Kamel Daoud "Houris"
カメル・ダウード『天女たち』
2024年ゴンクール賞
これを書いている10月末現在、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』と並んで2024年度ゴンクール賞の最有力候補に挙げられているアルジェリア人仏語作家カメル・ダウードの3作目の長編小説(412ページ)。『ジャカランダ』が1994年のルワンダ大虐殺(死者80万〜100万人)を題材にしているように、この『天女たち』も1992年から2002年のアルジェリア内戦(「暗黒の10年」)(死者15万〜20万人)をめぐる小説である。
まず作者のカメル・ダウードに関して。1970年生れのアルジェリア人でフランス語表現の新聞/雑誌ジャーナリストを経て作家に。2013年、カミュ『異邦人』(1942年)中で主人公ムルソーに殺されたアラブ人の弟を話者にして同小説をアラブ人側から書き直した『ムルソー再捜査(Meursault, contre-enquète)』 で、ゴンクール賞の最終選考まで残って注目された(同作品は日本語訳あり)。ジャーナリストとしても作家としても、アルジェリア現体制とイスラム原理主義に対する批判的言辞のため、当局と宗教組織の両方から脅迫を受けていて、自らの言論表現の自由を維持するためにフランスに移住せざるをえなくなっている。
本書も故国アルジェリアでは書くことが困難だった小説であり、実際、2024年8月に仏ガリマール社から刊行された本書はアルジェリアでは発禁となっている。発禁の根拠となっているのはこの小説がアルジェリア内戦(1992年〜2002年)を題材としているからであり、それは内戦終結後2005年に(国民和解政策=Concorde civileを推進する)ブーテフリカ大統領が国民投票の審判を得て発布した「平和と国民和解のための憲章」の第46項に明記されている”国家的悲劇(=アルジェリア内戦)”の文書その他による記述利用の禁止(3年から5年の禁錮及び25万から50万ディナールの罰金)であり、この項目は小説の本編に入る前の前文資料として抜粋されている。
小説は2018年6月のオランから始まる。話者はオーブという名の26歳の女性であり、彼女は妊娠していて、小説はオーブが胎内の子供(娘と断定している)に語りかけるというモノローグ体で進行する。この胎児を彼女は "ma houri"(私の天女)と呼びかける。"houri(フーリー)"とは私のスタンダード仏和辞典では「(イスラム教徒に約束されている)極楽の美女」と説明されている。日本語版ウィキペディアでは「フーリーは天国に来たイスラーム信徒の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれる」とある。信心深い男のイスラム教徒の死後の天国で約束されている美貌の処女たち。戯画的な意味合いもあろうが、イスラム原理主義的ジハード戦士たちが死を恐れないのはこの来世に約束されているフーリーのおかげと言われる。
オーブはこの胎児を産み育てるつもりはない。中絶薬で”殺す”ことにしている(もちろん非合法であり、見つかれば禁錮10年から20年の刑を喰らう)。天からやってきた娘をそのまま天に返してやるというヴィジョン。その方が娘にとってずっと幸せである、という考え方。この世(現世のアルジェリア)に女が自由に自己実現する可能性があるとは思えない。その生きた証拠が自分オーブである。オーブは自分の体験してきたことをすべてこの胎児に語り、おまえをなぜ生かしておけないのかを理解してもらおうとしているのだ。
