2024年10月27日日曜日

アズナ アズ ナンバーワン

"Monsieur Aznavour"
『ムッシュー・アズナヴール』


2024年フランス映画
監督:メーディ・イディール&グラン・コール・マラード
主演:タハール・ラヒム、バスティアン・ブイヨン、マリー=ジュリー・ボープ
フランス公開:2024年10月24日

ず映画制作の背景から。この映画のプロデューサーであるジャン=ラシッド・カルーシュ(1974年生れ、50歳)は2017年のグラン・コール・マラード&メーディ・イディールの監督デビュー映画”Patients"(観客動員数130万人!)以来、2作目"La vie scolaire"(2019年)そしてこの3作目『ムッシュー・アズナヴール』と、両監督とタッグを組んできていて、そのほかに音楽アーチスト、グラン・コール・マラードのプロデューサーでもある。アルジェリア移民の子で、マント・ラ・ジョリー(パリ郊外、同地の元スター歌手フォーデルとは従兄弟の関係)出身、コメディアン、スタンダップ芸人、ミュージシャンなどの下積みがある。この男がゴールデンボーイとなるのは2006年4月のことで、なんとシャルル・アズナヴールの娘カティア(アズナヴールの6人の子のうちの4番目)と結婚したのである。仏ウィキペディアの記述によると、カティアが盗まれた携帯電話をカルーシュが取り戻してやったというのが馴れ初めのようだ。こうしてカルーシュは大アズナヴールの跡取り婿となり、一挙に芸能界でハバを利かすようになった、というわけ。この事情をおさえておかないと、どうしてこれが(遺族アズナヴール家から公認された)”公式”バイオピックなのか理解できないと思う。どうしてこの制作陣?どうしてこのキャスティング?という公開前から多くあった(批判的)疑問が、ある種否定的で偏見がらみの前評判としてモヤモヤしていたのである。
 そのモヤモヤの核みたいなものがタハール・ラヒムにアズナヴール役ができるのか、ということ。映画の評価はタハール・ラヒムの演技がこのモヤモヤを晴らすことができるかどうか、という点に集中するのだと思う。
 
 さてシャルル・アズナヴール(1924 - 2018)の伝記映画(バイオピック)である。実人生においてアズナヴールは偉大な成功者であり、生涯現役で94歳の高齢でその死の2週間までステージに立っていたという、アーチスト冥利に尽きる大往生であった。自邸の湯を張った浴槽に横たわっていた状態で臨終していた、という安らかさも伝説的である。幸福な幕の閉じ方と言えよう。昨今話題になったバイオピックでは、フレディー・マーキュリー、エルヴィス・プレスリー、エミー・ワインハウス、エディット・ピアフ、ダリダ.... など、凄絶ボロボロな生きざまと不遇な人生の閉じ方、という傾向がわれわれにはしっくり来るし、それなりの感動が約束されていたような納得感で観ることができた。ところがこのアズナヴールは(当然たいへんな苦労はしたものの)あらゆる成功と名声と巨万の財産を手に入れ、良い家族に囲まれ、愛したステージを離れることなく、幸福のうちに生涯を閉じた。これはストーリーとして面白いの?と首を傾げたくもなろう。この場合、モロであからさまな「サクセス・ストーリー」にするしか映画として成立しないのではないか。野心と上昇志向を次から次に満たしていく「昇り坂」映画。太閤記もどき。これもどうなんでしょうね....。
 映画は時系列に忠実に、アルメニア難民であるアズナヴーリアン家のパリ移住から始まる。 実際にはアメリカ移住を目指していて、その入国許可待ちでヨーロッパを移動中に、1923年にサロニカでシャルルの姉アイーダが生まれ、翌1924年にパリでシャルルが生まれたことをきっかけにフランスに定住するようになる。映画は歴史的悲劇であるトルコによるアルメニア大虐殺(1915〜16年)と強制移動にまつわるドキュメンタリー映像を映し出し、アズナヴーリアン家族がその当事者的被害者であったことをうながす。そんな歴史的背景によって流謫の苦労と貧困に悩まされる家族であったが、父親ミシャは楽天家であり、飲食店経営を何度も失敗しながらもアルメニア系移民たちを自店に招待して宴会を開いていた。このシーンで流れるのが、ロシア・ツィガーヌの伝承歌「二つのギター」で、幼いシャルルが宴会の真ん中でコサック・ダンスを披露している。この「二つのギター」は1960年にシャルルが仏語詞をつけてレコーディングしていて、その録音の中でロシア語歌詞部分は父親ミシャ・アズナヴール(元バリトン歌手)が歌っている。経済感覚はゼロだったが楽天的で音楽に溢れた家庭を作っていた父親、その家計の穴を塞いで、さまざまな小さい職で小銭を稼いでくるのが、アイーダとシャルルだった。金になることならば何でもするというハングリーさと営業センスは子供の頃から身についていたものだった。アイーダと共に演劇の舞台に立つ(初舞台は9歳の時)ようになったシャルルは、観客の前に出ることとスポットライトを浴びることの快感を知り、これこそが自分の道だ、と。12歳でミュージックホール(アルカザールカジノ・ド・パリ)に雇われ、小間使い、舞台係、給仕、お笑い端役などをこなしながら、幕袖からモーリス・シュヴァリエやシャルル・トレネのステージを見て、「わだばトレネになる」と高い志しを立てた。

 1941年、17歳、ナチスに占領されていたパリで、「ミュージックホール学校(のちにシャンソン俱楽部)」ディレクターだったピエール・ロッシュ(ピアニスト/作曲家 1919 - 2001)(演バスティアン・ブイヨン、好演)と出会っている。この映画の中では運命の出会いは3つあり、ひとつめはこのピエール・ロッシュ、ふたつめはエディット・ピアフ(1915 - 1963)(演マリー=ジュリー・ボープ、快演)、みっつめはアズナヴールの3人目の妻ユラ・トルセル(1940 - )(演ペトラ・シランデール)である。1967年に結婚し、アズナヴールの死まで52年間添い遂げたスウェーデン人マヌカン出身のユラは、その重要度という点で異論はないが、冒頭で述べた事情から憶測するに、アズナヴール/ユラ夫婦の第一子であるカティア(即ちこの映画のプロデューサーの妻)への忖度ではないか、と勘ぐりたくなるところがある。それはそれ。ピエール・ロッシュは、5歳年下でまだ17歳の若者の作詞と即興のセンスに仰天して、作曲/ピアノ/相方歌手となってデュエット「ピエール・ロッシュとシャルル・アズナヴール」(↑写真)を組み、二人で苦楽を共にしながら”シャンソン道”をひた走る。この映画では曲作りや興行元や音楽出版との交渉などでアズナヴールが常にイニシアティヴを取り、ロッシュはその優れたパートナーに寄りかかって興行先各地で女遊びばかりするような描かれ方。
 ナチス占領下のパリでのもうひとつ重要なエピソード、それはこの2024年2月に非フランス人(アルメニア移民/無国籍者)として初めてパンテオン納骨堂に(レジスタンス英雄・国家的偉人として)収められたミサック・マヌーシアン(1909 - 1944)とアズナヴーリアン家に交流があり、少年シャルルがマヌーシアンのチェスの相手だったということ。また(外国人)レジスタンス隊のリーダーだったマヌーシアンを匿っていたという廉で、アズナヴーリアン家にゲシュタポのガサ入れ/検挙の魔手が襲い掛かろうとするが、寸前に逃げのびるというシーンあり。明らかに2024年的トピックスとしてシナリオに加えられたものと思う。

