ルネ・ド・セカティ『わが日本の歳月』 René de Ceccatty "Mes années japonaises"
初めて読む著者である。ルネ・ド・セカティ(1952 - )は小説家(随筆家)・劇作家・翻訳家として非常に多くの著作がある(ウィキに列挙されているだけでも150点以上)。翻訳はイタリア語からの仏訳(ピエル・パオロ・パゾリーニ、アルベルト・モラヴィア等)と日本語からの仏訳(夏目漱石、大江健三郎、横溝正史、三島由紀夫等)であり、日本語翻訳の方はすべてNakamura Ryôji(この名前ネット検索では特定できない)との共訳ということになっている。
Roman(小説)と言っていいのだろうか。本書はルネ・ド・セカティの自分史のほとんどすべてであり、その自分を形成した最重要な要素に「日本」があり、その関わりの(ほとんど)すべてを詳らかにした246ページである。日本愛などと定義できるものではない。日本との出会いが彼にとっての「第二の誕生」であったのだから。
話者(ルネ・ド・セカッティ)は1977年9月に初めて日本の土を踏んでいる。成田空港が反対運動の激化で開港延期となり、羽田に着いてモノレールで都内に入っている。その時25歳。作家として初めて出版社と契約が取れた時期。職業的には北フランスで高校教師(哲学)をしていたが、兵役に代わる外国での教職活動として東京で2年間、かの九段の学校で教鞭を取ることになった。すでに東京のフランス村となっていた神楽坂界隈が彼のホームグラウンドになるのだが、その宿舎にあてられた「ヴィラ神楽坂」の窓に聞こえてくる石焼きイモ屋台の呼び声や、ちり紙交換軽トラックのアナウンス、よその学生寮のマージャンの音といったものに反応して快いカルチャーショックを。この40年前の衝撃の記憶を、話者はまめに保管しておいた母やその他の人々とやりとりした書簡をもとに再構築しようとする。ネットやE-メールなど遠い遠い未来だった頃のことである。ありがたき亡き母の証言、その残された書簡だけがこの自分史に客観的な視点を与えている。さもなければこの本は、意識的にも無意識的にも取捨選択された記憶断片の自身に都合のいい寄せ集めになっていたかもしれない。おまけにこの話者は前述のように非常に多作の(私小説的作品の)書き手であり、その時その時の恋愛関係で小説をぼんぼん書いてしまっている。だからこの作品の中でも、「だれだれとの関係のことはどれどれの小説で書いている」という断り書きが何箇所にも現れる。おいおい、これではこの著者の熱心な読者でない者にはとても読みづらい本ではないか、と思われる。大丈夫。それは全然重要なことではない。
彼はゲイである。それを隠したことはない。しかしこの77年の日本渡航の前に、ルネはセシルという女性と恋仲になり、東京には「夫婦」として移住する。セシルも先進的な女性であり、闘士的な活動もする芸術家(画家)であり、おそらくこの男をゲイと知りながらも全く新しい男女関係という冒険に賭けていたのかもしれない。少なくとも一時的にはこの二人は熱愛するのだ。だがこの脆い関係はすぐに壊れ、セシルは東京でどんどん不幸になっていく。逆にセシルからの罵詈雑言泣き言を散々浴びせられながらも、ルネはどんどん東京と日本の魅力にとりつかれ、「第二の誕生」と言うべきメタモルフォーズを実現していく。日本に関して全くの素人だったわけではない。若くして作家・演劇人としてデビューしていた話者はその豊富な教養の中に日本は含まれていたし、渡航前には日本の近代/現代作家(漱石、芥川、三島...)の仏訳本を読み漁った。渡航後は苦労しながら日本語習得にもつとめ、週刊「ぴあ」で映画・コンサート・演劇などのイヴェントを探せるようにもなった。それから在東京のフランス人ゲイ・コミュニティーや日仏学院の男子学生たちとも深く交流するようになり、その世界の深部へとどんどん入っていく。こんなだからセシルはどんどんどんどん不幸になっていき、ルネの家族をはじめ友人たちにもルネの裏切り不貞を言いふらし、ルネに対して極端に攻撃的になっていく。地獄のようだったと表現したりもするが、実のところルネはセシルの不幸を頓着していないのだ。