1999年12月31日の夜、5歳だった彼女は、家族全員(父、母、姉)をテロリストたちによって惨殺され、自らも深く喉を切られ瀕死の重症を負った。一命はとりとめたものの、声帯を失い、喉に気孔を開けられ、斬喉の傷痕は顎の下の首に耳から耳まで17センチの長さで生々しく残っている。これを彼女は"sourire(微笑み、スマイル)”と呼んでいるが、それを見た者は戦慄する。彼女はその悍ましい形相と共に少女から大人になった。声帯が復元できなかったので、彼女は無声音でしか話せず、人からは唖のように思われている。彼女は言葉を失ったわけではなく、声帯を失ったのだが、それは象徴的にあの内戦の10年を語ることを禁止されたアルジェリアのメタファーとなっている。
内戦がどのようにして始まり激化していったかを小説は詳しく書いていないので、簡単に言えば1992年、アルジェリアで急速に勢力を伸ばしてきたイスラム原理主義政党(イスラム法=シャリーアに則った社会実現を標榜する)のイスラム救国戦線(FIS)が選挙で多数派を獲得するのが確実となったことに反発する軍部がクーデターを起こし、選挙の無効を宣言、FISの解党を命じ指導者及び党員たちを逮捕した。非合法化されたイスラム原理主義勢力が山岳地帯に篭り武装化(その最大勢力がGIA = Groupe Islamique Armé イスラム武装集団)し、反政府テロ活動を展開し、政府軍と交戦する一方、イスラム法シャリーアによる社会支配を強行すべく非イスラム者(不信心者)/異教徒/西欧文化に毒された市民たちを弾圧し、エスカレートして村ぐるみの刎首虐殺まで行われるようになった。これが10年間も続き内戦による死者は15万人から20万人に及ぶと言われる。
そのテロ集団のイメージはカラシニコフ銃を乱射するというよりも、ギラギラに研がれた巨大な屠殺包丁をかざして、老若男女構わず無差別に目についた人間すべての喉首を刎ねるもので、私は(アルジェリア内戦で皆殺しにされるカトリック修道院道士たちを描いた)グザヴィエ・ボーヴォワ監督映画『神々と男たち(Des Hommes et Des Dieux)』(2010年カンヌ映画祭グランプリ)のシーンを想った。
喉首を切り裂かれた5歳の少女は生き残り、ハディジャと名乗る女性(弁護士、家族をすべて失ったこの少女の養母となる)に発見されて病院に収容され、声帯こそ失ったものの奇跡的に(つぎはぎだらけの)健康体に回復された。子供のいなかったハディジャは1999年12月31日から2000年1月1日の夜半に刎首され再生したこの子をAube(夜明け)と名付け、この子の母になった。そしてその後もこの子の”声”を戻してやるべく、ヨーロッパやアメリカの先端医学機関を当たり、(大金を用意して)声帯再生の可能性を探し続けているが、実現に至っていない。
少女は自分と家族に起こった世にも残酷な出来事がその後追及されないばかりか、人々の忘却の彼方に押し去られていることに憤っている。学校の歴史の授業で20世紀最大の事件としてフランスからの独立戦争のことは徹底的に教え込まれ、その一部始終と英雄たちの名前は暗記させられるのに、”内戦”のことは一切教えない。歴史の課題で自分の体験をレポートすると、そのせいで歴史の採点はゼロになり、進学を断念させられる。この国のいたるところに、独立戦争の戦勝記念碑や犠牲者の慰霊碑はあるのに、”内戦”の夥しい犠牲者のそれはどこにもない。ブーテフリカの国民和解政策は、この内戦をなかったことにすることだった。大多数の旧テロリストたちを恩赦し、アルジェリア社会に「魚屋」として復権させた(テロ政治犯に「魚屋」になる宣誓を条件に釈放する、というこの小説で説明されているエピソード)。そしてかのイスラム原理主義はやや”ソフト”に変容するも、アルジェリアの男たちの間に再び浸透していく。
上の学校に行けなかったオーブは美容師になり、オランで美容サロン「シェヘラザード」(この名前も象徴的、自分の死刑執行を免れるために1001夜にわたって物語を創作して語る女)を経営するようになった。その近所にイスラム礼拝所があり、そのイマームはあからさまにこの美容サロンの存在を敵視している。女性が美しく装身したり、”扇情的”な身なりをしたり、女性たちが集まって談笑することを禁止したい。集団礼拝の席で集まった男たちにそう説法しているのだ。イマームの差し金か、美容サロンには嫌がらせや空き巣狙いが後を立たない。この小説の中で、美容サロンは重要な原理主義への抵抗の場所のように描かれる。
