2024年9月2日月曜日

Start your impossible

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
アメリー・ノトンブ『叶わぬ回帰』


2024年夏の終わり、アメリー・ノトンブの33作目の小説は、2012年フランスのテレビドキュメンタリー"Une vie entre deux eaux(『二つの水源に培われた生』)"のために16年ぶりの日本再訪を果たして以来、その11年後の2023年5月に友人とふたり旅で日本を再々訪した際の旅行記である。
在大阪@@@@@ベルギー領事の娘として5歳まで自分を日本人だと信じて神戸夙川で暮らしていた作者、21歳で日本人として日本に生きたいと望んで再来日した3年間はかのベストセラー『畏れ慄いて(Stupeur et tremblements)』(1999年刊)に描かれたように就職した大貿易会社の激烈なパワハラによって頓挫し、ヨーロッパに戻りパリを”第三の祖国”として作家として大成功を収める。ノトンブはことあるごとに小説(6作ほどか)に日本を登場させ、日本が最愛の国であることを繰り返し表明している。最愛の国なのに、作者はそこに生きることができない。あらかじめ拒絶された片思いの恋人のように、一体となりたいのに絶対にそれは叶わない。この小説の題”L'imposible retour"は既に多くを語っている。
 発端は25年来の親友で写真家のぺプ・ベニ(Pep Beni、実在の人物かどうか定かではない、実在としても仮名であろう)がフランスの権威ある写真賞であるニエプス賞を受賞し、その副賞としてエール・フランス往復航空券( x 2枚)があり、彼女はノトンブを道連れ(兼ガイド)として日本に行くことにした。このペプというのが一筋縄ではいかないキャラの女性で、我が強く、口が悪く、欲しいと思ったものを譲らない、その上に強度のアレルギー性喘息を持病としていて、埃やダニなどの害虫に過敏に反応して呼吸困難症状を起こしてしまう可能性がある。日本に着いてホテルや旅館に「部屋や寝具の殺菌システムは完璧か?」といちゃもんをつけ、少しでもアレルギー反応の兆候をかんじとるや、「部屋を変えろ!」「宿泊をキャンセルする!」と一悶着起こしてしまう。実際に京都の旅館を深夜過ぎにキャンセルして、京都の”衛生万全”なホテルを未明まで探し回るというエピソードがある。年上で世話役のような立場を引き受けたノトンブは、このペプのわがままをすべて聞いてやる、という立ち回りを終始余儀なくされる。この二人の関係を読む者はよく理解できないのではないか。
 時期は2023年5月20日(フライト:CDG→関空)から5月30日(羽田→CDG)まで、京都(奈良訪問を含む)と東京(高尾山から富士眺望を含む)の2拠点中心のエッセンシャル10日間コース。もちろん”ツアー”ではない。勝手気まま個人旅行で、イニシアチブを取るのがガイド兼通訳ノトンブである。ハローキティはるかに乗り、お好み焼き/うどん/そば/かき氷を食し、うさぎカフェを訪れ、ホテル地下の高級銭湯に浸かり、金閣寺で三島を想い、銀座ルパンでカクテルを嗜む。その類いまれなる日本愛ゆえ、日本のすべてを熟知していると言いたいようなノトンブの知ったかぶりは、ある程度許容して読まないとボロばかりが気になってくる。それは外国人で”通”を自称するユーチューバーの日本体験記にも似ている。まあ日本人の”通”のパリ・リポートも似たようなもんだが。それでも文芸作家ノトンブであるから、凡百の素人旅行記にはないような、三島、吉本ばなな(日本滞在中ゆったりした黒ブラウス+黒の台形ロングスカート+コンバットブーツばかり身に着けていたのは吉本ばなな扮装したかったから、と言っている)、ジョリス=カルル・ユイスマンス、ニーチェなどが顔を出したりする。
 そして日本と切り離せないのが2020年コロナ禍期に亡くなった父パトリック・ノトンブの思い出である。ベルギー外交官としてアジア諸国の領事と大使を歴任した父のことは2021年度ルノードー賞を受賞した『最初の血(Premier Sang)』という秀逸な作品(爺ブログ評価★★★★☆)でオマージュを捧げているが、日本には大阪領事(1968〜1972、アメリー誕生の時期)、そして大使(1988〜1997)として在任している。今回の旅行で、京都の最初に訪れたのが清水寺で、1989年にアメリー(2度目の滞日期)とこの寺に一緒に来た父は「この美しさに打ちのめされていたかのように、無言で険しい顔になり、苦しむように大きく目を見開いた」と。そして「私が美しさに見惚れる時、父と同じ表情をするようだ」(p37)と。
 しかし、日本をめぐるアメリーの過去をよく知るペプは、この旅行を一緒にするに際してノトンブにノスタルジーに浸るべからず(カウンターをゼロにリセットして日本を再発見すべし)という条件をつけ、それを作者は事前に承諾したのだが.... この父の思い出のように、さまざまな記憶の噴出は妨げられない。この本のかなりの場面でノトンブは涙の噴出を抑えられなくなる。
 さて、言語の問題である。私は言語は記憶の領域ではなく、慣れ親しみと学習による獲得だと考えている。ノトンブはそれが意識的/無意識的記憶によって(口を突いて)蘇ってくるもののように考えているようだ。彼女の思い込みはそれが流暢な日本語として機能しているように書いてしまうのだ。京都のお好み焼き屋で、店員女性にその日本語の関西訛りについて問われ、「私、夙川に住んどったんよ」(私の超訳)と答え、「あれま、私、西宮よ」と話がはずんだことを誇らしげに書いている(p31)。微笑ましいことだと流してもいい。だがこの本に始まったことではなく、1990年代の作家デビュー時から、このノトンブの日本語理解の問題は大目に見て笑って済ませられるレベルを越えている場合がかなりある。
 例えば、奈良東大寺境内の高所からの眺望と周囲の鐘の音に心打たれ、タバコを嗜まない自分なのに「ここでタバコを吸えたら感動はさらに濃厚になるのではないか」と想像するのだが、そこに”Tabako o suwanai"という注意書きを見つける(p58-59)。これをノトンブは

