2025年6月30日月曜日

愉快で詩的なメタフィジック

"Amélie et la métaphysique des tubes"
『アメリーと管の形而上学』

2025年フランス(アニメーション)映画 77分
監督:リアーヌ=ショー・アン&マイリス・ヴァラード
原作:アメリー・ノトンブ『管の形而上学』(2000年)
フランス公開:2025年6月25日


 「7歳から107歳までの子供たちにおすすめ」と映画会社(Haut et Court)のコピーにあり。子供向けアニメーション映画である。この映画化に合わせて、6月1日ノトンブの出版社アルバン・ミッシェルから絵本版アメリーと管の形而上学』(イラスト:アレクサンドラ・ガリバル、36ページ)も出版された。このアニメと言い、この絵本と言い、原則は子供向けなのである。ただ、小さい子供に「形而上学(Métaphysique)」なるムツカシイ題はだいじょうぶなのだろうか。しかも「管の」という限定語がかぶさると、ますますお子さんたちにはだいじょうぶなのか、と心配になってくる。
 原作『管の形而上学』(ノトンブ9作目の作品、2000年アルバン・ミッシェル刊)はまったく子供向けの小説ではない。やや衒学的で捻くれたノトンブ文体、読者が分かろうが分かるまいが、並みの人間とは格が違う視点論点で進行する。並みの人間ならばあろうはずがない新生児→乳児→幼児の記憶を、偉人伝/自分史のように開陳する。その中でこの新生児は恐れ多くも「神」であると断じているのだ。(↓)小説冒頭の12行。
始まりには何も無かった。そしてこの無は空っぽでも朧げなものでもなかった。その無とはおのれ自身に名づけられたものであった。そして神はそのことを良いことと見ていた。この世のために神がなにものも創造しなかったかのように。この無ほど神に相応しいものはなく、神はそれで満ち足りていた。
神の両目は常時開いていて、じっと動かなかった。たとえそれが閉じられていたとしても事情は何も変わらなかったろう。そこには何も見るべきものはなかったし、神は何も見なかった。神は茹で卵のように張りがあり身が詰まっていて、丸みを帯び、不動の姿勢を保っていた。

