2026年3月24日火曜日

I'll make it on my own - 『ヴァンクーヴァー』の50年・1

Véronique Sanson "Vancouver"
ヴェロニク・サンソン『ヴァンクーヴァー』


1976年2月27日リリース
(1976年1月、英国ロンドン、トライデントスタジオ録音)


ヴェロニク・サンソン当時26歳。4枚目のスタジオ録音アルバム。9曲/30分。1973年にスティーヴン・スティルスと結婚して米国に移住し、1974年4月には唯一の子供クリストファーを出産し、同じ年に加州のスタジオでスティルスの息のかかった凄腕セッションメン(リー・スクラー、ラス・カンケル、ジョー・ララ、ドニー・デイカス...)と3枚目のスタジオアルバム『呪われ者 Le Maudit(日本題は『悲しみの詩』、けっ、勘弁してほしい)を録音し、9月にリリースしている。おお、さすが加州産のロックアルバムだ、メリケンにはかなわん、と言われたものだった。1983年に帰仏するまでのヴェロニク・サンソンの「アメリカ期 - Les années américaines」に録音された5枚のスタジオアルバム("Le Maudit"、 "Vancouver"、 "Hollywood"、”7eme"、"Laisse-la vivre")のうち、唯一この『ヴァンクーヴァー』は米国で録音されていない。
 その理由のひとつが1975年後半、スティーヴン・スティルスが「ザ・スティルス=ヤング・バンド The Stills-Young Band」というプロジェクトにのめり込んで行き、CSNY再結成の契機も垣間見せながら、スティルスのバンドはそれにかかりっきりという状態で、サンソンのアルバムなどあっち向けほいだったのである。1975年暮れ、新アルバムのアイディアを温めにサンソンは一人フランスに飛び、オワーズ県の城館兼録音スタジオ、エルーヴィル城(この城に関しては当ブログに2つの記事あり:”ホンキー・シャトーの伝説”、”ベトナムから遠く離れて”)に逗留する。
 そこでその後のサンソンのほとんどのアルバムをプロデュースすることになるベルナール・サン=ポールと合流。このサン=ポールとサンソンの間にはいろいろあって極めて険悪な関係にもなったりしたが、結局サンソンと最も長い間音楽制作を続ける仲になる。次作アルバム”Hollywood"(1977年)で、サンソンは "Bernard's song"という佳曲をサン=ポールに捧げているが、この歌はサンソンのレパートリーとしてスタンダード化していく(いい歌だもの)。このサン=ポールが、仏EMIの社員ディレクターを辞めて独立プロデューサーとしての最初の仕事が、1971年ジルベール・モンタニエのシングル "The Fool"(70万枚ヒット、世界12カ国でNo.1)で、その録音はなんとロンドンのトライデントスタジオでなされたいたのである。エルトン・ジョンのスタッフとストリングスセクション付きで。アルバム『ヴァンクーヴァー』のタイトル曲にしてA面1曲めの「ヴァンクーヴァー」のピアノ音やストリングスを含む全体のアンサンブルが、モンタニエ「ザ・フール」のそれによく似ていて、ああ、これがプロデューサーサン=ポールの得意な音だったのか、と後で知ったのね、私は。
 エルトン・ジョンの名前が出たので蛇足で言うと、このエルーヴィル城を『ホンキー・シャトー』(エルトン4枚目のアルバム、1972年)と呼び、『ピアニストを撃つな』(1973年)次いで大傑作『黄昏のレンガ路 Goodbye Yellow Brick Road』(1973年)と続けざまに録音したのがこのエルーヴィルで、エルトンを世界的に知らしめた”Your song"を含むセカンドアルバム『エルトン・ジョン』(日本題”僕の歌は君の歌”、けっ勘弁してほしい)(1970年)を録音したのがロンドンのトライデントスタジオ。この二つの録音スタジオの行き来がエルトンとサンソンを因縁づける何かがあっておかしくない。
 またこのエルーヴィル城で再会した重要人物がミッシェル・ベルノルク(1941 - 2002)。(ヴェロニク・サンソンの生涯を通じての最重要人物となる)ミッシェル・ベルジェ(1947 - 1992)がプロデュースしたサンソンのファースト『アムールーズ』(1972年)とセカンド『私の夢の向こう側から(De l'autre côté de mon rêve)』(1972年)の共同編曲家でオーケストレーションのかなめだった人物。ベルジェとベルノルクの”二人のミッシェル”に捧げて、サンソンは『アムールーズ』に「ミッシェルのために Pour les Michel」という1分の美しいインスト曲(サンソンのピアノとハミング)を挿入している。このベルノルクとサン=ポールの二人に新アルバムのサウンド作りは託されたのであり、このことがサードアルバム『呪われ者 Le Maudit』の米国流サウンドから一転してヨーロッパ寄りに戻す大きな要因となったのである。
 トライデントスタジオは既にアビーロードスタジオと比肩される世界ロック史上の伝説的録音スタジオのひとつであったが、その伝説化に大きく貢献したのがトライデント備え付けのコンサートピアノ、19世紀製造のC. ベヒシュタイン(Bechstein)(←写真)であった。ビートルズ「ヘイ・ジュード」(1968年)、エルトン・ジョン「ユア・ソング」(1970年)、ハリー・ニルソン「ウィズアウト・ユー」(1971年)、カーリー・サイモン「うつろな愛」(1971年)、ルー・リード「パーフェクト・デイ」(1972年)、ボウイー「ライフ・オン・マース?」(ピアノ奏者はリックウェイクマン)(1971年)... などがこのベヒシュタインの音色によって生まれた。
 1976年1月、ヴェロニク・サンソン一行トライデントスタジオ入り。フランスからはアラン・サルヴァティ(g)、クリスチアン・パドヴァン(b)というファーストアルバム以来馴染みのミュージシャンが同行したが、あとは英国側のセッションメンで固めた。目を引くのはマルチイントルメンタリストのモー・フォスター(1944 - 2023)、そしてパーカッショニストのレイ・クーパー(1947 - )  。特に後者はエルトン・ジョンのレコーディングとコンサートツアーに絶対不可欠のポジションを持つ”エルトンズマン”であり、1977年と1979年にエルトン・ジョンと二人だけのツアー(Elton and Ray A Single Man Tour)を行なっていて、この二人は1979年5月、冷戦の鉄の壁の向こう側、スターリン主義ゴリゴリのソ連モスクワでコンサートを敢行する快挙(彼は立ってピアノを弾いていた!)を果たしている。この『ヴァンクーヴァー』アルバムではA面4曲め「自分を捧げて Donne-toi」の全編で鳴り響くさまざまなパーカッション群がレイ・パーカーで、耳を傾けてくださいよ、15秒め頃から低く重くゴ〜ンと音を引っ張っているのは、レイ・パーカーが大きな水の容器に銅鑼(ドラ)をゆっくり沈めていって音を歪ませているのだそう(サンソン伝記本筆者ヤン・モルヴァンの証言)。