《 Ne sucez pas de tabac 》
と悪意ある”誤”日仏バイリンガル解釈をしてみせる。なるほど日本語ではタバコは(”fumer"するのではなく)"sucer"するものなのか、と。
 それから日本語で客や初対面相手や目上の人に対する敬語表現をノトンブが訳すときに繰り返される”honorable"という形容詞(例えば”お客さま”→honorable client)は、明らかに時代がかっていて、サムライ映画や「蝶々夫人」様式の過度な日本式 vouvoiementである。能の研究家で演者でもあった父パトリック・ノトンブの影響かもしれないが、現代日本語とはマッチしないですよ。
 このペプとの二人道中の間中、作者はペプの通訳となり、そのわがままで理不尽な要求やクレームなどを旅館/ホテル/店員などに全部通訳して仲介したことになっている。どんな日本語を捲し立てたのであろうか、興味のあるところである。

 小説中、ノトンブはいくつか地名/場所を「忘れた」「覚えられなかった」としてオミットしている。旅行記としては不親切であり、私もそこから場所を推定/特定することができなかった。また間違いや混同もある。出版社アルバン・ミッシェルの編集者もそこまでチェックできないのであろう。だが、「新宿」と「渋谷」の混同はちょっと致命的ではないか?

 2013年の小説『幸福なる郷愁(La Nostalgie Heureuse)』は、冒頭で述べたテレビドキュメンタリー撮影のために2012年に再訪日した体験を描いた作品であるが、そのクライマックスと言うべき事件が、渋谷(スクランブル)交差点で立ち止まり「見性(けんしょう)」というトランス状態を体験した、ということだった。仏教の教えにある「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、と説明される。この2012年の渋谷交差点「見性」トランス体験を、今度の小説の中では「2012年4月に新宿交差点で体験した」(p100)と書いている。これはアルバン・ミッシェル編集者が気づいて上げなければいけないことだと思うよ。あの2013年の小説で最も重要な”場所”だったのだから。
 バー銀座ルパンでバーテンダーが客のさまざまな嗜好を聞き、それに合わせてオリジナルのカクテルを調合し、客にそのカクテルの名前をつけさせる、という趣向があったのだが、ノトンブはそれに「新宿交差点」と言う名前をつける(p90)。ノトンブ自身は含蓄のある名前だと思ったのであろうな。”新宿交差点”では駅西口大ガード下か駅東口アルタ前か歌舞伎町交差点か...迷ってしまうだろう。やはり世界一有名な交差点は渋谷(スクランブル)交差点しかない。これは”日本通”にはありえない混同ではないかしら。

