2022年4月29日金曜日

ジュテームジュテームジュテームジュテーム

Mike Brant "Mais dans la lumière"
マイク・ブラント「光の中で」


詞曲:ジャン・ルナール
編曲:ジャン=クロード・ヴァニエ

 70年代、より正確には1970年から75年まで、フランスのメガスーパースター(5年間で7500万枚のレコードを売った)だったマイク・ブラント(1947 - 1975)の3枚目のシングル。キプロス島生まれのイスラエル人、1969年テヘランのヒルトンホテルのクラブ「バカラ」で歌っていたところを、ジルヴィー・ヴァルタン(とその付き人カルロス)に見出され、フランス語を一言も話せない状態でフランスにやってきて、ジョニー・アリデイ/シルヴィー・ヴァルタンに曲を書いていたヒットメイカーのジャン・ルナールが超短期間でレコード歌手に育て上げた。マイク・ブラントの生涯についてはラティーナ誌2015年7月号に書いた記事(=爺ブログに再録)を参照してください。
 甘くエキゾティックなマスク、しなやかな長身ボディ、トム・ジョーンズばりのダイナミックな歌唱、1970年1月発売たちまち1位(フランスとイスラエル2カ国制覇)のデビューシングル"Laisse-moi t'aimer"(詞曲ジャン・ルナール)以来、コーチ/育ての親のジャン・ルナールはこの若者の路線は "Chanteur de charme シャントゥール・ド・シャルム(魅惑シンガー)"
ということで一貫していた。ロックポップ/ティーンエイジ・アイドルとは一線を画する"色もの”で行こうと。クロード・フランソワやジョニー・アリデイにはない魅力、すなわちGlamourな悩殺歌唱の美形シンガー。お下品な表現をすれば、ステージにたくさんのおパンテが投げ込まれるタイプの。
 ジャン・ルナールは1969年に、フランス歌謡史上に残る大名曲ジョニー・アリデイ「ク・ジュテーム (Que je t'aime)」(詞ジル・チボー/曲ジャン・ルナール)を世に送っている。ジョニーファンのみならず大多数のフランス人がジョニー・アリデイ最高の楽曲と称えるマスターピースである。これはきわめて肉情的なラヴソングであり、このような超ホットな恋情をシャウトできるのはジョニーしかいなかったのである。


Quand tu ne te sens plus chatte おまえが子猫でなくなり
Et que tu deviens chienne 牝犬に姿を変え
Et qu'à l'appel du loup 狼の吠え声を聞くや
Tu brises enfin tes chaînes おまえは鎖を引きちぎる
Quand ton premier soupir おまえのため息が
Se finit dans un cri 最後には叫びになる
Quand c'est moi qui dis non 俺がもう"non"と言う時
Quand c'est toi qui dis oui 今度はおまえが "oui"と言う

まあ、すごい肉欲ソングだこと。この「ク・ジュテーム」が20世紀フランス最高のシャンソンとして昇格するうえで、大きく貢献したのがジャン=クロード・ヴァニエの編曲であった。チロリロリロリロとオルガンとギターで始まる必殺のイントロ、激しく介入する打楽器とブラス隊、こんなスコアで演奏したらさぞオケもノリ上がったことであろう。天才ジャン=クロード・ヴァニエの『メロディー・ネルソン』(1971年)に先立つ2年前の仕事。ジョニー生涯を通じて最高売上シングル盤のひとつとなる「ク・ジュテーム」のオーケストレーションをしたのだから、それだけで一生喰っていけるのではないかと思うムキもあろうが、編曲家の仕事はワンショット払いで、なんぼ売れようが最初のペイだけで終わり。この編曲家という”音楽家”の不遇で不当な立場についてはおおいに問題にされなければならない。ジャン=クロード・ヴァニエ、ジャン=クロード・プティ、ミッシェル・コロンビエ、70年代フランスから現れた突出した才能の編曲家3人が後年世界的に評価されることになるものの、当時編曲家たちはみんな不当に安いペイで働かされていた。いつかこの話も記事にしてみたいものです。
 さて、編曲家ではなくて作曲家だったのでがっぽり稼いでいたジャン・ルナールは、1970年にマイク・ブラントという金の卵を手に入れ、前年の「ク・ジュテーム」の編曲のすごさを高く買っていたジャン=クロード・ヴァニエにマイク・ブラントでもその才能を発揮してもらおうと白羽の矢を立てたブラント3発目のシングル。
ではまず歌詞の方から。

L'ombre étend son manteau
影がその衣を広げる
Et ton corps est déjà bien plus chaud
おまえの体はもう熱くほてっている
Et je vois dans tes yeux
僕には見える 
Une larme, un aveu
おまえの目が涙で訴えていることを

Mais dans la lumière
でも光の中では
Tes yeux crient bien plus fort, je t'aime, je t'aime, je t'aime, je t'aime
おまえの瞳はもっと激しく叫んでいる ジュテームジュテームジュテーム
Mais dans la lumière
でも光の中では
C'est une arène d'homme où e me bats au corps à corps
そこは人間の闘技場、僕は体に体を打ちつけて闘う
Mais dans la lumière
でも光の中では
Tes yeux crient, je t'adore, je t'aime, je t'aime, je t'aime, je t'aime
おまえの瞳は叫び、僕はおまえに夢中 ジュテームジュテームジュテーム
Mais dans la lumière
でも光の中では
C'est une eau bleue qui dort où je me baigne encore
眠れる青い水の中を僕はどこまでも泳いでいく

La nuit revient bientôt
夜がやがて戻ってきて
Pour éteindre le feu de ma peau
僕の体の炎を鎮めてくれる
Et mon sang n'est plus fou
僕の血はもう狂ったようにたぎらない
Car tes yeux sont trop doux
おまえの瞳はあまりにも優しいから

Mais dans la lumière
でも光の中では
Tes yeux crient bien plus fort, je t'aime, je t'aime, je t'aime, je t'aime
おまえの瞳はもっと激しく叫んでいる ジュテームジュテームジュテーム
Mais dans la lumière
でも光の中では
C'est une arène d'homme où je me bats au corps à corps
そこは人間の闘技場、僕は体に体を打ちつけて闘う
Où je me bats au corps à corps, je t'aime, je t'aime, je t'aime, je t'aime
僕は体に体をぶつけて闘う ジュテームジュテームジュテーム
Mais dans la lumière
でも光の中では
C'est une eau bleue qui dort ou je me baigne encore
眠れる青い水の中を僕はどこまでも泳いでいく


これはモロですね。暗闇の中ではなく、灯りで煌々と照らされながらおこなうと、極度に興奮してしまう男女の激しいプロレスまがいの肉弾戦ジュテームとしか...。



(↑)動画、マイク・ブラントが性行為を暗示させる振り(2分20秒めほか)かなりあり。70年のフランスのテレビでよく検閲カットされなかったものだ。2分30秒めに驚きのムーンウォークあり。そして編曲上びっくりなのは、A旋律 - B旋律(サビリフレイン)の2巡が終わって、おもむろに(ジャン=クロード・ヴァニエならではの)アラビックで激しいリズムのアドリブ間奏になってマイク・ブラントがあえぎ声と裏声ヴォカリーズで恍惚となるシーン。もろに性行為でしょ。これは1969年レッド・ゼッペリン「ホール・ロッタ・ラヴ」と同じ手法。これまたすごい編曲をしたものだと脱帽します。
 この編曲の妙をもう一度確認していただくために、オーディオのみの動画を貼ります。よ〜く聴いてください。重い重いブラスのグルーヴ、ピアノのアタック、煌めきのトランペット隊と女声コーラス、アラビックストリングス、超絶ドラミング....。


 さて次に参考までに、日本でマイク・ブラントは知らなくてもこの曲は知っているという人も多かろうヴァージョン、沢田研二「魅せられた夜」(1973年)です。沢田のフランス進出前。26歳。マイク・ブラントより1歳年下。

すべすべした"シティー・ポップ"に聞こえますわな。セックス肉欲まったく無縁の訳詞は安井かずみ。まあそれはしかたないか。当時の沢田のイメージではないのだから。別に問題だと言わないけれど、編曲の東海林修、原曲のセックス表現の間奏部、ばっさり取ったのだね。それからヴァニエの重厚なブラス隊とは縁もゆかりもないフェンダーローズのイントロ...。ヴァニエが凝り上げたオーケストレーションの妙を全部削ぎ取ったのだね。好き好きでしょうが。

最後にあのヴァニエの重い重いイントロが好きで好きでたまらん、という人たちは世界中にいたのだよ。
2009年 エミネム (feat. Dr Dre & 50 cent) "Crack a bottle"


