2012年6月24日日曜日

愛人と妻と祖母の葬式

『さらばベルト -  あるいは祖母の葬式』2012年フランス映画
"Adieu Berthe - L'enterrement de Mémé" ブルーノ・ポダリデス監督 ブルーノ&ドニ・ポダリデス脚本
主演:ドニ・ポダリデス、ヴァレリー・ルメルシエ、イザベル・カンドリエ、ブルーノ・ポダリデス

2012年カンヌ映画祭・監督週間出品作
フランス公開:2012年6月20日

 最初の飛行機が兄弟(ライト兄弟)だったように、最初の映画は兄弟(リュミエール兄弟)でした。以来映画はワーナー兄弟、マルクス兄弟、タヴィアニ兄弟、コーエン兄弟、ダルデンヌ兄弟など、さまざまな兄弟の活躍に支えられてきましたが、フランスは1992年の短編映画『ヴェルサイユ左岸』以来、このポダリデス兄弟(ブルーノ&ドニ)がその兄弟伝統を継承しています。
 このポダリデスという地中海系の名前を持つ家は、ヴェルサイユという裕福な町で薬局を経営していました。父はその薬剤師。母は薬局とは関係がなく英語教師。しかし母方の祖母というのはヴェルサイユ屈指の老舗書店の経営者で、土地の名士でした、この映画はそういう自伝的要素がいっぱい出てきます。
 アルマン(演ドニ・ポダリデス)は薬剤師で薬局経営者で、同じ薬剤師の妻エレーヌ(演イザベル・カンドリエ)とリセ生の息子ヴァンサンと(ヴェルサイユと特定できませんが)イル・ド・フランスの瀟酒な町に住んでいます。その薬局の階上にエレーヌの母シュザンヌ(カトリーヌ・イエジェル)が住んでいて、これが金持ちの上に婿いびりが好きという、どうしようもない姑様です。つまり上に書いたようなポダリデス家の背景と似せているわけですね。
 映画は唐突にアルマンの愛人アリックス(演ヴァレリー・ルメルシエ)の家で、アルマンの趣味のマジックショー芸の練習をしているところから始まります。顔に立方体の箱をかぶり、箱には四方八方から剣が突き刺さっています。アルマンの携帯電話にメールが着信されます。アリックスがメッセージ読んであげるから、解除コード教えて、と言うのですが、アルマンはいやそれは極私的なものだから、と教えず、たくさん剣の突き刺さった箱の中に携帯電話を入れさせます。そこでアルマンは祖母ベルトが亡くなったことを知るのです。
 アリックスは前の恋人(アブデルという名前。電話の相手としてのみの出演)との間にひとり娘ジュリーを設けていて、ジュリーは今やアルマンによくなついていて、アルマンのマジック趣味まで伝染して、手品を披露するのが好き。アルマンの電動キックスクーターに同乗させて ジュリーのスポーツクラブへの送り迎えも彼がしているのです。
 電動キックスクーターで行き来できる距離で、アルマンは妻(家庭&職場)と愛人宅を往復する二重生活を送っているわけです。日本式にたとえると、薬局のオヤジが仕事中にもかかわらず「ちょっとパチンコ行ってくるわ」と抜け出す身軽さですね。この二重生活は、当然のことながら平衡が続くわけがなく、愛人の方がクレッシェンドし、妻の方がデクレッシェンドしていくのです。それを象徴するのが、仕事中だろうが、妻との対話中だろうが、真夜中だろうが、だれかれはばかることなく着信されてしまう愛人からの携帯メールメッセージなのです。映画では大スクリーンにそのままメールメッセージが映し出され、その度に場内で笑い声が起こります。2012年的今日、人目をしのぶ恋人たちは、声をひそめて電話することなどせず、大胆に携帯メール交信で生活のどんな場面にあっても愛を確認できるようになったのです。恐ろしいことです。
 妻エレーヌは愛人アリックスと一面識もありません。しかしアルマンとの破局が近いことを知っています。アルマンは別離がゆるやかでゆっくりであることを願っています。「少しずつ始めていこう」とアルマンはエレーヌに提案します。「例えば、明日から一緒に朝食を取らない、とか」。笑っちゃいますよね。
 一方愛人アリックスは情熱の女で、どんどん領土拡張していきます。娘ジュリーの誕生パーティーに「アルマンのマジック・ショータイム 」という娘の手描きの招待状が、子供たちに配られ、もうアルマンは家族の一員という疑似「公式発表」したくてたまらないわけです。情熱の女は燃えやすく激しやすく(だから愛人でしょう)、度が過ぎるととんでもなく野卑な表現(例えばちんちんの大きさのことで男を罵倒したりすることです)がどんどん出てきます。これはヴァレリー・ルメルシエの真骨頂ですね。
 さて、このジュリーの誕生パーティーに割って入ってきたのが、祖母の死です。アルマンの記憶にほとんど残っていない祖母を思い出すひまもなく、葬式の日取りの問題が発生します。ジュリーの誕生パーティーとぶつかってはいけない、という思いがアルマンにはありますが、ま、映画ですから、その日になってしまうんですね。それはエレーヌの母シュザンヌの強引な横やりであり、自分の娘婿の祖母にふさわしい豪奢な葬式にしたい、というので既にハイテクでポスト・モダンな葬儀屋と段取りを組んであったのです。このニューエイジな葬儀屋のプレゼンのシーンがまた傑作なのですが、 葬儀屋シャルルを演ずるのがポダリデス兄弟映画には欠かせない異色男優ミッシェル・ヴュイエルモズで、後半では妻エレーヌに横恋慕する男というポジションを獲得します。
 この葬式の日を何とかずらさなければならない。義母シュザンヌの言いなりにさせてはならない。死んだのは俺のメメなんだから、俺が決めるんだ。
 というところで、墓地で偶然、町の零細(二人だけで稼働している)葬儀屋のイヴォン(演ブルーノ・ポダリデス)と出会い、シュザンヌの決めた葬式日の前日にできると知り、即決。ベルトが死んだノルマンディーの養老院の遺体安置所に、イヴォンが遺体を取りに行くのに便乗して、アルマンとアリックスはベルトの養老院に遺品を回収に行きます。この霊柩車(イヴォンの葬儀屋にはこれ一台しか車がない)でのドライヴが、映画のポスターとなっているシーンです。
 映画ですから、ここでまた事故が起こります。日帰りのつもりで出かけた一行は、遺体安置所を出た霊柩車バンが故障エンコしたため、アルマンとアリックスは養老院のベルトが使っていた部屋で一夜を明かすことになります。そこで二人は遺品の中から、若きベルトが書いていた手紙の束を見つけます。そこにはベルトが妻子ある興行マジッシャンと道ならぬ恋に落ちていたことがしたためられてあり、ただならぬ手品師への恋慕とベルトの苦悩が赤裸々に表現されています。アルマンはその夜、夢の中で若きベルトと再会し、自分は網タイツ姿のアリックスとエレーヌをアシスタントにして大マジックショーを披露するマジッシャンになって登場します...。
 翌日、シュザンヌが手配したハイテク葬儀屋が遺体を回収に行ったら、遺体はすでになく(イヴォン葬儀屋が取ってしまった)、烈火のごとく怒ったシュザンヌは遺体とアルマンの居場所をつきとめ、葬儀屋シャルルと共にベルトの養老院に乗り付け、遺体を回収したばかりでなく、アルマンとアリックスの浮気の事実をつきとめてしまいます....。

