12月21日、テレビARTEで放映されたウィリアム・カレル監督のドキュメンタリー映画『ルッキング・フォー・ニコラ・サルコジ』は、パリ駐在の外国プレスのジャーナリスト18人の証言で構成されたニコラ・サルコジのポートレイトです。
国内の報道機関(ラジオ、テレビ、新聞、雑誌)の大手は2007年以来、サルコジとその近い友人たちがコントロールしていることは、当ブログのあちこちで書いています。エリゼ宮のチェック(検閲と言っていいでしょう)の手は国内プレスの隅々にまで及びます。ところが、その手は外国プレスにまでなかなか届かない。届いたところで、その口を封じるわけにはいかない。ということで、エリゼ宮は外国のプレスを嫌います。具体的には、大統領の内遊外遊の取材に外国プレスの同行を拒否したり、記者会見の記者席の席順で外国プレスを末席に置いたり、質問順に差をつけたりということです。外国プレスは一様にエリゼ宮のやり方に対して不満を抱いています。取材が思い通りにできないので、国内プレスを参照することになりますが、国内プレスが言わないことが(あるいは自粛していることが)たくさんあることを知っています。
2007年5月に登場した新大統領に、18人の外国プレス記者の多くは、これが本当に自分なのかどうか半信半疑ではしゃぎ回っているやんちゃ坊主の姿を見ます。歴代大統領には見たこともない、ひとつところに留まることを知らない、あらゆるところに飛んで行き、あらゆる分野に言及し、あらゆる問題を解決しようとする過剰にエネルギッシュな大統領です。落ち着きがない。常に動き回っている。すべてをひとりで決める。首相と内閣は人形で,大臣の仕事を大臣にさせずに自分でやってしまう。何かあると大臣よりも先に現地に飛んでしまう。災害,惨事,事件....その現場に行き,生々しい(感情むき出しの)大統領声明を出してしまう。「二度とこの悲劇を繰り返してはならない」とその場で大統領が法を提案してしまう。自分の顔を誰よりも先に出さないと気がすまない。
ベルギーの新聞ル・ソワールの記者は,当選時に早くも「フランスの大統領」ではなく「世界の大統領」としてのリーダーシップを振るおうとするサルコジの気分の高揚を見ます。「正義」と「民主主義」と「人権」を盾に,世界に対してものを言い,その権力を行使しようとする大統領です。
ロシアのテレビNTVの記者は,当選前にはロシアがサルコジの親米姿勢を非常に警戒していて,当選後の露仏関係の悪化を懸念していたのですが,当選の夜コンコルド広場でミレイユ・マチューが歌うのを見て,(おおいに皮肉をこめて)「ソヴィエト時代から続いている露仏友好のシンボル的な大歌手ミレイユ・マチューがサルコジの隣で歌うのを見たら,今後の露仏関係も心配ないな,と思った」とコメントしています。
プーチン,ブッシュ,フー・チンタオ,ブレアといった大役者たちの前に現われたこの新人スターは,大物としての自分の場所を早く確保したくて,国際舞台で目立とうとします。2007年7月,セネガルの首都ダカールでの演説でサルコジは「アフリカの悲劇,それはアフリカ人が人類史に十分に参入していないことである」と言います。サルコジはアフリカでアフリカ人を侮辱したのです。アフリカ・アンテルナショナルの記者はこの時点でサルコジは全アフリカを敵に回した,と断言します。「サルコジはアフリカを有益なものと考えずに,有害なものと決めつけた」と。
そして私生活をあからさまにして,ゴシップ誌を賑わすことを政治利用するのです。セシリアとの別離,その一ヶ月後のカルラ・ブルーニとの恋仲,これをサルコジは「私は大統領であると同時に,ひとりの人間である」と言い訳します。J-F・ケネディになぞらえるのをむしろ自慢するように。ロシアNTVの記者は,プレス報道全体がサルコジの私生活の証人になってしまったことを「グロテスクでさえある」と評します。サルコジの失恋の悲劇と新しい恋人の出現はフランスの内憂外患よりも優先権のある報道材料になってしまったのですから。
2008年1月,エリゼ宮の記者会見でサルコジはこう言います。"Carla et moi, c'est du sérieux." カルラと私は真剣な関係である。その場の記者全員およびその映像を見た全視聴者が,二人の婚約発表の立会人にされてしまったのです。これに先立つ(プライヴェートと言いながら報道陣連れの)二人のエジプト旅行の映像が映されます。カルラ・ブルーニの息子オーレリアン(ラファエル・エントヴェンとの子供)を肩車するサルコジと手をつないで歩くカルラ・ブルーニ。しかしサルコジの肩の上のオーレリアンは終始両目を手で覆い隠しています。これにイタリアのパノラマ誌の記者アルベルト・トスカーノはショックを受け,この二人はメディアを操作する術のすべてを知っている,と思うのです。
米ニューヨーク・タイムズ,英エコノミスト誌,独ZDF,英BBC,スイスRTSR,英タイムズ,英インディペンデント紙,スペイン・エル・パイス紙,独シュピーゲル誌... ここに登場するジャーナリストたちは,一様にサルコジに対して手厳しい批評をします。それは「帝政」の出現を見てしまったからなのです。帝ひとりがすべてを決める国,帝の気分が国を動かしてしまう国,これはスペイン,イギリス,ベルギーといった君主のいる国のジャーナリストでも全く理解できないことなのです。
帝であれば何でもできる,という最も端的な例が,当時23歳の大学生の息子,ジャン・サルコジをEPAD(ラ・デファンス地区開発公団)の総裁に推したことです。フランスの巨大企業の本社ビルが林立し,世界で最も重要なビジネス拠点のひとつであるラ・デファンスを開発管理する公の機関のトップに,法科の劣等生学生をあてがおうとしたのです。これには中国のCCTVのジャーナリストも「中国の本社から冗談ではないのか,という質問を受けた」 と笑います。
経済危機の時代となり,親英/親米から大転換してドイツとの協調によるヨーロッパ主導に乗り換えたサルコジは,アンゲラ・メルケルと親密なカップル関係を築くようになります。対照的に異なる性格の二人の政治家が,少しずつ歩み寄ります。独シュピーゲルの記者がこういうエピソードを言います:「アンゲラ・メルケルの夫が,彼女にサルコジという人間はどういう性格なのか,ということを分かりやすく説明するためにクリスマスにフランス映画のDVDをプレゼントした。それはルイ・ド・フュネスの映画だった」。別証言でニューヨーク・タイムズの記者が「サルコジがいない時にメルケルがその物真似をしたんだ。これはルイ・ド・フュネスよ,と断ってね」。
メルケルはタッチされたり接吻されたり抱擁されることが大嫌いなのだそうです。特にサルコジからそうされることが。(ニューヨーク・タイムズ記者の証言)
2010年7月のグルノーブルでの演説は,このドキュメンタリーに登場するジャーナリストたちの最も批難が集中するものでした。グルノーブル郊外で起きたカジノ強盗事件で,強盗犯のひとりが警官によって射殺されたことから,何夜にもおよぶ暴徒対機動隊の戦闘となったこと,次いでその2日後,ロワール・エ・シェール県サン・テニャンでロマの共同体に属する人間が,警官の検問を実力突破したという理由で警官に射殺され,その共同体の一団が報復で憲兵署などの公的機関の建物を襲撃し,その車を焼き払うという暴動事件があったこと,この二つの事件に猛烈に怒ったサルコジが,言わばあらゆる暴徒(そして不法滞在外国人)への宣戦布告のような激烈な演説をグルノーブルで行います。監視カメラの増設,公安従事公務員への暴力や殺人を冒した者への特別重刑,といった決定の他に,ロマへの特定制裁として,あらゆる違法野営キャンプの撤廃,ロマたちの出身国への大量強制送還が,この演説によって始まります。BBC記者は "Tête Brulée"という表現を用い,ZDF記者は"pitoyable"と呆れ,シュピーゲル記者は"ignoble"と憤怒し,ニューヨーク・タイムズ記者は "dégueulasse"と言い切ってしまいます(仏語わからない人たちは辞書引いてください)。フランスのジャーナリストたちはこういう表現でこの演説を報じたでしょうか。
エル・パイス記者とル・ソワール記者は,この演説の狙いであるFN支持者層の取り込みを見てとった上に,UMP党とFN党の言説がほとんど変わらなくなっていることから,2012年の(ありえないわけではない)UMPとFNの共闘の可能性を予見します。
2011年暮れ現在,社会党候補フランソワ・オランドと現大統領ニコラ・サルコジが2012年5月に決選投票となると想定した場合,各社世論調査を平均すると,オランド57% vs サルコジ43% の得票となるようです。(資料:Songages en France ) この傾向を覆せるとすれば,UMPとFN(現在マリーヌ・ルペンの第一次選挙得票率予想は16〜20%)しかないように私も見ています。
