2025年1月5日日曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ 2024

 


2024年6月11日、フランソワーズ・アルディが亡くなった。

始恒例となった爺ブログのレトロスペクティヴ、2024年に掲載された記事の中からビュー数の多かった順で上位10位の記事を振り返り、1年を回顧します。2024年に発表した記事の数はなんとたったの42本しかなく、近年は50〜60本を越えていたのに、42本というのは2016年(つまり、病気前の現役バリバリで仕事していた頃)の水準まで落ちてしまったというわけです。言い訳をさせていただくと、発表本数は42でも、発表せずに”書きかけ”で管理ページに残っているのが16件もあって、端的に言えば、書けなくなっているのです。根気の問題もあれば、日々喪失している日本語力の問題もあります。そんな中で、私にとって最も重要で最も深く”つきあってきた”アーチストのひとり、フランソワーズ・アルディが80歳で亡くなった時、私はなんとしてでも「ちゃんとしたもの」を書いて追悼しなければ、とかなり苦しんでいた。とりわけ”La Question"(1971年)、”Message Personnel"(1973年)、"Le Danger"(1996年)の3枚のアルバムを繰り返し繰り返し聴き直し、私はこの人の”人生”ではなく「音楽と詞」への最大のオマージュを捧げようとしていた。これだけで”書きかけ”4件。... 果たせなかった ...。このことが象徴しているように、私はしみじみ”衰え”を身にしみて感じている。誰に依頼されているのでもない、自分のための記録ではあるが、つきあってくださる皆さんがいることは励みになっています。ありがたいことです。
  2024年7月8月、パリ・オリンピック&パラリンピックはテレビのみの”参加”だったけれど、ああ、フランスに生きていてよかったなぁ、と思える稀有な瞬間の連続であった。長生きして本当によかった。
 映画は共に”文学”絡みだけれど、クリスティーヌ・アンゴの初監督セルフ・ドキュメンタリー『ある家族 Une Famille』と、ニコラ・マチュー2018年ゴンクール賞作品の映画化『彼らの後の彼らの子供たち』(リュドヴィック&ゾラン・ブーケルマ監督)が、最も強烈に印象に残った2作だった。

 音楽では、(これまた書きかけで止まってしまったのだけど)85歳ブリジット・フォンテーヌの新作アルバム『ピック・アップ』がことのほか嬉しかった1枚。世の人たちすべての傾向だと思うが、音楽をアルバム単位で聴くことが本当に少なくなった。LPは(操作が)面倒臭いと思ってしまう人間のひとりである。聴き続ける気力を維持したいが、それよりも刺激のある新しい音楽が欲しい。10〜12トラック/35分〜45分のスケールで。
 文学は2024年はゴンクール賞ルノードー賞もすごい作品だったので実りある1年だったと思う。とりわけガエル・ファイユ、私はうれしくてたまらん。そしてこれも書きかけ止まりなのだが、自身と家族の暗部と傷と雪解けの可能性ばかりを書き続けてきたエドゥアール・ルイの最新作『崩壊(L'Effondrement)』(38歳でボロボロの死を遂げた異父兄の人生の再検証)は、やはり(時間がかかっても)ちゃんと紹介せねばと思っている2024年最重要作品です。

 では2024年爺ブログのレトロスペクティヴ、1年間多くの人たちに読まれた記事10本です。

(記事タイトルにリンク貼っているので、クリックすると該当記事に飛べます)


1. 『小説ミドリ事件(2024年3月18日掲載)
在東京のフランス人ジャーナリスト西村カリンの初の小説作品。2月にフランスの死刑廃止を成し遂げたロベール・バダンテールが亡くなり国葬→パンテオン入りを果たし、日本で死刑囚袴田巌が58年かかって無罪を勝ち取った、という年(=2024年)のタイミングで発表された、日本の死刑制度の現状をひとつの事件(自分の子3人を殺した福島県双葉町出身のシングルマザー)に立ち会いながら照射する勇気ある小説。ジャーナリストとしてではなく、”作家”として書きたかった著者の強い思いがよく伝わってくる。日本人にこそ読んでもらいたい書であるが、日本での出版予定はあるのだろうか? とにかく当ブログ記事は2024年で最も反響のあったものであり、西村カリンさんへのささやかな援護射撃になったのではないか、と思っているのだが、どうだろうか?

2. 『追悼ポール・オースター:九分九厘の幸福(2024年5月1日掲載)
2024年4月30日、77歳で亡くなったニューヨークの作家ポール・オースターの追悼の意を込めて(2004年と2006年に書いた)二つの過去記事を再録したものの一つ。現代アメリカ文学など全くの門外漢である私であるが、オースターだけは熱心に読んでいた。門外漢の書くオースター紹介であるが、現在まで爺ブログには5本のオースター記事があり、いずれも多くの人に読まれている。20年も前に書かれたものでも、である。オースターの最後の小説『ボームガートナー』(2023年)に関しては、ちょっと遅れて7月31日に(思いを込めて)(”追悼ポール・オースター3”として)長い紹介記事を掲載したのだが、これが夏の時期だったせいか、オリンピックの真っ最中だったせいか、少数の読者にしか読まれていない!オースターの最後に相応しい力作なので、ぜひ読んでみてください。

3. 『追悼ポール・オースター:おめえも来るか(2024年4月30日掲載)
ポール・オースターが亡くなった日に、どうしていいのかわからなくなり、とっさに私のオースター初体験のことを書いた20年前の記事(Web版”おフレンチ・ミュージック・クラブ”に初出)を再録することにした。そう、これも私が”書けなくなった”証拠で、2024年の爺ブログでも「ラティーナ」、「エリス」、「おフレンチ・ミュージック・クラブ」に書いた記事をちょくちょく再録して、お茶を濁すという傾向があった。あまり感心できない傾向ではあるが、この20年前の記事にしても、自分がこんなことが書けたんだ、という大きな驚きがある。私の日本語は今よりずっと確かで豊富であった。まるでモノ書きのようではないか。オースターを初体験した衝撃と長いつきあいの始まり、私はこういう自分であったことを忘れて久しいようだ。だからたまにこうやって過去と再会することが必要なのだ。長いつきあいと言えば、この記事のコメントで、本当に長いつきあいになってしまった吉田実香さんが登場している。また楽しからずや。

4. 『ちびのフランチェーゼと呼ばれた天才彫刻家の愛と死とイタリア(2023年12月30日掲載)
2023年ゴンクール賞小説、ジャン=バティスト・アンドレア著『彼女を見守る Veiller sur elle』の長編600ページをほぼ紹介してしまう長〜いネタバレ記事。記事中で重ねて強調しているが、この作品はゴンクール賞らしからぬ大衆エンタメ小説である。フランスで60万部売れ、世界34ヶ国語で翻訳されているそうだが、日本語版はどうなっているだろうか?映画化が決まり、2026年公開で制作進行中だそう。超一流のエンタメ映画になるのであろう。2024年フランスの大衆映画のチャンピオンは『モンテクリスト伯』(デュマ原作)であった。そして2024年12月に修復完成再開院したノートルダム大聖堂に因んでヴィクトール・ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』は再び驚異的ベストセラーになった。われわれはこういう”大絵巻物”系ストーリーに弱いところがあるのだね。エンタメ特有の金銭臭もぷんぷんするのだが。

5. 『余は如何にしてルワンダ人となりし乎(2024年9月20日掲載)
2024年ゴンクール賞選考で最後までカメル・ダウード『天女たち』と競り合い、最終的にルノードー賞を獲得したガエル・ファイユ『ジャカランダ』の超長いネタバレ紹介記事。第1作目の長編小説『プティ・ペイ』(2016年)はルワンダの隣国ブルンジを舞台にした迫り来る内戦と大虐殺を少年の視線で捉える作品だった。『ジャカランダ』はフランスのヴェルサイユでテレビニュースを通してしかルワンダ大虐殺を知らなかったフランス/ルワンダ混血少年が、後年ルワンダ現地でその悲劇を再検証していく、1994年から2020年までルワンダなるものを自分の血と肉としていく青年ミランの魂の軌跡。夫と子供を虐殺で失いそれでも人道活動に奔走する女性ウゼビ、その祖母で115歳で往生したルワンダ立国から現代までのすべての歴史を記憶しているロザリー、そのロザリーの曾孫でロザリーの記憶を書き残そうとする少女ステラ、この3人の女性の素晴らしさが、この小説の重要な説得力であり、小説をアフリカ女性讃歌にも高めている。文句なしの★★★★★。

