俺には自分が見えていた
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
この記事は音楽雑誌エリスの第26号(2019年3月7日発行)に掲載されたシャルル・アズナヴール追悼記事を同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。
俺には自分が見えていた
Je m'voyais déjà
2018年夏、引退ツアーのためにヨーロッパに来ていたジョーン・バエズは、仏テレラマ誌のインタヴューで「本当に引退なのか?」という質問に(軽いユーモアで)「私はアズナヴールのようにステージで死にたくないわ」と答えた。この時点でアズナヴールはまだ存命で、それこそ「引退ツアー」の途中にあり、それが9月17日東京と同19日大阪で本当に終わりになるとは誰も予想だにしなかった。2024年の「100歳コンサート」の企画もあったし、アズナヴールならば普通に可能でしょ、と思われていた。「アズナヴールと引退」はもはやギャグの領域のことだった。この人はかれこれ30年間も「引退公演」「さよなら公演」を続けてきたのだから。
これで見納めか、と大歌手の最後の晴れ舞台を何回も拝まされた人たちも少なくはない。時が経つにつれてこの「引退商法」は批判と揶揄の対象にもなり、実際に轟々の批難を浴びるコンサートもあった。2007年(当時83歳)10月と11月のパレ・デ・コングレでの20回公演は、”さよなら“を期待した人々にはがっかりの、出たばかりの54枚目のアルバム”COLORE MA VIE”からのレパートリー中心(新曲ゆえ歌うのにカンペを要した)で、パリ・マッチ誌評は「観客はアズナヴールの靴しか見なかった」と皮肉るほどだった。さらに2011年(当時87歳)9月からのオランピアでの22回公演は、チケットが200ユーロ(約2万5千円)という超高値で、その理由をパリジアン紙インタヴューで「30年ぶりのオランピアの舞台にピアノ一台で登場するわけにはいかないじゃないか、大勢のミュージシャンたちとステージを演るんだ、彼らも報酬を得なければならない」と強気で正当化した。その結果この一連の公演は席が半分も埋まらなかった。
シャルル・アズナヴール(1924-2018)は満場一致で支持されるシャンソン歌手ではなかった。「フレンチ・シナトラ」として国内同業者とはひとクラスのふたクラスも上の国際的大スターを自認するようになってからは、その高慢な言動を好まぬ人たちは多かった。とりわけ金銭関係に関しては良く思われていない。国際的な歌手と映画俳優となっただけでなく、音楽出版社などの事業でも成功して巨万の富を得たアズナヴールはフランスでの税金を逃れるために、1972年にスイスに移住している。フランス税務局はこれを脱税とみなして追求し、1977年の第一審では禁錮1年(執行猶予つき)+罰金3百万フラン(約2億円)の有罪判決が出た。この裁判に出廷したアズナヴールは「フランスはその金庫に何億という金を私がもたらしていることに感謝すべきではないか?あなたがたは私が78カ国で公演できる世界でただ一人の歌手であることを知らないのか?」と怒りをこめて述べた。判決に承服できない彼は新聞に「祖国に奉仕した廉で、数百万フランと1年の刑」と題した当時の大統領ジスカール=デスタン宛の抗議文を寄稿した。長い裁判抗争の末、無罪を勝ち取ったものの、フランス当局との溝は決定的になり、以後アズナヴールは「フランス非居住者」として年間6ヶ月と1日(つまり半年以上)をスイスで暮らし、プロヴァンス地方(ブーシュ・デュ・ローヌ県ムーリエス村)の館を除いてフランスで持っていた不動産すべてを子供たちに手放した。
貧しいアルメニア系移民(母親は”大虐殺“の生存者である)の子としてパリで生まれ、学校も行かず子供の頃から芸人として舞台に立っていたシャルルは、80年の芸歴の末にどれほどの財を成したのかは知れない。数字で言われているのは、生涯で作詞作曲した曲数800、レコード録音した曲数1200、レコード売上枚数1億8千万枚(世界合計)。アズナヴールの10ヶ月前に他界したフランスのスーパースター、ジョニー・アリデイ(1943-2017)の総売上枚数が1億1千万枚だったと言うから、ジョニーにはなかったアズナヴールの世界的名声がどれほどのものであったかが知れよう。この背の小さい男(1メートル60センチ)は、アイ・アム・ザ・ビッゲストという自負が強かった。しかし自分がトップスターになってからも、フランスの評論家/ジャーナリスト/メディアはシャンソンのビッグスリー「ジャック・ブレル=ジョルジュ・ブラッサンス=レオ・フェレ」の列にアズナヴールを加えることはなかった。これはアズナヴールを大いに傷つけたし、メディアとの関係は長い間こじれたままになっていた。