こんなの読むと面食らいますよね。アメリーさんは無の状態で神として生まれた、というわけですから。平たく言えば、この人は2歳半まで「植物」あるいは「野菜」(担当小児科医の表現)のように、全く無反応で不動で泣くことも声を出すこともしない生物だった、ということ。三十数年後に自分の生い立ちをフィクション化して書いたものだ。
 しかしノトンブの諸作で神話として作り上げられてきたこの作中人物「アメリー」の「1967年神戸生まれ」という誕生譚は事実ではなく、実際のアメリー・ノトンブは「1966年7月9日、エテルベーク(ベルギー)生まれ」ということらしい。「神戸生まれ」は”そうであったらいいのになぁ”の領域であったのだが、散々書いたあとなので引っ込みがつかなくなっている話。まあ古今の大作家ではよくあること、と流してしまおうではないか、お立ち会い。
 さてこの『管の形而上学』で作中のアメリーは生後2年半「神」であり、目を見開いたまま動かない植物状態であった。その神は栄養物を上から注入し、必要分を摂取したのち、下から排出するだけの「管(tube)」であった。この不動の野菜である「管」は、目を見開いたまま何も見ず、何も頓着せず、神のように鎮座していた。こういう原作の”小難しい形而上学論考”を子供向けのアニメに脚色すること、ほぼミッション・イムポシブルのように思われましょうね。しかし、映画って何でもできるんですよ。
 これはルイス・キャロル『アリス』がディズニー動画『不思議の国のアリス』にまったく別物として昇華してしまったケースと似ているかもしれない。トーンはまさに「不思議の国のアメリー」であり、カラフルで、ともすればサイケデリックで、パラダイス的で、時おり印象派(スーラの点描)的なワンダーランドの中の、緑色の目をした幼女の冒険譚である。She comes in colors everywhere. それはノトンブがその多くの著作の中で夢見続けている”日本”のイメージのカラー見本のように見えるではないか。
 (日本ではよくあることという注釈つきで)ある大きな地震が起こった日、管=神は突然覚醒し、2年半の不動の野菜状態から抜け出し、神の怒りを表現するかの如く、激しい音量で泣き叫び、それは四六時中止まなくなる。この覚醒に両親は狂喜し、父パトリック(外交官=在日ベルギー領事)はベルギーにいる祖母クロードに今すぐ飛行機で神戸に来てください、と。しかし覚醒した神は目覚めたままほとんど眠ることもなく(睡眠時間2時間という今日まで続くアメリー・ノトンブの不眠症はこの時から始まったとされる)、大音量の号泣を繰り返すばかり。これには子供部屋を共有する兄アンドレ(当時7歳)姉ジュリエット(当時5歳)もたまったものではない。母ダニエルは、生後2年半の”遅れ”を取り戻すための(成長に必要な)泣くことの集中的復習なのだと解釈する。だが神には、”進んでいる”だの”遅れている”だの、比較する対象などない。神と比較できるものなどありえようか。泣き叫ぶ神はそのありのままの時間を生きている。家族はたまったものではないが、神には知ったことではない。
 そして奇跡は起こる。空を飛んで神戸にやってきた祖母クロードがハンドバッグに潜ませて持ち込んだベルギー産ホワイトチョコレートのタブレット、これをパキンと割って泣き叫び続ける幼女の口に含ませると....。
 これが”人間アメリー”の誕生の瞬間であった。9ヶ月の胎内滞在ののち、3年近くの胎外コクーン滞在を過ごしたのち、アメリーは誕生し、世界を見ることができ、家族と言葉を話し(最初に発した人間語は「掃除機 Aspirateur」)、そのワンダーランドを冒険することになる。見たい、知りたい、触れたい... このワンダーランドはアメリーのものさ。アニメだとこういう展開はまさにワンダーフルな絵の連続で、観てる子供たちはさぞうれしいであろう、爺の私もうれしいうれしい。
 その絵の最重要なエレメントが夙川の山側に展開される花鳥風月であり、ノトンブ家の借家とその隣家のカシマさん(借家の家主でもある)の広大な日本庭園の風景なのだった。クロード・モネによって夢見られた”日本”とでも言っておこうか。それはとりもなおさずアメリー・ノトンブの諸作品で夢見られている”日本”でもあるのだ。怪物の貪欲な口をした錦鯉、蛙、バッタ、蝶、四季折々の花々、ときおり出現する妖怪たち...。
 この不思議の国日本をやさしく教えてくれるのが、家事手伝いのニシオさんだった。ニシオさんはすべてを知っていて、この世界の秘密を解き明かしてくれる。人間アメリーはこのニシオさんを”母たるもののすべて”を備えていると思い、”母”と慕うようになる。ニシオさ〜ん!それは困ったことすべてを解決する魔法の呪文でもあった。そしてニシオさんがアメリーという名前の半分は日本語では「雨」と書いて、天から降る”la pluie”のことなのよ、と教えると、わたしは最初から日本人だったと深く固く信じ込んでしまったのだった...。日本人の母のニシオさんと、日本人のわたしアメリー、これがノトンブの生涯を通してまとわりつく日本との一体感であり、既に自分の中に血肉化されたものとしての日本という、不可能な信じ込みの始まりであった。
 それはアメリーにとって完璧な世界であった。Un monde parfait. だがその完璧な世界は無惨にもアメリーに禁じられてしまうのである。ここが、ノトンブの場合(例えば1999年”Stupeur et tremblements"『畏れ慄いて』で典型的なように)あまりにステロタイプな”日本人”の世界観で辻褄を合わせてしまうのだよね、とても残念。この『管の形而上学』では、家主のカシマ夫人が先の戦争で家族をすべて失っていて、その殺害者たる欧米諸国に消すことのできない怨念を抱いている。その供養のお盆の灯籠流しにニシオさんが(敵側の人間たる)アメリーを連れていき、灯籠に先祖の名を書かせて流した、という現場を見てしまい、カシマ夫人は激怒し、ニシオさんを先祖の死を汚した(敵に魂を売った)非日本人となじり、ノトンブ家の家事手伝い職から解雇してしまう。アメリーにとってニシオさんを失うことは人生を失うことに等しい。人生の終焉に3歳で直面したアメリーは、この世に未練などない、と自殺を図るのである。
 小説『管の形而上学』は、この3歳にして世の無情を悟り、自殺を図るというカタストロフィーを”文学”にしたものである。しかし、子供向けアニメがその自殺という主題をストレートに描いてしまうのは、さすがにまずい。このデリケートな部分は、”自殺”と匂わせないかたちでアメリーが池に溺れていくというイメージで表現され、子供向けアニメのための救済として、カシマ夫人がアメリーを救い出し、ニシオさんは許され、ノトンブ家に復帰する、というハッピーエンドにつながっていく....。