 スティーヴン・スティルスから遠く離れて、アメリカから遠く離れて、この『ヴァンクーヴァー』は録音された。1975年から76年、音楽アーチストとしても、私人としても、ヴァロニク・サンソンはあっと言う間に過ぎた2、3年の月日を思い、これでよかったのだろうか、と自問する時期であったろう。時のスーパーロックスターとの電撃結婚、渡米、出産...。ポルナレフのように何が何でもアメリカで成功するという野望を持ってアメリカに渡ったわけではない。音楽的環境はスティルスのおかげで人的交流に恵まれ、スタジオもミュージシャンも最良の条件で録音できるようになったが...。北米でのアーチスト活動は仏語圏ケベックだけが門戸を開いてくれただけで、アメリカでは無名のフレンチシンガーで、多くの目はスティルスの取り巻きグルーピーとしてしか見ていなかっただろう。新大陸での新生活、大邸宅とアルコールとドラッグ、高低差の激しい(暴力を含む)スティルスとの関係、フランスに置いてきたことどもへの未練、ミッシェル・ベルジェ...。ヴェロニク・サンソンの歌詞は”正直に”私小説的であり、その心理葛藤がよく読み取れるし、われわれファンはそれを共有するのをよしとして聴いている。つきあいますともさ。このアルバム『ヴァンクーヴァー』では1曲だけ例外があり、姉ヴィオレーヌ・サンソン(1947 - )が作詞したA面5曲め「わが家の隣家 Une maison après la mienne」(日本題「想い出のメゾン」 - 1976年第5回東京音楽祭銀賞)は、”隣の芝生は青く見える”流ののどかな気になる隣人覗き見フォークバラードで、他の曲との落差大きく、私は21歳の時このLPを入手した時からこのA面5曲めを飛ばして聴くようにしている。
 前作『呪われ者 Le Maudit』に2曲、この『ヴァンクーヴァー』には3曲英語で歌われる曲が含まれている。(上のA面5曲めを除く)フランス語詞で書かれた”私小説的”5曲については、この記事の後編(『ヴァンクーヴァー』の50年・2)で詳細するとして、ここでは英語詞3曲("When we're together" 、"Sad Limousine"、"Full tilt frog" )について語ってみたい。サンソンが英語で歌うのは”アメリカ市場に参入”を目指してのことではない。英語で伝えたいことは概ねスティルスへのメッセージなのである。因みにサンソンが英語で録音した最後の自作曲は1992年アルバム『サン・ルグレ (Sans Regrets)』の2曲め「ルイーズ Louise」である。
 まず一番わかりやすいアルバム終曲(B面4曲め)「フル・ティルト・フロッグ」。フロッグ(frog = カエル)は、伝統的にカエルを料理して食べるフランス人を卑下して英米人が使うフランス人の蔑称、フロッギー(froggie)とも言う。全速力、力いっぱい(full tilt)で奮闘するフランス娘、それが私、と歌っている。
I'm just a full tilt frog (私は必死で頑張るフランス娘)
Stranger in a new land (新天地でのよそ者)
Yes I am (それが私よ)
ガーシュウィン好きで知られるサンソンの、ラグタイムジャジーなテンポの良いコミカルソングで、この曲は後年もライヴでの定番レパートリーとなっていて客ノセに効果を発揮している。
身振り手振りを使って話す
私がフランスから来たなんて誰も見破らなかったでしょ
ちょっとチャンスさえくれれば、私もあなたと同じほど優秀なのよ
私の名前が間違って発音されたら
気が狂った娘になっちゃうわ
でもあなたが何をしようが気にせず私はあなたを愛しているわ

