2013年10月29日火曜日

ジャンヌ・モロー、プッシー・ライオット救援に立ち上がる

私の歳ではもはやバリケードの上に登り立つことはできないけれど、私の憤激を表現するために私は声を出すことした。できるだけ多くの人たちにこの声が届いてほしい。この若い女性の身に起こっていることを告発するために。彼女の命は危機に瀕している。
 女優ジャンヌ・モローが、モルドヴィア共和国(ロシア連邦)にある強制労働収容所に収監されているプッシー・ライオットの救済のために、フランス国営ラジオFRANCE CULTURE(フランス・キュルチュール)の電波を使って、囚われの二人のひとり、ナジェージダ・トロコンニコワの獄中からの手紙をフランス語で読み上げます。彼女のメッセージは10月30日水曜日の正午(フランス時間)に全文モローの声で紹介されます。またこのメッセージ放送を録画したヴィデオが、インターネットニュースサイトであるメディアパルト(Médiapart) で公開されることになっています。
 プッシー・ライオットの事件に関しては、私のブログでも2012年8月31日に「女性器の反逆と書いてプッシー・ライオット」という記事で紹介しました。
 ナジェージダ・トロコンニコワは23歳で、一児の幼い子の母親。2012年2月21日に、モスクワのロシア正教・聖救世主教会大聖堂で「プーチンを放逐したまへ」と祈るパフォーマンスを行ったために、2年間の強制労働刑の判決を受け、収容所で服役していますが、その極度に非人間的な刑務条件(1日に16-17時間の労働、6週間に1日だけの休日...)に生命の危険を冒しながらハンストを挙行、強制的に病院に収容されたものの、牢獄に戻されてから、再びハンストに入っています。

 この記事の続きはジャンヌ・モローの放送のあとで書きます。
 
  (↓ナジェージダのハンストを報じる 9月23日のEuronewsの映像)



追記:10月30日
(↓ナジェージダ・トロコンニコワの手紙を読み上げるジャンヌ・モロー。10月30日フランス国営ラジオFrance Culture で放送されたものです。)


追記:10月31日
ジャンヌ・モローが読み上げたジェージダ・トロコンニコワの手紙の一部を以下に訳します。訳出したものの原文(仏訳文)はラジオFrance Culture のインターネットサイトのここにあります。

「最良の場合睡眠時間は4時間とれる。誰もそれに逆らおうとはしない。私たちのひとりを医師が手当しようとすると、他の受刑者たちが医師に襲いかかっていく。この所内秩序を確保するために、公にすることができない懲罰の数々(例えば、シャワー室や洗面所や食料庫への出入りの禁止)が制度化されている。」
「女たちは尻や顔や頭を打たれる。この収容所では、受刑者たちによる集団暴行は収容所管理局の許可のもとに行われている。」
「私は受刑者たちが極度の衰弱の末に倒れていくのを黙って見逃すわけにはいかない。私は人権の尊重と、この奴隷制度の廃止を強く要求する。」

インターネット・ニュースメディアであるMEDIAPARTの10月30日の記事では、数日前から身内にすらも彼女の収監場所、その境遇、その健康状態に関する情報が全く途絶えている、と書かれています。




2013年10月24日木曜日

ミッキー・ベイカー(1925-2012)はフランスで死んだ。

Mickey Baker "Mickey Baker Plays Mickey Baker" + "Mickey Baker Joue La Bossa Nova"
ミッキー・ベイカー『1962年フランス録音集』

