2024年9月29日日曜日

ベルモンドォォォ!

"Vivre Mourir Renaître"
『生き、死に、再び生まれる』


2024年フランス映画
監督:ガエル・モレル
主演:ヴィクトール・ベルモンド、ルー・ランプロ、テオ・クリスティーヌ
フランス公開:2024年9月25日

2018年に(↑と同じように)動詞が3つ並んだタイトルの映画があった。クリストフ・オノレの”Plaire, aimer et courir vite”(拙訳では『愛され愛し速く走れ』、爺ブログ紹介記事あり)。1990年代エイズを背景とした緊急(でポジティヴ)なラヴストーリーで、死にゆく作家ジャック(演ピエール・ドラドンシャン)のモデルはエルヴェ・ギベール(1955 - 1991)とされている。エルヴェ・ギベールと同じほどあのエイズ禍に生き急いだ若いアーチストの象徴となっているのが、歌手/作家/俳優/映画監督だったシリル・コラール(1957 - 1993)である。コラールがエイズ発症中に自作小説を自ら監督&主演して映画化したのが『野生の夜に(Les Nuits Fauves)』(1992年)であり、劇場入場者数3百万人の大話題作となった。

 このガエル・モレルの新作映画はコラール『野生の夜に』との関連を仄めかすものがいくつかあり、まず映画ポスターが同じグラフィックデザイナーによって制作され、色調とタッチを『野生の夜に』(→ポスター)とほぼ同じにしてある。また主役のゲイの売れっ子写真家の名前が"シリル” となっていて、32年前の映画へのオマージュ加減が窺える。
 映画はそのエイズ禍真っ只中の1990年代パリが舞台である。最初は男と女であり、サミー(演テオ・クリスティーヌ)とエマ(演ルー・ランプロ)が出会い、強く愛し合い、男の子ナタンが生まれ、大きなアパルトマンに移って”確かな家庭”を築こうとしている。その二人の出会いの時、サミーは自分がかつて刹那的に男と性交したことがあるこをエマに告白したが、エマはそんなこと何でもないわで済ませた。サミーが新居のアパルトマンを自力で改装工事していると、騒音のクレーム。下の階のアパルトマンを仕事場(暗室ワーク)にしているフォトグラファーのシリル(演ヴィクトール・ベルモンド)が、この音では仕事ができないので、自分の仕事の時間とそっちの工事の時間を調整できないか、と。この最初のコンタクトからサミーとシリルの間に電流ビシビシ。その工事時間調整の謝礼としてシリルはサミー&ナタン親子のポートレート写真を、と。ここでサミーとエマはシリルが世界的に有名なフォトグラファーであることを知り、その写真世界にも惹かれていく。このシリルの写真を世界に売り出しているギャラリー/写真エディターの女主人アルバーヌの役でエリ・メディロス(失礼ながら当年68歳)が出ていて、えっと驚いた(同時にうれしかった)。

 さて、サミーとシリルの電撃の恋で、最初にその激情に抗しきれず激しく接吻していったのはサミーの方だった。これはエマとの恋+家族づくりという数年間で眠っていたバイセクシュアルの本性が激しく目を覚ましてしまった、という感じ。一方のシリルはゲイなのだが、すでにHIV陽性。裸になり辛抱が効かなくなってしまったサミーがシリルに性交を迫るが、シリルはコンドームが切れてしまっていて今夜は無理だと言う。するとサミーは起き上がって衣服をつけ、おまえも着ろとシリルを促し、二人は表に出て全速力で夜の街を走ってコンドーム自販機を探すのである。この二人の全速力疾走シーン(←写真)で流れるのが、デヴィッド・ボウイー「モダーン・ラヴ」(1983年)なのである。あれあれ?それは?と思われようが、これは監督ガエル・モレルの意図的なレオス・カラックス『汚れた血』(1986年)のドニ・ラヴァンの疾走ダンスシーンへの当てこすりである。愛のないセックスで感染する難病STBOの蔓延を描いた近未来映画『汚れた血』の直後にやってきたのが現実のエイズ禍だった。あの映画のアレックス(ドニ・ラヴァン)の自暴自棄疾走とは対照的に、この映画の愛のあるセックスで蔓延する超難病のど真ん中でコンドームを求めて疾走する笑顔の二人のなんとポジティヴなことか。
 ほどなくこのサミーとシリルの関係はエマに察知される。激昂するエマだったが、サミーもエマもお互いに別れることなど考えられないほどお互いを愛し求めている。おまけにシリルは二人にとって例外的に”いいヤツ”なのだ。こうしてゲイ(シリル)+サミー(バイ)+エマ(ヘテロ)というサミーを軸とした三角関係が、(構図は違えど)トリュフォー『突然炎のごとく』(1962年)のように(戦争/病禍に背を向けて)疾走する三人となっていく。これに子供のナタンが加わり、この4人が一緒に過ごす絵
(→写真 ↓動画)は蜃気楼のようなユートピアの出現を思わずにはいられない。そしてエマは2人めの子を妊娠し、この関係が5人に拡大する展望すら見えてくる。ポジティヴ。


