同志たちは『七つの苦悩の聖母 Notre-Dame-Des-Sept-Douleurs』(2020年)をちゃんと聴きましたかね?コロナ禍でそれどころではない時期ではあったが、解説で書いたように長かった暗黒の日々をクロ・ペルガグが抜け出していく魂の軌跡を描いた素晴らしいアルバムであった。あれから4年、われわれのポスト・コロナ期は身近に起こっている大きな戦争と年々激しくなる温暖化災害とポピュリストが支配する超大国に翻弄され、その中でクロ・ペルガグは34歳になった。それだけではない。4年前クロ・ペルガグが産んだ女児は4歳になった(ロジック)。 新作の核はそれです。俗に言われることではあるが、子の親になったとたん人間は変わる。それまで自分ひとりだったので、”ひとり思考”ではこの世が急速に破滅に向かっていることを感知しても、最悪は自分ひとりが死ぬだけじゃん、と達観していられた。ところがこの世に出現したばかりの吾子はどうなるのか。生きて欲しい。苦しみはあろうが、少しでも less worthな状態で生きて欲しい。母クロ・ペルガグは、この生きる塊を前にして、欲したり主張したりするこの小さな生命体を前にして、この子が生きていく未来を考えないわけにいかなくなってしまった。世界の終わりを冗談のように言い合うシニカルな大人たちのひとりではいられなくなったのだ。何もかもがダメになってしまっても、何かにしがみつき信じたい。それが効くかどうか知る由もない、陳腐なおまじないであっても。「アブラカダブラ」と唱えたら、一瞬にして世界のすべてがうまく行くようになるかもしれないではないか。母クロ・ペルガグは最後にこの呪文を唱えてみようと思っているのだ。そうしたら吾子の苦しみや痛みが軽くなるかもしれない。 新アルバムの大きな転換点はもうひとつ。2013年のデビューアルバム『怪物たちの錬金術 L'alchimie des monstres』以来、ソングライタークロ・ペルガグと二人三脚でそのサウンド世界を作ってきたコ・プロデューサーシルヴァン・デシャン Sylvain Deschampsが離脱。この突然の別れにクロ・ペルガグは大泣きに泣いたそうだ。だが泣いてばかりはいられない。思いを決してひとりで立ち上がりセルフ・プロデュースアルバムをキャリーアウトした。編曲指揮・制作・サウンドエンジニアリング、クロ・ペルガグ herself。プログラミング+ストリングス+ブラス+コーラス+.... 全部クロ・ペルガグさんが決めた。 そのサウンドは前作『七つの苦悩の聖母』で私が「サイケデリックでシンフォニックで求道的な音楽」と評した”大伽藍”の響きと似ていないことはないが、その厚いハーモニーはクロかあさんのあたたかみが感じられると思う。一音一音に込められているものが感じられるように聞こえたら、クロかあさんの意に叶ったりということでしょう。
アルバムは『七つの苦悩の聖母』と同じように2分ほどのインストルメンタル曲「赤い果実の血 Le sang des fruits rouges」で始まる。このインストによるイントロダクションは大袈裟な音楽の始まりを予感させる”オドシ”であり、今度のはまじめだぞ、おふざけじゃないぞ、と言っているように聞こえる。そして始まるのが「ピタゴラス Pythagore」という曲である。ピタゴラス(570BC - 495BC)とは恐れ多くも畏くも史上初の音楽理論の確立者にして音階の発見者である。われわれのドレミはこの古代ギリシャの数学者なしには誰も知ることができなかったのである。これもハッタリみたいなタイトルである。これは聴く前にアルバム制作の経緯を読んでしまった私にははっきりと「シルヴァン・デシャンとの決別の歌」に聞こえる。ピタゴラス的に理詰めできっちりと複雑構造建築的にクロ・ペルガグのサウンドをつくってきたデシャンに、「いいわよ、わたしひとりでやるわ」と啖呵切ってる。歌詞にこうあり:
Tu dis que ce qui tue pas nous rend plus fort 殺さないことがあなたと私を強くするとあなたは言う C'est vrai à moins qu'on soit déjà mort もう死んでるんだったらそれは本当ね J'ai reçu une millième balle dans le corps 私はもう一千発もの弾丸を体に撃ち込まれたのよ Je crois que j'ai atteint mon point de départ 私はもう出発点に到達したと思うわ Va - t'en si tu veux 望むのなら出て行って Mais va - t'en juste un peu 私の別れの言葉を聞いて Entends mes adieux 出て行って Et va - t'en si tu veux, va - t'en 望むならいなくなって、出て行って
Pourquoi t'as peur de tomber ? なぜ転ぶのを怖がるの? Pourquoi t'as peur de vivre ? なぜ生きるのを怖がるの? Tout le monde dit que t'es libre みんなおまえが自由だって言ってるよ La musique te délivre 音楽はおまえを解放するんだ Personne sait que t'es brisé 誰もおまえが壊れてしまったって知らないよ