実は数ヶ月前から向風三郎は「サルコジの5年間」(仮)のような原稿を準備していて,毎日このような資料ばかり見たり読んだりして,書くことの肥やしにしております。向風は政治ジャーナリストではないし,このドキュメンタリーに出て来るジャーナリストのような情報量も分析力もないわけですが,憤怒の心の声として "dégueulasse"と言い切るだけの材料はたくさん持っているのです。
Noir Désir "Soyons désinvoultes, N'ayons l'air de rien" ノワール・デジール『無造作でいよう,何ごともなかったふりをしよう』
2010年11月30日,すなわち去年の今頃の寒い日,ノワール・デジールはオフィシャルに解散しました。バンドで最も重みのある男ドニ・バルト(ドラムス)が「Noir Désir, c'est terminé ノワール・デジールは終わった」と告げたのでした。このことは拙ブログのここに詳しく書いてあります。 解散記念日なんて世の中にあるんか!とも思うのですよ。
所属レコード会社Barclayはこの編集盤 を2011年11月28日に発売しました。1周忌盤のような趣きです。タイトルの "Soyons désinvoultes, N'ayons l'air de rien" は,彼らの代表曲「トスタキ Tostaky」の歌詞から取っています。構成はCD2枚とDVD1枚。
CD1の18曲はいわゆるBest Of的なノワール・デジールの良く知られた曲ばかり。"Aux sombres héros de l'amer" , "L'homme pressé" , "Un jour en France" , "Le vent nous portera" など、これからも私たちが聞き続けるであろうノワール・デジールの「クラシック」のオンパレードで、これはファンにはあまり有り難くない1枚でしょう。さらに残念なのは2008年11月に彼らのオフィシャルサイトで(無料ダウンロード)発表された曲"Gagnant/Perdant" (このことも拙ブログのここで触れています)もこのCDには収録されなかったことです。
それにひきかえCD2の18曲はBサイド曲、カヴァー曲、デュエット曲などで構成されていて、あまり一般には知られていないものばかりです。ビートルズ(およびジョン・レノン)のカヴァー3曲("I want you", "Working Class Hero", "Helter Skelter")、クリムゾン("21st Century Schizoid Man")、ジャック・ブレル/レオ・フェレ/ジョルジュ・ブラッサンスの作品が1曲ずつ、ノワール・デジールとしての最後の録音曲であるアラン・バシュング作の"Aucun Express" (2010年録音、2011年4月発売のバシュング・トリビュートアルバム "TELS ALAIN BASHUNG" に収録)。デュエットでは、レ・テット・レッド、ブリジット・フォンテーヌ、そしてアラン・バシュング。ベルトラン・カンタとバシュングは共に突出したヴォイス/ヴォーカル・パフォーマーであったと思うのですが、いろいろな変遷の末に染み入るような声を獲得したバシュングに対して、声帯をめちゃくちゃにしながら突き進んできたノワール・デジール時代のカンタの声はまだこれからどうなるかわからない未成のパワーがありました(そう、ここでは過去形で語りましょう)。
しかし多くの人たちにとって、さらに興味深いのはDVDでしょう。ヴィデオクリップ全種が入ってますが、これは YouTubeなどでも見れるものですからさほど重要ではないでしょう。貴重なのはINA(国立視聴覚研究所)所蔵のテレビ画像で、私が勝手に「テレビと無縁のバンド」と思っていたことを覆して、テレビでもトンガっていたノワール・デジールを見ることができます。さらにドニ・バルトとジャン=ポール・ロワ(ベース)が提供したプライヴェート・フィルムによるライヴやスタジオ録音の映像も、内側からの視点として興味深いものがあります。収録順序はおおよそにおいてクロノロジカルで、1987年(つまり初ヒット"Aux sombres héros de l'amer"の2年前。テオ・ハコラのプロデュースでミニアルバムを作った頃)のテレビ番組映像に始まり、2002年12月のエヴリー(パリ郊外)でのライヴ映像まで収められています。ライヴは既発DVDに収められた映像もありますが、最終トラックとして収められた2001年7月、ブルターニュのヴィエイユ・シャリュ・フェスティヴァルでの「トスタキ」のような宝物の未DVD化ライヴ映像もあります。
CD2枚とDVD合わせて、「トスタキ」という曲は5トラックで収録されています。その歌詞から取ったこのアルバムのタイトル、そして5種類でこの曲を収録している編集、私たちはこのことから、このバンドを1曲に絞ったらこの歌になるんだ、ということを再確認します。1993年に発表されたこの曲は、ノワール・デジールの「1曲」として永く記憶されるでしょう。"Tostaky"とは西語 "Todo està aquì”を約めた表現。意味は「すべてはここにあり」。
CD 1’1. FIN DE CIECLE / 2. EN ROUTE POUR LA JOIE / 3. ICI
PARIS 4. L’HOMME PRESSE / 5. COMME
ELLE VIENT / 6. A L’ENVERS A L’ENDROIT / 8. TOUJOURS ETRE AILLEURS / 9. AUX SOMBRES
HEROS DE L’AMER / 10. UN JOUR EN
FRANCE / 11. MARLENE / 12. LE VENT NOUS PORTERA / 13. A TON ETOILE / 14. LOLITA
NIE EN BLOC / 15. TOSTAKY / 16. LE FLEUVE / 17. LOST / 18. ONE TRIP ONE NOISE
CD 2 1. BACK TO YOU (B side “HOMME PRESSE”) /
2. L’IDENTITE (w/TETES RAIDES) / 3. I WANT
YOU(cover BEATLES) / 4. 21ST CENTURY SCHIZOID MAN (cover KING
CRIMSON) / 5. B IS BABY BOUM BOUM (w/ BRIGITTE FONTAINE) / 6. LA BAS (Ost “BERNIE”) / 7. CES GENS-LA (cover
JACQUES BREL) / 8. DES AMES (LEO FERRE) /
9. A TON ETOILE (remix YANN TIERSEN) / 10. VOLONTAIRE (w/ALAIN BASHUNG)
/ 11. SON STYLE (B side “LOST”) / 12. LES ECORCHES (remix SLOY) / 13. LE ROI (cover
GEORGES BRASSENS) / 14. OUBLIE (remix) / 15. AUCUN EXPRESS (cover ALAIN
BASHUNG) / 16. SONG FOR JLP(ghost track 666667 CLUB) / 17. WORKING CLASS HERO
(cover JOHN LENNON) / 18. HELTER SKELTER (cover BEATLES)
DVD 1. OU VEUX TU QU’JE REGARD (TV-INA) / 2. TOUJOURS ETRE AILLEURS (CLIP)
/ 3. LOLA (TV-INA) / 4. OLYMPIA 89 (private film) / 5. AUX SOMBRES HEROS DE L’AMER (CLIP) / 6. EN ROUTE POUR LA JOIE (CLIP) / 7. PUB
TV TOSTAKY 1992 / 8. JOHNNY COLERE (private film) / 9. TOATAKY (CLIP) / 10.
LOLITA NIE EN BLOC(CLIP) / 11. MARLENE(CLIP) / 12. ALICE BASSE (private film) /
13. ICI PARIS (LIVE LA CIGALE 1993) / 14. LA RAGE (LIVE LA CIGALE 1993) / 15.
TOSTAKY(LIVE LYON 1993) / 16. EN ROUTE POUR LA JOIE (LIVE LYON 1993) / 17.