 アニメーション映画としては、それはそれは文句なく超一級の出来栄えでしょう。総合映画サイトALLOCINEによると、全プレス評の平均が「3,9」という高さで、入場者数も第一週(6月25日〜7月2日)で7万人弱でボックスオフィス第10位の好成績である。プレス評のうち硬派のテレラマがベタ褒め(TTTT Bravo )でこう書いている。

Le célèbre roman d’Amélie Nothomb se transforme en pépite pop, drôle et poétique, pour une délicate fusion entre animation française et japonaise.
アメリー・ノトンブの著名な小説が、フランスアニメと日本アニメの繊細なフュージョンによって、愉快で詩的でポップな金塊(pépite)に変身。
私もアニメのクオリティーは驚いて観ていた。ノトンブ絡みで日本の描き方のディテールで文句つけたくなるところはややあれど、7歳から107歳の子供たちはワンダーワールドの旅を十分に楽しめただろうと思う。いいんじゃないですか? ノトンブは(未来の)新しい読者たちを獲得することになっただろうけれど、この子供たちが小難しい(形而上学)言語を読めるようになってこの原作小説を読んだとき、やはり原作は別ものだと思うだろうし。それが”文学”への入り口になったりするんでしょうし。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アニメ映画『アメリーと管の形而上学』予告編 

2025年6月28日土曜日

傷だらけのティーンスピリット

”Enzo"
『エンゾ』


2025年フランス+ベルギー+イタリア映画
監督:ローラン・カンテ
演出:ロバン・カンピーヨ
主演:エロワ・ポウー、マクシム・シルヴィンスキー、ピエルフランチェスコ・ファヴィノ、エロディー・ブシェーズ
フランス公開:2025年6月18日



