2024年11月23日土曜日

2024年のアルバム:クロかあさんのおまじない

Klô Pelgag "Abracadabra"
クロ・ペルガグ『アブラカダブラ』

志たちは『七つの苦悩の聖母 Notre-Dame-Des-Sept-Douleurs』(2020年)をちゃんと聴きましたかね?コロナ禍でそれどころではない時期ではあったが、解説で書いたように長かった暗黒の日々をクロ・ペルガグが抜け出していく魂の軌跡を描いた素晴らしいアルバムであった。あれから4年、われわれのポスト・コロナ期は身近に起こっている大きな戦争と年々激しくなる温暖化災害とポピュリストが支配する超大国に翻弄され、その中でクロ・ペルガグは34歳になった。それだけではない。4年前クロ・ペルガグが産んだ女児は4歳になった(ロジック)。
 新作の核はそれです。俗に言われることではあるが、子の親になったとたん人間は変わる。それまで自分ひとりだったので、”ひとり思考”ではこの世が急速に破滅に向かっていることを感知しても、最悪は自分ひとりが死ぬだけじゃん、と達観していられた。ところがこの世に出現したばかりの吾子はどうなるのか。生きて欲しい。苦しみはあろうが、少しでも less worthな状態で生きて欲しい。母クロ・ペルガグは、この生きる塊を前にして、欲したり主張したりするこの小さな生命体を前にして、この子が生きていく未来を考えないわけにいかなくなってしまった。世界の終わりを冗談のように言い合うシニカルな大人たちのひとりではいられなくなったのだ。何もかもがダメになってしまっても、何かにしがみつき信じたい。それが効くかどうか知る由もない、陳腐なおまじないであっても。「アブラカダブラ」と唱えたら、一瞬にして世界のすべてがうまく行くようになるかもしれないではないか。母クロ・ペルガグは最後にこの呪文を唱えてみようと思っているのだ。そうしたら吾子の苦しみや痛みが軽くなるかもしれない。
 新アルバムの大きな転換点はもうひとつ。2013年のデビューアルバム『怪物たちの錬金術 L'alchimie des monstres』以来、ソングライタークロ・ペルガグと二人三脚でそのサウンド世界を作ってきたコ・プロデューサーシルヴァン・デシャン Sylvain Deschampsが離脱。この突然の別れにクロ・ペルガグは大泣きに泣いたそうだ。だが泣いてばかりはいられない。思いを決してひとりで立ち上がりセルフ・プロデュースアルバムをキャリーアウトした。編曲指揮・制作・サウンドエンジニアリング、クロ・ペルガグ herself。プログラミング+ストリングス+ブラス+コーラス+.... 全部クロ・ペルガグさんが決めた。
 そのサウンドは前作『七つの苦悩の聖母』で私が「サイケデリックでシンフォニックで求道的な音楽」と評した”大伽藍”の響きと似ていないことはないが、その厚いハーモニーはクロかあさんのあたたかみが感じられると思う。一音一音に込められているものが感じられるように聞こえたら、クロかあさんの意に叶ったりということでしょう。

 アルバムは『七つの苦悩の聖母』と同じように2分ほどのインストルメンタル曲「赤い果実の血 Le sang des fruits rouges」で始まる。このインストによるイントロダクションは大袈裟な音楽の始まりを予感させる”オドシ”であり、今度のはまじめだぞ、おふざけじゃないぞ、と言っているように聞こえる。そして始まるのが「ピタゴラス Pythagore」という曲である。ピタゴラス(570BC - 495BC)とは恐れ多くも畏くも史上初の音楽理論の確立者にして音階の発見者である。われわれのドレミはこの古代ギリシャの数学者なしには誰も知ることができなかったのである。これもハッタリみたいなタイトルである。これは聴く前にアルバム制作の経緯を読んでしまった私にははっきりと「シルヴァン・デシャンとの決別の歌」に聞こえる。ピタゴラス的に理詰めできっちりと複雑構造建築的にクロ・ペルガグのサウンドをつくってきたデシャンに、「いいわよ、わたしひとりでやるわ」と啖呵切ってる。歌詞にこうあり:
Tu dis que ce qui tue pas nous rend plus fort
殺さないことがあなたと私を強くするとあなたは言う
C'est vrai à moins qu'on soit déjà mort
もう死んでるんだったらそれは本当ね
J'ai reçu une millième balle dans le corps
私はもう一千発もの弾丸を体に撃ち込まれたのよ
Je crois que j'ai atteint mon point de départ
私はもう出発点に到達したと思うわ
Va -  t'en si tu veux
望むのなら出て行って
Mais va - t'en juste un peu
私の別れの言葉を聞いて
Entends mes adieux
出て行って
Et va - t'en si tu veux, va - t'en
望むならいなくなって、出て行って



同じテーマのように聞こえるのが4曲めの「自由 Libre」。これはこのアルバムの先行シングルのようなかたちでリリース4ヶ月前に景気づけのような非常にはちゃめちゃで威勢の良いヴィデオクリップと共に発表された。おそらくアルバム中最もポップな曲。自暴自棄の時期からひとりでやり直すことを躊躇う自分にハッパをかける歌。
Pourquoi t'as peur de courir ?
なぜ走るのを怖がるの?
Pourquoi t'as peur de tomber ?
なぜ転ぶのを怖がるの?
Pourquoi t'as peur de vivre ?
なぜ生きるのを怖がるの?
Tout le monde dit que t'es libre
みんなおまえが自由だって言ってるよ
La musique te délivre
音楽はおまえを解放するんだ
Personne sait que t'es brisé
誰もおまえが壊れてしまったって知らないよ