TOSTAKY (TV-INA) / 18. PUB TV 666667 CLUB 1997 / 19. PUB TV 666667 CLUB 1997 /
20. SEPTEMBRE EN ATTENDANT (private film) / 21. UN JOUR EN FRANCE(CLIP) / 22. A
TON ETOILE (CLIP) / 23. PUB TV L’HOMME PRESSE 1997 / 24. L’HOMME PRESSE (CLIP) / 25. COMME ELLE VIENT (CLIP) /
26. FIN DE SIECLE (LIVE EUROCKEEENNES 1997) / 27. LAZY (LIVE EUROCKEENNES 1997)
/ 28. WORKING CLASS HERO (LIVE GISTI 1999) / 29. VOLONTAIRE (LIVE STUDIO
w/ALAIN BASHUNG 2000) / 30. UN JOUR EN FRANCE (TV-LIVE BUENOS AIRES 1997) / 31.
PUB TV DES VISAGES DES FIGURES 2001 / 32. LE VENT NOUS PORTERA (CLIP) / 33. A L’ENVERS A L’ENDROIT
(CLIP) / 34. LOST (Studio, private film) / 35. PUB TV LOST 2002 / 36. LOST
(CLIP_ / 37. A L’ENVERS A L’ENDROIT – LES ECORCHES (TV LIVE,
VICTOIRES DE LA MUSIQUE 2002) / 38. ONE TRIP ONE NOISE (LIVE EUROCKEENNES 2002)
/ 39. PYROMANE (LIVE EVRY 2002) / 40. LE GRAND INCENDIE (LIVE EVRY 2002) / 41.
TOSTAKY (LIVE, VIEILLES CHARRUES 2001)
NOIR DESIR "Soyons désinvoltes, N'ayons l'air de rien"
2007年大統領選挙の時マジッド・シェルフィはニコラ・サルコジ選出を妨げるために、ヴァーチャル空間「セカンドライフ」を使って、サルコジ当選後の世界のシミュレーションを作ったり、ジョゼ・ボヴェなどのゲストを招いての公開討論会を主催したりしました。しかし、それは大きな効果もなく、サルコジはセゴレーヌ・ロワイヤルに大差をつけて当選します。マジッドは後悔したと思います。あの選挙の時、当地の政治的アンガージュマンを明白にした3大ロックスターたるゼブダ、ノワール・デジール、マニュ・チャオは、「不在」だったのです。来る2012年の選挙には、ノワール・デジールは既に解散していますし、マニュ・チャオの姿も(まだ)見当たりません。しかし、ゼブダは10月から精力的に動き出したのです。ヴァーチャルではダメなんだ、という思いでしょう。もう一度シャツを汗でびしょびしょにして動き回って、人々に直接出会いに行かなければ、と。
その間、ムース&ハキムのアモクラン兄弟は素晴らしい成長を遂げました。その仕事の濃さは当ブログの「オリジンヌ・コントロレ」、 そして「ライヴ - 栄光の20年」のところでも紹介しています。そしてこの兄弟の大躍進に、マジッドは何度もそのステージに駆け上がりたい衝動にかられ、実際に2010年には数回ゲストで出演しています。その時、なんだこれはゼブダではないか、と思った人たちも多かったでしょう。しかし、今夜私たちがわかったのは、"Mouss & Hakim featuring Magyd Cherfi"は"Zebda"と等価ではない、ということ。ゼブダはゼブダである。それはジョエル・ソーラン、レミ・サンチェス、マジッド、ムース、ハキムの5人と、このツアーでサポートしている2人のギタリストと1人のドラマー、全部で8人のバンドのことなのです。
FGOバルバラ音楽センターのコンサートホールは大きなところではありません。キャパ500人ほどでしょうか。これだったら3夜連続コンサートもチケット発売まもなくソールドアウトになるのは当り前でしょう。しかし、この小さなスペースのおかげで、私たちは目の前で、彼らの汗の飛ぶ距離で、ゼブダの帰還を体験できたのでした。レパートリーは1月リリース予定の新アルバム『スゴンド・トゥール』の中の曲を前半に。「教会の周りの日曜日 (Le dimanche autour de l'église)」は、そのファーストシングルになる曲で、トゥールーズのサン・セルナン教会の周りの日曜市のような、フランスのどんな市町村にでもあるような日曜市の風景(多種の物産、多種の文化、多種の人々)を、政府の強要する「フランス国民資格」(L'Identité nationale、ナショナル・アイデンティティー)によって壊されてたまるか、という歌。サルコジ治世のフランスには「フランス国民資格(イダンティテ・ナシオナル)」担当省があり、その担当大臣にブリス・オルトフー、次いでエリック・ベッソンが就任しましたが、2010年末の内閣改変で同省は内務省に統合され、移民/移民統合/国籍/国民資格関係の担当も警察/公安のトップである内務大臣クロード・ゲオンが統括して現在に至っています。オルトフー、ベッソン、ゲオン、これらの大臣たちが(逆説的に)ゼブダを奮起させてくれたのです。もちろんその上に、最もゼブダを元気づけさせたのはサルコジであるということは言うまでもありまっせん。
新曲披露にまぜて、往年のゼブダの定番レパートリー、"Ma rue", "Oualalaradime", "Le bruit et l'odeur", "Pas d'arrangement", "On est chez nous"などでパリのオーディエンスは大揺れになったり、垂直飛びになったり...。MCはマジット、ムスタファ、ハキムが取りますが、サルコジ・ジョーク多数、極右を茶化し、イスラム亡国論を笑い...。そしてこの3人がそれぞれに何度か繰り返すのは「ゼブダは帰ってきたぞ」と、自分たちがそこにいるのを自分たちで確認しているような言葉です。ゼブダであることの喜び、ゼブダでプレイすることの至福を自分たちで祝福しあっているような。
ムースもハキムも舞台から飛び降りて、歌いながら会場をぐるぐる周り一番後方の階段席まで来てくれました。私も娘も汗びっしょりのムースに祝福のタッチ。ハキムは階段席からダイブして無数の腕上の遊泳をしながら舞台に戻っていきました。そして、最後は"Tomber la chemise"、再アンコールのオーラスは"Motivé"で締めました。この人たちが帰ってきたんだから、来年はきっと勝てる、と確信した瞬間でした。
ディディエ・パスカリとロマン・ディディエはその死の衝撃と悲しみの只中にありながら,このやりかけのプロジェクトを最後まで遂行することに決めたのです。 フランスで最も評価の高い録音スタジオのひとつ,パリ20区のダヴート・スタジオでロマン・ディディエ編曲のオーケストラの演奏が録音され,用意されていた十数曲のうち,アランが歌録りをしなかった,あるいはNGだった曲には,ディディエ・パスカリが『シェ・ルプレスト』に集ったアーチストたちの中から6人にアランの代役をお願いしました。ジェアン,クリストフ,ケント,ダニエル・ラヴォワ,エンゾ・エンゾ,サンセヴリーノ。そしてアルバムの最終曲である「無用のワルツ(Une valse pour rien)」は,CDブックレットにクレジットされていないものの,ロマン・ディディエとアラン・ルプレストのデュエットになっています。初めからこうだったのか,それともロマン・ディディエの止みがたい意志でデュエットに変えたのか(私は明らかに後者であると思っています),ロマン・ディディエの最後の友情の証しのようなエンディングです。
パスカリとディディエが最後までやり通した仕事をルプレストはどう思うでしょうか。パスカリはこのブックレットの跋文で,こう詩人に呼びかけます。
Tu verras, c'est beau...(わかるかい,見事な出来だよ...)
Je crois que tu seras content. (きみもきっと満足だろう)
C'est beau... 確かに!ここにはルプレストの最も美しい曲しかありません。私たちはヴェルレーヌと同じように秋の日のヴィオロンとルプレストを聞いてしまうわけですから,このエモーションに涙しない人がおりましょうか。1曲め「海に雨が降る(Il pleut sur la mer)」が始まった時から,私たちは詩人の声とオーケストラの海の音と雨の音を聞くのですから。しかし,歌ったルプレストはこの音を聞いていないのです。
<<< トラックリスト >>>
1. IL PLEUT SUR LA MER
2. DONNE-MOI DE MES NOUVELLES
3. LE TEMPS DE FINIR LA BOUTEILLE (chant : JEHAN)
4. LA GITANE
5. OU VONT LES CHEVAUX QUAND ILS DORMENT (chant : CHRISTOPHE)
6. C'EST PEUT-ETRE (chant : KENT)
7. MARTAINVILLE
8. D'OSAKA A TOKYO (chant : DANIEL LAVOIE)
9. NU
10. ARROSE LES FLEURS (chant : ENZO ENZO)
11. SDF (chant : SANSEVERINO)
12. GOODBYE GAGARINE
13. UNE VALSE POUR RIEN
ALLAIN LEPREST "LEPREST SYMPHONIQUE" CD TACET/L'AUTRE DISTRIBUTION TCT111201-1 フランスでのリリース:2011年12月7日
Many rivers to cross...