 しかし、映画ですから、そんな瞬間は長続きしない。サミーは仕事中(RATP地下鉄運転手)に倒れ、病院の精密検査の結果HIV陽性/エイズ進行中が告げられる。まだトリテラピー(trithérapie : 
3種類の抗レトロウイルス剤を組み合わせたエイズ治療法)がなかった頃、これは死の宣告に等しかった。そしてエマもHIV陽性が判明する。エマは未来を閉ざされ生まれてくる子にも生きる望みはないと、サミーの意見も聞かず、妊娠中絶してしまう。 HIV陽性者ふたり、エイズ進行者ひとり、このトリオの影でひとりだけ未来が展望できるのはナタンだけである。シリルは未来を閉ざされた3人はナタンの未来を守らなければならない、とある提案を持ちかける。それはシリルとエマが正式に結婚することで、世界的フォトグラファーであるシリルの財産及び未来における印税収入が、シリルの遺産としてナタンが相続できるようになるのである。アルバーヌ(エリ・メデイロス)とサミーを結婚立会人とする4人だけの区役所結婚式、そのあと、シリル+エマ+サミー+ナタンは”ハネムーン”で陽光さんさんのソレントへ飛ぶ。このソレントでのシーンの美しいことったら....。最後の旅と知ってのことだろう、歩くことも難しい時があるほど病いの進行しているサミーをシリルは海辺の険しい岩場や波打つ入江などに連れて行き、シャッターを押し続ける。これは緊急な写真である。たぶん命懸けのショットの連続だったのだろう。エマも美しい、ナタンも喜びに満ちている。永遠に続いてほしいこの夢のようなイタリア海浜の日々も残酷にも終わってしまうのだよ。

 時は経ち、映画終盤はその4年後。サミーはもうこの世にいない。シリルとエマとナタンはまだ家族同然の行き来をしているが、ナタンはどんどんサミーの面影を濃くしていき、シリルはその追憶で新しい愛人たちともしっくりいかない。そしてあのソレントの日々のあと、シリルは写真が撮れなくなってしまう。そして医学の進歩はトリテラピーをもたらし、その効果はHIV陽性者に再び”未来”の可能性を与えてくれたのだ。エマは医師から未来を考えなさい、子供を作ってもほぼ100%大丈夫と言われ耳を疑う。トリテラピーの恩恵はシリルにも事情は同じ。あの頃、シリルにとってすべてが緊急だったから写真はその緊急性が創造の源になっていたのだろう、命がぐ〜っと延びてしまった分、シリルのクリエーティヴィティーは枯渇してしまう。エマとシリルにとってそれぞれの「再生」は同じ道の上にはない。サミー/エマ/シリル3人の死を仮想前提としていたシリルとエマの結婚(そして遺産をナタンに与える話)はもう理由を失ってしまった。エマはシリルに離婚を提案する。ナタンにとってもそれが一番いい。かつてのユートピアはこうして解体する。
 最後にエマは、4年前シリルがソレントで撮ったきり、シリル自身が手をつけられないでいた夥しい枚数の現像ネガを抱え込み、何日も何夜もかけて整理セレクトし、アルバーヌのギャラリーでシリルの写真個展を開いてやるのである。このエマの”別れの贈り物”をシリルはギャラリーの外から見ていて、これが自分の最後の個展になることを悟るのである...。

 3人の素晴らしい俳優(ヴィクトール・ベルモンド、ルー・ランプロ、テオ・クリスティーヌ)の全編ポジティヴな演技にどれほど心動かされることか。エイズ禍をめぐるドラマティックな映画では、ロバン・カンピーヨ『120BPM』(2017年)、上述のクリストフ・オノレ『愛され愛し速く走れ』(2018年)と同じほどのインパクト&エモーションがある。テレラマ誌が「新ベルモンド誕生 Un nouveau Belmondo est né」と銘打つ記事を出すほど、この映画のシリル/ヴィクトール・ベルモンドは観る者の目を射るものがある。ゲイのハイプなフォトグラファーという役どころで、憂いも孤独感も無常観もありながらアクティヴで”いい奴”でもある、この魅力には抗しがたいものがありますよ。名優になっていきますよ、黙ってても。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『生き、死に、再び生まれる(Vivre Mourir Renaître)』予告編