オーブの妊娠を知らない母ハディジャはその時オランにおらず、オーブの声帯復元の可能性を聞きにブリュッセルの医師のところに行っている。この不在の間にオーブは胎児を始末しようと考えている(実は殺すかどうかはまだ迷いがある)。
1999年12月31日の夜、(オーブとその家族が住んでいた)ハド・シェカラ(Had Chekala)の村はテロリスト軍の襲撃に遭い、1000人の村人が殺された(註:史実としてのハド・シェカラ村の大虐殺は1997年12月に起こっている。リンクした記事は日刊オラン紙2006年に同紙記者だったカメル・ダウード自身が書いている)しかしこの事実は誰も語ろうとしない、あるいは国によって隠蔽されている。オーブがただ一人の生存者かもしれないが、この事実が公けになっていないので、オーブの瀕死の負傷も首に大きく残っている刎喉の傷も自分がいくら主張しても「交通事故によるものではないか?」と疑われても証拠がない。10年の内戦は消され、証言者は私ひとりしかいないのか?声帯を失ったオーブは、事実を伝える言葉も失ってしまったのか。私はひとりでも私の家族と私の声を奪った戦争があったことを語り続ける。明日のないこの胎児に向かって語り続ける。
話は前後するが、おなかの中の子供の父親に関するエピソードが小説の第二章の後半の259ページめから270ページめまで展開されている。オラン郊外の漁村の漁師の青年で名前はミムーンと言う。オーブの孤独な海辺散歩で出会ったこの青年は、冬の海で泳ぐ逞しい肉体を持つ。父親は軍人だったがテロリストに殺された。母親ザーラは農村の出だったが、村がテロで壊滅される前に国防軍の隊長だったミムーンという軍人の手引きで別村に移住して難を逃れている。二人は恋に落ち、30日間だけの蜜月の日々を送るが、その棲み家にもテロの魔手が襲いかかり、ミムーン隊長は殺害され、妻ザーラは誘拐され(テロキャンプ地で暴行され)救出された時は身重の体になっている。ミムーン隊長の母、つまりザーラの義母は生まれてくる子はテロリストとの間の不義の子であると決めてかかる。その子は生まれ、近所の子たちから”Batard! Batard!"とはやしたてられいじめられながら大きくなるが、そのおかげで誰にも負けない水泳少年になる(水泳ストロークに"Batard! Batard!と自らかけ声をかける)。少年が10歳になった時、母ザーラは義母のところに少年を連れて行くと、義母は少年にわが子ミムーン大佐とうり二つの姿を見て抱きしめ、ザーラに詫び、その子にミムーンの名を与えたのだった。その後母も祖母も亡くなり、漁師ミムーンはヨーロッパ大陸(スペイン)に渡ることだけを夢見て、渡航資金(passeur = 密航あっせん人に渡す金)を貯めている。海の匂いのする逞しい青年はオーブを”ma muette”(俺の唖娘)と呼んで愛し、何も言わぬオーブに自分のすべてを語り、舟小屋での逢瀬を重ねた。そのことを言うべきか言うまいか逡巡の数日ののち、オーブが再び舟小屋を訪れると、その姿はない。漁師仲間が言うには、哀れなミムーンは密航あっせん人と出て行ったと...。
この小説のなかで唯一のオーブの純愛・悲恋のパッセージであり、胎内のミムーンの子を殺そうか生き延びさせそうかの揺れ動きの振幅は大きくなる。
第一章「声 la voix」に続く第二章「迷路 le labyrinthe」は157ページめから298ページめまで(全三章中最も長い)で、オーブを拾ったこのトラックの男とオランからルリザンヌに至る自動車道路を行く一種のロードムーヴィーである。第一章はもっぱらオーブが胎児に語りかけるモノローグであったが、第二章はそのトラックの男アイッサが運転中に一方的にオーブに捲し立てる内容をオーブが聞き書きする体をとっている。