 ミッキー・ベイカー(1925年ケンタッキー州生れ、2012年トゥールーズ没)の、1960年フランス移住後の仏ヴェルサイユ・レコードに録音した2枚のアルバム "MICKEY BAKER PLAYS MICKEY BAKER""MICKEY BAKER JOUE A LA GUITARE BOSSA NOVA"(共に1962年録音)とシングル盤ESPERANZA"(仏オデオン1962年)を加えた25CDです。
 両親に見捨てられて孤児院で育ち、42年にNYCに出て石炭運搬人などの職を転々として47年からアポロシアターの楽屋に入り浸るようになり、ミュージシャンを志します。最初はトランぺッターにと思ったんですが挫折、次いで中古のギターを買って日夜練習しまくること3年、当時流行のビバップ楽団ジミー・ニーリー(Jimmy Neely)オーケストラに入団、53年からはNYCの録音セッションギタリストとして、エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ、リトル・ウィリー・ジョンなどの録音に参加。平行してRB女性歌手シルヴィア・ヴァンダープールとのデュエット・チーム「ミッキー&シルヴィア」として自作曲を歌って成功していき、その中にかのミリオンヒット"LOVE IS STRANGE" 1956年。ボ・ディドリー作)があります。 
  で、その後のシルヴィアの結婚ということが大きな原因なんでしょうが、かなり音楽家として成功していたのに、1960年、アメリカを去ってフランスに渡ってしまう。親友メンフィス・スリム(1915-1988)がフランスに来いよ、と誘っていたという説もあります。このILD盤の解説をILD創始者のイヴ=アンリ・ファジェ翁が書いていて、それによるとアメリカのショービジネスの極端な金儲け主義と、ヒットと成功の度にぶつかる人種差別の問題に辟易してしまったのだ、としています。そういうアメリカ黒人のアーチストがいっぱいフランスに来ました。上のメンフィス・スリムだって、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスだって、古くはジョゼフィン・ベイカーやマイルス・デイヴィスもその例でしょう。
  仏オデオンと独占契約をしたミッキー・ベイカーは, 新進のロック歌手ビリー・ブリッジ(こういう源氏名ですがフランス人です)のギタリスト&編曲者としてダンス「マジソン」を大ヒットさせます。その他ロニー・バード、フランソワーズ・アルディ、シルヴィー・ヴァルタンなど、イエイエの人気歌手たちから引っ張りだこのギタリストになってしまいます。のちにフランスの戦闘的ブルース歌手として知られることになるコレット・マニー(1926-1997)の唯一のヒット曲「メロコトン」にもギターで参加しています。そしてナンタル、ゴヤ、1964年から67年にかけて、シャンタル・ゴヤの編曲家プロデューサー(何曲かの作曲も)となり、ゴヤを主役にしたゴダール映画『男性・女性』(1966年)ではミッキー・ベイカーがレコードプロデューサー役で出演もしているのです!
(↓ゴダール『男性・女性』このYouTube30秒めから57秒めに出て来る指揮振りのおじさん

  イエイエ世代のマスト雑誌「サリュ・レ・コパン(SLC)」の社長ダニエル・フィリパキ(元々はジャズ評論家)の依頼でベイカーはギター教則本("La méthode de guitare SLC" = サリュ・レ・コパン流ギター教本 )を出版するのですが、これが若いギタリストたちの聖書と化してしまうのです。という具合にフランスのショービズ界にも溶け込んでしまったのですが、やはりアメリカでもそうだったように、フランスのショービズにも辟易してしまって、後年ブルースに戻っていきます。78年には来日して高円寺「次郎吉」で吾妻光良らとプレイしたそうです。 - - -   
  だからと言ってブルースアルバムを期待されては本当に困るんですが、アメリカのコレクター諸氏にもあまり知られていなかったフランス62年録音の2枚です。1枚め(112曲め)の方はブルースともジャズとも距離があるエレキ・インストアルバムです。パーティーでジルバを踊るために作られたような。オルガンとピアノにジョルジュ・アルヴァニタス、トランペットにロジェ・ゲラン、ベースにミッシェル・ゴードリー、ドラムスにダニエル・ユメール等々、当時のフランスジャズ界の錚々たるメンツが参加してます。2枚め(13曲め以降)はおそらくフランスで最初の「ボサノヴァ」録音だそうです。パーティーでボサノヴァって新しかったんでしょうね。こちらもオルガン&チェレスタでジョルジュ・アルヴァニタス、コントラバスにピエール・ミシュロなどが参加しているのに加えて、後年にクラシック・フルートの世界的なスターとなるマクサンス・ラリューの名前も。ま、全体的に軽めのヌーヴェル・ヴァーグ映画のサントラのようにも聞こえる若年寄&腕達者インストばかりの25曲です。ILDですから。