2024年4月にガンで急逝したローラン・カンテ監督(『壁の中で Entre les murs』2008年カンヌ映画祭パルム・ドール賞、2012年『フォックスファイア』...)が制作半ばだった映画を盟友で共同脚本家だったロバン・カンピーヨ監督(『120BPM』2017年カンヌ映画祭グランプリ)が引き継いで完成させた“ローラン・カンテ監督/ロバン・カンピーヨ演出”と銘打たれた作品。脚本はローラン・カンテ+ロバン・カンピーヨ+ジル・マルシャン。  
 舞台は南仏地中海岸の風光明媚な町ラ・シオタである。マッシリア・サウンドシステムのタトゥー/ムスー・テがラ・シオタを地盤にしているので、気持ち的にはとても親近感のある町なのだが、一度も行ったことはない。タトゥーの影響でイメージ的には造船所+漁村という労働者人民の汗っぽい土地柄を想っていたのだが、この映画で主に登場するのは豪奢なヴィラである。豪華プールつき。16歳のエンゾ(演エロワ・ポウー)はそのヴィラに住む一家の次男坊。父パオロ(演ピエルフランチェスコ・ファヴィノ)は大学教授、母マリオン(演エロディー・ブシェーズ)はエリート・エンジニア(映画の中で、エンゾが母に給料いくらもらっているのか、と問うシーンあり、高額所得者だが、夫は私より収入が少ないとあっけらかんと答えている)、兄(長男)ヴィクトールは両親に逆らうことなく”敷かれたレール”のように大学進学の道を進むが、エンゾはこの何ひとつ不自由のない環境を自分の居場所と感じることができない。懐疑的で未来も現在も掴まえられない。空論は要らない。具体的で手で掴めるものが欲しい。エンゾは学業を半ばにして、家屋建設現場の左官工の見習いとして働き始める。「不安定な青春期(あるいは反抗期)」と通り一遍の解釈をする両親は、それを一過性の気まぐれとして寛容する。父と母でその寛容の度合いは異なる。父は”まっとうな方向”への軌道修正を強く望むゆえ、”意見”を垂れるためエンゾとは口論が絶えないが、その”親心”は誠実なものである。建築現場へ毎朝手弁当を持たせて送り出す母は、エンゾの選択を尊重するが、時が経てば自然と”こちら側に還ってくる”という楽観論がある。
 エンゾは絵を描くことに長けているが、親が勧める美術方向への進学を頑なに断る。具体的な”手の職”を求めて飛び込んだ左官職見習いだが、この強靭な肉体を要する仕事の技能習得はエオンゾの意に反して難しいものがある。親方に怒鳴られながら覚えていくが、それはデリケートな精神の持ち主には(あるいはブルジョワのボンボンには)着いていくのが難しいものであろう。このなかなか一人前に育ってくれない見習い工に業をにやして、雇い主の土建屋のボスが、未成年のエンゾの法的責任者である両親と解雇の可能性を含む”話”をしたい、とエンゾを連れて...。行ってみて初めてこの豪奢なヴィラに住む一家の息子だったと知った土建屋ボスは、その”階級的圧力”にビビってしまい、エンゾの問題を申し立てることすらできず、恐縮して退散してしまう...。  エンゾにとって”相応しくない場所”と反抗しているこのヴィラ的環境が、周りの人間たちからはエンゾに相応しい場所と見えていて、建築現場の”剥き出し”の環境はエンゾにそぐわない、というのが多数派の考え方だ。だが、繊細な小僧だったエンゾは厳しい徒弟修行のせいで徐々に筋肉質の肉体を獲得していく。  その厳しい徒弟修行のコーチ役となるのが、現場の先輩格であるウクライナ移民の二人、ミロスラヴ(演ヴラディスラヴ・ホリク)とヴラード(演マクシム・スリヴィンスキー)である。二人とも家族をウクライナに残して出稼ぎに来ているが、招集令があれば兵士となって(対ロシア戦)前線に行かなければならない。二人とも軍隊の体験はある。年上のミロスラヴは祖国・家族のために前線で戦うことに肯定的でいつでもその準備は出来ていると言うが、ヴラードは消極的で懐疑的でむしろ避けたいと考えている。エンゾはヴラードに問う、おまえの”居場所”はウクライナであり、そこで祖国のために戦うことではないのか、と。エンゾにつきまとう”居場所”の問題である。  二人の雄々しきスラヴ男は生っちょろかったエンゾを弟分のように連れ回し、”スラヴ式”大人の男の世界に引き込もうとする。酒、パーティー、女たちとの付き合い方...、エンゾは背伸びしてその世界について行こうとする。16歳。お立ち会い、ご自分の”あの頃”を覚えてますか?背伸びしてたでしょうに。
 エンゾに左官のイロハを文字通り手取り足取りで教え込んだのはヴラードである。頼りになる筋肉質の優男である。”兄ィ”である。親の血を引く兄弟よりも、である。そして工事現場の埃まみれ汗まみれのスキンシップである。このあたりは『120BPM』を撮ったロバン・カンピーヨの真骨頂のような、男と男の官能が香るシーンが本当にうまい。かくして16歳のエンゾに、全く自分にコントロールできない(il est plus fort que moi)ホモセクシュアリティーの萌芽が訪れる。抑えが効かなくなる。苦しい。この”兄ィ”と一緒にいたい。離れたくない。この想いは成就できないのか。  おそらくエンゾの探していた”居場所”はこの男の腕の中だったのである。建前上(表面上)ヴラードはヘテロであり、愛する女性もいる。ヴラードは若いエンゾの恋慕を予め拒絶する態度を示すのであるが、エンゾのエスカレートするパッションを見捨てることができなくなる。なにしろ”いい兄ィ”なので。しかし、ヴラードの拒絶を許容できないエンゾの暴走はいよいよ常軌を逸し、ヴラードの目の前で工事現場の足場最上部から自ら転落してしまう....。

 若いという字は苦しい字に似てるわ。エンゾは一命を取り止め、リハビリを終えブルジョワ家庭に戻り、一家でイタリアにヴァカンスに出かける。ウクライナ移民労働者の二人ミロスラヴとヴラードはウクライナに戻り、兵士として戦場に赴く。イタリアでローマ時代の遺跡を家族で散策している途中、エンゾのスマホが鳴り、相手が戦場にいるヴラードと知るや、家族の目を避けて遺跡の岩壁に身を隠し、忘れじの”兄ィ”と交信する、というのがこの映画のポスターのシーンであり、映画のラストシーンでもある。戦場にいても愛は死なない。愛は死なない。苦しくても愛は死なない。私が書くととてもチープな表現に思われるかもしれないが、愛は死なない、そういう救済を持って終わる映画が悪いわけないじゃないですか。故ローラン・カンテにあらためて合掌🙏