2022年4月26日火曜日

みんなびんぼのせいや

Ricchi e Poveri "Che Sarà"
リッキ&ポーヴェリ「ケ・サラ」


詞:フランコ・ミリアッチ
曲:ジミー・フォンタナ、カルロ・ペス、リリ・グレコ
1971年サン・レモ音楽祭2位

2022年的今日の最大の問題は「格差」である。テスラの社長が地球規模のSNSまるごと買って好き放題しようというニュースを聞くや、われわれ貧乏人はなぜそれを黙って看過するしかないのか。リッキ・エ・ポーヴェリ(直訳では”金持ちと貧乏人”、1967年ジェノヴァで結成)とはあの頃笑って済まされたグループ名だったのだろうか。南欧の半島国から出たこの男女4人組は、それより数年遅れて北欧の半島国から出てくる男女4人組 ABBAの先駆だったように思えるが、かたやサン・レモ、こなたユーロヴィジョン、欧州の人気を二分した歌謡音楽祭でめきめきその名を世界にしらしめた両グループ、後者が桁違いな地球規模のメガヒットスターに昇格するのに、前者が叶わなかったのは、私は「ポーヴェリ」が原因だと確信的に思っている。「みんな貧乏のせいや」と岡林(1971年!)は歌ったが、一理も二理もあることなのだ。

 時は1971年2月、俳優/歌手/ベストセラー作家と活躍中だったジミー・フォンタナ(あの頃の源氏名、ジョニー・ハリデイやロイ・ジェームズの類、本名エンリコ・スブリッコリ 1934 - 2013)が作曲した「ケ・サラ」が第21回サン・レモ音楽祭本選会の晴れ舞台で、2回にわたって(2組のアーチストによって)披露されるという栄誉を得る。まずジェノヴァからやってきた女二人+男二人の四声ヴォーカルグループ、リッキ・エ・ポーヴェリ。そして既に北米とラテンアメリカでスーパースターになっていたプエルトリコ人ギタリスト/シンガーのホセ・フェリシアーノ(1945 -  。当時プレスリー以来のRCAレコードのドル箱)。カンツォーネが"ワールドミュージック”扱いされていなかった頃、「ボラーレ」「チャオチャオバンビーナ」など世界的ヒットの発祥地として権威を高めていた同音楽祭が、その絢爛豪華性をさらに強調しようと米欧の国際級スターを続々参加させていた頃。「ハートに火をつけて」が1968年のミリオンヒットで、当時ホセ・フェリシアーノは英語&スペイン語スターなのだが、ここで大胆にイタリア語デビューへ。
 そしてジミー・フォンタナ同様俳優としても知られる作詞家フランコ・ミリアッチ(1930 - )が用意した詞が「ケ・サラ(Che Sarà)」ときたもんだ。ちょっと待て。「ケセラセラ」ではないのか?と思ったムキも多かったろう。ヒッチコック映画『知りすぎていた男』でドリス・デイがこの歌を歌ったのが1956年のこと。Whatever will be, will be. 起こるべきことは起こる。Que sera, sera。これはスペイン語である。この歌であまりにも有名になったこのスペイン語常套表現にミリアッチは対抗するつもりがあったのだと思う。この年イタリアは大胆だった。 E sarà, sarà quel che sarà 起こるべきことは起こる、エサラ、サラクエルケサラ。世界中の人はスペイン語ケセラセラのようには覚えられなかったが、「ケサラ、ケサラ、ケサラ」の最初の三連発だけはしっかり記憶したと思う。Italians do it better.

(↓)リッキ・エ・ポーヴェリ「ケ・サラ」1971年サン・レモ音楽祭


(↓)ホセ・フェリシアーノ「ケ・サラ」1971年サン・レモ音楽祭

ではイタリア語歌詞とその日本語訳。

Paese mio che stai sulla collina
おまえ、丘の上の私の村よ

disteso come un vecchio addormentato,

眠った老人のように横たわっている

la noia, l'abbandono, il niente

倦怠と虚無がおまえを捨てたんだ

son la tua malattia,

それがおまえの病い
paese mio, ti lascio io vado via.

私の村よ、私はおまえを捨てて去っていく

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか
che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
So far tutto o forse niente da domani si vedrà

私は何でもできるが、明日からは何もできないかもしれない、どうなることか
e sarà, sarà quel che sarà.

そして起こるべきことは起こるのさ

Gli amici miei son quasi tutti via
友だちはほとんどみんな去って行った
e gli altri partiranno dopo me.

他の人たちも私に続いて去るだろう
Peccato perché stavo bene, si,

残念だね、みんなの仲間の一員として
in loro compagnia

私はしあわせだった
ma tutto passa, tutto se ne va.

でもすべては過ぎ去り、行ってしまう

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか
che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
Con me porto la chitarra

私はギターを道連れに
e se la notte piangerò

夜に涙する時には
e una nenia di paese suonerò.

私の村のメロディーを弾くんだ

Amore mio ti bacio sulla bocca,
恋人よ、おまえの唇にくちづけた
che fu la fonte del mio primo amore.

それが私の初恋の始まりだった
Ti do l'appuntamento come e quando non lo so,

いつどこでと言えずに再会の約束をした
ma so soltanto che ritornerò.

私は戻ってくると確信してたから

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか
che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
Con me porto la chitarra

私はギターを道連れに
e se la notte piangerò

夜に涙する時には
e una nenia di paese suonerò.

私の村のメロディーを弾くんだ

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか
che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
Con me porto la chitarra

私はギターを道連れに
e se la notte piangerò

夜に涙する時には
e una nenia di paese suonerò.

私の村のメロディーを弾くんだ

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか

che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
So far tutto o forse niente da domani si vedrà

私は何でもできるが、明日からは何もできないかもしれない、どうなることか
e sarà, sarà quel che sarà.

そして起こるべきことは起こるのさ

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか
che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
Con me porto la chitarra

私はギターを道連れに
e se la notte piangerò

夜に涙する時には
e una nenia di paese suonerò.

私の村のメロディーを弾くんだ

Che sarà, che sarà, che sarà,
どうなるのか、どうなるのか、どうなるのか

che sarà della mia vita, chi lo sa?

私の人生がどうなるのか、誰が知っている?
Con me porto la chitarra

私はギターを道連れに
e se la notte piangerò...

夜に涙する時には...

 

日本で訳詞岩谷時子/歌越路吹雪で知られているヴァージョンが持ってしまったオプティミスティックな人生論とはかなり異なるものがある。まずこの歌の出発点は故郷の村を出ていくことであり、そこを捨てて新しい土地でこれから何が起こるのか、決して楽天的に考えていないことが読み取れる。イタリアで村から出ていくという現象、これは産業革命期、ファシスト圧政期、19〜20世紀にはよくあったことだった。戦後の高度成長期の後半とは言え、60/70年代でもイタリアの地方部からはフランスなどに”移民”する人たちは少なくなかった。私のような東洋人と同じでイタリア人もフランスでは滞在許可証が必要だったのだよ。「ケ・サラ」はひょっとしたら"移民の歌”なのかもしれない。なぜ移民しなければならないのか。それは「ポーヴェリ」のせいなのだよ。その含みを汲み取って、もう一度この歌を聞き直していただきたい。

(↓)サン・レモ1971から50年後、2021年2月、リッキ・エ・ポヴェーリとホセ・フェリシアーノのヴァーチャル合体ヴァージョンによる「ケ・サラ」が実現。むむむ... なんだかなぁ、We are the world風なエモーション


(↓その擬似TVライヴヴァージョン)


(↓)年代は特定できないけれど多分2010年代、パリのニューモーニングでのホセ・フェリシアーノ。「ケ・セラ Que sera」と歌っている部分がスペイン語ヴァージョン、「ケ・サラ Che sara 」と歌っているのがオリジナルイタリア語ヴァージョン。どっちでもかまわん、という反応のパリの聴衆たち。


(↓)1972年人気絶頂時のマイク・ブラント(1947 - 1975)によるフランス語カヴァー "QUI SAURA(キ・ソラ)"、フランス語詞はミッシェル・ジュールダン


(↓)リクオ「ケ・セラ」(2006年ライヴ)、歌い過ぎだと思うよ。

2022年4月23日土曜日

2022年春の一曲:悔い...悔い...悔い...

Laurent Bardainne & Tigre d'Eau Douce (feat. Bertrand Belin) "Oiseau"
ローラン・バルデンヌ & 淡水虎(feat. ベルトラン・ブラン)「鳥」


曲:ローラン・バルデンヌ
詞:ベルトラン・ブラン

From album "HYMNE AU SOLEIL"
(Heavenly Sweetness 2022年1月28日リリース)


ローラン・バルデンヌ
(1975年生)は、ブルターニュ地方の内陸部イル・エ・ヴィレーヌ県のフージェール出身のサキソフォニスト(キーボディスト/作曲家)であり、2000年代にエレクトロ・ロックの5人組ポニ・ワックス(Poni Hoax)のリーダーだった。その他、サキソフォニストのトマ・ド・プールクリーのプロジェクト(セクステット) スーパーソニック(Supersonic)の一員としてサン・ラートリビュートアルバム"PLAY SUN RA"(2014年度ヴィクトワール賞ジャズアルバム)を発表、また2018年、独特の個性ある歌手/女優カメリア・ジョルダナとのデュオプロジェクトLOSTとしてアルバム"LOST"(2019年度ヴィクトワール賞ワールドミュージック!)も。こういうロック、ジャズ/フリージャズ、ポップ/ヴァリエテのオールラウンド・ミュージシャンであるが、本領は"グルーヴ”なのだ、と2019年に結成したクインテットがティグル・ドー・ドゥース(TIGRE D'EAU DOUCE =淡水の虎)、同年発表のファーストアルバム『マーヴィン(Marvin)』から、そのオーガニックでエアリアルなソウル・グルーヴ(自分で書いててよくわからない)が高い評価を受けているのだった。まあ、今日びフランスで一番"スムーズ”な音を出すサキソフォニストということです。