頻繁に恋に落ち(その度に小説に書いてしまう)、その果てにリョウジ(ナカムラ)という最重要のパートナーと出会うわけだが、この作品で奇妙なのは、このリョウジとの関係がどのようにパッショネートなものであったかを書き綴っている部分は一切ないのだ。話者が日本文学の奥の奥まで入っていく道先案内人となった、フランス語を完璧にあやつるこの長年の公私のパートナーに関して、書き方があまりに淡々としているのではないか。この二人は京都、鎌倉、金沢、七里ガ浜、尾道... その他日本の文学史跡を探訪し、ルネは日本(文学)を内在化できるほどに理解を深めていった。その結果、十数年に渡るリョウジと共同での日本文学のフランス語訳はウィキペディアに載っているものだけでも35点もある。大江健三郎、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、井上靖、河野多恵子、津島佑子...。その中には道元「正法眼蔵」というたいへんなものまで含まれている。この二人は1990年代には場所をブルゴーニュ地方の田舎家に移し、そこに十余年篭って日夜翻訳に没頭することになる。
ルネ・ド・セカティには失礼だが、この共同翻訳というのは両者の割合がどの程度のものなのか疑問がある。ほとんどはリョウジ・ナカムラの仕事ではないか。全プロセスの最後のフランス語文として雅文化するところがセカティの主な役目ではないか。ファイナル・タッチ係、それはそれで重要で決定的な役割ではあるが。日本文学/文化への理解がどれほど深いかが決め手なのだから。だからこの「共訳」では二人の立場はフェアーではなく、主任と助手のようなヒエラルキーがあったのではないか。「日本文学狂」的な尋常ならぬ熱情で短期間でこの分野のエキスパートとなったルネとて、リョウジの既に蓄積された莫大な知識と情報なくしては、できることは限定されていたと思うのが自然である。いみじくも私は「フェアーではない」と数行前に書いたが、このフェアーでないことが二人の関係の限界だったと私は読む。そのことは本書には書かれていない。
この話者は日本を愛し、日本で第二の誕生のような人生の大転換を果たしたが、日本人になろうとか、日本学を極めようとか、そういう意思は薄い。ただ凡百の「日本通(nipponophile)」や「日本専門家(japonologue) 」たちとは一線を画したい。このあたりの自分の立場、日本を深く理解し愛していてもあんたたちとは違うんだ、という個人的で親密な日本との関わりが強調されているから、この本は存在する価値があり、「極私的」日本愛と言ってもいい視点こそが本書の魅力なのだ。言い訳も躊躇もある。ただ、昭和期の神楽座を練り歩く石焼きイモ売り屋台の呼び声メロディーのように、いいものはいいのだ、という理屈なしの愛着は説得力を超えるものがある。
21世紀の現在、日本通のフランス人たちはフランスにも日本にもゴマンといるし、私にしてみればマンガやアニメの領域でなくてもその種の若いフランス人たちには全く歯が立たないほどだ。情報量ということだけではなく、ものの理解・解釈においても。しかし私とほぼ同世代であるルネ・ド・セカティは、1970年代、どのような「予備知識」で日本を見ていたろう。この本でも話者にとって重要な影響となったとされているが、70年代フランスと日本の知識人たちの必読書となっていたのがロラン・バルトの日本論『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)であった。 バルトは1966年と69年、数度来日+滞在し、この日本論を書き上げたのだが、来日のきっかけは九段の日仏学院の招待であり、67年冬は学院の宿舎に滞在していた。10年後のルネ・ド・セカティと同じ神楽坂の風景を見、袋町の小径の雑踏に揉まれていたことだろうか。話者は先達バルトに敬意を払いつつも、今やその日本論のディテールについて訂正・批判できるものをたくさん手に入れてしまった(p201からp216でバルトに関する考察)。しかたない。しかしバルトよりも多くのものを発見し、日本理解を深めた自分は、それを肥やしにして「専門家」になることも望んでいないし、ましてリョウジなしには先には進めないだろう。1985年にセカッティーはフランスで聖フランシスコ・ザビエルの日本での行状を題材にした評伝小説"L'Extrémité du monde"を上梓する。これを手にしたリョウジはその中の「ザビエルは日本を発見した」という表現におおいに難色を示す。ザビエルの前に日本は存在していなかったような、覇権主義的で植民地主義的な表現だ、と。この辺の無意識に身についてしまったような西欧優越世界観を引きずっているということを身を持って知った話者は、ある種の微妙な事柄には「沈黙」(遠藤周作の作品も引き合いに出している)することを決意するのだが...。