<<< トラックリスト >>>
1. ZANZIE
2. OH YEAH, AH, AH 
3. DO IT AGAIN 
4. NIGHT BLUES 
5. FUGUETTA BLUES 
6. DO WHAT YOU DO
7. NO NAME 
8. BAKER'S OTHER DOZEN 
9. GONE 
10. MISTER BLUE
11. STEAM ROLLER
12. BABY LET'S DANCE
13. DESAFINADO
14. DORALICE 
15. O BARQUINHO
16. PARISIAN HOLIDAY 
17. TING TOUNG 
18. ESO BESO 
19. CHEGA DE SAUDADE 
20. SAUDADE DE BAHIMA 
21. DECADO 
22. MEDITACAO 
23. SAMBA DE UNA NOTA SO
24. BRASILIAN LOVE SONG
25. ESPERANZA

MICKEY BAKER "MICKEY BAKER"
CD ILD 642332
フランスでのリリース:2013年10月

(↓上の1曲め、ミッキー・ベイカー「ザンジー」)

 

2013年10月20日日曜日

昔の人は「デバート」と呼んでいた。

『人喰い鬼のお愉しみ』(ちょっとひどい邦題)
"Au Bonheur Des Ogres" 2012年フランス映画
監督:ニコラ・バリー

原作:ダニエル・ペナック
主演:ラファエル・ペルソナーズ、ベレニス・ベジョー
フランス公開:2013年10月16日

 1985年刊行のダニエル・ペナックの同名ベストセラー小説の映画化。85年ですよ。あなた何してました?物語の中核のひとつが爆弾テロです。デパートでの爆弾テロ。85年でも社会的大パニックの大事件でしたが、それを題材にしてこういう小説が成立したというのは、まだ一種のフォルクロール(どう訳してみたらいいかな、民衆娯楽とでも言うのかな)として見ることができたような余裕があったんでしょうね。2013年的今日では、一切の冗談が差し挟めないような主題ではないですか。ですから、これを2013年的今日にコメディー映画として提出するのは、メチャクチャなリスクじゃないですか。この辺で、この映画の無謀というのは評価してもいいと思う一方、やっぱり無茶じゃないかな、という気もします。
 85年ですよ。この国の大統領はミッテランという名前でしたし、失業なんて全然大した問題ではなかったんです。携帯電話など存在すら夢見ることができなかったし、パソコンなんてオフィスでも珍しい時代だったんですよ。その時代のエポックメイキングな小説、ある種メモワール・コレクティヴ(共有的記憶)である小説、つまり多くの熱心なファンが筋を暗記してしまっている小説を、2013年的今日に置き換えて映画化しているのです。このデカラージュ(差異、時差)はすさまじいものがありますが、映画の側にとってはそれが最初からのエクスキューズとなっている部分もあります。
 当然あの頃にはない携帯電話もノートパソコンも防犯ヴィデオカメラ(婦人下着売場の試着室までついている)も重要なファクターとして映画の中でハバを利かせていますし、爆弾テロは当時よりも数段手の混んだものになっています(が、コメディー映画ですから、奇想天外であまり罪のない描かれ方です)。問題は舞台である百貨店、仏語のグラン・マガジン、英語のディパートメントストア 、日本語のデパート、これが一般市民にとって85年と今日では企業イメージや存在感が大きく、大きく変わってしまったということだと思います。85年とは言わず、「その昔は」と言ってしまえば、デパートは多くの一般市民にとって夢の場所でした。欲しいと思うあらゆるものがある、というだけでなく、それが美しく陳列されている、売り子さんはみんなきれいで親切な言葉を使う、売場装飾や照明だけでも幻惑されてしまう、おまけに吹き抜けに仰ぎ見るドーム天井の美しさよ、われわれ小市民は金がなくても、何も買わなくても、デパートに行けば幸せだったのですよ。その小市民消費者の幸せがなんらかの不具合(たとえば買った商品が欠陥品だったり)のせいで壊された時、その怒りは並大抵のものではないのです。
 ペナックの原作の天才的なアイディアはここで、小市民の怒りを挫くのです。デパートの信用に傷がつくようなあらゆるクレームを封じ込める係を創出したのです。「苦情処理係」なんていう生易しいものではない。「完全封じ込め 」なのです。これはペア(二人組)で機能します。まずそのデパート(オ・ボヌール・デ・パリジアンという長い名前。ABDP)には建前上の「商品苦情受付室」があり、そこの課長が毎日怒り心頭で飛んで来る客の商品苦情を受け付けています。客のおさまらない怒りを見るや、店内放送で品質管理責任者たるバンジャマン・モロセーヌ(演:ラファエル・ペルソナーズ)を呼びつけます。(役職名は"contrôle technique"=技術管理係というものですが、こういう職名は何でも屋を意味します。私も3年間勤めたフランスの運送会社で "technico-commercial"というポストにありましたが、入社した時にこの職は何かと質問したら何でも屋だと言われました)。すると怒れる消費者の目の前で、課長はモロセーヌに「こんな不良品を売りつけるとは、おまえの品質管理は一体どうなっているんだ!」とあらゆる言葉を使ってその無能をなじり、罵倒し、最低の屈辱を味わわせ、モロセーヌはひとことも言い訳も抗弁も許されず、涙まで流してその屈辱に堪えるのです。ひとしきりの罵詈雑言が終わると、課長は客に向き直って「この責任はこの不徳の社員を徹底的に裁判訴訟までして、一生かけて償わせますから、こちらの訴え状にご署名お願いいたします」と書類を差し出すと、客は「何もそこまでしなくても... 」と怒りが萎え、モロセーヌに憐憫の情まで抱くようになって、苦情を取り下げて去って行く、ということになるのです。
 この技術管理係という名の「ののしられ役」をモロセーヌはプロの職業としてやっています。彼によると本当の職名は "bouc émissaire"(ブーク・エミセール、贖罪の山羊、スケープゴート)であり、無い罪を負わされて殺されるという役割なのです。この職を発案したのがこのデパートの先代社長で、職能には乏しいが気の弱さは百人前というモロセーヌにうってつけ、とかれこれこの非人間的な職業を数年続けています。仕事の割によい給料を保証している、とデパート側は言います。こんな屈辱的な仕事になぜ耐えているかと言うと、バンジャマンには養うべき5人の義理の弟たち妹たちがいるからなのです。 バンジャマンを含めた6人の母親は同一なのですが、父親はすべて違う。言わば、恋多き女性なのですが、恋して子供を産むのが好きで生きている自由人で、いつも不在で(つまりいつも恋していて)子供たちを長兄のバンジャマンに任せっぱなしです。しかしこの兄弟姉妹たちはみんなお母さんが大好きという一家なのです。
 このパリ20区のベルヴィルに住むモロセーヌ一家を描く連作小説をダニエル・ペナックが次々に発表してベストセラー作家となるわけですが、この『人喰い鬼のお愉しみ』がその第一作なのです。ミステリー小説です。クリスマス商戦を迎えたパリの百貨店「オ・ボヌール・デ・パリジアン」に起こる連続爆破事件。しかもその爆破事件の現場には、必ず社員のバンジャマン・モロセーヌがいる。そして先代社長時代に起きた幼児蒸発事件。それを追っているのが、人呼んで「ジュリア・おばちゃん」という万引きが趣味という女性ジャーナリスト(演:ベレニス・ベジョ)。デパートの過去の記憶を持っている人間が次々に殺されていく。果たして犯人は、現社長サン・クレール(演:ギヨーム・ド・トンケデック)か、ミステリアスな元デパート守衛で今のデパートの地下に住むストジル(演:エミール・クストリッツァ。ちょっとミスキャストのような気がする)か、はたまた警察が最初から第一容疑者と目星をつけているバンジャマン・モロセーヌその人なのか...。