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『エンゾ』予告編

2025年6月20日金曜日

あかん悪漢小説

Raphaël Quenard "Clamser à Tataouine"
ラファエル・クナール『タタウィンでくたばれ』

 2025年6月現在、書店ベストセラー1位。1991年生れ当年34歳の男優(兼映画作家/脚本家/プロデューサー)のラファエル・クナールの初小説作品。初稿は7年前、出版社にことごとく拒否されたそうだが、昨今映画俳優として評価が急上昇(2024年セザール新人男優賞)して事情が変わったのだろう、初稿に大分”直し”を入れられたものの、無事フラマリオン社から出版の運びとなった。当初”ピエロ・チッチ Pierrot Tchitch"という筆名を用意していたが、出版前に変更してクナールが著者名となった。まあラファエル・クナールの名がなければこのベストセラーはあり得なかったであろう。それだけクナールは昨今の映画で世に憚るキャラクターになっているのである。

 小説は一人称で書かれ、その文体はクナールの(独特のイントネーションの)話声が聞こえてきそうな不逞さが浮かび上がる。作中の注意書きでも、メディアのインタヴューでもクナールはこの小説は私小説ではなく純粋なフィクションであり、文中の話者の思想と行動を作者(クナール自身)は全く弁護するものではない、と強調している。この小説の話者は反社会妄想者(ソシオパット Sociopathe)であり、女性ばかりを標的にしたシリアル・キラーである。
 タタウィンTataouine)はチュニジア南東部に実在する地方都市であり、主人公が2024年にフランスで起こした6件の連続殺人事件の後、”高飛び”した場所である。話者はここでその連続殺人を記録した手記を”文学”として書き上げるである。
 タタウィンで話者は住処として、フランス人老婆リリアンヌが切り盛りしている(夕食付き)民宿に逗留する。この老婆と毎晩夕食を共にするのだが、話者はなぜか彼女とウマが合い、やがてその打ち解けた身の上話から、老婆が過去において一時は頂点を極めた映画プロデューサーだったことを知る。全面的な社会不適合者のはずだった話者が、老婆との触れ合いに和み、親密さの度合いを濃くしていき、老婆が毎明け方4時に目を覚まし、便所で小用するのを毎度手伝うまでに関係が密になる。この人生で初めての他者との融合的調和に幻惑したか、話者は老婆に自分は小説を書いていると告白する。そしてリリアンヌにこの作品の最初の読者になってくれないか、と。
 こうして本書の25ページめからがリリアンヌによって読まれる話者の”小説手稿”というかたちで進行する。プロローグは2024年1月、ここで話者は8階建ての建物の屋根から飛び降り自殺を試みるが、踏みとどまる。この社会との折り合いの悪さは既に頂点に達していて、社会に順応する意志などこれっぽっちもなく、ましてや生きている理由など何もない。死ぬしかないのだが、話者はこの自殺未遂で「ほとんど死んだ」と自己納得し、一匹狼社会復讐アクティヴィストに変身してく。ここの箇所、自殺断念→シリアル・キラー化、という推移に私は何らの論理的整合性を読み取れないのだが、話者はそんなものに拘っているヤカラではない。朝決心したことを昼にあっけなく翻す、説明なんぞどうでもいい、という文体で書かれているのだ。かと言って野卑な”郊外語”に溢れた”町”小説というわけでもない。膨大な読書経験と学歴(化学専攻)と豊富な雑学に裏打ちされた読ませる無頼文学なのだ。映画で見られるこの男優のキャラから想像して読み始めるとかなり面食らう。
 卑劣にも自殺を断念した男はその代償を他人を殺すことによって埋め合わせる。勝手なリクツだが、凶悪犯罪者のリクツなどこんなものだろう。予め社会から拒否され、自らもそれを拒否した男による社会への復讐は、男から可視できる社会の最上部から最下部まで(つまり男から手の届く”全社会”)の女たちを一人一人惨殺することだった。6階層の女たちが選ばれ、小説はそこから6章に分かれて殺人劇が展開される。

