ベルギーのインディー・シーンの人。もう42歳なのにこれがまだセカンド・アルバム。ファーストアルバム『飛翔(L’Envol)』(2014年)に関しては、2016年3月15日号のOVNI紙上でレビューしたので、読んでみてください。
ブラジル寄りの変則コード進行と、ニック・ドレイク or ディック・アネガルンを想わせる複雑なアコースティック・ギター奏法、そして深みのあるヴォーカル、イヴァン・ティルシオーはそれだけでも十分な魅力があるが、私がファーストアルバムで評価したのはそういう職人的で丁寧な曲作りと、ジョルジュ・ムスタキに近いゆったり余裕ある浮遊感であった。このセカンドアルバムではそういう余裕とか"遊び”とかがスパっと削がれて、厳しい意匠心で作られたような純度の高さがある。曲数もファーストが11曲と少なめだったのに、新作はさらに少なく8曲になった。短くなったというわけではない。5分を越す長い曲が3曲。そしてその8曲のうち、2曲がカヴァーである。その1曲はジョルジュ・ブラッサンスの「哀れなマルタン(Pauvre Martin)」。一生不平も言わず畑を耕し続けた農夫マルタンが、最後に自分の墓を自分で掘って、人に迷惑をかけまいと死んでいく、それだけの凄絶な歌なのだが、ティルシオーはブラッサンス のように淡々と処理せずに、農夫の肖像画を描くようにデリケートに展開していく。このヴァージョンは良い。もう1曲は1934年ジャック・ドヴァル作の劇『マリー・ギャラント』の挿入曲で、パリ亡命中のクルト・ワイルが作曲した「大怪物リュスチュクリュ(Le Grand Lustucru)」。夜眠らない子供たちを食べてしまう怪物リュスチュクリュをテーマにした子供を寝かしつけるための伝承歌からインスパイアされたが、1934年の怪物アドルフ・ヒトラーをあてこすった抵抗歌である。美しくも退廃的なキャバレー音楽をティルシオーはトム・ウェイツモードでニュアンスたっぷりに歌っている。
Je suis vivant 私は生きている Je le sens dans les feuilles 私は葉の中にそれを感じる Je suis vivant 私は生きている J'ai le vent dans les feuilles 葉の中に風があり L'amour, amouragon 愛、愛嵐 Et les feuilles dans le vent そして風の中に葉がある
<<< トラックリスト >>> 1. Caillou 2. L'Oasis 3. Dans la poitrine 4. Pauvre Martin 5. La plage 6. La ruade 7. Le grand Lustucru 8. Réveil Ivan Tirtiaux "L'Oasis" LP/CD/MP3 Le Furieux Music フランスでのリリース:2019年5月
今から30年前には、底辺者になっていくわけのなかった人々がそのまま(ちゃんと働いて)生きていったら、自分も周りもみんな底辺者になっていた。底辺者は生きていくために底辺者を欺き、裏切る。映画はマルセイユを舞台にネオ・リベラリズム経済がもたらしたあらゆる悪のアスペクトを開陳しながら、その最悪のことが、この家族すらも分断してしまう貧困の連鎖であることを浮き彫りにする。マチルダは抜け出すために、最悪の狡猾成金男のブルーノ(義妹の情夫)に何度も肉体も差し出すのですよ(おまけにここに何の情感も罪悪感もない、目的のためならしかたない)。ネット・ポルノと現実の区別もなく、誰もが自撮りセックステープを公開する...。
前作『ラ・ヴィッラ』(2017年)が家族の連帯が復活し、難民保護に連帯する未来に開かれたオプティミスティックな映画だったのに、今回のゲディギアンは無情で分断された民衆の救われなさが支配的だ。いったいどうしてここまで貧乏は人間の心を貧しくするのか。この人間たちの罪を償うために、神はその使者を地上に送ったのだよ(と、私はキリスト者のようにこの映画を解釈した)。この映画ではそれが監獄上がりのダニエルであり、映画の最後に、やはり人間たちの罪を被って、救済者として再び獄中に消えていく。その最後の希望の神々しさに、この映画はUber化された現代社会にも一条の光を見出すように結語するのだが、世界の栄光はもう終わりなのかもしれない。 Sic Transit Gloria Mundi (世界の栄光はかくのごとく過ぎさりぬ) カストール爺の採点:★★★★☆ (↓)『グロリア・ムンディ』予告編
(ソフィー・リュイリエ:ひとつの企業という尺度からすれば、非の打ちどころのない倫理性とは生やさしいことではありません。現代社会の競争のシステムは私たちを倫理へと向かわせません。この競争と倫理を両立させることはできますか?)
アニェス・B「わたしは一度も広告を出したことがない。わたしはそれはまやかし操作だと思っているし、好きではないのよ。わたしはとても頑固よ。今日わたしはそのことのさまざまな結果を被っている。わたしはデビューしてすぐに報道プレスに支持されて、それは30年間も続いた。プレスはわたしの仕事にこれまでと何か違うものがあると認めてくれた。けれど今から10年前頃から状況は変わった。ジャーナリストたちはそのメディアでもはやわたしのことを報道することができないと知るや、ファッションショーにも顔を出さなくなった。その新聞雑誌の多くは広告主たちの団体に牛耳られているから。わたしはそのシステムに属していないので、記者たちはわたしの記事を書く必要がなくなったのね。わたしの服を身につけたわたしの友人の俳優がある雑誌のために写真を撮る時に『だめだよ、アニェス・Bの服着てちゃ』と言われた、という話まであるのよ。すごいでしょ。だからわたしは広告システムの犠牲者なんだけど、しかたないわね。エチエンヌ(註アニェスの長男、アニェス・B社社長)が広告をやろうと言い出しても、わたしは抵抗するわよ。わたしは代表取締役社長(PDG)だけど、いろんな時にわたしはアニェス・B社のスティリストでしかないと思うことがある。なぜなら社長とわたしはいつもいつも同意見ではないから。でも彼にはたくさんの管理すべきことがあり、わたしはそれがたいへんなことだとわかっているわ。
世の道徳(モラル)は変わったわ。わたしがELLE誌でエレーヌ・ラザレフ(註ジャーナリスト/編集者
1909-1988、1945年ELLE誌の創刊者)の下でデビューした頃は、ジャーナリストがメーカーから贈り物を受けとることは一切禁止という鉄則があった。とても厳格だったわ。今日それは完全に消えたわね。このことはもっと語られていいはずよ。」 Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p45-46
(ソフィー・リュイリエ:あなたの政治的な目覚めはいつどんなふうに起こったのですか?)
