2024年8月26日月曜日

Song for my father

"Le Roman de Jim"
『ジム物語』


2024年フランス映画
監督:アルノー&ジャン=マリー・ラリウー
主演:カリム・ルクルー、レティシア・ドッシュ、ベルトラン・ブラン、サラ・ジロドー
音楽:ベルトラン・ブラン
フランス公開:2024年8月14日


リウー兄弟の9本目の長編映画。爺ブログでは2013年のスリラー映画『愛は完全犯罪(L'Amour est un crime parfait)』(爺採点★★★★★)と2021年のミュージカル映画『トラララ(Tralala)』を紹介しているので、未読の方参照してみてください。この2本でもそうなのだが、ラリウー兄弟に特徴的なのは舞台/背景が山であること。山が大いにものを言う映画。この新作『ジム物語』の舞台はフランス東部ジュラ山脈である。山は美しい
原作は2021年発表のピエリック・バイイの同名小説『ジム物語 Le Roman de Jim』(P.O.L刊)。出版社からこの本を受け取ったラリウー兄弟は、まるで自分たちの映画化を想定して書かれたような小説だと思ったと言う。こうして兄弟は彼らの映画歴上初めてロマネスク/侘び寂びメロドラマ風な作品を撮ることになったのである。
 映画は約25年から30年のタームで展開し、始まりは1990年代である。ジュラ山中の小さな町のカメラ好きの青年エメリック(演カリム・ルクルー)はややO型体型の柔和でお人好しで、勉学を好まず、未来への頓着もなく、都会に出ようともせず、この町の風景の一部のように大人しく生きている。仕事は選ばなければいろいろあり、倉庫係、工場の単純作業員、スーパー従業員など、低賃金/不定期で転々としている。写真好き(非ディジタルの時代!)はシャッターを押すものの、金がなくて現像紙焼きができず、撮影済みフィルムだけが溜まっていくのだが、その撮ったものはスクリーン上でカラーネガ画像で映し出され、これがなかなか良い効果を生んでいる。(映画の進行上、ディジタルの時代に入ると事情は変わってくる)
1996年、人に頼まれると断れないお人好しのエメリックは、リセ時代の悪友から空き巣(絵画)強盗の企てに誘われ、乗ってしまい、犯行は成功し報奨金を手は入れるが、足がついてしまい、逮捕され18ヶ月の監獄生活を送るハメになる。これは後でわかるのだが、この際もエメリックは仲間の名前を割らず、一貫して単独犯として”おつとめ”を終えている。エメリックは過度にお人好しなのか、妙に”義”に篤いのか、そういう(日本映画によくある)憎めない小人物キャラなのである。
 出獄して2000年、偶然コンサート会場でスーパーで働いていた時の同僚のフロ(演レティシア・ドッシュ)と再会する。フロは妊娠6ヶ月の重身だが、宿った子の父親は妻子ある男なので別れ、産んだらひとりで育てるつもりでいた。このフロもどこかエメリックと似てお人好しであり、「妊娠6ヶ月の女なんて誰もセックスしてくれない」と嘆くフロだったが、エメリックはその濃厚な性格の女性の世界に飛び込み、二人は愛し合う。その数ヶ月後、男児ジムが誕生し、エメリックはその出産に立ち会い、臍の緒を切る大役まで果たす。エメリックは父親のセンセーションを体験する。
 新生活は転居してフロの母親がひとりで切り盛りしていたジュラ山中の山荘民宿に移り、この山の美しい自然の中で、ジムとフロとエメリックのこの上なく幸福な日々が始まる。とりわけエメリックの”父性愛”は舞い上がってしまい、ジムはどんどん美しい子供(演エオル・ペルソヌ、長い巻毛が美しい!)に花開いていく。だがこの幸福は7年間しか続かず、この山荘にジムの”実の”父、クリストフ(演ベルトラン・ブラン)が現れる。

