フラヴィアン・ベルジェのレーベルであるPAN EUROPEAN RECORDINGのFBページに「サポン」の歌の成り立ちをフラヴィアンが語っている動画があり、それによると2023年初夏、その秋に売るための石鹸を作っていた時の体験を歌にしたものだそうだ。夜になって石鹸づくりのアトリエから家に帰るとき、自転車のライトの替え電球を買うのを忘れていたのに気づいた(自転車ライトはフランスでも道交法で義務)。夏の夜の暑さの中で、(見つからないように)全速力で自転車を走らせると、いろんな香りが鼻腔を刺激してきて、それが15年前に友だちを訪ねて旅した日本の記憶を甦らせる...。ヴィデオクリップに出てくるのはその15年前に撮影した日本(主に関西)の映像をツギハギ編集したものだろう。わがFB友の上野卓彦さんはこの風景に詳しくて「枚方駅、楠葉駅などの大阪圏、鴨川、糺の森、嵐電などの京都圏が登場しますね」とコメントしてくれた。 「サポン」は2024年2月に初めて聴いて以来、私が1年中リピートして愛聴した曲である。聴く度に夏の遅い黄昏時の温い風を顔に浴びるセンセーションが、いろんな記憶を呼び起こしてくれる。本当にすごい効果を持ったサウンド&ワーズだと思う。この少年っぽい遊び心は私のような老人には刺激が快すぎて。1年間ありがとう、フラヴィアン、今度石鹸買いに行きます。
Je monte sur mon vélo 自転車に乗って Dans la ville il fait chaud 街へ出る 外は暑い Je vais faire des savons, 'vons 僕は石鹸づくりをするよ Je te laisse un mémo きみにメモを残す Dans lequel je m'émeus きみの歌を聞いて Car j'écoute ta chanson, 'son 感動したって Mise à jour du ciel 今の空はというと C'est le crépuscule 黄昏時だ Je suis plus si seul 僕はひとりぼっちっていうわけじゃない Les fleurs s'allument 花々が光っているよ J'adopte un ver luisant 僕は蛍を飼ってるんだ Calé sur ma chemise シャツの上に留めてあるよ J'ai pas de lumière 僕には光がないんだ Petite bêtise ちょっとした失敗 J'accélère スピードアップだ Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている J'accélère スピードアップだ Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような Des plantes 香りを吸って Semaine de corsaire 週日は重労働 Le weekend en concert 週末はコンサート Cet été se passe à fond, fond この夏は全速力で過ぎていく Là, sous les lampadaires あそこの街灯の下に行って Les poumons remplis d'air 胸いっぱいに空気を吸うと L'impression d'être au Japon, 'pon まるで日本にいるみたいだ J'accélère スピードアップだ Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている J'accélère スピードアップだ Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような Des plantes 香りを吸って Mise à jour du ciel 今の空はというと C'est le crépuscule 黄昏時だ Je suis plus si seul 僕はひとりぼっちっていうわけじゃない Les fleurs s'allument 花々が光っているよ J'adopte un ver luisant 僕は蛍を飼ってるんだ Calé sur ma chemise シャツの上に留めてあるよ J'ai pas de lumière 僕には光がないんだ Petite bêtise ちょっとした失敗 J'accélère スピードアップだ J'accélère スピードアップだ Filant dans le soir 夜の中を駆け抜けていくよ La ville s'endort en silence 街は静かに眠りについている J'accélère スピードアップだ Reniflant l'odeur enivrante 植物のうっとりするような Des plantes 香りを吸って J'accélère スピードアップだ J'accélère スピードアップだ
(↓)フラヴィアン・ベルジェ「サポン」(Official Visualizer)
(↓)フラヴィアン・ベルジェ、アルバム "Contrebande 02. Le Disque de L'Eté"
それと前後してトトーヌは若い女性酪農家マリリーズ(演マイウェンヌ・バルトルミー、すばらしい!)と出会っている。小さな個人経営の酪農家で、乳牛飼育から搾乳と原乳貯蔵保管まで全部一人でやっている逞しいカウガールである。演じたマイウェンヌ・バルトルミーは実生活でもこの酪農のAからZまでひとりでしているそうで、その証拠のようにこの映画の後半で乳牛のお産(両手で新生牛の両脚を全力で引っ張り出して分娩させる!)を彼女ひとりでやってのけるシーンあり。そういう野生的でしかもチャーミングなマリリーズは旺盛な性欲の持ち主でもあり、さっそく新米農事労働者トトーヌを誘惑し、ベッドへと誘うのであるが、トトーヌはその気があってもいざという時にモノが言うことを聞かない。バチ悪くあやまるトトーヌに、「あんたができなくったって、わたしはいけるのよ」とマリリーズはトトーヌにクンニリングスを要求する。しかたなくマリリーズの股間に顔を埋めるトトーヌ... 「わぉ、牝牛の臭いがする!」 ー O, la vache ! ー 私はこのシーンでこれは本当にテロワールの香り高い映画だと実感したのですよ。