6. 『Jay le taxi, c'est sa vie(2024年11月18日掲載)
単独親権の国ニッポンにあって、日本人妻によって子(娘)から引き離されてしまったフランス人夫の「娘との再会」悲願達成なるか、という一見(国際)社会派映画。ベルギー人ギヨーム・スネ監督『Une part manquante (また君に会えるまで)』(日本語を話すロマン・デュリス主演)。爺ブログでは取り上げる作品を低く評価したり貶したりということは非常に珍しい。日本が絡んでいるからという理由で神経質になるほど私はウヨクではない。だが、ちょっとひどい映画。2024年は日本関連ではイザベル・ユッペール主演の『Sidonie au Japon(シドニー、日本で)』という映画も紹介しているが、これもどうしようもなくひどい映画で...。これもそれもヴェンダース『パーフェクト・デイズ』症候群なのだと思うのだが、私は『パーフェクト・デイズ』はちゃんとした評価してましたよ。

7. 『やりすぎたらバランスが壊れる(2024年4月14日掲載)
濱口竜介の『悪は存在しない』は、プレス評では賛否両論あった映画だが、私の周囲のフランス人の間では否定論がほとんどで、『ドライブ・マイ・カー』を絶賛した人たちの落胆は大きかったようだ。まあフランスでの観客の入りも今ひとつだったし、新聞雑誌の12月の年間映画回顧でこの映画を持ち出すところは皆無だった。爺ブログは好意的に評価しましたよ。この映画のプロモーションで言われた「エコロジカルな寓話」というキャッチコピーだけれど、その方面を強調するのであれば、ある種のわかりやすさが要求されるのだと思う。カオス、カタストロフが結論部にある”寓話”などありえない。初めからこの映画は寓話などではなかった。観る者の思い込みをくつがえすのも映画の力だと私は思った。濱口が当代で最も突出した映画作家の一人であることには疑いの余地はない、と言ってしまおう。

8. 『1990年、ドロン vs テレラマ(2024年8月21日掲載)

8月18日、アラン・ドロンが死んだ。私にとってこれはほとんどどうでもいいニュースだった。その超巨大なエゴに嫌悪感すら抱いていた。芸能界に迎合的なメディアを除けば、この希代の大俳優は触れることを避けるべき厄介な存在であった。1990年(34年前)硬派の文化批評誌テレラマの(当時若手の)女性ジャーナリスト、ファビエンヌ・パコーは果敢にもこの怪物にインタヴューすることに成功するが、その内容は...。なお、この死の時期に、爺ブログでは2023年5月の掲載以来、驚異的なビュー数を記録しているアリ・ブーローニュ(歌手・マヌカンのニコの息子で、認知されていないが父親はドロンと主張していた)の記事(これも2001年におフレンチ・ミュージック・クラブに書いたものの再録)が再びビュー数を急上昇させ、現在累積9000ビューを超えて、爺ブログ歴代4位になっている。これは日本の読者のドロンへの関心の高さ、ということをこのブログでも証明しているのだね。

9. 『華麗なるアンドレ・ポップの世界・その1(2024年7月12日掲載)
作編曲家/楽団指揮者アンドレ・ポップ(1924 - 2014)の生誕100年没後10年の記念CDボックスを入手したのがきっかけで、ちょっとまとめて紹介しようかなと思って始めた記事。これも”書きかけ”(トム・ピリビ、ポルトガルの洗濯女、恋はみずいろ、マンチェスターとリバプール...)が4本あり、まだまだ書きたいとは思っているのだけれど...。”Song for Anna(天使のセレナード)"はウクレレ奏者ハーブ・オオタ(オオタ・サン)による世界的大ヒットということと、ポール・モーリア楽団等のオケものイージーリスニングのスタンダードということは知られていても、アンドレ・ポップの曲だということはあまり知られていない。そういう目立たなさがアンドレ・ポップの魅力でありましょう。

10.『華麗なるアンドレ・ポップの世界・その2(ジェーンBの命日に)(2024年7月16日掲載)
ジェーン・バーキンが76歳で亡くなった日の一年後に書いた記事。1974年のジェーン・Bのシングル「マイ・シェリー・ジェーン」は、詞ゲンズブール、作編曲アンドレ・ポップという珍しい顔合わせ。記事は”芸能人形”のようであった1970年代のジェーン・Bと、「栄光の30年」の終焉期のフランスについても言及している。日本、英米を含めて1970年代はテレビが色々な文化事象を牛耳ると同時に低俗化したと私は思っているが、レコード音楽業界が限りなく巨大化したのもこの時期で、そういう時代に「大ヒットメイカー」のような目立ち方をすることなく、職人芸でこの世界の土台を固めていたような人物がアンドレ・ポップだったのではないかな。この「華麗なるアンドレ・ポップの世界」のシリーズは2025年に必ず再開させます。刮目して待て。

2024年12月27日金曜日

2024年の1曲

Flavien Berger "Sapon"
フラヴィアン・ベルジェ「サポン」


From album "Contrebande 02. Le Disque de l'Eté"
( 2024年2月9日リリース)

ラヴィアン・ベルジェは1986年パリ生れのエレクトロ・シンガーソングライターであるが、この記事を書いている途中で彼が石鹸づくりの職人でもあることが判明した。その手作り石鹸は実にサイケデリックなまでにカラフルで、彼はその石鹸を「フラヴォン flavon」という商品名でコンサート会場や通信販売で売っているそうだ。なるほど、それで歌詞の3行目に

Je vais faire des savons, vons 僕は石鹸づくりをするよ
と出てくるわけだ。曲のタイトルの「サポン sapon」とは "saponifier = 脂肪を鹸化する"作業のことで、サポンしたものが固まると石鹸になるというわけ。
フラヴィアン・ベルジェのレーベルであるPAN EUROPEAN RECORDINGのFBページに「サポン」の歌の成り立ちをフラヴィアンが語っている動画があり、それによると2023年初夏、その秋に売るための石鹸を作っていた時の体験を歌にしたものだそうだ。夜になって石鹸づくりのアトリエから家に帰るとき、自転車のライトの替え電球を買うのを忘れていたのに気づいた(自転車ライトはフランスでも道交法で義務)。夏の夜の暑さの中で、(見つからないように)全速力で自転車を走らせると、いろんな香りが鼻腔を刺激してきて、それが15年前に友だちを訪ねて旅した日本の記憶を甦らせる...。ヴィデオクリップに出てくるのはその15年前に撮影した日本(主に関西)の映像をツギハギ編集したものだろう。わがFB友の上野卓彦さんはこの風景に詳しくて「枚方駅、楠葉駅などの大阪圏、鴨川、糺の森、嵐電などの京都圏が登場しますね」とコメントしてくれた。
「サポン」は2024年2月に初めて聴いて以来、私が1年中リピートして愛聴した曲である。聴く度に夏の遅い黄昏時の温い風を顔に浴びるセンセーションが、いろんな記憶を呼び起こしてくれる。本当にすごい効果を持ったサウンド&ワーズだと思う。この少年っぽい遊び心は私のような老人には刺激が快すぎて。1年間ありがとう、フラヴィアン、今度石鹸買いに行きます。
Je monte sur mon vélo 自転車に乗って
Dans la ville il fait chaud 街へ出る 外は暑い
Je vais faire des savons, 'vons 僕は石鹸づくりをするよ
Je te laisse un mémo きみにメモを残す
Dans lequel je m'émeus きみの歌を聞いて
Car j'écoute ta chanson, 'son 感動したって
Mise à jour du ciel 今の空はというと
C'est le crépuscule 黄昏時だ
Je suis plus si seul 僕はひとりぼっちっていうわけじゃない
Les fleurs s'allument 花々が光っているよ
J'adopte un ver luisant 僕は蛍を飼ってるんだ
Calé sur ma chemise シャツの上に留めてあるよ
J'ai pas de lumière 僕には光がないんだ
Petite bêtise ちょっとした失敗
J'accélère スピードアップだ
Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ
La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている
J'accélère スピードアップだ
Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような
Des plantes 香りを吸って
Semaine de corsaire 週日は重労働
Le weekend en concert 週末はコンサート
Cet été se passe à fond, fond この夏は全速力で過ぎていく
Là, sous les lampadaires あそこの街灯の下に行って
Les poumons remplis d'air 胸いっぱいに空気を吸うと
L'impression d'être au Japon, 'pon まるで日本にいるみたいだ
J'accélère スピードアップだ
Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ
La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている
J'accélère スピードアップだ
Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような
Des plantes 香りを吸って
Mise à jour du ciel 今の空はというと
C'est le crépuscule 黄昏時だ
Je suis plus si seul 僕はひとりぼっちっていうわけじゃない
Les fleurs s'allument 花々が光っているよ
J'adopte un ver luisant 僕は蛍を飼ってるんだ
Calé sur ma chemise シャツの上に留めてあるよ
J'ai pas de lumière 僕には光がないんだ
Petite bêtise ちょっとした失敗
J'accélère スピードアップだ
J'accélère スピードアップだ
Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ
La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている
J'accélère スピードアップだ
Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような
Des plantes 香りを吸って
J'accélère スピードアップだ
J'accélère スピードアップだ
(↓)フラヴィアン・ベルジェ「サポン」(Official Visualizer)
(↓)フラヴィアン・ベルジェ、アルバム "Contrebande 02. Le Disque de L'Eté"