 ここにクリストフを招き寄せたのはフロだった。クリストフは交通事故で妻子を失ってしまい、身も心も憔悴しきっていて、それをフロが放っておけなくなったのだ。この映画全体に特徴的に一貫しているのは”悪意の不在”である。フロはクリストフの不幸を癒してやりたい、純粋にそういう気持ちで、この奇妙な四人の共同生活が始まるのだが、それまでの三人の幸福がそれによって崩れるとは考えていない。特にジムにとってはクリストフの存在は重要だとフロは思っているが、エメリックとジムはそれをなかなか受け入れられない。
 2021年ラリウー兄弟『トラララ』以来、本格的に映画にも出演するようになったベルトラン・ブラン(おそらく今日フランスで最も重要なシンガーソングライターのひとり)であるが、妻子の死に心が荒み切りアルコールに鎮痛を依存する言葉少ない陰鬱な男という姿で登場する。ジム+エムリック+フロというそれまでの幸福の中に憚って、それを危ういものにしているという自覚はクリストフにはない。無骨な男だが”悪意の不在”ははっきりしていて、陥った地獄から必死に這い出そうという姿も見える。フロはこれを何とか救い出そうというのだ。それによってエメリックが少しずつ傷ついていくのにフロは無自覚ではないが、フロには”理想”に向かうための優先順位がはっきりしている。言わば”四人”のユートピアを築こうとしているのだが、無理は少しずつ顕在化してくる。そしてある日、四人で山の頂上まで登り(↑写真)、ジムにクリストフが”実の父”であり、エメリックは”実ではない”父であることを明らかにし、フロの思惑とは違って事態はいよいよ複雑になっていく。エメリックは傷つくのだが、それを表面化することができない。そういうキャラがいよいよメロドラマ性を際立たせていく。
 理想主義者のフロは四人にとって最も良い方向を(エメリックに相談することなく)ほぼひとりで構想してそれに邁進していく。健康を取り戻し新しいことを始めたがっているクリストフ、育ち盛りだがこの田舎以外の世界を知らないジム、そして(実の心は)クリストフとやり直したい新天地願望のあるフロ...。土地にしがみついているエメリックを残して、三人でのケベック移住を決めてしまう!「時々遊びに来ればいい」「日常的にスマホでヴィデオ通話できる」(そう、時代は変わり、ここまで来ている)... そんな言葉にエメリックは抗弁することもできず、エメリックは共同体から離脱していくのである。表立った”諍い”を一度も起こすことなく。この身の引き方は、昭和期に描かれた日本(文芸系)映画の女性ヒロインを思わせるものがある。
 映画の中心軸はエメリックとジムの”父子”関係である。壊れずにジュラとケベックで続くと思われていたのに、(ディテールは明かさないが)これまたフロがジムとクリストフによって最善と勝手に構想した創作ストーリーによって、エメリックとジムをほぼ決定的に引き裂いてしまう。しかしここでもフロの(ほぼ限界だが)”悪意の不在”は明らかなのである。この女が全てを引っ掻き回してメチャクチャにしているという筋書きは見えるのだが、映画を観る者はこのフロという女性を赦し、理解すると思う。良質のメロドラマのパターン。

 時代はさらに移り10年後、例によって低賃金単純労働の職場を転々として土地で生きているエメリックは、しなやかにエレクトロ/テクノで陶酔して踊る女性オリヴィア(演サラ・ジロドー、素晴らしい、私、魅了されました)と出会う(←写真)。このオリヴィアの登場がエメリックにとって、そして映画にとって、どれほどの救いになったことか。新しい共同体(子供→家族の建設)の予感もうかがえたのだが...。 
 そこへ成人してデカい男になり、ミュージシャン(DJ)としてそこそこ知られるようになったジム(演アンドラニック・マネ、素晴らしい若手俳優、もっとたくさん映画に出て欲しい)がジュラに乗り込んできて、エメリックとの再会を望んでいる、と。しかしエメリックは知らないが、その目的は(フロの作り話によって、自分を裏切ったと信じ込んでいる)ジムが、裏切りへの恨みの落とし前をつけることだった。映画後半の一番の山場であるこの誤解に基づく復讐劇の舞台がダジャレのように”山場”なのであり、やったことのない人には絶対登れないジュラの高山のロッククライミング岩盤の果てにジムはエメリックを置き去りにする。この険しくも美しい山の二人を撮るカメラワークの素晴らしさよ。山の映画作家ラリウー兄弟の面目躍如。わおっと声が出ますよ。
 これ以上書きませんが、最後はハッピーエンドです。