エヴァーグリーンは2008年パリで活動を開始した三人組(♀ひとり+♂ふたり)で、デビュー当時は We Were Evergreen と名乗っていた。ジャンル的にはインディー・ポップ、エレクトロ・ポップと言われているようだが、2011年から2017年まで活動の拠点をロンドンに据えていて、ほとんど英語で歌っていた。これまでLP4枚、EP2枚を出しているが、私は全く知りませんでした。で、全く知らなかった音楽に私が偶然出会うのは(ずいぶん前から)たいがいがラジオFIPかYouTubeということになってしまった。昔はアーチストやレーベルからの直接のコンタクトだったり、数種類定期購読していた音楽雑誌だったり、レコードショップでだったのにぃ... 。 この曲と出会ったのは、YouTube上で、スタジオヴァージョンではなく、2023年9月パリで管弦楽アンサンブルと共演したコンサートのライヴ動画だった。私はずっとずっと昔からこういう螺旋階段メランコリー旋律に涙腺が敏感に反応するタチ。美しいフランス語である。”En Douce(アン・ドゥース)"とは、わがスタンダード仏和辞典では「こっそりと、目立たないように、何くわぬ様子で」といった訳語が出ている。この歌詞は実に”シャンソン的”な、3分間短編映画であり、オチ(結末)のある女性心理ドラマである。私はこういう"シャンソン”に琴線が震えてしかたがない。ファビエンヌ・デバールの繊細なヴォーカル表現も、ストリングス+トランペットの哀愁アンサンブルも。
Mes mains sont trop carrées 私の手は角ばっている Même quand je les ouvre 指を開いても角ばっている Elles ne savent que serrer だからいつも親指を包んで Autour de mes pouces 固く握っている L'enjeu est de taille 問題は大きさなの A qui donc adresses-tu 誰にこんな些細なことが Tous ces détails 打ち明けられるの? Tes soirées d'ivresse あなたの酔い加減が過ぎる夜宴 Je me sens des failles et 私は自分の弱さを感じて Je le sens, oui ça y est 私は弱い、もうだめ Viens me voir en douce こっそりと私のところへ来て
Fais-moi cette faveur 私のお願いを聞いて De rentrer ensemble 一緒に帰りましょう Pour contenir l'ardeur 私の震える両手のほてりを De ces mains qui tremblent おさえるために Mes mains trop petites 私の小さすぎる両手 Pour te laisser prendre あなたに捕まえてほしい Mes mains qui s'agitent 私の震える両手は De ne faire qu'attendre あなたが探しに来てくれて Que tu viennes les chercher 私の両手に顔をうずめるのを Que tu viennes t'y cacher 待っているだけなの Viens me voir en douce こっそりと私のところへ来て
J'ai pris mes affaires もう身の回りの物を持って Je t'attends dans l'entrée 出口で私はあなたを待っている Mais tu exagères でもあなたはわざと A te faire désirer 私を焦らすの Tu sais bien t'y prendre 自分の意図を隠すやり方を Pour me cacher ton jeu あなたはよく知っている Je veux bien attendre 私は待っていたい Attendre encore un peu もう少しだけ待って Que je me fatigue 疲れた頃にあなたが Où tu décides こっそり私の元にやってくるって A me voir en douce 決めてくれるまで待っているわ
Mes mains sont trop carrées 私の手は角ばっている Même quand je les ouvre 指を開いても角ばっている Elles ne savent que serrer だからいつも親指を包んで Autour de mes pouces 固く握っている La soirée se vide 夜宴は散会 Et lentement laisse 窓越しに帰りを急ぐ人たちの Glisser sur la vitre 物音が聞こえてくる Des bruits qui se pressent et そして
Je te vois descendre あなたが降りてくるのが見える Lentement descendre ゆっくりと降りてきて 何くわぬ様子で La rejoindre en douce 彼女と合流するのが
Je te vois descendre あなたが降りてくるのが見える Lentement descendre ゆっくりと降りてきて 何くわぬ様子で La rejoindre en douce 彼女と合流するのが