そしてこのアルバムの最重要テーマである愛娘へのメッセージは、5 - 6 - 7曲めの中で表れる。それは破滅に限りなく近づいていく世界の中で生きなければならない娘への「守ってあげたい」なのである(あ、あの歌引き合いに出すべきではないか)。まずはっきりとそれが見える7曲め「ある若き詩人への手紙 Lettre à une jeune poète」(これはもちろんライナー・マリア・リルケの援用)はこう語る:
Est-ce que j'ai menti ? 私は嘘をついたの? Je t'avais promis すべてはうまく行く Que tout irait bien 私は何も怖がらない Que je n'ai peur de rien ってあなたに約束したわね
J'ai peur de tout 私は全てが怖い Mais surtout でもとりわけ Peur pour toi おまえのことで怖がっている Mais je sais, ça ira でも大丈夫、きっと Toute seule tu trouveras たったひとりでもおまえにはわかるわ
Je t'ai donné la vie 私はおまえに命を授けた
Je voudrais te donner envie de vivvre 私はおまえに生きる望みを与えたいの Qu'elle ne te soit jamais pénible 生きるのが決して苦しいことでないように Plus de meilleur que de pire 悪いことよりも良いことがたくさんあるように
そして実のお嬢さんを登場させて制作されたヴィデオ・クリップで公開された6曲めの「マンゴーの味 Le goût des mangues」は、想像できない早さで大きくなっていく娘のさまざまな季節を共にしながら母としての不安も一緒に育まれていく情景が見えてくる。
おまえは飛べるのか、それとも落ちてしまうのか
私にはわからない
雪が溶けるのを待って
おまえは季節に立ち向かっていくの
おまえは守るべき信条がないし
誰もおまえをわかってくれないだろうし
今の季節はおまえをあざむくね
意味をなさない多くのことがあるし
重要だと認められないこともあるし
この季節は可能性がない
おまえが嫌いなものすべてを消すとしたら
私は出て行くの?それとも残っていいの?
今はそんな季節、私は考え込む
おまえがマンゴーの味も
おまえの脚に置いた私の手の感覚も忘れてしまった
今はおまえと私に似た季節ね
この『アブラカダブラ』と題されたアルバムの中で、「アブラカダブラ」という呪文はたった1曲の中にしか登場しない。おそらくこの曲がこのアルバムの核心である。それは9曲めの「ジム・モリソン Jim Morrison」と題されたもので、文字通りジム・モリソン(1943 - 1971)の墓を(そのつもりがないのに)訪ねる歌である。註:この歌では話者=私が男性、相手=おまえが女性。
Les puits de lumière laisseront toujours entrer la pluie. 光の井戸には永遠に雨水が入っていくだろう。このイメージわかりますか? 光の井戸は永遠に枯れないのですよ。これは祈りであり、おまじないですよ。
<<< トラックリスト >>> 1. Le sang des fruits rouges 2. Pythagore 3. Coupable 4. Libre 5. Sans visage 6. Le goût des mangues 7. Lettre à une jeune poète 8. Décembre 9. Jim Morrison 10. Deux jours et deux nuits 11. Les puits de lumière 12. Triste ou méchante
Klô Pelgag "Abracadabra" LP/CD/Digital SECRET CITY RECORDS SCR168 フランスでのリリース : 2024年10月14日
上映ポスターに日本語題を印字して挿れたり、エンドロールに出演者などをアルファベットとカタカナで表記する「日本撮影映画」にろくなものはない。この4月に見たエリーズ・ジロー監督『シドニー、日本で』(主演イザベル・ユッペール)のことを言ってるんですが。おまけにヴェンダース『パーフェクト・デイズ』(2023年)と同じように”東京風景”が大いにものを言う映画。それに幻惑されたのかテレラマ誌はこの映画評で「ロマン・デュリスと”東京”という二人の偉大なアクターに照らし出された父性に関する繊細で美しい映画」と高評価を与えている。どうしてどうしてどうして東京がそんなにいいんだろ。 ベルギー人監督ギヨーム・スネが前作『パパは奮闘中(Nos Batailles)』(2018年)のプロモーションで主演のロマン・デュリスと来日した時に、この「子の親権問題」(日本が世界でも稀な”単独親権”法を堅持している国であり、両親の別離に際して片親が独占的に親権を行使できる)について知り、特に国際結婚・離婚に多い、子が半誘拐状態で片親に養育され旧伴侶の子供との接触をシャットアウトしている多くのケースに興味を抱いた。フランスと日本の国際結婚・離婚に起因する子の親権問題(フランス及び世界のほとんどの国が共同親権を認めている)だけでも数十件に上り、フランスでのニュース沙汰になっている。 