 「こんな絵柄のパジャマを着た男に殺人などできるわけがない」と警察は見抜きます。バンジャマン・モロセーヌの着ているもの&着方はどれも滑稽です。髪型もヒゲの伸び方も情けない顔もすべて滑稽です。これはラファエル・ペルソナーズ(1981年生れ。32歳)というアクターにモロセーヌのキャラがドンピシャにはまったということでしょう。ペルソナーズはバイオによると演劇出身で、結構下積みが長く、いろんな役こなしてきてますね。日本では2013年公開の映画『黒いスーツを着た男』 (あまり話題にならなかったようですね)で、ひたすら二枚目(この種の新人が出て来ると日本では必ず「ドロンの再来」とレッテル貼りますね)、というような紹介のされ方でしたが、ああやだやだ。
 バンジャマン・モロセーヌが、幼い(&あまり幼くない)弟たち妹たちを寝かせつけるために、毎晩アドリブ創作の物語を聞かせてやるのです。弟たち妹たちはそれが毎晩の楽しみで、熱心に聞くだけでなく、いちいちああでもないこうでもないと批評もしたりするもんだから、このワクワクの物語は奇想天外に雪だるま式にふくらんでいきます。これは今バンジャマンの勤めているデパートで起こっていることをベースにした空想冒険物語になるのですが、爆破事件や犯人探しの追いかけ劇に混じって、巨大なキリンがデパートの中に現れてデパートは大パニック、そこにおにいちゃん(=バンジャマン)が颯爽と現れて、「こら、そこのキリン、止まれ、そして俺の言うことを聞け!」と誰にも解せない言葉で命令して、まんまと手懐けてしまう。おにいちゃんはデパートの英雄となって、めでたしめでたし  -   みたいな話を(もちろん映画ですから、その物語はイメージ化して映されます)するときのラファエル・ペルソナーズの紙芝居屋みたいな顔百面相と名調子、すばらしいです。この役者、ずっとこのパターンで成功して欲しいです。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)"Au Bonheur des Ogres" 予告編 