 この曲"Oiseau"の入った最新アルバム"HYMNE AU SOLEIL (太陽讃歌 →写真)はティグル・ドー・ドゥース3枚目で2022年1月末にリリースされた。
 この曲でフィーチャリング・ヴォーカリストとして起用され、作詞も担当した才人ベルトラン・ブランに関しては、(ちょっと時間が経っているが)当ブログで2015年のアルバム『ウォーラー岬(Cap Waller)』の紹介記事があり、かなり詳しく書いてあるので参照してください。また2021年ベルトラン・ブランが映画俳優としても注目されるようになったラリウー兄弟監督のミュージカル映画『トラララ』についても記事あるのでこちらもご参照を。
 この歌は2022年2月頃からわが最愛のラジオFIPでよくかかるようになり、私的にはコロナ禍時代からウクライナへの戦争へと状況が加速度的に悪化した頃に耳に響いた音楽として記憶されることになろう。寓話的な鳥になりたかった蛇の嘆き節で、何もできない地上に這いつくばることを余儀なくされているヘビ(われわれ)は、下手くそな鳥のさえずりのまねごとだけはできるのですよ。ローラン・バルデンヌの哀愁のサックス、ベルトラン・ブランのクイクイクイにあらがいようもなく切なくなってしまう私であった。

Si j'étais un oiseau もしも僕が鳥になれたら
Je survolerais les villes 町の上を飛ぶよ
Je survolerais la campagne
田舎の上も
Les parkings
駐車場の上
D'autres parkings
 また別の駐車場
Des monuments (oh yeah)
 遺跡(ああ、いいねぇ)
Des chantiers (oh yeah)
工事現場(ああ、いいねぇ)
Je survolerais des chantiers (oh yeah)
 工事現場の上を飛ぶよ(ああ、いいねぇ)

Si j'étais un oiseau 鳥になれたらいいね
Même un tout petit
 ちっちゃい鳥でいいんだ
Je survolerais le pays
 国中を飛び回るよ
Avec le vent
 風と一緒に
Avec les nuages
 雲と一緒に
Avec les avions de chasse
 戦闘機と一緒に
Les avions de chasse
 戦闘機
Les avions de ligne
 路線旅客機
Je survolerais les vignes (oh yeah)
 ぶどう畑の上を飛ぶよ(ああ、いいねぇ)
Je mangerais les raisins (oh yeah)
 ぶどうを食べるよ(ああ、いいねぇ)
Je chierais les pépins (oh yeah)
 タネをうんこで出すよ(ああ、いいねぇ)
Le long des cours d'eau
水路にうんこ垂らしながら飛ぶよ
Si j'étais un oiseau
 鳥になれたらいいね

Si j'étais un oiseau 鳥になれたらいいね
Mais je n'suis qu'un serpent
 でも僕はヘビ
Et ma vie est à terre
 僕は地面で暮らしていて
Mon ventre est sur les pierres
 僕のおなかは石の上にくっついている
Où je ferai ma tombe
 ここが僕のお墓になる
Je n'suis qu'un serpent
 僕はただのヘビなんだ
Et de murs en murs
 壁から壁へ
De prairie en prairie
 草原から草原へ
Je perpétue mes hécatombes
 永久に僕の犠牲者たちを増やし続ける
D'ailleurs je mange les œufs de colombe
 第一、僕は鳩の卵だって食べるんだ

Si j'étais un oiseau 鳥になれたらいいね
Si j'étais un oiseau
 鳥になれたらいいね
Cui-cui-cui-cui-cui-cui (oh yeah)
 クイ クイ クイ クイ クイ(ああ、いいねぇ)
Cui-cui-cui-cui-cui-cui (oh yeah)
 クイ クイ クイ クイ クイ(ああ、いいねぇ)
Cui-cui-cui-cui-cui-cui (oh yeah)
 クイ クイ クイ クイ クイ(ああ、いいねぇ)
Cui-cui-cui-cui-cui-cui
 クイ クイ クイ クイ クイ 

Cui-cui-cui-cui-cui クイ クイ クイ クイ クイ
Cui-cui-cui-cui-cui
 クイ クイ クイ クイ クイ
Cui-cui-cui-cui-cui
 クイ クイ クイ クイ クイ
Cui-cui-cui-cui-cui
 クイ クイ クイ クイ クイ


(↓)「鳥」ローラン・バルデンヌ(feat ベルトラン・ブラン)



(↓)2022年9月14日に公開された「鳥(Oiseau)」のオフィシャルクリップ。


(↓)2022年11月、ベルトラン・ブランのアルバム『タンブール・ヴィジオン』の新装版に追加されたベルトラン・ブラン版の「鳥(Oiseau)」

2022年4月22日金曜日

アリアーヌ・ムヌーシュキン「ル・ペンを試そうと思うな!」

(これは2022年4月20日に書いています)

2022年フランス大統領選挙は4月10日の第一回投票の結果、現職大統領エマニュエル・マクロンと極右RN党のマリーヌ・ル・ペンが上位2候補となり、4月24日の第二回投票で決着がつけられることになった。前回2017年に続いて今回もフランス有権者の約半数が極右に票を投じる展開になっている。そして極右が権力を掌握する可能性は前回よりも今回が高いと言われている。
1964年から「太陽劇団」を主宰する行動する演劇人アリアーヌ・ムヌーシュキンは、4月14日のテレラマ誌ウェブ版で、緊急のインタヴューを発表し、極右を通してはならない、と強く訴えている。以下、重要部分を翻訳してみます。

(テレラマ)不安を感じていますか?
アリアーヌ・ムヌーシュキン:不安よりもむしろ恐怖を感じている。状況は2017年の時と同じではない。改良主義的諸政党は空中分解してしまった。ル・ペン夫人は今や重要な票田を手に入れた。極右諸政党はフランス人の50%以上の票を合計できるほどになっている。この数字は私たちを戦慄させるものである。一方戦争が私たちを脅かしている、なぜならウクライナとは私たちのことだから。この時に極右がわが国のトップの座に就くことは、フランスにとってもヨーロッパにとっても取り返しのつかない大惨事となろう。

(テレラマ)投票を棄権しようとする人たちに対して、あなたは何を訴えたいですか?
AM : 私たちがエマニュエル・マクロンにその政治プログラムを修正することを要求し勝ち取るまでにもう10日しか残されていない。そのためには、複数の組合指導者たちが大声で叫んでいることの緊急性に彼が気づき、電話に出て応答しなければならない。彼は「屈服しないフランス党」(註:ジャン=リュック・メランション率いる左翼政党、第一回投票でル・ペン候補にせまる20%超の得票率)、の政策プログラムの中から、予算化可能で即座に実施可能な10、20、30だっていいわ、とにかく多くの政策案を汲み取らなければならない。そして彼はエコロジストその他の政党の政策プログラムからも同じことをしなければならない。
(中略)
「試しにマリーヌ・ルペンを」などとは考えてはならない! どんなに覆面をしていようが、ファシズムを試そうとしてはいけない!闇の権力に国を委ねてはいけない。もし彼女が当選したら、それまで影に隠れていた面々が2022年4月25日の朝から彼女の周りに姿を現し、それらと一緒になって彼女はフランスとヨーロッパにとてつもなく取り返しのつかない事態をもたらすだろう。アメリカでトランプが、ブラジルでボルソナロが、ハンガリーでオルバンが引き起こした事態と同じものを。彼女は憲法を改竄しようとしている。それが何を意味するかわかりますか? 世界の民主主義のひとつの規範であり続ける我が国の憲法に、彼女は全く相応しくない条項を導入して、庇護権、平等、保護の義務などを危うくしようとしている。

(テレラマ)あなたはエマニュエル・マクロンが今から左寄りに進路を変える可能性を信じているのですか?
AM : 彼に耳から耳栓を抜いてもらわないと、彼は落選する。それを彼は知っている。彼が当選したとしても、彼がそのやり方を何も変えなかったら、街頭(註:民衆の不満の声、デモ)は常にあり続け、毎土曜日だけではなく、毎日あるのだ、ということを彼が無視できるわけがない。ジレ・ジョーヌだけではない。全民衆だ。私たちはエマニュエル・マクロンについて何とでも言うことができるが、彼が愚かだとは言えない、少なくとも教養面においては。私は彼が何もかも台無しにしたのちに追放された者として歴史に刻まれることを望んでいるとは思わない。

(テレラマ)彼の言葉に足りないものは何ですか?
AM : 彼は一度も貧困という言葉を用いたことがない。それを用いないことで彼はそれを無視しているように見える。もっと悪いことにそれはフランスの不幸の大部分を否定しているようにも見えるのだ。彼は何を差し置いても一番に進めなければならない戦いとは貧困の根絶でなければならないのに。

(中略)

(テレラマ)アーチストの立場として、この局面にあなたは無力であると感じたり、責任を感じたりしますか?
AM : 私はこの場ではアーチストの立場での発言をしようと思わない。アーチストたちと言えど他の人たちと同じ市民であり、極右がまさに権力を掌握しようとしている時に、私たちは一体何をしたのか、何をしてはならなかったのか、何を言うべきだったのかなどについて自問自答するのは当然のことだ。また私たちのすぐ近くでひとつの国が蹂躙されその法律や権利や女たち子供たち男たちが蹂躙されている時に、私たちが無力で、役立たずで恥ずべき存在だと感じることも当然のことだ。