そしてこのアルバムの最重要テーマである愛娘へのメッセージは、5 - 6 - 7曲めの中で表れる。それは破滅に限りなく近づいていく世界の中で生きなければならない娘への「守ってあげたい」なのである(あ、あの歌引き合いに出すべきではないか)。まずはっきりとそれが見える7曲め「ある若き詩人への手紙 Lettre à une jeune poète」(これはもちろんライナー・マリア・リルケの援用)はこう語る:
Est-ce que j'ai menti ?
私は嘘をついたの?
Je t'avais promis
すべてはうまく行く
Que tout irait bien
私は何も怖がらない
Que je n'ai peur de rien
ってあなたに約束したわね

J'ai peur de tout
私は全てが怖い
Mais surtout
でもとりわけ
Peur pour toi
おまえのことで怖がっている
Mais je sais, ça ira
でも大丈夫、きっと
Toute seule tu trouveras
たったひとりでもおまえにはわかるわ

Je t'ai donné la vie
私はおまえに命を授けた
Je voudrais te donner envie de vivvre
私はおまえに生きる望みを与えたいの
Qu'elle ne te soit jamais pénible
生きるのが決して苦しいことでないように
Plus de meilleur que de pire
悪いことよりも良いことがたくさんあるように


 そして実のお嬢さんを登場させて制作されたヴィデオ・クリップで公開された6曲めの「マンゴーの味 Le goût des mangues」は、想像できない早さで大きくなっていく娘のさまざまな季節を共にしながら母としての不安も一緒に育まれていく情景が見えてくる。
おまえは飛べるのか、それとも落ちてしまうのか
私にはわからない
雪が溶けるのを待って
おまえは季節に立ち向かっていくの

おまえは守るべき信条がないし
誰もおまえをわかってくれないだろうし
今の季節はおまえをあざむくね

意味をなさない多くのことがあるし
重要だと認められないこともあるし
この季節は可能性がない

おまえが嫌いなものすべてを消すとしたら
私は出て行くの?それとも残っていいの?
今はそんな季節、私は考え込む

おまえがマンゴーの味も
おまえの脚に置いた私の手の感覚も忘れてしまった
今はおまえと私に似た季節ね

  この『アブラカダブラ』と題されたアルバムの中で、「アブラカダブラ」という呪文はたった1曲の中にしか登場しない。おそらくこの曲がこのアルバムの核心である。それは9曲めの「ジム・モリソン Jim Morrison」と題されたもので、文字通りジム・モリソン(1943 - 1971)の墓を(そのつもりがないのに)訪ねる歌である。註:この歌では話者=私が男性、相手=おまえが女性。
私の両足は宙に浮いている
墓地の一本の木の枝の下に
モリソンの墓が見える
誰にも会わないつもりでいたのに

私が走ると空気の流れが
私の背中を押して私を遥か遠くの
砂漠まで連れて行く
ここでは誰も私を待っていないし
ここでは何の感情も湧き上がらない

まだおまえのことを夢見ているのは確か
おまえは映画館の中でひとりで泣いていた
戦争の映画だったか、豹の映画だったか
私は覚えていない

たった一度だけでいいから
指の先に触れているものを保っていたい
完璧な瞬間に身を任せたい
アブラカダブラ

私がどこにいるのか知りたい?
私は大きな車輪の中で回っていて
終点には絶対到達しないんだ
こんなに気が狂うなんて思ってなかった

まだおまえのことを夢見ているのは確か
おまえは映画館の中でひとりで泣いていた
戦争の映画だったか、豹の映画だったか
私は覚えていない

たった一度だけでいいから
指の先に触れているものを保っていたい
完璧な瞬間に身を任せたい
アブラカダブラ



美しくも謎めいた歌である。指の先に触れているものを手放したくない、完璧な瞬間に身を置いていたい、アブラカダブラ。この無情にも手を離れて失われていくものは私は”時間”だと思うし、今のこの”瞬間”だと思って聞いた。とてつもなく悲しい”失われる時”を救う呪文がそれだとしたら。

この歌と同じほど美しく悲しい歌が11曲めにある。「光の井戸 Les puits de lumière」と題されたクロ・ペルガグ描く世界の終わりの情景であるが、それでも光はあるのだ。
青虫の皮膚の色や
ビーヴァーヒル湖の水の色を見て
おまえは未来を読み取っていた
死に倒れる寸前の杉の木についていた印
それは「おまえを愛するがゆえに死ぬ」と言っていた

私は綱を切りたかった
でも怖かった、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって

おまえの母親のおなかの中には
愛とその敵がいたんだ
思い出せるかい?
土の匂いとおまえの父親の目を?
その目は「最高なことがこれから起こるぞ」と言っていた

死体安置所へ向かいながら
私は泣いたよ、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
毎日毎日世界のかけらが
音もなく死んでいってる

おまえと仲違いしてから
おまえが恋しくなったんだ、それは認めるよ
人生は悲劇だって
今じゃみんな知っている

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
例えばある日、日の出がずっと
灰色のままだったり

みんなで世界の終わりジョークを
語り合えたらいいね
光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって

光の井戸には
永遠に雨水が入っていくだろうって


Les puits de lumière laisseront toujours entrer la pluie. 光の井戸には永遠に雨水が入っていくだろう。このイメージわかりますか? 光の井戸は永遠に枯れないのですよ。これは祈りであり、おまじないですよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Le sang des fruits rouges
2. Pythagore
3. Coupable
4. Libre
5. Sans visage
6. Le goût des mangues
7. Lettre à une jeune poète
8. Décembre
9. Jim Morrison
10. Deux jours et deux nuits
11. Les puits de lumière
12. Triste ou méchante

Klô Pelgag "Abracadabra"
LP/CD/Digital SECRET CITY RECORDS SCR168
フランスでのリリース : 2024年10月14日


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)クロ・ペルガグ『アブラカダブラ』ティーザー

それは絶対の探求のようなもの
なにかをまだ信じたいという欲求
消滅させなければならない結び目(関係)が多すぎるのよ
みんながありのままで気兼ねすることなく
恐れることもなく、他人の視線のプレッシャーもなく
この世に現れるために
私は一つの言葉を繰り返し唱える必要があるの
窓から外を見て
地平線をじっと見つめて
いつも同じことを考えながら
私が強く
何度も繰り返して唱えたら
たぶんすべては解決するんじゃないかって
アブラカダブラ!