Here I am
So give me a helping hand
Here I am
Doing the best I can
Yes I am, yes I am
必死のパッチで頑張っているフレンチ娘を助けてやってほしい、私は最善を尽くしているんだから、というのがスティルスへのメッセージである。

 それとはトーンが変わって、スティルスとの関係のポジティヴな面に賭けようとするサンソンの姿が「一緒にいる時 When we're together」(A面2曲め)に見える。こんなふうに始まる。
I wanna sing you a little song
And apologize to you
For all the pain I didn't see
When you really needed me
I didn't know
And if I was a rock'n'roll singer (もしも私がロックシンガーだったら)
Maybe you'd love me a little more (あなたは私をもうちょっと愛していたかも)
But I'm trying my best
To stay who I am
For you



 これはサンソン版「ユア・ソング」ではないか、という極端な意見を私は持っている。いろいろあるけど how strong, how strong we are, when we're together、というポジティヴサイドを信じようではないか。そしてブリッジではこう歌っている。
But happiness (でも幸せなんて)
I'll never gamble on it (私は信じないわ)
I don't want your money (あなたのお金なんかいらない)
Don't want a crowd of people (大観衆なんかいらない)
Don't want a crowd of people (大観衆なんかいらない)
When I wanna hold you hand (あなたと手を取り合えば)
And make it magic (それは魔法になる)
Go sing your songs tonight (今夜あなたの歌を歌って)
You'll always be in the (あなたはいつも私の心の)
Middle of my mind (真ん中にあって)
We've got the same smile (私たちは同じ笑顔で)
We've got the music in our minds (私たちの心に音楽を勝ち得たのよ)
Going on going on (ゴーイン・オン、ゴーイン・オン)

これは自分に言い聞かせてるけど、”私”が”私たち”になってた時期は強くて短かったのですよ。 I hope you don't mind I hope don't mind that I put down in words...

 そしてスティルスとの関係のネガティヴサイドを描くのが、B面2曲め「サッド・リムジーン Sad limousine 」である。私、たぶん、このアルバムで一番好きな曲かも。おそらくこのヨーロッパ(フランス→イギリス)でのレコーディングのための旅に出るサンソンを、スティルスがでかいアメ車のリムジンで空港まで送ってくれた情景が描かれている。
You drove me to the airport (空港まで私を)
In a sad, sad limousine (あなたは悲しいリムジン車で送ってくれた)
You told me that you loved me (私を愛してるって言ったけど)
But do you know what the words mean (あなたはその意味を知っているの?)


