今朝私はレピュブリック広場に来ました。
非常事態宣言が発令され、集会は禁止だ、厳戒態勢中だ、と言われながらも集まってくる市民たちはたくさんいました。
なぜここに来たのかはそれぞれのさまざまな思いがあったからでしょうが、ここに来れば多くの思いがなにか同じところに繋がっているような気がしてきます。幻想と言う人もいますでしょうね。さっきまで知らなかった人たちが話し合います。手短かに悲しみや怒りを表す人たちもいれば、長々と議論する人たちもいます。やはり無言でいてはいけない。誰かに言わなければいけない。同じ思いならばそれを確認しなければいけない。同じ抗議や同じ怒りや同じ悲しみを共有したい。そういう時にこの市民たちはレピュブリック広場やバスチーユ広場にやってきます。自然発生的に。デモの発地や終点だったりするところでもあります。古来デモクラシーとは広場で議論することから始まったと言われます。世界でそういう広場はたくさんあるでしょう。独裁者は広場を嫌います。広場には民が集まるからです。パリにもたくさんの広場があり、デモや集会だってさまざまな広場で開かれますが、レピュブリック広場はそのシンボルでしょう。その名の通り共和制のシンボルでしょう。共和制は民が立ち上がって築いたものです。そのシンボルの広場がパリ11区にあるのです。
11月13日の夜の事件の舞台になったパリ10区11区は、私にとって親しい地域です。1996年から2013年まで、17年間私は11区オーベルカンフ通りに事務所を借りて仕事をしていました。元々は職人町で家内工業的な生地染めや服飾工場や生地問屋などがたくさんあったところです。工場やアトリエの仕事ですから働き手は移民も多く、町は古くから多文化同居状態で、メニルモンタンやリシャール・ルノワールの露天市はみごとにマルチ・カルチャーです。大衆的で食べ物屋も安くておいしく、80年代から古い町工場や倉庫をロフト化してアーチストたちも多く住むようになり、小洒落たライヴハウスやバーもどんどん出来て若者たちが集まるようになったところです。オーベルカンフ/メニルモンタン、ベルヴィル/タンプル、サン・マルタン運河周辺は木・金・土の夜ともなればバーからはみ出した人たちで道がうまってしまうほどです。そんなところに、車で乗り付けたテロリストたちがカラシニコフ銃で乱射したのです。
事務所から徒歩で15分ほどオーベルカンフ通りを南下したあたりに
バタクランがあります。その頃の管轄の郵便局が数軒となりにあって、毎夕郵便物発送のために通いました。それから私の会社の銀行口座のあるLCLオーベルカンフ支店がバタクランの向かいにあって、今でも年に数回は銀行担当者に会いに行きます。バタクランは19世紀末に中国城館を模したつくりのミュージックホールとして作られた歴史的なコンサート会場で、私もこれまでトータルで50 回はそこでコンサートを見ているはず。パティー・スミス、MGMT、ジャック・イジュラン、ジャン・コルティ、アラン・ルプレスト.... 2013年の11月13日、つまりあの夜のちょうど2年前、私はそこでブリジット・フォンテーヌを見ていた(facebookにも書き込んでいました)。ラティーナの2013年6月号に掲載されたケントのインタヴューはバタクラン・カフェで行われ、その号に載ったケントの写真はバタクランを背景にして娘が撮ったものでした。そこの床板に、11月13日夜、大量の血が流れたのです。
報道では「無差別」や「乱射」という表現のしかたをされているようですが、これは場所も人間もテロリストに意図的に選択されたものでしょう。11月13日、テロリストたちはこれらの場所とこれらの人間たちを狙い撃ちにしたのです。
テレビの報道番組に出たパリ市長アンヌ・イダルゴがこの10区・11区という場所の特殊性を強調して、この場所が選ばれた理由を説明しました。ここはパリで最も若い人たちが集まる地区であり、多文化が最も調和的に同居し、アートと食文化が町にあふれ、音楽が生れ、リズムとダンスを老いも若きも分かち合う、古くて新しいパリの下町です。パリで最も躍動的でポジティヴな面を絵に描いたような「混じり合う」町です。私たちの新しいフランスはこの混じり合いで良くなってきたのです。この混じり合いの端的な成功例が10区・11区なのであり、今の「パリ的」なるものを誇れる最良の見本なのです。これをテロリストたちは狙い撃ちしたのです。混じり合いや複数文化やアートを分かち合うことを全面的に否定し、憎悪し、抹殺してしまおうという考え方なのです。11区にはあのシャルリー・エブドの編集部もあった。11区にはかの事件のあと市民100万人を結集させたレピュブリック広場もあった。テロリストたちはこの町をますます呪うようになったのです。
テロリストたちがその独自の解釈で絶対法とした「シャリーア」は、享楽を禁止することで現世を浄化しようとするものと私は解釈しています。2014年のアブデラマン・シソコ監督の映画『
ティンブクトゥ』で描かれたジハードたちが占領支配した砂漠の町では、音楽もスポーツも禁止されます。
スポーツや音楽の歓びを人々が共有している場所で、11月13日、テロリストたちは自分の体に巻き付けた爆弾を炸裂させたのです。この歓びを共有する人々は死に相当する大罪を犯していたというメッセージです。
