2024年12月27日金曜日

2024年の1曲

Flavien Berger "Sapon"
フラヴィアン・ベルジェ「サポン」


From album "Contrebande 02. Le Disque de l'Eté"
( 2024年2月9日リリース)

ラヴィアン・ベルジェは1986年パリ生れのエレクトロ・シンガーソングライターであるが、この記事を書いている途中で彼が石鹸づくりの職人でもあることが判明した。その手作り石鹸は実にサイケデリックなまでにカラフルで、彼はその石鹸を「フラヴォン flavon」という商品名でコンサート会場や通信販売で売っているそうだ。なるほど、それで歌詞の3行目に

Je vais faire des savons, vons 僕は石鹸づくりをするよ
と出てくるわけだ。曲のタイトルの「サポン sapon」とは "saponifier = 脂肪を鹸化する"作業のことで、サポンしたものが固まると石鹸になるというわけ。
フラヴィアン・ベルジェのレーベルであるPAN EUROPEAN RECORDINGのFBページに「サポン」の歌の成り立ちをフラヴィアンが語っている動画があり、それによると2023年初夏、その秋に売るための石鹸を作っていた時の体験を歌にしたものだそうだ。夜になって石鹸づくりのアトリエから家に帰るとき、自転車のライトの替え電球を買うのを忘れていたのに気づいた(自転車ライトはフランスでも道交法で義務)。夏の夜の暑さの中で、(見つからないように)全速力で自転車を走らせると、いろんな香りが鼻腔を刺激してきて、それが15年前に友だちを訪ねて旅した日本の記憶を甦らせる...。ヴィデオクリップに出てくるのはその15年前に撮影した日本(主に関西)の映像をツギハギ編集したものだろう。わがFB友の上野卓彦さんはこの風景に詳しくて「枚方駅、楠葉駅などの大阪圏、鴨川、糺の森、嵐電などの京都圏が登場しますね」とコメントしてくれた。
「サポン」は2024年2月に初めて聴いて以来、私が1年中リピートして愛聴した曲である。聴く度に夏の遅い黄昏時の温い風を顔に浴びるセンセーションが、いろんな記憶を呼び起こしてくれる。本当にすごい効果を持ったサウンド&ワーズだと思う。この少年っぽい遊び心は私のような老人には刺激が快すぎて。1年間ありがとう、フラヴィアン、今度石鹸買いに行きます。
Je monte sur mon vélo 自転車に乗って
Dans la ville il fait chaud 街へ出る 外は暑い
Je vais faire des savons, 'vons 僕は石鹸づくりをするよ
Je te laisse un mémo きみにメモを残す
Dans lequel je m'émeus きみの歌を聞いて
Car j'écoute ta chanson, 'son 感動したって
Mise à jour du ciel 今の空はというと
C'est le crépuscule 黄昏時だ
Je suis plus si seul 僕はひとりぼっちっていうわけじゃない
Les fleurs s'allument 花々が光っているよ
J'adopte un ver luisant 僕は蛍を飼ってるんだ
Calé sur ma chemise シャツの上に留めてあるよ
J'ai pas de lumière 僕には光がないんだ
Petite bêtise ちょっとした失敗
J'accélère スピードアップだ
Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ
La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている
J'accélère スピードアップだ
Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような
Des plantes 香りを吸って
Semaine de corsaire 週日は重労働
Le weekend en concert 週末はコンサート
Cet été se passe à fond, fond この夏は全速力で過ぎていく
Là, sous les lampadaires あそこの街灯の下に行って
Les poumons remplis d'air 胸いっぱいに空気を吸うと
L'impression d'être au Japon, 'pon まるで日本にいるみたいだ
J'accélère スピードアップだ
Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ
La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている
J'accélère スピードアップだ
Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような
Des plantes 香りを吸って
Mise à jour du ciel 今の空はというと
C'est le crépuscule 黄昏時だ
Je suis plus si seul 僕はひとりぼっちっていうわけじゃない
Les fleurs s'allument 花々が光っているよ
J'adopte un ver luisant 僕は蛍を飼ってるんだ
Calé sur ma chemise シャツの上に留めてあるよ
J'ai pas de lumière 僕には光がないんだ
Petite bêtise ちょっとした失敗
J'accélère スピードアップだ
J'accélère スピードアップだ
Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ
La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている
J'accélère スピードアップだ
Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような
Des plantes 香りを吸って
J'accélère スピードアップだ
J'accélère スピードアップだ
(↓)フラヴィアン・ベルジェ「サポン」(Official Visualizer)
(↓)フラヴィアン・ベルジェ、アルバム "Contrebande 02. Le Disque de L'Eté"

2024年12月23日月曜日

二十の神の呪い(ばんじゅう怖い)

"Vingt Dieux"
『ヴァン・デュー』


2024年フランス映画
監督:ルイーズ・クールヴォワジエ
主演:クレマン・ファヴォー、マイウェン・バルトルミー、ルナ・ガレ
2024年度ジャン・ヴィゴ賞
フランス公開:2024年12月11日


「20の神」と書いて "Vingt Dieux(ヴァン・デュー)"。八百万(やおよろず)の神がいる日本とは異なり、ここでは神は唯一のものと決まっている。ここでは複数の神がいたら天地の決まりごとが全て狂ってしまうし、ましてや20もの神がいたら、たまったものではない。これは冒瀆(ぼうとく)である。というわけでいにしえの人々の間でVingt Dieux は罵りの表現になった。20の神に呪われちまえ、こんちくしょう、くそったれ...ってなニュアンスだろうか。この表現はフランス全国レベルではほとんど使われなくなってしまったのだが、なぜかスイスと国境を接せる山岳地帯であるジュラ県では、今でも老若男女の口から頻繁に飛び出る町言葉になっている。こういう古いものが残っているとはジュラシックな土地柄ならではか。この映画でこの罵り言葉は私の耳では3回ほど聞き取れたが、いずれも若者の口から出ていて、不慮の失敗や惨事の時にすかさず「ヴァン・デュー!」と。これを自らの最初の長編映画のタイトルにした当年30歳の女流監督ルイーズ・クールヴォワジエはこのジュラ地方で育った土地っ子。そしてこの映画のもうひとつの主役と言えるのが、このジュラ地方の名物チーズ「コンテ Comté 」なのである。言葉と言い、名産チーズと言い、これはまさにテロワール(terroir 地方色、土地柄)の香ばしさに祝福された映画なのである。
 名前はアントニー(演クレマン・ファヴォー、出演者はほぼ全員現地キャスティングで選出したシロートばかり)でも、誰もがトトーヌの愛称で呼ぶ18歳の男が主人公であり、日がなダチふたり(ジャン=イーヴとフランシス、共になんとも味のある役どころ)と暇をつぶす(飲み、遊び、縄張り争いのケンカをし、寝る)農村ならず者だったが、ある日寡夫シングルファザーの父親が泥酔運転自爆事故で死んでしまい、事情が一変してしまう。破産寸前農家だった父親の負債(借金)を被り、農機具などの”家財”を全て没収され、まだ学童の妹クレール(演ルナ・ガレ、快演!)を養育しながら、二人分の食い扶持を稼がなければならなくなった。学のないトトーヌでは、この山の農村で収入を得るには農事関連肉体労働をいくつもこなして働くしかない。その上妹クレールの身支度と食事と登下校送り迎え。さすがにこれでは身が持たない。そんな中で牛乳運搬トレーラーの仕事をしながら出会うのがコンテチーズづくりの世界であった。死んだ父親もこれに手を染めかけたことがある。そしてジュラ地方のコンクールに優勝すれば3万ユーロの賞金が手に入ると知るや、トトーヌはそれに賭けて邁進するとしか考えられなくなる。
 それと前後してトトーヌは若い女性酪農家マリリーズ(演マイウェンヌ・バルトルミー、すばらしい!)と出会っている。小さな個人経営の酪農家で、乳牛飼育から搾乳と原乳貯蔵保管まで全部一人でやっている逞しいカウガールである。演じたマイウェンヌ・バルトルミーは実生活でもこの酪農のAからZまでひとりでしているそうで、その証拠のようにこの映画の後半で乳牛のお産(両手で新生牛の両脚を全力で引っ張り出して分娩させる!)を彼女ひとりでやってのけるシーンあり。そういう野生的でしかもチャーミングなマリリーズは旺盛な性欲の持ち主でもあり、さっそく新米農事労働者トトーヌを誘惑し、ベッドへと誘うのであるが、トトーヌはその気があってもいざという時にモノが言うことを聞かない。バチ悪くあやまるトトーヌに、「あんたができなくったって、わたしはいけるのよ」とマリリーズはトトーヌにクンニリングスを要求する。しかたなくマリリーズの股間に顔を埋めるトトーヌ... 「わぉ、牝牛の臭いがする!」 ー O, la vache ! ー 私はこのシーンでこれは本当にテロワールの香り高い映画だと実感したのですよ。
 父親の倉庫から牛乳発酵窯を引っ張り出し、ダチふたりの協力で用具を揃え、没収されたトラクターを買い戻し、本格的にチーズ作りに動き出すのだが、そのトトーヌとダチふたりの作業を上から眺めている現場監督のような立ち位置で小さな妹のクレールがいる。映画はこの四人(→)によるユートピア創造のストーリーでもある。トトーヌのコンクールに絶対優勝できるという自信の最大の根拠は原料となる原乳である。「コンテをほおばると、フルーティー、花の香り、マイルド、スパイシーなど、時には言葉が見つからないほど限りなく豊かな風味が広がります」(https://www.comte.jp/feel/より)。テンダーで、ほどよい塩味、フルーティーで花の香りを含み、がっしりしている、これがコンテの本質である。このすべての要素を引き出す決め手は原乳である、と。そしてその格別の原乳という専門家による定評があるのが、なんとマリリーズが生産する原乳なのである。トトーヌはコンクール優勝の最短の方法はこれだと踏んで、マリリーズの倉庫の鍵を拝借して原乳タンクから多量の原乳を盗み出す...。
 プレス映画評のほとんどがこの映画の「ウェスタン(西部劇)」性を高く買っている。山野と牧場のあるざっくりした風景、口よりも手の方が早い荒くれ男たちの抗争、草競馬ではないがこの地方の一番の野外エンターテインメントがなんと「デモリション・ダービー」(中古ストックカーによる車両破壊レース)だったりする。このデモリション・ダービーのシーンはこの映画の大きな見せ場のひとつであるが、廃車ルノー5の(マッドマックス風)改造車を操ってこのレースに優勝するのがトトーヌのダチのジャン=イーヴ(演マチス・ベルナール)で、映画の後半で壊れてしまうダチ三人組の友情のよりを戻すきっかけが、少女クレールのジャン=イーヴへの幼い恋心であり、クレールの祈り実ってジャン=イーヴが超凶暴なレースを制するという美しい大団円へ。やわなフランス田舎小僧たちの様相をした男たちが見せる荒くれ野郎たちの世界、う〜ん、マンダム