Do you know what the words mean ? ー その言葉が何を意味するのか知っているのか? 強く辛辣な言い方である。言われたくない。飛行機に向かいながら、サンソンは別れを告げる。(リフレイン部)
So bye... bye my friend goodbye (さらば わが友 さらば)
I must face the road alone (私は一人で道に向かわなければならない)
But I'll make it, I'll make it (でも私はその道を)
I'll make it on my own (自分の道にしてみせるわ)
さてここで、この記事を書きながら発見したのだが、仏版ウィキペディアのアルバム『ヴァンクーヴァー』の項に、この「サッド・リムジーン」のリフレイン部は、ギリシャのプログレッシヴロックバンド、アフロディティーズ・チャイルド(ヴァンゲリス、デミス・ルソス...)の1971年のアルバム『666』の中の1曲「ブレイク Break」のリフレインの”意図しない盗用(plagiat involontaire)"である、という記述あり。意図していなかったが偶然同じメロディー/フレーズが生まれたということ?どれくらいそっくりかと言うと(↓)


まあ、それはそれ、としておこう。この歌のブリッジ部で、何やらもう関係を御破算にしたい様相の空港の別れの悲しみが浮かび上がる。
Butterflies among the alibis 
言い訳の間に舞う蝶々
Quick goodbyes, amid a room full of strangers
見知らぬ人々で満員の部屋での慌ただしい別れ
Broken ties wrapped up my silent lies
壊れた絆が私の沈黙の嘘を包み込み
Trying hard not to scream
私は叫ぶのを抑えるのに必死
Crowded aisles of unconvincing smiles
偽りの笑顔で溢れかえる混雑した通路
Clocks and dials beat out the time
時計と文字盤が時を刻む
As you find me standing here
私がここに立っているのを見届けたあと
Watching you disappear
あなたが悲しいリムジン車の中に
In your sad limousine
姿を消していくのを私は見つめる

空港というのはいろいろドラマがありますよね(歌謡曲的にも)。そして Bye, my friend goodbye。一人で自分の道を進むと決めたサンソンは3度このBye my friend goodbyeのリフレインを歌ったのち、最後の結語を付け加える。
So bye... bye my friend goodbye
I must face the road alone, oh
But I'll make it, yes I know that I'll make it
In the end... we're all alone
In the end... we're all alone... 最後はみんな一人一人。これをもってこの項終わり。”『ヴァンクーヴァー』の50年・2”をお楽しみに。

(↓)ボズ・スキャッグス「We're All Alone」、これも『ヴァンクーヴァー』と同じ1976年の歌。

2026年3月8日日曜日

そ、そ、そ、ソリダリテ!

"La Maison des Femmes"
『女たちの家』

2025年フランス映画
監督:メリッサ・ゴデ(初長編映画)
主演:カリン・ヴィアール、レティシア・ドッシュ、エイエ・アイダラ、ウーラヤ・アマムラ、ジュリエット・アルマネ
フランス公開:2026年3月4日


