2023年3月21日火曜日

民の憤怒の貯蔵庫を開け放つ

【年金改革法に反対する】
 ニコラ・マチューのフランス政府とエマニュエル・マクロンへの手紙


2023年春、エリザベート・ボルヌ内閣が強引に可決させようとしている年金改革法をめぐって、全労働組合が足並みを揃えて反対し、公営交通/運輸/電力/石油精製/学校/病院/ゴミ収集などのストライキによって政府にその廃案を要求している。反対運動は前代未聞の(全フランスの機能がマヒしかねない)規模に拡大し、繰り返される全国統一行動日にはパリおよび大都市だけでなく中小地方都市にも大規模デモが発生し、最高時には全国で250万人のデモ動員を見ている。世論調査はこの反対運動を国民の6割が支持するという数字が出ている。この大衆的に高揚した大反対運動に耳を傾けることなく、(議会内絶対多数の賛成票が見込めないと踏んだ)ボルヌ内閣は、3月16日木曜日、奥の手の「49-3」(憲法によって規定されている、議会票決を通さずに政府責任で法案を可決させる強行策)によって同法案を通した。これに対して反対する野党と全労組と学生および市民は激昂し、運動は過激化し、3月第4週木曜日(23日)に予定されている全国統一行動日には何が起こるかわからない情勢。

 そんな中、2018年度のゴンクール賞作家ニコラ・マチューが、国会での「49-3」強行可決の直後にインターネットのニュースメディアである「メディアパート」にボルヌ政府と大統領マクロンにあてた書簡のかたちで、激しい抗議文を投稿している。ニコラ・マチューは、このブログではレイラ・スリマニやヴィルジニー・デパントと同じほどの高い評価で紹介している作家で、これまでの2作品(2018年ゴンクール賞『彼らの後の彼らの子供たち』、2022年『コネマラ』)の紹介記事はわれながらかなり熱い。

 以下ニコラ・マチューのメディアパートへの投稿を全文(無断)翻訳して転載します。

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今日、この嘆かわしい年金改革の顛末のあとに、エマニュエル・マクロンといういとも風変わりな権力に一体何が残っているだろう?この権力は見知らぬところから現れ、即席にできあがり、リベラル経済策の実行部隊(タスク・フォース)として、極右政党への拒否感と旧政治勢力の解体に便乗することに成功して

この国でごく少数の人々しか望んでいないプロジェクトを実現しようとする。その権力、その権限を行使しその決定に効力を与える彼の権利に一体何が残っているのだろうか?その正当性は残っているのか?

 
確かに去年の春選挙は行われ、その投票はひとりの大統領をエリゼ宮に赴かせ、議員たちを国会に送り、ひとりの女性首相が指名され、政府が組閣された。これらすべては法律の尊守のもとに履行された。選挙制度という一季節だけの主人たちはその玉座に座り、選別と立証という重大な仕事を成し遂げたのだ。

 確かに共和国はその金、その命令系統、その警察、その権利を伴って常にそこにあり、この奇妙な王をその頂点にいただき、憲法がその気まぐれを戒め、国家の礎は2世紀半にわたる混乱と内戦の中に埋没してしまう。機械は動き、合法的で、法学者の視点からは議論の余地がなく、すべての歯車は所定の位置にあり、国旗のもとに規則正しく回っている。

 しかしその正当性は一塊りのものではない。

 それは測られ、比較され、吟味されるものだ。その企業幹部マネージャーのようで金儲け主義で裕福な年金生活者に都合のよい政治、その上級管理職的で超高給コンサルタント的な体制を指示するような真の民衆の意志がない状態で二度選出された大統領、彼と政治的に対立する意見を持ちながらも最悪の候補者の当選を妨げるために投票した人々のおかげで二度も選出された大統領、2022年当選時には国民的な歓迎を受けるほんの短い期間もなかった大統領について、われわれは何と言うべきか?

 その1ヶ月あとに現れた大統領多数派なき国会については?そのことだけでもその大統領派の雑多性によって国としての信用を失い、政策に対する強く即座の拒否感を生み、過去5年間で顕著だったゾンビー的追従を繰り返した大統領派レミング(註:集団自殺するとされる北極圏のネズミ科動物)たち、その政治的シロートさだけが彼らの前任者たちとの唯一の断絶点だったのだが。

 そしてこの政府については何と言うべきか?彼らが自分たちでも半信半疑の改革政策を、「49-3」という分娩鉗子を用いて無理矢理世に出そうとし、具合が悪くなり、身動きが取れなくなり、党員たちの統制がきかなくなり、評決に足りなくて援護を要請している他党議員たちの同意を得るのが不可能になっている。

賛同者の少ない不安定な椅子に座りながら、あたかも国民投票に大勝利したかのように政治を進める政府、組合団体を軽視し、街頭の声、労働者たち、病院、学校を無視し、社会危機のさなかにジェフ・ベゾスを歓迎して勲章を与えるが、そこまで彼を高みに上らせた人々の声を彼は聞こうとしないのだ。

