2010年9月23日木曜日
Roll over Kétanou!(ケタヌーを蹴ったれ!)
Batignolles "Y'a pas de problème..."
バティニョール『ヤパドプロブレム』
これは驚きました。ラ・リュー・ケタヌーの第三の男、オリヴィエ・レイトのソロ・プロジェクト「バティニョール」のファーストアルバムです。
アコーディオンを抱え、ジャック・ブレル的なシャンソン抒情を前面に出すフローラン・ヴァントリニエ(そのバンド「タンキエット・ラザール」)、我流のフラメンコ・ギターでアラブ・アンダルシア〜北アフリカのライ/シャービまで取り込んでミニマル・ワールド・パンクを展開するムーラド・ミュッセ(そのバンド「モン・コテ・パンク」)。この2人に挟まれて、一体オリヴィエに何ができるのでしょうか?
答えはロックでした。あなたたちが考えるようなロックではありまっせん。フランスに土着してしまったロック、つまりジャック・イジュラン〜ニノ・フェレール〜マノ・ネグラ/ピガール/ネグレズ・ヴェルト〜ゼブダ〜テット・レッド...。アコーディオンとジャヴァと曲芸とピョンピョン跳ねがギターリフと同居するロック。オリヴィエが、これほどまで(フランスの)ロック・カルチャーにドップリの人間だったとは、私は予想してませんでしたよ。一聴して、これはジャック・イジュランの再来ですよ。奇しくも2ヶ月前に「ラティーナ」原稿用に、イジュランを聞き直していたので自信持って言いますが、このアルバムと80年代イジュランとの類似性には驚くばかりです。ケタヌーの3人の中で、オリヴィエが突出して持っている演劇性が、イジュランのそれと似ているのかもしれません。
Batignolles バティニョールとはパリ17区にある地区で、シャンソンファンにはバルバラの「ペルランパンパン」やイヴ・デュテイユの「バティニョール」で知られていて、絵画愛好家にはエドゥアール・マネ、アンリ・ファンタン=ラトゥール等のバティニョール派が頭に浮かぶでしょう。オリヴィエ・レイトは2006年までこの地区に住んでいたのですが、都会を離れ南西フランス、ミディ=ピレネー地方ロット県(フランスの地方観光地ではモン・サン・ミッシェルに次いで人気のあるロカマドゥールで有名)に移住します。言わばオクシタニアの住人となったわけです。ルーツ(ポルトガル)とパリの中間位置を探したら,ここになった,というふうな理由らしいです。ロット県の首府カオール(ワインでも有名)で、土地のマルチ・インストルメンタリスト(アコーディオン、ベース、ギター、ドラムス...)、オリヴィエ・コカトリックス(通称コカ)と出会い、何度かセッションした末に、こいつとは絶対面白いことができる、と新プロジェクト構想が浮かんだのです。そして同じカオール出身で、ジャズ/エクスペリメンタル/ヴァリエテ/クラシック/トラッド他あらゆるフィールドで百戦錬磨のアコーディオニスト、ティエリー・ロック(ソミ・デ・グラナダ)が加わります。トゥールーズ出身のアレクサンドル・ロジェがドラムス、カンタル県(ロット県の東隣)出身のロイック・ラポルトがギター/サックス/バンジョー/カヴァッキーニョ他。ロット県周辺の腕達者ばかりが集まって、がっちりしたバンドができてしまったのです。この辺が荒々しい味を売り物にするムーラドのモン・コテ・パンクとは全く違う路線なんですね。
アルバムは2009年12月に録音されています。場所はロット県モンキュ(フランス人はこの村名を笑うんですよ。Montcuqと書くんですが,Mon culと同じ発音ですから)にある故ニノ・フェレール(1934-1998)の居城の中にあるステュディオ・バルブリーヌ(ニノの息子のアルチュール・フェラーリが管理している)です。なにかオリヴィエがミディ・ピレネー地方に非常に惚れ込んでしまって,このアルバムを土地の産物として作ろうとしていたかのようです。その証拠にアルバムの冒頭曲と最終曲は「Marché de Libos リボスの市場にて」という2台のアコーディオンがフィーチャーされたスコティッシュ曲(クンビア風でもある)で,リボスはロット県の西隣ロット・ギャロンヌ県の村です。4年間でとても土地に馴染んでしまった感じのオリヴィエです。
4曲目「通りで Dans la rue」は,20世紀はじめのシャンソニエ,アリスティッド・ブリュアン(1851-1925)の詞にオリヴィエ・”コカ”・コカトリックスが曲をつけたものですが,これも妙にオクシタニアっぽいフォッホーで,ケタヌーでは絶対にできない類いの曲です。