ラ・メゾン・デ・ファム La Maison des Femmes」はフランスに実在する医療機関である。パリ北郊外サン・ドニにある公立総合病院施設ホピタル・ドラフォンテーヌ(サン・ドニ医療センター)の産科主任だった産婦人科医ガーダ・ハテム=ガンツェールが、臨床経験から多くの女性たちが性暴力および暴力によって心身に大きな影響を被っているにも関わらず、患者たちがそのことを訴えるのは稀で、その被害を訴えてもそれに対応できる医療機関が存在しない、という現実に抵抗して、同病院内に独立した施設として性暴力/暴力やハラスメントの被害者女性専用の医療・心神医療センターを2016年に開設したことが始まり。
 このフィクション映画は、その「ラ・メゾン・デ・ファム」の実際の活動をベースに展開するメゾンの医師たちスタッフたちの奮闘を描くものである。メゾン創設者ガーダ・ハテム=ガンツェールをモデルにしたこのメゾンの責任者であるディアーヌ(演カリン・ヴィアール)は産婦人科医であり、このメゾンの重要な活動のひとつである(主にアフリカ諸国のFGM=女性器切除慣習の被害者たちへの)クリトリス再生手術の執刀医でもある。この病院がそのクリトリス再生手術のパイオニアであることも大きな理由であろうが、このメゾンの門を叩く女性たちにはアフリカ出身者たちが少なくない。北郊外サン・ドニという土地柄もあって、エキゾチックな女性たちが多く見えるが、それだけではない。女性への暴力には人種も国籍もない。映画の重要なエピソードのひとつで、カトリーヌという名の65歳のフランス(白人)女性が裕福な環境にあるが、数十年もの間(社会的に地位も高いとされる)夫にひどい暴力を受け続けていて、このメゾンの門を叩いている。
 傷ついた女性たちを迎えるメゾンの個性的なスタッフたちがみな素晴らしい。医師、理学療養士、心療カウンセラー、ソーシャルヘルパー、セラピーアトリエのアニメーター...。演じるのはレティシア・ドッシュ、エイエ・アイダラ、ウーラヤ・アマムラ、ジュリエット・アルマネ、そしてこの”女性世界”の中でひとり”白人男性医師”ということだけでともすれば敵視白眼視を避けられない運命にある心療医チームのチーフという役でピエール・ドラドンシャン(これが度量の広い人徳者的立ち回りで信頼を勝ち得ていて、好演)。みなこのメゾンの仕事に誇りを持っていて、女性たちへの世の理不尽に熱血的に立ち向かっていく姿勢は揺るぎない。が、実は揺るぎはあり、この激務をこなす上での施設の予算も人員も少なく、患者=女性被害者たちの数は増加の一途だがその来訪をメゾンは拒んではいけない、ゆえにスタッフへの負担は増大していく...。院長ディアーヌはそのストレスを軽減するために、毎日プールで泳ぐことを忘れない。映画は何度かその水泳シーンを映し出すが、これ本当にカリーヌ・ヴィアールが泳いでいるのだろうか、実に見事なクロール泳法で観る者のストレスも運び去ってくれるような美しさ。