 映画はエメリックという自己主張の少ない哀愁漂う心優しい男の(人には見えないかもしれない)浮き沈みを前面に出し、最後に救済する。演じたカリム・ルクルー自身がテレラマのインタヴューで言っているのだが、このエメリックの心優しさはケン・ローチ監督映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)のそれに近い。こういう心優しい冴えない男が主役となる映画は稀なのである。
 C'est toi mon vrai papa ー 真のパパはあんただ、と少年ジムは遠距離のエメリックに言った。青年になってジムは弾き語りで「父に捧げる歌」を録音した(この歌はたぶんベルトラン・ブラン作詞作曲)。引き裂かれたエメリックとジムの関係を、エムリックは受け入れるふりをするのだが、ジムはずっと受け入れられなかった。だからこの映画の中で唯一の衝突は大人になったジムと心優しく冴えないまま中年になったエムリックの間に起こった(これが山場)。
 エムリックが喰うために転々と移る非正規雇用、それと暗喩しているのだろうか、”実の父”ではない非正規の父。人生で最も幸せだった幼いジムの子育て期間、この父性愛は誰に”非正規”と言われる筋合いはない。そういう場面で挿入されるのが、アラン・スーションの「ジムのバラード(La Ballade de Jim)」(1985年)なのですよ、泣ける泣ける。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ジム物語 Le Roman de Jim』予告編



(↓)記事タイトルで使わせてもらったホーレス・シルヴァー「ソング・フォー・マイ・ファーザー」(1965年)


(↓)挿入曲「ジムのバラード」(アラン・スーション)をベルトラン・ブランがギター弾き語りでカヴァーした動画(2022年 Taratata)

2024年8月21日水曜日

1990年、ドロン vs テレラマ

あなたはドロンをこれっぽっちも理解していない

2024818日、アラン・ドロンが88歳で亡くなった。合掌。

(←写真1990年『ダンシング・マシーン』のドロン)

その主演映画のひとつで1990年フランス公開の『ダンシング・マシーン』(Dancing Machine、ジル・ベア監督)というのがある。オートバイ事故で同乗の妻を亡くし、自らも脚を負傷して踊れなくなった元ダンサーのアラン・ヴォルフ(演アラン・ドロン)は、ダンススタジオのコーチとしてスターダンサー(主演者のひとりにパトリック・デュポン)を世に出すことで知られるが、そのスタジオ門下生たちが次々に謎の死を遂げていく。(観てもいない私が言ってはならないのだが)たぶん箸にも棒にもかからない作品であろうし、映画サイトAllocinéの評価も5点中1,7という低さである。因みにドロンはこの映画のプロデューサーでもあり、その制作スタッフの中にヒロミ・ロランという日本女性がいて、この映画での出会いによって二人の関係は始まり、2023年まで33年間続くことになるが、それはそれ。


そのプライベート試写会(ジャック・ラング主催)に、テレラマ誌のジャーナリスト、ファビエンヌ・パスコー
→その頃の写真かどうか定かではないが若き日のパスコー。当時は映画担当、その後長年編集主幹として同誌の中心的立場にあったが、現在は前線を退いてスペクタクルコラム筆者となっている)も招かれ、当夜のホストのアラン・ドロンの上機嫌に乗じて(長い間ドロンから拒否され続けていた)インタヴューを申し込んでみたところ、「たぶん大丈夫だから、後日電話をくれ」と口約束を取り付けた。なぜドロンが拒否し続けてきたか、というと硬派の文化批評誌であるテレラマは1976年の『パリの灯は遠くMonsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督)を最後に、ドロン主演映画にことごとく低い評価ばかり書いてきたからであり、その年(1990年)『ヌーヴェル・ヴァーグ』(ジャン=リュック・ゴダール監督)でやっとテレラマも賞賛的な評価に転じたが、それもまたドロンの意に沿うものではなかった。端的に言えばドロンはテレラマに対して少しも良い印象は持っていない。そんな状況でやっと取り付けたインタヴューの(口)約束に、パスコーはそれから3週間もドロン事務所に電話をかけまくり、さまざまな理由ではぐらかされ延期され直前までわからないと言われ続け