2024年11月18日月曜日

Jay le taxi, c'est sa vie.

"Une part manquante"
『また君に会えるまで』


2024年フランス+ベルギー映画
監督:ギヨーム・スネ
主演:ロマン・デュリス、メイ・シルネ=マスキ、ジュディット・シェムラ、あがた森魚
フランス公開:2024年11月13日

 

上映ポスターに日本語題を印字して挿れたり、エンドロールに出演者などをアルファベットとカタカナで表記する「日本撮影映画」にろくなものはない。この4月に見たエリーズ・ジロー監督『シドニー、日本で』(主演イザベル・ユッペール)のことを言ってるんですが。おまけにヴェンダース『パーフェクト・デイズ』(2023年)と同じように”東京風景”が大いにものを言う映画。それに幻惑されたのかテレラマ誌はこの映画評で「ロマン・デュリスと”東京”という二人の偉大なアクターに照らし出された父性に関する繊細で美しい映画」と高評価を与えている。どうしてどうしてどうして東京がそんなにいいんだろ
 ベルギー人監督ギヨーム・スネが前作『パパは奮闘中(Nos Batailles)』(2018年)のプロモーションで主演のロマン・デュリスと来日した時に、この「子の親権問題」(日本が世界でも稀な”単独親権”法を堅持している国であり、両親の別離に際して片親が独占的に親権を行使できる)について知り、特に国際結婚・離婚に多い、子が半誘拐状態で片親に養育され旧伴侶の子供との接触をシャットアウトしている多くのケースに興味を抱いた。フランスと日本の国際結婚・離婚に起因する子の親権問題(フランス及び世界のほとんどの国が共同親権を認めている)だけでも数十件に上り、フランスでのニュース沙汰になっている。
 ただしこのスネの新作は上段に構えた社会派(つまり日本の単独親権制度を告発するといった)映画ではない。(国際離婚・国内離婚を問わず)親権を与えられず子供と引き離された片親の不幸と子との再会のための闘いが強調されて画面に登場するわけでもない。ここに見えるのはやはり「不思議の国ニッポン」と「不思議の都トーキョー」なのである。
 フランス人ジェローム・ダ・コスタ(演ロマン・デュリス)は愛称を「ジェイ(Jay)」と言い、日本人からは「ジェイさん」と呼ばれる。東京の大手タクシー会社(KMタクシーという名前、まあ、ありなんでしょ)に所属するタクシードライバーであり、そこそこ流暢な日本語をしゃべり、東京の隅々の道路を知り尽くしている(同業運転手からカーナビに出てこない新住所への行き方を訊ねられて、スラスラと答えてやるシーンあり、笑ってしまう)。かつては上級レストランシェフだったが、日本人女性ケイコ(演Yumi Narita 在フランス女優)と結婚し、娘リリイが3歳の時に破局別居。離婚はしていない。離婚したら”単独親権の国”日本では完全に親権を失ってしまうのでそれを避けるために離婚を拒否している。しかしケイコはリリイを連れて行方不明になり、ジェイとのコンタクトを絶っている(映画の後半でジェイがずっと養育費を払い続けているという話になっていて、この辺辻褄が合わないが、ま、いいか)。それから9年、ジェイはタクシー運転手に身をやつし、巨大な東京で娘リリイを探し回り、娘に再会することだけを希みに東京に住み続けている。Jay le taxi, c'est sa vie.
 流しのタクシーという言葉があるので、「東京流し者」とでもダジャレてみたいところだが、KMタクシー予約制のシフトに入っているので、会社の運用センターの無線指示通りに走る雇われドライバー。ある日同僚のホンダというドライバーが病欠(実は”過労バーンアウト”気味の仮病休みで、これは"エムケイ”社への当てこすりのようにも見える)で、ジェイが代役で起用され、脚負傷で松葉杖歩行の女子中学生の学校送迎を担当、この女子中学生がなんとリリイ(演メイ・シルネ=マスキ)だったのだ。

 この偶然を絶対に逃してはならないと、ジェイはホンダに頼み込み女子中学生送迎の担当を続けさせてもらい、露骨に父親を名乗ることを避け、少しずつ接触の切り口を開こうと...。言わば中年ストーカーの未成年少女接近なのだが、それは名優ロマン・デュリスのチャーミングな日本語トーキングも手伝ってもどかしくも切なくて...。ブルジョワ女子中学生リリイは「おじさん日本語上手ねえ」などと事情を理解しようとしないコメントあり。「ハーフはいろいろ大変なのよ」などとしたり顔のコメントあり。怪我リハビリ中のアーティスティックスウィミング選手であるリリイのプールに忍者のように忍び込み、水着姿のリリイをスマホで盗撮するシーンあり→やはりこれは不思議の国ニッポンの性風俗への当てこすりなのだろうか。それはそれとして、タクシー車内という密室空間で、ジェイとリリイの距離は少しずつ埋まっていくのだが...。
 さてこの映画に撮り込まれた不思議の国ニッポンと不思議の都トーキョーであるが、タクシーの車窓はヴェンダース『パーフェクト・デイズ』のトイレ清掃作業ライトバンからのトラヴェリングと似て、どこか哀愁の近未来メガポリスなのである。『パーフェクト・デイズ』と同じように何度か銭湯シーンあり。ジェイが脇腹にLilyという文字と花の刺青があり、それが銭湯では”禁止”という不思議の国ニッポンの掟に従って、大きな絆創膏を脇腹に貼って入浴しなければならない。何度めかに「お客さん、タトゥー見えちゃってるんですよ」と銭湯の親父にたしなめられるシーンあり。
 単独親権の犠牲になって子供と離ればなれになって生きる片親たちの互助サークルがあり、9年目のジェイはその世話人のような役割を担っているが、そこに集う親たちは外国人だけでなく日本人もいる。一緒にその苦労を語り合ったり、カラオケでウサを晴らしたり...。その種のパーティーでそのメンバーの二人、フランス人のジェシカ(演ジュディット・シェムラ)と日本人のユウ(演阿部進之介)が泥酔してしまい、送っていくジェイのタクシーの中で、ジェイのカーステからジョニー・アリデイの「とどかぬ愛("Que je t'aime"日本語ヴァージョン)」(1970年)が流れ、酔漢のユウが(日本語で)歌い出し、リフレイン「ク・ジュテーム」を3人で大唱和するというシーンあり。ありえないシーンではあるが、私の観た映画館の観客はどっと湧いた。
 加えてトーキョーの一種の文化風景とも言える町の古本屋があり、気の良い隠居インテリのような風情の本屋主人の役であがた森魚が登場し、ジェイとカタコトのフランス語でやりとりするシーンあり。ジェイの苦労をよく知っているように描かれているのは”下町人情”演出にしたかったのだろうか。
 といったふうに、日本好きフランス人観客の心をくすぐるような細かいところは結構あるんだけどね...。