2024年12月23日月曜日

二十の神の呪い(ばんじゅう怖い)

"Vingt Dieux"
『ヴァン・デュー』


2024年フランス映画
監督:ルイーズ・クールヴォワジエ
主演:クレマン・ファヴォー、マイウェン・バルトルミー、ルナ・ガレ
2024年度ジャン・ヴィゴ賞
フランス公開:2024年12月11日


「20の神」と書いて "Vingt Dieux(ヴァン・デュー)"。八百万(やおよろず)の神がいる日本とは異なり、ここでは神は唯一のものと決まっている。ここでは複数の神がいたら天地の決まりごとが全て狂ってしまうし、ましてや20もの神がいたら、たまったものではない。これは冒瀆(ぼうとく)である。というわけでいにしえの人々の間でVingt Dieux は罵りの表現になった。20の神に呪われちまえ、こんちくしょう、くそったれ...ってなニュアンスだろうか。この表現はフランス全国レベルではほとんど使われなくなってしまったのだが、なぜかスイスと国境を接せる山岳地帯であるジュラ県では、今でも老若男女の口から頻繁に飛び出る町言葉になっている。こういう古いものが残っているとはジュラシックな土地柄ならではか。この映画でこの罵り言葉は私の耳では3回ほど聞き取れたが、いずれも若者の口から出ていて、不慮の失敗や惨事の時にすかさず「ヴァン・デュー!」と。これを自らの最初の長編映画のタイトルにした当年30歳の女流監督ルイーズ・クールヴォワジエはこのジュラ地方で育った土地っ子。そしてこの映画のもうひとつの主役と言えるのが、このジュラ地方の名物チーズ「コンテ Comté 」なのである。言葉と言い、名産チーズと言い、これはまさにテロワール(terroir 地方色、土地柄)の香ばしさに祝福された映画なのである。
 名前はアントニー(演クレマン・ファヴォー、出演者はほぼ全員現地キャスティングで選出したシロートばかり)でも、誰もがトトーヌの愛称で呼ぶ18歳の男が主人公であり、日がなダチふたり(ジャン=イーヴとフランシス、共になんとも味のある役どころ)と暇をつぶす(飲み、遊び、縄張り争いのケンカをし、寝る)農村ならず者だったが、ある日寡夫シングルファザーの父親が泥酔運転自爆事故で死んでしまい、事情が一変してしまう。破産寸前農家だった父親の負債(借金)を被り、農機具などの”家財”を全て没収され、まだ学童の妹クレール(演ルナ・ガレ、快演!)を養育しながら、二人分の食い扶持を稼がなければならなくなった。学のないトトーヌでは、この山の農村で収入を得るには農事関連肉体労働をいくつもこなして働くしかない。その上妹クレールの身支度と食事と登下校送り迎え。さすがにこれでは身が持たない。そんな中で牛乳運搬トレーラーの仕事をしながら出会うのがコンテチーズづくりの世界であった。死んだ父親もこれに手を染めかけたことがある。そしてジュラ地方のコンクールに優勝すれば3万ユーロの賞金が手に入ると知るや、トトーヌはそれに賭けて邁進するとしか考えられなくなる。
 それと前後してトトーヌは若い女性酪農家マリリーズ(演マイウェンヌ・バルトルミー、すばらしい!)と出会っている。小さな個人経営の酪農家で、乳牛飼育から搾乳と原乳貯蔵保管まで全部一人でやっている逞しいカウガールである。演じたマイウェンヌ・バルトルミーは実生活でもこの酪農のAからZまでひとりでしているそうで、その証拠のようにこの映画の後半で乳牛のお産(両手で新生牛の両脚を全力で引っ張り出して分娩させる!)を彼女ひとりでやってのけるシーンあり。そういう野生的でしかもチャーミングなマリリーズは旺盛な性欲の持ち主でもあり、さっそく新米農事労働者トトーヌを誘惑し、ベッドへと誘うのであるが、トトーヌはその気があってもいざという時にモノが言うことを聞かない。バチ悪くあやまるトトーヌに、「あんたができなくったって、わたしはいけるのよ」とマリリーズはトトーヌにクンニリングスを要求する。しかたなくマリリーズの股間に顔を埋めるトトーヌ... 「わぉ、牝牛の臭いがする!」 ー O, la vache ! ー 私はこのシーンでこれは本当にテロワールの香り高い映画だと実感したのですよ。
 父親の倉庫から牛乳発酵窯を引っ張り出し、ダチふたりの協力で用具を揃え、没収されたトラクターを買い戻し、本格的にチーズ作りに動き出すのだが、そのトトーヌとダチふたりの作業を上から眺めている現場監督のような立ち位置で小さな妹のクレールがいる。映画はこの四人(→)によるユートピア創造のストーリーでもある。トトーヌのコンクールに絶対優勝できるという自信の最大の根拠は原料となる原乳である。「コンテをほおばると、フルーティー、花の香り、マイルド、スパイシーなど、時には言葉が見つからないほど限りなく豊かな風味が広がります」(https://www.comte.jp/feel/より)。テンダーで、ほどよい塩味、フルーティーで花の香りを含み、がっしりしている、これがコンテの本質である。このすべての要素を引き出す決め手は原乳である、と。そしてその格別の原乳という専門家による定評があるのが、なんとマリリーズが生産する原乳なのである。トトーヌはコンクール優勝の最短の方法はこれだと踏んで、マリリーズの倉庫の鍵を拝借して原乳タンクから多量の原乳を盗み出す...。
 プレス映画評のほとんどがこの映画の「ウェスタン(西部劇)」性を高く買っている。山野と牧場のあるざっくりした風景、口よりも手の方が早い荒くれ男たちの抗争、草競馬ではないがこの地方の一番の野外エンターテインメントがなんと「デモリション・ダービー」(中古ストックカーによる車両破壊レース)だったりする。このデモリション・ダービーのシーンはこの映画の大きな見せ場のひとつであるが、廃車ルノー5の(マッドマックス風)改造車を操ってこのレースに優勝するのがトトーヌのダチのジャン=イーヴ(演マチス・ベルナール)で、映画の後半で壊れてしまうダチ三人組の友情のよりを戻すきっかけが、少女クレールのジャン=イーヴへの幼い恋心であり、クレールの祈り実ってジャン=イーヴが超凶暴なレースを制するという美しい大団円へ。やわなフランス田舎小僧たちの様相をした男たちが見せる荒くれ野郎たちの世界、う〜ん、マンダム

 冒頭で映画のもうひとつの主役と紹介したコンテ・チーズであるが、映画は奥深いコンテの世界と、その丹精込めたチーズづくりの秘伝にまで迫るドキュメンタリー風なシーンも随所に挿入される。それはトトーヌというわけ知らずの若者がいにしえからのわざをひとつひとつ学び、失敗しながら鍛錬していく求道的修行の軌跡でもある。それにはダチふたりの献身的ヘルプと、妹クレールの大人びた助言や判定がなくてはならないものだった。こうしてユートピアはできあがりつつあったのだが...。
 映画の展開は大惨事を到来させる。映画ですから。何度めかのマリリーズ倉庫からの原乳盗難が現行犯で見つけられてしまう。その場に居合わせた発見者はマリリーズと原乳供給契約のあるチーズ生産者(トトーヌと喧嘩が絶えなかった宿敵)たちで、三人は袋叩きにされ、トトーヌは自分のチーズづくりの夢が御破算になるのを恐れ、反撃しようとするジャン=イーヴを逆に抑えてジャン=イーヴの激昂を買うことになる(三人組の崩壊)。ヴァン・デュー!そして信頼を裏切られた恋人マリリーズはトトーヌの原乳盗みには目をつぶるが、恋心は壊れてしまう...。