恋多き人であり、90年代にはエイズ死を身近に体験しながら、私小説を何編も書いてきた。パゾリーニや大江健三郎と親交してきたことは、その多作さにどう反映しているのだろうか。恋(と死)のことばかりで文学人を通せてきた稀有な人かもしれない。九段・神楽坂のフランス語文化圏で人生を変えてしまったフランス作家、今、日本は遠きにありて思うものなのだろう。
カストール爺の採点:★★★☆☆
René de Ceccaty "Mes années japonaises" Mercure de France 刊 2019年4月 250ページ 18ユーロ
(↓)ラジオRCJ(ユダヤ系コミュニティー放送局)の文学番組で、新刊『我が日本の歳月』について番組主キャロリーヌ・グットマンのインタヴューに答えるルネ・ド・セカティ。
救世主アダモ『明日は月の上で』 Salvadore Adamo "A demain sur la lune" (1969年)
(←)2019年7月20日付けリベラシオン紙フロントページです。1969年7月20日、米国宇宙船アポロ11号の2人の飛行士によるウォーキン・オン・ザ・ムーンの50周年を記念しての5面特集記事。主要テレビをはじめ世界中のメディアで同じようなことをやっているはずなので、私がとやかく言うことではありまっせん。リベ紙はその特集のタイトルとして、当時地球的規模で大スターだったベルギー人アーチスト、サルヴァドール・アダモ(1943 - )の1969年のヒット曲のタイトル「A Demain Sur La Lune(明日は月の上で)」を採用しました。言うまでもなく、このサルヴァドールは1963年の「雪が降る」以来、日本で最もポピュラーなシャンソン歌手として君臨し、何度も何度も日本に行くから、日本語も堪能ですし、日本では最もパリ的なベルギー人と奥様がたに評判です。後輩の森進一(1947年生、1966年デビュー)は往時「日本のアダモ」と呼ばれていました。それはそれ。
オリジナル曲 "A Demain Sur La Lune"は当然1969年人類月面到達という事件にインスパイアされて作られたものです。誰でも子供の頃の夢だったのかもしれませんが、お月見ならぬ「お地球見」の風流も歌詞中に現れます。どうもね、当時はロマンティックな王子さまのような、日本の奥様がたの願望に沿ったイメージが先行していたようで、あの頃、英米のポップス(ロック含め)を聴いていた日本リスナーたちと、フランス語ポップス(イージーリスニングを含め)を好んでいた人たちとの溝を大きく深めた原因のひとつにアダモがなっていたと思うんですよ。ま、(60年代ですから)ビートルズ聴く人はアダモは遠慮すると思いますよ。その溝を一挙に縮めたのがポルナレフである、という主張には一理ありますよ。だって、この歌だって、めちゃくちゃ歯の浮くような歌詞なんだ。
À demain sur la lune 明日は月の上で Aux quatre coins des dieux 四方を神々に囲まれて À demain sur la lune 明日は月の上で À trois bornes des cieux 天国にたった三里の距離のところで
Il y aura un carrosse 馬車は僕たちを Qui nous emmènera 子供の頃の夢の場所に Voir mes rêves de gosse 連れていき Et tu t'y reconnaîtras きみはこれは夢じゃないと気づくだろう
Et pour toi ma jolie 僕の美しい人、きみのために Le vent, ce magicien 風という名のマジシャンは Jouera une symphonie 千人のミュージシャンをつかって De mille musiciens シンフォニーを奏でるだろう
À demain sur la lune 明日は月の上で
Là nous verrons la terre そこから僕たちは地球を見るのさ Comme une boule de Noël まるでクリスマスツリーの玉飾りみたいに Se balancer légère 宇宙の大きなもみの木に吊られて Au grand sapin du ciel 静かに揺れている