 映画はジェイの娘可愛さに迅る心がエスカレートして、タクシー会社の規則やぶりがバレたり、元伴侶ケイコ(+その母)にジェイのリリイ接近が発覚され、大きな揉め事に発展していく。ジェイはやむことができず暴走し、リリイはジェイの正体を知ってしまい....。ところが、(映画ですから)、娘は父の熱情ク・ジュテームを一瞬で理解し、自分から「行こう!」とジェイを促し、タクシーのナビや通信装置を壊し、ジェイ・ル・タクシー、父娘二人の逃避行が始まる...。映画ですから。
 暴走ジェイのタクシーは(たぶん)房総の海浜へ。不思議の国ニッポンにはこんな素敵な超長い砂浜の海辺があって、たくさんの老若男女が集まって地引き網を引いている(たぶん有名な九十九里浜)、リリイもジェイも一緒になって地引き網を引いている(このシーンは美しい)。地引き網は大漁。採れた多量の魚を早速海辺テントで焼き魚に。この時ジェイは昔取った杵柄で焼き魚シェフに変身、みんなに絶品の魚グリルをふれ回るのであった。ジェイもリリイも満面の笑顔。ひとときのしあわせは(映画ですから)長続きはしない...。

 結末はジェイが逮捕され、日本の司法はジェイを即座にフランスへ強制送還してしまうのだけど...。

 軽い。親権問題の実際の当事者たちには極めて重いテーマのはずなのだが、軽く不思議の国ニッポンの映画になってしまいましたね。すべすべした日本とトーキョーのエキゾティスムだけでもありがたがって観る人たちが多いんだ、このフランスは。(日本で配給上映される可能性が高いので、日本ではどう観られるか、ちょっと興味はある)

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)『Une part manquante  また君に会えるまで』予告編