映画の最後から紹介する。ひとりオートバイでロレーヌ地方の田舎道を疾走するアントニー(演ポール・キルシェール、日本で『動物界』公開中)が消え、エンドロールが始まると同時に流れる音楽はブルース・スプリングスティーン「明日なき暴走(Born to run)」(1975年)である。ニコラ・マチューの原作小説を読んだ者なら、ここは絶対ニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」(1991年)が来るはずだと構えていたと思う。私もそのひとりだった。ところが、あにはからんやザ・ボスが来たのだ。そしてこれが極上だった。鳴った瞬間涙が迸り出た。明日なき暴走、1975年、日本のCBSソニー洋楽A&Rはよくぞこんな卓抜な日本語題をつけてくれたもんだ。このエンディングの風景はどんぴしゃに明日なき暴走なのである。明日なき暴走とはこの映画を観た者には深く核心的な日本語表現となる。そして、ザ・ボスのシャウトも。 1990年代、東フランスの破産工業地帯ロレーヌ地方の小さな町に生きる3人のティーンが織りなす1992年/1994年/1996年/1998年、四つの夏の物語。長年の失業でアル中と化した父パトリック(演ジル・ルルーシュ)、パトリックと口論が絶えず離婚も時間の問題と諦めている母エレーヌ(演リュディヴィーヌ・サニェ)、この二人の間の一人息子がアントニーであり、父母に依存して生活しているが無軌道でやや荒れた青春を生きている。1992年夏、14歳のアントニーが一目惚れしてしまうのが、町の有力者(町長)の娘ステフ(演アンジェリナ・ヴォレット)で、この退屈極まりない地方から抜け出すためにパリ進学目指して勉強していて、ブルジョワ娘の決められた行く末に反抗もしている。この映画では原作よりもこの少女の性的好奇心が強調されているような気がするが、それはそれでいい。もうひとり、今は閉鎖したこの町の鉄鋼工場に移民労働者としてやってきたモロッコ人の息子アシーヌ(演サイド・エル・アラミ)は、町から疎ましく見られているマグレブ移民二世たちの不良グループのリーダー格で、失業者の父マレクと二人暮らし。マレクから就職先を見つけることを厳命されているが、モロッコ移民の子に職は回ってこない。
止まってしまった溶鉱炉、廃屋となって放置された鉄鋼工場や倉庫などが重苦しい背景となっている町の風景が、この映画のもうひとつの主役であり、この30年前の風景が浦山桐郎『キューポラのある街』(1962年)だったと想像してみるのも一興だが、これは若者たちだけでなく町の人たちの多くを押しつぶし、窒息させるような背景である。そんなところにも毎年夏はやってきて、ヴァカンスなど縁のない人々も陽光の季節を享受している。そしてこの町には美しい湖がある。その一角にはブルジョワ娘たちがたむろするプライベートビーチがあるらしいという噂を嗅ぎつけたアントニーとその相棒のいとこ(映画でも名前は出てこず「いとこ= le cousin」としか呼ばれない:演ルイ・メンミ)は、貸ボート屋の倉庫からカヌーを盗み出し...。というのが映画の冒頭。貸ボート屋に盗みの現場を発見され、必死でカヌーを湖面に漕ぎ出し、全速力で沖を目指し、追っ手を振り払ってたどり着いた岸辺にいた水着姿の少女二人。そのひとりが豊艶なオーラを放つステフだった。アントニーはこの瞬間から運命的なものを感じ取ってしまうのだが...。別れ際、今夜プール付きの大邸宅でパーティーがあるから来て、と誘うステフ。14歳アントニーはカッコつけたくて、父親パトリックが(若き日の輝かしい過去の記念として)宝物にしているレース仕様のオートバイを、一晩だけだからとパトリックに内緒で母親からキーを借り受け、颯爽とブルジョワ子女たちが狂乱して酔いしれているパーティーへ、と。夜も更けた頃、文字通りフランス語の "Trouble-Fête"で、招待されていないマグレブ二世不良グループが登場、入場阻止を無視して中に入りステフらに悪態をついているところを、リーダーのアシーヌにアントニーが強烈な足払い。凄まじい眼光での睨み合い。ここからアントニーとアシーヌの長く運命的な(おそらく一生続く)抗争が始まるのである。マグレブ不良団は一旦退散し、パーティーは夜明けまで続き、散会となって帰宅しようとすると... 父親の宝物オートバイが忽然と無くなっている...。
"Run to the Hills" - Iron Maiden (1982) "Pretend We're Dead" - L7 (1992) "Mr Loverman" - Shabba Ranks (1992) "Non soumis à l'État" - IAM (1991) "Where Did You Sleep Last Night" (Leadbelly / Nirvana) - covered by Amaury Chabauty et Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois "My Lovin' (You're Never Gonna Get It)" - En Vogue (1992) "Under the Bridge" - Red Hot Chili Peppers (1991) "Je te donne" - Jean-Jacques Goldman & Michael Jones (1985) "Bust a Move" - Young MC (1989) "Feed My Frankenstein" - Alice Cooper (1991) "Genius of Love" - Tom Tom Club (1981) "Where Is My Mind" (Charles Thompson / Pixies) - covered Amaury Chabauty et Les Petits Chanteurs à la Croix de Bois "I Don't Want a Lover" - Texas (1989) "Rivers of Babylon" - Boney M (1978) "Samedi soir sur la terre" - Francis Cabrel (1994) "Nothing Else Matters" - Metallica (1991) "Que je t'aime" - Johnny Hallyday (2019) "Savoir aimer" - Florent Pagny (1997) "La Fièvre" - Suprême NTM (1995) "You Can't Hurry Love" - The Supremes (1966) "I Will Survive" (Dino Fekaris, Frederick J. Perren / Gloria Gaynor) - covered par Amaury Chabauty "Born to Run" - Bruce Springsteen (1975) - Ending roll