ただしこのスネの新作は上段に構えた社会派(つまり日本の単独親権制度を告発するといった)映画ではない。(国際離婚・国内離婚を問わず)親権を与えられず子供と引き離された片親の不幸と子との再会のための闘いが強調されて画面に登場するわけでもない。ここに見えるのはやはり「不思議の国ニッポン」と「不思議の都トーキョー」なのである。 フランス人ジェローム・ダ・コスタ(演ロマン・デュリス)は愛称を「ジェイ(Jay)」と言い、日本人からは「ジェイさん」と呼ばれる。東京の大手タクシー会社(KMタクシーという名前、まあ、ありなんでしょ)に所属するタクシードライバーであり、そこそこ流暢な日本語をしゃべり、東京の隅々の道路を知り尽くしている(同業運転手からカーナビに出てこない新住所への行き方を訊ねられて、スラスラと答えてやるシーンあり、笑ってしまう)。かつては上級レストランシェフだったが、日本人女性ケイコ(演Yumi Narita 在フランス女優)と結婚し、娘リリイが3歳の時に破局別居。離婚はしていない。離婚したら”単独親権の国”日本では完全に親権を失ってしまうのでそれを避けるために離婚を拒否している。しかしケイコはリリイを連れて行方不明になり、ジェイとのコンタクトを絶っている(映画の後半でジェイがずっと養育費を払い続けているという話になっていて、この辺辻褄が合わないが、ま、いいか)。それから9年、ジェイはタクシー運転手に身をやつし、巨大な東京で娘リリイを探し回り、娘に再会することだけを希みに東京に住み続けている。Jay le taxi, c'est sa vie. 流しのタクシーという言葉があるので、「東京流し者」とでもダジャレてみたいところだが、KMタクシー予約制のシフトに入っているので、会社の運用センターの無線指示通りに走る雇われドライバー。ある日同僚のホンダというドライバーが病欠(実は”過労バーンアウト”気味の仮病休みで、これは"エムケイ”社への当てこすりのようにも見える)で、ジェイが代役で起用され、脚負傷で松葉杖歩行の女子中学生の学校送迎を担当、この女子中学生がなんとリリイ(演メイ・シルネ=マスキ)だったのだ。
この偶然を絶対に逃してはならないと、ジェイはホンダに頼み込み女子中学生送迎の担当を続けさせてもらい、露骨に父親を名乗ることを避け、少しずつ接触の切り口を開こうと...。言わば中年ストーカーの未成年少女接近なのだが、それは名優ロマン・デュリスのチャーミングな日本語トーキングも手伝ってもどかしくも切なくて...。ブルジョワ女子中学生リリイは「おじさん日本語上手ねえ」などと事情を理解しようとしないコメントあり。「ハーフはいろいろ大変なのよ」などとしたり顔のコメントあり。怪我リハビリ中のアーティスティックスウィミング選手であるリリイのプールに忍者のように忍び込み、水着姿のリリイをスマホで盗撮するシーンあり→やはりこれは不思議の国ニッポンの性風俗への当てこすりなのだろうか。それはそれとして、タクシー車内という密室空間で、ジェイとリリイの距離は少しずつ埋まっていくのだが...。 さてこの映画に撮り込まれた不思議の国ニッポンと不思議の都トーキョーであるが、タクシーの車窓はヴェンダース『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃作業ライトバンからのトラヴェリングと似て、どこか哀愁の近未来メガポリスなのである。『パーフェクト・デイズ』と同じように何度か銭湯シーンあり。ジェイが脇腹にLilyという文字と花の刺青があり、それが銭湯では”禁止”という不思議の国ニッポンの掟に従って、大きな絆創膏を脇腹に貼って入浴しなければならない。何度めかに「お客さん、タトゥー見えちゃってるんですよ」と銭湯の親父にたしなめられるシーンあり。 単独親権の犠牲になって子供と離ればなれになって生きる片親たちの互助サークルがあり、9年目のジェイはその世話人のような役割を担っているが、そこに集う親たちは外国人だけでなく日本人もいる。一緒にその苦労を語り合ったり、カラオケでウサを晴らしたり...。その種のパーティーでそのメンバーの二人、フランス人のジェシカ(演ジュディット・シェムラ)と日本人のユウ(演阿部進之介)が泥酔してしまい、送っていくジェイのタクシーの中で、ジェイのカーステからジョニー・アリデイの「とどかぬ愛("Que je t'aime"日本語ヴァージョン)」(1970年)が流れ、酔漢のユウが(日本語で)歌い出し、リフレイン「ク・ジュテーム」を3人で大唱和するというシーンあり。ありえないシーンではあるが、私の観た映画館の観客はどっと湧いた。 加えてトーキョーの一種の文化風景とも言える町の古本屋があり、気の良い隠居インテリのような風情の本屋主人の役であがた森魚が登場し、ジェイとカタコトのフランス語でやりとりするシーンあり。ジェイの苦労をよく知っているように描かれているのは”下町人情”演出にしたかったのだろうか。 といったふうに、日本好きフランス人観客の心をくすぐるような細かいところは結構あるんだけどね...。
第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。 このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。