この映画で流れるのはジミー・クリフではなく、ジョー・コッカーのヴァージョンです。そしてその目の前にあるのは川ではなく地中海であり、場所はマルセイユで港湾労働者たちのいる地区です。男たちは皆(ムッスー・T&レイ・ジューヴェンのような)青色の作業着を着ています。その背後にある建物はCGT(労働者総同盟)の寄り合い所です。こんなスローガンが見えます:「La crise c'est eux, la solution c'est nous(経済危機は彼らのことであり、解決はわれわれにある)」。映画の時代背景は2011年的今日であり、経済危機とグローバリゼーションを理由に、人が簡単に職業を失う、私たちの生きる現在時です。
映画の始まりは象徴的です。20人の解雇を決めた会社の、その20人を決めるのが組合(CGT)によるくじ引きです。不幸にしてそのくじに当たってしまった人が解雇されるのです。組合執行委員のミッシェル(ジャン=ピエール・ダルーサン)は、その抽選による解雇者の名前をひとりひとり読み上げていきます。その当たってしまった解雇者の中に、自分(ミッシェル)もいたのです。執行委員としてその中に名前を入れないこともできたはずなのに、ミッシェルはその特権を嫌って拒否し、いさぎよく解雇され失業します。
50と数歳、筋金入りの組合活動家、定年前の失業、 結婚して30年、子供たちも孫たちも近くにいる。妻マリー=クレール(アリアーヌ・アルカリード)は若い日に看護婦になるための勉強を断念、主婦/子育てが終わってからは、パートとして家政婦、老人介護、広告チラシの配布などの仕事をして家計を助けています。失職したミッシェルは望みのない求職活動を形式的に続けながらも、孫たちの遊び相手になったり、息子の家の修繕をしたり、というゆったりとした時間を過ごしています。それが海と浜辺のある南の町マルセイユで進行するわけですから、この高年失業も危機的様相が見えません。ベランダでバーベキューを焼き、夕陽を浴びながらパスティス酒をすするミッシェルとマリー=クレールを人が見るとき、この夫婦はつましいながらも幸福に生きていると思うでしょう。
労働者階級であっても30年も働いたあとには、こういう生活が待っているもの、というのが私たちの前世紀までの社会通念だったと思います。 ところが、今日そういう通念はないのです。ミッシェルとマリー=クレールの生活ですら「ブルジョワ」と見て妬む人たちが増えてしまったのです。
Do you remember the 21st night of September ? この映画見終わった翌日、私のカーステはアース・ウィンド・アンド・ファイアのCDがひとりじめで、大ヴォリュームで「セプテンバー」かけてペリフェリック(パリ環状道路)やヴォワ・ジョルジュ・ポンピドゥー(セーヌ河岸自動車道)を走ってしまいましたね。私と同じようなことをした人、かなりいたと思いますよ。 この大富豪の身体障害者フィリップ(フランソワ・クリュゼ)の秘書が、住み込み介護ヘルパーの募集面接で、応募者で刑務所上がりの郊外ブラックのドリス(オマール・スィ)に、「あなた何かリファレンスは持っているの?」と聞きます。するとドリスは「俺のリファレンスはアース・ウィンド・アンド・ファイアだ」と答えるんですね。話が合わない、同じ言葉の意味が同じでない二つの世界。触れ合わない二つの世界を、この映画では"Intouchables"(アントゥーシャブル)と複数形で表現しているのです。"intouchable"は英語の「アンタッチャブル」ではないのです。仏語ではインドの最下層カースト(触れてはならない階級)の意味でも使われます。 この映画で二つの世界はまさに絵に描いたようなもので、大富豪はパリ市内で城館の中に住み、家令/執事/秘書/料理人/家事係を抱えて、エリゼ宮のような家具調度に囲まれ、宴の間ではクラシック管弦楽アンサンブルを呼んでプライベートコンサートができるという環境であるのに対して、郊外ブラックは今さらここで説明する必要のない「郊外=郊外」の環境にあります。これはカリカチュアであると同時に現実描写でもあります。なぜなら、21世紀になって世界の富豪たちはますます富豪になっていき、世界の郊外はドラマチックにその貧困の度合いを増して行っているからです。この加速している二極化は、起こりうる全面戦争の日が近づいてきていることを予感させもします。 すなわち21世紀的には二つの世界は以前に増して出会うことが困難になっているのです。これがこの映画の通奏低音です。あ、この「通奏低音」というのはもともとはバロック音楽用語ですね。奇しくも大富豪フィリップの音楽「リファレンス」はヴィヴァルディなのです。そしてドリスの「リファレンス」はアース・ウィンド・アンド・ファイア。 文学とバロック音楽と絵画(古典もコンテンポラリーも)をこよなく愛するフィリップは実は(全くそうは見えないのですが)スポーツ好きでスピード狂でもありました。 それがある日パラグライダーの事故で四肢が動かなくなってしまいます。この自由を奪われた大富豪は,引き蘢りを余儀なくされ,生への興味を失っていきます。 映画はそこに現われた郊外ブラックの住み込み介護ヘルパーが,生気を失った大富豪を「生の世界」に回帰させてやる,というシンプルな寓話のストーリーです。こういうことだけで,レ・ザンロキュプティーブル誌などは,最初からこの映画にバッテンをつけてしまいます。それもわかります。 ドリスは上流社会のコードを片っ端から破壊することでフィリップの興味を引いていきます。初級フランス語学習者にもわかるでしょうが,フィリップはドリスに対して vouvoiement (ヴーヴォワマン。"vous"あなたと呼びかける丁寧表現)で話し,ドリスはフィリップに対して tutoiement (チュトワマン。"tu"おまえと呼びかけるくだけた町言葉表現)を使うのです。このことで最初から立場は転倒しているのです。 しかしドリスの仕事のひとつには衛生手袋をはめて,フィリップの生物的自然も処理しなければならないのです。最初ドリスはそれを拒否します。彼にとって "intouchable”(触ることのできない)ものだからです。お互いの "intouchable"はラジカルに"touchable"(触ることのできる)に変わっていく,というシナリオ進行です。この映画で強調されるのはスキンシップです。車椅子の乗り降りを初めとして,多くの場面でドリスはフィリップを抱きかかえています。この黒人の大男が小さな初老の白人障害者を抱きかかえる図は象徴的です。触れ合うごとにフィリップはドリスの世界に入っていくのです。 アース・ウィンド・アンド・ファイアはまさにリファレンスなのです。ドリスはフィリップが失いかけていた大地と風と火を取り戻してやるのです。館に引き蘢り,希望のないマッサージとリハビリにうんざりしているフィリップに,生のセンセーションを蘇らせることです。館の中庭にカヴァーをかぶったまま眠っているフィリップの元愛車マセラティ・クワトロポルテ ,これを発見した時からドリスとフィリップの世界は一変します。ドリスはこのマセラティでフィリップにあらゆる大地を再発見させるのです。そして山から(もちろんインストラクター同乗で)パラグライダーで飛翔し,風を肌で感じるのです。とても良くできたエピソードとして,ドリスがバイク屋に電動車イスのモーターを改造させて,セグウェイを追い越すこともできるスピードを出して疾走するシーンがあります。フィリップは初めて遊園地に連れてこられた子供のようにはしゃぐのです。 そして第3の要素である「火」です。これはマリファナなのです。夜中に襲った激痛を鎮めるために,ドリスはフィリップを抱きしめ体を撫でてやり冷水で額を冷やし,という看護でフィリップが落ち着きを取り戻したところで,楽になるからこれを吸ってみろとジョイントを口にくわえさせるのです。 お立ち会い,思い起こしましょう,太古において煙草も大麻も沈痛のための良薬だったのです。Do you remember ?