フランス東部の田舎FM、田舎カフェ、田舎ディスコなどで当時の若者たち及び町民たちが聞いていた音楽、と想像してみよう。特に印象的なのはステフとアントニーがプールの水の中にいて、かのギターイントロが鳴りだすと「これわたしの大好きな曲」「俺も」と二人水の中に口を沈めて口パクで歌い出すレッチリ「アンダー・ザ・ブリッジ」。それから1996年のフランス革命記念日の町の野外ダンスパーティーで、田舎DJが「お待ちかねのチークダンスタイムだよ」とMCを入れて始まる曲がフランシス・カブレルの「地球の上の土曜日の夜(Samedi soir sur la terre)」(1994年アルバム"Somedi Soir Sur La Terre"はわが最愛のポップ・フランセーズアルバムの10枚に入ると思う)、この曲に揺られながらアントニーとステフはまるで恋人同士のように体を密着させて踊るのですよ。長いシークエンス。美しい。この姿を影から見ていたパトリックが、息子も一人前に恋をするようになったか、とひときわの孤独感に突き動かされたか、ひとり泥酔の足で湖で入水自殺を...。
ジュリアのやっている音楽は一般的には”R&B”と呼ばれていて、それもフランス語によるR&Bである。これは2010年代のフランス音楽業界では(商業的に)きびしいジャンルだった。破竹の勢いで市場を席巻しているラップ/ヒップホップの影にあって、どんなに歌唱力あるR&B歌手でもその位置はラップアーチストのバックコーラスやちょっとしたリフレインの”フィーチャリング”が関の山であった。だからプロヴァンスからパリに出てきた頃はレコード会社やプロダクションから見向きもされず、長い”下積み”を強いられることになった。2018年にYouTubeで楽曲を発表し始めた頃、すでにジュリアは30歳になっていた(それがどうした?)。ジュリアは焦ることなくゆっくり時間をかけて、仏ネオ・ソウル界隈の最良の部分とコラボレーションを重ねて、自らの(誰にも真似のできない)ダウンテンポ・グルーヴを磨きあげていく。その中での決定的な出会いが、(のちに夫にもなる)プランス・ワリー Prince Walyであった。本名ムーサ・マガッサ、93県モントルイユ出身のラッパーで、これも長い下積みの末2022年の初ソロアルバム『ムーサ』で2023年度ジョゼフィーヌ賞を受賞している。ジュリアは一貫して彼のことをムーサと呼び、その名を冠した「ムーサ」という曲も発表して公にその熱愛を表明している(ジュリアはこういう極私的な内容の歌が多い)。お互いの長い下積み中にさまざまなインスピレーションを交感し合っていた間柄と言えるし、お互いのアーチストとしての飛躍に重要な役割を果たしていた、それは愛だもんね、と。
そのプランス・ワリー/ムーサが2018年にまれな難病である「胸腺がん」と診断され、一時は声帯にまで転移して声が出なくなった。それから3年間の治療闘病の末、晴れて寛解するのだが、この劇的な生への帰還も二人の音楽アーチストの愛による救済のドラマのように、楽曲のインスピレーションとなるのだね。ムーサは3年のブランクの後、前述の初ソロアルバム『ムーサ』(2022年)で大きな成功をおさめ、一躍フレンチ・ラップの大器になった。2022年アンシャンテ・ジュリアの2枚めのEP(7曲入り)は”Longo Maï(ロンゴ・マイ)”と題されるが、これはオック語(プロヴァンサル語)で「末永くあれ」という意味で、言わばムーサの帰還を祝福するもの(このEPの中に前述の「ムーサ」が入っている)。 そして次は私の番、とジュリアは初ソロアルバムを準備する。ジュリア/ムーサのカップルの他ミュージシャン/コンポーザー、エンジニアらが故郷プロヴァンス・リュベロン地方ピオランクの田舎家 Les Santolines (レ・サントリーヌ)に合宿を始めたのが2023年11月。アルバムがこの環境で生まれたことを示すミニ・ドキュメンタリー動画がある(↓)
(リフレイン) Changement de saison 季節が変わり J'reviens à la maison 私は故郷に帰る Rêver, rêver 夢見ること Quand la nuit tombe 夜の帷が降りると Le coeur a ses raisons 愛することの D'aimer, d'aimer 理由をとりもどす
Que ferais-tu, si t'avais le choix ? あなたにやり直しができるとしたらどうする? J'recommencerais des centaines de fois 私だったら何百回でも同じことをやり直すわ Premier rendez-vous 最初のランデブー C'était cool クールだったわ On se tournait autour 激しく誘惑し合ったわね C'était fou クレイジーだったわ C'est arrivé, j'ai dû prier ついにやって来たの Du haut de mes genoux
私深く祈っていたのね、きっと Puis t'es arrivé, comme au ciné そしてあなたがやって来た、映画みたいに As-tu rêvé de nous ? あなたは私たちのこと夢見てたの?