(テレラマ)民族的人種的身分性の標榜(註:よく訳せなかったので原語を記しておくと les revendications identitaires )は政治に影響しますか?
AM : もちろん。私たちは毎日その証拠を見ている。でも私が立候補者だったら、私は肌の色、宗教、ジェンダーに関係なく人々に自分の政策を説くことができる。しかし一点だけ考慮に入れるのは私が話しかける人々の収入の違いについてである。なぜならすべての人々の中には貧乏な人々というのはいて、あまり貧乏でない人、そして金持ちもいる。それが女であれ男であれ、黒人であれ、白人であれ、ムスリム、ユダヤ、レスビアン、ゲイであっても。若くても年寄りでも。病人でも運動選手でも。

(テレラマ)現在の状況における左派の責任とは何ですか?
AM : 左派は全く逆のことをして、その属するグループを忘れてしまった。これらフランスの左派諸党派は古くからそして近年でもたいへん豊富なものだったのに、今や dans la merde ひどい状態だ。こんなになったのはいつからなのか私は特定することができない。教員たちの消耗、苦悩や問題を直視しなくなったのはいつなのか? 医療従事者は? 公共事業を荒廃させるがままにし始めたのはいつなのか? 公共事業とはフランスに住む人々(フランス人、外国人労働者、フランスへの避難民)の共通の財産なのに。いつから左派は冷たく計算高くなったのか? いつから左派はプロレタリアという言葉を使わなくなったのか? いつから左派は国土を語ろうとする時、地方について語らなくなったのか? 横滑りに次ぐ横滑り、意味があるのかないのか、限りなく多い分派に引き裂かれた世界が出現した。すべての分派はどれも競ってナルシスティックだ。怒りは今や価値として昇格した。ある者たちはこの怒りにのみ固執して、怒りこそが唯一の解放の女神であるとまで正当化した。彼らは市民戦争の鍋底までこの怒りを擦り出そうとする。だがしかし、怒りとはひとつの価値ではない。怒りとはひとつの症状である。そしてそれは総じて恐怖を示す症状である。この恐怖には治療薬が必要だ。早めの治療が必要だ・

(インタヴュアー:ジョエル・ガイヨ)





2022年4月18日月曜日

プシケデリックな浜辺

(←ブリジット・バルドーとジョニー・アリデイ、1967年サン・トロペ/パンプロンヌの砂浜)

になると地中海が見たくなる。フランス滞在四十余年、貧乏自営業者(現役時代)の分際で、マリンスポーツなどと全く無縁でありながら、私は毎夏のようにコート・ダジュールに滞在した。短ければ3日間、長くても最長で2週間、とにかくすべてが高価なところなので、とてもそれ以上は居られないが、私はコート・ダジュールの夏が好きでたまらない。旅行の経験が乏しくよそのことなどまるで知らない私だが、私にとっては夏そこにいれば世界で最も美しい海と太陽が保証されている。私はほぼ何もしないで日がな一日犬と浜辺にいる。なんという幸せ。経験上言っておくが、これがブルターニュや大西洋岸やマルセイユ以西の地中海岸だったらそんなわけにはいかないのだ。おもに太陽のせい。
 本題のサン・トロペであるが、私はほとんど知らない。5〜6度足を踏み入れた旅行者程度の縁である。かりそめにも音楽業界に身を置いていたので、スター/セレブ/富豪/芸術家たちの宴とご乱行についてはいろいろ聞いてはいた。60年代、イビサやモロッコと同じようにドラッグ入手が比較的容易と言われていた土地柄、サン・トロペは宴好きのアーチストたちにとって理想的な人工の天国だったようだ。2019年6月に出会った一冊の本『レピ・プラージュ』(フレデリック・モーシュ著、ピグマリオン社刊)は、60年代に世界中のジェットセットを招き入れ栄華をきわめたサン・トロペのビーチクラブハウス「レピ・プラージュ」の驚くべきドキュメンタリー本であった。私はこの本をベースにして雑誌記事を書いた(音楽誌ラティーナ2019年8月号掲載)。これはすごい場所だったのだ、と思いながら一気に書き上げたが、読者からの反応はまったくなかった。(私の『それでもセーヌは流れる』は、シャンソン関連の記事を除くと、全くと言っていいほど読者の反応がないのが常で、寂しい思いをしていた)。もう一度読んで知ってほしい、サン・トロペはある種の人々にとってサイケデリック・リームの竜宮城だった、ということを。

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年8月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


60年代サン・トロペの栄華と退廃
伝説のクラブハウス「レピ・プラージュ」

(in ラティーナ誌2013年11月号)

 161510月、伊達政宗の命を受けた慶長遣欧使節支倉常長(はせくらつねなが ↑肖像画)の一行はスペインからローマ法王庁へ向かうべく海路バルセロナからジェノヴァ目指して出航したが、途中で嵐に遭い、やむなく寄港したのが南仏の小さな漁村サン・トロペであった。これが歴史上、フランスの地を踏んだ最初の日本人であった。支倉らが着物の懐中から懐紙を出して洟をかむのがたいそう珍しがられ、サン・トロペの村人たちが日本人が道に捨てた鼻紙を拾い集めた、と当時の記録に残っている。

 それから三百有余年、サン・トロペは同じような小さな漁村であり続け、近隣のニース、カンヌ、モナコのような豪奢なコート・ダジュール保養地の喧しさとは無縁の静けさを保っていた。それを一転させたのが、1956年のブリジット・バルドー主演映画『素直な悪女』(ロジェ・ヴァディム監督)であった。この映画はまぶしい裸身と扇情的なダンスで男たちを狂わせるBBを一躍世界のセックスシンボルにのし上げただけでなく、風光明媚な港と天国的な青い海と白い砂の浜を有するサン・トロペに世界的セレブたちを引き寄せるきっかけとなったのである。

 サン・トロペ半島の南側に位置する海岸線長さ7キロの白い砂の浜辺パンプロンヌはそれまでそこに至る道路もなかったほどの未開の地であったが、1959年、忽然と一軒のビーチクラブハウスの建設が始まる。名はレピ・ブラージュ(LEpi Plage)。この時から毎夏このビーチがパーティ好きな芸能人、知識人、ファッション人などのセレブリティーの聖域となる。エレガントさと奇抜さの極み、アーティでサイケデリックな饗宴は60-70年代を通じて世界中のジェットセット族をこのクラブに惹きつけることになる。
(↓ 1960年当時のレピ・プラージュ航空写真)

 レピ・プラージュの創始者はジャン・カステルとアルベール・ドバルジュの二人。共に当時40代。カステルは様々な職業をこなしてきたが、夜のイヴェント/パーティーのオーガナイザーとして才能を発揮し、パリのパーティ好き人種たちから高く評価され、ナイトクラブなどを任されパリの夜の王になっていく。62年開店のレストランクラブ「カステル」が特に有名。かたやドバルジュはブルジョワ出身の薬学博士・研究者からパリ株式市場に上場の製薬会社のトップになった金満家。お祭り男のようなカステルと切れ者の成長企業社長のドバルジュ、畑の違う二人だが共通点は二人ともヨットマンで夜のパーティ中毒だったこと。ヨットクラブのバーで意気投合した二人は、1957年企画カステル+出資ドバルジュのチームでまずパリのモンパルナス大通りの冴えない地下キャバレーを買い取り、ジャズクラブを開業する。ここは地上一階に深夜も営業する食品店(エピシエ)があり、地下の客たちが欲しくなれば上に昇って良質のワインや腸詰類を調達できるというシステム。エピシエとクラブの合体、その名も「レピ・クラブ(LEpi Club)」という。音楽はジャズ、生まれつつあったロックンロール、そしてリズム&ブルースという最新のリズムとダンス。これが大当たりし、パリ中の先端文化人や芸能人たちで毎夜賑わうことになる。

 しかしこの盛況は夏が来るとパタっと止まってしまう。夏ヴァカンスはパリを過疎地と化す。カステルとドバルジュはレピ・クラブの熱狂を夏の間どこかに転地できないかと考える。白羽の矢が立ったのが、ブリジット・バルドーでイメージを一変させたサン・トロペ。港(市街地)から7キロ離れた半島の南側に4キロ続く三日月型の砂浜、未開で野生の状態にあった海岸線に約100メートル四方の土地を購入した。二人のヨットマン(海の男)のイメージしたのは無人島の砂浜に座礁した海賊船であった。見渡す限り砂浜と青い海ばかり、船倉には飲み物食べ物がたらふくある、どんなに騒々しい宴をしようが、隣宅など周囲に気を使うことはない。こんなコンセプトでレストラン、バー、遊戯施設、クラブハウス、藁小屋などを砂丘から波打ち際まで点在させる。そして生粋のパーティー野郎であるカステルが昼からさまざまなイヴェントで客たちを熱狂へと煽る。豪華バーベキュー、砂丘ラリー、仮装パーティー、ボディペインティング、クリームパイ(タルト・トロペジエンヌ、50年代から土地の銘菓)投げ合戦、リンボーダンス..60年夏の開業からレピ・プラージュはパリのレピ・クラブの常連客だけでなく、コート・ダジュールの先端人たちをごっそりこのビーチに連れてきたのである。