Acte I : L'aristocrate (貴族夫人)
Acte II : L'ingénieure (女技師)
Acte III : La femme de footballeur (フットボール選手の妻)
Acte IV : La jeune active (若い活動的な女)
Acte V : La caissière (レジ係の女)
Acte VI : La SDF (ホームレスの女)
 小説は殺人鬼が惨たらしく標的を殺害するという描写がメインなのではない。話者がこの女と決めた標的にどのように巧みに接近していくか、接近し、信頼を勝ち得、打ち解け、その私生活の細部まで打ち明けられるほど親密な関係を構築できるのか、これが非常に面白いのである。最上流、上流、中流、下層、最下層という標的の社会環境でそのアプローチプロセスはそれぞれ全く異なり、話者は入念な観察と分析をもってターゲットをものにする。それぞれの社会階層の人間模様も鮮やかに見えてくる。ちょっとバルザック的。これがこの小説を”文学”たらしめているのだと思う。
 第1章「貴族夫人」は高級住宅地区パリ16区の聖テレーズ礼拝堂の中で標的が定められる。ローマ・カトリック系の由緒ある教会で、著名な慈善活動(恵まれない子女たちの更生援助団体)の本部でもあり、富裕で敬虔な信者たちが毎度のミサに集う。話者はこの神妙な空間を嫌っておらず、批評的な聞き方であるが司祭の説教も有り難く拝聴する。話者の一列後ろの礼拝席でミサに一人で参列している身なりも身のこなしも貴婦人そのものの中年女性を観察し、接近する。最も重要な働きをするのが言語(Langage ランガージュ、言葉づかい)である。グルノーブル郊外出身の社会経験の乏しい(予め社会に拒否され、自らも社会を拒否した)話者が、なぜこのような実生活での接点のない階級(上層も下層も)の人種と臆することなく接触できるのか、それは膨大な量の読書によって獲得した数々のランガージュのおかげだ、と話者は説明している。口が上手いのではない。その階層の人間たちと話せるランガージュを持っているということなのだ。ミサが終わり礼拝堂出口へ向かう参列者たちの歩みの渋滞に乗じて、男は貴婦人に話しかけ始める。今日の司祭の話のことから始まり、ミサの常連でもないのに聖テレーズ礼拝堂の界隈の話題に移り、15区に住んでいるがこの礼拝堂近くのフランソワ・ミレー通りに仮住まいを買ったばかりですよ、と。「まあ偶然ですね、私たちは言わばご近所同士ね」と貴婦人が親近感を示し始める。この住まいや生活の場の近さを知ることは警戒心をかなり取り除くものらしい。こうして男は善良な中年貴婦人の防御を解き、名をマルトという男爵位の貴婦人が未亡人であり、代々受け継いでいるブルゴーニュ地方の城主であり、パリとブルゴーニュの半々の生活をしていることを知る。城の維持費が嵩張りすぎて、家計は苦しい、とやんごとなき婦人の苦言を話者は理解する。格好の話し相手と出会った男爵夫人は、今朝お隣さんからいただいたプラムのタルトがあるので、一緒に召し上がりませんか、と16区オトゥイユ街の超豪華アパルトマンに男を招待する...。(そこが話者の第一殺人事件の犯行現場となる)
 貴婦人には20数年前にガンで死んだ夫=男爵との間にオルタンスというひとり娘がいるが、この娘が小説の最終部(タタウィンでの後日談=エピローグ)に登場する。

 第二の事件は、若い(と言っても40代か)エリート富裕層の女性で、ひところ”ヤッピー”と呼ばれたアーバン社会階層と言っていいのかな。一流メーカーの上級エンジニアであるエレーヌは国立病院のがん研究医師の夫フランクとの間にひとり娘のマルゴがいて、リセの理系セクション最終課程にあり進学試験準備中。特に化学が弱いというので家庭教師として(スーパー等に張り紙広告を出していた)話者が起用される。エンジニアであるからその”理系”方面の知識は大変なものなのだが、それを納得させられるだけのハッタリ知識を話者(学歴詐称しているが実際は大学中退)が持っていて、まんまとこの富裕家庭の中に入り込むことができた。娘マルゴとの師娣関係はすこぶる良好で、母エレーヌは家庭教師に全幅の信頼を。”進歩的”女性を自認するこの母は往年の”ニューエイジ”系の厳格なヴィーガンであり、唯一の飲料がアーモンドミルクであり、いつも冷蔵庫の中にある。そしてこの家は彼女の”進歩的”ネットワークを通じて、アメリカからオペア学生を迎えている。1年の予定で迎えられたカトリンという名のジョージア州出身の娘は、仏語学習という名目でやってきたが、実際はパリの無秩序な自由を謳歌するのが主目的で、家へのドラッグの持ち込みなどでエレーヌと衝突することが多い。話者はこのカトリンとエレーヌの反目関係を利用しない手はない、と直観する。家庭に受け入れられ全幅の信頼を得ている家庭教師は、ある日、冷蔵庫の中のアーモンドミルクの瓶の中に青酸カリを混入する。事件が発覚すると、嫌疑は家庭と諍いの絶えなかったアメリカ人学生に集中する...。