 この「見性」を、ノトンブはこの小説の中で再び体験する。2023年5月27日、在東京フランス人友人カップル(アリスとジェラルド)の車で高尾山までそこから眺望できる富士山の姿を求めてやってきたが、曇天のためその姿は見えず、車を移しジェラルドの取って置きの(秘密の)富士展望の場所という(例によってノトンブは地名を記憶していない)一面の茶畑に覆われたところにやってくる。ノトンブにとって生きていく上に必要不可欠なふたつの飲み物がシャンパーニュと茶。その前者の生まれる場所である葡萄畑で感応できるセンセーションと同じものをこの美しい緑の茶畑で感じ取る。その茶摘み道に歩み出ていくと、雲で見えないが頭の上にある富士山のパワーに包まれていくのを体感する。2012年に渋谷交差点で受けたイリュミナシオン(ひらめき、天啓)と同じもの、「見性」トランスの始まり...。

これを体験するのに、どうして私は日本の地にいなければならないのか?私にはわからない。この地には何か知ることができないものがある(p100) 
なぜ他の国、他の土地でこの「見性」は自分に訪れないのか?なぜ日本でなければならないのか? なぜ日本なのか? ー それがこの本のアメリー・ノトンブの問いなのである。それは一言で言ってしまえば、ノトンブの一途な”日本愛”の昇華であり、それが(ノトンブの中で)予め拒まれたものであるがゆえに、天に近いものに失われる受難劇を(大袈裟に)文章化し、書き続けるアートを自らに許しているのだ、と私は思う。
 国(土地や文化や人間を含めて)を愛するということはどういうことなのか。私は日本もフランスもノトンブ的レベルで愛したことなどない。愛し、そこに同一性(アイデンティティー)を自らに内在化(血肉化)したと思っていたのに、5歳の時にその愛するものから引き離され、21歳で溢れる愛で東京に抱きしめてもらおうと思っていたのに拒絶され逃げるようにヨーロッパに帰ってきた、この引き裂かれた愛をノトンブは何十年も抱き続け、それは膨張し続けている。永劫の片思いへ、こうして時々(この旅のように)回帰していこうとするのだが、それはインポシブルなのである。背表紙にこう書かれている。
Tout retour est impossible,
どんな帰還も叶わない
l'amour le plus absolu
最も絶対的な愛は
n'en donne pas la clef.
その鍵を与えない
そうかい、この小説は最も絶対的な愛の軌跡を描いたものなのかい?
日本のすべてを誰よりも理解し、誰よりも一途に愛するノトンブの思いは届かない。その不可能性を悟り語るから”文学”になる、と思っているフシがある。私はそのいっぱいに膨張したノトンブの頭の中の日本愛そのものが、日本にとってありえないものに読めてしまうのだ。
 2023年5月28日、日曜日、五月晴れ、ペプとノトンブは何のあてもなく広大な上野公園を散策する。カフェテラスに落ち着き、ほぼ無言でノスタルジーに陥っているノトンブを糺して、ペプは過去を思うのをやめて今現在を思って、と気分転換を迫る。それに同意して、ノトンブは今現在を観察する:
私の目は私たちの周囲にあるものを眺めていった。他のテーブルでは東京っ子たちがドリンクを飲んでいた。この5月28日の天気は例外的に晴れわたり、しかも暑すぎない好天だった。人々はこの甘美な光を満喫していた。日曜日、それは空白のために当てられた曜日。日本においてこの空白は私たちの国におけるそれとは異なる。ここでは空白は素晴らしいものであり、日頃人々が求めているものなのだ。空白、それはようやくにして得られた生きる時間なのだ。ヨーロッパにおいて日曜日の空白というのは物悲しいものと思われている。私たちはこの空白を上手に自分たちのものにすることができなかったのだ。私たちは馬鹿げていないか?時間割のない1日、それは人々が探し求める聖なる宝物のはずではないか、この地ではまさにそうなのだ。(p112)

私はこのノトンブの日本における日曜日の解釈に、ノトンブの日本愛のリミットを感じてしまうのだ。何十年も日本を愛してきたと言いながら、何を見てきたのか、なぜにこんなに表層的なのか、もっと掘り下げることを知らないのか?

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
Albin Michel刊 2024年8月21日 160ページ 18,90ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)2024年8月28日、国営ラジオFrance Inter朝番「7-9」(インタヴュアー:ソニア・ド・ヴィレール)で『叶わぬ回帰 L'Impossible Retour』について語るアメリー・ノトンブ