2013年10月16日水曜日

(This is not a) Love Song

Philippe Djian "Love Song"
フィリップ・ジアン『ラヴ・ソング』

 フィリップ・ジアン(1949 - )は往々にして「フランスで最もアメリカ的な作家」と称されます。それは2年前にジアンの前々作『復讐』をここで紹介した時に述べました。私が読み慣れた20-21世紀のフランスの作家たちとは明らかに違う、動的で映画シナリオ的でエンターテインメント性に富んだ筆致が特徴的な作家です。ゆえに「ポップで軽め」と見なされる傾向があります。この新しい小説もポップ・スターが主人公で、タイトルが『ラヴ・ソング』ときてますから、軽視されてもしかたないような外観・外装ではあります。
 この小説には「殺し」があります。主人公が自ら手を下す場合と、彼が殺人者を使って遂行する場合があり、前者は未遂、後者は完遂しています。ジアンの場合「殺し」をクライマックスに持ってきたり、「殺し」を物語の進行上の大転機にすることになりますが、なにかゲーム上での事件のように、「殺す」「死ぬ」ということへの頓着が少ないのです。(かの『37,2(ベティー・ブルー)』でも殺してますでしょ。)
 ダニエルは53歳のメジャーのポップ・シンガー・ソングライターですが、かれこれ30年に及ぶ 第一線でも活躍で、世界的にも評価が高く、ヨーロッパ、北米、オセアニア、アジアなどで世界ツアーを敢行できるほどのスター・アーチストでした。「でした」と過去形で書きましたが、現役です。ところが、ダニエルだけでなく、この世界の現役はみんな苦境に立たされている。これを書いている私はその内部の人間のひとりなので、この説明を書かせたら何十ページだって書けるほど言いたいことはあるのですが、ま、要は音楽業界が20年前とはガラリと変わってしまったということが、この小説の土台になっている暗い状況なのです。ジアンは自ら90年代のメジャーレコード・レーベル、バークレイの看板スターのひとりだったステファン・エシェールの作詞家として、エシェールの栄光の時代と、昨今の苦境を内側から知っている人間という自負があります。変わったのはアーチストではない、音楽産業、すなわちレコード会社が変わってしまったのだ、という憤りがあります。そのことをこの小説の刊行時の種々のインタヴューでジアンは言いたい放題言ってました。レコード会社はその魂を遥か遠方におわす(音楽など何も知らぬ)株主たちに売り渡し、その結果「音楽」ではなくまず第一に「利潤」を作るための組織に変わってしまった、という論です。ダニエルは十数枚のアルバムを世に出し、その流行り廃りの波を越えて、第一線アーチストとしての地位を確保してきました。ところが、今制作中の新アルバムに関しては、そのデモ録音に関してレコード会社ディレクターが注文をつけるようになったのです。「こんな陰気な歌ばかりでなく、2曲は陽気な歌を入れてくれないか?」すなわち「売れ線の曲」を作ってくれないか、という意味です。
 この悪魔の手先と化したレコード会社の制作ディレクターがジョルジュという名の男なのですが、ジョルジュにしたって(レコード会社と同じように)以前はこんな男ではなかった。スタジオやツアーで寝食を共にし、そのインスピレーション探しに共に世界中を駆けずり回り、アーチストを物理的にも心理的にもサポートしてやる公私ともの密着パートナーであり「親友」でもあった。ダニエルのレコードは調子良く売れ、ジョルジュはレコード会社内でどんどん昇格していき、買収や再統合でコロコロ変わっていく上層部(社内にいない出資者)にも信頼が厚く、ダニエルの売上で豪邸を構えた。この小説の中で悪玉がいるとすると、このジョルジュひとりだけなのです。それは腐敗した音楽産業のシンボルである上に、卑劣漢なのです。ところがダニエルはこの男と仕事を続けていくしかない、というジレンマがあります。私のような業界内部の人間にしてみれば、だったらメジャーを離れて独立レーベルで男を上げてみろ、と茶々を入れたい部分でもあります。
 しかし、ダニエルが昨今曲作りのレベルで不調で、陰気な歌しか書けなくなっているのは別の理由があるのです。20年間連れ添ってきた妻のラシェルが不倫をして出て行き、もう8ヶ月もラシェル不在の状態が続いている。 しかもその相手はダニエルのバンドのミュージシャンのトニーで、ダニエルはこの男をミュージシャンとしても人間としてもBクラスと思っていただけに、この不倫は不可解だった。しかし不倫という点では、ダニエルにも「前科」はあり(そりゃあトップクラスのアーチストですから、という理由にならない理由もあり)、20年寄り添っていた夫婦には並にありそうな関係があちこちに。そのひとつもきっかけになって、2年前、ラシェルは携帯電話を耳にあてて車を片手で運転中、突然出て来た犬を避けようとして、通行中のラシェルの弟のワルテール(ダニエルの秘書アシスタント)を跳ね飛ばし、沿道の木に激突したワルテールは背骨を破壊されてしまい、その上ラシェルは対抗から現れたトラックに体を引っ掛けられ、数百メートル走行してひきずったあと、彼女の両脚を轢いてしまいます。