 この世代は40歳から50歳までの、今だったら壊れてももう一回やり直せる、と思っている人たちです。日本でもそうなのか、フランスが顕著なのかは知りませんが、この人たちは簡単に離婚し、別離します。私は娘の幼なじみの両親たちで実感するのですが、40歳すぎたらみんな競争するかのように離婚してしまいます。ベルトの養老院の女性ディレクターが、アルマンとアリックスを迎えての食事の時に「今の夫婦は本当に長続きしない。それにひきかえあなたたちはこんなにも仲がよろしくて...」と祝福するのですが、アルマンは小さく「実はこの女性は妻ではない」と言ったのに、聞こえていない。そう、軽いことなのです。結婚する、離婚する、愛し合う、別離する、これが40歳代にはその価値の重さが減ってしまったかのように、第二のチャンスの優位性に惹かれていきます。子供がある程度大きくなって、おまえにはもう十分してやった、という親の勝手なリクツも通るように思っています。そして何よりも、右を見ても左を見ても全然珍しいことではない、ということが免罪符になってますよね。「40歳代で離婚、フツーじゃん」という風潮ですな。
 この映画は逆に「未練」の方を浮き彫りにします。アルマンはエレーヌやヴァンサンのことを想い、アリックスはジュリーの誕生日に来れないというアブデル(ジュリーの父)の言葉に逆上し、その強い悲しみを押さえ切れません。そしてベルトの手紙が教えてくれるもの、それはその悲恋の爪痕がどういう経緯は知らず、手品/魔術に魅せられる孫のアルマンに伝わって、それはさらに伝染して、アリックスの娘のジュリーにまで至っている。アルマンはそのすべてを強烈に愛することで、何も捨てられなくなってしまうのです。
 ラストシーンは(書いちゃいけないことでしょうが)、ベルトの骨灰を養老院の庭園の沼に播き、ジュリーの誕生日のマジック・ショーが始まります。 大型木箱トランクにアルマンを入れ、アリックスが南京錠を二つかけます。そして木箱トランクに乗ったアリックスが大きな布でトランクと自分の体を覆って呪文をかけます。気合いと共に布が落ちていき、(通常この芸ではトランクの上にアルマンが登場し、トランクの中にアリックスが入れ替わっている)、あらら、失敗、トランクの上にはアリックスが残っている。その時、アリックスの携帯電話にメールが着信されます:"Je reviens"(帰ってくるよ)。トランクを開けてみるとアルマンの姿はありません。そしてその時同時にエレーヌの携帯電話にメールが着信されます:"Je reviens"(帰ってくるよ)。