これが“伝説の”テレラマによるドロン・インタヴュー1990年)である。ひどいものであるが、怖いもの知らずのパスコー/テレラマは、インタヴューの内容をそのまま全面掲載して発表したのだ。その結果、怒りのドロンがパスコー宛てに、花の部分を全てちょん切り茎とトゲだけの30本のバラの花束を送りつけたという尾鰭までついた。ウェブ版テレラマは818日ドロンの訃報の当日、この1990年インタヴューを再掲載した。これもテレラマ流儀の追悼の表現であろう。

以下、その主要部分を(同誌に無断で)翻訳してみる。


***** ***** ***** *****



ファビエンヌ・パスコー
(以下
F P):
あなたと会うということは大変なことなんですね!実現するのにものすごい熱意を必要としましたよ。
アラン・ドロン(以下AD):
あなたにはその熱意がないのかい? 私にはあなたよりずっと熱意が薄いんだよ、天使さん(mon ange! 80本の主演映画、35年の芸歴の後で、ひとつの雑誌記事が増えようが減ろうが、私にはどうってことはないんだよ!あなたがたが書いているのはすべてくだらないことなんだから。私がOKを出したのは、あなたに約束したからで、ただそれだけなんだ。ドロンは自分の約束に忠実なのだよ、いいですか? あなたが望むなら、ここでやめたっていいんだよ。ドロンは何とも思っちゃいない。
(中略)

F P
: アラン・ヴォルフ(狼のアラン)という『ダンシング・マシーン』でのあなたの演じる男の名前はあなたにとってぴったりおあつらえ向きなのではないですか?
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: なんてくだらない質問なんだ!セローヌMarc Cerrone、当時の売れっ子ミュージシャンにして作家、『ダンシング・マシーン』の脚本家チームの中心)は確かに私のことを念頭においてシナリオを書いたのだが、私が扇動してそう仕向けたわけではない。いいですか?私は誇大妄想者(メガロ)ではない。このことをしっかりあなたの頭の中に叩き込んでおきなさい。ドロンはそんな男ではない。いいですか?

FP
: でもそうやって自分のことを三人称でドロンと称して語り続けることは誇大妄想(メガロ)ではないのですか?
AD
: あなたは何も理解しなかったのだね!私が“ドロン”と言うのは、メガロとは全く逆で、謙虚さと分かりやすさのためなのだよ。“je(私)とか”moi(われ)とか私と同業の多くの大嘘つきどもが常に自称するやり方を避けるためにね! しょっちゅう私を陥れる陰謀があったんだよ。私は私の思うことをそのまま言うから世に憚っているが、私は最後まで自分の責任を負い続ける。もしもみんなが私のようにしていたなら、今頃フランスはもっと道徳的な国になっていただろうよ。もしも共和国大統領とレイモン・バール1924-2007、アラン・ドロンが最も敬愛していた政治家のひとり、首相、リヨン市長などを歴任)が政党(partis)を超越した存在であると言うのなら、ドロンは先入観(partis-pris)を超越した存在であるのだよ。

FP
: 現在の強靭な男性であるあなたは若い頃のあなたに似ていますか?
AD
: あなたは孤独な人間とは一日で成るものだとでも思っているのか?ドロンのその孤独は4歳の時から身についているものなのだよ。私は不義の子(un enfant de l’amour)として生まれ、不義の子供たちだけに与えられる美しさと悲劇性を持った。父と母は一緒に暮らしていなかった。私は豚肉加工屋の義父と母との生活に耐え忍ばなければならなかったが、早い時期にフレーヌ監獄の看守の家に預けられた。幼い日の最初の記憶のひとつが、ピエール・ラヴァル1883 – 1945、政治家、対独協力ヴィシー政権の首相として戦後国家反逆罪で死刑に処された)の銃殺の一斉射撃の音だった。その後キリスト教男子校の寮生になった。私は荒れた子供で、言わば若い虎のようだった。14歳になって豚肉加工業の見習いに出された。ある朝、ダチと組んで脱走してシカゴに行こうとしたのだが、この企ては惨めにも失敗に終わった。