アリスティッド・ブリュアン詞に曲をつけたものがもう1曲あって,こちらはオリヴィエ・レイト作曲で,バンドのテーマ曲みたいな8曲めの「バティニョールにて A Batignolles」はごきげんなロックンロール仕立て。古い下町叙事詩を,ロックンロールに乗せて,というスタイルはフランソワ・アジ=ラザロ(ピガール,ギャルソン・ブッシェ)に共通するもので,こんなのを聞くと「ロックンロールの町,パリ」というイメージは全然陳腐じゃなくなるのです。
ブリュアンの他に,モンマルトルの詩人/作詞家ベルナール・ディメイ(1931-1981。モンタン,アズナヴール,サルヴァドール,グレコなどの作詞家)の詞にオリヴィエ・レイトが曲をつけたものも2曲あり,3曲め「ねずみ Les Rats」と6曲め「こんなにも大きい俺の心 J'ai le coeur aussi grand」がそうですが,名調子の詞をオリヴィエは見事にロック(3曲めはミドルテンポ,6曲めはアップテンポ)にして返します。
ノスタルジックに望郷する歌,7曲め「カザ・サラ Casa Sarah」では,モン・コテ・パンクのムーラドとファティもヴォーカル参加。
ロイック・ラポルト,アレクサンドル・ロジェ,オリヴィエ・コカトリックス作の曲もそれぞれちゃんとアルバムに入っていて,オリヴィエ・レイトのひとりバンドではないところがいいですね。
しかし,このアルバムでオリヴィエのヴォーカリストとしての力量が,ケタヌー内でのそれから想像できないほど抜きん出ていることがわかるのが,このアルバムの最大の収穫でしょう。アルバムタイトル曲(13曲め)「ヤパドプロブレム Y'a pas de problème」のカッコ良さは,信じられないほど。おそらくこれはオリヴィエに一生ついて回る,オリヴィエの金看板となる歌でしょう。
<<< トラックリスト >>>
1. MARCHE DE LIBOS (O LEITE/O COCATRIX)
2. C'EST QUAND QU'ON VIT (O LEITE/O LEITE - KARIM ARAB)
3. LES RATS (BERNARD DIMEY/O LEITE)
4. DANS LA RUE (ARISTIDE BRUANT/O LEITE)
5. Melle ZINZIN (O LEITE/O LEITE)
6. J'AI LE COEUR AUSSI GRAND (BERNARD DINEY/O LEITE)
7. CASA SARAH (O LEITE/O LEITE)
8. A BATIGNOLLES (ARISTIDE BRUANT/O LEITE)
9. INSOMNIE (O LEITE/O LEITE)
10. CIRQUE TROC (O LEITE/LOIC LAPORTE)
11. LE CHAMEAU (ALEXANDRE ROGER/ALEXANDRE ROGER - YANNICK PUYBARET)
12. PETIT SOFIANE (O LEITE/O LEITE)
13. Y'A PAS D'PROBLEME (O LEITE/O LEITE)
14. MARCHE DE LIBOS - INSTRUMENTAL (O COCATRIX)
+ 1 GHOST TRACK
BATIGNOLLES "Y'A PAS DE PROBLEME"
CD L'AUTRE DISTRIBUTION AD1745C
フランスでのリリース : 2010年10月11日
(↓)2010年2月イヴリーでのライヴの映像。"Y'A PAS DE PROBLEME"と"LE MARCHE DE LIBOS"
Batignolles en concert l'intégral 4e partie
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2010年9月20日月曜日
カメラに向かって地〜図
雑学だけではものは書けません。これは自戒の言葉でもあります。ウィキペディアに書いてあるようなことを右から左から集めてコンパイルすると原稿になってしまうことがあり,文責われにあらずが見え見えな文章を人様に見せていることが,向風三郎においてはままあります。雑な仕事をしてはいけません。