 マジッシャンですから、逃げがうまい映画です。ポダリデス兄弟はマジッシャンですって。

(↓『さらばベルト』予告編)

2012年6月20日水曜日

「ノー・フューチャー」と共に老いる

『大いなる夕べ』2012年フランス映画
"Le Grand Soir" ブノワ・ドレピーヌ+ギュスターヴ・ケルヴェルン監督
主演:アルベール・デュポンテル、ブノワ・プールヴォールド、アレスキー・ベルカセム、ブリジット・フォンテーヌ

2012年カンヌ映画祭「ある視点」出品作
フランス公開:2012年6月6日

 いろいろと無理のある映画です。それはズバリ、この2012年的現在において、パンク的反抗は可能か、という無理でもあります。また、結論的に言うと、「パンクは可能か」ということ自体が愚問で、パンクは自己デストロイであり、可能をノー・フューチャーに自壊するものだから、という最初からの言い訳があります。
 この時代、誰もが "C'est la crise"(経済危機の時代だから)という、どんな事象にも通用する言い訳があります。生活が苦しいこと、貧乏人がさらに貧乏になっていくこと、職を失うこと、夫婦関係や家族関係が破壊されること.... これらをすべて "C'est la crise"という口実・免罪符で説明してしまえるのです。サルコジは2012年の大統領選挙運動の時に、「われわれを襲っている前代未聞の経済危機」がサルコジ失政のすべての原因であり、サルコジは「前代未聞の経済危機」をうまく舵取りできたから失業率がこの程度で収まったのだぞ、という自画自賛に論理をすり替える戦法を取りました。そして負けました。
 この映画自体は他愛もない中年パンクの悲しい反抗の話です。地方都市郊外の高速道路インターチェンジに近い、ノーマンズランドに建設されたような大面積のショッピング街が舞台です。フランスではこういう無味乾燥で非人間的なショッピング街がいたるところにあり、そこにはどこでも判で押したようにカルフール(ハイパー)、ショーセリア(ディスカウント靴屋)、ルロワ・メルラン(ブリコラージュ、日曜大工、DIY)、グラン・レクレ(大規模玩具店)といった店が並んでいるのです。
 その中でジャガイモ料理をスペシャリティーとする「パタットリー(pataterie)」というファミレスを経営するのが、ボンジニ夫妻です。夫ルネ・ボンジニ(演アレスキー・ベルカセム)、妻マリー=アニック・ボンジニ(演ブリジット・フォンテーヌ)。フォンテーヌ/アレスキーの夫婦に、こういう映画での演技をさせること自体がめちゃくちゃに無理のあることなのです。当然この二人は演技から外れた「地」がおおいにはみ出してきて、映画のリズムをおおいに壊しているのはしかたのないことです。その上、二人の子供に対して、「あんたたちはわたしたちの子供ではないんだよ」なんて(通常の映画では核心的な問題となりましょうが、この映画ではまったく「どうでもいい」問題)言わせるんですが、映画の流れ上、何の意味もないのです。この両親はほとんど何の意味もなくこの映画に登場するのですが、その存在感だけで、はいとても良くできました、と監督さんは及第点を上げて、どうぞお引き取りください、と出口までお送りするしかないのです。
 その息子の長男の方のブノワ(演ブノワ・プールヴォールド。自分のことを"NOT"ノットと呼ばせている。額に"NOT"のクギ字入れ墨)は、一生に一度も働いたことのない、マルコム・マクラーレン言うところの「パーマネント・ノン・ワーキング・クラス」(70年代イギリスのパンク・ムーブメントを支えた郊外型若年失業者層)のパンク中年です。もう70年代から時間が止まってしまったかのような、モヒカンヘアとビールとドックマルテンス・ブーツの路上生活者です。
 それに対して次男のジャン=ピエール(演アルベール・デュポンテル)は、一応定職もあり、妻も子供もいるフツー人という設定で登場しますが、その激しやすくキレやすい性格は兄以上であることが映画序盤で露呈してしまいます。寝具販売店チェーンに勤め、かの郊外ショッピング街の店で寝具セールスマンとして働くジャン=ピエールは、店から強いられた販売目標に大きく及ばず、その強度のプレッシャーに勝てずに逆ギレしてしまい、解雇されます。アルコールが入ると抑制が全く取れなくなるタイプ。
 その解雇の不当性を訴えるために、ジャン=ピエールはかのチュニジア「ジャスミン革命」の発端となった青年と同じように、ショッピング街の最も目立つところ(ここでそれはカルフールのレジの前)でガソリンをかぶって焼身自殺を図ります。"Justice ! (正義を!)"と叫んで、衣服に火をつけたところまではいいのですが、すぐにスプリンクラーが作動して、天井シャワーによって鎮火。焼身自殺は衆人の注目を集めることなく、単なる迷惑行為としてガードマンからつまみ出されます。
 この傷ついた魂を、兄のブノワ"NOT"はパンクに変身させることで救済するのです。頭髪にカミソリを入れてモヒカンにし、額には"DEAD"の クギ字入れ墨を。すなわち兄弟あわせて "NOT DEAD"。パンクス・ノット・デッド。映画はこのように、誰もが思い浮かべるようなステロタイプ化されたパンク像をこの二人に体現させます。兄は弟にパンクの心得を伝授し、人に物乞いをする方法を教えます。
 そして夜にはディディエ・ヴァンパス(もちろん本人です)のコンサートでポゴダンスで炸裂し、ステージの上からダイブする兄弟になるのです。因みにディディエ・ヴァンパスは実生活ではパリ地下鉄公団(RATP)の電気作業員でしたが、この4月に50歳で退職しています。この映画で若いパンクスなどひとりも登場しません。すべて中高年です。中高年パンクは筋金入りだ、 と思われましょうが、2012年的現状の中でこの人たちはほとんど化石と化しているのです。いや、化していない、という標語が "NOT DEAD"です。
 魂を解放されたジャン=ピエールは世の「システム」、「モラル」、「強いられた沈黙」などに徹底した反抗を開始します。造反有理。反抗することには意味がある。ナイーヴに頭脳を増幅させたジャン=ピエールは40年前の若パンクスと同じように「パンク革命」を夢想してしまいます。そして、イエス・キリストのように聖なる言葉を得たと自覚したジャン=ピエールは、その言葉で民衆を導くべく、ルロワ・メルランの大駐車場で演説集会を催すのです。名付けて「ル・グラン・ソワール」(偉大なる夕べ)....