 冒頭で映画のもうひとつの主役と紹介したコンテ・チーズであるが、映画は奥深いコンテの世界と、その丹精込めたチーズづくりの秘伝にまで迫るドキュメンタリー風なシーンも随所に挿入される。それはトトーヌというわけ知らずの若者がいにしえからのわざをひとつひとつ学び、失敗しながら鍛錬していく求道的修行の軌跡でもある。それにはダチふたりの献身的ヘルプと、妹クレールの大人びた助言や判定がなくてはならないものだった。こうしてユートピアはできあがりつつあったのだが...。
 映画の展開は大惨事を到来させる。映画ですから。何度めかのマリリーズ倉庫からの原乳盗難が現行犯で見つけられてしまう。その場に居合わせた発見者はマリリーズと原乳供給契約のあるチーズ生産者(トトーヌと喧嘩が絶えなかった宿敵)たちで、三人は袋叩きにされ、トトーヌは自分のチーズづくりの夢が御破算になるのを恐れ、反撃しようとするジャン=イーヴを逆に抑えてジャン=イーヴの激昂を買うことになる(三人組の崩壊)。ヴァン・デュー!そして信頼を裏切られた恋人マリリーズはトトーヌの原乳盗みには目をつぶるが、恋心は壊れてしまう...。

 ひとり(と妹)だけになってしまったトトーヌはそれでもコンテ作りをやめない。そしてコンテのコンクールに出品しようとするが、生産者としてAOP(アペラシオン・ドリジーヌ・プロテジェ = 保護原産地呼称)認証を受けていない(だいたいAOPとは何のことかトトーヌは知らなかった)ということで主催者に拒否される。それでもいい。りっぱに出来たトトーヌのコンテ(直径60センチ、厚さ10センチ、重さ35キロ)を背中にしょってバイクにまたがり、マリリーズのところへ届けるトトーヌだった...。そして上に述べた村の「デモリション・ダービー」というイベントで、映画はハッピーエンドのシーンを用意している。

 チーズ、乳牛、干し草、汗と血、土、森... さまざまな匂いが香ってくるフランス深部の映画。牧歌的だけであるわけのない生きた田舎の土地と人々、こんなにこの生の姿を見せてくれた映画はこれまでなかったのではないかな。テロワール映画とでも呼ぶべき新しいジャンルの訛りのある映画の登場を心から歓迎したい。爺さんしあわせになりましたよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ヴァン・デュー』予告編

2024年12月20日金曜日

こっそりと、目立たないように、何くわぬ様子で

Evergreen "En Douce"
エヴァーグリーン「アン・ドゥース」

詞曲:ファビエンヌ・デバール、ジョナタン・ルフェーヴル=レイシュ、ミカエル・リオット

From EP "Sign In"
(2021年10月15日リリース)


エヴァーグリーンは2008年パリで活動を開始した三人組(♀ひとり+♂ふたり)で、デビュー当時は We Were Evergreen と名乗っていた。ジャンル的にはインディー・ポップ、エレクトロ・ポップと言われているようだが、2011年から2017年まで活動の拠点をロンドンに据えていて、ほとんど英語で歌っていた。これまでLP4枚、EP2枚を出しているが、私は全く知りませんでした。で、全く知らなかった音楽に私が偶然出会うのは(ずいぶん前から)たいがいがラジオFIPかYouTubeということになってしまった。昔はアーチストやレーベルからの直接のコンタクトだったり、数種類定期購読していた音楽雑誌だったり、レコードショップでだったのにぃ... 。
この曲と出会ったのは、YouTube上で、スタジオヴァージョンではなく、2023年9月パリで管弦楽アンサンブルと共演したコンサートのライヴ動画だった。私はずっとずっと昔からこういう螺旋階段メランコリー旋律に涙腺が敏感に反応するタチ。美しいフランス語である。”En Douce(アン・ドゥース)"とは、わがスタンダード仏和辞典では「こっそりと、目立たないように、何くわぬ様子で」といった訳語が出ている。この歌詞は実に”シャンソン的”な、3分間短編映画であり、オチ(結末)のある女性心理ドラマである。私はこういう"シャンソン”に琴線が震えてしかたがない。ファビエンヌ・デバールの繊細なヴォーカル表現も、ストリングス+トランペットの哀愁アンサンブルも。

Mes mains sont trop carrées
私の手は角ばっている
Même quand je les ouvre
指を開いても角ばっている
Elles ne savent que serrer
だからいつも親指を包んで
Autour de mes pouces
固く握っている
L'enjeu est de taille
問題は大きさなの
A qui donc adresses-tu
誰にこんな些細なことが
Tous ces détails
打ち明けられるの?
Tes soirées d'ivresse
あなたの酔い加減が過ぎる夜宴
Je me sens des failles et
私は自分の弱さを感じて
Je le sens, oui ça y est
私は弱い、もうだめ
Viens me voir en douce
こっそりと私のところへ来て

Fais-moi cette faveur
私のお願いを聞いて
De rentrer ensemble
一緒に帰りましょう
Pour contenir l'ardeur
私の震える両手のほてりを
De ces mains qui tremblent
おさえるために
Mes mains trop petites
私の小さすぎる両手
Pour te laisser prendre
あなたに捕まえてほしい
Mes mains qui s'agitent
私の震える両手は
De ne faire qu'attendre
あなたが探しに来てくれて
Que tu viennes les chercher
私の両手に顔をうずめるのを
Que tu viennes t'y cacher
待っているだけなの
Viens me voir en douce
こっそりと私のところへ来て

J'ai pris mes affaires
もう身の回りの物を持って
Je t'attends dans l'entrée
出口で私はあなたを待っている
Mais tu exagères
でもあなたはわざと
A te faire désirer
私を焦らすの
Tu sais bien t'y prendre
自分の意図を隠すやり方を
Pour me cacher ton jeu
あなたはよく知っている
Je veux bien attendre
私は待っていたい
Attendre encore un peu
もう少しだけ待って
Que je me fatigue
疲れた頃にあなたが
Où tu décides
こっそり私の元にやってくるって
A me voir en douce
決めてくれるまで待っているわ

Mes mains sont trop carrées
私の手は角ばっている
Même quand je les ouvre
指を開いても角ばっている
Elles ne savent que serrer
だからいつも親指を包んで
Autour de mes pouces
固く握っている
La soirée se vide
夜宴は散会
Et lentement laisse
窓越しに帰りを急ぐ人たちの
Glisser sur la vitre
物音が聞こえてくる
Des bruits qui se pressent et
そして

Je te vois descendre
あなたが降りてくるのが見える
Lentement descendre
ゆっくりと降りてきて 何くわぬ様子で
La rejoindre en douce
彼女と合流するのが

Je te vois descendre
あなたが降りてくるのが見える
Lentement descendre
ゆっくりと降りてきて 何くわぬ様子で
La rejoindre en douce
彼女と合流するのが




あとで初めて聞いた2021年録音のスタジオヴァージョン(↓)もデリケートなエレポップで、これはこれで★★★★☆だと思いますよ。


2024年12月8日日曜日

明日なき暴走 (Born to run)

"Leurs Enfants Après Eux"
『彼らの後の彼らの子供たち』

2024年フランス映画
監督:リュドヴィック&ゾラン・ブーケルマ
主演:ポール・キルシェール、アンジェリナ・ヴォレット、サイド・エル・アラミ、ジル・ルルーシュ、リュディヴィーヌ・サニエ
原作:ニコラ・マチュー『彼らの後の彼らの子供たち』(2018年ゴンクール賞)
フランス公開:2024年12月4日


画の最後から紹介する。ひとりオートバイでロレーヌ地方の田舎道を疾走するアントニー(演ポール・キルシェール、日本で『動物界』公開中)が消え、エンドロールが始まると同時に流れる音楽はブルース・スプリングスティーン「明日なき暴走(Born to run)」(1975年)である。ニコラ・マチューの原作小説を読んだ者なら、ここは絶対ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」(1991年)が来るはずだと構えていたと思う。私もそのひとりだった。ところが、あにはからんやザ・ボスが来たのだ。そしてこれが極上だった。鳴った瞬間涙が迸り出た。明日なき暴走、1975年、日本のCBSソニー洋楽A&Rはよくぞこんな卓抜な日本語題をつけてくれたもんだ。このエンディングの風景はどんぴしゃに明日なき暴走なのである。明日なき暴走とはこの映画を観た者には深く核心的な日本語表現となる。そして、ザ・ボスのシャウトも。
 1990年代、東フランスの破産工業地帯ロレーヌ地方の小さな町に生きる3人のティーンが織りなす1992年/1994年/1996年/1998年、四つの夏の物語。長年の失業でアル中と化した父パトリック(演ジル・ルルーシュ)、パトリックと口論が絶えず離婚も時間の問題と諦めている母エレーヌ(演リュディヴィーヌ・サニェ)、この二人の間の一人息子がアントニーであり、父母に依存して生活しているが無軌道でやや荒れた青春を生きている。1992年夏、14歳のアントニーが一目惚れしてしまうのが、町の有力者(町長)の娘ステフ(演アンジェリナ・ヴォレット)で、この退屈極まりない地方から抜け出すためにパリ進学目指して勉強していて、ブルジョワ娘の決められた行く末に反抗もしている。この映画では原作よりもこの少女の性的好奇心が強調されているような気がするが、それはそれでいい。もうひとり、今は閉鎖したこの町の鉄鋼工場に移民労働者としてやってきたモロッコ人の息子アシーヌ(演サイド・エル・アラミ)は、町から疎ましく見られているマグレブ移民二世たちの不良グループのリーダー格で、失業者の父マレクと二人暮らし。マレクから就職先を見つけることを厳命されているが、モロッコ移民の子に職は回ってこない。

