のパッツィー・ケンジットである。19/20歳の頃。すごくチャーミングだったし、きれいだった。後年は音楽アーティストとしても女優としてもあまり恵まれなくなったが、1997年から2000年まで4歳年下のリアム・ギャラガー(オアシス)と所帯を持っている。
「美しい星かり」は当時フランスでシングルチャート入りしていない。フランスのくせもの音楽(webradio)サイト Bide & Musiqueの解説には「当時のフランスではほぼ注目されなかった」とある。私はこれはカラオケ向きである、と見抜いていた。フランスにカラオケが本格的に上陸するのは1990年代に入ってからである。私はすでにカラオケを知っていたので、こういう美しいメロの男女デュオはカラオケで絶対ウケると確信していた。だからラマツォッティの歌うパート(イタリア語)を密かに練習して、願わくばフィーリング合いそうな女性に「英語のところ歌ってよ」と誘ってみたらいいんじゃないかな、と妄想していた。私は当時、離婚歴ある33歳だった。
「ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ」
(エロズ・ラマッツォッティ)
La luce buona delle stelle 星あかりの美しさが
Lascia sognare tutti noi 僕たち二人を夢へ誘う
(パッツィー・ケンジット)
Will you dream of me
(エ・ラ)
Ma certi sogni son come le stelle ある種の夢は
Irraggiungibili Però 星のように手が届かないけれど
Quant′è bello alzare gli occhi 夜空を見上げると
E vedere che son sempre là いつもそこにあるのが見えるんだ
È cresciuto sai そんな夢を見ていた少年は
Quel ragazzo che sognava 大きくなったんだよ
Non parlava ma 少年はそのことを一度も口にしなかったけれど
A suo modo già ti amava 心の中できみをずっと愛していたんだ
Tu il sogno きみは夢だった
Più sognato でももうそれは夢じゃない
Più proibito che mai, che mai もう禁じられたことじゃないんだ
(パ・ケ)
Every night you know you will dream alone
It's never ending
of a boy in love with a girl
That he can only dream
of when you see the stars
Shine brightly
I will be thinking of you forever
La luce buona delle stelle 美しい星あかり
(エ・ラ)
La luce buona delle stelle 美しい星あかり
(パ・ケ)
Stars will shine brightly forever
As long as you know my dream's
With you
think of me as your light
In a tunnel think of me
As your dreams come true
Come true
(エ・ラ)
Nascerò con te 僕はきみと一緒に生まれ変わり
Con te ogni volta きみと一緒に死ぬだろう
(パ・ケ)
Every night must end
But when day begins
We'll see another
(エ・ラ+パ・ケ)
Ma non senti だけどきみには聞こえないの?
Che ti chiamo, che 僕が呼んでるのが
Ho bisogno di te きみが必要だって言っているのが
Di un sogno 夢が必要だって言っているのが
(パ・ケ)
Together
(エ・ラ)
Insieme 一緒に
(パ・ケ+エ・ラ)
When you see the stars
Shine brightly
I will be thinking of you forever
(エ・ラ)
I Know
(パ・ケ)
La luce buona ラ・ルーチェ・ブオナ
(エ・ラ + パ・ケ)
La luce buona delle stelle ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