 この新進のシャンソン・デュオのロッシュ&アズナヴールの噂は既にその世界の女王であったエディット・ピアフにまで届き、(イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーなど気に入った新人男たちを子飼いあるいは愛人として巻き込む傾向のあった)ピアフは若造シャルルをまんまとその影響下に従える。ロッシュ&アズナヴールは入国ヴィザなしでピアフをニューヨークまで追いかけて行き、米移民局に留め置かれ、移民官の前で唯一知っている英語スタンダード曲を歌って審査をパスするという武勇伝シーンあり。ピアフの口利きで、デュオはカナダ/ケベックで仕事を得るが、これが北米ケベックというスモールワールドにおける”大成功”となって二人は鼻高々なのだった。そしてピエール・ロッシュはこの成功に甘んじ、この地で結婚して家庭を作りたいなどという”保守反動”に転じ、デュエット解消へ。だがピアフはそのケベックのような田舎で天狗になるような”志しの低さ”を鼻で笑い、本物の成功を掴んでみろ、とアズナヴールを挑発し、自分の小間使いとして扱き使う。
 エディット・ピアフを演じたマリー=ジュリー・ボープの存在感はたいへんなもので、貫禄の"グアイユ"(gouaille = パリ下町人特有の不平&茶化し口調)、迫力の姉御/芸能女王のアティチュードは、バイオピック”La Môme"(2007年オリヴィエ・ダアン監督、邦題『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』)のマリオン・コティヤールよりもリアリティーの点で優っていると思う。そのピアフはアズナヴールの声がくぐもっている("voix voilée" 不明瞭でよく通らない声)ということが歌手として致命的だと断言する。だから、ピアフはアズナヴールを歌手としてではなく、シャンソン作家として一流にしようとするのだった。小男(1メートル62センチ)、不恰好な鼻、ブサメン、おまけに曇った声、これらのハンディキャップはスター歌手になることを限りなく遠ざけるものであったが、アズナヴールは"不屈の男"であった(というのが映画の全体的トーン)。そして一人前になるには、ピアフの庇護の傘から抜け出さなければならなかった。
 1960年、アズナヴールは36歳になっていた。自作自演ソロ歌手としてなんぼ頑張っても芽が出ない。これが当たらなければ歌手を廃業する、という覚悟でステージに上った1960年12月12日パリ・アランブラ劇場、その歌が"Je m'voyais déjà"(日本題「希望に満ちて」)であった。日本語では「起死回生の一発」と言うのだろうか。独自のジェスチャー演出で歌をドラマチックに仕立て上げるアズナヴールのステージ芸を再現するタハール・ラヒム、このシーンは本当に上手い。一か八かのパフォーマンスの後で大喝采がやってくるという結果がわかっているわれわれ映画観客にしても、このシーンはジ〜ンと来るものがある。これはタハール・ラヒムの力量のなせる技と思うのだが、テレラマ誌は「イミテーション」と酷評する(わからないでもない)。
 このアランブラの一夜のあとは、ヒットに次ぐヒット、押しも押されぬ大スター歌手となり、カーネギーホールを満杯にする国際スターとして(フランク・シナトラに「次はあんたと同じギャラを取って見せるよ」と言うシーンあり)、桁外れの名声と富を得るのだが、このアズナヴールはどこまで行っても上昇志向で、次から次に目標を上方修正していくのであった。この破竹の勢いを一時的にストップさせる不幸な事件はこの映画ではひとつしかない。それはひとりだけ家族にも父アズナヴールの派手な暮らしぶりにも馴染めなかった息子パトリック(1951- 1976)の突然の死であった。映画の中では死因(麻薬オーバードーズ)については触れていなかったと思う。この時だけアズナヴールは立ち止まっておおいに苦悶することになり、映画はここで暗く沈むアズナヴールを映し出すのである。圧倒的サクセスストーリーの唯一の暗部であるかのように。
 
 映画はその他”アズナヴール伝”中のいいとこ取りの数々のエピソードが挿入される。「ラ・ボエーム」やシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーをテーマにした「人が言うように Comme ils disent」がいかにして生まれたか、とか、生涯の女性ユラ・トルセルとの出会いのシーン(←写真)(ここで1974年英国チャートNO.1になった"She"がバックに流れる)とか...。名声、富、最愛の女性、すべて吾れにあり、そういう映画にしてしまったのですよ。グレイテスト・アーチストのグレイテスト・ストーリーに。2時間13分ありがたく拝見しましたが...。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『ムッシュー・アズナヴール』予告編

2024年10月22日火曜日

味なことやるアズナヴール

Je m'voyais déjà
俺には自分が見えていた

2018年10月1日、シャルル・アズナヴールは南仏ブーシュ・デュ・ローヌ県ムーリエス(Mouliès) 村の自分のオリーヴ畑のある別邸の浴室で亡くなった。94歳だった。そのつい12日前、9月19日NHK大阪ホールでのコンサートが、80年の歌手生涯最後のステージとなった。あれから6年たった今2024年はアズナヴール生誕100年にあたり、さまざまなイヴェントが催されていて、100年記念の完全録音集100CDボックスも発売された。その100歳イヴェントのハイライトとも言えるこの10月23日に公開される公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』(メーディ・イディール&グラン・コール・マラード監督、タハール・ラヒム主演)に合わせて、当ブログも3つの記事でアズナヴール回顧をやっている次第。
 その第2弾として、私が音楽雑誌エリスの第26号(2019年3月)に書いたアズナヴール追悼記事(約8500字)を同誌の許諾をいただいて加筆再録します。音楽誌に書いても歌詞のことばかり書く”歌詞読みライター”だった向風三郎のクセで、歌詞中心の記事だが、フィーチュアリングでジョーン・バエズ、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコ、フランソワ・トリュフォー、ボブ・ディランなども登場する。われながら面白い(あの頃はこんなことが書けたんだね)。お読みください。

★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

この記事は音楽雑誌エリスの第26号(2019年3月7日発行)に掲載されたシャルル・アズナヴール追悼記事を同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

俺には自分が見えていた
Je m'voyais déjà
 
ー シャルル・アズナヴール頌 ー

2018年夏、引退ツアーのためにヨーロッパに来ていたジョーン・バエズは、仏テレラマ誌のインタヴューで「本当に引退なのか?」という質問に(軽いユーモアで)「私はアズナヴールのようにステージで死にたくないわ」と答えた。この時点でアズナヴールはまだ存命で、それこそ「引退ツアー」の途中にあり、それが917日東京と同19日大阪で本当に終わりになるとは誰も予想だにしなかった。2024年の「100歳コンサート」の企画もあったし、アズナヴールならば普通に可能でしょ、と思われていた。「アズナヴールと引退」はもはやギャグの領域のことだった。この人はかれこれ30年間も「引退公演」「さよなら公演」を続けてきたのだから。
 これで見納めか、と大歌手の最後の晴れ舞台を何回も拝まされた人たちも少なくはない。時が経つにつれてこの「引退商法」は批判と揶揄の対象にもなり、実際に轟々の批難を浴びるコンサートもあった。2007年(当時83歳)10月と11月のパレ・デ・コングレでの20回公演は、さよなら“を期待した人々にはがっかりの、出たばかりの54枚目のアルバムCOLORE MA VIEからのレパートリー中心(新曲ゆえ歌うのにカンペを要した)で、パリ・マッチ誌評は「観客はアズナヴールの靴しか見なかった」と皮肉るほどだった。さらに2011年(当時87歳)9月からのオランピアでの22回公演は、チケットが200ユーロ(約2万5千円)という超高値で、その理由をパリジアン紙インタヴューで「30年ぶりのオランピアの舞台にピアノ一台で登場するわけにはいかないじゃないか、大勢のミュージシャンたちとステージを演るんだ、彼らも報酬を得なければならない」と強気で正当化した。その結果この一連の公演は席が半分も埋まらなかった。