J'fais le saut de l'ange, du haut de la Seine je saute
私は天使の跳躍を、セーヌの高みから飛び込むの
Saine et sauve, moi, j'm'en sors saine et sauve
無傷で無事に私は抜け出す、全く何事もなく
Billet bleu ou vert, sur plaie ouverte
開いた傷口にユーロ札やドル札
Comme un pansement, sur cœur ouvert
開いた心臓に貼った絆創膏みたい
Baby, je suis tombée à l'eau
ベビー、私は水に落ちたのよ
Et toi pour me sauver, t'as trouvé deux anneaux
私を救うためにあなたは二つの指輪を見つけた
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me, save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
Regarde comme le monde est à nous
見て、世界は私たちのもの
Et dans ton regard, tout devient doux
あなたの眼差しですべては優しくなる
Mon cœur est brisé, il me fait défaut
私の心は傷つき、欠乏してしまう
Quand le chemin est truffé de faux
道には偽物ばかり埋められている
Au pied du puits, j'étais au fond des eaux
井戸の最深部、私は水の底にいたの
Sans réseau, moi, j'avance sans les autres
何の繋がりもなく、私は他人の力なしで進んでいく
Baby, je suis tombée à l'eau
ベビー、私は水に落ちたのよ
Et toi pour me sauver, t'as trouvé deux anneaux
私を救うためにあなたは二つの指輪を見つけた
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
Baby, baby, save me (Save me)
ベビー、ベビー、セイヴ・ミー
De nos ennemis
私たちの敵から救い出して
思わず赤文字にしてしまったが、"L'enfer c'est les autres"(地獄とは他人のことだ)は、ジャン=ポール・サルトルの戯曲『出口なし』(1944年)の中の有名なセリフであり、フランスではリセの哲学の試験問題によく出る存在論的命題である。ジュリアはこんなことも引き合いに出すので、ちょっと侮れない。
そんなアルバムの中で、やっぱり一番繰り返して聴いてしまうのは「肌の花(Fleur de peau)」(9曲め)という曲で、これは田舎家レ・サントリーヌ合宿で最初に出来上がった曲だそう。この曲が出来たら続く曲はすらすらと出てきたという、一番産みの苦しみの末に生まれた歌。自信があったのだろうね、アルバム発売の5ヶ月前の2024年6月に先行シングル扱いでYouTube公開された。私も一聴で虜になった。「肌の花」とは非常に敏感に(過敏気味に)反応することを意味する。触れるか触れないかの距離で肌に接するとくすぐったかったり、寒気で震えたりする、そういう過敏反応のことを仏語表現で avoir la fleur de peau (肌の花を持つ)と言うのだそう。
Toujours à faire le beau
いつもきれいでありたくて
Souvent à fleur de peau
朝早くの
Comme le parfum
香水のように
Tôt le matin
つい過敏になってしまう私
Trop de mauvaises rencontres m’ont fait du tort
悪い出会いをしすぎたせいね
Pour oublier il m’a fallu du temps
忘れるのに時間がかかったわ
Mais je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
でも今はあなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
あなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Pour jouer le jeu, il fallait être deux
ゲームをするには、二人にならなければ
Heureux, yeux dans les yeux, j’ai fait ce voeu
しあわせよ、見つめあって、私は願いを立てる
Un peu d’amour, c’est tout ce que je veux
少しの愛、私が欲しいのはそれだけ
Si je t’en demande trop, fais ce que tu peux
それが欲張りすぎだったら、あなたはできることだけして
Et si parfois je pleure
もしもときどき私が泣いたら
Tu m'achèteras des fleurs
私にお花を買ってね
Des chrysanthèmes
菊の花がいいわ
Et par centaines
何百本もよ
Tu m’as renversée comme un sablier
それで私はひっくり返された砂時計のように
On se retrouve pour mieux s’oublier