 止まってしまった溶鉱炉、廃屋となって放置された鉄鋼工場や倉庫などが重苦しい背景となっている町の風景が、この映画のもうひとつの主役であり、この30年前の風景が浦山桐郎『キューポラのある街』(1962年)だったと想像してみるのも一興だが、これは若者たちだけでなく町の人たちの多くを押しつぶし、窒息させるような背景である。そんなところにも毎年夏はやってきて、ヴァカンスなど縁のない人々も陽光の季節を享受している。そしてこの町には美しい湖がある。その一角にはブルジョワ娘たちがたむろするプライベートビーチがあるらしいという噂を嗅ぎつけたアントニーとその相棒のいとこ(映画でも名前は出てこず「いとこ= le cousin」としか呼ばれない:演ルイ・メンミ)は、貸ボート屋の倉庫からカヌーを盗み出し...。というのが映画の冒頭。貸ボート屋に盗みの現場を発見され、必死でカヌーを湖面に漕ぎ出し、全速力で沖を目指し、追っ手を振り払ってたどり着いた岸辺にいた水着姿の少女二人。そのひとりが豊艶なオーラを放つステフだった。アントニーはこの瞬間から運命的なものを感じ取ってしまうのだが...。別れ際、今夜プール付きの大邸宅でパーティーがあるから来て、と誘うステフ。14歳アントニーはカッコつけたくて、父親パトリックが(若き日の輝かしい過去の記念として)宝物にしているレース仕様のオートバイを、一晩だけだからとパトリックに内緒で母親からキーを借り受け、颯爽とブルジョワ子女たちが狂乱して酔いしれているパーティーへ、と。夜も更けた頃、文字通りフランス語の "Trouble-Fête"で、招待されていないマグレブ二世不良グループが登場、入場阻止を無視して中に入りステフらに悪態をついているところを、リーダーのアシーヌにアントニーが強烈な足払い。凄まじい眼光での睨み合い。ここからアントニーとアシーヌの長く運命的な(おそらく一生続く)抗争が始まるのである。マグレブ不良団は一旦退散し、パーティーは夜明けまで続き、散会となって帰宅しようとすると... 父親の宝物オートバイが忽然と無くなっている...。

 映画の大筋は、原作小説にほぼ忠実なので、ストーリー展開に関しては私の原作小説紹介記事を参照してください。しかし映画は原作の鏡ではなく、双子監督リュドヴィック&ゾラン・ブーケルマは意図的に原作の”部分”を膨らませているところがある。不安定で無軌道な若者アントニーの右左にぶつかりながらの突っ走りがシナリオの軸であるが、ステフとアシーヌとの絡み合いと同じほどに父パトリック(写真)の存在をこの映画はクローズアップしている。おそらくこれはパトリック役を今や俳優としてだけでなく監督/プロデューサー(特に2024年映画"L'Amour Ouf")としても今日のフランス映画界の重鎮となってしまったジル・ルルーシュに託したことに起因するのだろうが、この名優の存在感を存分に活かして山場を作ってもらおうとしたのだろう。上述のようにパトリックとは製鉄所閉鎖によって職を失い、定職を得られないままその日暮らしの失業者を長年続けていて、アル中になり粗暴になり、妻子に対して強権的・暴力的になり、妻エレーヌは離婚のことばかり考えるようになった。宝物のオートバイを盗難されたことを知った時アントニーとエレーヌはパトリックに殺されるだろうというレベルで真剣に恐れていた。激すると手のつけようもないほど極度に暴力的になるパトリックであったが、この映画ではなんとか家族のよりを戻したい、エレーヌと復縁したいと願って不器用な努力を繰り返すデリケートさを名優に演じさせている。これが感動的に見えるのはさすがジル・ルルーシュと思わせる。アルコールを断ち、貯金箱に金を貯めエレーヌに捧げようとしたりするが、努力は実らない。最愛のオートバイと最愛の家族を失い、行き場を失ったパトリックは、1996年7月14日、フランス革命記念日のお祭り騒ぎ(花火、野外ダンスパーティー...)のさなか、泥酔した足で湖に進み入り自ら命を絶つ。その現場をひとり目撃していたのが、オートバイ争奪の大乱闘でパトリックに半殺しになるまで殴打されたアシーヌだった。これがこの映画の山場のひとつ。
 それから原作小説が全4章の副題をその年を象徴する”若者”音楽のタイトルにしていた(第一章1992年ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」、第二章1994年ガンズ&ローゼス「ユー・クッド・ビー・マイン」、第三章1996年シュープレームNTM「ラ・フィエーブル」、第四章1998年グロリア・ゲイナー「アイ・ウィル・サーヴァイヴ」)ほど音楽に重要な意味を持たせていたが、映画はふんだんに音楽を挿入(23曲の挿入歌)して同じように重要なファクターとしているものの、原作小説の挿入曲をあまり踏襲していない。
(↓フランスの映画音楽専門サイト Cinezik.org に載っていた挿入曲リスト)

"Run to the Hills" - Iron Maiden (1982)
"Pretend We're Dead" - L7 (1992)
"Mr Loverman" - Shabba Ranks (1992)
"Non soumis à l'État" - IAM (1991)
"Where Did You Sleep Last Night" (Leadbelly / Nirvana) - covered by Amaury Chabauty et Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois
"My Lovin' (You're Never Gonna Get It)" - En Vogue (1992)
"Under the Bridge" - Red Hot Chili Peppers (1991)
"Je te donne" - Jean-Jacques Goldman & Michael Jones (1985)
"Bust a Move" - Young MC (1989)
"Feed My Frankenstein" - Alice Cooper (1991)
"Genius of Love" - Tom Tom Club (1981)
"Where Is My Mind" (Charles Thompson / Pixies) - covered Amaury Chabauty et Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois
"I Don't Want a Lover" - Texas (1989)
"Rivers of Babylon" - Boney M (1978)
"Samedi soir sur la terre" - Francis Cabrel (1994)
"Nothing Else Matters" - Metallica (1991)
"Que je t'aime" - Johnny Hallyday (2019)
"Savoir aimer" - Florent Pagny (1997)
"La Fièvre" - Suprême NTM (1995)
"You Can't Hurry Love" - The Supremes (1966)
"I Will Survive" (Dino Fekaris, Frederick J. Perren / Gloria Gaynor) - covered par Amaury Chabauty
"Born to Run" - Bruce Springsteen (1975) - Ending roll

フランス東部の田舎FM、田舎カフェ、田舎ディスコなどで当時の若者たち及び町民たちが聞いていた音楽、と想像してみよう。特に印象的なのはステフとアントニーがプールの水の中にいて、かのギターイントロが鳴りだすと「これわたしの大好きな曲」「俺も」と二人水の中に口を沈めて口パクで歌い出すレッチリ「アンダー・ザ・ブリッジ」。それから1996年のフランス革命記念日の町の野外ダンスパーティーで、田舎DJが「お待ちかねのチークダンスタイムだよ」とMCを入れて始まる曲がフランシス・カブレルの「地球の上の土曜日の夜(Samedi soir sur la terre)」(1994年アルバム"Somedi Soir Sur La Terre"はわが最愛のポップ・フランセーズアルバムの10枚に入ると思う)、この曲に揺られながらアントニーとステフはまるで恋人同士のように体を密着させて踊るのですよ。長いシークエンス。美しい。この姿を影から見ていたパトリックが、息子も一人前に恋をするようになったか、とひときわの孤独感に突き動かされたか、ひとり泥酔の足で湖で入水自殺を...。
 

 最終章1998年はフランスがW杯優勝で沸き立ち、社会的に打ちひしがれたこの町もひとときすべてを忘れて勝利に酔いしれ、蜃気楼のユートピアが見えそうな気がしたが、ステフは一途な恋慕を貫いているアントニーを捨てカナダに旅立つと言い、アシーヌは因果応報のように買ったばかりのオートバイをアントニーに奪われ、アントニーは恋を失う。W杯優勝の大騒ぎに紛れて、三人それぞれの青春はこうして終わりを告げられるのである。

 映画の核はアントニーを演じたポール・キルシェールである。少年のマスクはときおりローリング・ストーンズデビュー時のミック・ジャガーを想わせる。退屈を打ち破りたい衝動はこの少年を走らせ、暴走させる。向こうっ気の強い喧嘩腰も報われない一途な恋慕も似合っていない少年のあがきのように見える。これがティーンスピリットさ、とも見える。大変な大器ではあるまいか。
 430ページの大河小説を2時間20分に凝縮したこの青春残酷映画、やや苦言を言えば、原作小説を読んでいないと追いきれない部分がかなりある。それを克服する「勢い」はあると言えるかな?

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『彼らの後の彼らの子供たち』予告編



(↓)ザ・ボス「明日なき暴走」(1979年ライヴ)

2024年12月1日日曜日

2024年のアルバム:夢に消えるジュリア

Enchantée Julia "Onze"
アンシャンテ・ジュリア『じゅういち』


は2018年からアンシャンテ・ジュリアを追いかけている。ジュリアは南の女である。オクシタニアの生まれ。正確にはプロヴァンス地方ヴォークルーズ県オペード・ル・ヴュー(Oppède-le-vieux)という人口1000人の古い町で、美しいラヴェンダー園が点在するリュベロン山塊自然公園の中にある。「ウィンキーカレンダー2025」の7月の写真(↓)を撮影したラヴェンダー園にも近いところである。ジュリアの歌にはそういうプロヴァンスの香りを感じさせるものがある。因みにジュリアのちりちりのカーリーヘアーは天然であり、ジュリアの最初の6曲EP(2019年)のタイトルは"Boucle(巻き毛)" と誇らしげに。

 ジュリアのやっている音楽は一般的には”R&B”と呼ばれていて、それもフランス語によるR&Bである。これは2010年代のフランス音楽業界では(商業的に)きびしいジャンルだった。破竹の勢いで市場を席巻しているラップ/ヒップホップの影にあって、どんなに歌唱力あるR&B歌手でもその位置はラップアーチストのバックコーラスやちょっとしたリフレインの”フィーチャリング”が関の山であった。だからプロヴァンスからパリに出てきた頃はレコード会社やプロダクションから見向きもされず、長い”下積み”を強いられることになった。2018年にYouTubeで楽曲を発表し始めた頃、すでにジュリアは30歳になっていた(それがどうした?)。ジュリアは焦ることなくゆっくり時間をかけて、仏ネオ・ソウル界隈の最良の部分とコラボレーションを重ねて、自らの(誰にも真似のできない)ダウンテンポ・グルーヴを磨きあげていく。その中での決定的な出会いが、(のちに夫にもなる)プランス・ワリー Prince Walyであった。本名ムーサ・マガッサ、93県モントルイユ出身のラッパーで、これも長い下積みの末2022年の初ソロアルバム『ムーサ』で2023年度ジョゼフィーヌ賞を受賞している。ジュリアは一貫して彼のことをムーサと呼び、その名を冠した「ムーサ」という曲も発表して公にその熱愛を表明している(ジュリアはこういう極私的な内容の歌が多い)。お互いの長い下積み中にさまざまなインスピレーションを交感し合っていた間柄と言えるし、お互いのアーチストとしての飛躍に重要な役割を果たしていた、それは愛だもんね、と。
 そのプランス・ワリー/ムーサが2018年にまれな難病である「胸腺がん」と診断され、一時は声帯にまで転移して声が出なくなった。それから3年間の治療闘病の末、晴れて寛解するのだが、この劇的な生への帰還も二人の音楽アーチストの愛による救済のドラマのように、楽曲のインスピレーションとなるのだね。ムーサは3年のブランクの後、前述の初ソロアルバム『ムーサ』(2022年)で大きな成功をおさめ、一躍フレンチ・ラップの大器になった。2022年アンシャンテ・ジュリアの2枚めのEP(7曲入り)は”Longo Maï(ロンゴ・マイ)”と題されるが、これはオック語(プロヴァンサル語)で「末永くあれ」という意味で、言わばムーサの帰還を祝福するもの(このEPの中に前述の「ムーサ」が入っている)。
 そして次は私の番、とジュリアは初ソロアルバムを準備する。ジュリア/ムーサのカップルの他ミュージシャン/コンポーザー、エンジニアらが故郷プロヴァンス・リュベロン地方ピオランクの田舎家 Les Santolines (レ・サントリーヌ)に合宿を始めたのが2023年11月。アルバムがこの環境で生まれたことを示すミニ・ドキュメンタリー動画がある(↓)