 シャルル・アズナヴール(1924-2018)は満場一致で支持されるシャンソン歌手ではなかった。「フレンチ・シナトラ」として国内同業者とはひとクラスのふたクラスも上の国際的大スターを自認するようになってからは、その高慢な言動を好まぬ人たちは多かった。とりわけ金銭関係に関しては良く思われていない。国際的な歌手と映画俳優となっただけでなく、音楽出版社などの事業でも成功して巨万の富を得たアズナヴールはフランスでの税金を逃れるために、1972年にスイスに移住している。フランス税務局はこれを脱税とみなして追求し、1977年の第一審では禁錮1年(執行猶予つき)+罰金3百万フラン(約2億円)の有罪判決が出た。この裁判に出廷したアズナヴールは「フランスはその金庫に何億という金を私がもたらしていることに感謝すべきではないか?あなたがたは私が78カ国で公演できる世界でただ一人の歌手であることを知らないのか?」と怒りをこめて述べた。判決に承服できない彼は新聞に「祖国に奉仕した廉で、数百万フランと1年の刑」と題した当時の大統領ジスカール=デスタン宛の抗議文を寄稿した。長い裁判抗争の末、無罪を勝ち取ったものの、フランス当局との溝は決定的になり、以後アズナヴールは「フランス非居住者」として年間6ヶ月と1日(つまり半年以上)をスイスで暮らし、プロヴァンス地方(ブーシュ・デュ・ローヌ県ムーリエス村)の館を除いてフランスで持っていた不動産すべてを子供たちに手放した。
 貧しいアルメニア系移民(母親は大虐殺“の生存者である)の子としてパリで生まれ、学校も行かず子供の頃から芸人として舞台に立っていたシャルルは、80年の芸歴の末にどれほどの財を成したのかは知れない。数字で言われているのは、生涯で作詞作曲した曲数800、レコード録音した曲数1200、レコード売上枚数1億8千万枚(世界合計)。アズナヴールの10ヶ月前に他界したフランスのスーパースター、ジョニー・アリデイ(1943-2017)の総売上枚数が1億1千万枚だったと言うから、ジョニーにはなかったアズナヴールの世界的名声がどれほどのものであったかが知れよう。この背の小さい男(1メートル60センチ)は、アイ・アム・ザ・ビッゲストという自負が強かった。しかし自分がトップスターになってからも、フランスの評論家/ジャーナリスト/メディアはシャンソンのビッグスリー「ジャック・ブレル=ジョルジュ・ブラッサンス=レオ・フェレ」の列にアズナヴールを加えることはなかった。これはアズナヴールを大いに傷つけたし、メディアとの関係は長い間こじれたままになっていた。
 アズナヴールはよくChanteur mal aimé(シャントゥール・マレメ)と言われた。これは「嫌われた」歌手という意味ではなく、直訳的には「悪く愛された」つまり「愛されにくい」と解釈されよう。評論家たちからの容赦ない悪評はアズナヴールの名が少し知れるようになった1950年代初めの頃が最もひどかった。スター性のない顔つき、小さな体躯、奇妙な身振り手振り、とりわけその声量の無さと鼻にかかったかすれ声の聞きづらさが攻撃の対象となり「すぐに歌手をやめるべき」と言われた。「悪性の喉頭炎を治療しろ」とも。日本で青江三奈や森進一が出てきた時にここまでは言われなかったのではないだろうか。この特徴ある声を、のちの英米メディアは「アズナヴォイス(Aznavoice)」と名付けて特化した。アズナヴールはメディアの侮蔑攻撃に傷つきながらも、こう自分に言い聞かせて凌いだ「C’est le public qui a raison(正しいのは聴衆だ)」。自分が成功するか否かを決めるのは評論家たちではない、聴衆である。聴衆こそが正しい。
 この小柄な「悪声」歌手の成功伝説はまさにこの聴衆の心を掴めるという自信によって支えられている。シャンソンがまだアートでなかった頃、「シャンソニエ」とは大道や市場の広場の演芸台に乗り、自作の歌と小咄に踊りや曲芸をして聴衆からお金を得る芸人のことであった。何でもできないとつとまらないショーマンであった。元バリトン歌手のアルメニア移民の子としてパリに生まれたシャルルは、父のレストラン業が何度も倒産するなか、幼い姉のアイーダと共に家計を支えるために演劇、歌、ものまね、映画の端役などで日銭を稼いでいた。観客・聴衆とのコンタクトの良し悪しでその日の出来高が違うというリアリズムを早くから叩き込まれたということだ。それは大道から出てきた稀代の大衆シャンソン歌手エディット・ピアフ(1915-1963)とも通底するものだったのだろう。当時既に大歌手の名を欲しいままにしていたピアフは一目でアズナヴールを「天才バカ(genie con)」と呼んで惚れ込み、1946年からピアフ邸住み込みの付き人にしてしまう。
 恋多き女として知られたピアフだったが、この小柄な男とは恋仲にはならなかった。しかしピアフがアズナヴールに課した仕事は、秘書、運転手、舞台係、悩み事の聞き手ほか雑務一切に及んだ。その上にアズナヴールはピアフのために作詞もしなければならなかった。思いつきで「こういう詞を明日までに」と命じられることは多かったが、採用されることは少なかった。6年間ピアフの下で奉公していたが、この経験をアズナヴールは肯定的に(たくさんのことを教わったと)語ろうとするものの、実際はパワハラの連続だったようだ。
 そのピアフからボツにされた歌詞のひとつに「日曜日は嫌い(Je hais les dimanches」がある。フロランス・ヴェランが曲をつけたこの歌は、ピアフの拒否の後にジュリエット・グレコ(1927 - )の手に渡ってレコード録音され、実存主義の歌姫と呼ばれ左岸で人気を博していた彼女の雰囲気に溶け込みヒットした。最大の皮肉は、1951年のSACEM(フランスレコード著作権協会)主催のシャンソン・コンクール「エディット・ピアフ賞」に優勝してしまうのである。

 月曜から土曜までの毎日は
   何もなく虚ろな響き
   それよりもひどいのは
   バラ色で心豊かであろうとする
   思わせぶりな日曜日
   幸せな一日であることを強いられる日
   私は日曜日が嫌い
    (「私は日曜日が嫌い」)
 週末不休で働く男と暮らしているゆえの、他の人々の日曜日の幸福そうな行状を呪う歌。下層階級の日常の断面がよくある妬みのドラマとして浮かび上がる。この具象的な日常風景活写がアズナヴール・シャンソンのひとつの特徴であり魅力であるが、この歌をグレコの歌唱で知ったピアフは、アズナヴールは最良の歌を私にくれなかった、と逆恨みし、「ピアフ賞」は渡さぬと言わんばかりに、この歌をピアフ自身も吹き込む(対照的なふたつのヴァージョンである)。しかしこれがきっかけでピアフとアズナヴールの関係は悪化し、1952年「天才バカ(Génie con)」はピアフ邸から放逐され、おかげで歌手アズナヴールは独り立ちすることになる。 

 ブレル、ブラッサンス、フェレの三大シャンソン巨星から曲を提供されていたジュリエット・グレコは、後年にアズナヴールの詞をこう分析している:

「シャルルの言語は少しマッチョね。それは男の言語、妻を娶り、子供をたくさん産ませる男たちの言葉よ。フェレやブレルやブラッサンスのような狂気を孕んだ言語ではない。たぶんシャルルは彼らよりノーマルな側面があったということね。」(テレラマ誌20181010日号)
 日常性とノーマル性に近いということがアズナヴールが大衆の心を掴む鍵であったが、それは(1950年代的に)普通っぽい男の女泣かせも含み、往々にして性を暗喩するフレーズが彼の歌を次々に放送禁止に処される原因となった。放送禁止は良いプロモーションともなったのであるが。

 ピアフの庇護圏から離れ、評論家たちの酷評に耐えながら、レコードとステージでじわじわとその実力を蓄えていったアズナヴールの最初の大ヒット曲は1960年の「俺には自分が見えていた(Je m’voyais déjà)」(日本では「希望に満ちて」と訳されている)であった。
俺にはもう見えていたんだ
出演者看板の最上段にある
他の名前の十倍の大きさの俺の名前が
俺にはもう見えていたんだ
賞賛され金持ちになった俺が
殺到するファンにサインしてやる俺が
(「俺には自分が見えていた」)

歌手を目指して18歳で田舎からパリに出てきた男が、確信していた自分の才能にもめげずまったく成功を得られず年老いていくストーリーの歌。この歌は当時の大スター歌手イヴ・モンタンのために書かれたものだが、モンタンは拒否した。売れない歌手のセルフヒストリーなど、シャンソンの題材として不吉きわまりない。 