 ひとり(と妹)だけになってしまったトトーヌはそれでもコンテ作りをやめない。そしてコンテのコンクールに出品しようとするが、生産者としてAOP(アペラシオン・ドリジーヌ・プロテジェ = 保護原産地呼称)認証を受けていない(だいたいAOPとは何のことかトトーヌは知らなかった)ということで主催者に拒否される。それでもいい。りっぱに出来たトトーヌのコンテ(直径60センチ、厚さ10センチ、重さ35キロ)を背中にしょってバイクにまたがり、マリリーズのところへ届けるトトーヌだった...。そして上に述べた村の「デモリション・ダービー」というイベントで、映画はハッピーエンドのシーンを用意している。

 チーズ、乳牛、干し草、汗と血、土、森... さまざまな匂いが香ってくるフランス深部の映画。牧歌的だけであるわけのない生きた田舎の土地と人々、こんなにこの生の姿を見せてくれた映画はこれまでなかったのではないかな。テロワール映画とでも呼ぶべき新しいジャンルの訛りのある映画の登場を心から歓迎したい。爺さんしあわせになりましたよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ヴァン・デュー』予告編

2024年12月20日金曜日

こっそりと、目立たないように、何くわぬ様子で

Evergreen "En Douce"
エヴァーグリーン「アン・ドゥース」

詞曲:ファビエンヌ・デバール、ジョナタン・ルフェーヴル=レイシュ、ミカエル・リオット

From EP "Sign In"
(2021年10月15日リリース)


エヴァーグリーンは2008年パリで活動を開始した三人組(♀ひとり+♂ふたり)で、デビュー当時は We Were Evergreen と名乗っていた。ジャンル的にはインディー・ポップ、エレクトロ・ポップと言われているようだが、2011年から2017年まで活動の拠点をロンドンに据えていて、ほとんど英語で歌っていた。これまでLP4枚、EP2枚を出しているが、私は全く知りませんでした。で、全く知らなかった音楽に私が偶然出会うのは(ずいぶん前から)たいがいがラジオFIPかYouTubeということになってしまった。昔はアーチストやレーベルからの直接のコンタクトだったり、数種類定期購読していた音楽雑誌だったり、レコードショップでだったのにぃ... 。
この曲と出会ったのは、YouTube上で、スタジオヴァージョンではなく、2023年9月パリで管弦楽アンサンブルと共演したコンサートのライヴ動画だった。私はずっとずっと昔からこういう螺旋階段メランコリー旋律に涙腺が敏感に反応するタチ。美しいフランス語である。”En Douce(アン・ドゥース)"とは、わがスタンダード仏和辞典では「こっそりと、目立たないように、何くわぬ様子で」といった訳語が出ている。この歌詞は実に”シャンソン的”な、3分間短編映画であり、オチ(結末)のある女性心理ドラマである。私はこういう"シャンソン”に琴線が震えてしかたがない。ファビエンヌ・デバールの繊細なヴォーカル表現も、ストリングス+トランペットの哀愁アンサンブルも。

Mes mains sont trop carrées
私の手は角ばっている
Même quand je les ouvre
指を開いても角ばっている
Elles ne savent que serrer
だからいつも親指を包んで
Autour de mes pouces
固く握っている
L'enjeu est de taille
問題は大きさなの
A qui donc adresses-tu
誰にこんな些細なことが
Tous ces détails
打ち明けられるの?
Tes soirées d'ivresse
あなたの酔い加減が過ぎる夜宴
Je me sens des failles et
私は自分の弱さを感じて
Je le sens, oui ça y est
私は弱い、もうだめ
Viens me voir en douce
こっそりと私のところへ来て

Fais-moi cette faveur
私のお願いを聞いて
De rentrer ensemble
一緒に帰りましょう
Pour contenir l'ardeur
私の震える両手のほてりを
De ces mains qui tremblent
おさえるために
Mes mains trop petites
私の小さすぎる両手
Pour te laisser prendre
あなたに捕まえてほしい
Mes mains qui s'agitent
私の震える両手は
De ne faire qu'attendre
あなたが探しに来てくれて
Que tu viennes les chercher
私の両手に顔をうずめるのを
Que tu viennes t'y cacher
待っているだけなの
Viens me voir en douce
こっそりと私のところへ来て

J'ai pris mes affaires
もう身の回りの物を持って
Je t'attends dans l'entrée
出口で私はあなたを待っている
Mais tu exagères
でもあなたはわざと
A te faire désirer
私を焦らすの
Tu sais bien t'y prendre
自分の意図を隠すやり方を
Pour me cacher ton jeu
あなたはよく知っている
Je veux bien attendre
私は待っていたい
Attendre encore un peu
もう少しだけ待って
Que je me fatigue
疲れた頃にあなたが
Où tu décides
こっそり私の元にやってくるって
A me voir en douce
決めてくれるまで待っているわ

Mes mains sont trop carrées
私の手は角ばっている
Même quand je les ouvre
指を開いても角ばっている
Elles ne savent que serrer
だからいつも親指を包んで
Autour de mes pouces
固く握っている
La soirée se vide
夜宴は散会
Et lentement laisse
窓越しに帰りを急ぐ人たちの
Glisser sur la vitre
物音が聞こえてくる
Des bruits qui se pressent et
そして

Je te vois descendre
あなたが降りてくるのが見える
Lentement descendre
ゆっくりと降りてきて 何くわぬ様子で
La rejoindre en douce
彼女と合流するのが

Je te vois descendre
あなたが降りてくるのが見える
Lentement descendre
ゆっくりと降りてきて 何くわぬ様子で
La rejoindre en douce
彼女と合流するのが




あとで初めて聞いた2021年録音のスタジオヴァージョン(↓)もデリケートなエレポップで、これはこれで★★★★☆だと思いますよ。


2024年12月8日日曜日

明日なき暴走 (Born to run)

"Leurs Enfants Après Eux"
『彼らの後の彼らの子供たち』

2024年フランス映画
監督:リュドヴィック&ゾラン・ブーケルマ
主演:ポール・キルシェール、アンジェリナ・ヴォレット、サイド・エル・アラミ、ジル・ルルーシュ、リュディヴィーヌ・サニエ
原作:ニコラ・マチュー『彼らの後の彼らの子供たち』(2018年ゴンクール賞)
フランス公開:2024年12月4日


画の最後から紹介する。ひとりオートバイでロレーヌ地方の田舎道を疾走するアントニー(演ポール・キルシェール、日本で『動物界』公開中)が消え、エンドロールが始まると同時に流れる音楽はブルース・スプリングスティーン「明日なき暴走(Born to run)」(1975年)である。ニコラ・マチューの原作小説を読んだ者なら、ここは絶対ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」(1991年)が来るはずだと構えていたと思う。私もそのひとりだった。ところが、あにはからんやザ・ボスが来たのだ。そしてこれが極上だった。鳴った瞬間涙が迸り出た。明日なき暴走、1975年、日本のCBSソニー洋楽A&Rはよくぞこんな卓抜な日本語題をつけてくれたもんだ。このエンディングの風景はどんぴしゃに明日なき暴走なのである。明日なき暴走とはこの映画を観た者には深く核心的な日本語表現となる。そして、ザ・ボスのシャウトも。
 1990年代、東フランスの破産工業地帯ロレーヌ地方の小さな町に生きる3人のティーンが織りなす1992年/1994年/1996年/1998年、四つの夏の物語。長年の失業でアル中と化した父パトリック(演ジル・ルルーシュ)、パトリックと口論が絶えず離婚も時間の問題と諦めている母エレーヌ(演リュディヴィーヌ・サニェ)、この二人の間の一人息子がアントニーであり、父母に依存して生活しているが無軌道でやや荒れた青春を生きている。1992年夏、14歳のアントニーが一目惚れしてしまうのが、町の有力者(町長)の娘ステフ(演アンジェリナ・ヴォレット)で、この退屈極まりない地方から抜け出すためにパリ進学目指して勉強していて、ブルジョワ娘の決められた行く末に反抗もしている。この映画では原作よりもこの少女の性的好奇心が強調されているような気がするが、それはそれでいい。もうひとり、今は閉鎖したこの町の鉄鋼工場に移民労働者としてやってきたモロッコ人の息子アシーヌ(演サイド・エル・アラミ)は、町から疎ましく見られているマグレブ移民二世たちの不良グループのリーダー格で、失業者の父マレクと二人暮らし。マレクから就職先を見つけることを厳命されているが、モロッコ移民の子に職は回ってこない。