 紹介が遅れたが、本稿はこの6月に出版されたフレデリック・モーシュ著『レピ・プラージュ』(ピグマリオン社刊)という件のビーチクラブハウスの栄枯盛衰を綴ったノンフィクション本をベースに書いている。著者は1972年から2018年までレピ・プラージュのオーナーだった夫婦の長男であり、内部を一番知っている者の証言であるが、この種の本にありがちな「うちこそがパイオニアで本物で現象の中心」的な自画自賛の記述も少なくない。だがこのクラブの1971年までの歴史の記録は、フランスと世界の音楽、映画、文学、風俗の突出した部分がどれほどこの夏のビーチの小宇宙に凝縮されていたのか驚かされるものがある。シクスティーズのエレガンスとデカダンスの縮図である。
最初の2シーズン、本物のサーカスや闘牛をビーチで開催するなど奇抜なお祭り遊び感覚で最高にレピ・プラージュを盛り上げたジャン・カステルだったが、その過度の大盤振る舞いに出資者アルベール・ドバルジュが青ざめ、カステルをパリに戻し(自身の店「カステル」に専念させ)、63年夏からは資産家ビジネスマンのドバルジュひとりが舵取りとなる。モザイク張りの豪奢なプールとテニスコートと個室バンガローを増やし、ガレージには客用にフェラーリやマセラッティなどのスポーツカーを常備し、セレブたちが一般人の不躾な視線を恐れることなく半裸・全裸で自由な夏を楽しめる要塞のようなプライベートビーチとなった。浜辺とレストラン施設の中間に位置する砂丘の窪地は「ポワル・ア・フリール」(フライパン)と呼ばれ、女性たちが裸身を太陽で焦がす名所となり、モデルや女優たちに混じってクロード・ポンピドゥー(首相→大統領夫人)の姿もあった。60年代の性風俗の最前線であったコートダジュールの浜辺は人目憚らぬ裸体が市民権を得ていくのだが、レピ・プラージュでも「バン・ド・ミニュイ」(真夜中の水浴)は有名人たちが全裸で海水に飛び込んでいったものだ。(↓写真アルベール・ドバルジュ)

 ドバルジュが運営するようになってから、派手なお祭り騒ぎの回数は減ったものの、客層の厳選性は強まりセレブたちのプライバシーは鉄壁のものになった。同時に浸透の度合いを深めていったのがドラッグとセックスだった。レピ・プラージュにLSDを持ち込んだのは、61年夏に滞在したビートニク詩人アレン・ギンズバーグであり、そのLSDとアンフェタミンのトリップを共にしたのがアルベール・ドバルジュ自身であり、以後ドバルジュがヘヴィー・ドラッグに染まっていく。そのギンズバーグが常連客の中で最も意気投合したのが同じようにジャンキーだった作家フランソワーズ・サガンだった。因みにサガンの小説『ブラームスはお好き』の映画化作品『さよならをもう一度』(1961年アナトール・リトヴァグ監督イングリッド・バーグマン主演)には、パリのレピ・クラブが登場し、サガン自身も出演している。レピ・プラージュの常連にはサガンの兄、ジャック・コワレもいたが、この男をドバルジュはたいそう重宝がっていて自分の製薬会社の重役にしたこともある。彼には裏の顔があり、パリの秘密高級コールガール組織の女ボス「マダム・クロード」に仕えて新人コールガールの発掘と育成をしていた。ドバルジュは彼にサン・トロペで同じことをさせ、レピ・プラージュ用のガールズをかこい、ドラッグ漬けにして逃げないようにしていたらしい。レピには陰の部分多し。


 サン・トロペのシンボル、ブリジット・バルドーもレピに欠かせないVIP常連であり、彼女のいくつかの恋もここで生まれている。ロジェ・ヴァディム→ジャン=ルイ・トランティニャン→ジルベール・ベコー→サミ・フレイと次々に男を変えたのち、レピ・プラージュのお抱えイヴェントスタッフのボブ・ザギュリーと恋に落ち、この関係は3年続いている。その同じレピ・プラージュのVIP常連でドイツの大富豪ギュンター・ザックスが、ヘリコプターから1万本のバラを浜辺に投下してプロポーズしてバルドーの心を射止めたのが1967年。座を譲ったザギュリーは1968年に1時間のテレビ番組「ブリジット・バルドー・ショー」を制作し、レピ・プラージュでジタンのギタリスト、マニタス・デ・プラータに聞き入るバルドーのシーンなども登場するが、この番組のために「コミック・ストリップ」、「ハーレイ・ダヴィッドソン」などを作曲し激しい恋に落ちたのがセルジュ・ゲンズブール。

 レピ・プラージュの青いモザイクのプールの端のパラソルの下で、目の前で展開するセレブたち男女の誘惑劇にインスパイアされてアラン・パージュが書いたのが映画『太陽が知っている(La Piscine)』(1969年ジャック・ドレー監督)のシナリオだった。映画はレピから数キロ離れたところで撮影されるが、アラン・ドロン、ロミー・シュナイダー、ジェーン・バーキン、モーリス・ロネ主演の性と欲望と嫉妬の四角関係の衝撃作で、50年経った今日もドロン/シュナイダーの超セクシーなプールシーンは伝説である。(↓『太陽が知っている』予告編)

 そのドロンもレピの重要顧客のひとりで、滞在中ドバルジュはドロンの良き相談相手でもあった。68年頃、ドロンには悩みがあった。それは2年前から雇っているボディーガードであるステヴァン・マルコヴィッチ(ユーゴスラヴィアからの政治亡命者)をなんとか厄介払いできないか、ということだった。マルコヴィッチはドロンに付いて何度かレピにも滞在したのだが、その間にレピを舞台にしたドロン夫妻の乱れた交友関係やポンピドゥー首相夫人(当時)の火遊びなど”良からぬ“情報や写真を多く握ってしまい、それをネタに本人たちにゆすりをかけようとしていると言う。下手をすると政財界も関わる大スキャンダルになるかもしれない。ドロンにはコルシカ系のギャング組織との繋がりもある。そんな中、196810月、パリ郊外でステヴァン・マルコヴィッチのバラバラ死体が発見されるのである

 カトリーヌ・ドヌーヴと姉のフランソワーズ・ドルレアックもレピの常連であったが、19676月、レピ・プラージュのバンガローに宿泊していたドルレアックが『ロッシュフォールの恋人』のロンドンでのプレミアショーのためニース空港に向かう途中、交通事故で亡くなっている。25歳だった。


 その677月、レピの特設テント劇場でパブロ・ピカソ作のハプニング劇『しっぽをつかまれた欲望』が初上演され、英国のサイケデリックロックバンド、ソフト・マシーン(→写真サン・トロペで演奏するソフト・マシーン)が音楽で参加している。イヴェントは強制中止の要請を受けた警官隊が出動する騒ぎとなるが、LSDを決めた若者たちはこのサイケデリックの宴を大熱狂のうちに成功させている(この後ソフト・マシーンの豪人ギタリスト、デヴィッド・アレンが英国に再入国できなくなり、フランスに残ってゴングを結成することになる)。

 レピがその敷地内でドラッグを自由に服用する「人工の天国」(ボードレールの表現)となっているという噂は既に高かった。薬学博士で大製薬会社のトップにあったアルベール・ドバルジュがその地位を利用してルートで純度の高い「極上もの」を仕入れているという評判であった。これが見逃されるわけはない。しかしサン・トロペの帝王ドバルジュの奢りは恐れを知らず、69年の夏、21歳のダンサー、ジョジアンヌと再婚の大パーティーを1週間がかりでサン・トロペ全市のホテル・レストランを貸し切る規模で開催する。貸切のジェット機とヨットで世界からVIPたちを招き、カマルグのジタンの馬術団とルンバ・フラメンカの楽団を余興に、政財界の要人たちや共和国判事まで祝宴に興じさせた。実際その判事が目の前で見たものはドラッグの狂宴(ウェディングケーキにLSDが混入していた)と未成年のコールガールたちであり、当局が捜査に踏み切るまで時間はかからなかった。
 
 栄華と退廃の名を欲しいままにしたアルベール・ドバルジュはその頂点で自ら墓穴を掘り、71年麻薬、未成年売春組織、脱税などの容疑で逮捕されすべてを失う。上に述べたマルコヴィッチ事件の他、芸能界政財界に関係する種々の醜聞事件への関与も疑われていたが、多くの秘密を抱えたまま、7211月、裁判前の仮釈放中にライフル銃を口に咥えて自殺してしまう。

 世の常でこれほどの悪名もいつしか人々は忘れてしまい、人手に渡ってレピ・プラージュは別のストーリーを生き続け今日に至っている。毒とエレガンスと退廃と快楽の似合う太陽の浜辺には今も変わらず人々は訪れ続け、これがアートや狂気の愛が生まれる現場だったと懐かしむ。売れない頃サン・トロペ港のカフェの前でギター流しをしていたデヴィッド・ギルモアが加わったピンク・フロイドもレピの常連になっていったが、71年のアルバム『おせっかい』には「サン・トロペ」(詞曲ロジャー・ウォーターズ)という歌があり、今もサン・トロペのテレビルポなどのバックによく使われる。