2024年9月20日金曜日

余は如何にしてルワンダ人となりし乎

Gaël Faye "Jacaranda"
ガエル・ファイユ『ジャカランダ』

2024年ルノードー賞

2024年8月14日に刊行されたガエル・ファイユの第二作めの長編小説(282ページ)、発売以来9月中旬の現在まで書店ベストセラー1位を続けていて、8年前の第一作め『小さな国(Petit Pays)』(150万部のセールス、FNAC小説賞、「高校生のゴンクール賞」、映画化BD化....)と同じような大ヒットが約束されている。また9月3日、2024年度(第122回)ゴンクール賞の第一次選考の16作品のひとつとしてノミネートされている。
 小説は前作『小さな国』同様、1994年のルワンダ大虐殺に絡むものであり、前作では主人公の少年ガビーが隣国ブルンジで迫り来る大虐殺を体験しているが、新作『ジャカランダ』の話者ミランは1994年フランス(ヴェルサイユ)にいてテレビでこの事件と立ち会っている。小説はこの1994年のヴェルサイユから始まっていて、話者ミランはフランス人の父フィリップ(銀行マン)とルワンダ人の母ヴェナンシア(プレタポルテ小売店経営者)の一人息子であり、この年11歳で第6学年(シジエム、日本の中学1年に相当)を落第している。言わば”裕福な”環境にある(ロック音楽に夢中の)少年だった。何不自由ないとは言え、ミランの気掛かりは(自分の落第は大したことではないが)翳りの出てきた父と母の関係であり、離婚という未来も見え始めている。柔和で理解しやすい父はいいが、母ヴェナンシアは難しく、必要以上の言葉を口にせず、ミランにも親権からの上から口調でしか話せない。そればかりか、ヴェナンシアは自分の過去や祖国のことを一切語ろうとしない。聞いても口を閉ざしてしまう。ミランは一体いつになったら母と心を割った対話ができるのか、と嘆いている。この物言わぬ母の雪解けは来るのか。これがこの小説の大きな軸のひとつで、それは2020年の母の死の床(p266)までわからない。
 1994年4月に始まり100日も続くルワンダ大虐殺のテレビ報道は陰惨を極め、自分の半分の祖国でありその苦痛を否応なく受け止めてしまうミランは、それに頑なに沈黙している母親の不条理も理解できず、時々激しい腹痛でのたうち回るほど心身を病んでしまう。そんな1994年の夏の終わり、ヴェルサイユの家に母が負傷した頭を包帯でぐるぐる巻きにした小柄な少年を連れてくる。「私の甥のクロードよ、ルワンダの戦争での傷を治療するためにこれからしばらくここで一緒に暮らすから」と母は言う。フランス語を解さず、キニヤルワンダ語しか話せない(つまり母としかコミュニケーションできない)この少年は、頭に受けた傷のせいで精神を病み、すべてに怯え、泣き叫んだり呻いたり、ミランと部屋をシェアして暮らすのは生やさしいものではなかった。ロックを聴かせ、ゲームに誘い、発作の時は体をさすってやり、ミランが必死でこの傷ついた少年を「弟分」として落ち着かせ、ほのかな友情が生まれた頃、クロードは前触れもなくルワンダに帰国させられる。「クロードの家族の生存がわかったから帰した」と母は言う。それ以上の説明はない。”弟”と引き裂かれたミランは家出を試みるのだが...
 4年後1998年、父フィリップと母ヴェナンシアは離婚する。ヴァカンスに何もすることがなくなったミランは、母の誘いでルワンダでその夏を過ごすことに。初めてのアフリカ、初めての母の祖国ルワンダ、その首都キガリ。さまざまなカルチャーショックがあったが、その最たるものが「用足し場」(これはわかる)。それはそれ。このジェノサイドから4年後のルワンダで急速に人心の平静を取り戻そうとしている社会、100万の人命と生活土台を失ったツチ族の人々はどうこの土地に戻ってきているのか。この小説はそれを検証するものではない。ただ立ち位置は母ヴェナンシア筋の血縁親族やかのクロードのように虐殺されかけた人々の側にある。ミランの初ルワンダ滞在の場所はヴェナンシアの母マミーの家である。そこでミランは4年前頭に重傷を負っていたクロードと再会する。”虐殺孤児”だったクロードはマミーに養子として迎えられ、ヴェナンシアとは”姉弟”の関係になっている。マミーの存在もクロードと母の関係も何も聞かされていなかった(母が何も語らなかった)ことにミランは驚愕する。
 イエズス会系私立学校でフランス語を教わったというクロードはフランス語を完璧に話し、4年前の傷つき弱々しかった少年とは見違える”街の若者”になっている。クロードに導かれてやってきたキガリの若者たちの集まるニヤビランボ(Nyamirambo)地区、そのはずれにある「宮殿 Le Palais」と呼ばれる虐殺期に放棄された建物を占拠して暮らす浮浪児(虐殺孤児)たちがいる。そのボス格になっているのがサルトルと渾名されている若者で、虐殺後の混乱期に空き家や避難民からタダ同然で蒐集した数千枚のレコードと同じほどの書物に囲まれて隠遁文化人のように生きている。クロードはその副ボス格でこのコミューンの兄貴分。この音楽と宴が絶えないストリートキッズたちの共同生活場にミランは魅せられ、この宮殿に入り浸るようになり、クロードとサルトルとミランは友情で結ばれたトリオを形成するようになる。だがミランがこの空間を理想化してヴェルサイユに帰りたくない、ここに居続けたいと漏らした途端にクロードはその甘っちょろい考えに激昂して

ー おまえはここに観光客でやってきて、いいヴァカンスを過ごしたなと思って帰っていくんだ。だがな、苦しみに打ちひさがれている土地にはヴァカンスに来るなって言うんだ。この国は毒を撒かれたんだぞ。俺たちは殺し屋たちに囲まれて生きているんだ、そのせいで俺たちが気が狂ってしまうんだ、おまえにわかるか?気が狂うんだ!
(・・・)おまえには俺の頭の傷痕が見えるだろうが、そんなものは俺の苦しみには比べものにならないんだ。おまえは何も自分に問うことなくここにやってきて、それからどうするんだ?おまえは国に帰って、ニヤビランボがどんなにいいとこだったかをみんなに言いふらすんだ、ネエちゃんたちはホットで、ビールはよく冷えていて、串焼き肉はうまかったってね。おまえは帰って行って、俺のことなんかまた忘れてしまうんだ。
ー 待てよ、クロード、俺が何を理解しなければならないのか、説明してくれよ。
ー 理解するだと? おまえが深く考えようともしないことをどうやっておまえが理解できるんだ?ピュタン、放っといてくれよ、俺は苦しみの観光ガイドじゃないんだ。自分で考えろよ!(p89)
(ここでクロードとミランが絶交するわけではない。為念)
 この最初のルワンダ滞在でもうひとつ重要な出会いがある。キガリの旧中心部の地区キヨヴ(Kiyovu)に住む母の親友の女性ウゼビである。ルワンダにおけるツチ族虐殺は1994年以前に1959年、1963年、1973年にもそれぞれ数千人のツチ人が殺されており、1973年虐殺の時にヴェナンシアとウゼビは一緒に国外逃亡し、ヴェナンシアはフランスに逃れたきり帰って来なかったが、ウゼビは夫ウジェーヌ(弁護士)と共にルワンダに戻り職業のかたわら人道活動(すなわち時の政府に批判的な立場)も続け、夫は1991年に殺害され4人の子供たちは1994年の虐殺で死んだ。このウゼビにミランは母親とは真逆の自分に開かれた”ルワンダ性”を直観する。そして初対面のミランにこう言うのである:
よく聞いて。人生のほとんどを亡命の地で過ごしていた多くのルワンダ人たちがジェノサイドの後ここに戻って来たの。きみが人に何と言われようと、ここはきみの国なのよ。きみの先祖たちはこの丘の上に住んでいた、そして多くの人たちはきみがここを自分の国と感じてくれるようにと願って命を落としたのよ。(p97) 