 止まってしまった溶鉱炉、廃屋となって放置された鉄鋼工場や倉庫などが重苦しい背景となっている町の風景が、この映画のもうひとつの主役であり、この30年前の風景が浦山桐郎『キューポラのある街』(1962年)だったと想像してみるのも一興だが、これは若者たちだけでなく町の人たちの多くを押しつぶし、窒息させるような背景である。そんなところにも毎年夏はやってきて、ヴァカンスなど縁のない人々も陽光の季節を享受している。そしてこの町には美しい湖がある。その一角にはブルジョワ娘たちがたむろするプライベートビーチがあるらしいという噂を嗅ぎつけたアントニーとその相棒のいとこ(映画でも名前は出てこず「いとこ= le cousin」としか呼ばれない:演ルイ・メンミ)は、貸ボート屋の倉庫からカヌーを盗み出し...。というのが映画の冒頭。貸ボート屋に盗みの現場を発見され、必死でカヌーを湖面に漕ぎ出し、全速力で沖を目指し、追っ手を振り払ってたどり着いた岸辺にいた水着姿の少女二人。そのひとりが豊艶なオーラを放つステフだった。アントニーはこの瞬間から運命的なものを感じ取ってしまうのだが...。別れ際、今夜プール付きの大邸宅でパーティーがあるから来て、と誘うステフ。14歳アントニーはカッコつけたくて、父親パトリックが(若き日の輝かしい過去の記念として)宝物にしているレース仕様のオートバイを、一晩だけだからとパトリックに内緒で母親からキーを借り受け、颯爽とブルジョワ子女たちが狂乱して酔いしれているパーティーへ、と。夜も更けた頃、文字通りフランス語の "Trouble-Fête"で、招待されていないマグレブ二世不良グループが登場、入場阻止を無視して中に入りステフらに悪態をついているところを、リーダーのアシーヌにアントニーが強烈な足払い。凄まじい眼光での睨み合い。ここからアントニーとアシーヌの長く運命的な(おそらく一生続く)抗争が始まるのである。マグレブ不良団は一旦退散し、パーティーは夜明けまで続き、散会となって帰宅しようとすると... 父親の宝物オートバイが忽然と無くなっている...。

 映画の大筋は、原作小説にほぼ忠実なので、ストーリー展開に関しては私の原作小説紹介記事を参照してください。しかし映画は原作の鏡ではなく、双子監督リュドヴィック&ゾラン・ブーケルマは意図的に原作の”部分”を膨らませているところがある。不安定で無軌道な若者アントニーの右左にぶつかりながらの突っ走りがシナリオの軸であるが、ステフとアシーヌとの絡み合いと同じほどに父パトリック(写真)の存在をこの映画はクローズアップしている。おそらくこれはパトリック役を今や俳優としてだけでなく監督/プロデューサー(特に2024年映画"L'Amour Ouf")としても今日のフランス映画界の重鎮となってしまったジル・ルルーシュに託したことに起因するのだろうが、この名優の存在感を存分に活かして山場を作ってもらおうとしたのだろう。上述のようにパトリックとは製鉄所閉鎖によって職を失い、定職を得られないままその日暮らしの失業者を長年続けていて、アル中になり粗暴になり、妻子に対して強権的・暴力的になり、妻エレーヌは離婚のことばかり考えるようになった。宝物のオートバイを盗難されたことを知った時アントニーとエレーヌはパトリックに殺されるだろうというレベルで真剣に恐れていた。激すると手のつけようもないほど極度に暴力的になるパトリックであったが、この映画ではなんとか家族のよりを戻したい、エレーヌと復縁したいと願って不器用な努力を繰り返すデリケートさを名優に演じさせている。これが感動的に見えるのはさすがジル・ルルーシュと思わせる。アルコールを断ち、貯金箱に金を貯めエレーヌに捧げようとしたりするが、努力は実らない。最愛のオートバイと最愛の家族を失い、行き場を失ったパトリックは、1996年7月14日、フランス革命記念日のお祭り騒ぎ(花火、野外ダンスパーティー...)のさなか、泥酔した足で湖に進み入り自ら命を絶つ。その現場をひとり目撃していたのが、オートバイ争奪の大乱闘でパトリックに半殺しになるまで殴打されたアシーヌだった。これがこの映画の山場のひとつ。
 それから原作小説が全4章の副題をその年を象徴する”若者”音楽のタイトルにしていた(第一章1992年ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」、第二章1994年ガンズ&ローゼス「ユー・クッド・ビー・マイン」、第三章1996年シュープレームNTM「ラ・フィエーブル」、第四章1998年グロリア・ゲイナー「アイ・ウィル・サーヴァイヴ」)ほど音楽に重要な意味を持たせていたが、映画はふんだんに音楽を挿入(23曲の挿入歌)して同じように重要なファクターとしているものの、原作小説の挿入曲をあまり踏襲していない。
(↓フランスの映画音楽専門サイト Cinezik.org に載っていた挿入曲リスト)

"Run to the Hills" - Iron Maiden (1982)
"Pretend We're Dead" - L7 (1992)
"Mr Loverman" - Shabba Ranks (1992)
"Non soumis à l'État" - IAM (1991)
"Where Did You Sleep Last Night" (Leadbelly / Nirvana) - covered by Amaury Chabauty et Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois
"My Lovin' (You're Never Gonna Get It)" - En Vogue (1992)
"Under the Bridge" - Red Hot Chili Peppers (1991)
"Je te donne" - Jean-Jacques Goldman & Michael Jones (1985)
"Bust a Move" - Young MC (1989)
"Feed My Frankenstein" - Alice Cooper (1991)
"Genius of Love" - Tom Tom Club (1981)
"Where Is My Mind" (Charles Thompson / Pixies) - covered Amaury Chabauty et Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois
"I Don't Want a Lover" - Texas (1989)
"Rivers of Babylon" - Boney M (1978)
"Samedi soir sur la terre" - Francis Cabrel (1994)
"Nothing Else Matters" - Metallica (1991)
"Que je t'aime" - Johnny Hallyday (2019)
"Savoir aimer" - Florent Pagny (1997)
"La Fièvre" - Suprême NTM (1995)
"You Can't Hurry Love" - The Supremes (1966)
"I Will Survive" (Dino Fekaris, Frederick J. Perren / Gloria Gaynor) - covered par Amaury Chabauty
"Born to Run" - Bruce Springsteen (1975) - Ending roll

フランス東部の田舎FM、田舎カフェ、田舎ディスコなどで当時の若者たち及び町民たちが聞いていた音楽、と想像してみよう。特に印象的なのはステフとアントニーがプールの水の中にいて、かのギターイントロが鳴りだすと「これわたしの大好きな曲」「俺も」と二人水の中に口を沈めて口パクで歌い出すレッチリ「アンダー・ザ・ブリッジ」。それから1996年のフランス革命記念日の町の野外ダンスパーティーで、田舎DJが「お待ちかねのチークダンスタイムだよ」とMCを入れて始まる曲がフランシス・カブレルの「地球の上の土曜日の夜(Samedi soir sur la terre)」(1994年アルバム"Somedi Soir Sur La Terre"はわが最愛のポップ・フランセーズアルバムの10枚に入ると思う)、この曲に揺られながらアントニーとステフはまるで恋人同士のように体を密着させて踊るのですよ。長いシークエンス。美しい。この姿を影から見ていたパトリックが、息子も一人前に恋をするようになったか、とひときわの孤独感に突き動かされたか、ひとり泥酔の足で湖で入水自殺を...。
 

 最終章1998年はフランスがW杯優勝で沸き立ち、社会的に打ちひしがれたこの町もひとときすべてを忘れて勝利に酔いしれ、蜃気楼のユートピアが見えそうな気がしたが、ステフは一途な恋慕を貫いているアントニーを捨てカナダに旅立つと言い、アシーヌは因果応報のように買ったばかりのオートバイをアントニーに奪われ、アントニーは恋を失う。W杯優勝の大騒ぎに紛れて、三人それぞれの青春はこうして終わりを告げられるのである。

 映画の核はアントニーを演じたポール・キルシェールである。少年のマスクはときおりローリング・ストーンズデビュー時のミック・ジャガーを想わせる。退屈を打ち破りたい衝動はこの少年を走らせ、暴走させる。向こうっ気の強い喧嘩腰も報われない一途な恋慕も似合っていない少年のあがきのように見える。これがティーンスピリットさ、とも見える。大変な大器ではあるまいか。
 430ページの大河小説を2時間20分に凝縮したこの青春残酷映画、やや苦言を言えば、原作小説を読んでいないと追いきれない部分がかなりある。それを克服する「勢い」はあると言えるかな?