 この権力は公共の利益というものを業績パフォーマンスという色眼鏡を通してしか見ず、生命を数字に置き換え、そのエグゼクティヴ本部型の言語に紛れて上下、左右、遠近を混同し、恥知らずにも虚言を吐きながらすべては乗り越えられると信じ、「責任は私がとる」と言い切るのだ。この権力は「地球は平らである」という程度に正当性がある。すなわちそこから眺める視点ではそう見えるのだ。この権力は自分がサパティスタ(註:1910年代メキシコ革命の闘士)という程度に正当性がある。すなわちごくわずかにということだ。この権力はウォーターゲイト事件の後のニクソンと同じ程度に正当性がある。すなわちどんどん無くなっているのだ。この権力はわが国の国家制度に定められた条文を機械的に読めば正当性はある。しかしこの権力は真の民主主義政治における正当性を付与するものを失ってしまったのだ:それはある程度の国民的賛同なのである。

そしてこの最後の強行手段、すなわち「49-3」は前もっては行使するつもりはないと排除しておきながら、その行使がその権力を維持させその政策を続行することを妨げるものでないとなると、その権力を失墜させるものではなくなってしまう。

この権力に私たちが期待することはもはや何もない。偉大さや国民重視の考えなど全くないし、この権力で私たちが認める未来を望める可能性はない。私たちはそれが言う数字やその不器用さやその自画自賛はうっちゃっておこう。この先どんな政令にもどんな法律にもどんな政治公約にも私たちは無関心に肩をすくめるのみ。その大言壮語、その大袈裟なジェスチャーにも私たちはもはや何の関心も払わない。それが役に立つのならこの権力を私たちは彼の仲間たちだけに置いておこう。それが彼らにとって楽しいのなら私たちはこの権力を見捨てよう。もはやその威信はなく、私たちは全歴史をかけて彼らに恥を知らせることになろう。

 

しかしながら、現在の状況に深く悲嘆しながらも、こんなことも夢想したりもする:廊下である国会議員、ある上院議員、ある秘書官、ある大臣の腕を捕まえて、睨み付けて、小声でこう尋ねてみたい。

 

「あなたたちはわかっているのですか? あなたたちがしたことについてあなたは少しは自覚しているのですか? あなたたちはどれほど多く人々の堪忍袋の緒を切ってしまったのか知っているのですか?(訳注;この部分の原文↓)

Savez-vous quelle reserve de rage vous venez de libérer ?

(直訳:あなたはどれほど大きな怒りの貯蔵庫を開放してしまったのか知っていますか?)


多くの仕事を抱えて曲がって捻れてしまったこれらの肉体はあなたたちのせいで病気になるまで、あるいはたぶん死ぬまで働かされることになるということをあなたたちは考えたことがありますか?彼らの恨み、痛み、怒りの上に企業を大繁盛させる輩たちのためにあなたたちは花道を開いてしまったのですよ?あなたたちは2027年(註:次の選挙)を夢見ているのですか?小さな町々、そのあらゆる地区で暮らす人たちの「月末」を考えたことがありますか?選挙などそれどころではない選挙民たち、殺人的な生活苦、ガソリンを満タンにできるかできないか、子供たちをヴァカンスに送ることの困難、人並みの医療が受けられない人々、そういうことを考えたことがありますか?この子供たちが将来医者にも弁護士にもなれないのは、第一学年でよい学校を選択しなかったからなのですか?


 ホテルで便器を磨きベッドメーキングをする女性たち、三交代制の工場労働者たち、夜間タイムテーブルの機関士、道路運送運転手、看護婦、助産婦、3-4-5歳児学級の教育者、文具店の単純労働者、オープンスペースで働く従業員、骨の髄までストレスがたまり、ディジタルとスピードに長けた若い世代に追い越され、早く死ぬだろう男たちとその未来の寡婦たち、重いまぶたの仲間たちが12時間の労働を終えてビストロで乾杯する、青の作業着のままで、手には塗料や汚れが残っている。そして女たちはもっと高い代償を払う、またしても、女だから、母親だから、アマゾンの倉庫で梱包仕事をするこれらの何千人もの人間たち、あなたたちはこの人たちのことを考えたことがあるのですか?
この人たちもあなたたちと同じように一回きりの人生しかないということを理解していますか? この人たちの時間というのは、あなたたちに都合のいいバランスと市場経済の算出する要求を満足させるためにいくらでも修正できる単なるデータではないということを理解していますか? 

 この人たちがあなたたちのせいでこの先少し早めに死ぬことになるということを知っていますか?それをよそに使い方を知らないまま余っている金が垂れ流されているというのに。あなたたちが君臨しているこの世界では、すでに継続的に食糧を配給することが不可能になっていて、愉楽を減らし、そのできるところで我慢し、時間を切り詰め、力が足りなくなり、その余命を削らなければならないところに来ているということを考えたことがありますか?

いいえ、あなたたちはそんなことを考えたことがない。それなら、この世界は今や全体がぶちまけられた灯油の層で包まれていて、あなたたちはマッチ箱を片手に遊びまわっている子供たちそのものです。」

ニコラ・マチュー in “Médiapart” 2023318日)


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