クロードに「観光客」と罵られたばかりのミランは、この言葉にどれほど救われたか。ミランの中で国境が崩壊し、自分の帰属する祖国に迎えられた気がした。ジャカランダの巨木が見守るように聳えているこの家で、ウゼビは百歳を越す祖母ロゼリーと一緒に暮らしていたが、つい1ヶ月前娘を出産した(父親は誰かとは問わない、虐殺された子供たちのあとの最後の子としてウゼビは一人で育てることを決めた)。この新生児ステラとも運命の出会いであり、ウゼビに促されてミランが生まれて初めて抱っこしたこの赤子は、その運命のしるしのように(ウゼビによると生まれて初めて人に)微笑みを返したのである。
  時は移り2005年、ミランは法学部の学生になっていて、修論を準備していて、テーマは「ガチャチャ(Gacaca)」と呼ばれるジェノサイド後のルワンダの草の根人民裁判制度で、200万人と言われる虐殺関与容疑者たちを村の広場で公開の直接民間裁判を行い刑罰を決定する。この制度を適用しなかったら、裁判所のみによるジェノサイド裁判は200年かかると言われていた。これを現地体験するためにミランはルワンダを再訪するのだが、例によって母ヴェナンシアは猛反対し、おまえとは関係のない過去であり、自分の家族親族に論文目的の調査詮索をすることを禁じると言う。7年ぶりに訪れたキガリの中心部は見違えるほど新都市に変わっていたものの、ニヤビランボ地区のアナーキーさは変わらず、かの”宮殿”は健在だったが浮浪少年たちの数は減った。サルトルは相変わらずの仙人ぶりだが、クロードは二輪タクシー会社を運営する”実業家”になっている。このクロードが1994年4月の自分の家族惨殺について、ガチャチャ裁判の原告となって容疑者たちの前で証言することになっていて、このガチャチャにミランが立ち会う。クロードの口から発させるその家族皆殺しのディテールは陰惨を極め、被告たちは懲役30年や18年といった重い刑が下されるが、罪状を認め悔悛したおかげで18年で済んだル・シャと呼ばれる男(クロードの頭に重傷を負わせた張本人)は模範囚として10年で出獄するだろう。その出獄時にクロードはこの男を殺害しないと彼のジェノサイド裁判は終わらないと考えている。
 2005年の再訪では、ジャカランダの巨木のあるウゼビの家で聡明な少女に成長したステラと再会している。ステラはミランにずっとこの家で一緒に住んで欲しいと嘆願する。曽祖母ロザリーの死期が近い。ウゼビは人道活動で超多忙でステラのことをかまう時間がない。ステラは孤独だ。母と子の関係の難しさをミランは知っている。そしてミランはステラの通訳(キニヤルワンダ語→フランス語)で老女ロザリーの19世紀からの膨大で鮮明な記憶を知る。この記憶が消滅する前になんとか記録しておかなければならない、というのがステラとミランの共通の強い願いだった。ロザリーが死んだらその魂はジャカランダの樹に宿るとステラは言う。ステラが生まれる前に虐殺で死んでしまった兄や姉たちもジャカランダの樹に宿って、ステラと霊の対話をしている。ステラにとってこの巨木はすべてを記憶する霊の樹なのだ。
 入念な現地取材にも関わらずミランの修論は審査教授たちから評価されない。ミランがルワンダ人の血を引くということに起因する論考の客観性の欠如。学業を放棄し、ある企業の法律顧問となるが、長続きしない。父方の祖父母の遺産が入ってくる。そんな時、老女ロザリーが115歳で命を引き取ったと知らされ、ミランはルワンダ再々訪を決意する。時は2010年。ステラは11歳、多忙の母親ウゼビとの関係は改善せず、非常に優秀な成績なのに学校をサボりがちな反抗期。母親に逆らって姿を消す時は、ウゼビの目では絶対に気付かないジャカランダの樹のてっぺんにいる。それをミランはすぐに見つけることができた。そのステラの喪失した”やる気”をいっぺんに取り戻す機会がやってくる。ステラの通う私立中学でフランス語弁論コンクールがあり、最優秀作はキガリの大きなホールで市と国のVIPを招いて発表されるというのだ。ステラはそれに曽祖母ロザリーからの聞き書きによる19世紀からの家族三代がたどったルワンダの歴史の記録をスピーチ化しようと思い立つ。ステラはロザリーの記憶を世に残そうと、生前その歴史語りをカセットテープ数十本に録音しておいたのだ。そのキニヤルワンダ語の肉声語りをテープから起こしてフランス語に翻訳編集して、フランス語スピーチにする。ステラはミランの全面協力を求める。ところがその長大な時間数の録音ではとても二人だけの作業では提出期日まで間に合うわけがない。キニヤルワンダ語→フランス語翻訳+編集の作業をクロードとサルトルにも依頼する。ここがこの小説で最も美しいパッセージであろう。4人はキヴ湖畔の放置された廃屋シャレー(山荘)に数日合宿し、この上なく美しい景観に囲まれながら、テープ起こし翻訳の作業に没頭する。ひとつのユートピアの出現と言っていい。かくしてステラの奇跡的な弁論原稿は出来上がり、審査で一位となり、晴れの舞台でステラが読み上げることになったのだが...。
 スピーチ会の当日、そのために美しく着飾りメイクしたステラは「審査員のミスで一位はきみではない」と登壇を拒否される(某大臣の息子の書いた”父の偉業を讃える”スピーチが急遽一位にすり替わる、という”アフリカありあり”の話)。絶望的な失意と怒りに打ちのめされるステラ(+仲間たち+母ウゼビ)だったが、その夜ステラと仲間たちはサルトルの”宮殿”に赴き、轟音音楽とアルコールで騒ぐ若者たちの前にステージ演壇を作り、サルトルのMCで特別プログラム、ステラによる曽祖母ロザリーの軌跡の”キニヤルワンダ語ヴァージョン”を開演する。喧騒は止み、ステラのキニヤルワンダ語スピーチに聞き入る若者たち。そして最後の言葉に続いて大拍手大歓声大喝采が巻き上がるのだった...。