そして新アルバムを閉じる最終曲(11曲め)はこの田舎家へのオマージュで「レ・サントリーヌ」と題される。
(リフレイン)
Changement de saison
季節が変わり
J'reviens à la maison
私は故郷に帰る
Rêver, rêver
夢見ること
Quand la nuit tombe
夜の帷が降りると
Le coeur a ses raisons
愛することの
D'aimer, d'aimer
理由をとりもどす



満を辞してのファーストフルアルバムのタイトルは『Onze(11)』。11曲32分。なぜ「11」なのかをジュリアはインターネットメディア Konbini のインタヴューでこう答えている。
理由はたくさんある。私の人生において11という数字をめぐってたくさんの重要な瞬間があったの。それは”幸運の数字”以上のものね。数秘術(numérologie)では私の数字は11で、夫(プランス・ワリー)も同じ。これはミラーナンバーよ。そしてこれは直観を表す数字であり、このアルバムをよく要約していると思うの。これは直観的で本能的なアルバムで、私という人間をよく表しているのよ。私のものの考え方と生き方において私は精神的なディメンションに大きな比重を置いているの、そのことは私の知人たちはよく知っているんだけど、ファンたちは知らないと思うので、私はそのことをみんなに感じて欲しいのよ。私の人生を変えてしまったアルバム、エリカ・バドゥの『バドゥイズム』(1997年)は2月11日にリリースされた。11は私たちの結婚の日でもあった。とても神秘的なことよ。彼が数秘術の数字で11だってことは知らなかったのよ。彼も11、私も11、それで結婚したのが3月11日、でもこの日付は私たちじゃなくて市役所が決めたのよ...

アルバムタイトル曲「Onze(11)」(3曲め)は夫プランス・ワリーがラップで介入してくるナンバーで、ジュリアとムーサの出会いのことが歌われている。
Que ferais-tu, si t'avais le choix ?
あなたにやり直しができるとしたらどうする?
J'recommencerais des centaines de fois
私だったら何百回でも同じことをやり直すわ
Premier rendez-vous
最初のランデブー
C'était cool
クールだったわ
On se tournait autour
激しく誘惑し合ったわね
C'était fou
クレイジーだったわ
C'est arrivé, j'ai dû prier
ついにやって来たの
Du haut de mes genoux
私深く祈っていたのね、きっと
Puis t'es arrivé, comme au ciné
そしてあなたがやって来た、映画みたいに
As-tu rêvé de nous ?
あなたは私たちのこと夢見てたの?



 お熱いことで。アルバムはこんなふうに、極私的なムーサ/プランス・ワリーへの想いを歌ったものが多い。ジュリアにおいて特徴的なのは、R&B/ソウルにありがちな毒性や酩酊や傷つきがテーマにならないこと。祈りと救済、愛すること、夢見ること、信じること、ここに私は米R&Bの底にあるゴスペル的な精神性を思ってしまうのだが。例えば2曲めの「セイヴ・ミー(Save me)」という歌である。これもムーサに捧げた愛の救済を歌ったものであろう。
Entre désert et montée des eaux
砂漠と洪水の間に
La terre brûle mais l'enfer c'est les autres
大地が燃えているけど地獄とは他人のこと
J'fais le saut de l'ange, du haut de la Seine je saute
私は天使の跳躍を、セーヌの高みから飛び込むの
Saine et sauve, moi, j'm'en sors saine et sauve
無傷で無事に私は抜け出す、全く何事もなく
Billet bleu ou vert, sur plaie ouverte
開いた傷口にユーロ札やドル札
Comme un pansement, sur cœur ouvert
開いた心臓に貼った絆創膏みたい
Baby, je suis tombée à l'eau
ベビー、私は水に落ちたのよ
Et toi pour me sauver, t'as trouvé deux anneaux
私を救うためにあなたは二つの指輪を見つけた
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
Regarde comme le monde est à nous
見て、世界は私たちのもの
Et dans ton regard, tout devient doux
あなたの眼差しですべては優しくなる
Mon cœur est brisé, il me fait défaut
私の心は傷つき、欠乏してしまう
Quand le chemin est truffé de faux
道には偽物ばかり埋められている
Au pied du puits, j'étais au fond des eaux
井戸の最深部、私は水の底にいたの
Sans réseau, moi, j'avance sans les autres
何の繋がりもなく、私は他人の力なしで進んでいく
Baby, je suis tombée à l'eau
ベビー、私は水に落ちたのよ
Et toi pour me sauver, t'as trouvé deux anneaux
私を救うためにあなたは二つの指輪を見つけた
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して



 思わず赤文字にしてしまったが、"L'enfer c'est les autres"(地獄とは他人のことだ)は、ジャン=ポール・サルトルの戯曲『出口なし』(1944年)の中の有名なセリフであり、フランスではリセの哲学の試験問題によく出る存在論的命題である。ジュリアはこんなことも引き合いに出すので、ちょっと侮れない。

 フランス語詞にこだわるジュリアであり、その複雑なネオ・ソウル旋律にもよく乗るグルーヴィーな言葉づかいである。ただ私が惹かれてやまないのは、それよりもそのセンシブルで官能的な声であり歌唱であり、コーラス部分の自声多重録音のハーモニーワークである。私はこの声ならば一晩中だってうっとりして聴いていられる。インストもとても繊細だし、その編まれ方には感心させられるのだが、詳しく解説できる知識は私にはないので...。

 そんなアルバムの中で、やっぱり一番繰り返して聴いてしまうのは「肌の花(Fleur de peau)」(9曲め)という曲で、これは田舎家レ・サントリーヌ合宿で最初に出来上がった曲だそう。この曲が出来たら続く曲はすらすらと出てきたという、一番産みの苦しみの末に生まれた歌。自信があったのだろうね、アルバム発売の5ヶ月前の2024年6月に先行シングル扱いでYouTube公開された。私も一聴で虜になった。「肌の花」とは非常に敏感に(過敏気味に)反応することを意味する。触れるか触れないかの距離で肌に接するとくすぐったかったり、寒気で震えたりする、そういう過敏反応のことを仏語表現で avoir la fleur de peau (肌の花を持つ)と言うのだそう。
Toujours à faire le beau
いつもきれいでありたくて
Souvent à fleur de peau
朝早くの
Comme le parfum
香水のように
Tôt le matin
つい過敏になってしまう私
Trop de mauvaises rencontres m’ont fait du tort
悪い出会いをしすぎたせいね
Pour oublier il m’a fallu du temps
忘れるのに時間がかかったわ
Mais je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
でも今はあなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
あなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Pour jouer le jeu, il fallait être deux
ゲームをするには、二人にならなければ
Heureux, yeux dans les yeux, j’ai fait ce voeu
しあわせよ、見つめあって、私は願いを立てる
Un peu d’amour, c’est tout ce que je veux
少しの愛、私が欲しいのはそれだけ
Si je t’en demande trop, fais ce que tu peux
それが欲張りすぎだったら、あなたはできることだけして
Et si parfois je pleure
もしもときどき私が泣いたら
Tu m'achèteras des fleurs
私にお花を買ってね
Des chrysanthèmes
菊の花がいいわ
Et par centaines
何百本もよ
Tu m’as renversée comme un sablier
それで私はひっくり返された砂時計のように
On se retrouve pour mieux s’oublier
忘れてまたいちから始められるわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Viens, pas trop vite
来て、でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Mais je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
でも今はあなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
あなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Pour jouer le jeu, il fallait être deux
ゲームをするには、二人にならなければ
Heureux, yeux dans les yeux, j’ai fait ce voeu
しあわせよ、見つめあって、私は願いを立てる
Un peu d’amour, c’est tout ce que je veux
少しの愛、私が欲しいのはそれだけ
Si je t’en demande trop, fais ce que tu peux
それが欲張りすぎだったら、あなたはできることだけして


すごくわかりやすいきれいな詞の中で、突然「菊の花」が出てきて、おや?と思う。ネットでフランスでの菊の象徴するものを調べてみたら、愛や喜び、と出てくるものの、庶民的にはフランスでもこれは11月1日の万聖節(Toussaint)のお墓参りの花なのですよ。「”11”月の花 」というオチなのかもしれない。
 そしてこのアルバムは2024年"11月22日”にリリースされた。”11"に凝った二人の記念すべきアルバムということなのかもしれない。因みに日本では11月22日は「いい夫婦の日 」なんだと最近教わった。ジュリアに教えてあげたい。

<<< トラックリスト >>>
1. Cygne
2. Save me
3. Onze (feat. Prince Waly)
4. Ballade
5. Doutes
6. La Sève
7. Go
8. Mystère
9. Fleur de peau
10. Leitmotiv
11. Les Santolines

Enchantée Julia "Onze"
LP/CD/Digital Roche Musique RM090
フランスでのリリース:2024年11月22日


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)プランス・ワリー&アンシャンテ・ジュリア "Cra$h"(ライヴ2023)