アズナヴールはよくChanteur mal
aimé(シャントゥール・マレメ)と言われた。これは「嫌われた」歌手という意味ではなく、直訳的には「悪く愛された」つまり「愛されにくい」と解釈されよう。評論家たちからの容赦ない悪評はアズナヴールの名が少し知れるようになった1950年代初めの頃が最もひどかった。スター性のない顔つき、小さな体躯、奇妙な身振り手振り、とりわけその声量の無さと鼻にかかったかすれ声の聞きづらさが攻撃の対象となり「すぐに歌手をやめるべき」と言われた。「悪性の喉頭炎を治療しろ」とも。日本で青江三奈や森進一が出てきた時にここまでは言われなかったのではないだろうか。この特徴ある声を、のちの英米メディアは「アズナヴォイス(Aznavoice)」と名付けて特化した。アズナヴールはメディアの侮蔑攻撃に傷つきながらも、こう自分に言い聞かせて凌いだ「C’est le public qui a raison(正しいのは聴衆だ)」。自分が成功するか否かを決めるのは評論家たちではない、聴衆である。聴衆こそが正しい。
この小柄な「悪声」歌手の成功伝説はまさにこの聴衆の心を掴めるという自信によって支えられている。シャンソンがまだアートでなかった頃、「シャンソニエ」とは大道や市場の広場の演芸台に乗り、自作の歌と小咄に踊りや曲芸をして聴衆からお金を得る芸人のことであった。何でもできないとつとまらないショーマンであった。元バリトン歌手のアルメニア移民の子としてパリに生まれたシャルルは、父のレストラン業が何度も倒産するなか、幼い姉のアイーダと共に家計を支えるために演劇、歌、ものまね、映画の端役などで日銭を稼いでいた。観客・聴衆とのコンタクトの良し悪しでその日の出来高が違うというリアリズムを早くから叩き込まれたということだ。それは大道から出てきた稀代の大衆シャンソン歌手エディット・ピアフ(1915-1963)とも通底するものだったのだろう。当時既に大歌手の名を欲しいままにしていたピアフは一目でアズナヴールを「天才バカ(genie con)」と呼んで惚れ込み、1946年からピアフ邸住み込みの付き人にしてしまう。
恋多き女として知られたピアフだったが、この小柄な男とは恋仲にはならなかった。しかしピアフがアズナヴールに課した仕事は、秘書、運転手、舞台係、悩み事の聞き手ほか雑務一切に及んだ。その上にアズナヴールはピアフのために作詞もしなければならなかった。思いつきで「こういう詞を明日までに」と命じられることは多かったが、採用されることは少なかった。6年間ピアフの下で奉公していたが、この経験をアズナヴールは肯定的に(たくさんのことを教わったと)語ろうとするものの、実際はパワハラの連続だったようだ。
そのピアフからボツにされた歌詞のひとつに「日曜日は嫌い(Je
hais les dimanches)」がある。フロランス・ヴェランが曲をつけたこの歌は、ピアフの拒否の後にジュリエット・グレコ(1927 - )の手に渡ってレコード録音され、実存主義の歌姫と呼ばれ左岸で人気を博していた彼女の雰囲気に溶け込みヒットした。最大の皮肉は、1951年のSACEM(フランスレコード著作権協会)主催のシャンソン・コンクール「エディット・ピアフ賞」に優勝してしまうのである。
月曜から土曜までの毎日は週末不休で働く男と暮らしているゆえの、他の人々の日曜日の幸福そうな行状を呪う歌。下層階級の日常の断面がよくある妬みのドラマとして浮かび上がる。この具象的な日常風景活写がアズナヴール・シャンソンのひとつの特徴であり魅力であるが、この歌をグレコの歌唱で知ったピアフは、アズナヴールは最良の歌を私にくれなかった、と逆恨みし、「ピアフ賞」は渡さぬと言わんばかりに、この歌をピアフ自身も吹き込む(対照的なふたつのヴァージョンである)。しかしこれがきっかけでピアフとアズナヴールの関係は悪化し、1952年「天才バカ(Génie con)」はピアフ邸から放逐され、おかげで歌手アズナヴールは独り立ちすることになる。
何もなく虚ろな響き
それよりもひどいのは
バラ色で心豊かであろうとする
思わせぶりな日曜日
