クリスティーヌ・アンゴ『ある不可能な愛』
Christine Angot "Un amour impossible"
2015年のラントレ・リテレール(rentrée littéraire = 11月の各文学賞レースのために9月に一斉に数百冊の新作小説が刊行される現象。2015年は589作品が本として出版されたそうです)の目玉と評され、早くもゴンクール賞候補最有力と騒がれている作品です。クリスティーヌ・アンゴは1959年生れの作家・劇作家で、その作品は話者が「クリスティーヌ・アンゴ」という名前で、登場する人物たちが実在人物たちと同じ名前で描かれ、必然的に実名の私小説のように読まれるわけですが、これは「オートフィクション」(自伝的フィクションと見做していいでしょう)であり、実際の生きられた人物・事件が描かれているわけではないとしています。しかし、実名で登場する実在の人物たちはそのフィクションと称された作品の中で描かれた内容で、さまざまなことが公になってしまい、往々にしてスキャンダル暴露と同じ結果になります。そのために、アンゴの最初の出版社であるガリマール社は、4作目として用意された『インタヴュー』(1997年)の原稿を、登場する実名人物に危険が及ぶ可能性があるという理由で拒否します。アンゴの名を世に知らしめたのは1999年の『近親相姦(L'Inceste)』という小説で、文字通り父親とクリスティーヌとの性的関係を明らかにしたものです。この小説は父親ピエール・アンゴが病死した年に書かれたもので、死んだから書けた、という洪水のような愛憎の迸りが衝撃的でした。この作品で彼女はメジャー作家となるのですが、ほとんどすべての作品がこの『近親相姦』がもとで情緒・精神が部分的に壊された話者・主人公・クリスティーヌの自分史の反復になります。ですからこの作家とつきあう読者たちは、反復して語られるクリスティーヌの身に起こった超プライヴェートな事件と事情に精通してしまいます。私だって、話者クリスティーヌ(ほとんど実在の作家クリスティーヌ・アンゴ)がどんな男性たち(女性たちもあり)と関係していたのか知ってますから。このパターンがいやになって離れていった読者も多いでしょう。私も何冊かオミットしました。
新作『ある不可能な愛』 は、話者クリスティーヌの母親ラシェル・シュワルツと父親ピエール・アンゴの出会いから始まります。時は1950年代、場所は中央フランス、ベリー地方、アンドル県の県庁所在地シャトールーという町です。ここにNATO(北大西洋条約機構)の軍事基地として米軍がやってきます。パリ出身者であるピエール・アンゴはインテリであり、数カ国語を操り、この基地で通訳として働いています。一方つましい家庭に育ち、教育もあまり受けていないラシェルは国民保険事務所で働く低級公務員です。一方はミシュラン社の重役である父を持つパリの上流家庭の出であり、貧乏人とユダヤ人を蔑むのが空気であるかのような環境にあり、若い美貌の女性ラシェルはまさにその「貧乏人とユダヤ人」の両方なのです。この二人は同居も結婚もしなかったが、この若い日々に二人は熱愛しあっていた ー ということ。小説はこの二人の出会いに始まり、クリスティーヌ誕生、ピエールのドイツ女との結婚、ラシェルとピエールの遠距離恋愛の自然破局、クリスティーヌとピエールの近親相姦関係、クリスティーヌの独立、ピエールの病死などを経て、2015年的現在(クリスティーヌ56歳、ラシェル84歳)に至ってクリスティーヌと母ラシェルがその関係(ラシェルとピエール、ラシェルとピエールとクリスティーヌ、クリスティーヌとピエール、クリスティーヌとラシェル)のいずれもが「不可能な愛」であったのはどうしてなのかを検証するような形で進行します。ラシェルはその若き日にピエールと熱愛しあっていた、ということには一切の疑いもないのです。恋愛の熱に何の説明が必要か、というパッションを信ずる側にあります。しかしながら小説はそれに疑義を挟むように、ピエールという人物の不透明さを暴き出して行きます。その物証のように、ピエールのラシェル宛て(およびクリスティーヌ宛て)に書かれた数々の書簡が開陳されます。
8月29日の国営TVフランス2の深夜トーク番組「オン・ネ・パ・クシェ(On n'est pas couché)」で、番組常駐ジャーナリストのレア・サラメが、クリスティーヌ・アンゴに「この手紙は本物かフィクションか」という質問をします。アンゴは答えません。「重要なのは事実かフィクションかということではなく、テクストそれ自体の真実である」と。 そして絶対に守られなければならない秘密というのがあれば、私はそれを決して明かさない、とも。文学とはそのように提出されたテクストの真実を読者および評論者が探すこと。私はこの答に喝采します。
さてピエールという人物に戻ります。ラシェルが惹かれた大きな部分は、彼がそれまで自分のいた世界にはいなかった知識人(私たちの庶民感覚では「もの知り」という言葉が適当でしょう)であること。言葉(彼はラシェルの文法誤りのフランス語を正すのです)や芸術や彼女の知らなかったことを教えてくれるのです。新しい考え方、世界観、そういったもので彼女を啓蒙するのです。だから彼女は言われたことに反論ができない。最初から知のレベルが異なる、というハンディキャップを負わされるのです。