 翌日、ステラはミランにだけそのフランス語ヴァージョンを読んで聞かせる。それが199ページめから213ページめまで14ページにわたって展開される115歳で亡くなったロザリーの記憶による波乱のルワンダ史に翻弄された三代家族の生々しい歴史(1895年〜2010年)なのである。王国の興亡、西欧植民の始まり、西欧”人類学”による根拠なき部族分断(フツ族とツチ族)、その対立を煽ることによって権力を確立していく勢力、絶え間ない戦乱と虐殺、隣国への避難と帰還を繰り返す民衆... ロザリーが記憶しステラに語り残しているのはその渦中で生死する具体的な名前を持った人々の大河絵巻なのである。作者は非常に有効なやり方でこの小説に(読者の知らない)ルワンダ史を取り込むことができたと思う。
  このひとりの民の肉声のルワンダ史と並んで、この小説に取り込まれているのはステラの母にしてミランの母の親友であるウゼビによる1959年から1994年まで何度も起こったツチ族虐殺体験記である。これは2015年4月7日(1994年大虐殺の始まった日が4月7日)、毎年の慰霊服喪の最初の日(このジェノサイド慰霊服喪は100日続く)のセレモニー、場所はキガリのスタッド・アマホロ(キャパ3万人のフットボール・スタジアム)、大統領の演説、幾人かの来賓スピーチ、慰霊歌の合唱のあと、生存者の証言の弁者としてウゼビが登壇し、会場の巨大スクリーンと公営放送テレビの中継画面に映し出された。スタジアムの各コーナーには”Mental Health"と印字された黄色ジャケットを着た医療スタッフたちが控えている。ウゼビの証言は228ページめから238ページめまで10ページ続く。この陰惨さは筆舌に尽くしがたい(この部分だけでも日本語に翻訳されるべきだと私は思う)。この証言の間中、スタジアムのあちらこちらで悲鳴、うめき声、号泣、失神といった激しい反応を起こす人たちが出てきて、黄ジャケットのスタッフたちが手当てに駈けつける。それほどに同じような記憶を共有する生存者たちがいたのだ。セレモニー終了後スタジアム場外でミランは担架で運び出された人々を病院に輸送する救急車の長蛇の列を目撃している。
 この深すぎる傷は何年何十年経ったところで癒えるものではないことをこの人々は知っている。記憶し記録し忘れない努力を怠ってはならない。この小説の視点はそれをツチ族が負った大惨劇としていない。ルアンダが負ったものなのだ。それを語り続け記録し続けようとするステラやウゼビのような人々がいる一方で、ミランの母ヴェナンシアのように一切語らず隠そうとする人々もいる。ミランは母が語ろうとしなかったことをこの土地で深く知れば知るほど身動きが取れなくなってしまう。2010年のルアンダ渡航以来、ミランはフランスに帰れなくなってしまう。2015年の時点でミランは父方の祖父母が残した遺産金も使い果たし(ほとんど困窮したクロードのタクシー事業の援助金として貸し与えるのだが、結局その事業は失敗してしまう)、NGOなどで働いても長続きせず、ほとんど無一文状態まで陥っている。その頃、母の反対にも関わらずルワンダ国籍も取得している。彷徨うようにクロードやステラたちの苦悩の立会人として道を共にし、その滞在は2020年の母ヴェナンシアの病死の寸前まで続くことになる。
 赦しと和解というジェノサイド後ルワンダのお題目通りにはいかない現場をミランは何度もごく間近で見ている。深い友情(むしろ”兄弟愛”に近かった)に結ばれていたはずのクロードとサルトルの関係は、ある日サルトルの父と兄たちが虐殺コマンドであったことが暴露されるや、脆くも崩れ去る。クロードはその父と兄たちの凶行が許せなかったのではない。サルトルがそれを隠し告白しなかったことが許せなかったのだ。2005年のガチャチャ裁判でクロードの告発で18年の刑に処されたクロードの家族惨殺の実行犯ル・シャは、思惑通り10年で出所したが、クロードが10年前に予告したようにこの男を誘拐し、グルグルに縛りつけ、射殺の上キヴ湖に沈める寸前まできたのだが.... クロードにはできないのだった。
  亡き曽祖母ロザリーと1994年虐殺の犠牲者となった4人の姉兄たちの霊が住み続けているとステラに信じられていたジャカランダの巨木、それはとりも直さずステラにとって祖国の歴史と自らのルーツのすべてを象徴する霊木であったが、これをある日ウゼビは(ステラに一言の相談もなく!)切り倒してしまう。ウゼビの米国留学の資金調達(樹の跡地に賃貸マンションを建てる)のためだったらしいが、あまりにも大きなショックのためにステラは心を激しく病み、精神科病院に収容される。
 小説にはもうひとり重要な人物が登場する。アルフレッドと名乗る元FPR(ルワンダ愛国戦線)兵士で、80年代からアフリカのこの地域(ウガンダ、ブルンジ、コンゴ、ルワンダ...)で絶えない数々の内戦の現場前線にいた。教養ある演劇青年だったが、演劇の夢を捨て戦場に出て、戦地から戦地へ、心では戦闘を嫌いながら、この地域のあまりにも脆弱な”平和”を維持したい思いが軍靴を脱がせないのだ。小説の終盤でそのアルフレッドも兵を辞め、ひとつ家に落ち着いて余生を過ごしたいと、クロードの仲介でかのキヴ湖畔の廃屋シャレーを買取り、隠居生活を始めている。この男が、1994年大虐殺の時、子供4人を惨殺されたのち、自らも重傷を追いながら必死で逃げ続けていたウゼビが、倒れ泥にまみれて動けず一昼夜瀕死状態で隠れていたところを見つけ出し、背負って野戦病院まで連れて助け出した張本人だったことが告白される。ウゼビは生き残り、その3年後にこの命の恩人の兵士の居処をなんとか探し出し会いに行く。兵士アルフレッドはその頃長すぎる戦場戦士暮らしに疲れ果て生気を失っていた時だったが、自分が命を救ったこの女性が今度は自分に生きる力を与えてくれた、と。そうとは書かれていないが、たぶん愛し合ったのだ。そしてその結実がステラという子だった、ということが仄めかされる。そうとは書かれていないが。そして小説の終盤でアルフレッドとステラは出会う。二人ともそれとは知らぬまま。うまいなぁ!古典的だがなんとも文学的な瞬間である。