幸せな一日であることを強いられる日
私は日曜日が嫌い
(「私は日曜日が嫌い」)
ブレル、ブラッサンス、フェレの三大シャンソン巨星から曲を提供されていたジュリエット・グレコは、後年にアズナヴールの詞をこう分析している:
「シャルルの言語は少しマッチョね。それは男の言語、妻を娶り、子供をたくさん産ませる男たちの言葉よ。フェレやブレルやブラッサンスのような狂気を孕んだ言語ではない。たぶんシャルルは彼らよりノーマルな側面があったということね。」(テレラマ誌2018年10月10日号)日常性とノーマル性に近いということがアズナヴールが大衆の心を掴む鍵であったが、それは(1950年代的に)普通っぽい男の女泣かせも含み、往々にして性を暗喩するフレーズが彼の歌を次々に放送禁止に処される原因となった。放送禁止は良いプロモーションともなったのであるが。
ピアフの庇護圏から離れ、評論家たちの酷評に耐えながら、レコードとステージでじわじわとその実力を蓄えていったアズナヴールの最初の大ヒット曲は1960年の「俺には自分が見えていた(Je m’voyais déjà)」(日本では「希望に満ちて」と訳されている)であった。
俺にはもう見えていたんだ
出演者看板の最上段にある
他の名前の十倍の大きさの俺の名前が
俺にはもう見えていたんだ
賞賛され金持ちになった俺が
殺到するファンにサインしてやる俺が
(「俺には自分が見えていた」)
歌手を目指して18歳で田舎からパリに出てきた男が、確信していた自分の才能にもめげずまったく成功を得られず年老いていくストーリーの歌。この歌は当時の大スター歌手イヴ・モンタンのために書かれたものだが、モンタンは拒否した。売れない歌手のセルフヒストリーなど、シャンソンの題材として不吉きわまりない。
1960年12月12日、パリのアランブラ劇場でこの歌は初めて披露された。舞台での演出は、まさにストリップティーズの逆回しで、ボタンをかけないシャツ姿で登場し、次第にシャツのボタンをかけ、カフスを締め、上着を羽織り、ネクタイを締めていく。歌手が楽屋で身繕いをし、颯爽と衣装を決めて舞台に出ていく、という姿を演じながら歌うのである。つまり50歳を過ぎた売れない歌手が、過去を回想しながら、それでも夢が捨てきれずに、30年前に誂えた高級テーラードスーツを着て今夜も舞台に立つ、という話なのだ。歌詞の中で、悪いのは俺ではなく、俺の才能を理解しようとしない観衆が悪いのだ、と毒吐く一節がある。そして歌の結びとして
俺はあまりにも純粋でと歌い終わり、実際の観客に背を向け、ホリゾントから照明を浴びて歌の中の架空の観客に向かって(舞台に登場するように)両腕を広げて歩んでいく、というエンディング。袖に下がっていったアズナヴールは、ホリゾントからの照明を浴びたままの客席から拍手が全くないことに失望し、今度こそ歌手廃業の時だと覚悟したという。これが最後のあいさつと観念して舞台に再び現れた時、なんとアランブラ劇場は轟々の喝采に包まれたのである。アズナヴールが36歳にして初めて手にした栄光の瞬間だった。
あまりにも先端すぎたんだ
だがいつか俺に才能があることを
見せつけられる日はきっと来るさ
(「俺には自分が見えていた」)
その同じ1960年、既に映画(性格)俳優として確かな評価を受けつつあったアズナヴールは、ヌーヴェルヴァーグの旗手のひとりフランソワ・トリュフォーが監督したフィルム・ノワールの傑作『ピアニストを撃て』に主演する。アルメニア系のクラシック・ピアニストとして名声を得ていたエドゥアールは、最愛の妻を自殺で失ったショックでクラシック界から退き、シャルリーと名を変えて場末のキャバレーのピアノ弾きに身をやつしている。新たな恋の芽生え。キャバレーのメイドのレナ(演マリー・デュボワ、素晴らしい)は、シャルリーの過去を知っていて、愛し合っているなら再び「エドゥアール」となってやり直そう、と。しかしピアニストの二人の兄はギャングであり、ギャング同士の抗争の中にシャルリーとレナの恋は巻き込まれてしまう…。もともと映画俳優としては当時流行りの「歌う映画スター」を拒否して歌手同様の本腰を入れて挑んでいたアズナヴールだが、このヌーヴェル・ヴァーグのフィルム・ノワールでは従来の役とは全くディメンションの異なるアンチ・ヒーローを見事に演じて高い評価を受けた。興行成績も上々で、フランスとほぼ同時期に封切られたイギリスでもヒットし(後年エルトン・ジョンがこの映画にインスパイアされたアルバム『ピアニストを撃つな』を制作)、さらに1962年夏にアメリカで公開されるや大好評で、アメリカでシャルル・アズナヴールの名はまず国際的映画スターとして知られることになったのである(日本公開は1963年)。