   As I reach a peach
   Slide a right down behind
   The sofa in San Tropez


 人工の天国が身近だった土地と時代の音楽であるが、味わったこともないのに私たちが覚えてしまう郷愁は一体何なのだろうか。


(ラティーナ誌2019年8月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


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関連して、アルベール・ドバルジュの息子、フィリップ・ドバルジュがロックスターを夢見て英国のプリティー・シングスとの共演アルバムを制作したエピソードを紹介した記事(↓)あります。併せて読んでください。

プリティー・シングスとサン・トロペ                                     

2022年4月14日木曜日

Poupée qui fait NOM

Constance Debré "Nom"
コンスタンス・ドブレ『名前』

 ンスタンス・ドブレは1972年2月生れ、この小説が出版された時期に50歳になった。これが3作目の小説で、第1作目の『プレイボーイ(Play Boy)』は2018年、すなわち46歳の時。遅くして"オートフィクション”小説を書き始めた。遅くしてのラジカルな変貌を、いやいや私は一貫してこんなだった、とパラレルな別人格を描いているのだ、というのが私の読む前の先入観であった。
 まずこの新作の題となって彼女が忌々しく毒づいている「名前」「姓」とは"ドブレ家”である。フランスの政界と医学界で名を馳せたドブレ家は源流がアルザスのユダヤ系であったが、医学では近代小児科医学と"CHU"(大学病院)の創始者であるロベール・ドブレ(1882-1978)が、そして政界ではロベールの息子で第五共和政(ド・ゴール大統領)初の首相となったミッシェル・ドブレ(1912-1996)が特に有名。そのロベール→ミッシェルというドブレ家正系の流れで、ミッシェルの4人の息子がいる。ヴァンサン(1939 - 、上院議員)、フランソワ(1942 - 2020、ジャーナリスト)、ベルナール(1944 - 2020、外科医、国会議員)、ジャン=ルイ(1944 - 、国会議員、憲法評議会議長)。
 ドブレ家正系に泥を塗らないはずの4人だったが、次男のフランソワだけが道を外している。特派ジャーナリストとして60年代から70年代末まで世界の紛争地を飛び回り、ビアフラ、ヴェトナム、カンボジア、チャドなどの取材で第一線の戦争リポーターとして、アルベール・ロンドル賞(仏語圏で最も権威ある報道リポーター賞)も獲得している。そのフランソワが妻としたのが、これも仏政界の要人ジャン・イヴァルネガレー(1883 - 1956、第三共和制の国務大臣)の娘でマヌカン/女優のマイリス・イヴァルネガレー(1942 - 1988)。この小説の中でマイリスはピレネー地方の城の中で生れ、使用人たちに理解されないように家族同士では英語で話すという環境で育ったとされる。そのフランソワとマイリスの間に生まれたのが長女コンスタンス(herself, 1972生)と次女のオンディーヌ(1980生)。
 小説はフランソワの死の床から始まる。病院からモンルイ・シュル・ロワールのフランソワ宅に移送され、長かったガン闘病の最末期を自宅で過ごす数日間を看ていたのがコンスタンス。自宅に移送された医療用ベッドと各種医療機械、酸素、薬剤点滴装置などを指示された時間に指示通りに(機械的に)セットするだけで、ほとんど会話のない父と娘。関係は複雑であることが読み取れるが、それでいいとする最後の数日間。この最後の"汚い仕事”をするために私は生まれてきた、とさえ書いてしまう娘だった。
 この50歳の作家は、48歳の時にこの死と立ち合い、その区切りのために自分は生まれてきたと思うのだが、区切りの達成に至らずに苛立っている。その苛立ちの文体は直接的でラップライム的でマシンガン的で、十代の反抗そのままのように読める。
私は自分が興味を抱くことにしか興味を示さない。それは私が5年前にとった決断だ。それはとても簡単だ。バカバカしいほどに簡単だ。とりわけそれが利点であり、単純化の効果だ。私が興味を抱いているもの、それは存在そのものであり、存在の諸条件などではない。たとえば私がモンパルナス界隈の女中部屋に住んでいること、あるいはコントルスカルプ広場に面した9平米の部屋にいること、シャポン通りのダチのところに居候すること、クリシー大通りの二間アパートにいること、アルルの古い高層住宅のてっぺんの一間アパートに住むこと、あるいは何年か前はあちらこちらを転々としていたこと、ある時期は一文なしだったこと、今は少しだけましになったこと、そういったことはすべて全く重要性がないのだ。私は大きなアパルトマンに住んで家具調度や装飾や衣服や金銭を持つことだっておおいに可能なのだが、そんなこと重要でもなんでもない。私がどこで生きようが、私が話しかける人たちが私の好きな女でなくても、私の読むもの、私がよく眠ろうが眠るまいが、私の食べるもの、そんなもの一切重要ではないのだ。何があろうが私は仕事し、私は泳ぎ、私は好きな女に会う、あるいは誰にも会わない。それは決まりに沿っている。ごく軽い決まりごとだが。もしも新しく私の興味を引くものがあれば、私はそれを簡単に私の決まりごとの中に引き入れてやる。私がこのようなやり方で生きるようになってから、私はたくさんの興味深いことと出会っている。(p43-44)

 コンスタンス・ドブレは難しい子供時代/青春期にもかかわらず、この種の血筋の子のように成績は優秀で、グランゼコールを出て弁護士になる。しかもその有能さが評価され、パリ法定弁護士会の副書記にまで推挙されている。21歳で結婚、36歳で男児出産。それが夫も子供も弁護士職も捨てて、上に書いたような勝手気ままなその日暮らしのノマードのような生活スタイルに変わったのは、同性愛転向がきっかけと言われ、そのラジカルな変貌の記録を記したのが第一小説『プレイボーイ』(2018年)だった。
 この小説『名前』は、生まれて以来彼女に重くのしかかっていたドブレの姓への嫌悪が第一の軸である。祖父(ミッシェル・ドブレ、首相)を頂点に、その権力に追従し、あやかりを頂戴したいと懸命になってエリートブルジョワであろうとする親族親戚を嫌悪侮辱する彼女にとって、父フランソワが一風変わっていたのは少し救いだったかもしれない。私立エリート校で教育される親族の子女と違い、コンスタンスは共学の公立学校(つまり大衆市民異邦人異教徒の子たちに混じって)に通った。しかし一風変わった父親の最大の問題は”阿片”であった。世界的な戦場レポーターとして活躍していたフランソワは、カンボジア紛争で現地に長期滞在中に阿片の密売ルートをつかみ、それ以来(フランスでも)常用者になっていて、妻のマイリスもしかり。派手な美貌のマヌカンだったマイリスとフランソワはしょっちゅう激しい口論をしていて暴力沙汰になることも珍しくなく、二人は別々の自室で暮らしていたが、この阿片喫煙の時だけは同じ床で平和に陶酔するのだった。第一線のジャーナリストだったフランソワも収入のほとんどがこの阿片購入でなくなり、家賃を払えずアパルトマンから追い出されることも何度かあった(この名門ブルジョワ一族にあって、このような困窮は援助し合わないものなのか、不思議)。阿片が買えなくなってマイリスは極度のアルコール中毒へ。この依存症地獄を少女コンスタンスはすべて見ている。そして16歳の時、母マイリスは死んだ。
私は母の死を見ていない、私はそれを読んだ、父が書いた本の中で。母はあるカフェの中で倒れ、父が迎えに行った。車の中で彼女はこわばり、後ろに体をひきつらせ、私はもう何も見えない、と言った。父は彼女を救急病院に運び込み、妻が死につつある、と言った。彼は正しかった、彼女は死につつあった。このことを父は私に一度も話したことがないし、私はそれを父に聞き出そうともしなかった。私はその一節を一度だけ読んだにすぎない。(p97)

最初から引き裂かれていたかのように、この娘には母の死の悲しみがない。妹オンディーヌは母の時もその30年後の父の時も、わめき泣きドラマティックに反応するのだが、姉コンスタンスにはそれがない。この情緒の欠落は、父親、母親、ドブレ一族との確執から起こって、アプリオリに家族を基盤単位として成り立つ社会を拒否したい欲求へと転化していく。この本の裏表紙に転載され、このフランス大統領選挙の年の春に呼応して「選挙公約」のように読まれるようこの本のプロモーションパンフにも転載されて、この本をベストセラーに導くきっかけとなった「私には政治プログラムがある」というパッセージがある。
私には政治プログラムがある。私は相続制度の廃止、家族間の扶養義務の廃止を目指す。私は親権の撤廃、結婚制度の撤廃を目指す。私は子供はごく幼い時期に親から引き離されるべきだと考える。私は親子関係の廃止、家族姓の廃止を目指す。私は未成年後見に反対する、未成年規定に反対する、私は世襲財産を無くしたい、住所を無くしたい、国籍を無くしたい、私は戸籍の廃止を目指す、家庭の廃止を目指す、私は可能ならば子供時代というものも無くしてしまいたいと望んでいる。(p107)

