2025年11月5日水曜日

Un résident de la République

J'sais pas pas pas pas pas pas pas
j'sais pas pas pas


Alain Bashung "Résidents de la République"
アラン・バシュング「共和国の住人たち」
2008年アルバム『ブルー・ペトロル』所収
詞曲:ガエタン・ルーセル


新申請から8ヶ月待たされたが、2035年5月まで有効の Carte de résident(カルト・ド・レジダン=居住許可証)がやっと手に入った。この10年有効カードの更新はこれが5回め。フランス共和国のレジデントになって40有余年、その間に6人大統領が変わった。その間私のような外国人居住者には比較的寛容な時期もあったし冷ややかな時期もあったが、毎回このような居住許可更新のときはフランス共和国の役所は”おまえを住まわせてやっている”という態度をあからさまにする。ずっと納税者だし、犯罪歴ゼロだし、少額ながらチャリティー寄付はまあまあしてるし、事業者だった頃はフランス音楽の振興に(微力とは言え)いくらかは貢献していたという自負があるのだが、移民担当窓口はそんな個人プロフィールを考慮するわけがない。私は”移民A"であり、必要書類の不備がなければ、居住許可は延長できる ー とは言え...。多くのメディアのアンケート調査によると、2027年フランス大統領選挙では(アメリカやかなりの数の主要国がそうなったように)極右ポピュリスト候補が勝ってしまう可能性がかなり高い。その空気は私たちの日々の生活現場でも感じることができる。
 とは言っても、私は2017年に病気で早期退職した隠居人であるから、生きる”現場”としてのフランス社会とちょっと距離ができてしまった。私の行動範囲は小さく、病院(6カ所、滞在十数回)と市中ラボと薬局とは親密な関係になった。2015年に今の病気を発症してから、私にかかる医療費は全額社会保障保険から払われ、私は一切負担していない。この点で、私はフランスにいくら感謝しても仕切れないほどの恩義を感じている。フランス共和国に生きているというのはこういうことなのだ、とその度量を実感している。

 私は日本国籍を有する日本人なので、在仏日本大使館に滞在届を提出している。このことで大使館は私の動向がちょっと気になるらしい。数年前2度電話がかかってきた。「あなたの滞在届の”滞在予定期間”の欄が空白になっているので確認したい」と言う。「あと何年で帰国しますか?それとも永住ですか?」と言う。いや、わからないので空欄にしておいてください、と答えると、それは困ると言う。在留邦人の所在の正確な情報を把握する義務が大使館にはあるという意味のことを言ったと思う。私はできるだけ丁重に事情を説明しようと努めた。ガン闘病者であり、病状はかくかくであり、なになにの医療機関で長期に治療を受けているので、今はフランス滞在を続けています、と。すると「その治療はいつまでの予定ですか?」とたたみかける。あのですね、この病気はそれがわかる状態じゃないのです、と答えると「では永住ということでよろしいですか?」とまで言う。私は日本で高い治療費を払って治療を受けるお金がないので、フランスで治療してもらってますが、将来においてひょっとして日本の地で人生を終えたいと思ってしまう可能性がないわけじゃないのです、永住などということはあなたが私に代わって決められることではないのではないですか? ー 「それでは困るのです、おおよそでいいですから、滞在予定を教えていただけませんか?」.... この職員さんは仕事熱心だが、人間の言葉を理解していない。「そこは空欄のままにしておいてください」と言って私は電話を切った。数日後に別の大使館職員から同じ内容の電話が来たので、以前の方に全部説明してありますから空欄のままでお願いします、と突っぱねた。
 これには後日談がある。去年と今年、ほぼ同じ内容のメールが大使館から送られてきた。「このメールは、滞在届記載事項に不備のあった方に送られています。リンクから滞在届フォーマットに入り、不備の部分を記入してください。」そしてそれに加えて「不備部分の記入がされない場合は、滞在者の所在の確認ができなかったことと見なし、滞在届を抹消することもあり得ます」とあり。これは人間ではなく機械が書き送ってきたのだろう、という印象。私は無視しましたよ。
 日本国は疲れる。ー 私にとって”日本国”と”日本”は別のものであり、日本語や文化などで私の基底を形づくってくれ、家族友人+袖触れ合った人々の社会として私と繋がっている”日本”と、”国”は違うものである ー こんなに離れているのに、こんなに縁遠くなっているのに、日本国は私をひどく疲れさせることがある。いつか国との関係が非常に難しくなることもあるかもしれないが、それはまたその時に。

 同じように”フランス共和国”と”フランス”は別ものとして考えている。20代後半で移住した私をフランスは迎えてくれたし、救ってもくれた。私がここまで生きてこられたのは多くはフランスのおかげである。私に生活の糧を与えてくれたのはフランスの文化(音楽)であり、土地で生活する人間になって小さな家族も作れた。日本をほとんど知らない娘を育て、知識を獲得させ、成人させてくれたのは私たち両親よりもフランスの教育だったと思う。詳らかに挙げないが、フランスの嫌いなところは山ほどあるけれど、好きなところはその倍はある。日本にいる自分というのはまるでリアリティーがなくなったので比較はできないが、フランスにいて良かったと思うことはしばしばある。ところが、”フランス共和国(ラ・レピュブリック・フランセーズ)”となると話は違うのだよ。共和国は王や首領や宗教ではなく、民が決めごとを作り機能させていくものだが、共和国が何の支障もなく機能することなどありはしない。共和国は病み、疲れ、揺れ動いたりする。われわれレジダン(résidents、居住者、住民)は(”フランス人”のように)不平を垂れがちで、ビストロのカウンターはいつもそんなことで共和国の現状を嘆いたり呆れたり怒ったりで...。