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『彼らの後の彼らの子供たち』予告編



(↓)ザ・ボス「明日なき暴走」(1979年ライヴ)

2024年12月1日日曜日

2024年のアルバム:夢に消えるジュリア

Enchantée Julia "Onze"
アンシャンテ・ジュリア『じゅういち』


は2018年からアンシャンテ・ジュリアを追いかけている。ジュリアは南の女である。オクシタニアの生まれ。正確にはプロヴァンス地方ヴォークルーズ県オペード・ル・ヴュー(Oppède-le-vieux)という人口1000人の古い町で、美しいラヴェンダー園が点在するリュベロン山塊自然公園の中にある。「ウィンキーカレンダー2025」の7月の写真(↓)を撮影したラヴェンダー園にも近いところである。ジュリアの歌にはそういうプロヴァンスの香りを感じさせるものがある。因みにジュリアのちりちりのカーリーヘアーは天然であり、ジュリアの最初の6曲EP(2019年)のタイトルは"Boucle(巻き毛)" と誇らしげに。

 ジュリアのやっている音楽は一般的には”R&B”と呼ばれていて、それもフランス語によるR&Bである。これは2010年代のフランス音楽業界では(商業的に)きびしいジャンルだった。破竹の勢いで市場を席巻しているラップ/ヒップホップの影にあって、どんなに歌唱力あるR&B歌手でもその位置はラップアーチストのバックコーラスやちょっとしたリフレインの”フィーチャリング”が関の山であった。だからプロヴァンスからパリに出てきた頃はレコード会社やプロダクションから見向きもされず、長い”下積み”を強いられることになった。2018年にYouTubeで楽曲を発表し始めた頃、すでにジュリアは30歳になっていた(それがどうした?)。ジュリアは焦ることなくゆっくり時間をかけて、仏ネオ・ソウル界隈の最良の部分とコラボレーションを重ねて、自らの(誰にも真似のできない)ダウンテンポ・グルーヴを磨きあげていく。その中での決定的な出会いが、(のちに夫にもなる)プランス・ワリー Prince Walyであった。本名ムーサ・マガッサ、93県モントルイユ出身のラッパーで、これも長い下積みの末2022年の初ソロアルバム『ムーサ』で2023年度ジョゼフィーヌ賞を受賞している。ジュリアは一貫して彼のことをムーサと呼び、その名を冠した「ムーサ」という曲も発表して公にその熱愛を表明している(ジュリアはこういう極私的な内容の歌が多い)。お互いの長い下積み中にさまざまなインスピレーションを交感し合っていた間柄と言えるし、お互いのアーチストとしての飛躍に重要な役割を果たしていた、それは愛だもんね、と。
 そのプランス・ワリー/ムーサが2018年にまれな難病である「胸腺がん」と診断され、一時は声帯にまで転移して声が出なくなった。それから3年間の治療闘病の末、晴れて寛解するのだが、この劇的な生への帰還も二人の音楽アーチストの愛による救済のドラマのように、楽曲のインスピレーションとなるのだね。ムーサは3年のブランクの後、前述の初ソロアルバム『ムーサ』(2022年)で大きな成功をおさめ、一躍フレンチ・ラップの大器になった。2022年アンシャンテ・ジュリアの2枚めのEP(7曲入り)は”Longo Maï(ロンゴ・マイ)”と題されるが、これはオック語(プロヴァンサル語)で「末永くあれ」という意味で、言わばムーサの帰還を祝福するもの(このEPの中に前述の「ムーサ」が入っている)。
 そして次は私の番、とジュリアは初ソロアルバムを準備する。ジュリア/ムーサのカップルの他ミュージシャン/コンポーザー、エンジニアらが故郷プロヴァンス・リュベロン地方ピオランクの田舎家 Les Santolines (レ・サントリーヌ)に合宿を始めたのが2023年11月。アルバムがこの環境で生まれたことを示すミニ・ドキュメンタリー動画がある(↓)


そして新アルバムを閉じる最終曲(11曲め)はこの田舎家へのオマージュで「レ・サントリーヌ」と題される。
(リフレイン)
Changement de saison
季節が変わり
J'reviens à la maison
私は故郷に帰る
Rêver, rêver
夢見ること
Quand la nuit tombe
夜の帷が降りると
Le coeur a ses raisons
愛することの
D'aimer, d'aimer
理由をとりもどす



満を辞してのファーストフルアルバムのタイトルは『Onze(11)』。11曲32分。なぜ「11」なのかをジュリアはインターネットメディア Konbini のインタヴューでこう答えている。
理由はたくさんある。私の人生において11という数字をめぐってたくさんの重要な瞬間があったの。それは”幸運の数字”以上のものね。数秘術(numérologie)では私の数字は11で、夫(プランス・ワリー)も同じ。これはミラーナンバーよ。そしてこれは直観を表す数字であり、このアルバムをよく要約していると思うの。これは直観的で本能的なアルバムで、私という人間をよく表しているのよ。私のものの考え方と生き方において私は精神的なディメンションに大きな比重を置いているの、そのことは私の知人たちはよく知っているんだけど、ファンたちは知らないと思うので、私はそのことをみんなに感じて欲しいのよ。私の人生を変えてしまったアルバム、エリカ・バドゥの『バドゥイズム』(1997年)は2月11日にリリースされた。11は私たちの結婚の日でもあった。とても神秘的なことよ。彼が数秘術の数字で11だってことは知らなかったのよ。彼も11、私も11、それで結婚したのが3月11日、でもこの日付は私たちじゃなくて市役所が決めたのよ...

アルバムタイトル曲「Onze(11)」(3曲め)は夫プランス・ワリーがラップで介入してくるナンバーで、ジュリアとムーサの出会いのことが歌われている。
Que ferais-tu, si t'avais le choix ?
あなたにやり直しができるとしたらどうする?
J'recommencerais des centaines de fois
私だったら何百回でも同じことをやり直すわ
Premier rendez-vous
最初のランデブー
C'était cool
クールだったわ
On se tournait autour
激しく誘惑し合ったわね
C'était fou
クレイジーだったわ
C'est arrivé, j'ai dû prier
ついにやって来たの
Du haut de mes genoux
私深く祈っていたのね、きっと
Puis t'es arrivé, comme au ciné
そしてあなたがやって来た、映画みたいに
As-tu rêvé de nous ?
あなたは私たちのこと夢見てたの?



 お熱いことで。アルバムはこんなふうに、極私的なムーサ/プランス・ワリーへの想いを歌ったものが多い。ジュリアにおいて特徴的なのは、R&B/ソウルにありがちな毒性や酩酊や傷つきがテーマにならないこと。祈りと救済、愛すること、夢見ること、信じること、ここに私は米R&Bの底にあるゴスペル的な精神性を思ってしまうのだが。例えば2曲めの「セイヴ・ミー(Save me)」という歌である。これもムーサに捧げた愛の救済を歌ったものであろう。
Entre désert et montée des eaux
砂漠と洪水の間に
La terre brûle mais l'enfer c'est les autres
大地が燃えているけど地獄とは他人のこと
J'fais le saut de l'ange, du haut de la Seine je saute
私は天使の跳躍を、セーヌの高みから飛び込むの
Saine et sauve, moi, j'm'en sors saine et sauve
無傷で無事に私は抜け出す、全く何事もなく
Billet bleu ou vert, sur plaie ouverte
開いた傷口にユーロ札やドル札
Comme un pansement, sur cœur ouvert
開いた心臓に貼った絆創膏みたい
Baby, je suis tombée à l'eau
ベビー、私は水に落ちたのよ
Et toi pour me sauver, t'as trouvé deux anneaux
私を救うためにあなたは二つの指輪を見つけた
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
Regarde comme le monde est à nous
見て、世界は私たちのもの
Et dans ton regard, tout devient doux
あなたの眼差しですべては優しくなる
Mon cœur est brisé, il me fait défaut
私の心は傷つき、欠乏してしまう
Quand le chemin est truffé de faux
道には偽物ばかり埋められている
Au pied du puits, j'étais au fond des eaux
井戸の最深部、私は水の底にいたの
Sans réseau, moi, j'avance sans les autres
何の繋がりもなく、私は他人の力なしで進んでいく
Baby, je suis tombée à l'eau
ベビー、私は水に落ちたのよ
Et toi pour me sauver, t'as trouvé deux anneaux
私を救うためにあなたは二つの指輪を見つけた
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して