 家族に対する徹底したノン。私もそう思う、私はこの女性の味方だ、と思う人たちは、ぜひこの本を読んで欲しい。有能な弁護士として名を馳せたこともある。この本の中で、独り住まいの老婆に可愛がられていたロマ系の若者がなぜかその老婆をナイフで滅多突きにして殺してしまうという事件を回想するパッセージがある。弁護士はここで弁護する多くの言葉が出なくなってしまう。そして刑法(および法律全般)は、それに直接関与する者(すなわち被告と原告)のためにあるのではなく、法律をこねくり回し解釈しうまくあやつる者たちのためにしか機能しない、という虚無的な覚醒にいたってしまう。
 おのおのの孤独のうちにすべてが機能する"社会”、そんな世界を泳いで生きようとする作家。実際この本では主人公はどんなことがあっても(父の臨終が近いと分かっている時でも)欠かさずに公営のスウィミングプールに行って泳いでいる。プールの空いた時間を選んで(昼食時が一番いい)。競泳レーンを何往復もクロールで泳ぐことで、この人はバランスをとっているのだろう。たしかに水泳はバランスを要求される。唐突に萩原朔太郎の「およぐひと」という詩を想う。

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。
(萩原朔太郎『月に吠える』1917年)

 そしてこの本が絶対に発語したがらない「愛」という言葉がある。父・母・家族(息子も含めて)に発せられないだけではない。同性愛者となった主人公は、パートナーが寄ってくるものだと認識している。長続きする場合も短く別れる場合もある、なしですませる時期もあるが、出会いはやってくる。ところがそれは「愛」ではないのだ。小説の最後の方で明かされるカミーユという名の女性、空気のようにそこにあってほしい存在で、いつでもそこに行けばなにかが救われる、今依存できるたくさんものを持ち、たくさんのものを与えてくれるのに、それは「愛」と呼ばないのだ。このところに、「愛餓え」(これは松本隆か)がほのめかされているように読める。
 頭をバリカンで刈りあげ、スポーツバッグに身の回り品とノートパソコンを突っ込み、アパルトマンの鍵を貸してくれる知人たちをたよって、右から左、あの町この町、お金のある日、お金のない日、私はこれで簡単に機能している、という作家の魂の記録。それでもドブレという姓は捨てていない。

Constance Debré "Nom"
Flammarion刊 2022年2月2日、170ページ 19ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ボルドーの独立系書店リブレリー・モラ制作の動画:『名前』について語るコンスタンス・ドブレ(インタヴュアー:シルヴァン・アレスティエ)

2022年4月8日金曜日

(ぶり)じっと手を見る

同志たち

ブログ『カストール爺の生活と意見』は近年記事更新を重ねるごとに筆者の日本語の不正確さが顕著になっています。どう考えても頭から出てこない日本語を探して大変な時間を要するようになって、新しい記事を作成することが非常に難しくなっているのです。とりあえずの目標である総ビュー数「100万」(現在のペースから推算すると達成は2023年初頭)まではがんばって続けたいと思ってますが、新規記事がつらくなっている分、他媒体での過去記事の再録(当然加筆訂正の上)が増えていくと思います。過去記事には今の私には絶対にできない日本語表現と洞察力があり、私自身、どうしてこんなすごいものが書けたのか、と感嘆してしまうものが少なくありません。同志たちにもそれは共感できると思います。
 この記事は2013年秋に書いた。ブリジット・フォンテーヌ(1939 - ) は当時74歳、デビューしてちょうど50年、長編ドキュメンタリー映画『ブリジット・フォンテーヌ/反射と生々しさ Reflets et crudité』(ブノワ・ブシャール&トマ・バルテル監督)も劇場公開された年だった。この年11月13日、バタクランのステージでブリジット・フォンテーヌを見た(このちょうど2年後の2015年11月13日、バタクランはテロ襲撃で血の海となる)。あの頃は「ケケランドの女王」と呼ばれ、何かと元気な人だった。私はまだオーベルカンフ通りに事務所を構える「音楽業界人」だった。今は昔。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2013年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。


ブリジット・フォンテーヌなんか怖くない

(in ラティーナ誌2013年11月号)

 20年ほど前、その頃パリ11区にあった独立レーベル、サラヴァの事務所で、ピエール・バルー夫人の潮田あつ子さんから「ブリジット・フォンテーヌについて書いてみないか?」と言われ、私は「ダメです。私はあの人大の苦手ですから」と即座にお断りしたことがある。それもフォンテーヌの顔を正視できない、目と目が合ったらこちらが凝固してしまう、といった恐怖感まで伝えて、勘弁してくださいと辞退したのだった。
 私は1970年代前半に東京で仏文科の学生だったが、その頃日本でブリジット・フォンテーヌは仏文科的環境でなくても音楽ファンの間ではかなり知られていたと思う。日本で特に評価の高かったアルバム『ラジオのように(1969)はおそらくフランスよりも日本の方がはるかに良く売れたはずである。しかもその日本盤LP解説は夭折した音楽批評家、間章1946-1978)の初のライナーノーツであったという尾鰭がつき、日本独自のカルト性を獲得して名盤化した。私は苦手だった。このアルバムを稀代の傑作と褒めそやす人々も苦手だった。ゴダール映画のように苦手だった。当時私はどちらかと言うとトリュフォー映画を好み、フォンテーヌやサラヴァ一派のレコードを避けてフランソワーズ・アルディとヴェロニク・サンソンを聞く軟派な仏文科生だった。

 60年代頃から世界には地上と地下があった。後者は世界的にアンダーグラウンドと英語で表記され、日本では「アングラ」と4文字カタカナになった。それ以来、映画、演劇、音楽、絵画などで、何か新しいものは地下にある、という時代の風潮があった。出身高校の先輩に寺山修司(1935-1983)がいて、私が高校生の時その高校の講堂で講演をして、その著『家出のすすめ』が売れたおかげで多くの若者たちが家出をしてしまい、その世話をしなければならない羽目になったのでアングラ劇団を作った、という話をした。あの頃アングラの入口というのはそういうところで、地下に入って行くには家出(当時の別の言葉ではドロップ・アウト)する必要があった。私は18歳で親元と郷里を離れたが、その強い誘惑にも関わらずドロップ・アウトしなかったのは、自分に根性がなかったということだけではなく、私の親が教職者だったからだ、と自分で理由づけていた。私は地上に留まり、仏文科生になった。


 ブリジット・フォンテーヌが極めて優秀な合格点(20点満点の19点)でバカロレア資格を取り、17歳でブルターニュの郷里モルレを離れパリに出るものの、大学に行かずに演劇の世界に入り、やがてシャンソンでアンダーグラウンド化して行った理由のひとつに、親が教職者だったから、ということが告白されている。彼女にとって教育者と学校は最も原初的な反抗の対象であった。1972年アルバム『ブリジット・フォンテーヌ・3』(写真→)の中にこんな歌がある。


   坊や、どこに行くの?

  「学校へ行くんだよ」

   いつ戻ってくるの?

  「二度と戻ってこないよ〜〜!」

                
"Où vas-tu petit garçon" )

 
 この歌の中で学校は屠殺場であり、子供を挽肉にして食べてしまう。ピンク・フロイド『ザ・ウォール』の7年前、ブリジットは教育と学校を恐怖し、憎悪し、呪っていた。「ジャメ〜〜〜!(二度と戻ってこないよ)」というヤギの鳴き声のような震えが恨めしく、この歌は彼女のレパートリーで最も知られる曲のひとつとなった。

 2013年秋、私たちはフォンテーヌの最新アルバム"J'ai l'honneur d'
être"(直訳すると『私は...であることを光栄に思う』)の最終曲"Père"(父)に、おそらく誰も予期しなかった父へのオマージュを聞くのである。それは教職者であり、共和国教育の奉仕者であり、多数の子供たちの代父であった男へ、彼女が和解することも愛を告げることもできぬまま逝ってしまった父への愛の歌なのである。

   控えめな星のように笑う
   公立学校の奉仕者

   民衆の父

   おちびちゃんたちのゴッドファーザー

        ("P
ère")


この歌はステージでは歌えないと彼女は言う。エモーションが身近すぎるから。そういうことをフォンテーヌが言うようになったのである(と私は驚く)。


 2013年秋、このフランスでブリジット・フォンテーヌは地上での事件である。新しいアルバムは異口同音で文化批評誌紙(テレラマ、レザンロック、ル・モンド、レクスプレス、ヌーヴェロプス、リベラシオン...)に絶賛され、11月から来年4月にかけて新たなコンサートツアーが始まり、10月4日にフォンテーヌをめぐるドキュメンタリー長編映画"Reflets et Crudit
é”(直訳すると『反射と生々しさ』。ブノワ・ムシャール&トマ・バルテル監督作品)が劇場上映された。今年は歌手デビューから50年に当たる。日本ではまだ「アンダーグラウンドの」「前衛の」「初期サラヴァの」というイメージが抜けないかもしれないが、そういうブリジット・フォンテーヌは2013年の今日もう存在しないのだ、と言い切っていい。


 1939年生れ。すなわち当年74歳。ブルターニュの教育者家庭に生まれたブリジットは文学と哲学と演劇に情熱を抱いた少女だったが、17歳でパリに出て舞台女優となり、イヨネスコの「禿の女歌手」(パリ5区のユシェット座)にも出演している。その6年後に自作シャンソン歌手として左岸のキャバレーなどで歌い始め、ジャック・カネティ(ピアフ、トレネ、グレコ、アズナヴール、ブレル、ゲンズブールなどの発掘者として知られるプロデューサー)の目に止まり、1965年にレコード・デビューをしている。その時の相棒が一歳年下のジャック・イジュランであり、そのデュオが残した名曲が"Cet enfant que je t'avais fait"(僕がきみと作った子供)である。


     (イジュラン)

      僕がきみと作ったあの子

      最初のじゃなくて2番目の子

      憶えているかい?