 アラン・バシュング(1947 - 2009)のこの「共和国の住人たち Résidents de la République 」はその死(2009年3月14日)のほぼ1年前の2008年3月24日にリリースされた最後のアルバム『ブルー・ペトロル』(20万枚、プラチナ・ディスク)のA面2曲め、すなわちアルバム代表曲として発表された。2009年2月28日(死の15日前)、ヴィクトワール賞セレモニー(3部門で受賞)のステージで歌われたのが、この歌(YouTubeリンク)で、その後2度と公の場に姿を現さなかったから、これが文字通り白鳥の歌となったのですよ。この時バシュング61歳、肺がん最末期。
 この歌の作詞作曲はガエタン・ルーセル(1972 - )で、90年代の人気バンドルイーズ・アタックのフロントマン(ヴォーカル/作詞作曲)であったが、2009年からソロアーチストとしても活動している。骨のあるビートフォークロック系の人という印象はあるが、政治的なメッセージを歌う/書くことは稀だったと思う。時代背景を少し説明しておくと、2007年5月フランスの選挙民たちはニコラ・サルコジを新共和国大統領として選出している。このショックは後年に「トランプ2016」「トランプ2024」を体験した今となっては、たいしたものではなかったと思われようが、当時は私もずいぶん揺れたものだった。娘がまだローティーンだったから、この子はこのサルコジ治世下の共和国で生きていけるだろうか、と不安になっていた。私の業界はCD売上の落ち込みがいよいよ厳しく、運営していた会社を閉める覚悟もしていた頃だ。仕事の方はフランスのパートナーたちに支えられて(本当に感謝している)何とか続けられたが、今はあらゆる意味でレジスタンスの時期である、と念じてサルコジの諸政策にも耐えていた。
いつの日か、おまえへの愛が薄れていき
おまえをまったく愛せなくなってしまう
いつの日か、私は笑うことが少なくなり
全く笑えなくなってしまう
いつの日か、私は走ることが稀になり
全く走れなくなってしまう

昨日まで私たちはかろうじて見つめ合うことができた
お互いに身を乗り出せばの話だが
今日私たちの視線は宙吊りのままだ
私たち共和国の住人
ここではバラ色に青い影がついている
共和国の住人たち
元素たちのことなど、おまえの好きにしたらいい

いつの日か、おまえに語りかけることも少なくなり
その日にはおまえも私に何も語らなくなるだろう
いつの日か、私は航海することも少なくなり
その日には地球がぽっかり裂けてしまうだろう

昨日まで私たちはかろうじて見つめ合うことができた
お互いに身を乗り出せばの話だが
今日私たちの視線は宙吊りのままだ
私たち共和国の住人
ここではバラ色に青い影がついている
共和国の住人たち
元素たちのことなど、共和国よおまえの好きにしたらいい



(↑)このヴィデオクリップに主演しているのはメルヴィル・プーポーである。
この歌の中で共和国は "Chérie"=最愛の女性である。昨日まで見つめ合うこともできた愛する人である。背伸びして耳に手をかざせばその言葉が聞き取れ、互いに近づけばその姿を認めて微笑み合うこともでき、愛する人のために走ることもできた。共和国は疲れ、姿を変え、バラ色(左派/社会党のシンボル)も青色(保守のシンボル)も曖昧になり、その建国原理(この歌では”元素たち”という言葉を使っている)も好き勝手に変えられてしまう。いつか私は共和国に愛想を尽かしてしまうかもしれないのですよ。共和国は病み、共和国は疲れ、私たちも疲れてしまう時があるのですよ。
 J'sais pas pas pas pas pas pas pas, j'sais pas pas pas... これは聞いての通り、シェパパパパパパパ、シェパパパ... と言っているのです。"Je ne sais pas"(ジュ・ヌ・セ・パ = 私は知らない)のくだけた口語表現、と言うよりはほとんど幼児語であろう。知らねえよ、知るか、知ったこっちゃねえよ... ー そういうニュアンスなのだろうか。それよりも、”私にはまったくわからないのだよ”と年寄りが嘆いているようにも聞こえる。私たちの信じてきた共和国って何だったのか、とも聞こえる。嘆き節なのですよ。

 で、私は(たぶん作者も歌唱者も)たとえこの先、どんなに共和国を放り出して逃げたいような事態になろうとも、この共和国を注視して何とかしようとする民の意志は抵抗すると思うのですよ。そういう民(レジダン)の端くれでいようと思うのですよ。

(↓)バシュング「共和国の住人たち Résidents de la République」、2008年オランピアでのライヴ。