 この大事故は姉弟の運命を変え、特に20年前から秘書としてダニエルの手足となって働いていたワルテールは脊椎に異常をきたし、失敗すれば全身不随という大手術を受けることになります。事故以来ダニエルが欠かさずマッサージを施してきたラシェルの傷跡だらけの両脚も良くならず、杖の人になってしまうのですが、それでもその後でトニーと愛人関係になるのです。
 ジアンの小説ですから、いつものようにたくさんのストーリーが詰まっています。上に書いてあるのは、小説の中頃から分かってくる付帯状況を説明してしまっているのですが、小説の本当の始まりは、8ヶ月の不在の果てに、ラシェルがトニーと別れてダニエルの家に帰ってくるところなのです。そしてダニエルはレコード会社から芸歴上初めての「NG」を喰らい、アルバムの作り直しをしているのです。
 物語は序盤から複雑化していき、ラシェルはトニーと破局したものの、トニーとの子を妊娠している(と最初は告白されるものの、小説後半でそうでないことが判明する)のです。そしてそのトニーは、日本の楽器会社からのスポンサー贈呈のピアノをダニエルのスタジオに搬入する途中、ダニエルが足をすべらせた拍子に搬入業者がバランスを崩し、ピアノに潰されて死んでしまうのです。ラシェルはこれをダニエルが故意に起こした事故という疑いをず〜っと持ち続けるのです。
 長い躊躇と夥しい量の(ちょっと不毛な)ダイアローグの末、家に戻ったラシェルとダニエルは再び男女の欲望を取り戻し、表面上の和解を果たします。長い間ラシェルと愛情を交わし合い、子作りの努力もしていたのに、遂にそれが果たせなかったダニエルが、愛人の子を宿った妻と、その生まれて来る子を自分の子として受け入れられるか、その葛藤は凄まじいものなのですが、これをダニエルは止揚してしまう、乗り越えてしまう。ここでラシェルへの愛の歌(まあ、つまり、ラヴソング、というわけですな)が生まれることになるのです。レコード会社ディレクターのジョルジュは大喜び。傑作、ヒット間違いなし。小説中盤ぐらいで、なんだこの陳腐な落とし前は、思ってしまいますよ。
 最初の殺しは、ワルテールの脊椎の大手術に関係したことで、ダニエルのすべての仕事のオーガナイザーであり相談役であり弟分でもあるワルテールとダニエルの間で、この手術が成功せずにもしも全身不随の状態で存命したら、ダニエルの手でその命を断つ、という約束がなされます。手術後ワルテールの全身マヒ状態は直らず、兄弟仁義的な男の約束を果たすべく、ダニエルは車椅子のワルテールを病院からワゴン車で森の奥まで連れていき、ナイフで刺殺しようとするのですが、その刺さりどころが脊椎を刺激して.... そのショックでワルテールは全身不随状態から脱するのです! うっそぉぉぉぉっ!という展開ですが、この辺がジアン一流のエンターテインメントでして。
 ラシェルが8ヶ月の不在の間、ダニエルの欲望のはけ口としていた元ミュージシャン(ドラマー)でジャンキーで年増のコール・ガール、アマンダも魅力的な人物として描かれています。これもジアンにはおなじみの男にとって都合のよい女性像なんですが、ラシェルと復縁した後、ダニエルは麻薬のために病弱化していくアマンダを、あらゆる手段を使って(超高額の医療施設を使ってということです)救済していきます。ここでジアン小説にはいつも重要なファクターである無頼で堅固な「友情」が 確立していきます。この小説で善玉はただ二人、 ワルテールとアマンダなのです。かと思えば友情も愛情も疲労してしまっている医師ジョエルとその妻キャロのような登場人物もあり、その描き方のコントラストが映画的隠し味のようで妙です。
 かくしてラシェルから女児ドナが生まれます。果たしてダニエルは初意を貫いて「ドナの父親」として生きることができるのでしょうか?
 ここで第二の殺しがあります。殺されるのはレコード会社ディレクターのジョルジュ。最初から悪玉として描かれているので、さもありなん、という感じもしますが、なぜ、というのは.... ダニエルがドナの父親はトニーではなく、ジョルジュだということを知ってしまったからなのです。 ラシェルは20年前にダニエルと結婚した頃から、ジョルジュと関係があったということを知ってしまったからなのです。