2024年11月8日金曜日

首裂け女が声を取り戻すまで

Kamel Daoud "Houris"
カメル・ダウード『天女たち』

2024年ゴンクール賞

れを書いている10月末現在、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』と並んで2024年度ゴンクール賞の最有力候補に挙げられているアルジェリア人仏語作家カメル・ダウードの3作目の長編小説(412ページ)。『ジャカランダ』が1994年のルワンダ大虐殺(死者80万〜100万人)を題材にしているように、この『天女たち』も1992年から2002年のアルジェリア内戦(「暗黒の10年」)(死者15万〜20万人)をめぐる小説である。
 まず作者のカメル・ダウードに関して。1970年生れのアルジェリア人でフランス語表現の新聞/雑誌ジャーナリストを経て作家に。2013年、カミュ『異邦人』(1942年)中で主人公ムルソーに殺されたアラブ人の弟を話者にして同小説をアラブ人側から書き直した『ムルソー再捜査(Meursault, contre-enquète)』 で、ゴンクール賞の最終選考まで残って注目された(同作品は日本語訳あり)。ジャーナリストとしても作家としても、アルジェリア現体制とイスラム原理主義に対する批判的言辞のため、当局と宗教組織の両方から脅迫を受けていて、自らの言論表現の自由を維持するためにフランスに移住せざるをえなくなっている。
 本書も故国アルジェリアでは書くことが困難だった小説であり、実際、2024年8月に仏ガリマール社から刊行された本書はアルジェリアでは発禁となっている。発禁の根拠となっているのはこの小説がアルジェリア内戦(1992年〜2002年)を題材としているからであり、それは内戦終結後2005年に(国民和解政策=Concorde civileを推進する)ブーテフリカ大統領が国民投票の審判を得て発布した「平和と国民和解のための憲章」の第46項に明記されている”国家的悲劇(=アルジェリア内戦)”の文書その他による記述利用の禁止(3年から5年の禁錮及び25万から50万ディナールの罰金)であり、この項目は小説の本編に入る前の前文資料として抜粋されている。
 小説は2018年6月のオランから始まる。話者はオーブという名の26歳の女性であり、彼女は妊娠していて、小説はオーブが胎内の子供(娘と断定している)に語りかけるというモノローグ体で進行する。この胎児を彼女は "ma houri"(私の天女)と呼びかける。"houri(フーリー)"とは私のスタンダード仏和辞典では「(イスラム教徒に約束されている)極楽の美女」と説明されている。日本語版ウィキペディアでは「フーリーは天国に来たイスラーム信徒の男性のセックスの相手をするとされ、一人につき72人のフーリーが相手をするともいわれる」とある。信心深い男のイスラム教徒の死後の天国で約束されている美貌の処女たち。戯画的な意味合いもあろうが、イスラム原理主義的ジハード戦士たちが死を恐れないのはこの来世に約束されているフーリーのおかげと言われる。
 オーブはこの胎児を産み育てるつもりはない。中絶薬で”殺す”ことにしている(もちろん非合法であり、見つかれば禁錮10年から20年の刑を喰らう)。天からやってきた娘をそのまま天に返してやるというヴィジョン。その方が娘にとってずっと幸せである、という考え方。この世(現世のアルジェリア)に女が自由に自己実現する可能性があるとは思えない。その生きた証拠が自分オーブである。オーブは自分の体験してきたことをすべてこの胎児に語り、おまえをなぜ生かしておけないのかを理解してもらおうとしているのだ。
 1999年12月31日の夜、5歳だった彼女は、家族全員(父、母、姉)をテロリストたちによって惨殺され、自らも深く喉を切られ瀕死の重症を負った。一命はとりとめたものの、声帯を失い、喉に気孔を開けられ、斬喉の傷痕は顎の下の首に耳から耳まで17センチの長さで生々しく残っている。これを彼女は"sourire(微笑み、スマイル)”と呼んでいるが、それを見た者は戦慄する。彼女はその悍ましい形相と共に少女から大人になった。声帯が復元できなかったので、彼女は無声音でしか話せず、人からは唖のように思われている。彼女は言葉を失ったわけではなく、声帯を失ったのだが、それは象徴的にあの内戦の10年を語ることを禁止されたアルジェリアのメタファーとなっている。
 内戦がどのようにして始まり激化していったかを小説は詳しく書いていないので、簡単に言えば1992年、アルジェリアで急速に勢力を伸ばしてきたイスラム原理主義政党(イスラム法=シャリーアに則った社会実現を標榜する)のイスラム救国戦線(FIS)が選挙で多数派を獲得するのが確実となったことに反発する軍部がクーデターを起こし、選挙の無効を宣言、FISの解党を命じ指導者及び党員たちを逮捕した。非合法化されたイスラム原理主義勢力が山岳地帯に篭り武装化(その最大勢力がGIA = Groupe Islamique Armé イスラム武装集団)し、反政府テロ活動を展開し、政府軍と交戦する一方、イスラム法シャリーアによる社会支配を強行すべく非イスラム者(不信心者)/異教徒/西欧文化に毒された市民たちを弾圧し、エスカレートして村ぐるみの刎首虐殺まで行われるようになった。これが10年間も続き内戦による死者は15万人から20万人に及ぶと言われる。
  そのテロ集団のイメージはカラシニコフ銃を乱射するというよりも、ギラギラに研がれた巨大な屠殺包丁をかざして、老若男女構わず無差別に目についた人間すべての喉首を刎ねるもので、私は(アルジェリア内戦で皆殺しにされるカトリック修道院道士たちを描いた)グザヴィエ・ボーヴォワ監督映画『神々と男たち(Des Hommes et Des Dieux)』(2010年カンヌ映画祭グランプリ)のシーンを想った。
 喉首を切り裂かれた5歳の少女は生き残り、ハディジャと名乗る女性(弁護士、家族をすべて失ったこの少女の養母となる)に発見されて病院に収容され、声帯こそ失ったものの奇跡的に(つぎはぎだらけの)健康体に回復された。子供のいなかったハディジャは1999年12月31日から2000年1月1日の夜半に刎首され再生したこの子をAube(夜明け)と名付け、この子の母になった。そしてその後もこの子の”声”を戻してやるべく、ヨーロッパやアメリカの先端医学機関を当たり、(大金を用意して)声帯再生の可能性を探し続けているが、実現に至っていない。
 少女は自分と家族に起こった世にも残酷な出来事がその後追及されないばかりか、人々の忘却の彼方に押し去られていることに憤っている。学校の歴史の授業で20世紀最大の事件としてフランスからの独立戦争のことは徹底的に教え込まれ、その一部始終と英雄たちの名前は暗記させられるのに、”内戦”のことは一切教えない。歴史の課題で自分の体験をレポートすると、そのせいで歴史の採点はゼロになり、進学を断念させられる。この国のいたるところに、独立戦争の戦勝記念碑や犠牲者の慰霊碑はあるのに、”内戦”の夥しい犠牲者のそれはどこにもない。ブーテフリカの国民和解政策は、この内戦をなかったことにすることだった。大多数の旧テロリストたちを恩赦し、アルジェリア社会に「魚屋」として復権させた(テロ政治犯に「魚屋」になる宣誓を条件に釈放する、というこの小説で説明されているエピソード)。そしてかのイスラム原理主義はやや”ソフト”に変容するも、アルジェリアの男たちの間に再び浸透していく。
 上の学校に行けなかったオーブは美容師になり、オランで美容サロン「シェヘラザード」(この名前も象徴的、自分の死刑執行を免れるために1001夜にわたって物語を創作して語る女)を経営するようになった。その近所にイスラム礼拝所があり、そのイマームはあからさまにこの美容サロンの存在を敵視している。女性が美しく装身したり、”扇情的”な身なりをしたり、女性たちが集まって談笑することを禁止したい。集団礼拝の席で集まった男たちにそう説法しているのだ。イマームの差し金か、美容サロンには嫌がらせや空き巣狙いが後を立たない。この小説の中で、美容サロンは重要な原理主義への抵抗の場所のように描かれる。
 オーブの妊娠を知らない母ハディジャはその時オランにおらず、オーブの声帯復元の可能性を聞きにブリュッセルの医師のところに行っている。この不在の間にオーブは胎児を始末しようと考えている(実は殺すかどうかはまだ迷いがある)。
 1999年12月31日の夜、(オーブとその家族が住んでいた)ハド・シェカラ(Had Chekala)の村はテロリスト軍の襲撃に遭い、1000人の村人が殺された(註:史実としてのハド・シェカラ村の大虐殺は1997年12月に起こっている。リンクした記事は日刊オラン紙2006年に同紙記者だったカメル・ダウード自身が書いている)しかしこの事実は誰も語ろうとしない、あるいは国によって隠蔽されている。オーブがただ一人の生存者かもしれないが、この事実が公けになっていないので、オーブの瀕死の負傷も首に大きく残っている刎喉の傷も自分がいくら主張しても「交通事故によるものではないか?」と疑われても証拠がない。10年の内戦は消され、証言者は私ひとりしかいないのか?声帯を失ったオーブは、事実を伝える言葉も失ってしまったのか。私はひとりでも私の家族と私の声を奪った戦争があったことを語り続ける。明日のないこの胎児に向かって語り続ける。
 話は前後するが、おなかの中の子供の父親に関するエピソードが小説の第二章の後半の259ページめから270ページめまで展開されている。オラン郊外の漁村の漁師の青年で名前はミムーンと言う。オーブの孤独な海辺散歩で出会ったこの青年は、冬の海で泳ぐ逞しい肉体を持つ。父親は軍人だったがテロリストに殺された。母親ザーラは農村の出だったが、村がテロで壊滅される前に国防軍の隊長だったミムーンという軍人の手引きで別村に移住して難を逃れている。二人は恋に落ち、30日間だけの蜜月の日々を送るが、その棲み家にもテロの魔手が襲いかかり、ミムーン隊長は殺害され、妻ザーラは誘拐され(テロキャンプ地で暴行され)救出された時は身重の体になっている。ミムーン隊長の母、つまりザーラの義母は生まれてくる子はテロリストとの間の不義の子であると決めてかかる。その子は生まれ、近所の子たちから”Batard! Batard!"とはやしたてられいじめられながら大きくなるが、そのおかげで誰にも負けない水泳少年になる(水泳ストロークに"Batard! Batard!と自らかけ声をかける)。少年が10歳になった時、母ザーラは義母のところに少年を連れて行くと、義母は少年にわが子ミムーン大佐とうり二つの姿を見て抱きしめ、ザーラに詫び、その子にミムーンの名を与えたのだった。その後母も祖母も亡くなり、漁師ミムーンはヨーロッパ大陸(スペイン)に渡ることだけを夢見て、渡航資金(passeur = 密航あっせん人に渡す金)を貯めている。海の匂いのする逞しい青年はオーブを”ma muette”(俺の唖娘)と呼んで愛し、何も言わぬオーブに自分のすべてを語り、舟小屋での逢瀬を重ねた。そのことを言うべきか言うまいか逡巡の数日ののち、オーブが再び舟小屋を訪れると、その姿はない。漁師仲間が言うには、哀れなミムーンは密航あっせん人と出て行ったと...。
 この小説のなかで唯一のオーブの純愛・悲恋のパッセージであり、胎内のミムーンの子を殺そうか生き延びさせそうかの揺れ動きの振幅は大きくなる。