忘れてまたいちから始められるわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Et on se tourne le dos, tourne le dos, tourne autour, ça va si vite
背を向けあい、背を向けて、回りまわって、とても早く過ぎてしまうわ
Viens, pas trop vite
来て、でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Non, pas trop vite
でも急ぎすぎないで
Mais je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
でも今はあなたに夢中なの、あなたに夢中なの(うう、うう)
Je t’ai dans la peau, je t’ai dans la peau (ouh, ouh)
同志たちは『七つの苦悩の聖母 Notre-Dame-Des-Sept-Douleurs』(2020年)をちゃんと聴きましたかね?コロナ禍でそれどころではない時期ではあったが、解説で書いたように長かった暗黒の日々をクロ・ペルガグが抜け出していく魂の軌跡を描いた素晴らしいアルバムであった。あれから4年、われわれのポスト・コロナ期は身近に起こっている大きな戦争と年々激しくなる温暖化災害とポピュリストが支配する超大国に翻弄され、その中でクロ・ペルガグは34歳になった。それだけではない。4年前クロ・ペルガグが産んだ女児は4歳になった(ロジック)。 新作の核はそれです。俗に言われることではあるが、子の親になったとたん人間は変わる。それまで自分ひとりだったので、”ひとり思考”ではこの世が急速に破滅に向かっていることを感知しても、最悪は自分ひとりが死ぬだけじゃん、と達観していられた。ところがこの世に出現したばかりの吾子はどうなるのか。生きて欲しい。苦しみはあろうが、少しでも less worthな状態で生きて欲しい。母クロ・ペルガグは、この生きる塊を前にして、欲したり主張したりするこの小さな生命体を前にして、この子が生きていく未来を考えないわけにいかなくなってしまった。世界の終わりを冗談のように言い合うシニカルな大人たちのひとりではいられなくなったのだ。何もかもがダメになってしまっても、何かにしがみつき信じたい。それが効くかどうか知る由もない、陳腐なおまじないであっても。「アブラカダブラ」と唱えたら、一瞬にして世界のすべてがうまく行くようになるかもしれないではないか。母クロ・ペルガグは最後にこの呪文を唱えてみようと思っているのだ。そうしたら吾子の苦しみや痛みが軽くなるかもしれない。 新アルバムの大きな転換点はもうひとつ。2013年のデビューアルバム『怪物たちの錬金術 L'alchimie des monstres』以来、ソングライタークロ・ペルガグと二人三脚でそのサウンド世界を作ってきたコ・プロデューサーシルヴァン・デシャン Sylvain Deschampsが離脱。この突然の別れにクロ・ペルガグは大泣きに泣いたそうだ。だが泣いてばかりはいられない。思いを決してひとりで立ち上がりセルフ・プロデュースアルバムをキャリーアウトした。編曲指揮・制作・サウンドエンジニアリング、クロ・ペルガグ herself。プログラミング+ストリングス+ブラス+コーラス+.... 全部クロ・ペルガグさんが決めた。 そのサウンドは前作『七つの苦悩の聖母』で私が「サイケデリックでシンフォニックで求道的な音楽」と評した”大伽藍”の響きと似ていないことはないが、その厚いハーモニーはクロかあさんのあたたかみが感じられると思う。一音一音に込められているものが感じられるように聞こえたら、クロかあさんの意に叶ったりということでしょう。
アルバムは『七つの苦悩の聖母』と同じように2分ほどのインストルメンタル曲「赤い果実の血 Le sang des fruits rouges」で始まる。このインストによるイントロダクションは大袈裟な音楽の始まりを予感させる”オドシ”であり、今度のはまじめだぞ、おふざけじゃないぞ、と言っているように聞こえる。そして始まるのが「ピタゴラス Pythagore」という曲である。ピタゴラス(570BC - 495BC)とは恐れ多くも畏くも史上初の音楽理論の確立者にして音階の発見者である。われわれのドレミはこの古代ギリシャの数学者なしには誰も知ることができなかったのである。これもハッタリみたいなタイトルである。これは聴く前にアルバム制作の経緯を読んでしまった私にははっきりと「シルヴァン・デシャンとの決別の歌」に聞こえる。ピタゴラス的に理詰めできっちりと複雑構造建築的にクロ・ペルガグのサウンドをつくってきたデシャンに、「いいわよ、わたしひとりでやるわ」と啖呵切ってる。歌詞にこうあり:
Tu dis que ce qui tue pas nous rend plus fort 殺さないことがあなたと私を強くするとあなたは言う C'est vrai à moins qu'on soit déjà mort もう死んでるんだったらそれは本当ね J'ai reçu une millième balle dans le corps 私はもう一千発もの弾丸を体に撃ち込まれたのよ Je crois que j'ai atteint mon point de départ 私はもう出発点に到達したと思うわ Va - t'en si tu veux 望むのなら出て行って Mais va - t'en juste un peu 私の別れの言葉を聞いて Entends mes adieux 出て行って Et va - t'en si tu veux, va - t'en 望むならいなくなって、出て行って