 2020年、10年ぶりでミランはフランスの土を踏み、ガンの最終ステージにある母ヴェナンシアの病床に駈けつける。最後まで息子のルワンダ浸りを認めようとせず、最後まで自らの過去を語らず、最後まで息子と腹を割った会話ができなかった母。迫り来る死の床でミランの語る(アルツハイマーで記憶を失ったヴェナンシアの母)マミーのことやクロードのことを聞き弱々しく微笑む母。言葉はないが、この瞬間こそミランとヴェナンシアの最後の和解の時だった。最期を悟った母は息子に何度も祈りの言葉「めでたしマリア Je vous salue Marie」を繰り返させ、その声に自分の声を重ね、やがてその声が消えてしまう...。
 2020年、不可思議なヴィールスが中国から全地球に蔓延しつつあった頃、ミランは母の遺灰の壺を持ってルワンダに帰ってくる。キヴ湖畔のシャレーにはクロードとアルフレッドとステラがいて、夜、沖合の集魚灯を灯した漁船のスペクタクルに誘われるように、4人は湖に小舟を漕ぎ出す。湖の真ん中で夜が明けるのを静かに待っている。3人は今こそその時だとミランに促すのだが、ミランは遺灰壺をシャレーに置き忘れてきたことに気づく... 。

 何も知らなかった、母も一言も語ってくれなかったルワンダ、ヴェルサイユのプチブル小僧だったミランがその深い傷と痛みと苦悩を自分の魂の中に取り込み、血肉化していく26年間を書き綴った小説。ルワンダ大虐殺という歴史上最大の悲劇のひとつを検証考証する小説ではないし、一体なぜ?を問うものでもない。この悲劇を報道する時必ず問われるフランス政府とその軍隊の関与に関しても、この小説には一行も言及されていない。クロードが言うように、自分たち(ツチ族的立場)は今日もなお虐殺者たちに取り囲まれ、虐殺者たちを隣人として生きている、という現実を、何年何十年何百年かけて和解に向かわせるのか。何も言わない何も語りたがらない人々がいる一方で、亡き老女ロザリー、ステラ、ウゼビ、クロード、アルフレッドといった”ルワンダ人”たちもいる。ミランの魂はこれらの人々のおかげで孤独ではない。Je ne suis pas seul. Je ne suis plus seul.(小説最後の1行、p282)。自分はそのひとりだという確信で終わらせる大小説。ものすごく大きなエモーションをありがとう、ガエル・ファイユ。

Gaël Faye "Jacaranda"
Grasset刊 2024年8月14日 282ページ 20,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

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(↓)ルビアナ(Lubiana) 「ファファリナ・ムーソ」feat. ガエル・ファイユ
ルワンダの娘たち、ルワンダでのクリップ撮影
If the earth is a woman 
If the sea is a woman 
If the moon is a woman 
I know God is a woman