Et d'étoile en étoile そして星から星へと Nos chevaux voleront 僕らの馬は飛んでいくだろう À l'heure où le ciel se voile 空が白い千の夢のヴェールで De mille rêves blancs 覆われるとき
À demain sur la lune 明日は月の上で
Le vent te couvrira 風はきみを D'un voile de dentelle レースのヴェールで包み Et tu t’endormiras そしてきみは最高に美しい夜のなかで Dans la nuit la plus belle 眠りにつくだろう Moi moi moi je te bercerais 僕はきみの揺籠をゆすりながら J'attendrai ton réveil きみの目覚めを待っていよう Puis je t’embrasserai 太陽が出たらその目も気にせず À la barbe du soleil きみにくちづけるのさ
ベルギーで生まれた偉大なマンガ「タンタンの冒険」(エルジェ作) の16作目で「めざすは月(Objectif Lune)」(1953年発表)というのがあります。赤白の市松模様(クロアチアの国旗のよう)のロケットで月世界探検に出発する話です。アポロ11号の16年前の想像力、そのフォルムの美しさに感服します。 さてアダモ「明日は月の上で」に戻りますが、歌詞はどうあれ、一流のメロディー・メイカーであったアダモのこの曲のBメロ、よく聴いてください。このメロディーは1975年、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」にパクられたんじゃないか、と私は真剣に疑っています。 (↓)アダモ「明日は月の上で(A demain sur la lune)」
7月16日、JCが66歳で亡くなった。"白いズールー”と呼ばれた男の「アシンボナンガ」は私にとって20世紀で最も美しかった歌のひとつだった。合掌。
JCがすい臓ガンと診断されたのは2015年のことだった。その日から死を覚悟して、最後のアルバム("King of Time" 2018年)も作ったし、最後のコンサートツアーもした。"最後の”と銘打っても、アルバムを買う人もコンサートに来る人も、当人が亡くなるまで"最後”は実感しない。しっかりとそれを悟っていたのは本人だけだ。4年間の闘病だった。この孤独な闘いのことを、2018年9月にパリ・マッチ誌のインタヴューで語っていて、そのインタヴュー記事全文がJCの死の直後ウェブ版パリ・マッチに再録された。そのうち、最後の2つの質問の部分だけ、以下に翻訳する。
2019年7月10日号のテレラマ誌の表紙はブリジット・フォンテーヌ。80歳。その前週 封切のフランスの女性たちによるロックを追ったドキュメンタリー映画”HAUT LES FILLES”(上映館が少なすぎて観に行けないので DVD化あるいはストリーミング化されたらブログで紹介します)や、自身の復活コンサートツアー(9月から)でいろいろ露出度が高くなっています。テレラマの記事は、シャンソン欄主筆のヴァレリー・ルウーによるインタヴュー込みで “J’AI DECIDE DE ME VENGER MOI ET MON SEXE”(私は私と私のセックスの復讐を果たすと決めた)という題。インタヴューの中で(おそらく)初めてフォンテーヌ自身の(非合法時代の)妊娠中絶体験と強姦被害について告白しています。問題の部分、ちょっと硬い日本語でごめんなさい、翻訳してみました。
<<< トラックリスト >>> 1. Hello, how do you do 2. You might even say 3. Alexander 4. Send you with loving 5. You're running you and me 6. Peace 7. Eagle's son 8. Graves of grey 9. New day 10. It'll never be me 11. I'm checking out 12. All gone now Bonus Tracks 13. Monsieur Rock (Ballad of Philippe) 14. Lover 15. Silver stars PHILIPPE DEBARGE WITH THE PRETTY THINGS "ROCK ST TROP" MADFISH RECORDS CD/LP 2017 カストール爺の採点:★★★☆☆