(↓)Julia dream, dreamboat queen, queen of all my dreams

2024年11月23日土曜日

2024年のアルバム:クロかあさんのおまじない

Klô Pelgag "Abracadabra"
クロ・ペルガグ『アブラカダブラ』

志たちは『七つの苦悩の聖母 Notre-Dame-Des-Sept-Douleurs』(2020年)をちゃんと聴きましたかね?コロナ禍でそれどころではない時期ではあったが、解説で書いたように長かった暗黒の日々をクロ・ペルガグが抜け出していく魂の軌跡を描いた素晴らしいアルバムであった。あれから4年、われわれのポスト・コロナ期は身近に起こっている大きな戦争と年々激しくなる温暖化災害とポピュリストが支配する超大国に翻弄され、その中でクロ・ペルガグは34歳になった。それだけではない。4年前クロ・ペルガグが産んだ女児は4歳になった(ロジック)。
 新作の核はそれです。俗に言われることではあるが、子の親になったとたん人間は変わる。それまで自分ひとりだったので、”ひとり思考”ではこの世が急速に破滅に向かっていることを感知しても、最悪は自分ひとりが死ぬだけじゃん、と達観していられた。ところがこの世に出現したばかりの吾子はどうなるのか。生きて欲しい。苦しみはあろうが、少しでも less worthな状態で生きて欲しい。母クロ・ペルガグは、この生きる塊を前にして、欲したり主張したりするこの小さな生命体を前にして、この子が生きていく未来を考えないわけにいかなくなってしまった。世界の終わりを冗談のように言い合うシニカルな大人たちのひとりではいられなくなったのだ。何もかもがダメになってしまっても、何かにしがみつき信じたい。それが効くかどうか知る由もない、陳腐なおまじないであっても。「アブラカダブラ」と唱えたら、一瞬にして世界のすべてがうまく行くようになるかもしれないではないか。母クロ・ペルガグは最後にこの呪文を唱えてみようと思っているのだ。そうしたら吾子の苦しみや痛みが軽くなるかもしれない。
 新アルバムの大きな転換点はもうひとつ。2013年のデビューアルバム『怪物たちの錬金術 L'alchimie des monstres』以来、ソングライタークロ・ペルガグと二人三脚でそのサウンド世界を作ってきたコ・プロデューサーシルヴァン・デシャン Sylvain Deschampsが離脱。この突然の別れにクロ・ペルガグは大泣きに泣いたそうだ。だが泣いてばかりはいられない。思いを決してひとりで立ち上がりセルフ・プロデュースアルバムをキャリーアウトした。編曲指揮・制作・サウンドエンジニアリング、クロ・ペルガグ herself。プログラミング+ストリングス+ブラス+コーラス+.... 全部クロ・ペルガグさんが決めた。
 そのサウンドは前作『七つの苦悩の聖母』で私が「サイケデリックでシンフォニックで求道的な音楽」と評した”大伽藍”の響きと似ていないことはないが、その厚いハーモニーはクロかあさんのあたたかみが感じられると思う。一音一音に込められているものが感じられるように聞こえたら、クロかあさんの意に叶ったりということでしょう。

 アルバムは『七つの苦悩の聖母』と同じように2分ほどのインストルメンタル曲「赤い果実の血 Le sang des fruits rouges」で始まる。このインストによるイントロダクションは大袈裟な音楽の始まりを予感させる”オドシ”であり、今度のはまじめだぞ、おふざけじゃないぞ、と言っているように聞こえる。そして始まるのが「ピタゴラス Pythagore」という曲である。ピタゴラス(570BC - 495BC)とは恐れ多くも畏くも史上初の音楽理論の確立者にして音階の発見者である。われわれのドレミはこの古代ギリシャの数学者なしには誰も知ることができなかったのである。これもハッタリみたいなタイトルである。これは聴く前にアルバム制作の経緯を読んでしまった私にははっきりと「シルヴァン・デシャンとの決別の歌」に聞こえる。ピタゴラス的に理詰めできっちりと複雑構造建築的にクロ・ペルガグのサウンドをつくってきたデシャンに、「いいわよ、わたしひとりでやるわ」と啖呵切ってる。歌詞にこうあり:
Tu dis que ce qui tue pas nous rend plus fort
殺さないことがあなたと私を強くするとあなたは言う
C'est vrai à moins qu'on soit déjà mort
もう死んでるんだったらそれは本当ね
J'ai reçu une millième balle dans le corps
私はもう一千発もの弾丸を体に撃ち込まれたのよ
Je crois que j'ai atteint mon point de départ
私はもう出発点に到達したと思うわ
Va -  t'en si tu veux
望むのなら出て行って
Mais va - t'en juste un peu
私の別れの言葉を聞いて
Entends mes adieux
出て行って
Et va - t'en si tu veux, va - t'en
望むならいなくなって、出て行って



同じテーマのように聞こえるのが4曲めの「自由 Libre」。これはこのアルバムの先行シングルのようなかたちでリリース4ヶ月前に景気づけのような非常にはちゃめちゃで威勢の良いヴィデオクリップと共に発表された。おそらくアルバム中最もポップな曲。自暴自棄の時期からひとりでやり直すことを躊躇う自分にハッパをかける歌。
Pourquoi t'as peur de courir ?
なぜ走るのを怖がるの?
Pourquoi t'as peur de tomber ?
なぜ転ぶのを怖がるの?
Pourquoi t'as peur de vivre ?
なぜ生きるのを怖がるの?
Tout le monde dit que t'es libre
みんなおまえが自由だって言ってるよ
La musique te délivre
音楽はおまえを解放するんだ
Personne sait que t'es brisé
誰もおまえが壊れてしまったって知らないよ


そしてこのアルバムの最重要テーマである愛娘へのメッセージは、5 - 6 - 7曲めの中で表れる。それは破滅に限りなく近づいていく世界の中で生きなければならない娘への「守ってあげたい」なのである(あ、あの歌引き合いに出すべきではないか)。まずはっきりとそれが見える7曲め「ある若き詩人への手紙 Lettre à une jeune poète」(これはもちろんライナー・マリア・リルケの援用)はこう語る:
Est-ce que j'ai menti ?
私は嘘をついたの?
Je t'avais promis
すべてはうまく行く
Que tout irait bien
私は何も怖がらない
Que je n'ai peur de rien
ってあなたに約束したわね

J'ai peur de tout
私は全てが怖い
Mais surtout
でもとりわけ
Peur pour toi
おまえのことで怖がっている
Mais je sais, ça ira
でも大丈夫、きっと
Toute seule tu trouveras
たったひとりでもおまえにはわかるわ

Je t'ai donné la vie
私はおまえに命を授けた
Je voudrais te donner envie de vivvre
私はおまえに生きる望みを与えたいの
Qu'elle ne te soit jamais pénible
生きるのが決して苦しいことでないように
Plus de meilleur que de pire
悪いことよりも良いことがたくさんあるように


 そして実のお嬢さんを登場させて制作されたヴィデオ・クリップで公開された6曲めの「マンゴーの味 Le goût des mangues」は、想像できない早さで大きくなっていく娘のさまざまな季節を共にしながら母としての不安も一緒に育まれていく情景が見えてくる。
おまえは飛べるのか、それとも落ちてしまうのか
私にはわからない
雪が溶けるのを待って
おまえは季節に立ち向かっていくの

おまえは守るべき信条がないし
誰もおまえをわかってくれないだろうし
今の季節はおまえをあざむくね

意味をなさない多くのことがあるし
重要だと認められないこともあるし
この季節は可能性がない

おまえが嫌いなものすべてを消すとしたら
私は出て行くの?それとも残っていいの?
今はそんな季節、私は考え込む

おまえがマンゴーの味も
おまえの脚に置いた私の手の感覚も忘れてしまった
今はおまえと私に似た季節ね

  この『アブラカダブラ』と題されたアルバムの中で、「アブラカダブラ」という呪文はたった1曲の中にしか登場しない。おそらくこの曲がこのアルバムの核心である。それは9曲めの「ジム・モリソン Jim Morrison」と題されたもので、文字通りジム・モリソン(1943 - 1971)の墓を(そのつもりがないのに)訪ねる歌である。註:この歌では話者=私が男性、相手=おまえが女性。
私の両足は宙に浮いている
墓地の一本の木の枝の下に
モリソンの墓が見える
誰にも会わないつもりでいたのに

私が走ると空気の流れが
私の背中を押して私を遥か遠くの
砂漠まで連れて行く
ここでは誰も私を待っていないし
ここでは何の感情も湧き上がらない

まだおまえのことを夢見ているのは確か
おまえは映画館の中でひとりで泣いていた
戦争の映画だったか、豹の映画だったか
私は覚えていない

たった一度だけでいいから
指の先に触れているものを保っていたい
完璧な瞬間に身を任せたい
アブラカダブラ

私がどこにいるのか知りたい?
私は大きな車輪の中で回っていて
終点には絶対到達しないんだ
こんなに気が狂うなんて思ってなかった

まだおまえのことを夢見ているのは確か
おまえは映画館の中でひとりで泣いていた
戦争の映画だったか、豹の映画だったか
私は覚えていない

たった一度だけでいいから
指の先に触れているものを保っていたい
完璧な瞬間に身を任せたい
アブラカダブラ



美しくも謎めいた歌である。指の先に触れているものを手放したくない、完璧な瞬間に身を置いていたい、アブラカダブラ。この無情にも手を離れて失われていくものは私は”時間”だと思うし、今のこの”瞬間”だと思って聞いた。とてつもなく悲しい”失われる時”を救う呪文がそれだとしたら。

この歌と同じほど美しく悲しい歌が11曲めにある。「光の井戸 Les puits de lumière」と題されたクロ・ペルガグ描く世界の終わりの情景であるが、それでも光はあるのだ。
青虫の皮膚の色や
ビーヴァーヒル湖の水の色を見て
おまえは未来を読み取っていた
死に倒れる寸前の杉の木についていた印
それは「おまえを愛するがゆえに死ぬ」と言っていた

私は綱を切りたかった
でも怖かった、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって

おまえの母親のおなかの中には
愛とその敵がいたんだ
思い出せるかい?
土の匂いとおまえの父親の目を?
その目は「最高なことがこれから起こるぞ」と言っていた

死体安置所へ向かいながら
私は泣いたよ、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
毎日毎日世界のかけらが
音もなく死んでいってる

おまえと仲違いしてから
おまえが恋しくなったんだ、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
例えばある日、日の出がずっと
灰色のままだったり

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって

光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって


Les puits de lumière laisseront toujours entrer la pluie. 光の井戸には永遠に雨水が入っていくだろう。このイメージわかりますか? 光の井戸は永遠に枯れないのですよ。これは祈りであり、おまじないですよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Le sang des fruits rouges
2. Pythagore
3. Coupable
4. Libre
5. Sans visage
6. Le goût des mangues
7. Lettre à une jeune poète
8. Décembre
9. Jim Morrison
10. Deux jours et deux nuits
11. Les puits de lumière
12. Triste ou méchante

Klô Pelgag "Abracadabra"
LP/CD/Digital SECRET CITY RECORDS SCR168
フランスでのリリース : 2024年10月14日


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)クロ・ペルガグ『アブラカダブラ』ティーザー

それは絶対の探求のようなもの
なにかをまだ信じたいという欲求
消滅させなければならない結び目(関係)が多すぎるのよ
みんながありのままで気兼ねすることなく
恐れることもなく、他人の視線のプレッシャーもなく
この世に現れるために
私は一つの言葉を繰り返し唱える必要があるの
窓から外を見て
地平線をじっと見つめて
いつも同じことを考えながら
私が強く
何度も繰り返して唱えたら
たぶんすべては解決するんじゃないかって
アブラカダブラ!


2024年11月18日月曜日

Jay le taxi, c'est sa vie.