2024年9月2日月曜日

Start your impossible

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
アメリー・ノトンブ『叶わぬ回帰』


2024年夏の終わり、アメリー・ノトンブの33作目の小説は、2012年フランスのテレビドキュメンタリー"Une vie entre deux eaux(『二つの水源に培われた生』)"のために16年ぶりの日本再訪を果たして以来、その11年後の2023年5月に友人とふたり旅で日本を再々訪した際の旅行記である。 
 在大阪ベルギー領事の娘として5歳まで自分を日本人だと信じて神戸夙川で暮らしていた作者、21歳で日本人として日本に生きたいと望んで再来日した3年間はかのベストセラー『畏れ慄いて(Stupeur et tremblements)』(1999年刊)に描かれたように就職した大貿易会社の激烈なパワハラによって頓挫し、ヨーロッパに戻りパリを”第三の祖国”として作家として大成功を収める。ノトンブはことあるごとに小説(6作ほどか)に日本を登場させ、日本が最愛の国であることを繰り返し表明している。最愛の国なのに、作者はそこに生きることができない。あらかじめ拒絶された片思いの恋人のように、一体となりたいのに絶対にそれは叶わない。この小説の題”L'imposible retour"は既に多くを語っている。
 発端は25年来の親友で写真家のぺプ・ベニ(Pep Beni、実在の人物かどうか定かではない、実在としても仮名であろう)がフランスの権威ある写真賞であるニエプス賞を受賞し、その副賞としてエール・フランス往復航空券( x 2枚)があり、彼女はノトンブを道連れ(兼ガイド)として日本に行くことにした。このペプというのが一筋縄ではいかないキャラの女性で、我が強く、口が悪く、欲しいと思ったものを譲らない、その上に強度のアレルギー性喘息を持病としていて、埃やダニなどの害虫に過敏に反応して呼吸困難症状を起こしてしまう可能性がある。日本に着いてホテルや旅館に「部屋や寝具の殺菌システムは完璧か?」といちゃもんをつけ、少しでもアレルギー反応の兆候をかんじとるや、「部屋を変えろ!」「宿泊をキャンセルする!」と一悶着起こしてしまう。実際に京都の旅館を深夜過ぎにキャンセルして、京都の”衛生万全”なホテルを未明まで探し回るというエピソードがある。年上で世話役のような立場を引き受けたノトンブは、このペプのわがままをすべて聞いてやる、という立ち回りを終始余儀なくされる。この二人の関係を読む者はよく理解できないのではないか。
 時期は2023年5月20日(フライト:CDG→関空)から5月30日(羽田→CDG)まで、京都(奈良訪問を含む)と東京(高尾山から富士眺望を含む)の2拠点中心のエッセンシャル10日間コース。もちろん”ツアー”ではない。勝手気まま個人旅行で、イニシアチブを取るのがガイド兼通訳ノトンブである。ハローキティはるかに乗り、お好み焼き/うどん/そば/かき氷を食し、うさぎカフェを訪れ、ホテル地下の高級銭湯に浸かり、金閣寺で三島を想い、銀座ルパンでカクテルを嗜む。その類いまれなる日本愛ゆえ、日本のすべてを熟知していると言いたいようなノトンブの知ったかぶりは、ある程度許容して読まないとボロばかりが気になってくる。それは外国人で”通”を自称するユーチューバーの日本体験記にも似ている。まあ日本人の”通”のパリ・リポートも似たようなもんだが。それでも文芸作家ノトンブであるから、凡百の素人旅行記にはないような、三島、吉本ばなな(日本滞在中ゆったりした黒ブラウス+黒の台形ロングスカート+コンバットブーツばかり身に着けていたのは吉本ばなな扮装したかったから、と言っている)、ジョリス=カルル・ユイスマンス、ニーチェなどが顔を出したりする。
 そして日本と切り離せないのが2020年コロナ禍期に亡くなった父パトリック・ノトンブの思い出である。ベルギー外交官としてアジア諸国の領事と大使を歴任した父のことは2021年度ルノードー賞を受賞した『最初の血(Premier Sang)』という秀逸な作品(爺ブログ評価★★★★☆)でオマージュを捧げているが、日本には大阪領事(1968〜1972、アメリー誕生の時期)、そして大使(1988〜1997)として在任している。今回の旅行で、京都の最初に訪れたのが清水寺で、1989年にアメリー(2度目の滞日期)とこの寺に一緒に来た父は「この美しさに打ちのめされていたかのように、無言で険しい顔になり、苦しむように大きく目を見開いた」と。そして「私が美しさに見惚れる時、父と同じ表情をするようだ」(p37)と。
 しかし、日本をめぐるアメリーの過去をよく知るペプは、この旅行を一緒にするに際してノトンブにノスタルジーに浸るべからず(カウンターをゼロにリセットして日本を再発見すべし)という条件をつけ、それを作者は事前に承諾したのだが.... この父の思い出のように、さまざまな記憶の噴出は妨げられない。この本のかなりの場面でノトンブは涙の噴出を抑えられなくなる。
 さて、言語の問題である。私は言語は記憶の領域ではなく、慣れ親しみと学習による獲得だと考えている。ノトンブはそれが意識的/無意識的記憶によって(口を突いて)蘇ってくるもののように考えているようだ。彼女の思い込みはそれが流暢な日本語として機能しているように書いてしまうのだ。京都のお好み焼き屋で、店員女性にその日本語の関西訛りについて問われ、「私、夙川に住んどったんよ」(私の超訳)と答え、「あれま、私、西宮よ」と話がはずんだことを誇らしげに書いている(p31)。微笑ましいことだと流してもいい。だがこの本に始まったことではなく、1990年代の作家デビュー時から、このノトンブの日本語理解の問題は大目に見て笑って済ませられるレベルを越えている場合がかなりある。
 例えば、奈良東大寺境内の高所からの眺望と周囲の鐘の音に心打たれ、タバコを嗜まない自分なのに「ここでタバコを吸えたら感動はさらに濃厚になるのではないか」と想像するのだが、そこに”Tabako o suwanai"という注意書きを見つける(p58-59)。これをノトンブは

《 Ne sucez pas de tabac 》
と悪意ある”誤”日仏バイリンガル解釈をしてみせる。なるほど日本語ではタバコは(”fumer"するのではなく)"sucer"するものなのか、と。
 それから日本語で客や初対面相手や目上の人に対する敬語表現をノトンブが訳すときに繰り返される”honorable"という形容詞(例えば”お客さま”→honorable client)は、明らかに時代がかっていて、サムライ映画や「蝶々夫人」様式の過度な日本式 vouvoiementである。能の研究家で演者でもあった父パトリック・ノトンブの影響かもしれないが、現代日本語とはマッチしないですよ。
 このペプとの二人道中の間中、作者はペプの通訳となり、そのわがままで理不尽な要求やクレームなどを旅館/ホテル/店員などに全部通訳して仲介したことになっている。どんな日本語を捲し立てたのであろうか、興味のあるところである。

 小説中、ノトンブはいくつか地名/場所を「忘れた」「覚えられなかった」としてオミットしている。旅行記としては不親切であり、私もそこから場所を推定/特定することができなかった。また間違いや混同もある。出版社アルバン・ミッシェルの編集者もそこまでチェックできないのであろう。だが、「新宿」と「渋谷」の混同はちょっと致命的ではないか?