エリック・トレダノとオリヴィエ・ナカッシュの4作目の長編映画です。私と娘は2作目の『われらが幸福の日々 Nos jours heureux』(2005年)以来の大ファンです。前作の『ごく身近に Tellement proche』(2009年)に関しては,このブログの2009年6月22日の記事 で詳しく紹介しているので参照してみてください。この2つの映画にもオマール・スィがとても良い脇役で出演しています。オマールは2005年から始まったTVカナル・プリュスの毎晩20時40分の小コント番組SAV DES EMISSIONS で人気の出たコメディアンですが,この映画の役どころのドリスと同じように正真正銘の郊外(イヴリーヌ県トラップ)出身者です。 トレダノ/ナカッシュの映画に共通するテーマは,出会えることが不可能に思われる遠くかけ離れた世界が,実はちょっとしたきっかけさえあれば,ある程度の衝撃を越えて親密になれるのだ,ということを映像化してみせることです。寓話と言わば言え。私たちが和解しなければならないものはたくさんあります。 (↓)『アントゥーシャブル』予告編
砂丘。顔と体に煤。腕には革バンドで巻いた羽毛の袖套。アンチークな卑金属のペンダント。MGMTのファーストアルバムや宮崎駿の『もののけ姫』を想わせる図ですが、そこにいるのはどこかの天体からひとりこの荒れ地に送られてきたような心細い顔をするフランソワ。このフランソワはあちらにあるこちらにもあるフランソワと違う,ということを示すために名前の3文字めの上に角をつけて[ à ]としています。宇宙人にも識別可能のような目印みたいに見えます。 この若者の名はフランソワ・マリー。私は多くのフランス人たちと同じように,2009年のサードアルバム『PLAINE INONDABLE』(私はこれを『洪水に襲われやすい平原』と訳してます。拙ブログのここ→He's a rainbowでレヴューしてます)でこの音楽に出会っています。特にその中の1曲 "Be water(Je suis de l'eau)"のクリップにこれまでに見たも聞いたこともない驚くべき才能を感じたのでした。超マイナー・レーベルから発表されていたフランソワの作品は一躍オーヴァーグラウンドで語られるようになり,2010年に英国の大手独立レーベルのドミノ(アークティック・モンキーズ,フランツ・フェルディナンド,ロバート・ワイアット...)がフランス人アーチストとしては初めてのケースとしてフランソワと契約して,この新アルバムを制作します。 E VOLO LOVE これはパランドローム(回文)。左からも右からも同じ文字が並んでいます。スペイン語として解釈するなら「私は恋(ラヴ)を盗んだ」という意味になりましょうか。「エ・ヴォロ・ラヴ」こんなタイトル見つけたら,さぞうれしいでしょうが,そのナイーヴさも隠せません。そのナイーヴさは,恋を盗んだゆえにその罰として地球に落とされてしまった宇宙人のメランコリーのようなジャケットアートにも現われます。最初期のル・クレジオ小説みたいなところもありますね。そこはかとなく宇宙人ぽいメランコリー,これがこのアルバムのポイントでしょうか。
フランソワのステージは2009年にパリ20区のマロキヌリーに続いて,2011年夏はわが川向こうのロック・フェスティヴァル,ROCK EN SEINEで見ました。 後者の野外大ステージはとても場違いでその繊細さが殺されてしまいましたが,もともとこの若者の真骨頂は密室スタジオワークにあると思っていたので,さもありなん,という印象でした。これはアルノー・フルーラン=ディディエも同じで,いくらCDで音の魔術師になれても,ステージではほとんど何も発揮出来ない,というのが私の見方でした。
アルバムは ROCK EN SEINEの2ヶ月後に出ました。良いジャケ,良いタイトル,ということは上で既に述べました。 「音頭」のリズムだった"Be water"の延長のようなエキゾティックで浮遊感あふれる1曲め"LES PLUS BEAUX"が始まったとたん,フランソワの音のマジックはぐっと音数を増した,と思わせます。一回り大きくなったロム・オルケストル(l'homme orchestre)は、前作までメンバー不定だったジ・アトラス・マウンテンズを、アモーリー・ランジェ(ドゥヌンバ、カレバスなどのアフリカン・パーカッション)、ロバート・ハンター(ドラムス)、ジョー・ウィーン(エレクトリック・ギター)、ジェラード・ブラック(キーボード)で固めました。すなわち、ひとりオーケストラ的だった前作までとは違って、バンドの音が骨組みとなった上で、フランソワの宇宙人的なアイディアでの弦や金管やポリフォニー・コーラスやエレクトロニクスが大活躍する、というオーケストレーションです。巧みなアートです。
それはこのアルバムで密室でのイマジネーションから抜け出て、旅する音楽に変わってしまいました。出会いのある音楽、とも言えましょう。アフリカ、トロピカルな島、北アメリカの砂漠、どことも名付けられるハイウェイ、ホテル/モーテル... その出会いに応じてトラヴェラーのように英語とフランス語をごっちゃにして使っているようです。
その英語はブリストルで6年間暮らしていたフランソワの英語で、そのフランス語は西海岸シャラント・マリティームでの少年時代にランボー、ボリス・ヴィアンを読み、ドミニク・アの歌を愛していたフランソワのフランス語です。あるインタヴューで彼のこよなく愛する作家/詩人のひとりにチェーザレ・パヴェーゼ がいることを知り、フランソワのメランコリアの源のひとつはイタリアにもあったのか、と天を仰ぎます。マンマ・ミーア!
前に私は「アマンダ・リアーのような」と形容したフランソワの中性的な声質の官能性は、この英語とフランス語が混じる時のフランス語詞の部分に顕著で、倒錯キャバレー的ですらあります。セクシーだった頃のボウイーを想わせる、地球に堕ちてきた男なのです。
<<< トラックリスト >>>
1. LES PLUS BEAUX
2. MUDDY HEART
3. EDGE OF TOWN
4. CITY KIDS
5. AZROU TUNE
6. BURIED TREASURES
7. CHERCHANT DES PONTS
8. SLOW LOVE
9. BAIL ETERNEL
10. PISCINE
11. DO YOU WANT TO DANCE
FRANCOIS & THE ATLAS MOUNTAINS "E VOLO LOVE" CD DOMINO RECORD FRANCE WIGCD280 フランスでのリリース:2011年10月