 2018年6月、アイード(犠牲祭)の前日、女たちは家に閉じこもってラマダン明け祝祭の準備に明け暮れ、男たちはモスクに祈祷に行き、街の人通りがない頃、オーブが着くと美容サロン「シェヘラザード」はめちゃめちゃに荒らされている。美容サロンを娼婦たちの巣窟とプロパガンダするイマームの信奉者によるものであることは明白だ。犠牲祭のせいで誰も仕事しようとしない警察署でけんもほろろに突き放され、その上路上で暴漢に襲われ、ボロボロになって彷徨っているところを、一台のトラックに拾われる。
 第一章「声 la voix」に続く第二章「迷路 le labyrinthe」は157ページめから298ページめまで(全三章中最も長い)で、オーブを拾ったこのトラックの男とオランからルリザンヌに至る自動車道路を行く一種のロードムーヴィーである。第一章はもっぱらオーブが胎児に語りかけるモノローグであったが、第二章はそのトラックの男アイッサが運転中に一方的にオーブに捲し立てる内容をオーブが聞き書きする体をとっている。
 アイッサも一家をテロで失ったが、家は代々続いていた書店/出版社であった。かつて本屋は地区の文化知識とコーラン解釈をつかさどり、地区全体の敬意を集めていたものだが、イスラム原理主義者たちからは退廃を蔓延させるとして目の敵にされ、暗黒の10年は多くの書店を潰し、出版は激減した。アイッサの父がやっていた書店はテロリストたちが唯一「有益」と認めた料理の本だけを出版することが許された。父と兄を殺されたアイッサはそれでも細々と料理の本を出版し続け、アルジェリア全土のまだ残っている本屋にアイッサ自らがトラックで配達していた。人生のほとんどを自動車道路上で過ごしている。アイッサは優秀で父に可愛がられた兄と違って学業を放棄して読み書きができなかった。読み書きのできない本屋、このコンプレックス! だがアイッサは本屋をやめない。文字で過去(暗黒の10年)を記録できなかったことを悔やみながら。なぜなら彼はその10年にラジオで報道されたテロ襲撃事件のニュースをすべて記憶しているのだ。日時、場所、被害者の数と名前... 。この10年間の大悲劇のほぼ全データがアイッサの記憶の中にある。これを配達出張で出向いた土地のカフェで語り始める。内戦が沈静化した後の1、2年は熱心に聞いてくれた人たちもいたが、やがて誰も聞かなくなるばかりか、狂人扱いされてカフェから追い出されてしまう。誰もこんな大悲劇があったことなど信じてくれない。内戦がどれほどの犠牲者を出したことかを誰も文字にしていないのだから。アイッサは絶望しながらもこのトラック全国巡回をやめない。
 第二章の初めでアイッサはこの言葉の出ない女との出会いを「天から使わされた」と直観した。この女の首に生々しく残った17センチの刃物傷を見た時、これは内戦の生き証人であり、初めて自分と同じ側の人間と出会ったと歓喜したのだ。トラックはオランから東に向けてルリザンヌへの自動車道を進み、運転席のアイッサはもの言わぬオーブに立板に水のごとく自分のことと内戦のことを喋り続ける。オーブは最初はいかにしてこの狂ったような喋り男から逃れてオランに戻ることができるかのチャンスばかりうかがっていた。
 文字のない男と音声のない女。二人に共通するのは奪われ消された10年の内戦の真実を取り戻し、明らかにすること。これがこの小説が書かれた第一の理由である。だが第二章の中での二人の意気投合はない。オーブはたった一人(加えてたった一人の自分の聞き役/証人になった胎児のフーリー/天女)の戦いにすることを選んで、トラックから逃走する。