あの夜スタッド・ド・フランス(サッカー国際親善試合 フランスvsドイツ)には8万人のファンたちがいました。ここに集まったのは死に相当する大罪を犯した人々である。爆弾が炸裂します。
そのすぐあとで、パリ11区のコンサート会場バタクランで、カラシニコフ銃が乱射され、爆弾が炸裂します。米国カリフォルニアから来たロックバンド、イーグルズ・オブ・デス・メタル(私は自宅対岸の夏ロックフェス、ROCK EN SEINEで見たことがあります。タフでタイトなロックバンドという印象があります)はその夜パリの熱心な1500人のファンを集め、ホールは超満員でした。19世紀末、シャンソン・レアリストの創始者アリスティッド・ブリュアンも舞台に立った古めかしい歴史的なパリのミュージックホールで、21世紀的なビート音楽を楽しもうと集まったパリのロックファンたちが狙い撃ちされたわけです。
道にはみ出したカフェテラスのバーで、気の合った友だちや家族と酒杯や異国料理を楽しむ人たち、しかもパリで最もそういう雰囲気にあふれた町で。アルコールや煙草を大罪と見做すジハードたちがいる。それがそのテーブルで金曜日の夜を楽しむ人たちめがけて弾丸を乱射する。
おまえは死に値する。
おまえは音楽が好きで、スポーツが好きで、混じり合ったパリが好きで、金曜日の夜に華やいだ町で友だちと会って飲むのが好きだ。
おまえは死に値する。
銃口が私やあなたに向けられたのです。なぜ? おまえは音楽が好きだろう。
私は13日夜から14日未明まで事件を報道するテレビを見続けて、何発も何発を銃弾を撃ち込まれたのです。パリはその論法からすれば、何百回でも何千回でも殺戮テロに襲われなければならない人たちの集まりなのです。
政治のことは別の機会にします。私は私の意見があります。フランスは私のような外国から来た市民でも自由に意見を言えます。私はこのフランスのヴァリューを信頼しています。
フランスを信頼して、フランスに居合わせたおまえは同罪であると言われて、死の脅迫を受けたような事件です。
フランスはこのような見せしめを与えないと、その政策を止めないだろう。
フランス人(および私のようなそこにいる人)はこのような見せしめを与えないと、その享楽を止めないだろう。
テロリズムとはterreur恐怖の効果によって、その思想を通し、それに反する人々を従わせることです。
私たちは怖いです。恐怖します。コンサート会場で百人近い人たちが殺戮されるのを(映像はなくても)リアルタイムで報道された時、あなたや私のような人たちに銃口が向けられたと知る時、私たちは恐怖しないわけにはいきません。
すぐに在仏日本大使館から注意喚起のメールが来ます。人混みに近づくな、最新の情報を入手して行動せよ、不用意な行動は慎め...。
私たちは子供ではない。ここにいるのはそれなりの苦労をしてきたし、いやな思いもしてきたし、人ともぶつかってきた。それなりの経験をして、それなりの代償を払って、私はここにいる市民たちと多くのものを分ち合っている。
狙い撃ちされたのは、そういう文明であり文化であり価値であり、それを信頼してきた私たちなのです。
私たちはその恐怖を理由に、その信頼を改めるのか?
音楽が好きという理由で相手に弾丸を撃ち込む思想に屈服するのか?
スポーツが好きで、金曜日の夜に友だちと杯を交わすのが好きで、という人たちを、おまえは死に値すると断定する思想に屈服するのか?
私たちは怖がってはならない。町に出なければならない。広場で人と会わなければならない。
音楽は鳴り続けなければならない。私たちは踊り続けなければならない。
スポーツの熱戦の興奮を分かち合うことをやめてはならない。
ジャーナリストは報道し続けなければならない。ライターやブロガーは言いたいことを書き続けなければならない。戯画家たち・コミック芸人たちは世の中を茶化し続けなければならない。アーチストたちは表現し続けなければならない。
恐怖によって「それは考え直した方がいい」とする考えを受け入れてはいけない。パリはこの1月にシャルリー・エブド事件でそれを学んで、多くの市民たちとそれを再確認したから、その後も世界で最も美しい町でいられたのです。
私たちは何度でも同じことを言うだろう。怖がってはならない。政治家たちが「これは戦争だ」という論法で語るとき、私たちは本当に怖いのです。怖がってはならない。私はひとりではない。怖がってはならないと思っている自分と怖がっている自分が共存しているのは、私ひとりではない。だから私たちは広場に集まるのです。いろいろな顔を見て安心するのです。怒りや悲しみや恐怖は分ち合えるのです。
とりわけ音楽は鳴り続けなければならない、と私は思います。コンサートは開かれ、ファンたちの興奮・熱狂は戻ってこなければならない。私が何十年も仕事として関わっている音楽、私が信頼して愛しているこのパリの町、そのヴァリューは私たちが守らなければならないと思うのです。それに死刑を宣告する思想には断じて屈服してはならないのです。断じて!
2015年11月15日
カストール爺こと、向風三郎こと、對馬敏彦