アニェス・B「ギュフレ校(註:アニェスが通っていたヴェルサイユの私立学校)の最終学年(註:日本の高校3年に相当)の時、クラスに17歳で結婚した友だちがいて、その若い夫は23歳でアルジェリア戦争に招集された。彼女は学校を卒業するために授業に戻ってきたけど、身を黒い衣装で包んでいた(あの当時は誰も黒いものなんか着なかったわ)。彼女は夫を失い喪に服していた上、妊娠もしていて、このことはわたしを動顛させた。わたしはアルジェリア戦争とは何かを深く知ろうと調べ始めた。わたしの両親は頑固な右派だった。わたしの祖父は将校だったけどド・ゴールには全く賛成していなかった。そしてわたしは理解したの、アルジェリアが求めていたものは自治独立だったということを。わたしは理解したの、フランスの若者たちは悪い理由で殺されるはめになったし、それはアルジェリアの若者たちも同じ理由で殺された、と。こんなことがあっていいわけがない。この”フランスのアルジェリア”は”アルジェリアのフランス人”たちにもアルジェリア人民たちにも同じほどのたくさんの苦しみをもたらしたのよ。」 (Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p71)
(ソフィー・L:68年5月革命の時、あなたはこの事件をどのように生きていましたか?)
アニェス・B「あの頃、わたしは毛沢東を崇拝していたわ。ジャン=リュック・ゴダールが『中国女』をつくった頃ね。わたしはまさに左翼だったし、デモの時は街頭で左手の拳を高くかかげてたわ。わたしはその前からデモによく参加してたし、アルジェリア戦争終結の頃はしゅっちゅう行進してた。地下鉄シャロンヌ駅で9人のデモ参加者が死んだ(註:1962年2月1日、アルジェリア戦争反対デモに対する警官隊の過剰暴力事件)ときもわたしは現場にいたし、ピエール・オヴェルネイ(註:ルノー自動車工員で左翼プロレタリア運動(毛沢東主義系)活動家、1972年ルノー工場の警備員に殺害された)の葬儀にも参列したし、わたしは常にわたしの主義主張で抗議活動していた。すなわち、わたしは事件の真ん中にいたのよ。わたしは真剣にこの消費社会を変えるために闘っていたし、社会をもっと平等なものにするために行動していた。いろいろなアイディアが迸り出てきて、雰囲気は喜びに満ちていたわ。でもね、わたしは自分の車で何人も負傷者を運んだこともあるのよ...」 (Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p74)
サラエボハート(Le Coeur de Sarajevo)欧州大陸で、第二次世界大戦後、最も多くの死者(10万人)と難民(200万人)を出した内戦「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」(1992-1995)の時の人道支援について。
アニェス・B「20世紀の終わりの頃にヨーロッパのある都市が、中世の出来事のように敵国に攻囲されたの。つまり住民は水もなく、くべる木もなく、食べるものもなくなった。それは怪物じみたことだったし、ありえないことだった。わたしには5人の子供がいる。養わなければならない子供がいるのに、なにも子供に食べさせるものがない、水さえもない、なんて考えただけで...。わたしは食べ物をつくるとき、台所もなく家族に食べ物を与えることもできない女性たちのことを思うと、今でも心が張り裂けそうになる。 そこでわたしは怒りにまかせてハサミを使って角ばったハートを描き、それをメタルにして2サイズつくって、それぞれ当時の値段で30フランと50フランで売ってサラエボ市民支援金にした。それからわたしのブティックで働いていた青年ロドルフの発案で「プルミエール・ユルジャンス(最緊急)」という名のNGOを創設した。オランダで1箱35フランのケースを買い、ケースの中にはコンビーフ、パスタ、歯ブラシ、ロウソクなどを詰めた。それは最低限必要なものばかりだったのに、セルビア人たちは途中でケース総量の30%も没収したのよ。何台ものトラックがケースを山と積んでパリからサラエボへと向かった。彼らは非常に長い行程を進まなければならなかったけど、みんな素晴らしい人たちだった。わたしはパリに戻ってきて、ボスニア紛争反対のデモ行進をした。50人のデモだった。ある日、わたしはコンコルド広場の真ん中を横切ろうとしていたら、ミロシェヴィッチ(註:スロボダン・ミロシェヴィッチ1941-2006。1987年から2000年までセルビア大統領。戦争犯罪人)が歩いているのが見えた。わたしはたったひとりで彼の前に行き、拳をこんな風に振り上げたの。わたしはミロシェヴィッチと彼がやったすべてのこと、彼が犯したすべての犯罪を心底から憎悪していたのよ。 このサラエボハートを何種類もつくって売ったし、今でもサラエヴォの教育復興のために売り続けている....。 (Sophie Lhuillier + Agnès B "Je chemine avec Agnès B" p75 - 76)