"Une part manquante"
『また君に会えるまで』


2024年フランス+ベルギー映画
監督:ギヨーム・スネ
主演:ロマン・デュリス、メイ・シルネ=マスキ、ジュディット・シェムラ、あがた森魚
フランス公開:2024年11月13日

 

上映ポスターに日本語題を印字して挿れたり、エンドロールに出演者などをアルファベットとカタカナで表記する「日本撮影映画」にろくなものはない。この4月に見たエリーズ・ジロー監督『シドニー、日本で』(主演イザベル・ユッペール)のことを言ってるんですが。おまけにヴェンダース『パーフェクト・デイズ』(2023年)と同じように”東京風景”が大いにものを言う映画。それに幻惑されたのかテレラマ誌はこの映画評で「ロマン・デュリスと”東京”という二人の偉大なアクターに照らし出された父性に関する繊細で美しい映画」と高評価を与えている。どうしてどうしてどうして東京がそんなにいいんだろ
 ベルギー人監督ギヨーム・スネが前作『パパは奮闘中(Nos Batailles)』(2018年)のプロモーションで主演のロマン・デュリスと来日した時に、この「子の親権問題」(日本が世界でも稀な”単独親権”法を堅持している国であり、両親の別離に際して片親が独占的に親権を行使できる)について知り、特に国際結婚・離婚に多い、子が半誘拐状態で片親に養育され旧伴侶の子供との接触をシャットアウトしている多くのケースに興味を抱いた。フランスと日本の国際結婚・離婚に起因する子の親権問題(フランス及び世界のほとんどの国が共同親権を認めている)だけでも数十件に上り、フランスでのニュース沙汰になっている。
 ただしこのスネの新作は上段に構えた社会派(つまり日本の単独親権制度を告発するといった)映画ではない。(国際離婚・国内離婚を問わず)親権を与えられず子供と引き離された片親の不幸と子との再会のための闘いが強調されて画面に登場するわけでもない。ここに見えるのはやはり「不思議の国ニッポン」と「不思議の都トーキョー」なのである。
 フランス人ジェローム・ダ・コスタ(演ロマン・デュリス)は愛称を「ジェイ(Jay)」と言い、日本人からは「ジェイさん」と呼ばれる。東京の大手タクシー会社(KMタクシーという名前、まあ、ありなんでしょ)に所属するタクシードライバーであり、そこそこ流暢な日本語をしゃべり、東京の隅々の道路を知り尽くしている(同業運転手からカーナビに出てこない新住所への行き方を訊ねられて、スラスラと答えてやるシーンあり、笑ってしまう)。かつては上級レストランシェフだったが、日本人女性ケイコ(演Yumi Narita 在フランス女優)と結婚し、娘リリイが3歳の時に破局別居。離婚はしていない。離婚したら”単独親権の国”日本では完全に親権を失ってしまうのでそれを避けるために離婚を拒否している。しかしケイコはリリイを連れて行方不明になり、ジェイとのコンタクトを絶っている(映画の後半でジェイがずっと養育費を払い続けているという話になっていて、この辺辻褄が合わないが、ま、いいか)。それから9年、ジェイはタクシー運転手に身をやつし、巨大な東京で娘リリイを探し回り、娘に再会することだけを希みに東京に住み続けている。Jay le taxi, c'est sa vie.
 流しのタクシーという言葉があるので、「東京流し者」とでもダジャレてみたいところだが、KMタクシー予約制のシフトに入っているので、会社の運用センターの無線指示通りに走る雇われドライバー。ある日同僚のホンダというドライバーが病欠(実は”過労バーンアウト”気味の仮病休みで、これは"エムケイ”社への当てこすりのようにも見える)で、ジェイが代役で起用され、脚負傷で松葉杖歩行の女子中学生の学校送迎を担当、この女子中学生がなんとリリイ(演メイ・シルネ=マスキ)だったのだ。

 この偶然を絶対に逃してはならないと、ジェイはホンダに頼み込み女子中学生送迎の担当を続けさせてもらい、露骨に父親を名乗ることを避け、少しずつ接触の切り口を開こうと...。言わば中年ストーカーの未成年少女接近なのだが、それは名優ロマン・デュリスのチャーミングな日本語トーキングも手伝ってもどかしくも切なくて...。ブルジョワ女子中学生リリイは「おじさん日本語上手ねえ」などと事情を理解しようとしないコメントあり。「ハーフはいろいろ大変なのよ」などとしたり顔のコメントあり。怪我リハビリ中のアーティスティックスウィミング選手であるリリイのプールに忍者のように忍び込み、水着姿のリリイをスマホで盗撮するシーンあり→やはりこれは不思議の国ニッポンの性風俗への当てこすりなのだろうか。それはそれとして、タクシー車内という密室空間で、ジェイとリリイの距離は少しずつ埋まっていくのだが...。
 さてこの映画に撮り込まれた不思議の国ニッポンと不思議の都トーキョーであるが、タクシーの車窓はヴェンダース『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃作業ライトバンからのトラヴェリングと似て、どこか哀愁の近未来メガポリスなのである。『パーフェクト・デイズ』と同じように何度か銭湯シーンあり。ジェイが脇腹にLilyという文字と花の刺青があり、それが銭湯では”禁止”という不思議の国ニッポンの掟に従って、大きな絆創膏を脇腹に貼って入浴しなければならない。何度めかに「お客さん、タトゥー見えちゃってるんですよ」と銭湯の親父にたしなめられるシーンあり。
 単独親権の犠牲になって子供と離ればなれになって生きる片親たちの互助サークルがあり、9年目のジェイはその世話人のような役割を担っているが、そこに集う親たちは外国人だけでなく日本人もいる。一緒にその苦労を語り合ったり、カラオケでウサを晴らしたり...。その種のパーティーでそのメンバーの二人、フランス人のジェシカ(演ジュディット・シェムラ)と日本人のユウ(演阿部進之介)が泥酔してしまい、送っていくジェイのタクシーの中で、ジェイのカーステからジョニー・アリデイの「とどかぬ愛("Que je t'aime"日本語ヴァージョン)」(1970年)が流れ、酔漢のユウが(日本語で)歌い出し、リフレイン「ク・ジュテーム」を3人で大唱和するというシーンあり。ありえないシーンではあるが、私の観た映画館の観客はどっと湧いた。
 加えてトーキョーの一種の文化風景とも言える町の古本屋があり、気の良い隠居インテリのような風情の本屋主人の役であがた森魚が登場し、ジェイとカタコトのフランス語でやりとりするシーンあり。ジェイの苦労をよく知っているように描かれているのは”下町人情”演出にしたかったのだろうか。
 といったふうに、日本好きフランス人観客の心をくすぐるような細かいところは結構あるんだけどね...。

 映画はジェイの娘可愛さに迅る心がエスカレートして、タクシー会社の規則やぶりがバレたり、元伴侶ケイコ(+その母)にジェイのリリイ接近が発覚され、大きな揉め事に発展していく。ジェイはやむことができず暴走し、リリイはジェイの正体を知ってしまい....。ところが、(映画ですから)、娘は父の熱情ク・ジュテームを一瞬で理解し、自分から「行こう!」とジェイを促し、タクシーのナビや通信装置を壊し、ジェイ・ル・タクシー、父娘二人の逃避行が始まる...。映画ですから。
 暴走ジェイのタクシーは(たぶん)房総の海浜へ。不思議の国ニッポンにはこんな素敵な超長い砂浜の海辺があって、たくさんの老若男女が集まって地引き網を引いている(たぶん有名な九十九里浜)、リリイもジェイも一緒になって地引き網を引いている(このシーンは美しい)。地引き網は大漁。採れた多量の魚を早速海辺テントで焼き魚に。この時ジェイは昔取った杵柄で焼き魚シェフに変身、みんなに絶品の魚グリルをふれ回るのであった。ジェイもリリイも満面の笑顔。ひとときのしあわせは(映画ですから)長続きはしない...。

 結末はジェイが逮捕され、日本の司法はジェイを即座にフランスへ強制送還してしまうのだけど...。

 軽い。親権問題の実際の当事者たちには極めて重いテーマのはずなのだが、軽く不思議の国ニッポンの映画になってしまいましたね。すべすべした日本とトーキョーのエキゾティスムだけでもありがたがって観る人たちが多いんだ、このフランスは。(日本で配給上映される可能性が高いので、日本ではどう観られるか、ちょっと興味はある)

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)『Une part manquante  また君に会えるまで』予告編