 思わず赤文字にしてしまったが、"L'enfer c'est les autres"(地獄とは他人のことだ)は、ジャン=ポール・サルトルの戯曲『出口なし』(1944年)の中の有名なセリフであり、フランスではリセの哲学の試験問題によく出る存在論的命題である。ジュリアはこんなことも引き合いに出すので、ちょっと侮れない。

 フランス語詞にこだわるジュリアであり、その複雑なネオ・ソウル旋律にもよく乗るグルーヴィーな言葉づかいである。ただ私が惹かれてやまないのは、それよりもそのセンシブルで官能的な声であり歌唱であり、コーラス部分の自声多重録音のハーモニーワークである。私はこの声ならば一晩中だってうっとりして聴いていられる。インストもとても繊細だし、その編まれ方には感心させられるのだが、詳しく解説できる知識は私にはないので...。

 そんなアルバムの中で、やっぱり一番繰り返して聴いてしまうのは「肌の花(Fleur de peau)」(9曲め)という曲で、これは田舎家レ・サントリーヌ合宿で最初に出来上がった曲だそう。この曲が出来たら続く曲はすらすらと出てきたという、一番産みの苦しみの末に生まれた歌。自信があったのだろうね、アルバム発売の5ヶ月前の2024年6月に先行シングル扱いでYouTube公開された。私も一聴で虜になった。「肌の花」とは非常に敏感に(過敏気味に)反応することを意味する。触れるか触れないかの距離で肌に接するとくすぐったかったり、寒気で震えたりする、そういう過敏反応のことを仏語表現で avoir la fleur de peau (肌の花を持つ)と言うのだそう。
Toujours à faire le beau
いつもきれいでありたくて
Souvent à fleur de peau
朝早くの
Comme le parfum
香水のように
Tôt le matin
つい過敏になってしまう私
Trop de mauvaises rencontres m’ont fait du tort
悪い出会いをしすぎたせいね
Pour oublier il m’a fallu du temps
忘れるのに時間がかかったわ
Mais je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
でも今はあなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
あなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Pour jouer le jeu, il fallait être deux
ゲームをするには、二人にならなければ
Heureux, yeux dans les yeux, j’ai fait ce voeu
しあわせよ、見つめあって、私は願いを立てる
Un peu d’amour, c’est tout ce que je veux
少しの愛、私が欲しいのはそれだけ
Si je t’en demande trop, fais ce que tu peux
それが欲張りすぎだったら、あなたはできることだけして
Et si parfois je pleure
もしもときどき私が泣いたら
Tu m'achèteras des fleurs
私にお花を買ってね
Des chrysanthèmes
菊の花がいいわ
Et par centaines
何百本もよ
Tu m’as renversée comme un sablier
それで私はひっくり返された砂時計のように
On se retrouve pour mieux s’oublier
忘れてまたいちから始められるわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Viens, pas trop vite
来て、でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Mais je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
でも今はあなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
あなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Pour jouer le jeu, il fallait être deux
ゲームをするには、二人にならなければ
Heureux, yeux dans les yeux, j’ai fait ce voeu
しあわせよ、見つめあって、私は願いを立てる
Un peu d’amour, c’est tout ce que je veux
少しの愛、私が欲しいのはそれだけ
Si je t’en demande trop, fais ce que tu peux
それが欲張りすぎだったら、あなたはできることだけして


すごくわかりやすいきれいな詞の中で、突然「菊の花」が出てきて、おや?と思う。ネットでフランスでの菊の象徴するものを調べてみたら、愛や喜び、と出てくるものの、庶民的にはフランスでもこれは11月1日の万聖節(Toussaint)のお墓参りの花なのですよ。「”11”月の花 」というオチなのかもしれない。
 そしてこのアルバムは2024年"11月22日”にリリースされた。”11"に凝った二人の記念すべきアルバムということなのかもしれない。因みに日本では11月22日は「いい夫婦の日 」なんだと最近教わった。ジュリアに教えてあげたい。

<<< トラックリスト >>>
1. Cygne
2. Save me
3. Onze (feat. Prince Waly)
4. Ballade
5. Doutes
6. La Sève
7. Go
8. Mystère
9. Fleur de peau
10. Leitmotiv
11. Les Santolines

Enchantée Julia "Onze"
LP/CD/Digital Roche Musique RM090
フランスでのリリース:2024年11月22日


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)プランス・ワリー&アンシャンテ・ジュリア "Cra$h"(ライヴ2023)



(↓)Julia dream, dreamboat queen, queen of all my dreams

2024年11月23日土曜日

2024年のアルバム:クロかあさんのおまじない

Klô Pelgag "Abracadabra"
クロ・ペルガグ『アブラカダブラ』

志たちは『七つの苦悩の聖母 Notre-Dame-Des-Sept-Douleurs』(2020年)をちゃんと聴きましたかね?コロナ禍でそれどころではない時期ではあったが、解説で書いたように長かった暗黒の日々をクロ・ペルガグが抜け出していく魂の軌跡を描いた素晴らしいアルバムであった。あれから4年、われわれのポスト・コロナ期は身近に起こっている大きな戦争と年々激しくなる温暖化災害とポピュリストが支配する超大国に翻弄され、その中でクロ・ペルガグは34歳になった。それだけではない。4年前クロ・ペルガグが産んだ女児は4歳になった(ロジック)。
 新作の核はそれです。俗に言われることではあるが、子の親になったとたん人間は変わる。それまで自分ひとりだったので、”ひとり思考”ではこの世が急速に破滅に向かっていることを感知しても、最悪は自分ひとりが死ぬだけじゃん、と達観していられた。ところがこの世に出現したばかりの吾子はどうなるのか。生きて欲しい。苦しみはあろうが、少しでも less worthな状態で生きて欲しい。母クロ・ペルガグは、この生きる塊を前にして、欲したり主張したりするこの小さな生命体を前にして、この子が生きていく未来を考えないわけにいかなくなってしまった。世界の終わりを冗談のように言い合うシニカルな大人たちのひとりではいられなくなったのだ。何もかもがダメになってしまっても、何かにしがみつき信じたい。それが効くかどうか知る由もない、陳腐なおまじないであっても。「アブラカダブラ」と唱えたら、一瞬にして世界のすべてがうまく行くようになるかもしれないではないか。母クロ・ペルガグは最後にこの呪文を唱えてみようと思っているのだ。そうしたら吾子の苦しみや痛みが軽くなるかもしれない。
 新アルバムの大きな転換点はもうひとつ。2013年のデビューアルバム『怪物たちの錬金術 L'alchimie des monstres』以来、ソングライタークロ・ペルガグと二人三脚でそのサウンド世界を作ってきたコ・プロデューサーシルヴァン・デシャン Sylvain Deschampsが離脱。この突然の別れにクロ・ペルガグは大泣きに泣いたそうだ。だが泣いてばかりはいられない。思いを決してひとりで立ち上がりセルフ・プロデュースアルバムをキャリーアウトした。編曲指揮・制作・サウンドエンジニアリング、クロ・ペルガグ herself。プログラミング+ストリングス+ブラス+コーラス+.... 全部クロ・ペルガグさんが決めた。
 そのサウンドは前作『七つの苦悩の聖母』で私が「サイケデリックでシンフォニックで求道的な音楽」と評した”大伽藍”の響きと似ていないことはないが、その厚いハーモニーはクロかあさんのあたたかみが感じられると思う。一音一音に込められているものが感じられるように聞こえたら、クロかあさんの意に叶ったりということでしょう。