アイッサも一家をテロで失ったが、家は代々続いていた書店/出版社であった。かつて本屋は地区の文化知識とコーラン解釈をつかさどり、地区全体の敬意を集めていたものだが、イスラム原理主義者たちからは退廃を蔓延させるとして目の敵にされ、暗黒の10年は多くの書店を潰し、出版は激減した。アイッサの父がやっていた書店はテロリストたちが唯一「有益」と認めた料理の本だけを出版することが許された。父と兄を殺されたアイッサはそれでも細々と料理の本を出版し続け、アルジェリア全土のまだ残っている本屋にアイッサ自らがトラックで配達していた。人生のほとんどを自動車道路上で過ごしている。アイッサは優秀で父に可愛がられた兄と違って学業を放棄して読み書きができなかった。読み書きのできない本屋、このコンプレックス! だがアイッサは本屋をやめない。文字で過去(暗黒の10年)を記録できなかったことを悔やみながら。なぜなら彼はその10年にラジオで報道されたテロ襲撃事件のニュースをすべて記憶しているのだ。日時、場所、被害者の数と名前... 。この10年間の大悲劇のほぼ全データがアイッサの記憶の中にある。これを配達出張で出向いた土地のカフェで語り始める。内戦が沈静化した後の1、2年は熱心に聞いてくれた人たちもいたが、やがて誰も聞かなくなるばかりか、狂人扱いされてカフェから追い出されてしまう。誰もこんな大悲劇があったことなど信じてくれない。内戦がどれほどの犠牲者を出したことかを誰も文字にしていないのだから。アイッサは絶望しながらもこのトラック全国巡回をやめない。
第二章の初めでアイッサはこの言葉の出ない女との出会いを「天から使わされた」と直観した。この女の首に生々しく残った17センチの刃物傷を見た時、これは内戦の生き証人であり、初めて自分と同じ側の人間と出会ったと歓喜したのだ。トラックはオランから東に向けてルリザンヌへの自動車道を進み、運転席のアイッサはもの言わぬオーブに立板に水のごとく自分のことと内戦のことを喋り続ける。オーブは最初はいかにしてこの狂ったような喋り男から逃れてオランに戻ることができるかのチャンスばかりうかがっていた。
文字のない男と音声のない女。二人に共通するのは奪われ消された10年の内戦の真実を取り戻し、明らかにすること。これがこの小説が書かれた第一の理由である。だが第二章の中での二人の意気投合はない。オーブはたった一人(加えてたった一人の自分の聞き役/証人になった胎児のフーリー/天女)の戦いにすることを選んで、トラックから逃走する。
第三章「刃 Couteau」はルリザンヌから90キロ離れたハド・シェカラの村まで乗合タクシー(ふつう女性ひとりを男性客の乗ったタクシーに同乗させることはない)を使ってやってきたオーブのたった一人の戦い。19年前、父と母と姉を含む1000人の村人が虐殺された "L'endroit mort(死の場所)"へやってきたのだ。「私の名はルビア(オーブになる前の名前)、この村の地主だったハレド・アジャマの娘」と村人たちに告げ、村人たちの反応を知りたかった。ところがそんなオーブの声に聞き耳を立てず、村はそれどころではないスキャンダルが巻き起こっていた。村のシャイフ(長老)でモスクのイマームでもある男が営んでいるハラル肉屋が、犠牲祭用に屠されハラル認定された羊肉として売っていたものが実はロバの肉だったという噂に、村中の男たちはモスクのその男に詰め寄っていくが、シャイフはアッラーに審判を仰ぐ、と...。村のラブハと名乗る少女がオーブに近寄ってきて「あなたはTVジャーナリストでしょう、このスキャンダルを報道するためにやってきたんでしょう?」と。少女は村の女たちに「ジャーナリストがやってきた」と言いふらし、テレビで流したいことがあるならこの人に話したらいい、と。最初オーブに対して門戸を閉じていた村の女たちは次第にその扉を開いていく。
