『アメリーと管の形而上学』
2025年フランス(アニメーション)映画 77分
監督:リアーヌ=ショー・アン&マイリス・ヴァラード
原作:アメリー・ノトンブ『管の形而上学』(2000年)
フランス公開:2025年6月25日
「7歳から107歳までの子供たちにおすすめ」と映画会社(Haut et Court)のコピーにあり。子供向けアニメーション映画である。この映画化に合わせて、6月1日ノトンブの出版社アルバン・ミッシェルから絵本版『アメリーと管の形而上学』(イラスト:アレクサンドラ・ガリバル、36ページ)も出版された。このアニメと言い、この絵本と言い、原則は子供向けなのである。ただ、小さい子供に「形而上学(Métaphysique)」なるムツカシイ題はだいじょうぶなのだろうか。しかも「管の」という限定語がかぶさると、ますますお子さんたちにはだいじょうぶなのか、と心配になってくる。
原作『管の形而上学』(ノトンブ9作目の作品、2000年アルバン・ミッシェル刊)はまったく子供向けの小説ではない。やや衒学的で捻くれたノトンブ文体、読者が分かろうが分かるまいが、並みの人間とは格が違う視点論点で進行する。並みの人間ならばあろうはずがない新生児→乳児→幼児の記憶を、偉人伝/自分史のように開陳する。その中でこの新生児は恐れ多くも「神」であると断じているのだ。(↓)小説冒頭の12行。
始まりには何も無かった。そしてこの無は空っぽでも朧げなものでもなかった。その無とはおのれ自身に名づけられたものであった。そして神はそのことを良いことと見ていた。この世のために神がなにものも創造しなかったかのように。この無ほど神に相応しいものはなく、神はそれで満ち足りていた。
神の両目は常時開いていて、じっと動かなかった。たとえそれが閉じられていたとしても事情は何も変わらなかったろう。そこには何も見るべきものはなかったし、神は何も見なかった。神は茹で卵のように張りがあり身が詰まっていて、丸みを帯び、不動の姿勢を保っていた。
こんなの読むと面食らいますよね。アメリーさんは無の状態で神として生まれた、というわけですから。平たく言えば、この人は2歳半まで「植物」あるいは「野菜」(担当小児科医の表現)のように、全く無反応で不動で泣くことも声を出すこともしない生物だった、ということ。三十数年後に自分の生い立ちをフィクション化して書いたものだ。
しかしノトンブの諸作で神話として作り上げられてきたこの作中人物「アメリー」の「1967年神戸生まれ」という誕生譚は事実ではなく、実際のアメリー・ノトンブは「1966年7月9日、エテルベーク(ベルギー)生まれ」ということらしい。「神戸生まれ」は”そうであったらいいのになぁ”の領域であったのだが、散々書いたあとなので引っ込みがつかなくなっている話。まあ古今の大作家ではよくあること、と流してしまおうではないか、お立ち会い。
さてこの『管の形而上学』で作中のアメリーは生後2年半「神」であり、目を見開いたまま動かない植物状態であった。その神は栄養物を上から注入し、必要分を摂取したのち、下から排出するだけの「管(tube)」であった。この不動の野菜である「管」は、目を見開いたまま何も見ず、何も頓着せず、神のように鎮座していた。こういう原作の”小難しい形而上学論考”を子供向けのアニメに脚色すること、ほぼミッション・イムポシブルのように思われましょうね。しかし、映画って何でもできるんですよ。
これはルイス・キャロル『アリス』がディズニー動画『不思議の国のアリス』にまったく別物として昇華してしまったケースと似ているかもしれない。トーンはまさに「不思議の国のアメリー」であり、カラフルで、ともすればサイケデリックで、パラダイス的で、時おり印象派(スーラの点描)的なワンダーランドの中の、緑色の目をした幼女の冒険譚である。She comes in colors everywhere. それはノトンブがその多くの著作の中で夢見続けている”日本”のイメージのカラー見本のように見えるではないか。
(日本ではよくあることという注釈つきで)ある大きな地震が起こった日、管=神は突然覚醒し、2年半の不動の野菜状態から抜け出し、神の怒りを表現するかの如く、激しい音量で泣き叫び、それは四六時中止まなくなる。この覚醒に両親は狂喜し、父パトリック(外交官=在日ベルギー領事)はベルギーにいる祖母クロードに今すぐ飛行機で神戸に来てください、と。しかし覚醒した神は目覚めたままほとんど眠ることもなく(睡眠時間2時間という今日まで続くアメリー・ノトンブの不眠症はこの時から始まったとされる)、大音量の号泣を繰り返すばかり。これには子供部屋を共有する兄アンドレ(当時7歳)姉ジュリエット(当時5歳)もたまったものではない。母ダニエルは、生後2年半の”遅れ”を取り戻すための(成長に必要な)泣くことの集中的復習なのだと解釈する。だが神には、”進んでいる”だの”遅れている”だの、比較する対象などない。神と比較できるものなどありえようか。泣き叫ぶ神はそのありのままの時間を生きている。家族はたまったものではないが、神には知ったことではない。