ピエールはラシェルを愛している。けれども結婚はしたくない。結婚は束縛である。僕は自由でいたい。きみも自由でいた方がいい。きみは仕事を続けて自立していろ。僕もやりたい仕事を続ける。ー ハイカラな考え方ですよね。地方都市の無学な女性はその新しさに幻惑されてしまいますが、冷静に読めばそれは100%男の勝手なリクツです。極めつけは「子供は欲しい、だけど結婚はしない」しかも、その後日談として彼が子供を認知することも長い間(13年間)躊躇するのです。その愛の結晶として生まれたのが、クリスティーヌという子です。この子は "désirée"(切望された子)である、とラシェルは確信しています。事故で妊娠した子ではない。二人の願いが叶って生まれた子である。ラシェルの確信にも関わらず、小説を読む側は疑念が生まれてしまうというアンゴのエクリチュールです。
ピエールは子を認知せず、子は「クリスティーヌ・シュワルツ」を名乗り、戸籍上は「父親不明」と記されます。父親は時々出現し、週末を共に過ごしたりします。しかしその週末を終えて父親が去って行くとき、母親が泣いているのを幼いクリスティーヌは見ています。さまざまな理由をつけて会うことを避けながら、自分の都合がいい時だけやってくる父親。それでもラシェルは(そして少しはクリスティーヌも)、親子3人の幸福な瞬間があったと信じているのです。「不可能な愛」の瞬間があった、と。
ストラスブールに住み、国際機関の通訳・翻訳家として選良の道を進むピエールは、裕福なドイツ人女性と結婚し、子供をもうけ、家庭を築きます。なぜラシェルとはそれができなくて別の女とは可能なのか?答は至極簡単で、それは階級問題・人種問題なのです。良家の子息ピエールには、それに見合った身分の人間としかオフィシャルな関係を持てない、家族親族に認めてもらうことができない、ということなのです。ラシェルは最初から結ばれない運命にある「下の身分」の人間であり、おまけに彼の家族親族には受け入れないユダヤの血を引く人間だった、という説明を娘クリスティーヌは母ラシェルに説くのですが、ラシェルはそういう運命論に簡単に説得されません。
父親の血でしょうか、クリスティーヌは聡明で学力優秀な子供に育ちます。そして13歳の時、すったもんだの挙げ句、ピエールはラシェルの切望に押し切られ、クリスティーヌを子供として認知します。ここで「クリスティーヌ・アンゴ」と名前を変えるのです。クリスティーヌにとってその父親は、待望していたものと近く、何よりも知的刺激をもたらしてくれる存在となります。月に何度かクリスティーヌはピエールと過ごし、文学・芸術その他の教養と趣味を培っていきます。このことをラシェルは嫉妬します。自分と居るのは退屈で、父親といる時間の方がずっと楽しそうなクリスティーヌを見ています。それに裏があるということをこの小説はなかなか暴露しないのですが、アンゴ小説の読者たちは見抜いています。この小説の速度と同じように、この裏のことをラシェルは全く知らなかったのです。
そのこと(クリスティーヌが14歳の時から17歳まで、ピエールが娘と会う度に肛門性交を強要していた)を親しい友人から聞かされたラシェルは、最初全く理解できなかった。そして頭突きを喰らったようなショックを受けた。その夜ラシェルは41度を超える急激な発熱に襲われ、卵管に炎症が生じ、病院に10日間収容されることになるのです。
クリスティーヌ・アンゴの小説群の中で、このピエール・アンゴという父親はいろいろなファクターを持った人物です。単純に憎悪の対象としてのみ扱われることなく、良くも悪くもクリスティーヌに大きな影響を与えたことになっています。このクリスティーヌとピエールも「不可能な愛」のひとつなのです。しかしこの新作の中では母親との関係においても自分との関係においても、ピエール・アンゴは明白に "salaud"(卑劣漢、ゲス野郎)として描かれています。それを証明するのが、この小説の中でピエールが書いたとされる手紙の数々なのです。
小説の後半は、クリスティーヌとラシェルの激しい確執の年月があり、ずっと遅くになって和解はやってきます。その確執の核心的なところが、近親相姦が発覚した時に、ラシェルは激熱を出して病いに伏すわけですが、クリスティーヌはどうしてこの時に母親は何も言わなかったのか、ということなのです。娘はこのようにして精神も肉体も父親によって破壊されてしまった、ということを知って、母親は一言も言う言葉がなかった、このことをクリスティーヌはラシェルに責めるのです。母親は盲目だった、と言います。何によって盲目になったのか、というとそれはピエールとの不可能な愛のせいなのだ、と私たちは簡単に読んでいいのでしょうか?
クリスティーヌは小説終盤でラシェルを論攻めにしようとする時、ロジック(logique、論理、道理、整合性)という言葉を使います。ピエールの出自や反ユダヤ思想や優越感がラシェルと私を無惨に破壊してしまったことを説明できるロジックである、と言おうとします。しかしラシェルには幸福の瞬間のノスタルジーがあり、その至福は存在したのだ、と言おうとしているようなのです。母と娘の和解はどの程度のものなのか、反論も逆説もまぜこぜになって、二人の大人の女、56歳と84歳は語り続けるのです。まだまだ語るつもりでしょう。
Christine Angot "Un Amour Impossible"
Flammarion刊 2015年9月 218ページ 18ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)国営ラジオFrance Inter文芸批評家オーギュスタン・トラプナールの番組で、この小説の中の終盤のヤマ、クリスティーヌが母ラシェルに「ものごとにはロジックがあるのよ」と説得するシーンを朗読するクリスティーヌ・アンゴ。
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