 第三章「刃 Couteau」はルリザンヌから90キロ離れたハド・シェカラの村まで乗合タクシー(ふつう女性ひとりを男性客の乗ったタクシーに同乗させることはない)を使ってやってきたオーブのたった一人の戦い。19年前、父と母と姉を含む1000人の村人が虐殺された "L'endroit mort(死の場所)"へやってきたのだ。「私の名はルビア(オーブになる前の名前)、この村の地主だったハレド・アジャマの娘」と村人たちに告げ、村人たちの反応を知りたかった。ところがそんなオーブの声に聞き耳を立てず、村はそれどころではないスキャンダルが巻き起こっていた。村のシャイフ(長老)でモスクのイマームでもある男が営んでいるハラル肉屋が、犠牲祭用に屠されハラル認定された羊肉として売っていたものが実はロバの肉だったという噂に、村中の男たちはモスクのその男に詰め寄っていくが、シャイフはアッラーに審判を仰ぐ、と...。村のラブハと名乗る少女がオーブに近寄ってきて「あなたはTVジャーナリストでしょう、このスキャンダルを報道するためにやってきたんでしょう?」と。少女は村の女たちに「ジャーナリストがやってきた」と言いふらし、テレビで流したいことがあるならこの人に話したらいい、と。最初オーブに対して門戸を閉じていた村の女たちは次第にその扉を開いていく。
 オーブをジャーナリストと信じて自分のすべてを語り始めるハムラと名乗る女のストーリーがこの小説で最も凄絶なエピソードであり、それは330ページめから356ページめまで25ページのヴォリュームで展開される。その女はかつてテロリストと見なされ乳飲子を抱いて3年の牢獄生活を送って出獄したが、テロリストの烙印はついて周り、仕事をすることも役所に援助を求めることもできず乞食生活をしていたが、ハド・シェカラの叔母が引き取ってくれ、絶対に家から外に出ない、外部に顔や名前を晒さないという条件で生き延びている。その存在が知られたらテロリストの汚名によって再び放逐されるのは明白だから。内戦が終結し、男のテロリストたちは恩赦され社会復帰が許されたのに、女たちは許されないとハムラは言う。しかもその女たちはみんな村から誘拐されて山中のテロリストキャンプで強制労働/強制結婚/強制出産させられ、監禁状態でテロ協力者にさせられたにも関わらず...。ハムラはアイン・タレックの村の出身で一人娘だった。将来を誓い合った隣家の若者と言葉の少ない清い恋を続けていたが、山から降りてきたテロリストたちは若者に結婚式用の白装束を着せた上で”半刎首”して生きて血を流している状態で、ハムラとの逢引きの場所だったオリーブの木の枝に吊るし、悶死させた。18歳でハムラは村の処女たち(13歳から15歳)5人と共に誘拐され、絶対服従と私語禁止、昼は料理・育児・家事一切、夜は着飾って”夫”をあてがわれて性奉仕を強いられた。”アッラーの兵士”たちは日中は村に降りて殺戮と金銭物資食糧の略奪をもっぱらにし、夜は”アッラーの国”実現のための子孫兵力再生産に勤しんだ。ハムラはその2年間のキャンプでの隷属生活で3度”夫”をあてがわれ、2度妊娠した。だが、キャンプの牢獄で同じように誘拐されてきた政府軍兵士で爆弾製造技術者(テロリストのために爆弾を作らされている)の男と目と目で交信することができるようになり、彼の目から奴らのテロ計画で使う予定の爆弾をキャンプ地内で爆破させてしまう意図を読み取る。その日が来て、爆弾技師はその意図通り大爆発と共に自爆してしまうが、それに乗じて妊娠9ヶ月だったハムラは全速力でキャンプを脱走することに成功する。逃走中に羊水が流れ出し、ハムラは森の暗闇の中で一人で分娩し、石で臍帯を打ち切り新生児を置き去りにして逃走を続けるがやがて力尽き...。
 気がつくとハムラは政府軍に救出されている。新生児も無事回収されている。ハムラはこれですべてが解決したと思った。政府軍はハムラにテロリストキャンプに関するすべての情報を求め、ハムラは包み隠さずすべての情報を与えた。それに基づいて政府軍は山中のテロリストキャンプに総攻撃をかけるのだが、反政府テロ軍団はそれを待ち伏せしていたかのように政府軍を大破してしまう。このことでハムラのテロ組織との共謀が疑われ、3年の禁固刑を喰らってしまう。以来ハムラは一生テロリストの汚名を着続けることになる...。ハムラはこのジャーナリストがこれをテレビルポルタージュで伝えることで自分の汚名が晴らされると...。
 オーブはこれは自分と同じように言葉と内戦の事実を消されてしまった女だと思い、大泣きするのだった。