ウーエルベックの博識は半端ではありません。この分野においては誰をも納得させ論破できる知識と持論がある,という分野を数多く持っているのです。この小説だけに限っても,コンテンポラリー・アート,建築,ツーリスム,ガストロノミー,安楽死,ゲイ事情,刑事事件捜査...これらの多岐に渡る専門分野において,読む者はいちいちそのデータと持論展開に説得させられるのです。おまけにこの小説の主人公たちは,それらの専門分野の他に,たいへんなTVウォッチャーであり,美容院や歯医者待合室に置いてある雑誌の世界にも通じていて,恋人との破局にジョー・ダッサンの歌を口ずさみながら,ほろほろと泣いてしまうのです。これを私は遠距離と近距離の両方に長けた観察眼と批評眼を持った「バリラックス作家」と名付けたいのです。それはメガネを用いずに,目つきの悪い裸眼でなされるのです。
小説はジェド・マルタンと名乗るプラスチック・アーチストが主人公です。絵画,写真,ヴィデオなどコンテンポラリー・アートで世界的に成功していく男です。その父ジャン=ピエール・マルタンは,建築士から身を起こして,東欧や北アフリカなどにリゾート・ヴィレッジを構想し建築する会社を設立し,成功のうちにリタイアし,パリ郊外でひとりの隠居生活を送っています。ジェドの母親はジェドが物心つかない頃に謎の自殺を遂げてこの世にありません。
この父と子の関係が小説のひとつの重要な軸となっていて、毎年のクリスマスには二人だけで夕食をするのが二人の欠かせない行事です。一種ゲンズブール父子(ジョゼフとセルジュ)をも思わせるところがあり、父子で審美眼が異なります。若い頃は持論などテーブルに持ち出すことなどなかったのに、歳取るにつれて、成功した息子に挑むように論を吹きかけてきます。息子は微妙に変化してくる父親に、二人の間にぽっかり空いた穴が徐々に小さくなるのを感じます。その穴はいつかは埋まってしまうという期待です。その穴とは、なぜ母親が自殺したのか、という真相です。父親は発病し、直腸ガンと診断され、生き延びるためには人工肛門を移植しなければなりません。父親はそんな思いをしてまで生き延びる必要はない、と死を覚悟します。その最後のクリスマスは、衆人の目が耐えられないという父親の提案で、初めてジェドのアパルトマン(暖房のコントロールが利かない)を訪れて、惣菜屋で買ったメニューで夕食します。お互いにこれが最後という思いがあったでしょう。シャンパーニュ/ワインを次から次に空にし、父親は建築論や芸術論をまくしたてます。ジェドはいよいよその時が来たと感じます。ところが父親は残酷にも「その時」はないのだ、と告げます。おまえの母親がなぜ死んだのか、俺にも全くわからないのだ、と。
父親は息子に告げずに国境を越え、(安楽死を合法化している)スイスで命を断ち、ジェドはその安楽死クリニックを見つけるや、その怒りを抑え切れず、応対に出た女性を激しく殴打してしまいます。この父子のストーリーだけで、小説3冊分ぐらいの大いなる悲しみが襲ってきます。
今度のウーエルベックの小説はこのように徹頭徹尾「まとも」なのです。尖った人たちではない、一般のあなたや私のような多くの名もない人たちが慣れ親しんだような「文学」にとても近いのです。ジェド・マルタンは口べたで恥ずかしがりで非社交的で、現代芸術で世界的な成功を収めながら、金に興味のない、パリで最も個性のない街区である13区のアパルトマンを引っ越そうとしない、近くのスーパーで買ってくるレトルト食品をひとりで食べる、そういうアーチストです。
ジェドの最初の世界的成功は、ミシュラン社製の種々の地方ロードマップをカメラで写し、それを数倍に引き延ばしたものを一連の作品として発表したもので、ミシュラン社がバックアップして開かれた最初の個展はこう題されます:
LA CARTE EST PLUS INTERESSANTE QUE LE TERRITOIRE
地図は土地よりも興味深い
わかりやすいでしょう? 地図は実際の土地よりも美しく、人の目を引く。写真は実像よりも魅力がある。コピーはオリジナルを凌駕する。ヴァーチャルはリアルを越える。このコンセプトの成功例は枚挙を問わないわけですが、ジェドのアートはミシュラン社のマーケティング戦略も相まってまんまと大成功してしまうのです。そのミシュラン社のマーケティングの責任者がロシア出身の絶世の美女であるオルガ。ジェドとオルガは当然のごとく恋に落ちるのですが、この関係において、それまでのウーエルベックの展開に欠かせなかった「エログロ」がこの小説にはないのです。そしてジェドはその熱愛にも関わらず、この絶世の美女が自分から去って行くことを妨げられず、別れを受け入れるのでもなく立ち尽くし、後でおいおい泣いてしまうのです。ね? 信じられないほどまともでしょう?