Pourquoi t'as peur de tomber ? なぜ転ぶのを怖がるの? Pourquoi t'as peur de vivre ? なぜ生きるのを怖がるの? Tout le monde dit que t'es libre みんなおまえが自由だって言ってるよ La musique te délivre 音楽はおまえを解放するんだ Personne sait que t'es brisé 誰もおまえが壊れてしまったって知らないよ
そしてこのアルバムの最重要テーマである愛娘へのメッセージは、5 - 6 - 7曲めの中で表れる。それは破滅に限りなく近づいていく世界の中で生きなければならない娘への「守ってあげたい」なのである(あ、あの歌引き合いに出すべきではないか)。まずはっきりとそれが見える7曲め「ある若き詩人への手紙 Lettre à une jeune poète」(これはもちろんライナー・マリア・リルケの援用)はこう語る:
Est-ce que j'ai menti ? 私は嘘をついたの? Je t'avais promis すべてはうまく行く Que tout irait bien 私は何も怖がらない Que je n'ai peur de rien ってあなたに約束したわね
J'ai peur de tout 私は全てが怖い Mais surtout でもとりわけ Peur pour toi おまえのことで怖がっている Mais je sais, ça ira でも大丈夫、きっと Toute seule tu trouveras たったひとりでもおまえにはわかるわ
Je t'ai donné la vie 私はおまえに命を授けた
Je voudrais te donner envie de vivvre 私はおまえに生きる望みを与えたいの Qu'elle ne te soit jamais pénible 生きるのが決して苦しいことでないように Plus de meilleur que de pire 悪いことよりも良いことがたくさんあるように
そして実のお嬢さんを登場させて制作されたヴィデオ・クリップで公開された6曲めの「マンゴーの味 Le goût des mangues」は、想像できない早さで大きくなっていく娘のさまざまな季節を共にしながら母としての不安も一緒に育まれていく情景が見えてくる。
おまえは飛べるのか、それとも落ちてしまうのか
私にはわからない
雪が溶けるのを待って
おまえは季節に立ち向かっていくの
おまえは守るべき信条がないし
誰もおまえをわかってくれないだろうし
今の季節はおまえをあざむくね
意味をなさない多くのことがあるし
重要だと認められないこともあるし
この季節は可能性がない
おまえが嫌いなものすべてを消すとしたら
私は出て行くの?それとも残っていいの?
今はそんな季節、私は考え込む
おまえがマンゴーの味も
おまえの脚に置いた私の手の感覚も忘れてしまった
今はおまえと私に似た季節ね
この『アブラカダブラ』と題されたアルバムの中で、「アブラカダブラ」という呪文はたった1曲の中にしか登場しない。おそらくこの曲がこのアルバムの核心である。それは9曲めの「ジム・モリソン Jim Morrison」と題されたもので、文字通りジム・モリソン(1943 - 1971)の墓を(そのつもりがないのに)訪ねる歌である。註:この歌では話者=私が男性、相手=おまえが女性。
Les puits de lumière laisseront toujours entrer la pluie. 光の井戸には永遠に雨水が入っていくだろう。このイメージわかりますか? 光の井戸は永遠に枯れないのですよ。これは祈りであり、おまじないですよ。
<<< トラックリスト >>> 1. Le sang des fruits rouges 2. Pythagore 3. Coupable 4. Libre 5. Sans visage 6. Le goût des mangues 7. Lettre à une jeune poète 8. Décembre 9. Jim Morrison 10. Deux jours et deux nuits 11. Les puits de lumière 12. Triste ou méchante
Klô Pelgag "Abracadabra" LP/CD/Digital SECRET CITY RECORDS SCR168 フランスでのリリース : 2024年10月14日
上映ポスターに日本語題を印字して挿れたり、エンドロールに出演者などをアルファベットとカタカナで表記する「日本撮影映画」にろくなものはない。この4月に見たエリーズ・ジロー監督『シドニー、日本で』(主演イザベル・ユッペール)のことを言ってるんですが。おまけにヴェンダース『パーフェクト・デイズ』(2023年)と同じように”東京風景”が大いにものを言う映画。それに幻惑されたのかテレラマ誌はこの映画評で「ロマン・デュリスと”東京”という二人の偉大なアクターに照らし出された父性に関する繊細で美しい映画」と高評価を与えている。どうしてどうしてどうして東京がそんなにいいんだろ。 ベルギー人監督ギヨーム・スネが前作『パパは奮闘中(Nos Batailles)』(2018年)のプロモーションで主演のロマン・デュリスと来日した時に、この「子の親権問題」(日本が世界でも稀な”単独親権”法を堅持している国であり、両親の別離に際して片親が独占的に親権を行使できる)について知り、特に国際結婚・離婚に多い、子が半誘拐状態で片親に養育され旧伴侶の子供との接触をシャットアウトしている多くのケースに興味を抱いた。