 19601212日、パリのアランブラ劇場でこの歌は初めて披露された。舞台での演出は、まさにストリップティーズの逆回しで、ボタンをかけないシャツ姿で登場し、次第にシャツのボタンをかけ、カフスを締め、上着を羽織り、ネクタイを締めていく。歌手が楽屋で身繕いをし、颯爽と衣装を決めて舞台に出ていく、という姿を演じながら歌うのである。つまり50歳を過ぎた売れない歌手が、過去を回想しながら、それでも夢が捨てきれずに、30年前に誂えた高級テーラードスーツを着て今夜も舞台に立つ、という話なのだ。歌詞の中で、悪いのは俺ではなく、俺の才能を理解しようとしない観衆が悪いのだ、と毒吐く一節がある。そして歌の結びとして

俺はあまりにも純粋で
あまりにも先端すぎたんだ
だがいつか俺に才能があることを
見せつけられる日はきっと来るさ
(「俺には自分が見えていた」)
と歌い終わり、実際の観客に背を向け、ホリゾントから照明を浴びて歌の中の架空の観客に向かって(舞台に登場するように)両腕を広げて歩んでいく、というエンディング。袖に下がっていったアズナヴールは、ホリゾントからの照明を浴びたままの客席から拍手が全くないことに失望し、今度こそ歌手廃業の時だと覚悟したという。これが最後のあいさつと観念して舞台に再び現れた時、なんとアランブラ劇場は轟々の喝采に包まれたのである。アズナヴールが36歳にして初めて手にした栄光の瞬間だった。

 その同じ1960年、既に映画(性格)俳優として確かな評価を受けつつあったアズナヴールは、ヌーヴェルヴァーグの旗手のひとりフランソワ・トリュフォーが監督したフィルム・ノワールの傑作『ピアニストを撃て』に主演する。アルメニア系のクラシック・ピアニストとして名声を得ていたエドゥアールは、最愛の妻を自殺で失ったショックでクラシック界から退き、シャルリーと名を変えて場末のキャバレーのピアノ弾きに身をやつしている。新たな恋の芽生え。キャバレーのメイドのレナ(演マリー・デュボワ、素晴らしい)は、シャルリーの過去を知っていて、愛し合っているなら再び「エドゥアール」となってやり直そう、と。しかしピアニストの二人の兄はギャングであり、ギャング同士の抗争の中にシャルリーとレナの恋は巻き込まれてしまう。もともと映画俳優としては当時流行りの「歌う映画スター」を拒否して歌手同様の本腰を入れて挑んでいたアズナヴールだが、このヌーヴェル・ヴァーグのフィルム・ノワールでは従来の役とは全くディメンションの異なるアンチ・ヒーローを見事に演じて高い評価を受けた。興行成績も上々で、フランスとほぼ同時期に封切られたイギリスでもヒットし(後年エルトン・ジョンがこの映画にインスパイアされたアルバム『ピアニストを撃つな』を制作)、さらに1962年夏にアメリカで公開されるや大好評で、アメリカでシャルル・アズナヴールの名はまず国際的映画スターとして知られることになったのである(日本公開は1963年)。
 たしかにこの1960年代前半にアズナヴールはビッグヒットを連発し、生涯の代表作となっていく「ラ・マンマ(La Mamma)」、「想い出の瞳(Et pourtant」、「帰り来ぬ青春(Hier encore」、「ラ・ボエーム (La Bohème)」、「悲しみのヴェニス (Que c’est triste Venise)」などはこの時期に集中している。この時点で易々とフランスのみならず仏語圏世界のビッグスターになっていたはずなのだが、並外れた自尊心の持ち主となった彼は「世界制覇を目指す」と言うのである。「世界」とはあの時代、とりもなおさずアメリカ合衆国のことであった。ザ・ビートルズのアメリカ初上陸が19642月、坂本九「上を向いて歩こう(Sukiyaki)」は19636月。アメリカを制する者は世界を制する。この話をアズナヴールは複数のフランスのプロモーターにもちかけるのだが、ことごとく一笑に付される。その時点でアメリカでのアズナヴールの認知度は映画俳優としてであり、歌手としては誰も知らない。無謀である。しかしわれらが天狗アズナヴールは、周囲の反対を押し切って、自腹を切って、1963年3月30日の一夜、ニューヨークのカーネギー・ホールをリザーヴするのである。伝説はそれに、196212月から114日間続いていたニューヨーク市の新聞ストライキというプロモーション上の大ハンディキャップを加える。果たしてカーネギー・ホールの2800席は埋まるのか?
 その内の150席はこれまた自腹でボーイング707一機をチャーターしてフランスからの招待客(ジョニー・アリデイ、フランソワーズ・サガン、フランソワ・トリュフォー、ロジェ・ヴァディム)で埋めた。アメリカの音楽関係者たちも多く招待された(その中にボブ・ディランもいた)。しかしフランスの業界人たちの予想を覆して、チケットは売り切れ、2800席に加えて舞台脇に数列の席を足さなければならないほどの満員御礼であった。舞台の上でのアズナヴール自身の曲紹介はすべて英語、そして演奏された曲の3分の1は英語ヴァージョンで歌われた。2時間のショーは大成功に終わり、一方で『ピアニストを撃て』のピアニストのコンサートと思って来たアメリカ人聴衆は目の前にいた超エンターテイナーに快い不意打ちを喰らった。 
 1963
年はボブ・ディランが「風に吹かれて」を発表した年でもあるが、後年(1987年ローリングストーン誌インタヴュー)ディランはこのカーネギー・ホールのアズナヴールに強い衝撃を受けたと語り、その上1966年のアズナヴール曲「ふたりの時(Les Bons Moments」をThe Times we’ve knownというタイトルでカヴァーしている(1998年マジソン・スクウェア・ガーデンでのライヴ動画がYouTube上にあり)。 

その後のアズナヴールの世界的サクセス・ストーリーは本稿で書くまでもないことと思う。初来日は1968年のことで、度々日本公演しているし、アズナヴール楽曲を日本語で歌う日本のシャンソン歌手たちも少なくない。比較的日本人には親しまれたアーチストだった。「私は日本のホテルが大好きだ。洗面台が私にぴったりのサイズなのだ」と言ったこともある。

 フランス国内では新譜シングルヒットなどの「現役性」は1970年代で影をひそめるのであるが、その70年代にアズナヴールの歌は社会派性も帯びてしまう。35歳女性教師と未成年15歳の男子生徒との恋愛が、犯罪として告発され、裁判訴訟中に女性が自殺した実話事件をモチーフにした「愛のために死す(Mourir d’aimer)(1971)
世界は私を裁こうとしているが
私にはひとつの逃げ場所しかない
すべての出口は塞がれたのだから
愛のために死ぬだけ
(「愛のために死す」)
アニー・ジラルド主演/アンドレ・カヤット監督で映画化もされ、685月革命の解放機運にも倒されなかったこの旧時代のモラルを問い直した事件。恋愛の自由に立ちはだかる世間をドラマティックに糾弾するアズナヴールに人々は喝采した。

 そしてシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーを主題にした歌とされる「人が言うように (Comme ils disent)」は1972年に発表された。その時代フランスではまだ同性愛は精神疾患であり、刑法上では軽犯罪であった(この刑法条項が削除されるのは1981年のこと)。つまり社会の表面に出ることが憚られる風潮が支配的だった頃である。
僕は横になるけれど眠りはしない
僕は喜びもなく笑い話のような
過去の恋の数々を想う
そしてあの神のように美しかった青年
造作もなく僕の記憶に火をつけた
あの青年のことを
僕のこの甘美な秘密を
僕のこの優美なドラマを
決して彼に打ち明けることはない
僕のすべての悩みの元である彼は
ほとんどの時間を女のベッドで
過ごしているのだから
僕を非難したり裁いたりする権利は
本当のところ、誰にもないはずなんだ
はっきり言おう
これは自然界の掟だけに
責任があることなんだ
人が言うように
僕がホモであるということは
(「人が言うように」)