アクリ・デ.の3枚目のアルバムが届きました。刺激的です。一言一言、そして一音一音が残ります。望郷("Wali")、クランデスティーノの嘆き("Yeliss n'tizi ouzou"。マニュ・チャオ"Je ne t'aime plus"への目配せあり)、平和こそが解決というメッセージ("La Seule Solution")、海を渡ってきた亡命者たちの道を閉ざすな("Tziri"。ゼブダのマジッド・シェルフィが共作詞とヴォーカルで参加)、暗殺されたカビール抵抗歌手マトゥーブ・ルーネスへのオマージュ("Luken-Lounes"。スティーヴ・ヒレッジのギター/編曲)、マグレブの癒しのブルース:グナワへの讃歌("Mister Gnawi")、シャンゼリゼで茶を飲もうとしたらノマドお断りと言われる("Thé à la menthe")、子供時代の故郷への郷愁("Arggu")、ブルキナ・ファソからスターを夢見てパリに出てきた少女がファーストフード店員で終わる歌("Paris - Hollywood")、流謫の身を月に吠える狼に喩える("Je gueulais à la lune")、90年代にアクリも関わったオルタナティヴ・バンド、ヤン&レ・ザベイユ(2001年にリーダーのヤンが病死)へのオマージュ("Yan et les Abeilles")、バルセロナのバーの歌姫への恋歌("Maria"。アンパロ・サンチェスの素晴らしいヴォーカル)、門戸を開放せよと迫る("Laissez-les passer")。1曲とて不可解な歌はありません。すべて明晰で、すべて膝を叩いて同意したくなり、すべて心を打ちます。こういうアルバムは、そうざらにあるものではないはずです。
<<< トラックリスト >>> 1. WALI 2. YELISS N'TIZI OUZOU 3. LA SEULE SOLUTION (feat. FREDO from LES OGRES DE BARBACK) 4. TIZIRI (feat. MAGYD CHERFI from ZEBDA) 5. LUKEN-LOUNESS (feat. STEVE HILLAGE) 6. MISTER GNAWI 7. THE A LA MENTHE 8. ARGGU 9. PARIS - HOLLYWOOD 10. JE GUEULAIS A LA LUNE 11. YAN & LES ABEILLES 12. MARIA (feat. AMPARO SANCHEZ) 13. LAISSEZ-LES PASSER
AKLI D. "PARIS - HOLLYWOOD" CD RUE BLEUE/L'AUTRE DISTRIBUTION AD1912C フランスでのリリース:2011年10月10日
まずはオマージュ。私たちのほとんどがこの音楽を知る源となったブダ・ミュージックのEthiopiques(エチオピック)」シリーズの監修者フランシス・ファルセトさんが、世界民族音楽界最大の年次見本市であるWOMEX(The World Music Expo)(2011年は10月26日〜30日、コペンハーゲンで開催)から、栄誉ある「プロフェッショナル・エクセレンス・アワード」賞を授けられることになりました。拍手。
思えば「エチオピック」シリーズの第一巻が出たのは1998年のことです。それまでいわゆる西欧社会でエチオピアのポップ・ミュージックを聞くことができたのは、1986年ベルギーのクラムド・ディスクからリリースされたLP、マハムード・アハメド『エレ・メラ・メラ』と、1994年にフランシス・ファルセト自身が選曲監修してアスター・アウェケなど10組のアーチストを紹介した編集盤『エチオピアン・グルーヴ』(仏ブルー・シルヴァー/デクリック盤)だけだったのです。私たちはなぜこの音楽をその前に知ることができなかったのか、それはエチオピアという国の特殊な事情だったのです。誇り高いエチオピアは、植民地だったことがないのです。とは言ってもファシスト政権のムッソリーニのイタリアが、1936年から1941年までこの国を占領したことはありました。しかし概ねは(ハイレ・セラシエ皇帝の失脚まで)3000年の歴史を持つアビシニア王国の歴史なのです。
ワールド・ミュージックが人々の口にのぼってきた80年代後半から90年代にかけて、その世界音楽の都は旧大英帝国の文化を吸収していたロンドンであり、旧ナポレオン・フランス帝国の文化を吸収していたパリであり、魅惑的なルンバ・コンゴレーズの旧宗主国ベルギーの首都ブリュッセルであり、カボ・ヴェルデ/アンゴラの葡語圏アフリカとブラジルの音楽文化を受容したリスボンでした。ところが旧植民地宗主国のないエチオピアは、誰にも見向きもされなかったのです。アメリカや欧州の片隅で、エチオピア移民たちが小規模で楽しむことを除いて、エチオピア音楽は誰の耳にも入ることができなかったのです。なぜなら、状況はさらに悪く、ファルセトが何度も強調するように、ハイレ・セラシエ皇帝の治世末期(60年代末期〜70年代前半)がこのエチオピアン・ポップ・ミュージックの短い最盛期だとすると、その後に軍事独裁政権がやってきて、「エチオ・ポップの春」は脆くも崩れさることになるのです。それを世界の誰も見ていなかったし、知るよしもなかったのです。
フランシス・ファルセトの仕事は今さらながら脱帽ものです。こんな音楽を世界が知らないのはおかしい、という義憤の心の成せる業です。1998年「エチオピック」のシリーズが世に出るや、事情は一変します。多くの人が「何だこれは!」と興奮した驚きを示したのです。われわれの知らないブラス・サウンドのグルーヴ、われわれの知らないコブシ・ヴォーカルのソウル、われわれの知らない断腸のブルースである「テゼタ」、これらは世界音楽の地図で目立つことなどなかったエチオピアを一挙にキューバ並みの重要度で語らせることになるのです。
世界中で興奮した人たちがいたのです。この音楽の虜になり、その表現を自分たちなりに取り込もうとしたバンドが世界の各所に現れたのです。ファルセトの最初の驚きは、アメリカのジャズビッグ・バンド、ジ・アイザー・オーケストラ(The Either Orchestra)の冒険でした。このビッグバンドはその音楽への心酔のあまり、エチオピアに音楽に出会う旅を挙行してしまいます。その記録は「エチオピック第20巻」としてCD化され、未体験の音楽的出会いは、多くの米・西欧・日のプレスで絶賛されました。2005年のことです。このようにアメリカ、フランス、ドイツ、オランダ、オーストラリアなどで、多くの若いバンドがエチオピア音楽にアプローチする試みが発生し、ゲタチェウ・メクリヤ、ムラトゥー・アスタツケ、マハムード・アハメド等エチオピアン・ポップの黄金時代のアーチストたちが世界中から声がかかり、共演へのラヴコールを受けるようになりました。
恐ろしいものです。たった10年ちょっとで、世界がこんなにエチオピアの音楽に夢中になるとは、誰が予想したでしょうか。このアルバムは世界からのエチオピアン・ポップ・ミュージックへのラヴコールをまとめたようなコンピレーションです。選曲者フランシス・ファルセトはこの種のアンソロジー・アルバムは6枚は軽く作れると、そのライナーで述べていますが、それを2枚組28曲に厳選した、まさに「世界はエチオ」と言いたい世界に愛されたエチオピア音楽現象を証明する編集盤です。クロノス・カルテットから清水靖晃まで。スイスのビッグバンド、インペリアル・タイガー・オーケストラや、28歳のクラシック・クラリネット奏者グザヴィエ・シャルルなど。まさにレンジの広い選曲で、コピーではなくこの音楽を愛して自分のアートの中に取り込もうとしている人たちの様々な試みが見えてきます。いつのまにか、この音楽は奇妙ではなく、その縦横無尽に炸裂する金管楽器群の音も、私たちの音楽風景の一コマに落ち着きつつあるのでしょうね。