 なぁ〜んだ、これは!

 そして故ジョルジュの飼い犬(雌犬)ジョルジアが誰も住む人のいなくなったジョルジュの豪邸で野犬化していくのを見るとき、(もう詳しくかいつまんでは説明しませんが)ああ、これがあの時の犬だったのか、というのもわかってしまう。もうゴッチャのストーリー詰め過ぎですよ。こうしてダニエルの「ラヴ・ソング」は歌になっていくのですが、この小説からはほとんど何も音楽なんか聞こえて来ないのです。

Philippe Djian "Love Song"
(Gallimard 刊  2013年9月。236ページ。18,90ユーロ)





↓ラジオEurope 1で小説『ラヴ・ソング』に関連して、「今日のレコード会社は音楽を愛していない」と述べるフィリップ・ジアン

2013年10月1日火曜日

太陽を直視する



デトロワDétroit : ベルトラン・カンタ vo. g. + パスカル・アンベール cb)、2013年11月18日発表のアルバム "HORIZONS"から。"Droit dans le soleil".

来る日も来る日もそのシーンを撮り直すんだ
Tous les jours on retrourne la scène
闘技場の真ん中にいる獣のように
Juste fauve au milieu de l'arène
諦めるんじゃない、試みるんだ
On ne renonce pas, on eaasie
太陽を直視することを...
De regarder droit dans le soleil...