オーブをジャーナリストと信じて自分のすべてを語り始めるハムラと名乗る女のストーリーがこの小説で最も凄絶なエピソードであり、それは330ページめから356ページめまで25ページのヴォリュームで展開される。その女はかつてテロリストと見なされ乳飲子を抱いて3年の牢獄生活を送って出獄したが、テロリストの烙印はついて周り、仕事をすることも役所に援助を求めることもできず乞食生活をしていたが、ハド・シェカラの叔母が引き取ってくれ、絶対に家から外に出ない、外部に顔や名前を晒さないという条件で生き延びている。その存在が知られたらテロリストの汚名によって再び放逐されるのは明白だから。内戦が終結し、男のテロリストたちは恩赦され社会復帰が許されたのに、女たちは許されないとハムラは言う。しかもその女たちはみんな村から誘拐されて山中のテロリストキャンプで強制労働/強制結婚/強制出産させられ、監禁状態でテロ協力者にさせられたにも関わらず...。ハムラはアイン・タレックの村の出身で一人娘だった。将来を誓い合った隣家の若者と言葉の少ない清い恋を続けていたが、山から降りてきたテロリストたちは若者に結婚式用の白装束を着せた上で”半刎首”して生きて血を流している状態で、ハムラとの逢引きの場所だったオリーブの木の枝に吊るし、悶死させた。18歳でハムラは村の処女たち(13歳から15歳)5人と共に誘拐され、絶対服従と私語禁止、昼は料理・育児・家事一切、夜は着飾って”夫”をあてがわれて性奉仕を強いられた。”アッラーの兵士”たちは日中は村に降りて殺戮と金銭物資食糧の略奪をもっぱらにし、夜は”アッラーの国”実現のための子孫兵力再生産に勤しんだ。ハムラはその2年間のキャンプでの隷属生活で3度”夫”をあてがわれ、2度妊娠した。だが、キャンプの牢獄で同じように誘拐されてきた政府軍兵士で爆弾製造技術者(テロリストのために爆弾を作らされている)の男と目と目で交信することができるようになり、彼の目から奴らのテロ計画で使う予定の爆弾をキャンプ地内で爆破させてしまう意図を読み取る。その日が来て、爆弾技師はその意図通り大爆発と共に自爆してしまうが、それに乗じて妊娠9ヶ月だったハムラは全速力でキャンプを脱走することに成功する。逃走中に羊水が流れ出し、ハムラは森の暗闇の中で一人で分娩し、石で臍帯を打ち切り新生児を置き去りにして逃走を続けるがやがて力尽き...。
気がつくとハムラは政府軍に救出されている。新生児も無事回収されている。ハムラはこれですべてが解決したと思った。政府軍はハムラにテロリストキャンプに関するすべての情報を求め、ハムラは包み隠さずすべての情報を与えた。それに基づいて政府軍は山中のテロリストキャンプに総攻撃をかけるのだが、反政府テロ軍団はそれを待ち伏せしていたかのように政府軍を大破してしまう。このことでハムラのテロ組織との共謀が疑われ、3年の禁固刑を喰らってしまう。以来ハムラは一生テロリストの汚名を着続けることになる...。ハムラはこのジャーナリストがこれをテレビルポルタージュで伝えることで自分の汚名が晴らされると...。
オーブはこれは自分と同じように言葉と内戦の事実を消されてしまった女だと思い、大泣きするのだった。
第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。
このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。
”忘却論”に翻弄され、自分の戦争の真実を取り戻しにこの地"L'endroit mort(死の場所)"までやってきたのに、何も得ることなくモスクを出て行ったオーブは、電柱が示す方角を頼りに、電柱沿いに道なき道を降りていくうちに夜になり、何者かに石で頭を打たれ気を失う。気がつくと、手足を縛られて、廃屋倉庫の中にいる。 そこにいた男は明らかに精神を病んでいて、取り止めのない独語を繰り返していたが、女が気を取り戻したと見るや近寄ってきて「誰に頼まれた?俺を警察に密告するためか?嫉妬深い嘘吐き野郎の俺の兄の差し金か?」と激しく詰め寄ってくる。その顔はその午後モスクで会っていたイマーム・ザブリとうり二つ、すなわち消息不明の双子の弟ハメドであり、この倉庫はロバ屠殺場として使われていた。