<<< トラックリスト >>> CD 1 NOISE
1. DUB COLOSSUS (UK-ETHIOPIA) "GURAGIGNA
2. ETENESH WASSIE & MATHIEU SOURISSEAU (ETHIOPIA-FRANCE) "GONDER C'EST BON"
3. RATTLEMOUTH (USA) "CHIK CHIKKA"
4. UKANDANZ (FRANCE-ETHIOPIA) "SEMA"
5. ALEXO (FRANCE-ETHIOPIA) "TECHAWETU!"
6. TEZETA BAND (USA) "AYNOTCHE TERABU"
7. DEREB THE AMBASSADOR (AUSTRALIA-ETHIOPIA) "ETU GELA"
8. MAN BITES DOG & DE AMSTERDAM KLEZMER BAND (HOLLAND-FRANCE-ETHIPIA)"BALAGUE"
9. IMPERIAL TIGER ORCHESTRA (SWITZERLAND) "EMNETE"
10. NUBIAN ARK (ETHIOPIA)"DIMINISHED HEAVEN"
11. DEBO BAND (USA-ETHIOPIA)"ADERETCH ARADA"
12. LE TIGRE DES PLANATES(FRANCE) "YEZEMED YEBAED"
13. ARAT KILO(FRANCE) "ADDIS POLIS"
14. JAZZMARIS (ETHIOPIA-GERMANY) "LANTCHI BIYE"
15. GETACHEW MEKURYA & THE EX (ETHIOPIA-HOLLAND) "ETHIOPIA AGERE"
"INTEGRALE SERGE GAINSBOURG ET SES INTERPRETES 1957-1960" 『セルジュ・ゲンズブールとその演奏者たち全録音集 1957-1960』
セルジュ・ゲンズブール(1928-1991)の歌手デビュー期の音源が,発表から50年を過ぎてパブリック・ドメインに落ちたために,所属レコード会社(Philips/Universal Music)でなくてもこの音源を使ってCD製品が作れるようになりました。既に数社がゲンズブール初期作品集を出していますが,このフレモオ&アソシエ社から11月に出る3CDセットは「Intégrale(アンテグラル)」をタイトルにしています。つまり完全録音集をうたっているわけですね。ミソはゲンズブールだけでなく「Ses Interprètes(その歌手/演奏家たち)」を含むという点で,ゲンズブールが曲を提供した歌手たちや楽団のトラックも入っているのです。3CD66トラック中,ゲンズブール自身の歌およびゲンズブールが録音に関与している曲は46トラックで,20トラックは他の歌手/演奏家/楽団の録音です。水増しと言うなかれ。これが示しているのは、ゲンズブールの作詞作曲家としての評価の高さはかなり早い時期からあったということです。この3CDセットで「リラの門の切符きり Le poinconneur des Lilas」が、8つのヴァージョンで収録され、そのうち5つが他のアーチストたち(ユーグ・オーグレイ、ジャン=クロード・パスカル、レ・フレール・ジャック...)による録音であることを知る時、それは大衆的なヒットとならなかったにしても、もうプロの間でなかばスタンダード化していたのだ、と了解できます。
とかく私たちが思いがちなのは、この時期のゲンズブールというのは売れない下積み時代ということになりましょう。エリザベート・レヴィツキーと住まいを転々と変えながら、ボヘミアンのような生活をしていたとされていますが、レヴィツキー自伝から読み取れるのは絵はほとんど描かず、ピアノバーで日銭を稼ぐ男の姿です。初めてシャンソンを書いたのは20歳頃とされ,それがJulien Grix(ジュリアン・グリックス)という変名でSACEM(著作権協会)に登録されたのは1954年のことです。
同じ1954年にゲンズブールがギタリスト兼ピアニストとして雇われた右岸のキャバレー「ミロール・ラルスイユ」の看板女性歌手ミッシェル・アルノーが、その運命を変えたのかもしれません。ゲンズブールが一方的に恋慕していたようですが、最初冷淡だったアルノーがこの若いギタリスト(そうです、まだ26歳だったんです)が作詞作曲をしていると聞き、急に興味を持ち始めます。そしてゲンズブールにたくさん曲を作って自分のレパートリーを作り,それを自分で歌うように進言します。自分で作詞することに自信のなかった彼は,1956年にセルジュ・バルトレミーという大蔵省役人と出会い,その詩編のいくつかを見て,1編だけ気に入って曲をつけたのが「ロンサール58 (Ronsard 58)」でした。バルトレミーの詩のもう1編に「急げよメトロ (Metro au trot)」というのがあり,それが「リラの門の切符きり」のインスピレーションの源となったと言われています。しかし他のバルトレミーの詩に面白みを感じないゲンズブールは,自分ひとりで作詞作曲することを選びます。
曲が溜まり,ミッシェル・アルノーの後押しで,「ミロール・ラルスイユ」のオーナーはゲンズブールを前座新人歌手として舞台に立たせます。その初めての夜,ゲンズブールは「俺の可愛い女奴隷たち(Mes petites odalisques)」と「リラの門の切符きり」の2曲をガチガチの直立不動で歌ったことになっています。この3枚組CDのフレデリック・レジャンによるライナー・ノーツによると,その夜,キャバレーの中に駆け出しの歌手だったユーグ・オーフレイがいて,「リラの門の切符きり」の歌詞とコード進行を夢中で書き写し,次の夜,自分が出演したキャバレーで歌った,と記されています。
その才能を確信したミッシェル・アルノーはゲンズブール曲を2曲("Douze belles dans la peau"と"La recette de l'amour fou")を1958年1月に録音し,その2曲の入った4曲入りシングル盤は1958年3月に発売されます。これがゲンズブール曲の初レコード化です。それと前後して「ミロール・ラルスイユ」にレコード会社フィリップスのスカウトマンが訪れ,1958年2月に同社ディレクターのジャック・カネティを前にオーディションが行われ,その結果ゲンズブールはフィリップスと契約します。9曲入りの10インチアルバム『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』は1958年の6月と7月に録音され,9月に発売されます。これがゲンズブール自身の初のレコードです。
その発売を待たず,ミッシェル・アルノーの歌などによってゲンズブールの噂はシャンソン界に広まり,ジャン=クロード・パスカル,イヴ・モンタン,フィリップ・クレイなどがゲンズブールの歌を歌いたいと申し出ます(しかし,モンタンとクレイは実際には録音しません)。ジャック・カネティはレ・フレール・ジャックとゲンズブールを引き合わせ,レ・フレール・ジャックは「リラの門の切符きり」をシングルで録音し,58年9月に発売しています。
この時期の重要な出会いは編曲者/楽団指揮者のアラン・ゴラゲールです。ボリズ・ヴィアンとの仲から,ヴィアンの編曲/伴奏をしていたゴラゲールのことは知っていましたが,このフィリップスとの契約で本格的なゲンズブール/ゴラゲールのコラボレーションが始まります。このCD3枚組には最初のアルバム『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』の編曲/伴奏に始まり,アラン・ゴラゲール楽団としてゲンズブール曲4曲を(主にダンスホール用に作られるインストルメンタル・レコードとして)ビッグバンド・ジャズ化した4曲シングル盤『Du Jazz à la une(一面トップのジャズ)』,そしてゲンズブールと共同で担当した映画音楽『山小屋の狼(Les loups dans la bergerie)』(1960年)と『唇によだれ(L'eau à la bouche)』(1960年),また珍品としてゴラゲール楽団のラテン風変名,ロス・ゴラゲロス(Los Goragueros)名義の録音によるゲンズブール曲「マンボ・ミャム・ミャム」なども収められています。
ゲンズブール自身の録音では9曲入り10インチLP『Du Chant à la une!(一面トップの歌)』(1958年),8曲入り10インチLP『NO.2』(1959年),LP未収録のシングル曲『La jambe de bois - Friedland (木の義足-フリードランド)』(1959年),そして4曲入りシングル盤『Romantique 60 (ロマンティック60)』(1960年)がフィリップス正規盤の録音として収録されています。その他にラジオ公開録音のテープとして,1957年12月に「ミロール・ラルスイユ」でライブ録音され,58年1月にラジオParis-Inter(現在の国営France Inter)で放送された「俺の可愛い女奴隷たち(Mes petites odalisques)」,同じく1958年5月にアリアンス・フランセーズで公開録音され,同年6月にラジオParis-Interで放送された「リラの門の切符きり」他2曲(この時のピアノ伴奏がセルジュの父親であるジョゼフ・ギンズブルグ)という貴重でレアな録音が収められています。
またジャック・カネティが経営していた小ホール「トロワ・ボーデ」での1959年のゲンズブールのライヴ録音「リラの門の切符きり」(CD2の1曲め)を聞くと,1年間でずいぶんとこの歌への肉付けがしっかりしたもんだ,と感心します。すでにスタンダードの貫禄があります。そのシャンソンの肉付けやニュアンスや色彩の盛りつけということで言えば,CD2に5曲収められたジュリエット・グレコによる録音が格別です。グレコが歌うことによって,これほど膨らみが出るのか,と驚かずにはいられません。
ですから,他人の録音が入っているということは,このCD3枚組には大変有効なのです。早くもゲンズブール世界の広がりがこの時期にあったことの証言なのですから。
フレデリック・レジャン筆のライナー・ノーツは詳細を極めていて,その周辺の録音についても詳しく言及しています。これをこのまま訳せば,ゲンズブール研究者には大変貴重な資料になるはずです。ぜひ日本で紹介されることを希望します。
おしまいに,1959年録音の『NO.2』の第1曲め『フィンガースナップの男(Le claqueur de doigts)』(CD3の1曲め)は,この3枚組CDのジャケットにも使われている,ジューク・ボックスの前で指を鳴らす男です。1956年にリトル・ウィリー・ジョンが歌い,1958年にペギー・リーの歌で世界的なヒットとなった『フィーヴァー(Fever)』のパクリとよく言われたりもしました。この指を鳴らす男,当時30歳。人はゲンズブールを「遅く来た男」と思いがちですが,今日的感覚の30歳では「早くから才能が開花した男」と思っていいのではないでしょうか。半世紀の時間差で,30歳は同じ価値ではないのでしょう。