 さてこの種の社会的な理不尽さと(人知れず)闘う人々の連帯を描いたフランス映画を、当ブログでは既に3本紹介している。マイウェン監督の『ポリス(Polisse)』(2011年 = 未成年児童が被害者および加害者となる事件すべてを担当するパリ警察・未成年保護部隊BPM、カリン・ヴィアールも隊員のひとりとして出演している)、トレダノ&ナカッシュ監督の『規格はずれ (Hors Norme)』(2019年 = 自閉症児たちを迎える民間NGO施設の責任者=ヴァンサン・カセル、郊外でそのケアヘルパーを養育するエデュケーター=レダ・カテブ)、ルイ=ジュリアン・プチ監督『見えない女たち (Les Invisibles)』(2019年 = ホームレス、長期失業無収入者、元セックスワーカー、元刑務者などの困窮女性たちを日中のみ迎え各種サービスを提供する公立の収容施設)。いずれも卓抜な社会派映画である。しかしこの3本に共通しているのは、この弱者を守るために奮闘する女たち男たちに立ちはだかる壁となるのは、その敵たる社会的な理不尽さよりも、その上で監視する行政だったり役所だったり組織上部だったり、なのである。日常の奮闘激務に疲れながら、勇敢なヒーロー/ヒロインたちはこの”役所”の攻撃にも疲弊していく。悲劇はここにあるのだ。
 この『メゾン・デ・ファム』にも監査が入り、資金の運用などについていろいろ難癖がつけられ、監督官が常駐するようになり、その報告次第では閉鎖もやむなし、という方向に。毎日これだけ多くの患者/被害者/困窮者が門を叩き、人員も時間も施設も足りないのに。”余分な”セラピーアトリエやリハビリジム活動など削ってしまえ、と求められたり。やり甲斐と誇りを持ってこの仕事に従事しているスタッフたちの前でディアーヌは絶対にこのメゾンは存続させる、と息巻くのであるが。
 だがメゾンの現状というのは、そのままの(現予算のままの)”存続”というのは何らの解決ではなく、不十分な施設環境でスタッフたちの過酷な労働条件の悪化は止められない。国や公共機関の施し予算に頼りっぱなしではいられない。ディアーヌはこの危機を、”禍転じて福”とすべく、性暴力やDVなどの女性の問題に理解あるメディア/市民/大企業の協力を訴え、メゾンの拡張化/増設化のプランを立てる。マスコミに露出し、大企業を巡回訪問し、Tシャツなどのグッズを販売し...。行動する産婦人科長、こういう姿のカリン・ヴィアールは堂に入っている。
 映画はメインにこのメゾンの日常的な活動を映し出す。やってくる女性たちは性暴力被害者、DV被害者、性器切除や強制結婚から逃れて難民となってフランスに辿り着いた女性、”事故的”に妊娠してしまった未成年女性、ハラスメントで精神を病んでしまった女性、極端な家父長制因習に耐えられず家庭を飛び出した女性...。長い間タブー視されていたアフリカの女性器切除慣習の被害者が、失われた”女性”を求めてクリトリス再生手術を願い出る者もいる(この”再生”のドラマがこの映画の最重要シーンの一つでもある)。反面(北アフリカ系の家父長制因習の影響と思われるが)家族親族や同じ共同体の人々に指弾されない、真っ当な結婚をしたいので、”処女膜再生手術”をして欲しいと嘆願する娘もいる。← これに対してスタッフは世の”ヒーメン神話”のウソを説明し、それを理由に結婚できない社会にあなたは生きていないと説き、もしもあなたがその時点その種のハラスメントを受けたら、もう一度ここに来なさい、解決策はある、と。
 同時にこのスタッフたちも生身の人間であるから、それぞれ個人的な事情も悩みもある。ディアーヌの右腕のような立場の現場チーフであるマノン(演レティシア・ドッシュ)は、仕事はめっぽうできるしこのメゾンを愛する気持ちは誰よりも強いのだが、往々にして家庭(独立心の強いやり手の夫+幼い息子)との兼ね合いが難しく、メゾンの仕事を優先させてしまう傾向があり、それが夫婦の危機にまで達してしまいそうになる。ディアーヌはマノンと徹夜で飲み、その悩みを解消しようとする。仕事が好きか夫が好きか、その両方が好きだったら、両方ともものにしてしまえばいい(←ごもっともな意見)。
 心療内科医のたまごとして、パリ6区の”高級”病院のポストを断って、この郊外病院の”女性専科”メゾンに研修スタッフとなって仲間入りしたイネス(演ウーラヤ・アマムラ)は、傷ついた女性たちがこのメゾンで少しずつ治癒し再生していくさまざまなドラマを目の当たりで見ることで、この仕事こそ自分が探していたこと、と目覚めていく。しかし彼女に好環境で安定した医師コースを用意していた母はイネスの選択が全く理解できず、二人の関係は悪化する(←まあ、円満なエンディングはあるのだが)。イネスは悩みを上司同僚に告白する。
 そういったスタッフたちの悩みやストレスを一挙に解消してしまうのが、一緒に飲み、一緒に踊り、一緒に歌い、一緒に騒ぐ、というクラブやディスコまがいの場所でのお祭り騒ぎなのである。この戦士たちの羽目はずしシーンというのは、上に紹介した3本の映画『ポリス』、『規格はずれ』、『見えない女たち』にも共通して登場するし、これが観る者を本当に幸せにするし、映画を見事に救ってくれるのである。
 しかしこの映画にも暗部はあり、本文の最初の方で紹介した(DV被害でカウンセリングを受けていた)65歳のブルジョワ白人女性カトリーヌが、夫の暴力によって殺されてしまうのである。なぜメゾンはカトリーヌを救えなかったのか。このショックこそ、今日のフランスで1日に2人の女性が殺されている(2025年の数字で年間782人の被害者)というフェミサイドの現実なのである。だからこそ、このようなメゾンはもっともっと増えなければならない。

 映画の結末部は、晴れて監査報告がこのメゾンの存続を認めただけでなく、ディアーヌのメゾンの拡大と増設のプランも多くの寄付賛同が得られて具体的に進行するようになる、という朗報をバックに、ディアーヌをはじめ傷ついた女性たちを守り治癒再生させる現場で働くスタッフたちが全員街頭に出て、「フェミサイド糾弾デモ」の最前列で(バトゥカーダのリズムに乗って)踊りながら行進していく、という素晴らしいエンディング!こういうヒロイン/ヒーローたちは映画の中だけでなく、実際に現場にたくさんいるのだ、ということを私は知っている。多くの人に知ってもらいたい。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『女たちの家 La Maison des Femmes 』予告編