FP
: あなたは怖いもの知らずの子供だったのですね?
AD
: と言うよりはむしろソー郊外の哀れなガキだった、路傍の花のように未来も希望もなかったし、その頃から退屈で死にそうだった。唯一の外出が、毎木曜日、父親が連れて行ってくれたシネアク・モンパルナス(パリ15区の映画館)で時事報道映画を見ることだった。私の時代の郊外の若者たちの生活が今よりどれほど過酷で絶望的だったかを知っていれば、今日の若者たちはこんなにもバカげたことをしなくなるだろうに

FP
: あなたがインドシナ戦争に志願入隊して戦地に向かうことを決めたのはその頃ですか?
AD :
 その通り。地下鉄の中で美しいカラー刷りのポスターを見たんだ。無学な私でも、カラー刷りは大好きだった その上、志願入隊には特別手当が出たんだ。それを狙って私の両親はあわてて私に年齢免除の署名をさせて手続きさせた。私はまだ17歳だったのだよ。自分の子供を激戦中の戦場に送り込むなんて、まったく大それたことをしたものだよ!たとえそれが私の人生で最も美しかった時期だったとしても、たとえそれが私が規律、厳正さ、自身と他者と上官への敬意尊重といったことを学んだ時期だったとしても、私が両親を許すのは容易なことではなかった

FP
: あなた自身は良い父親なのですか?
AD
: それは私だったら誰にも問いかけない質問なんだが!

FP
: 私はあえて問いますよ。
彼はサムライのような形相で私の前に仁王立ちになった。私は身動きができない。ほんの少しでも表情を変えたら、私の命はないだろう
AD
: ではあなたはどうなのだ、あなたは良い母親なのか?
FP
: 私はそうであろうと努めていますよ。
AD
: 私もそうだ、私は良い父親であろうと努めている。

1956年にジープを無断借用して乗り回し不注意で田圃に転落させた廉で、インドシナから強制送還させられたことに触れなかったのは、私の心遣いからであった。彼は51日にパリに入城する。21歳、彼は美しく、そのことを彼はよく知っていて、ピガールそしてサン・ジェルマン・デ・プレのバーとビストロに出没し、やがて偶然にして最初の主役が回ってくる


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:映画にはほとんど興味がなかった。それまで映画は2本しか見ていない。子供の頃にブール・ラ・レーヌで見た『ザ・ローン・レンジャー(仏題 Les Justiciers du Far-West)』(米西部劇 1938年)、それから『現金に手を出すなTouchez pas au grisbi)』(ジャック・ベッケル監督 1954年)はサイゴンで見た… 1957年、私の初出演映画『女が事件にからむ時Quand la femme s’en mêle)』(イヴ・アレグレ監督)、そして1959年、ドロンは『太陽がいっぱいPlein Soleil)』(ルネ・クレマン監督)でスターになったのだ。

FP
: あなたはすぐにルネ・クレマン、ルッキーノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニなど偉大な監督たちと組んで映画を撮りました。今日彼らの影響はどのようにあなたに残っていますか?
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: お分かりかな、ドロンは常にある種の父親を探し求めていたのだよ。クレマン、ヴィスコンティ、メルヴィルレイモン・バールもそうだ。父親との関係というのは説明が難しい。彼らは私にひとりの男になることを教えてくれたとでも言っておこうか。すべての矛盾と欲望を持った人間としてありのままの私を示すことを恐れないということを教えてくれた。ドロンは偽善者ではない。ドロンは卑怯者でもない。