2024年11月8日金曜日

首裂け女が声を取り戻すまで

Kamel Daoud "Houris"
カメル・ダウード『天女たち』

2024年ゴンクール賞

れを書いている10月末現在、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』と並んで2024年度ゴンクール賞の最有力候補に挙げられているアルジェリア人仏語作家カメル・ダウードの3作目の長編小説(412ページ)。『ジャカランダ』が1994年のルワンダ大虐殺(死者80万〜100万人)を題材にしているように、この『天女たち』も1992年から2002年のアルジェリア内戦(「暗黒の10年」)(死者15万〜20万人)をめぐる小説である。
 まず作者のカメル・ダウードに関して。1970年生れのアルジェリア人でフランス語表現の新聞/雑誌ジャーナリストを経て作家に。2013年、カミュ『異邦人』(1942年)中で主人公ムルソーに殺されたアラブ人の弟を話者にして同小説をアラブ人側から書き直した『ムルソー再捜査(Meursault, contre-enquète)』 で、ゴンクール賞の最終選考まで残って注目された(同作品は日本語訳あり)。ジャーナリストとしても作家としても、アルジェリア現体制とイスラム原理主義に対する批判的言辞のため、当局と宗教組織の両方から脅迫を受けていて、自らの言論表現の自由を維持するためにフランスに移住せざるをえなくなっている。
 本書も故国アルジェリアでは書くことが困難だった小説であり、実際、2024年8月に仏ガリマール社から刊行された本書はアルジェリアでは発禁となっている。発禁の根拠となっているのはこの小説がアルジェリア内戦(1992年〜2002年)を題材としているからであり、それは内戦終結後2005年に(国民和解政策=Concorde civileを推進する)ブーテフリカ大統領が国民投票の審判を得て発布した「平和と国民和解のための憲章」の第46項に明記されている”国家的悲劇(=アルジェリア内戦)”の文書その他による記述利用の禁止(3年から5年の禁錮及び25万から50万ディナールの罰金)であり、この項目は小説の本編に入る前の前文資料として抜粋されている。
 小説は2018年6月のオランから始まる。話者はオーブという名の26歳の女性であり、彼女は妊娠していて、小説はオーブが胎内の子供(娘と断定している)に語りかけるというモノローグ体で進行する。この胎児を彼女は "ma houri"(私の天女)と呼びかける。"houri(フーリー)"とは私のスタンダード仏和辞典では「(イスラム教徒に約束されている)極楽の美女」と説明されている。日本語版ウィキペディアでは「フーリーは天国に来たイスラーム信徒の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれる」とある。信心深い男のイスラム教徒の死後の天国で約束されている美貌の処女たち。戯画的な意味合いもあろうが、イスラム原理主義的ジハード戦士たちが死を恐れないのはこの来世に約束されているフーリーのおかげと言われる。
 オーブはこの胎児を産み育てるつもりはない。中絶薬で”殺す”ことにしている(もちろん非合法であり、見つかれば禁錮10年から20年の刑を喰らう)。天からやってきた娘をそのまま天に返してやるというヴィジョン。その方が娘にとってずっと幸せである、という考え方。この世(現世のアルジェリア)に女が自由に自己実現する可能性があるとは思えない。その生きた証拠が自分オーブである。オーブは自分の体験してきたことをすべてこの胎児に語り、おまえをなぜ生かしておけないのかを理解してもらおうとしているのだ。
 1999年12月31日の夜、5歳だった彼女は、家族全員(父、母、姉)をテロリストたちによって惨殺され、自らも深く喉を切られ瀕死の重症を負った。一命はとりとめたものの、声帯を失い、喉に気孔を開けられ、斬喉の傷痕は顎の下の首に耳から耳まで17センチの長さで生々しく残っている。これを彼女は"sourire(微笑み、スマイル)”と呼んでいるが、それを見た者は戦慄する。彼女はその悍ましい形相と共に少女から大人になった。声帯が復元できなかったので、彼女は無声音でしか話せず、人からは唖のように思われている。彼女は言葉を失ったわけではなく、声帯を失ったのだが、それは象徴的にあの内戦の10年を語ることを禁止されたアルジェリアのメタファーとなっている。
 内戦がどのようにして始まり激化していったかを小説は詳しく書いていないので、簡単に言えば1992年、アルジェリアで急速に勢力を伸ばしてきたイスラム原理主義政党(イスラム法=シャリーアに則った社会実現を標榜する)のイスラム救国戦線(FIS)が選挙で多数派を獲得するのが確実となったことに反発する軍部がクーデターを起こし、選挙の無効を宣言、FISの解党を命じ指導者及び党員たちを逮捕した。非合法化されたイスラム原理主義勢力が山岳地帯に篭り武装化(その最大勢力がGIA = Groupe Islamique Armé イスラム武装集団)し、反政府テロ活動を展開し、政府軍と交戦する一方、イスラム法シャリーアによる社会支配を強行すべく非イスラム者(不信心者)/異教徒/西欧文化に毒された市民たちを弾圧し、エスカレートして村ぐるみの刎首虐殺まで行われるようになった。これが10年間も続き内戦による死者は15万人から20万人に及ぶと言われる。
  そのテロ集団のイメージはカラシニコフ銃を乱射するというよりも、ギラギラに研がれた巨大な屠殺包丁をかざして、老若男女構わず無差別に目についた人間すべての喉首を刎ねるもので、私は(アルジェリア内戦で皆殺しにされるカトリック修道院道士たちを描いた)グザヴィエ・ボーヴォワ監督映画『神々と男たち(Des Hommes et Des Dieux)』(2010年カンヌ映画祭グランプリ)のシーンを想った。
 喉首を切り裂かれた5歳の少女は生き残り、ハディジャと名乗る女性(弁護士、家族をすべて失ったこの少女の養母となる)に発見されて病院に収容され、声帯こそ失ったものの奇跡的に(つぎはぎだらけの)健康体に回復された。子供のいなかったハディジャは1999年12月31日から2000年1月1日の夜半に刎首され再生したこの子をAube(夜明け)と名付け、この子の母になった。そしてその後もこの子の”声”を戻してやるべく、ヨーロッパやアメリカの先端医学機関を当たり、(大金を用意して)声帯再生の可能性を探し続けているが、実現に至っていない。
 少女は自分と家族に起こった世にも残酷な出来事がその後追及されないばかりか、人々の忘却の彼方に押し去られていることに憤っている。学校の歴史の授業で20世紀最大の事件としてフランスからの独立戦争のことは徹底的に教え込まれ、その一部始終と英雄たちの名前は暗記させられるのに、”内戦”のことは一切教えない。歴史の課題で自分の体験をレポートすると、そのせいで歴史の採点はゼロになり、進学を断念させられる。この国のいたるところに、独立戦争の戦勝記念碑や犠牲者の慰霊碑はあるのに、”内戦”の夥しい犠牲者のそれはどこにもない。ブーテフリカの国民和解政策は、この内戦をなかったことにすることだった。大多数の旧テロリストたちを恩赦し、アルジェリア社会に「魚屋」として復権させた(テロ政治犯に「魚屋」になる宣誓を条件に釈放する、というこの小説で説明されているエピソード)。そしてかのイスラム原理主義はやや”ソフト”に変容するも、アルジェリアの男たちの間に再び浸透していく。
 上の学校に行けなかったオーブは美容師になり、オランで美容サロン「シェヘラザード」(この名前も象徴的、自分の死刑執行を免れるために1001夜にわたって物語を創作して語る女)を経営するようになった。その近所にイスラム礼拝所があり、そのイマームはあからさまにこの美容サロンの存在を敵視している。女性が美しく装身したり、”扇情的”な身なりをしたり、女性たちが集まって談笑することを禁止したい。集団礼拝の席で集まった男たちにそう説法しているのだ。イマームの差し金か、美容サロンには嫌がらせや空き巣狙いが後を立たない。この小説の中で、美容サロンは重要な原理主義への抵抗の場所のように描かれる。
 オーブの妊娠を知らない母ハディジャはその時オランにおらず、オーブの声帯復元の可能性を聞きにブリュッセルの医師のところに行っている。この不在の間にオーブは胎児を始末しようと考えている(実は殺すかどうかはまだ迷いがある)。
 1999年12月31日の夜、(オーブとその家族が住んでいた)ハド・シェカラ(Had Chekala)の村はテロリスト軍の襲撃に遭い、1000人の村人が殺された(註:史実としてのハド・シェカラ村の大虐殺は1997年12月に起こっている。リンクした記事は日刊オラン紙2006年に同紙記者だったカメル・ダウード自身が書いている)しかしこの事実は誰も語ろうとしない、あるいは国によって隠蔽されている。オーブがただ一人の生存者かもしれないが、この事実が公けになっていないので、オーブの瀕死の負傷も首に大きく残っている刎喉の傷も自分がいくら主張しても「交通事故によるものではないか?」と疑われても証拠がない。10年の内戦は消され、証言者は私ひとりしかいないのか?声帯を失ったオーブは、事実を伝える言葉も失ってしまったのか。私はひとりでも私の家族と私の声を奪った戦争があったことを語り続ける。明日のないこの胎児に向かって語り続ける。
 話は前後するが、おなかの中の子供の父親に関するエピソードが小説の第二章の後半の259ページめから270ページめまで展開されている。オラン郊外の漁村の漁師の青年で名前はミムーンと言う。オーブの孤独な海辺散歩で出会ったこの青年は、冬の海で泳ぐ逞しい肉体を持つ。父親は軍人だったがテロリストに殺された。母親ザーラは農村の出だったが、村がテロで壊滅される前に国防軍の隊長だったミムーンという軍人の手引きで別村に移住して難を逃れている。二人は恋に落ち、30日間だけの蜜月の日々を送るが、その棲み家にもテロの魔手が襲いかかり、ミムーン隊長は殺害され、妻ザーラは誘拐され(テロキャンプ地で暴行され)救出された時は身重の体になっている。ミムーン隊長の母、つまりザーラの義母は生まれてくる子はテロリストとの間の不義の子であると決めてかかる。その子は生まれ、近所の子たちから”Batard! Batard!"とはやしたてられいじめられながら大きくなるが、そのおかげで誰にも負けない水泳少年になる(水泳ストロークに"Batard! Batard!と自らかけ声をかける)。少年が10歳になった時、母ザーラは義母のところに少年を連れて行くと、義母は少年にわが子ミムーン大佐とうり二つの姿を見て抱きしめ、ザーラに詫び、その子にミムーンの名を与えたのだった。その後母も祖母も亡くなり、漁師ミムーンはヨーロッパ大陸(スペイン)に渡ることだけを夢見て、渡航資金(passeur = 密航あっせん人に渡す金)を貯めている。海の匂いのする逞しい青年はオーブを”ma muette”(俺の唖娘)と呼んで愛し、何も言わぬオーブに自分のすべてを語り、舟小屋での逢瀬を重ねた。そのことを言うべきか言うまいか逡巡の数日ののち、オーブが再び舟小屋を訪れると、その姿はない。漁師仲間が言うには、哀れなミムーンは密航あっせん人と出て行ったと...。
 この小説のなかで唯一のオーブの純愛・悲恋のパッセージであり、胎内のミムーンの子を殺そうか生き延びさせそうかの揺れ動きの振幅は大きくなる。

 2018年6月、アイード(犠牲祭)の前日、女たちは家に閉じこもってラマダン明け祝祭の準備に明け暮れ、男たちはモスクに祈祷に行き、街の人通りがない頃、オーブが着くと美容サロン「シェヘラザード」はめちゃめちゃに荒らされている。美容サロンを娼婦たちの巣窟とプロパガンダするイマームの信奉者によるものであることは明白だ。犠牲祭のせいで誰も仕事しようとしない警察署でけんもほろろに突き放され、その上路上で暴漢に襲われ、ボロボロになって彷徨っているところを、一台のトラックに拾われる。
 第一章「声 la voix」に続く第二章「迷路 le labyrinthe」は157ページめから298ページめまで(全三章中最も長い)で、オーブを拾ったこのトラックの男とオランからルリザンヌに至る自動車道路を行く一種のロードムーヴィーである。第一章はもっぱらオーブが胎児に語りかけるモノローグであったが、第二章はそのトラックの男アイッサが運転中に一方的にオーブに捲し立てる内容をオーブが聞き書きする体をとっている。
 アイッサも一家をテロで失ったが、家は代々続いていた書店/出版社であった。かつて本屋は地区の文化知識とコーラン解釈をつかさどり、地区全体の敬意を集めていたものだが、イスラム原理主義者たちからは退廃を蔓延させるとして目の敵にされ、暗黒の10年は多くの書店を潰し、出版は激減した。アイッサの父がやっていた書店はテロリストたちが唯一「有益」と認めた料理の本だけを出版することが許された。父と兄を殺されたアイッサはそれでも細々と料理の本を出版し続け、アルジェリア全土のまだ残っている本屋にアイッサ自らがトラックで配達していた。人生のほとんどを自動車道路上で過ごしている。アイッサは優秀で父に可愛がられた兄と違って学業を放棄して読み書きができなかった。読み書きのできない本屋、このコンプレックス! だがアイッサは本屋をやめない。文字で過去(暗黒の10年)を記録できなかったことを悔やみながら。なぜなら彼はその10年にラジオで報道されたテロ襲撃事件のニュースをすべて記憶しているのだ。日時、場所、被害者の数と名前... 。この10年間の大悲劇のほぼ全データがアイッサの記憶の中にある。これを配達出張で出向いた土地のカフェで語り始める。内戦が沈静化した後の1、2年は熱心に聞いてくれた人たちもいたが、やがて誰も聞かなくなるばかりか、狂人扱いされてカフェから追い出されてしまう。誰もこんな大悲劇があったことなど信じてくれない。内戦がどれほどの犠牲者を出したことかを誰も文字にしていないのだから。アイッサは絶望しながらもこのトラック全国巡回をやめない。
 第二章の初めでアイッサはこの言葉の出ない女との出会いを「天から使わされた」と直観した。この女の首に生々しく残った17センチの刃物傷を見た時、これは内戦の生き証人であり、初めて自分と同じ側の人間と出会ったと歓喜したのだ。トラックはオランから東に向けてルリザンヌへの自動車道を進み、運転席のアイッサはもの言わぬオーブに立板に水のごとく自分のことと内戦のことを喋り続ける。オーブは最初はいかにしてこの狂ったような喋り男から逃れてオランに戻ることができるかのチャンスばかりうかがっていた。
 文字のない男と音声のない女。二人に共通するのは奪われ消された10年の内戦の真実を取り戻し、明らかにすること。これがこの小説が書かれた第一の理由である。だが第二章の中での二人の意気投合はない。オーブはたった一人(加えてたった一人の自分の聞き役/証人になった胎児のフーリー/天女)の戦いにすることを選んで、トラックから逃走する。