Cest bien la nature qui est seule responsible(自然こそが唯一責任を負っている)― この結論がどれほど多くの人たちを勇気づけたことだろうか。これは画期的な前進の歌であった。ゲイに扮したジェスチャーでこの歌を舞台(とテレビ)で歌ったアズナヴールの勇気、この大胆さはカーネギー・ホールを満杯にすると息巻いた超強烈なエゴとは別のものだろう。自尊心のかたまりであり、高慢であり、金の亡者でもあるアズナヴールを、私たちが百歩も二百歩も譲って最大級の偉大なアーチストと認めざるをえないのは、こういう歌を歌ったということを知っているからなのである。 

 1998
年、米CNNと英タイムスの共同主催の視聴者・読者投票による「世紀のエンターテイナー」選で、得票率18%でエルヴィス・プレスリーとボブ・ディランを抑えて1位になっている。また1988年のアルメニア大地震の時の大規模チャリティー支援の中心だったことなどから、父母の故国アルメニアでは生前から国民的英雄であり、名誉大使にも任命され、首都エレバンにはアズナヴール文化センターもある。政治的なポジションは保守寄りで、70年代からフランス大統領選には一貫して保守候補を支援してきた。 

 2018
10月1日、プロヴァンス地方の自邸の浴槽で94歳で亡くなったシャルル・アズナヴールは、105日、パリ7区アンヴァリッド内庭で国民葬セレモニーによるオマージュを受けた。


 こうやって引退コンサートを永遠に続けていられるのだから、いつかは生の歌を聴く機会もあるだろうと思っていたから、私は一度もアズナヴールのライヴを経験していない。60枚組のアズナヴール全録音集も持っていない。全然熱心なファンではない私が、おこがましくも最も愛するアズナヴールの歌を挙げるとすると。多くの人たちが選ぶように「帰り来ぬ青春」や「ラ・ボエーム」に典型的な、二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったものがこの人ならではの真骨頂/十八番/名人芸だと思うのである。この二十歳を人生の最も美しい頂点としてそれが過ぎ去ったことを無性に悔やむ一連のアズナヴールの歌の最初の原石とされるのが「青春という宝(Sa jeunesse)」と題された歌である

私たちの二十歳の時の刻々は
容赦なく刻まれ
失われた時は
私たちに面と向かうことなく
過ぎ去っていく

ときおり虚しく手を差し伸べて
後悔したりもするが
既に遅すぎる
その道のさなかでは
なにものもそれを止めることはできない
自分の若さを
いつまでも保つことなどできはしない

微笑む前に私たちは子供時代と別れ
知る前に青春時代は遠ざかってしまう
唖然とするほどあまりに短いものだが
理解する前に人は人生から去ってしまう
(「青春という宝」)

アズナヴールがこの歌を発表したのは1957年のことで、この小さな歌手は32歳になっていた。なるほど、と納得できる年齢である。ところが後年にわかるのは、アズナヴールはこの歌を説得力を持って歌える相応の年齢まで、この歌の発表を控えていた、ということ。そしてアズナヴールがこの歌を書いたのは、1942年、つまり彼が十八歳の時だったということ。十八歳にして「二十歳」を回想して悔やむ! 後年に自身が歌うように「Je mvoyais déjà = 俺には自分が見えていた」のだ。たとえ実生活でどんなに鼻持ちならない高慢な人物であったとしても、この天才は疑いようがない、否定しようがないではないか!

 
          (エリス誌2019年春号・向風三郎)


(↓)
【 シャルル・アズナヴール 2018年9月19日大阪 】
アズナヴール人生最後のステージ@NHK大阪ホール、ショー後のバックステージ、日本のファンたちと交流シーン。ファンのひとりが”11月のセーヌ・ミュージカル(わが町ブーローニュ・ビヤンクール)のコンサートに行くから”と言うのだが、いつのことやらわからないという反応のアズナヴール。この9月19日から12日後の10月1日、ムッシュー・シャルルは天に召され...。今見るとなんともエモーショナルな動画である。再・合掌。

2024年10月19日土曜日

アズナヴール流しながら

Tu parles, Charles !
なんとおっしゃるるアズナヴール!

10月23日、シャルル・アズナヴールの公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』(メーディ・イディール&グラン・コール・マラード監督、タハール・ラヒム主演)が公開になるが、これは後日記事として当ブログで紹介できると思う。
そのほか今年2024年はアズナヴールの生誕100年に当たり、センチュリーボックスを銘打った100CD全録音集が出たり、100年記念のシンフォニック・コンサート(中島ノブユキさんの編曲/ピアノ)があったり、(←)こんな記念切手が発売されたり...。

 そんな時、たまたま乗った地下鉄10号線の車内(→)にもこんな横長のアズナヴール「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」の歌詞出だしを見つけたのだった。このアズナヴール初の世界規模ヒットはオリジナルが1964年の発表で、世界ヒットへの踏み台となるのがハーバート・クレッツマー(Herbert Kretzmer 1925 - 2020)によって英詞をつけられ"Yesterday When I was young"というタイトルとなって、まずカントリーバラード曲としてロイ・クラーク(1933 - 2018)が1969年に全米チャート6位にまで上る大ヒットとなった。以来この英詞"Yesterday When I was young"曲は英米有名アーチストたちによって再カヴァーされ、スタンダード化するのだったが、この英米カヴァーは例外なく4拍子バラードになっていて、原曲(アズナヴール詞/ジョルジュ・ガルヴァレンツ曲)”Hier Encore"の3拍子ワルツは踏襲されていない!おそらく日本で最も親しまれたのは英(007)歌手シャーリー・バッシー(1937 - )の1970年録音のヴァージョンであろうが、この熱唱に聴き慣れたであろう日本の歌手たちのカヴァー(尾崎紀世彦弘田三枝子和田アキ子...)はみな4拍子熱唱バラードになっている。これは1967年クロード・フランソワの"Comme d'habitude"(→1969年ポール・アンカ/シナトラ「マイ・ウェイ」)の現象と同じで、日本の歌手たちの手本はオリジナルではなく英米カヴァーなのである。それはそれ。
 フランスでアズナヴールが初めて大成功を博したのは1960年12月12日パリ・アランブラ劇場で歌った"Je m'voyais déjà(俺には自分が見えていた)"であり、この時すでにアズナヴールは36歳だった。この1960年から数年の間に、アズナヴールの定番代表曲(”Les Comédiens", "La Mamma", "Et pourtant", "For me Formidable", "Emmenez-moi", "Désormais"... )のほとんどが大ヒットしていて、シャンソンクリエーターとして最も才気溢れていた時期と言える。その中でとりわけこの「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」(1964年)と翌年1965年の「ラ・ボエーム(La bohème)」の2曲のメランコリック青春懐古シャンソンが群を抜いているように私には思える。二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったアズナヴール十八番には、もう1曲、1957年発表(つまり大歌手として認知される前の頃)の「青春という宝(Sa jeunesse)」というのがあり、これについては電子雑誌エリス2018年春の号に書いたアズナヴール追悼記事に詳しく触れてあり、この記事は当ブログに近日中に再録するので、そちらを読んでください。

 では「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」から歌詞対訳を見ながら聞いてみてください。

Hier encore, j'avais vingt ans
つい昨日まで私は二十歳だった
Je caressais le temps, et jouais de la vie
時を手玉に取り、人生をもてあそんでいた
Comme on joue de l'amour, et je vivais la nuit

恋のゲームをするように、私は夜を生きていた
Sans compter sur mes jours, qui fuyaient dans le temps
時の中に逃げ去っていく残された日々を数えることもなく
J'ai fait tant de projets, qui sont restés en l'air
たくさんの計画を立て、それは宙に浮いたまま
J'ai fondé tant d'espoirs, qui se sont envolés

たくさんの希望は生まれては飛び去っていき
Que je reste perdu, ne sachant où aller
私は自分を見失い、どこに行っていいのかもわからず
Les yeux cherchant le ciel, mais le cœur mis en terre