おそらく翌朝にはハメドに刎首殺害されることを覚悟したオーブはその夜、この倉庫の隙間から見える外の景色が父が持っていた小さな農場であることを知り、このすぐ近くで1999年12月31日夜、姉とオードがテロリストの刃で首を切られたのだった。その光景ははっきりとオードの脳裏に焼きついていて今日まで何度も脳内反芻されるのだが、その時首を切られながら姉はオードの方を向いて何かを言おうとしていた、そのメッセージが何だったのかをこの夜にはっきりと読み取ることができたのである。それは幼かった姉妹が好んでしていた”数かぞえ遊び”の合言葉「クーカ couca」。私の方を見ないで目を閉じて死んだふりをして数を数えるのよ。そうはっきりと読み取れたのである。オーブはその時まで死んだ姉への負い目(姉が死に、自分だけが生き残ったことへの罪悪感)ばかり感じて姉への詫びばかり唱えていたのに、それは間違いだった。姉は首を切られながら、私に数えよと命じていた。何千、何万という数字を数えることで”生”を延長させよ、と。それは生へのメッセージであり、おまえは生きよ、姉の分まで二人分生きよ、という教えであった、と。このことを理解した時、オーブは胎内の子の命を守りたいと初めて思ったのであるが、しかしそれは遅すぎる、私はもうすぐロバ屠殺人ハメドに殺されるのだから... 。
ここまで書いたら、結末を隠すわけにはいかないので....。その朝、オーブを廃屋倉庫から救出したのは(本屋トラックから彼女が逃げ出した時からずっと追跡していた)アイッサだった。ロバ屠殺人・元テロリスト隊長のハメドと、その兄イマーム・ザブリは憲兵隊に逮捕されるだろうという村人たちの話だったが、それは重要なことではない(たぶんそうはならないだろう)。しかしアイッサに救われ、その腕の中に抱きしめられたオーブは初めて二人分の命を体感する。
1年後、オランの夏の浜辺で、オーブ、アイッサ、ハディジャ、そして乳児が陽光を浴びてくつろいでいる、という最終シーン。生まれた女児はカルトゥームと名付けられる。もちろんエジプトの大歌手にあやかった名前であり、それは”声”の象徴である。生まれたカルトゥームはオーブの”声”になった。(完)
読みやすい本ではない。読み進めるのに色々と学習させられた。それも読書の徳の一つ。冒頭でも引き合いに出したが、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』(2024年ルノードー賞おめでとう)のルワンダ大虐殺はフランス(ある意味で関与国)でも大きく報道されその全容は掴みやすいものだが、この本のアルジェリア内戦の10年は本国の意志(それに外国メディアの加担もあるのか)は多くが隠されたままであり、正確な死者数も知られていない。都合の悪い過去を隠蔽するのはどの国にもあることと言えるが、人間たちの過去が消されることへの抵抗は屈されてはならない。それが女性たちならばなおさらのことである。カメル・ダウードの本書は本国では孤立無援の闘いのような印象がある。フランスはこの作家を受け入れこの本を書ける環境を提供したがゆえに、アルジェリア当局との摩擦は避けられないが、文学のパワーはそういうものでもある。関わったさまざまな人たちの勇気にも感服するが、カメル・ダウードの筆力は圧倒的だ。多くの人たちに読まれますように。
カストール爺の採点:★★★★☆
Kamel Daoud "Houris"
ガリマール刊 2024年8月 412ページ 23ユーロ
(↓)出版社ガリマール制作のカメル・ダウードによる自著『天女たち』紹介。
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