 2013年の小説『幸福なる郷愁(La Nostalgie Heureuse)』は、冒頭で述べたテレビドキュメンタリー撮影のために2012年に再訪日した体験を描いた作品であるが、そのクライマックスと言うべき事件が、渋谷(スクランブル)交差点で立ち止まり「見性(けんしょう)」というトランス状態を体験した、ということだった。仏教の教えにある「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、と説明される。この2012年の渋谷交差点「見性」トランス体験を、今度の小説の中では「2012年4月に新宿交差点で体験した」(p100)と書いている。これはアルバン・ミッシェル編集者が気づいて上げなければいけないことだと思うよ。あの2013年の小説で最も重要な”場所”だったのだから。
 バー銀座ルパンでバーテンダーが客のさまざまな嗜好を聞き、それに合わせてオリジナルのカクテルを調合し、客にそのカクテルの名前をつけさせる、という趣向があったのだが、ノトンブはそれに「新宿交差点」と言う名前をつける(p90)。ノトンブ自身は含蓄のある名前だと思ったのであろうな。”新宿交差点”では駅西口大ガード下か駅東口アルタ前か歌舞伎町交差点か...迷ってしまうだろう。やはり世界一有名な交差点は渋谷(スクランブル)交差点しかない。これは”日本通”にはありえない混同ではないかしら。

 この「見性」を、ノトンブはこの小説の中で再び体験する。2023年5月27日、在東京フランス人友人カップル(アリスとジェラルド)の車で高尾山までそこから眺望できる富士山の姿を求めてやってきたが、曇天のためその姿は見えず、車を移しジェラルドの取って置きの(秘密の)富士展望の場所という(例によってノトンブは地名を記憶していない)一面の茶畑に覆われたところにやってくる。ノトンブにとって生きていく上に必要不可欠なふたつの飲み物がシャンパーニュと茶。その前者の生まれる場所である葡萄畑で感応できるセンセーションと同じものをこの美しい緑の茶畑で感じ取る。その茶摘み道に歩み出ていくと、雲で見えないが頭の上にある富士山のパワーに包まれていくのを体感する。2012年に渋谷交差点で受けたイリュミナシオン(ひらめき、天啓)と同じもの、「見性」トランスの始まり...。

これを体験するのに、どうして私は日本の地にいなければならないのか?私にはわからない。この地には何か知ることができないものがある(p100) 
なぜ他の国、他の土地でこの「見性」は自分に訪れないのか?なぜ日本でなければならないのか? なぜ日本なのか? ー それがこの本のアメリー・ノトンブの問いなのである。それは一言で言ってしまえば、ノトンブの一途な”日本愛”の昇華であり、それが(ノトンブの中で)予め拒まれたものであるがゆえに、天に近いものに失われる受難劇を(大袈裟に)文章化し、書き続けるアートを自らに許しているのだ、と私は思う。
 国(土地や文化や人間を含めて)を愛するということはどういうことなのか。私は日本もフランスもノトンブ的レベルで愛したことなどない。愛し、そこに同一性(アイデンティティー)を自らに内在化(血肉化)したと思っていたのに、5歳の時にその愛するものから引き離され、21歳で溢れる愛で東京に抱きしめてもらおうと思っていたのに拒絶され逃げるようにヨーロッパに帰ってきた、この引き裂かれた愛をノトンブは何十年も抱き続け、それは膨張し続けている。永劫の片思いへ、こうして時々(この旅のように)回帰していこうとするのだが、それはインポシブルなのである。背表紙にこう書かれている。
Tout retour est impossible,
どんな帰還も叶わない
l'amour le plus absolu
最も絶対的な愛は
n'en donne pas la clef.
その鍵を与えない
そうかい、この小説は最も絶対的な愛の軌跡を描いたものなのかい?
日本のすべてを誰よりも理解し、誰よりも一途に愛するノトンブの思いは届かない。その不可能性を悟り語るから”文学”になる、と思っているフシがある。私はそのいっぱいに膨張したノトンブの頭の中の日本愛そのものが、日本にとってありえないものに読めてしまうのだ。
 2023年5月28日、日曜日、五月晴れ、ペプとノトンブは何のあてもなく広大な上野公園を散策する。カフェテラスに落ち着き、ほぼ無言でノスタルジーに陥っているノトンブを糺して、ペプは過去を思うのをやめて今現在を思って、と気分転換を迫る。それに同意して、ノトンブは今現在を観察する:
私の目は私たちの周囲にあるものを眺めていった。他のテーブルでは東京っ子たちがドリンクを飲んでいた。この5月28日の天気は例外的に晴れわたり、しかも暑すぎない好天だった。人々はこの甘美な光を満喫していた。日曜日、それは空白のために当てられた曜日。日本においてこの空白は私たちの国におけるそれとは異なる。ここでは空白は素晴らしいものであり、日頃人々が求めているものなのだ。空白、それはようやくにして得られた生きる時間なのだ。ヨーロッパにおいて日曜日の空白というのは物悲しいものと思われている。私たちはこの空白を上手に自分たちのものにすることができなかったのだ。私たちは馬鹿げていないか?時間割のない1日、それは人々が探し求める聖なる宝物のはずではないか、この地ではまさにそうなのだ。(p112)

私はこのノトンブの日本における日曜日の解釈に、ノトンブの日本愛のリミットを感じてしまうのだ。何十年も日本を愛してきたと言いながら、何を見てきたのか、なぜにこんなに表層的なのか、もっと掘り下げることを知らないのか?

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
Albin Michel刊 2024年8月21日 160ページ 18,90ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)2024年8月28日、国営ラジオFrance Inter朝番「7-9」(インタヴュアー:ソニア・ド・ヴィレール)で『叶わぬ回帰 L'Impossible Retour』について語るアメリー・ノトンブ