そして奇跡は起こる。空を飛んで神戸にやってきた祖母クロードがハンドバッグに潜ませて持ち込んだベルギー産ホワイトチョコレートのタブレット、これをパキンと割って泣き叫び続ける幼女の口に含ませると....。
これが”人間アメリー”の誕生の瞬間であった。9ヶ月の胎内滞在ののち、3年近くの胎外コクーン滞在を過ごしたのち、アメリーは誕生し、世界を見ることができ、家族と言葉を話し(最初に発した人間語は「掃除機 Aspirateur」)、そのワンダーランドを冒険することになる。見たい、知りたい、触れたい... このワンダーランドはアメリーのものさ。アニメだとこういう展開はまさにワンダーフルな絵の連続で、観てる子供たちはさぞうれしいであろう、爺の私もうれしいうれしい。
その絵の最重要なエレメントが夙川の山側に展開される花鳥風月であり、ノトンブ家の借家とその隣家のカシマさん(借家の家主でもある)の広大な日本庭園の風景なのだった。クロード・モネによって夢見られた”日本”とでも言っておこうか。それはとりもなおさずアメリー・ノトンブの諸作品で夢見られている”日本”でもあるのだ。怪物の貪欲な口をした錦鯉、蛙、バッタ、蝶、四季折々の花々、ときおり出現する妖怪たち...。
この不思議の国日本をやさしく教えてくれるのが、家事手伝いのニシオさんだった。ニシオさんはすべてを知っていて、この世界の秘密を解き明かしてくれる。人間アメリーはこのニシオさんを”母たるもののすべて”を備えていると思い、”母”と慕うようになる。ニシオさ〜ん!それは困ったことすべてを解決する魔法の呪文でもあった。そしてニシオさんがアメリーという名前の半分は日本語では「雨」と書いて、天から降る”la pluie”のことなのよ、と教えると、わたしは最初から日本人だったと深く固く信じ込んでしまったのだった...。日本人の母のニシオさんと、日本人のわたしアメリー、これがノトンブの生涯を通してまとわりつく日本との一体感であり、既に自分の中に血肉化されたものとしての日本という、不可能な信じ込みの始まりであった。
それはアメリーにとって完璧な世界であった。Un monde parfait. だがその完璧な世界は無惨にもアメリーに禁じられてしまうのである。ここが、ノトンブの場合(例えば1999年”Stupeur et tremblements"『畏れ慄いて』で典型的なように)あまりにステロタイプな”日本人”の世界観で辻褄を合わせてしまうのだよね、とても残念。この『管の形而上学』では、家主のカシマ夫人が先の戦争で家族をすべて失っていて、その殺害者たる欧米諸国に消すことのできない怨念を抱いている。その供養のお盆の灯籠流しにニシオさんが(敵側の人間たる)アメリーを連れていき、灯籠に先祖の名を書かせて流した、という現場を見てしまい、カシマ夫人は激怒し、ニシオさんを先祖の死を汚した(敵に魂を売った)非日本人となじり、ノトンブ家の家事手伝い職から解雇してしまう。アメリーにとってニシオさんを失うことは人生を失うことに等しい。人生の終焉に3歳で直面したアメリーは、この世に未練などない、と自殺を図るのである。
小説『管の形而上学』は、この3歳にして世の無情を悟り、自殺を図るというカタストロフィーを”文学”にしたものである。しかし、子供向けアニメがその自殺という主題をストレートに描いてしまうのは、さすがにまずい。このデリケートな部分は、”自殺”と匂わせないかたちでアメリーが池に溺れていくというイメージで表現され、子供向けアニメのための救済として、カシマ夫人がアメリーを救い出し、ニシオさんは許され、ノトンブ家に復帰する、というハッピーエンドにつながっていく....。
アニメーション映画としては、それはそれは文句なく超一級の出来栄えでしょう。総合映画サイトALLOCINEによると、全プレス評の平均が「3,9」という高さで、入場者数も第一週(6月25日〜7月2日)で7万人弱でボックスオフィス第10位の好成績である。プレス評のうち硬派のテレラマがベタ褒め(TTTT Bravo )でこう書いている。
Le célèbre roman d’Amélie Nothomb se transforme en pépite pop, drôle et poétique, pour une délicate fusion entre animation française et japonaise.私もアニメのクオリティーは驚いて観ていた。ノトンブ絡みで日本の描き方のディテールで文句つけたくなるところはややあれど、7歳から107歳の子供たちはワンダーワールドの旅を十分に楽しめただろうと思う。いいんじゃないですか? ノトンブは(未来の)新しい読者たちを獲得することになっただろうけれど、この子供たちが小難しい(形而上学)言語を読めるようになってこの原作小説を読んだとき、やはり原作は別ものだと思うだろうし。それが”文学”への入り口になったりするんでしょうし。
アメリー・ノトンブの著名な小説が、フランスアニメと日本アニメの繊細なフュージョンによって、愉快で詩的でポップな金塊(pépite)に変身。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)アニメ映画『アメリーと管の形而上学』予告編