 アルバムは『七つの苦悩の聖母』と同じように2分ほどのインストルメンタル曲「赤い果実の血 Le sang des fruits rouges」で始まる。このインストによるイントロダクションは大袈裟な音楽の始まりを予感させる”オドシ”であり、今度のはまじめだぞ、おふざけじゃないぞ、と言っているように聞こえる。そして始まるのが「ピタゴラス Pythagore」という曲である。ピタゴラス(570BC - 495BC)とは恐れ多くも畏くも史上初の音楽理論の確立者にして音階の発見者である。われわれのドレミはこの古代ギリシャの数学者なしには誰も知ることができなかったのである。これもハッタリみたいなタイトルである。これは聴く前にアルバム制作の経緯を読んでしまった私にははっきりと「シルヴァン・デシャンとの決別の歌」に聞こえる。ピタゴラス的に理詰めできっちりと複雑構造建築的にクロ・ペルガグのサウンドをつくってきたデシャンに、「いいわよ、わたしひとりでやるわ」と啖呵切ってる。歌詞にこうあり:
Tu dis que ce qui tue pas nous rend plus fort
殺さないことがあなたと私を強くするとあなたは言う
C'est vrai à moins qu'on soit déjà mort
もう死んでるんだったらそれは本当ね
J'ai reçu une millième balle dans le corps
私はもう一千発もの弾丸を体に撃ち込まれたのよ
Je crois que j'ai atteint mon point de départ
私はもう出発点に到達したと思うわ
Va -  t'en si tu veux
望むのなら出て行って
Mais va - t'en juste un peu
私の別れの言葉を聞いて
Entends mes adieux
出て行って
Et va - t'en si tu veux, va - t'en
望むならいなくなって、出て行って



同じテーマのように聞こえるのが4曲めの「自由 Libre」。これはこのアルバムの先行シングルのようなかたちでリリース4ヶ月前に景気づけのような非常にはちゃめちゃで威勢の良いヴィデオクリップと共に発表された。おそらくアルバム中最もポップな曲。自暴自棄の時期からひとりでやり直すことを躊躇う自分にハッパをかける歌。
Pourquoi t'as peur de courir ?
なぜ走るのを怖がるの?
Pourquoi t'as peur de tomber ?
なぜ転ぶのを怖がるの?
Pourquoi t'as peur de vivre ?
なぜ生きるのを怖がるの?
Tout le monde dit que t'es libre
みんなおまえが自由だって言ってるよ
La musique te délivre
音楽はおまえを解放するんだ
Personne sait que t'es brisé
誰もおまえが壊れてしまったって知らないよ


そしてこのアルバムの最重要テーマである愛娘へのメッセージは、5 - 6 - 7曲めの中で表れる。それは破滅に限りなく近づいていく世界の中で生きなければならない娘への「守ってあげたい」なのである(あ、あの歌引き合いに出すべきではないか)。まずはっきりとそれが見える7曲め「ある若き詩人への手紙 Lettre à une jeune poète」(これはもちろんライナー・マリア・リルケの援用)はこう語る:
Est-ce que j'ai menti ?
私は嘘をついたの?
Je t'avais promis
すべてはうまく行く
Que tout irait bien
私は何も怖がらない
Que je n'ai peur de rien
ってあなたに約束したわね

J'ai peur de tout
私は全てが怖い
Mais surtout
でもとりわけ
Peur pour toi
おまえのことで怖がっている
Mais je sais, ça ira
でも大丈夫、きっと
Toute seule tu trouveras
たったひとりでもおまえにはわかるわ

Je t'ai donné la vie
私はおまえに命を授けた
Je voudrais te donner envie de vivvre
私はおまえに生きる望みを与えたいの
Qu'elle ne te soit jamais pénible
生きるのが決して苦しいことでないように
Plus de meilleur que de pire
悪いことよりも良いことがたくさんあるように


 そして実のお嬢さんを登場させて制作されたヴィデオ・クリップで公開された6曲めの「マンゴーの味 Le goût des mangues」は、想像できない早さで大きくなっていく娘のさまざまな季節を共にしながら母としての不安も一緒に育まれていく情景が見えてくる。
おまえは飛べるのか、それとも落ちてしまうのか
私にはわからない
雪が溶けるのを待って
おまえは季節に立ち向かっていくの

おまえは守るべき信条がないし
誰もおまえをわかってくれないだろうし
今の季節はおまえをあざむくね

意味をなさない多くのことがあるし
重要だと認められないこともあるし
この季節は可能性がない

おまえが嫌いなものすべてを消すとしたら
私は出て行くの?それとも残っていいの?
今はそんな季節、私は考え込む

おまえがマンゴーの味も
おまえの脚に置いた私の手の感覚も忘れてしまった
今はおまえと私に似た季節ね

  この『アブラカダブラ』と題されたアルバムの中で、「アブラカダブラ」という呪文はたった1曲の中にしか登場しない。おそらくこの曲がこのアルバムの核心である。それは9曲めの「ジム・モリソン Jim Morrison」と題されたもので、文字通りジム・モリソン(1943 - 1971)の墓を(そのつもりがないのに)訪ねる歌である。註:この歌では話者=私が男性、相手=おまえが女性。
私の両足は宙に浮いている
墓地の一本の木の枝の下に
モリソンの墓が見える
誰にも会わないつもりでいたのに

私が走ると空気の流れが
私の背中を押して私を遥か遠くの
砂漠まで連れて行く
ここでは誰も私を待っていないし
ここでは何の感情も湧き上がらない

まだおまえのことを夢見ているのは確か
おまえは映画館の中でひとりで泣いていた
戦争の映画だったか、豹の映画だったか
私は覚えていない

たった一度だけでいいから
指の先に触れているものを保っていたい
完璧な瞬間に身を任せたい
アブラカダブラ

私がどこにいるのか知りたい?
私は大きな車輪の中で回っていて
終点には絶対到達しないんだ
こんなに気が狂うなんて思ってなかった

まだおまえのことを夢見ているのは確か
おまえは映画館の中でひとりで泣いていた
戦争の映画だったか、豹の映画だったか
私は覚えていない

たった一度だけでいいから
指の先に触れているものを保っていたい
完璧な瞬間に身を任せたい
アブラカダブラ



美しくも謎めいた歌である。指の先に触れているものを手放したくない、完璧な瞬間に身を置いていたい、アブラカダブラ。この無情にも手を離れて失われていくものは私は”時間”だと思うし、今のこの”瞬間”だと思って聞いた。とてつもなく悲しい”失われる時”を救う呪文がそれだとしたら。

この歌と同じほど美しく悲しい歌が11曲めにある。「光の井戸 Les puits de lumière」と題されたクロ・ペルガグ描く世界の終わりの情景であるが、それでも光はあるのだ。
青虫の皮膚の色や
ビーヴァーヒル湖の水の色を見て
おまえは未来を読み取っていた
死に倒れる寸前の杉の木についていた印
それは「おまえを愛するがゆえに死ぬ」と言っていた

私は綱を切りたかった
でも怖かった、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって

おまえの母親のおなかの中には
愛とその敵がいたんだ
思い出せるかい?
土の匂いとおまえの父親の目を?
その目は「最高なことがこれから起こるぞ」と言っていた

死体安置所へ向かいながら
私は泣いたよ、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
毎日毎日世界のかけらが
音もなく死んでいってる

おまえと仲違いしてから
おまえが恋しくなったんだ、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
例えばある日、日の出がずっと
灰色のままだったり

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって

光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって


Les puits de lumière laisseront toujours entrer la pluie. 光の井戸には永遠に雨水が入っていくだろう。このイメージわかりますか? 光の井戸は永遠に枯れないのですよ。これは祈りであり、おまじないですよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Le sang des fruits rouges
2. Pythagore
3. Coupable
4. Libre
5. Sans visage
6. Le goût des mangues
7. Lettre à une jeune poète
8. Décembre
9. Jim Morrison
10. Deux jours et deux nuits
11. Les puits de lumière
12. Triste ou méchante

Klô Pelgag "Abracadabra"
LP/CD/Digital SECRET CITY RECORDS SCR168
フランスでのリリース : 2024年10月14日


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)クロ・ペルガグ『アブラカダブラ』ティーザー

それは絶対の探求のようなもの
なにかをまだ信じたいという欲求
消滅させなければならない結び目(関係)が多すぎるのよ
みんながありのままで気兼ねすることなく
恐れることもなく、他人の視線のプレッシャーもなく
この世に現れるために
私は一つの言葉を繰り返し唱える必要があるの
窓から外を見て
地平線をじっと見つめて
いつも同じことを考えながら
私が強く
何度も繰り返して唱えたら
たぶんすべては解決するんじゃないかって
アブラカダブラ!