FP
:ではなぜドロンは『パリの灯は遠く(Monsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督 1976年)以降、芸術的野心を持続することができなかったのですか?なぜ悪を糺す意固地な顔の正義派の役ばかりを演じることに満足するようになったのですか?
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:しかし他の役など私には何もくれなかったのだよ。なぜなら私は典型的な50年代”古典“映画の俳優なのだから。第一、私はヌーヴェル・ヴァーグに乗り遅れた。その後クロード・ソーテもアラン・レネもモーリス・ピアラもロマン・ポランスキーも私に一度も役をくれたことはなかった。しかしながら私はすべてに開かれた男優なのだ。去年ゴダールの映画に飛びついていったのを覚えているだろう。

FP
: あなたがそれを制作するつもりだったのでは?
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: とんでもない!そうしたら私は気が狂っていただろうよ! ゴダールというやつは、シーンを”感じない“と言って撮影現場で午後3時に突然すべてやめてしまうんだ。俳優たちにしてみればそれは刺激的なことかもしれないが、制作者にとってそれは致命的だ!

FP
: 撮影現場ですべてを統率管理したがるというあなたの評判がある種の映画作家たちを遠ざけているのではないですか?
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: それは全くの嘘っぱちだ!私は無能なやつらと組む羽目になった時だけしか撮影の主導権を取らない。その時も制作者たち自身が私に指揮を取るように嘆願してくるんだ。そんなことは二度あった。映画編集を私自身が指導しなければならなかったことは何度あったことか!

FP
: ドロンはどんなふうに仕事するのですか?
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: 彼は仕事しないのだよ、天使さん(mon ange)。彼はそのままあるのだ(Il “est”)。彼は現場ですべて覚えた。彼はその役の人物に支配されるにまかせ、彼は自分を信頼している。ひとつだけ私が真に影響を受けた言葉があるとすれば、それはピエール・フレネーPierre Fresnay 俳優、演出家、1897 – 1975)のもので、彼とはジョゼフィーヌに宛てたナポレオンの恋の手紙をレコード録音する仕事を一緒にした。「撮影カメラ、それは愛人なのだ。カメラと性交しているかのようにそれを見つめなさい」
実際のところ、映画とは過ぎゆく生の反映でしかない。社会は進化するが、映画は進化せず、ただ後を追うだけだ。今日、人々が必要としている映画は存在するが、その中で私は取り残されていると感じている。私にはもう目標がない。だがそれは大したことではない。私を心から楽しませたことなど何もなかったのだから。そして50歳になった今日、熱情だけが私の関心だ。

FP: 50歳?ええ?本当ですか
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: あなたはいくつだね?
FP
: あなたより20歳若いですが、それにしても、あなたは今55歳なんですよ!
激怒してドロンは私の座っているソファーに詰め寄ってきて、私の両目の縁を調べるかのように近づいた
FP
: あなたは紳士ですよね!
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: 親愛なるアンヌ・パスコーさん
FP :
 違います、ファビエンヌです、親愛なるジェラール・ドロンさん!
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: 親愛なるアンヌさん、そう私は言ったのか、人は私がドロンであると同時にドロンでないということを咎めるのだよ。どうしたらいいのだ? もしも私が実生活において俳優であったら、スクリーン上での私ほど良くはないということを私はよく知っているのだ。私は誠実だ。しかし誰も私を真に知ることはない。あなたがたはみんな氷山の一角しか見ていないのだ。あなたに関して言えば、私はもうすぐあなたが他のやつらと同じかどうかを知ることになる。もしもあなたが、他のやつらのようにドロンを叩く記事を書くとしたら、それはあなたが利口ではないということであり、あなたが何も理解できなかったということなのだしかし結局のところ、ドロンは何とも思ってはいない。フランスでは伝説となったものは叩かれ、伝説を攻撃することは偶像破壊者に背くことになる。そういうフランスを傷つけることはできないのだ。


ここで初めてドロンは微笑んだ

テレラマ誌19901212日号

(↓)『ダンシング・マシーン』(1990年、ジル・ベア監督)予告編