たしかにこの1960年代前半にアズナヴールはビッグヒットを連発し、生涯の代表作となっていく「ラ・マンマ(La Mamma)」、「想い出の瞳(Et pourtant)」、「帰り来ぬ青春(Hier encore)」、「ラ・ボエーム (La Bohème)」、「悲しみのヴェニス (Que c’est triste Venise)」などはこの時期に集中している。この時点で易々とフランスのみならず仏語圏世界のビッグスターになっていたはずなのだが、並外れた自尊心の持ち主となった彼は「世界制覇を目指す」と言うのである。「世界」とはあの時代、とりもなおさずアメリカ合衆国のことであった。ザ・ビートルズのアメリカ初上陸が1964年2月、坂本九「上を向いて歩こう(Sukiyaki)」は1963年6月。アメリカを制する者は世界を制する。この話をアズナヴールは複数のフランスのプロモーターにもちかけるのだが、ことごとく一笑に付される。その時点でアメリカでのアズナヴールの認知度は映画俳優としてであり、歌手としては誰も知らない。無謀である。しかしわれらが天狗アズナヴールは、周囲の反対を押し切って、自腹を切って、1963年3月30日の一夜、ニューヨークのカーネギー・ホールをリザーヴするのである。伝説はそれに、1962年12月から114日間続いていたニューヨーク市の新聞ストライキというプロモーション上の大ハンディキャップを加える。果たしてカーネギー・ホールの2800席は埋まるのか?
その内の150席はこれまた自腹でボーイング707一機をチャーターしてフランスからの招待客(ジョニー・アリデイ、フランソワーズ・サガン、フランソワ・トリュフォー、ロジェ・ヴァディム…)で埋めた。アメリカの音楽関係者たちも多く招待された(その中にボブ・ディランもいた)。しかしフランスの業界人たちの予想を覆して、チケットは売り切れ、2800席に加えて舞台脇に数列の席を足さなければならないほどの満員御礼であった。舞台の上でのアズナヴール自身の曲紹介はすべて英語、そして演奏された曲の3分の1は英語ヴァージョンで歌われた。2時間のショーは大成功に終わり、一方で『ピアニストを撃て』のピアニストのコンサートと思って来たアメリカ人聴衆は目の前にいた超エンターテイナーに快い不意打ちを喰らった。
1963年はボブ・ディランが「風に吹かれて」を発表した年でもあるが、後年(1987年ローリングストーン誌インタヴュー)ディランはこのカーネギー・ホールのアズナヴールに強い衝撃を受けたと語り、その上1966年のアズナヴール曲「ふたりの時(Les Bons Moments)」を “The Times we’ve known”というタイトルでカヴァーしている(1998年マジソン・スクウェア・ガーデンでのライヴ動画がYouTube上にあり)。
その後のアズナヴールの世界的サクセス・ストーリーは本稿で書くまでもないことと思う。初来日は1968年のことで、度々日本公演しているし、アズナヴール楽曲を日本語で歌う日本のシャンソン歌手たちも少なくない。比較的日本人には親しまれたアーチストだった。「私は日本のホテルが大好きだ。洗面台が私にぴったりのサイズなのだ」と言ったこともある。
フランス国内では新譜シングルヒットなどの「現役性」は1970年代で影をひそめるのであるが、その70年代にアズナヴールの歌は社会派性も帯びてしまう。35歳女性教師と未成年15歳の男子生徒との恋愛が、犯罪として告発され、裁判訴訟中に女性が自殺した実話事件をモチーフにした「愛のために死す(Mourir d’aimer)」(1971年):
世界は私を裁こうとしているがアニー・ジラルド主演/アンドレ・カヤット監督で映画化もされ、68年5月革命の解放機運にも倒されなかったこの旧時代のモラルを問い直した事件。恋愛の自由に立ちはだかる世間をドラマティックに糾弾するアズナヴールに人々は喝采した。
私にはひとつの逃げ場所しかない
すべての出口は塞がれたのだから
愛のために死ぬだけ
(「愛のために死す」)
そしてシャンソン史上初めてホモセクシュアリティーを主題にした歌とされる「人が言うように (Comme ils disent)」は1972年に発表された。その時代フランスではまだ同性愛は精神疾患であり、刑法上では軽犯罪であった(この刑法条項が削除されるのは1981年のこと)。つまり社会の表面に出ることが憚られる風潮が支配的だった頃である。