 第三章「刃 Couteau」はルリザンヌから90キロ離れたハド・シェカラの村まで乗合タクシー(ふつう女性ひとりを男性客の乗ったタクシーに同乗させることはない)を使ってやってきたオーブのたった一人の戦い。19年前、父と母と姉を含む1000人の村人が虐殺された "L'endroit mort(死の場所)"へやってきたのだ。「私の名はルビア(オーブになる前の名前)、この村の地主だったハレド・アジャマの娘」と村人たちに告げ、村人たちの反応を知りたかった。ところがそんなオーブの声に聞き耳を立てず、村はそれどころではないスキャンダルが巻き起こっていた。村のシャイフ(長老)でモスクのイマームでもある男が営んでいるハラル肉屋が、犠牲祭用に屠されハラル認定された羊肉として売っていたものが実はロバの肉だったという噂に、村中の男たちはモスクのその男に詰め寄っていくが、シャイフはアッラーに審判を仰ぐ、と...。村のラブハと名乗る少女がオーブに近寄ってきて「あなたはTVジャーナリストでしょう、このスキャンダルを報道するためにやってきたんでしょう?」と。少女は村の女たちに「ジャーナリストがやってきた」と言いふらし、テレビで流したいことがあるならこの人に話したらいい、と。最初オーブに対して門戸を閉じていた村の女たちは次第にその扉を開いていく。
 オーブをジャーナリストと信じて自分のすべてを語り始めるハムラと名乗る女のストーリーがこの小説で最も凄絶なエピソードであり、それは330ページめから356ページめまで25ページのヴォリュームで展開される。その女はかつてテロリストと見なされ乳飲子を抱いて3年の牢獄生活を送って出獄したが、テロリストの烙印はついて周り、仕事をすることも役所に援助を求めることもできず乞食生活をしていたが、ハド・シェカラの叔母が引き取ってくれ、絶対に家から外に出ない、外部に顔や名前を晒さないという条件で生き延びている。その存在が知られたらテロリストの汚名によって再び放逐されるのは明白だから。内戦が終結し、男のテロリストたちは恩赦され社会復帰が許されたのに、女たちは許されないとハムラは言う。しかもその女たちはみんな村から誘拐されて山中のテロリストキャンプで強制労働/強制結婚/強制出産させられ、監禁状態でテロ協力者にさせられたにも関わらず...。ハムラはアイン・タレックの村の出身で一人娘だった。将来を誓い合った隣家の若者と言葉の少ない清い恋を続けていたが、山から降りてきたテロリストたちは若者に結婚式用の白装束を着せた上で”半刎首”して生きて血を流している状態で、ハムラとの逢引きの場所だったオリーブの木の枝に吊るし、悶死させた。18歳でハムラは村の処女たち(13歳から15歳)5人と共に誘拐され、絶対服従と私語禁止、昼は料理・育児・家事一切、夜は着飾って”夫”をあてがわれて性奉仕を強いられた。”アッラーの兵士”たちは日中は村に降りて殺戮と金銭物資食糧の略奪をもっぱらにし、夜は”アッラーの国”実現のための子孫兵力再生産に勤しんだ。ハムラはその2年間のキャンプでの隷属生活で3度”夫”をあてがわれ、2度妊娠した。だが、キャンプの牢獄で同じように誘拐されてきた政府軍兵士で爆弾製造技術者(テロリストのために爆弾を作らされている)の男と目と目で交信することができるようになり、彼の目から奴らのテロ計画で使う予定の爆弾をキャンプ地内で爆破させてしまう意図を読み取る。その日が来て、爆弾技師はその意図通り大爆発と共に自爆してしまうが、それに乗じて妊娠9ヶ月だったハムラは全速力でキャンプを脱走することに成功する。逃走中に羊水が流れ出し、ハムラは森の暗闇の中で一人で分娩し、石で臍帯を打ち切り新生児を置き去りにして逃走を続けるがやがて力尽き...。
 気がつくとハムラは政府軍に救出されている。新生児も無事回収されている。ハムラはこれですべてが解決したと思った。政府軍はハムラにテロリストキャンプに関するすべての情報を求め、ハムラは包み隠さずすべての情報を与えた。それに基づいて政府軍は山中のテロリストキャンプに総攻撃をかけるのだが、反政府テロ軍団はそれを待ち伏せしていたかのように政府軍を大破してしまう。このことでハムラのテロ組織との共謀が疑われ、3年の禁固刑を喰らってしまう。以来ハムラは一生テロリストの汚名を着続けることになる...。ハムラはこのジャーナリストがこれをテレビルポルタージュで伝えることで自分の汚名が晴らされると...。
 オーブはこれは自分と同じように言葉と内戦の事実を消されてしまった女だと思い、大泣きするのだった。

 第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。
 このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。
 
 ”忘却論”に翻弄され、自分の戦争の真実を取り戻しにこの地"L'endroit mort(死の場所)"までやってきたのに、何も得ることなくモスクを出て行ったオーブは、電柱が示す方角を頼りに、電柱沿いに道なき道を降りていくうちに夜になり、何者かに石で頭を打たれ気を失う。気がつくと、手足を縛られて、廃屋倉庫の中にいる。 そこにいた男は明らかに精神を病んでいて、取り止めのない独語を繰り返していたが、女が気を取り戻したと見るや近寄ってきて「誰に頼まれた?俺を警察に密告するためか?嫉妬深い嘘吐き野郎の俺の兄の差し金か?」と激しく詰め寄ってくる。その顔はその午後モスクで会っていたイマーム・ザブリとうり二つ、すなわち消息不明の双子の弟ハメドであり、この倉庫はロバ屠殺場として使われていた。
 おそらく翌朝にはハメドに刎首殺害されることを覚悟したオーブはその夜、この倉庫の隙間から見える外の景色が父が持っていた小さな農場であることを知り、このすぐ近くで1999年12月31日夜、姉とオードがテロリストの刃で首を切られたのだった。その光景ははっきりとオードの脳裏に焼きついていて今日まで何度も脳内反芻されるのだが、その時首を切られながら姉はオードの方を向いて何かを言おうとしていた、そのメッセージが何だったのかをこの夜にはっきりと読み取ることができたのである。それは幼かった姉妹が好んでしていた”数かぞえ遊び”の合言葉「クーカ couca」。私の方を見ないで目を閉じて死んだふりをして数を数えるのよ。そうはっきりと読み取れたのである。オーブはその時まで死んだ姉への負い目(姉が死に、自分だけが生き残ったことへの罪悪感)ばかり感じて姉への詫びばかり唱えていたのに、それは間違いだった。姉は首を切られながら、私に数えよと命じていた。何千、何万という数字を数えることで”生”を延長させよ、と。それは生へのメッセージであり、おまえは生きよ、姉の分まで二人分生きよ、という教えであった、と。このことを理解した時、オーブは胎内の子の命を守りたいと初めて思ったのであるが、しかしそれは遅すぎる、私はもうすぐロバ屠殺人ハメドに殺されるのだから... 。

 ここまで書いたら、結末を隠すわけにはいかないので....。その朝、オーブを廃屋倉庫から救出したのは(本屋トラックから彼女が逃げ出した時からずっと追跡していた)アイッサだった。ロバ屠殺人・元テロリスト隊長のハメドと、その兄イマーム・ザブリは憲兵隊に逮捕されるだろうという村人たちの話だったが、それは重要なことではない(たぶんそうはならないだろう)。しかしアイッサに救われ、その腕の中に抱きしめられたオーブは初めて二人分の命を体感する。
 1年後、オランの夏の浜辺で、オーブ、アイッサ、ハディジャ、そして乳児が陽光を浴びてくつろいでいる、という最終シーン。生まれた女児はカルトゥームと名付けられる。もちろんエジプトの大歌手にあやかった名前であり、それは”声”の象徴である。生まれたカルトゥームはオーブの”声”になった。(完)

 読みやすい本ではない。読み進めるのに色々と学習させられた。それも読書の徳の一つ。冒頭でも引き合いに出したが、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』(2024年ルノードー賞おめでとう)のルワンダ大虐殺はフランス(ある意味で関与国)でも大きく報道されその全容は掴みやすいものだが、この本のアルジェリア内戦の10年は本国の意志(それに外国メディアの加担もあるのか)は多くが隠されたままであり、正確な死者数も知られていない。都合の悪い過去を隠蔽するのはどの国にもあることと言えるが、人間たちの過去が消されることへの抵抗は屈されてはならない。それが女性たちならばなおさらのことである。カメル・ダウードの本書は本国では孤立無援の闘いのような印象がある。フランスはこの作家を受け入れこの本を書ける環境を提供したがゆえに、アルジェリア当局との摩擦は避けられないが、文学のパワーはそういうものでもある。関わったさまざまな人たちの勇気にも感服するが、カメル・ダウードの筆力は圧倒的だ。多くの人たちに読まれますように。

カストール爺の採点:★★★★☆

Kamel Daoud "Houris"
ガリマール刊 2024年8月 412ページ 23ユーロ


(↓)出版社ガリマール制作のカメル・ダウードによる自著『天女たち』紹介。