 このようにひとつひとつのエピソードが巧妙なシリアルキラーの邪悪な画策がまんまと成功する悪漢小説ストーリーなのである。同時にそれぞれの社会階層に特徴的な人間模様が鮮やかに描かれているのである。軽妙な文体にも関わらず鋭い観察眼が発揮されている。上手い。

 こうやって全部の章を紹介していくと大変な行数になるので、もう一つだけでとどめておくが、第3章の「フットボール選手の妻」は前章のエレーヌというブルジョワ家に生まれたブルジョワと異なり、本来ならばそのポジションにいるはずのない”成り上がり”富豪層の話である。話者はレセプションのホスト・ホステス派遣エージェントに臨時職契約で就職、各種イベントでホストとしてゲストのお世話・接待を。ある夜、フランス最強のプロサッカーチームPSGの試合後レセプションで、スター選手ネストール・ゴンザーグと波長が合ってしまい、気に入られ、次回からのイベントにゴンザーグから指名が入るようになる。話者がこの社会階層・身分・階級を容易く越境でき、その関係に溶け込めるのは話術や所作というテクニック上のことではなく、自然体として人に不安を抱かせることのない”好人物”っぽさが効いているのだろう。まるで幼なじみのダチが会話するようにネストールとの関係は親密化し、ブージヴァルにあるスター選手の豪邸でのホームパーティーにも”招待客”として参加を許される。前庭に並ぶベントレー、ランボルギーニ、ポルシェ、フェラーリを横目に、話者は公営貸自転車ヴェリブで豪邸にやってくる。仏サッカー界のVIPが集ったこのガーデンパーティーは音楽とシャンパーニュと山海珍味でいよいよ盛り上がっていくのだが、夜半にネストールと美貌の妻シンディーの間に始まってしまい、激怒したシンディーは邸宅の中に引き込んでしまう。宴は何事もなかったように続くのだが、話者はシンディーを探して人気のない館の中に入る。三階建て(日本式に数えると四階建て)のてっぺん、屋上バルコニーにシンディーがいて涙に暮れている。南仏ヴィルヌーヴ・ルーベの貧しい家庭出身のシンディーは、専門学校の研修で(スキーリゾート地)ムジェーヴのホテルで働いていたが、従業員特権で利用していたサウナルームに、既に大スター選手だったネストールが入ってきて、双方一目惚れ、電撃的な恋に落ちた。あれよあれよという間に婚約、結婚、超派手で豪奢で虚飾に満ちた世界に。シンデレラガール。ふんだんに金はあるのに、スターの妻として自由が制限される身に。このストレスをスター選手は理解できない。こんな打ち明け話を話者は神妙に聞いてやるのである。そしてそれを解放するかのように、シンディーを三階屋上(日本式には四階屋上)から突き落とすのである....。(パーティーの喧騒で誰もこのことに気がつかず、事件は”自殺”として処理される....)

 B級映画、B級ロマン・ノワール、悪漢小説の類のリファレンスをふんだんに取り入れたオムニバス殺人日記は”読ませる”魅力に溢れている。話者の人物像は、100%殺人衝動に憑かれたサイコパスとしては描かれず、黒いユーモアもある微妙な”揺れ”(生粋の人間嫌い変質者が見せてしまう殺人対象への感情移入)が、これを”文学”たらしめているのだと思う。この本がベストセラーになるのは、”一癖も二癖もある”ものに出会った時のニヤニヤ笑いをみんな経験したのだろう。道徳性を問われると身も蓋もない作品ではあるが、それが”文学”の領域さ、と作者と共に哄笑しようではないか。

Raphaël Qunard "Clamser à Tataouine"
Flammarion刊 2025年5月14日 190ページ  22ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)5月8日、国営ラジオFrance Interの朝番でソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えるラファエル・クナール。