僕は横になるけれど眠りはしない
僕は喜びもなく笑い話のような
過去の恋の数々を想う
そしてあの神のように美しかった青年
造作もなく僕の記憶に火をつけた
あの青年のことを
僕のこの甘美な秘密を
僕のこの優美なドラマを
決して彼に打ち明けることはない
僕のすべての悩みの元である彼は
ほとんどの時間を女のベッドで
過ごしているのだから
僕を非難したり裁いたりする権利は
本当のところ、誰にもないはずなんだ
はっきり言おう
これは自然界の掟だけに
責任があることなんだ
人が言うように
僕がホモであるということは
(「人が言うように」)
C’est bien la nature qui est seule responsible(自然こそが唯一責任を負っている)― この結論がどれほど多くの人たちを勇気づけたことだろうか。これは画期的な前進の歌であった。ゲイに扮したジェスチャーでこの歌を舞台(とテレビ)で歌ったアズナヴールの勇気、この大胆さはカーネギー・ホールを満杯にすると息巻いた超強烈なエゴとは別のものだろう。自尊心のかたまりであり、高慢であり、金の亡者でもあるアズナヴールを、私たちが百歩も二百歩も譲って最大級の偉大なアーチストと認めざるをえないのは、こういう歌を歌ったということを知っているからなのである。
1998年、米CNNと英タイムスの共同主催の視聴者・読者投票による「世紀のエンターテイナー」選で、得票率18%でエルヴィス・プレスリーとボブ・ディランを抑えて1位になっている。また1988年のアルメニア大地震の時の大規模チャリティー支援の中心だったことなどから、父母の故国アルメニアでは生前から国民的英雄であり、名誉大使にも任命され、首都エレバンにはアズナヴール文化センターもある。政治的なポジションは保守寄りで、70年代からフランス大統領選には一貫して保守候補を支援してきた。
2018年10月1日、プロヴァンス地方の自邸の浴槽で94歳で亡くなったシャルル・アズナヴールは、10月5日、パリ7区アンヴァリッド内庭で国民葬セレモニーによるオマージュを受けた。
こうやって引退コンサートを永遠に続けていられるのだから、いつかは生の歌を聴く機会もあるだろうと思っていたから、私は一度もアズナヴールのライヴを経験していない。60枚組のアズナヴール全録音集も持っていない。全然熱心なファンではない私が、おこがましくも最も愛するアズナヴールの歌を挙げるとすると…。多くの人たちが選ぶように「帰り来ぬ青春」や「ラ・ボエーム」に典型的な、二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったものがこの人ならではの真骨頂/十八番/名人芸だと思うのである。この二十歳を人生の最も美しい頂点としてそれが過ぎ去ったことを無性に悔やむ一連のアズナヴールの歌の最初の原石とされるのが「青春という宝(Sa jeunesse)」と題された歌である
私たちの二十歳の時の刻々は
容赦なく刻まれ
失われた時は
私たちに面と向かうことなく
過ぎ去っていく
ときおり虚しく手を差し伸べて
後悔したりもするが
既に遅すぎる
その道のさなかでは
なにものもそれを止めることはできない
自分の若さを
いつまでも保つことなどできはしない
微笑む前に私たちは子供時代と別れ
知る前に青春時代は遠ざかってしまう
唖然とするほどあまりに短いものだが
理解する前に人は人生から去ってしまう
(「青春という宝」)
アズナヴールがこの歌を発表したのは1957年のことで、この小さな歌手は32歳になっていた。なるほど、と納得できる年齢である。ところが後年にわかるのは、アズナヴールはこの歌を説得力を持って歌える相応の年齢まで、この歌の発表を控えていた、ということ。そしてアズナヴールがこの歌を書いたのは、1942年、つまり彼が十八歳の時だったということ。十八歳にして「二十歳」を回想して悔やむ! 後年に自身が歌うように「Je m’voyais déjà = 俺には自分が見えていた」のだ。たとえ実生活でどんなに鼻持ちならない高慢な人物であったとしても、この天才は疑いようがない、否定しようがないではないか!
(エリス誌2019年春号・向風三郎)
(↓)【 シャルル・アズナヴール 2018年9月19日大阪 】
0 件のコメント:
コメントを投稿