目は空を追っても、心は地を這っていた

Hier encore, j'avais vingt ans

つい昨日まで私は二十歳だった
Je gaspillais le temps, en croyant l'arrêter

私は時間を無駄に使い、時間を止められるんだと信じて
Et pour le retenir, même le devancer

時間をためておいたり、時間を追い越すこともできるんだと
Je n'ai fait que courir, et me suis essoufflé

私は走ってばかり、そして息を切らした
Ignorant le passé, conjuguant au futur

過去を無視して、未来にばかり話をくっつけ
Je précédais de moi toute conversation

私はあらゆる会話に出しゃばって自己主張した
Et donnais mon avis, que je voulais le bon

自分の意見を述べ、
Pour critiquer le monde, avec désinvolture

世界を批判した、厚かましくも

Hier encore, j'avais vingt ans

つい昨日まで私は二十歳だった
Mais j'ai perdu mon temps à faire des folies

私は愚かなことばかりして時間を失った
Qui ne me laissent au fond rien de vraiment précis

結局のところ私に確かなものなど何も残さなかった
Que quelques rides au front, et la peur de l'ennui

私に残っているのは額の皺と、厄介ごとへの恐れだけだ
Car mes amours sont mortes, avant que d'exister

私の数々の恋など芽生える前にすべて死に絶えた
Mes amis sont partis, et ne reviendront pas

友人たちは去っていき、もう戻っては来ない
Par ma faute j'ai fait le vide autour de moi

自分のせいで私は自分の周りを空っぽにしてしまった
Et j'ai gâché ma vie, et mes jeunes années
そして私は人生と若かった年月を台無しにした


Du meilleur et du pire, en jetant le meilleur

最良と最悪の選択に私は最良を捨て
J'ai figé mes sourires, et j'ai glacé mes pleurs
私は作り笑いをして、自分の涙を凍らせた
Où sont-ils à présent...
今どこにあるんだ?
À présent mes vingt ans ?

今、私の二十歳の日々は?


(↓)2023年に公開された新しい公式クリップ


 若い時は愚かなことばかりして、もう取り返しがつかない現在がある、という無情の歌であるが、まあこういうわかりやすい悔恨抒情はそれまでの大衆的シャンソンではあまり歌われなかったのですよ。
   「ラ・ボエーム」はオペレット劇『ムッシュー・カルナヴァル(Monsieur Carnaval)』(初演1965年12月、脚本フレデリック・ダール、作詞ジャック・プラント、音楽シャルル・アズナヴール)の劇中歌として作られ、舞台では主演のジョルジュ・ゲタリーが歌っている。しかしこのオペレットが上演される前にアズナヴールがシングル盤レコードとして発表してヒットさせてしまったものだから、同じくレコード化する予定でいたゲタリーとアズナヴール、そして双方のレコード会社の間で大揉めに揉めたというエピソードあり。まあ、一聴してヒット間違いなしと誰もが思ったであろうし。「帰り来ぬ青春」(アズナヴール詞)よりも、イメージが鮮明なジャック・プラント(+劇脚本のフレデリック・ダール)の書いたモンマルトルの丘の絵描きたちの青春像、二日に一度しか食事できない、貧しいけれど愛と芸術と夢があった20歳の頃、これは泣かせますわね。

Je vous parle d'un temps
20
歳未満の子たちには
Que les moins de vingt ans

知るよしもない昔のことを
Ne peuvent pas connaître

話して聞かせよう
Montmartre en ce temps-là

その頃のモンマルトルは
Accrochait ses lilas

僕らの窓のすぐ下まで
Jusque sous nos fenêtres

リラの木々が伸びてきた
Et si l'humble garni
僕らが巣にして住んでいた
Qui nous servait de nid
つましい家具付き下宿は
Ne payait pas de mine

見てくれは悪かったが
C’est là qu'on s'est connu

そこで二人は知り合ったんだ
Moi qui criais famine

僕はいつも腹ペコだとぼやき
Et toi qui posais nue

きみはヌードモデルをしていた

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
On est heureux

僕らは幸せだったということ
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Nous ne mangions qu'un jour sur deux.

二日に一日は食事抜きだった

Dans les cafés voisins

近くのカフェに行けば
Nous étions quelques-uns

僕らは栄光の日を待ちわびる
Qui attendions la gloire

無名の輩だった
Et bien que miséreux

みすぼらしく
Avec le ventre creux

腹を空かしていても
Nous ne cessions d'y croire

僕らは未来を信じることをやめなかった
Et quand quelques bistrots

そして某ビストロが
Contre un bon repas chaud

暖かい食事を代金に
Nous prenaient une toile

一枚の絵を買ってくれた時には
Nous récitions des vers
僕らはみんな竈の周りに集まり
Groupés autour du poële

詩を朗読したものだ
En oubliant l'hiver

冬の寒さを忘れて

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
Tu es jolie

きみはきれいだ、ということ
La bohème, la bohème
ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous avions tous du génie.

そして僕らはみんな天才だった

Souvent il m'arrivait

画架を前にして
Devant mon chevalet

徹夜してしまうことも
De passer des nuits blanches

しょっちゅうあった
Retouchant le dessin

デッサンを手直し
De la ligne d'un sein

乳房のラインを
Du galbe d'une hanche
腰のふくらみを
Et ce n'est qu'au matin

そして朝になり
Qu'on s'asseyait enfin

一つカップのカフェ・クレームを前に
Devant un café crème

二人はやっと座り込んだ
Épuisés mais ravis

疲れ切っていたけど満足だった
Fallait-il que l'on s'aime

愛し合わなきゃだめだ
Et qu'on aime la vie
人生を愛さなければ

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
On a vingt ans

僕らは二十歳だということ
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous vivions de l'air du temps.

そして僕らは時代の先端を生きていた

Quand au hasard des jours

日々の気まぐれで
Je m'en vais faire un tour
僕の昔の住所を
A mon ancienne adresse

訪ねることもある
Je ne reconnais plus

かつて僕の若い日々を見ていたはずの
Ni les murs ni les rues

壁も通りも
Qui ont vu ma jeunesse
僕は全く覚えていない
En haut d'un escalier

階段を登っていき
Je cherche l'atelier

かつてのアトリエを探してみるが
Dont plus rien ne subsiste

まったく何も残っていない
Dans son nouveau décor

その新しい背景の中で
Montmartre semble triste

モンマルトルは悲しく見える
Et les lilas sont morts

リラの木々はみんな死んでしまった

La bohème, la bohème
ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
On était jeunes

僕たちは若かった
On était fous

僕たちは気狂いじみていた
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム

Ça ne veut plus rien dire du tout.

その言葉はもはや何の意味もない

 (↓)「ラ・ボエーム」(1965年、ライヴ動画)



 誰にでも自らの「ラ・ボエーム」体験がある。みんな若い頃(20歳の頃)はラ・ボエームだった。そう言われてみれば、それらしい体験がなかったわけではない、と振り返る中年/老年の遠い目がある。2024年公開のアズナヴール公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』の共同監督のひとり、グラン・コール・マラードが「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」というスラム曲を作った。これがなかなかいいので、いかに紹介して、この記事を閉じよう。

[Intro - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire
(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間にあるシンボル
À chacun sa bohème
誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Couplet 1 - Grand Corps Malade]
Je vous parle d'un temps que les moins de vingts ans ne peuvent pas connaitre

20歳未満の子たちが知らない昔のことを話して聞かせよう
Saint-Denis en ce temps là était mon seul décor et mon terrain de fête
その頃俺はサン・ドニは俺の唯一知ってるお楽しみの場所だった
Une terrasse de café, deux trois potos qui passent et le plan s'éternise
カフェのテラス、二、三人のガキが通り過ぎていく、話は尽きない
Et le clocher d'la mairie qui à dix-huit heures chante le temps des cerises

すると18時に市役所のチャイムが「サクランボの頃」のメロディーで鳴る
Je vous parle d'un temps que j'ai connu un temps comme une belle escale

素敵な寄り道だったような懐かしい昔のことを話して聞かせよう
On avait mille projets qu'on fantasmait devant une omelette frite à quatre balles