      あの子どこにやったの? どうしたの?

      僕がとっても好きだった名前の子

      憶えているかい?

    (フォンテーヌ)

      煙草を一本くださいな

      私はあなたの手の形が好き

      何を言っていたんですか?

      私の頭を撫でてください

      私は明日までたっぷり時間があるの

      何を言っていたんですか?

           ("Cet enfant que je t'avais fait")


全く噛み合ない対話が続き、どちらが正気でどちらがそうでないのかわからないのに、愛と悲しみの空気を作り出してしまう美しい歌。前述のドキュメンタリー映画『反射と生々しさ』では、この歌の約50年後に、ブリジットが住むパリの中州サン・ルイ島の目抜き通りで、イジュランとフォンテーヌが手に手を取ってワルツを踊るという美しいシーンがあった。その映画では、イジュランと共に彼女の演劇のパートナーでもあったルフュス、そして69年から今日まで公私のパートナーであるアレスキー・ベルカセム、そしてイジュランとフォンテーヌの4人が、俺たちもう50年近くも続けてきてるんだ、一体どうして?と自問自答するような場面もある。

 五月革命の1968年、ピエール・バルーの自主レーベル、サラヴァからアルバム"Brigitte Fontaine est... folle"(『ブリジット・フォンテーヌは...狂女である』→写真)が発表される。詩人・歌手・女優・「狂女」という姿を持ったアンダーグラウンド・アーチストは、続いて翌年にかの『ラジオのように』(アレスキー・ベルカセムとアート・アンサンブル・オブ・シカゴ参加)を生み出すのである。フリー・ジャズと北アフリカ伝統音楽、シャンソンと散文詩朗読、それらがゴッチャになった長さ30分のアルバムは、後世(2030年後)になって、セルジュ・ゲンズブールの『メロディー・ネルソン』(1971年発表。長さ28分のアルバム)と並んで、世界のミュージシャンに最も重要な影響を与えたフランスのポップ音楽作品となる。

それは何でもないわ
ただの音楽

何でもないわ

ただの言葉、言葉、言葉

ラジオから聞こえてくるようなもの

それは何の邪魔もしない

トランプ遊びも

高速道路の上で眠ることも

お金の話をすることも邪魔しないわ

      ("Comme
à la radio")
 
  おそらくこのアルバムがブリジット・フォンテーヌのイメージだけでなく、サラヴァという独立レーベルのイメージも決定づけてしまったに違いない。高いプレス評にも関わらずテレビはもちろん(この歌詞に反するが)ラジオにもかからない。フランスの大多数の人々の知らぬところでフォンテーヌ+アレスキー組は70年代を通して7枚のアルバムを制作し、精力的に全国の小劇場や監獄や精神病院で演奏して回った。

 80年代にはレコード制作が休止されるが、これを「雌伏の時代(フランス語表現では「砂漠の横断期)」と言われるのをブリジットは嫌う。「私は本を書いていた」と。詩歌、小説、戯曲、童話、エッセイなど彼女にはたいへんな数の著作があり,このフォンテーヌ(泉)から湧き出ているのは言葉、言葉、言葉である。最新アルバムのライナーノーツでエルヴェ・カビーヌ(ブリジット人形の作者)が「彼女の次の小説はノーベル文学賞になろう」と書いているが、その豊穣な文字量にはなにがしかの賞に値するはずだ。ところが、熱心なフォンテーヌ音楽ファンの側はそう思っておらず、80年代のレコード制作枯渇期に、なんとかフォンテーヌを音楽界に復帰させようとしたのが、本誌執筆者でもあった在仏日本人ジャーナリストの木立玲子さん(1951-2003)だった。84年から曲が出来上がっていたのに録音できずにいたアルバム『フレンチ・コラソン』は木立さんのコーディネートで日本のミディ・レコードが制作し、日本で88年に発表された。


このアルバムはフランス発売が90年なので、かの「ヌガー」は日本人が最初に聞いたことになる。朝起きたら、シャワールームに一匹の象がいて、「どうやって入ってきたの?」と驚くブリジットに,「気にするなよ、それよりも俺にヌガーをくれよ」と象が言う。そういう不条理な歌詞をアレスキー一流のアラビック旋律に載せて歌うお祭り騒ぎの踊れる楽しい歌。珍しくフランスのFMがこの曲をオンエアし始めたとたん、第一次湾岸戦争(1990-1991)が勃発し、この歌は放送自粛曲になってしまう。理由は不明。とにかくアラビックなものは戦時は自粛すべきということだったと思う。Fuck ! とブリジットは憤怒をぶちまけたことであろう。

 この歌に政治的意図はなかったにせよ、フォンテーヌは状況にコミットした歌や言動は多くあった。妊娠中絶規制全廃への運動、学校と教育への嫌悪、今の女性の地位への不満、イラク戦争反対、フランスの移民排斥思潮への抗議、あるゆる禁止(特に公共の場所での喫煙の禁止)への反対...2010年1月、フランスのロック音楽FM局であるウイFMで、(当時)サルコジ大統領の55歳の誕生日の祝賀メッセージとして彼女は生放送でこうぶちまけた(↓写真)。 
「大統領殿、あんたの尻をフォークで引っ掻いてやるよ、あんたの両目に唾を吐いてやるよ、あんたのふくろはぎを血が出るまで齧ってやるよ、あんたの顔がレプラ患者のようになるまで鼻をおろし金でこすってやるよ、あんたをキンタマから吊るし上げてあんたの肝臓にむしゃぶりついてあんたの顔を縄でぐるぐるに縛ってやるよ...

これでフォンテーヌとアレスキーはしばらくの間放送電波からシャットアウトされ、レコード会社も一切のプロモーションを中止せざるをえなくなる。

 話は前後するが、その頃には80年代には考えられなかったほど、彼女のメディアへの露出度が増えている。それは90年代から若い世代の第一線のアーチストたち(エチエンヌ・ダオ、マチュー・シェディド、ソニック・ユース、ステレオラヴ、ノワール・デジール、ゴータン・プロジェクト、ゼブダ等)からの熱いラヴコールと、彼らとのコラボレーションによってサウンドはエレクトロ・ポップ化し、メジャーレコード会社が強力に後押しするメジャーなアーチストに変身してしまったからである。もはやアンダーグラウンドという形容は通用しない。信じられないことにアルバムは次々とゴールドディスクを認定されていくのだ。(↑アルバム『ケケランド』
2001年)
 そしてテレビであの奇抜な姿をおおいに披露し出したのだ。私が苦手なのはこのテレビでの立ち振る舞いであり、テレビの側がこの訥弁の女性に求めているのはエキセントリックな見せ物であり、噛み合ない対話やちょっと彼女の癇に障ることを引き出してそれに鬼婆の形相で憤慨するさまを視聴者が喜ぶというパターンが多い。ニコチン、アルコール、ドラッグ、狂気、そういったものを彼女を通してお茶の間のお笑いにしてしまうテレビを私は忌まわしく思う。そこでブリジットは演技でも地でもなく、中途半端な見せ物と化していることも忌まわしい。


 ブリジット・フォンテーヌは変わった。老いたと言い換えてもいい。その老いも痛みを伴っている。

老いても、おまえたちをファックするんだ
こんなトンボみたいな姿でもね

信仰も法もない年寄りさ

死んだらさぞうれしかろうね

("Prohibition" 2009年)
 この人はニコチンから養分を取って生きているのではないかと思うほどの喫煙量である。この5月、同じサン・ルイ島の住人で親友でもあったジョルジュ・ムスタキが(20年前に煙草をやめたのに)呼吸器系の病気で亡くなった。敬愛していたゲンズブール(ジターヌ喫煙者。1928-1991)も親しい共演者だったアラン・バシュング(ゴーロワーズ喫煙者。1947-2009)も死んだ。不吉なことは言うべきではないが、ブリジット・フォンテーヌの場合、死は黙っていてもこの道を通ってやってくるだろう。信仰も法もない年寄りと彼女は歌う。煙草もアルコールもあれもこれも禁止しようとする世の中で、自由であり続けることができるのか。年寄りとしてそれに「ファック」と毒つくフォンテーヌは、トンボの容姿をしていて、50年前と変わらない怯えた童女の顔をしている。人に見られたくないと言いながら、人に見られている少女の顔だ。私はやはりこの顔が苦手だ。
ブリジット
いつもカフェの隅っこにいる

まるで森の奥にいるみたい

きみは人に見られたくないの?

どうして?

ブリジット

いつも歌歌いに行くのね

屋根の上で叫ぶのね

でもみんなきみを見てるよ

どうして?
         
     
"Brigitte" 1972年)




(ラティーナ誌2013年11月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓) ドキュメンタリー映画
『ブリジット・フォンテーヌ・反射と生々しさ』(ブノワ・ブシャール&トマ・バルテル監督 2013年)予告編