 第三章大詰めは、ハド・シェカラ村の丘の頂上にある(エルサレムの”岩のドーム”を模したと思われる)豪奢なモスクが舞台である。中では村の男たちがイマーム(村のシャイフで肉屋)に犠牲祭用に売られた肉が羊ではなくロバだったかどうかの真偽を迫っている。その最中にパンタロン姿でスカーフもせず乱れた髪を露出させた女オーブが闖入し、声なき声で叫びながら祭壇のイマームのマイクを奪って19年前の虐殺の真実を聞き出そうとする。旧村民アジャマ家の娘ルビアを名乗る不逞な女を力づくで追い出そうとする男たちを制して、このイマームは説得力のある幾多の詭弁説法(30ページほど続く)を使ってオーブを訥々と言いくるめようとする。要は "L'oubli, c'est la misericorde de Dieu”(忘却は神のお慈悲である)という一点である。この村で起こったことを忘れるということも神の選択である、と。この村の人々は貧しく非力であり正義の側に立てなかったことを恥じて生きているが、そのためには忘却も必要であったと。この村は忘却であると。この説法に全く納得していないのに抗弁のできないオーブだった。
 このイマームの長広舌で告白されるこの男イマーム・ザブリの生い立ちの中で、自分の双子の弟ハメドとの確執・嫉妬・敵対が語られる。敬虔なイスラム肉屋の子だったこの双子は、鏡のように似ていて父親の教育によく従い、コーランを学び、二人ともイスラム肉屋を継ぐはずだったが、兄ザブリが初めて一人で羊を教義に則って屠る場で、ハメドが緊張のあまり何もできなかったことに父の怒りを買い殴打される。この時からハムドは自分と違う道を歩むようになり、内戦時代には自ら志願して山に入りテロリスト隊長になっていく。その後ハメドの消息はつかめていないが、政府から写真つきで指名手配されたハメドの顔のせいでこのザブリは同一人物の嫌疑で逮捕投獄されている。小説の最終部で、このハメドがまだ生きていて、兄への嫌がらせでロバ肉スキャンダルを仕組んだのもハメドであり、そして19年前のハド・シェカラ村の虐殺もハメドであろうということがわかっていく...。
 
 ”忘却論”に翻弄され、自分の戦争の真実を取り戻しにこの地"L'endroit mort(死の場所)"までやってきたのに、何も得ることなくモスクを出て行ったオーブは、電柱が示す方角を頼りに、電柱沿いに道なき道を降りていくうちに夜になり、何者かに石で頭を打たれ気を失う。気がつくと、手足を縛られて、廃屋倉庫の中にいる。 そこにいた男は明らかに精神を病んでいて、取り止めのない独語を繰り返していたが、女が気を取り戻したと見るや近寄ってきて「誰に頼まれた?俺を警察に密告するためか?嫉妬深い嘘吐き野郎の俺の兄の差し金か?」と激しく詰め寄ってくる。その顔はその午後モスクで会っていたイマーム・ザブリとうり二つ、すなわち消息不明の双子の弟ハメドであり、この倉庫はロバ屠殺場として使われていた。
 おそらく翌朝にはハメドに刎首殺害されることを覚悟したオーブはその夜、この倉庫の隙間から見える外の景色が父が持っていた小さな農場であることを知り、このすぐ近くで1999年12月31日夜、姉とオードがテロリストの刃で首を切られたのだった。その光景ははっきりとオードの脳裏に焼きついていて今日まで何度も脳内反芻されるのだが、その時首を切られながら姉はオードの方を向いて何かを言おうとしていた、そのメッセージが何だったのかをこの夜にはっきりと読み取ることができたのである。それは幼かった姉妹が好んでしていた”数かぞえ遊び”の合言葉「クーカ couca」。私の方を見ないで目を閉じて死んだふりをして数を数えるのよ。そうはっきりと読み取れたのである。オーブはその時まで死んだ姉への負い目(姉が死に、自分だけが生き残ったことへの罪悪感)ばかり感じて姉への詫びばかり唱えていたのに、それは間違いだった。姉は首を切られながら、私に数えよと命じていた。何千、何万という数字を数えることで”生”を延長させよ、と。それは生へのメッセージであり、おまえは生きよ、姉の分まで二人分生きよ、という教えであった、と。このことを理解した時、オーブは胎内の子の命を守りたいと初めて思ったのであるが、しかしそれは遅すぎる、私はもうすぐロバ屠殺人ハメドに殺されるのだから... 。

 ここまで書いたら、結末を隠すわけにはいかないので....。その朝、オーブを廃屋倉庫から救出したのは(本屋トラックから彼女が逃げ出した時からずっと追跡していた)アイッサだった。ロバ屠殺人・元テロリスト隊長のハメドと、その兄イマーム・ザブリは憲兵隊に逮捕されるだろうという村人たちの話だったが、それは重要なことではない(たぶんそうはならないだろう)。しかしアイッサに救われ、その腕の中に抱きしめられたオーブは初めて二人分の命を体感する。
 1年後、オランの夏の浜辺で、オーブ、アイッサ、ハディジャ、そして乳児が陽光を浴びてくつろいでいる、という最終シーン。生まれた女児はカルトゥームと名付けられる。もちろんエジプトの大歌手にあやかった名前であり、それは”声”の象徴である。生まれたカルトゥームはオーブの”声”になった。(完)

 読みやすい本ではない。読み進めるのに色々と学習させられた。それも読書の徳の一つ。冒頭でも引き合いに出したが、ガエル・ファイユ『ジャカランダ』(2024年ルノードー賞おめでとう)のルワンダ大虐殺はフランス(ある意味で関与国)でも大きく報道されその全容は掴みやすいものだが、この本のアルジェリア内戦の10年は本国の意志(それに外国メディアの加担もあるのか)は多くが隠されたままであり、正確な死者数も知られていない。都合の悪い過去を隠蔽するのはどの国にもあることと言えるが、人間たちの過去が消されることへの抵抗は屈されてはならない。それが女性たちならばなおさらのことである。カメル・ダウードの本書は本国では孤立無援の闘いのような印象がある。フランスはこの作家を受け入れこの本を書ける環境を提供したがゆえに、アルジェリア当局との摩擦は避けられないが、文学のパワーはそういうものでもある。関わったさまざまな人たちの勇気にも感服するが、カメル・ダウードの筆力は圧倒的だ。多くの人たちに読まれますように。

カストール爺の採点:★★★★☆

Kamel Daoud "Houris"
ガリマール刊 2024年8月 412ページ 23ユーロ


(↓)出版社ガリマール制作のカメル・ダウードによる自著『天女たち』紹介。