ポテトつきオムレツを囲んで俺たちは夢中で幾千もの計画を出し合った
On avait des idées et on refaisait le monde au pied des bâtiments
俺たちはアイデアに溢れ、建物の下に集まって世界を再創造したもんだ
Le monde a du nous voir il nous a offert l'espoir

世界は俺たちのことを見ていたに違いない、俺たちに希望を与えてくれた
C'est un bon commencement

それはいい出発点だった

[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire

(その言葉の意味は)
On est heureux

俺たちは幸せだったってことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire

(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème

誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Couplet 2 - Grand Corps Malade]
Souvent il m'arrivait devant mon cahier de passer des nuits blanches

ノートを前にして何晩も徹夜したこともしょっちゅうあった
Noircissant toutes ces pages avec excitation presque comme une revanche

まるで復讐劇のように興奮してノートの全ページを黒く埋めていった
Scander des poésies quelle jolie fantaisie face à des presque frères
まるで兄弟のような連中を前に詩を朗々と読み上げるなんて夢のようだ
Sans enjeux précis se sentir bien en vie et gagner quelques bières
それが何の足しにならなくても俺は気分良く、ビール代ぐらいは稼いだ
L'inspiration était partout je pouvais souvent la voir déborder
俺たちの無邪気さ、無頓着さ、奔放な生き方の中に
De notre innocence, de notre nonchalance, de notre vie débridée
インスピレーションはいくらでも溢れているように俺には見えた

On a laissé une trace en hurlant nos histoires à la gueule du monde
みんなの目の前で俺たちの話を喚き散らし、俺たちはその跡を残した
Je vous parle d'un temps dont je ne changerai pas une seule seconde
俺はその時代のことを言ってるが、俺は全く変わっていないんだ

[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire
(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦労と詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème
誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Outro - Grand Corps Malade]
Quand au hasard des jours je m'en vais faire un tour à mon ancienne adresse

日によってたまたま俺の昔の住所を訪ねることもある
Je reconnais les rues mais l'esprit n'y est plus
その通りに見覚えはあるんだが、エスプリはもうそこにはない
Moins d'envies, moins de promesses

願望も約束も減ってしまっている
Reste alors le souvenir qui me donne le sourire

思い出だけが残っていて、俺は微笑むしかない
Et ce pincement extrême, la nostalgie comme emblème
この激しい心の痛さ、ノスタルジーは
Entre galères et poèmes

生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるしなんだ
À chacun sa bohème

誰にでも自分のラ・ボエームがある

(↓)グラン・コール・マラード 「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」

2024年10月5日土曜日

エイズ禍の時代のことを憶えていますか?


”120 Battements Par Minute"
 『120 BPM』

2017年フランス映画
監督:ロバン・カンピーヨ
主演:ナウエル・ペレス・ビスカヤルト、アルノー・ヴァロワ、アデル・エネル、アントワーヌ・レナール
フランス公開:2017年8月23日
日本公開:2018年3月24日

2017年カンヌ映画祭グランプリ


週(2024年9月29日)、ガエル・モレル監督映画『生き死に再び生まれる(Vivre Mourir Renaître)』のこのブログでの紹介記事を書いたあと、同じ1990年代のエイズ禍を背景にした2017年カンヌ映画祭グランプリの映画『120BPM』をVODで観直した。その強烈さは今も少しも変わらない。私は2017年8月末にこの映画を劇場で観て、興奮してラティーナ誌の連載ページに投稿したのだった(↓に再録)。
 その頃のことを思い出す。VODを観ながら、私は映画のことよりも2017年晩夏の自分のことばかり思い出していた。件のラティーナ記事にしても、映画のことにかこつけて自分のことばかり書いていたようだ。多くの人たちに公表していたわけではないが、私は2016年暮れに肝細胞がん再発+肺転移が発覚し、2017年1月からかなり重いがん治療が始まり、自営の会社を6月で閉めて、早期退職年金生活者&専業病人に成り立ての頃だった。その上その1月からの重い治療(ケモセラピー/化学療法)が効果が見られず、病気はじわじわと増殖していった。そんな時だったから、友人諸姉諸兄にはかなり泣き言を言いまくっていたし、「死ぬ前にしたいこと」を数え上げたり、奥さまと娘にはあらゆることで支えてもらっていた。あれから7年経った今、私は現代医学に支えられて、しっかり病気と共に生きられる人間に変身している。笑ってしまう。だが、同志たち、7年前はすべてが”冗談じゃない”と昂っていたのだよ、笑っておくれ。それを証言しているような記事(↓)だったのですよ。

★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2017年10月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

エイズ禍の時代のことを覚えていますか?

「今どき◯◯で死ぬ人はいませんよ」 ー それを言う人に悪意はないということは知っている。闘病する私を励ますためにそう言っているのだ。医学の進歩の速度は凄まじく、もはやあらゆる病気から人命を救ってくれそうだ。この大雑把な安心感は健常者の人たちに病気を軽視させ、病気への関心を無化させていく。しかしある日スティーヴ・ジョブスやデヴィッド・ボウイといった巨万の富の持ち主で、その地球的財産のような才能を守るために現代医学の最々先端の治療法が用いられたであろう超重要人物がガンで死ぬのである。今どき死ぬはずのないガンで。


 2017
8月、セーヌ川を挟んだ我が家の対岸で毎夏開かれる音楽イヴェント、ロック・アン・セーヌ(Rock En Seine)フェスティヴァルで見た、ブルターニュ地方レンヌ出身の英語で歌う5人組エレクトロ・ソウル・バンド、ハーHer)。レンヌの高校で出会ったアメリカ育ちのシモン・カルパンティエとドイツ育ちのヴィクトール・ソルフはコンビで曲を書き始め、地元レンヌのトランス・ミュージカル・フェスやレ・ザンロキュプティーブル誌の新人コンクールなどで頭角を出し、2015年シモンとヴィクトールの双頭リーダーのバンド、ハーとしてデビュー、2016年メジャーのバークレイから2枚のEPを出して、初フルアルバムを準備していた。20177月、バンドのフェイスブック上でシモンが自分の病気を公表。

 「僕はもう数年前からガンと闘っている。僕の家族、友達、音楽、とりわけコンサートが僕に辛い治療に耐える力を与えてくれた。(中略)不幸にしてガンは多くの人たちを蝕んでいるし、あなたたちの中にもガン禍に直接関係している人たちがいるだろう。これは難しい体験だが、僕はこの体験を実りあるものにしなければならないと思っている。決して放棄してはならないし、恐怖に打ちのめされてはならない。生きなければならない。困難な時を乗り越えるために、今できることに心を集中させよう。自分にとってかけがえのない人たちに囲まれていよう。」
 8
13日、シモンは27歳で亡くなり、かの「27歳クラブ」の仲間入りを果たした。826日、ロック・アン・セーヌのステージにシモン抜きのハーは登場し、その前には数千人のファンが埋め尽くし、シモンへの哀悼で人波は揺れた。ヴィクトールはバンドを続ける決意を述べ、天に向かって歌う。音楽はシモンから病魔を一時的に遠ざけたかもしれないが、病魔はアーチストを殺した。音楽は死なない、と言い続けよう。それもいい。だが、同志たち、忘れないでほしい、今どき死ぬはずのない病気などない。緊急な時を生きている人々はたくさんいるのだ。


 
 20175月のカンヌ映画祭で審査員グランプリを獲得したフランス映画『120 BPM(原題 120 battements par minute)』(←写真 ロバン・カンピーヨ監督)が、8月23日にフランスで封切られた。これは米国の市民団 体アクトアップ・ニューヨークに倣って1989年に結団された行動的エイズ救済運動組織アクトアップ・パリの行状と、その中でエイズ禍と共に生きる若者たちを描いたフィクション映画であるが、監督のロバン・カンピーヨと共同脚本家のフィリップ・マンジョは共に当時のアクトアップ運動の当事者であり、映画は多く史実とシンクロする。