フランスと日本の国際結婚・離婚に起因する子の親権問題(フランス及び世界のほとんどの国が共同親権を認めている)だけでも数十件に上り、フランスでのニュース沙汰になっている。 ただしこのスネの新作は上段に構えた社会派(つまり日本の単独親権制度を告発するといった)映画ではない。(国際離婚・国内離婚を問わず)親権を与えられず子供と引き離された片親の不幸と子との再会のための闘いが強調されて画面に登場するわけでもない。ここに見えるのはやはり「不思議の国ニッポン」と「不思議の都トーキョー」なのである。 フランス人ジェローム・ダ・コスタ(演ロマン・デュリス)は愛称を「ジェイ(Jay)」と言い、日本人からは「ジェイさん」と呼ばれる。東京の大手タクシー会社(KMタクシーという名前、まあ、ありなんでしょ)に所属するタクシードライバーであり、そこそこ流暢な日本語をしゃべり、東京の隅々の道路を知り尽くしている(同業運転手からカーナビに出てこない新住所への行き方を訊ねられて、スラスラと答えてやるシーンあり、笑ってしまう)。かつては上級レストランシェフだったが、日本人女性ケイコ(演Yumi Narita 在フランス女優)と結婚し、娘リリイが3歳の時に破局別居。離婚はしていない。離婚したら”単独親権の国”日本では完全に親権を失ってしまうのでそれを避けるために離婚を拒否している。しかしケイコはリリイを連れて行方不明になり、ジェイとのコンタクトを絶っている(映画の後半でジェイがずっと養育費を払い続けているという話になっていて、この辺辻褄が合わないが、ま、いいか)。それから9年、ジェイはタクシー運転手に身をやつし、巨大な東京で娘リリイを探し回り、娘に再会することだけを希みに東京に住み続けている。Jay le taxi, c'est sa vie. 流しのタクシーという言葉があるので、「東京流し者」とでもダジャレてみたいところだが、KMタクシー予約制のシフトに入っているので、会社の運用センターの無線指示通りに走る雇われドライバー。ある日同僚のホンダというドライバーが病欠(実は”過労バーンアウト”気味の仮病休みで、これは"エムケイ”社への当てこすりのようにも見える)で、ジェイが代役で起用され、脚負傷で松葉杖歩行の女子中学生の学校送迎を担当、この女子中学生がなんとリリイ(演メイ・シルネ=マスキ)だったのだ。
この偶然を絶対に逃してはならないと、ジェイはホンダに頼み込み女子中学生送迎の担当を続けさせてもらい、露骨に父親を名乗ることを避け、少しずつ接触の切り口を開こうと...。言わば中年ストーカーの未成年少女接近なのだが、それは名優ロマン・デュリスのチャーミングな日本語トーキングも手伝ってもどかしくも切なくて...。ブルジョワ女子中学生リリイは「おじさん日本語上手ねえ」などと事情を理解しようとしないコメントあり。「ハーフはいろいろ大変なのよ」などとしたり顔のコメントあり。怪我リハビリ中のアーティスティックスウィミング選手であるリリイのプールに忍者のように忍び込み、水着姿のリリイをスマホで盗撮するシーンあり→やはりこれは不思議の国ニッポンの性風俗への当てこすりなのだろうか。それはそれとして、タクシー車内という密室空間で、ジェイとリリイの距離は少しずつ埋まっていくのだが...。 さてこの映画に撮り込まれた不思議の国ニッポンと不思議の都トーキョーであるが、タクシーの車窓はヴェンダース『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃作業ライトバンからのトラヴェリングと似て、どこか哀愁の近未来メガポリスなのである。『パーフェクト・デイズ』と同じように何度か銭湯シーンあり。ジェイが脇腹にLilyという文字と花の刺青があり、それが銭湯では”禁止”という不思議の国ニッポンの掟に従って、大きな絆創膏を脇腹に貼って入浴しなければならない。何度めかに「お客さん、タトゥー見えちゃってるんですよ」と銭湯の親父にたしなめられるシーンあり。 単独親権の犠牲になって子供と離ればなれになって生きる片親たちの互助サークルがあり、9年目のジェイはその世話人のような役割を担っているが、そこに集う親たちは外国人だけでなく日本人もいる。一緒にその苦労を語り合ったり、カラオケでウサを晴らしたり...。その種のパーティーでそのメンバーの二人、フランス人のジェシカ(演ジュディット・シェムラ)と日本人のユウ(演阿部進之介)が泥酔してしまい、送っていくジェイのタクシーの中で、ジェイのカーステからジョニー・アリデイの「とどかぬ愛("Que je t'aime"日本語ヴァージョン)」(1970年)が流れ、酔漢のユウが(日本語で)歌い出し、リフレイン「ク・ジュテーム」を3人で大唱和するというシーンあり。ありえないシーンではあるが、私の観た映画館の観客はどっと湧いた。 加えてトーキョーの一種の文化風景とも言える町の古本屋があり、気の良い隠居インテリのような風情の本屋主人の役であがた森魚が登場し、ジェイとカタコトのフランス語でやりとりするシーンあり。ジェイの苦労をよく知っているように描かれているのは”下町人情”演出にしたかったのだろうか。 といったふうに、日本好きフランス人観客の心をくすぐるような細かいところは結構あるんだけどね...。
第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。 このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。