<<< トラックリスト >>> CD1 Serge Gainsbourg(1957) “MES PETITES ODALISQUES” - . Serge Gaomsbpirg (1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU – “FRIEDLAND(LA JAMBE DE BOIS) - “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Serge Gainsbourg/Du Chant à la Une(1958) “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “CE MORTEL ENNUI” – “RONSARD 58” – “LA FAMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “L’ALCOOL” – “DU JAZZ DANS LE RAVIN” – “LE CHARLESTON DES DEMENAGEURS DE PIANO” – Michele Arnaud(1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Jean-Claude Pascal(1958)”DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – “LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Hugues Aufray(1958)”LE POINCONNEUR DES LILAS” – “MES PETITES ODALISQUES” – (BONUS) Hugues Aufray(1958) “LE POINCONNEUR DES LILAS” en concert CD2 Serge Gainsbourg/Opus 109 aux Trois Baudets(1959)”LE POINCONNEUR DES LILAS” - Serge Gainsbourg(1959) “LA JAMBE DE BOIS(FRIEDLAND)” – Les Freres Jacques(1959) “LE POINCONNEUR DES LILAS” – Alain Goraguer/Du Jazz a la Une “CE MORTEL ENNUI” – “LE POINCONNEUR DES LILAS” – “LA FEMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “DU JAZZ DANS LE RAVIN” – Michele Arnaud(1958)”LA FEMME DES UNS SOUS LE CORPS DES AUTRES” – “JEUNES FEMMES ET VIEUX MESSIEURS” – Simone Bartel(1959) “ DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – Juliette Greco/Greco Chante Gainsbourg(1959) “IL ETAIT UNE OIE” – “LES AMOURS PERDUES” – “L’AMOUR A LA PAPA” – “LA JAMBE DE BOIS(FRIEDLAND)” - “ LA RECETTE DE L’AMOUR FOU” – Jean-Claude Pascal(1959) “LE POINCONNEUR DES LILAS” - Pia Colombo(1959)’DESENSE D’ENTRER” – Lucien Attard(1958) “LE CHARLESTON DES DEMENAGEURS DE PIANO” – Jacques Larsy et René Gary(1958) “DOUZE BELLES DANS LA PEAU” – Trumpet Boy(1959)”LE CLAQUEUR DE DOIGTS” – Los Goragueros(vo: Humberto Canto)(1959)”MAMBO MIAM MIAM” CD3 Serge Gainsbourg/NO.2(1959)”LE CLAQUEUR DES DOIGTS” – “LA NUIT D’OCTOBRE” – “ADIEU CREATURE” – “L’ANTHRACITE” – “MAMBO MIAM MIAM” – “INFIFFERENTE” – “JEUNE FEMME ET VIEUX MESSIEURS” – “L’AMOUR A LA PAPA” – Michele Arnaud(1958) “IL ETAIT UNE OIE” – “RONSARD 58” – Serge Gainsbourg avec Alain Goraguer Orch(1960)/Bande originale du film LES LOUPS DANS LA BERGERE “GENERIQUE” – “FUGUE” – “LES LOUPS DANS LA BERGERE” –“CHA CHA CHA DU LOUP” – “LES LOUPS DANS LA BERGERE(fin)” – Serge Gainsbourg Avec Alain Goraguer Orch(1960)/Bande originale du film L’EAU A LA BOUCHE “BLACK MARCH” – “ANGOISSE” – “JUDITH” – Serge Gainsbourg/Romantique 60(1960) “CHA CHA CHA DU LOUP” – “SOIT BELLE ET TAIS-TOI” – “JUDITH” – “LAISSEZ-MOI TRANQUILLE - (BONUS) Francis Lemarque + Serge Gainsbourg(b.vo)(1959) “ELLE N’AVAIT QUE DIX-SEPT ANS”
"INTEGRALE SERGE GAINSBOUR ET SES INTERPRETES 1957-1960" 3CD FREMEAUX & ASSOCIES FA5335 フランスでのリリース:2011年11月
(↓)ジュークボックスで指を鳴らす男
SERGE GAINSBOURG
Concert à l'Alliance Française (1958)
CD1 - 2. Présentation par Roger Bouillot 〜
Douze belles dans la peau
CD1 - 3. Friedland (La Jambe de bois)
CD1 - 4. Le poinçonneur des Lilas
CD1 - 5. La recette de l'amour fou
HUGUES AUFRAY (1958)
CD1 - 21. Le poinçonneur des Lilas en concert
ALAIN GORAGUER ET SON ORCHESTRE - Du Jazz à la Une !
CD2 - 5. Le poinçonneur des Lilas
CD2 - 6. La femme des uns sous le corps des autres
SIMONE BARTEL (1959)
CD2 - 10. Douze belles dans la peau
JEAN-CLAUDE PASCAL (1959)
CD2 - 16. Le poinçonneur des Lilas
LUCIEN ATTARD ET SON ENSEMBLE (1958)
CD2 - 18. Le charleston des déménageurs de piano
JACQUES LASRY,SON ENSEMBLE ET RENE GARY (1958)
CD 2 - 19. Douze belles dans la peau
TRUMPET BOY (1959)
CD2 - 20. Le claqueur de doigts
LOS GORAGUEROS (chant : Humberto Canto) (1959)
CD2 - 21. Mambo Miam Miam
フランスに住む人たちが共有する、この9月第一月曜日の悲しみは、私は娘が学校に行くようになってから初めてわかりました。9月第一月曜日は新学年の第一学期が始まる日です。この日を子供たちは最も忌み嫌います。長く楽しい夏のヴァカンスは終わり、この日から生活は「元通り」という現実を思い知らされるわけです。私はフランスで学校生活を送ったことがないし、日本での子供時代の夏休みしか知らなかったし、そんなに夏休みに遊んだ記憶もないし、学生の頃はバイトばかりしていたし、という事情で、こんな悲しみは知る由もなかったのですが、娘は私たちとは違い、毎年この9月最初のメランコリーを実体験して暗い顔になっているのです。私はそれが娘から伝染して、9月のメランコリーを肌で感じるようになったのですが、あらゆるメランコリーがそうであるように、それはある種甘美なものでもあるのです。 このアルバムは2011年9月5日にリリースされました。つまり今年の9月第一月曜日です。この歌がこのアルバムで非常に重要な位置にあることを証明していましょう。私にとってのベストトラックです。 トラファルガーの戦いは1805年、ネルソン提督率いるイギリス艦隊と、ナポレオン皇帝のフランス帝国海軍とそれに追随するスペイン艦隊の連合軍との間に交わされた海戦で、艦船数でまさった仏西連合艦隊をイギリス艦隊が破ってしまいます。ロンドンにはその戦勝を記念してトラファルガー広場があり、ネルソン提督の碑が立てられています。フランスではそのショックが後をひいて、今でも勝てる戦いに負けることを「トラファルガー」と表現します。 アルバムがどういう経緯でこのタイトルになったのかは定かではありません。英ロックに並々ならぬ敬意を抱くボワナール兄弟の、「イギリスさんにはかなわない」という自虐的表現なのかもしれません。 ところがアルバム最終曲の「Bye Bye Bailleur(賃貸者よ、さらば)」を聞いてごらんなさいよ。これは言わばアルシメード版の(ビートルズ)"I am the walrus"で、分厚くサイケデリックなストリングスと弓弾きギター、コーラス、サンプル、ナンセンスな歌詞、クレッシェンドする塊のようなウォール・オブ・サウンド、ニコラのふてぶてしいヴォーカル。たとえイギリスにモデルがあるとしても、こういう歌はイギリスに何らの遜色もないと思うのですよ。 最後にもうひとつ特筆すると、アルバムのいろんなところで、フレデリック・ボワナールの弓弾きギターがよく鳴っています。これもファーストアルバムにはなかったこと。
<<< トラックリスト >>> 1. L'intrus 2. Le Bonheur 3. Je prends 4. A mes dépens 5. Les Petites Mains 6. On aura tout essayé 7. Est-ce que c'est juste ? 8. Les premiers lundis de septembre 9. Nos vies d'avant 10. Tout fusionne 11. Bye Bye Bailleur
Archimède "Trafalgar" CD JIVE/EPIC - SONY MUSIC FRANCE 88697898442 フランスでのリリース:2011年9月5日
しかし何はともあれ
Mais malgré tout,
僕はいつもつとめるようにと自分にこう言い聞かせるんだ...
je me dis toujours d'essayer que...
太陽は歌い 鳥たちは輝き
Le soleil chante, les oiseaux brillent
草原は僕に微笑みかけ 人生は緑だ
L'herbe me sourit et la vie est verte