 エイズ禍の時代を憶えていますか? それは1980年代に突然やってきた。世界保健機構(WHO)が同性愛を「精神病」の項目から削除したのは1981年のことだった。同じ年フランスでは新大統領フランソワ・ミッテランがそれまで同性愛を「軽犯罪」と規定していた刑法条項をようやく撤廃した。それから同性愛者たちは日陰を抜け出し、ゲイ・カルチャーは一挙に花開き、多分野で露出していった。その虹色文化の急激な隆盛の頂点の頃にエイズは現れたのだ。
後天性免疫不全症候群、この日本語病名をソラで言える人は少ないと思う。クラウス・ノミは早くも1983年にエイズで斃れた。それから私たちは幾多のアーチスト/文化人たちの死を数えていくことになる。ロック・ハドソン、ミッシェル・フーコー、フレディー・マーキュリー、スコット・ロス、キース・ヘリング、ジャック・ドミー、マイルス・デイヴィス、アーサー・アッシュ、フェラ・クティ、エクトール・ラボー、オフラ・ハザ。そして数知れぬ無名の死者たちも。
 しかし多くの罹患者や死者を出しながら、有効な治療法は開発されず、感染予防に最も効果が認められたコンドーム使用の情報も広く伝播されない。この渦中に緊急に組織された複数のエイズ救済市民団体は、治療開発資金の募金とコンドームによる感染予防のキャンペーンに奔走していた。その中でこのアクトアップは異彩を放ち、政府厚生省、医学学会、製薬会社などに対して直截的な抗議行動をかけたり、街頭でのショッキングなデモンストレーションを行うことで知られ、言わば「過激派」的な見方もされていた。この苛烈な行動派の内側をこの映画は見せてくれるのである。
 「沈黙
Silence = Death)」はアクトアップの最も有名なスローガンの一つであり、彼らの最大の敵の一つが市民の無関心だった。これはホモの病気で一般人には関係がないといった俗説、性行為に関係するというだけで口をつぐみ生徒たちに正しい情報を伝えようとしない学校、旧時代の道徳観の親たち、コンドーム使用の禁止を説くカトリック教会、恥の病気として隠蔽しようとする社会、これらがエイズの爆発的感染を助長し、医療対策を遅らせる。これらのタブーを全部ぶち壊さないとエイズ禍の出口はないとアクトアップは考え、苛烈な街頭行動と衝撃的なポスターや広告フィルムで主張を展開する。


 映画は90年代はじめの頃、アクトアップ・パリの運動員約150人が週に一度集まる定例会合に、新しく参加した4人の若者の紹介から始まる。ホモセクシュアルを中心に結成された団体だが、運動員の中には女性もヘテロもいる。多くのHIV保菌者、エイズ発症者、そしてエイズ罹患者の家族たちがいる。新参加4人のひとりナタン(演アルノー・ヴァロワ)は珍しく非HIV保菌者(すなわち健常者)である。このナタンと、HIV陽性者で団体の中で最も激しい行動派で陽気な南米人ショーン(演ナウエル・ペレス・ビスカヤルト)、そして団体の代表者で穏健派で話術に長けた団体のまとめ役であるチボー(HIV陽性者、アクトアップ・パリの初代リーダーのディディエ・レストラードがモデル。演アントワーヌ・レナール)、この3人が映画の中心人物となっている。運動の中でナタンはショーンに惹かれていき、二人は恋に落ちる。非保菌者と保菌者の恋。リスクゼロのない病禍の中で二人は愛し合い、性的快楽は生きるための緊急な必要のように映画は描く。しかし、ショーンは次第にエイズの症状が顕在化していき、それと共にアクトアップの現行の運動では生温いと執行部に対して批判的になっていき、ついにはリーダーのチボーと決別してしまう。
 映画で重要な見ものは週に一度のアクトアップ会合で、150人余りの活動家たちが白熱した議論を展開するのだが、発言時間をできるだけ短くすること、発言を邪魔する野次や拍手の禁止(賛意は指打ちで表明する)などの民主的なルールがあり、2016年春レピュブリック広場で展開されたニュイ・ドブー運動の討論集会で見られた光景の先駆であったことがわかる。議論は次の抗議示威行動の戦略を決めていく。アクトアップの行動は派手でスキャンダラスなだけではなく、常に劇的演出を伴っていた。衣装・化粧・小道具(血の色の液体を詰めたボール)・大道具(コンコルド広場オベリスク像を包む超巨大コンドーム)などを駆使して、劇的にメッセージを伝える。エイズとの戦争を闘う非暴力ゲリラであり、エイズ死者が増えれば増えるほど彼らは街を血の色の絵の具で染め警告を発していくのだった。映画にはその行動を150人が民主的合意のもとに決めていくというシーンが数度登場する。過激セクトと謗られながらも、内実は共同体ユートピアとして機能していたということを示すために。
 劇的な怒りであると同時に彼らの生きる喜びは祝祭的だった。ゲイ・プライド、ハウス・ミュージック、彼らの喜びと不安はこのダンス・ビートと共にあり、映画は集会や行動の後でダンスに酔いしれる若者たちを何度も映し出す。映画タイトルの『120 BPM』はエイズ時代を象徴するダンス音楽であるハウス・ミュージックへのオマージュである。サントラ中最も象徴的に援用されたのがブロンスキー・ビートの「スモールタウン・ボーイ」だった。1984年英国の歴史的(100%ゲイ初のNo.1)ヒット曲で、ヴォーカルのジミー・ソマーヴィルを一躍ゲイ・カルチャーのヒーローにせしめた。地方の小さな町の少年が、ホモに対して閉鎖的かつ暴力的な町を逃れて都会に出て行くシンセ・ポップ曲。裏話であるが、ジミー・ソマーヴィルはアクトアップ・パリ結成時の重要な出資者の一人だったという。


 仲間が次々に死んでいく中で、アクトアップは新薬研究成果を遅々として出し渋る製薬会社ラボラトリーへの殴り込み、ノートルダム寺院前でのダイ・インなどの行動を繰り返す。もっと苛烈にやってくれ、とショーンは仲間に要求する。自分の死が迫っていることを知っているから。ショーンを愛するナタンは献身的にショーンを介護するのだが。この死と隣り合わせのラヴ・ストーリーと、増大していくエイズ禍と体当たりで闘っていくアクトアップの面々(保菌者、罹患者、その家族、医師、研究者、シンパ)を描く2時間20分映画。パリでは上映1週間で22万人の観客を動員し、現在ボックスオフィス第5位である。大ヒットと言っていいだろう。30年前に無関心だった多くの市民たちは、やっとことの重大さを再発見してくれたのかもしれない。

 ショーンを演じたアルゼンチン人の小柄な男優ナウエル・ペレス・ビスカヤルトの素晴らしさは、最も過激で最も陽気な活動家だったショーンから、病気の進行と共に怒りと絶望が支配的になり、やがて衰弱していく変容を肉体のすべてで顕在化できる稀な表現者だということ。今後をおおいに期待したい。
 闘い半ばで討ち死にしたショーンの遺志に従って、アクトアップのメンバーたちが、エイズ者たちの悲痛な訴えをよそに大製薬会社が開いている超豪華なビュッフェパーティーに乱入し、ショーンの遺灰を超豪華料理の上にばら撒いていく。怒りの映画の大団円も過激に衝撃的だ。  

 エイズ禍の時代のことを憶えていますか?もう遠い昔のことと思っていないか?あれから30年、今どきエイズには罹らないし、エイズで死ぬことはないと思っていないか?ヴィールスの発見から今日までの推定死者数3千6百万人。2016年現在のHIV保菌者数3千7百万人、そのうち治療を受けている患者数1千8百万人。死者数と発症者数は1997年のピーク時から半減していると言われているが、まだこの数字。そして、エイズの予防ワクチンは未だに開発されていないのである。


(ラティーナ誌2017年10月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)『120BPM』フランスオリジナル版予告編


(↓)『120BPM』日本上映版の予告編



(↓)ブロスキー・ビート「スモールタウン・ボーイ」(『120BPM』サントラリミックス by アルノー・ルボティニ)