ジェドはその成功に未練がないようにバッサリと写真を捨て、具象画に転向します。大なり小なりの職業人たちの肖像画を描きます。近所のパン屋職人や、一日中銀行の前に立つガードマンといった無名の人々から、自分の創った建築会社を定年で去っていくジェドの父親、さらにスティーヴ・ジョブスやビル・ゲイツのような著名人まで、仕事を持つ人々の肖像を連作します。その肖像シリーズの中に「作家ミッシェル・ウーエルベック」もあります。このジェドにとって第二回めの大きな個展のために、その個展カタログの序文を「ミッシェル・ウーエルベック」その人に依頼します。
この小説に登場する「ウーエルベック」氏はそのパブリック・イメージ通り、神経質で厭世的で病気がちで不潔で、世捨て人のようにアイルランドの田舎に犬と一緒に住んでいますが、このジェド・マルタンとのやりとりで展開される小説作者による一種のセルフ・ポートレートは、その衰弱の度合いでは自虐的と言えそうだけれど、最終的に「いい奴」に落ち着いていて、その男は多分長いことなく死にゆく男のイメージなのです。この序文依頼をウーエルベックに受諾させるのに最も重要な条件は何か、それを(これも実名で登場する)「フレデリック・ベグベデ」が「金だよ」と教えてくれます。ジェドは大金の稿料を提示し、さらにジェド画の「作家ミッシェル・ウーエルベック」肖像をお礼として、この仕事を受けさせます。この二人には孤独者同士の淡い友情が生まれていきます。
「ウーエルベック」序文の効果もあって、ジェドの肖像シリーズの個展は大成功し、その絵の売上合計は3千万ユーロに達します。その栄光など自分にとっては何でもないのです。前回と同じように、ジェドはこのシリーズときっぱり決別し、創作活動休止期に入ります。アイルランドからフランスの人知れぬ田舎に引っ越してきた「ウーエルベック」に約束の肖像画を届けに行きますが、この再会がおそらく最後の面会になるということを二人は知っています。
小説第3部(P273〜)は、「ミッシェル・ウーエルベック猟奇殺人事件」とでも呼ぶべき、本格的な推理小説仕立てで展開します。「ウーエルベック」はフランスの田舎の一軒家の中で、バラバラ切断死体となって見つかります。「ガイシャの身元は?」ー「ミッシェル・ウーエルベック、有名な作家だそうです」ー「聞いたことないなあ...」なんていう捜査官のやりとりがあります。パリ司法警察(ケ・デ・ゾルフェーブル)のジョスランという刑事が、この謎の惨殺事件を担当しますが,このジョスランもまた何らエキセントリックなところのないフツー人として描かれます。解剖や死体を見ることが耐えられず,医学部を2年で断念して警察官になった男が、今またバラバラ死体を直視しなければならない試練を体験します。若い伴侶とは結婚せずに同棲していて、子供をもうけず,その代わりにミシューという名のビション犬を飼っています。このミシュー(一般的にはミッシェルの愛称)がまたウーエルベックの化身でもあるのですが。
捜査線上にジェド・マルタンの名前が浮かんできます。読者はうすうすとジェドが犯人でなければ,この小説の収拾がつかないのではないか、と感じながらページを進めて行くでしょう。つまり、オルター・エゴを殺害しなければ、エゴは生き延びれない,みたいなストーリーを期待するわけです。ところが....。ジェドは下手人ではないのです。
この派手な殺人事件と,ジェド・マルタンの華麗な成功ストーリーを除いては、未来でも過去でもない、今ある現在の今あるフランスを冷静かつ正確に捉える遠近両用視点の文章が続く430ページの長編です。大小説を読んだ気になります。これはベストセラー上位にあっても、誰もが納得するでしょう。そして、ウーエルベックの作品群にあって,初めて何らの論争のタネにもならない小説なのです。とやかく言う前に、とにかく読んでみろや、と言いたくなる一冊です。読んだら「大小説」とはどんなものかが、たやすく了解されるはずです。
MICHEL HOUELLEBECQ "LA CARTE ET LE TERRITOIRE"
FLAMMARION刊 2010年9月 430頁 22ユーロ
(↓11月8日、ミッシェル・ウーエルベック,2010年度ゴンクール賞受賞のインタヴュー。)