 すべてにおいて無理のある映画ですから、 その無理は通りません。監督したブノワ・ドレピーヌとギュスターヴ・ケルヴェルンは、民放TVカナル・プリュスの共和国風刺番組「グロランド」(フランスに似た共和国グロランドでの出来事の週間ニュース・スケッチ集)の出身で、低予算のパロディー・スケッチ・コントには卓抜な手腕をふるえるコンビです。この映画でもそのテレビでのテクニックのような、シチュエーション・ギャグが随所に登場しますが、当たりハズレあり。ちょい役で、ヨランド・モロー、ジェラール・ドパルデュー、バルベ・シュローダー、ドニ・バルト(ノワール・デジールのドラマー。バーマン役。ばっちりはまっていた)なども出演。音楽はディディエ・ヴァンパス(ライヴ!)、ノワール・デジール、ブリジット・フォンテーヌなどの曲が聞こえます。そしてショッピング街の荒涼殺伐とした風景に流れる「荒野のハーモニカ」は、アラン・バシュング。
 だから、どうなんだ、という映画ではありまっせん。私は何も言いません。

(↓『大いなる夕べ』予告編)

2012年6月19日火曜日

マリールーはいつつのカタカナ

『われらの世界へようこそ』
"Bienvenue Parmi Nous"

2012年フランス映画
監督:ジャン・ベッケル 
主演:パトリック・シェネ、ジャンヌ・ランベール、ミウミウ

フランス公開:2012年6月


 初に言っときます。プレスから酷評されてます。それがまた、そそるところではあるのですが。とにかくこのシナリオの単純さと甘っちょろさは、シネフィルならずとも一目瞭然のものではありますが、それを超えたなにかがあって、私の琴線をおおいに震わすものがあります。
 少女の名前はマリールー。自己紹介はこうです「わたしの名前はマリールー、あの歌と一緒よ」。うっそだぁぁ。これ、まずい、と思ってしまった時には既に遅く、この映画の随所で、ミッシェル・ポルナレフの『グッバイ、マリールー』の流麗な旋律が流れるのです。この映画はポルナレフ『マリールー』が、いかに完成度の高い名楽曲であるかを思い知らされる作品です。夕日に似合う,浜辺に似合う,老人の物思いに似合う,そして別れの場面に似合う(なにしろ「グッバイ」と歌ってるのだから),そういう映像にどんぴしゃにシンクロする曲なのです。逆に言うと,この映画は壮大なる(この曲の)ヴィデオ・クリップのようでもあります。この辺がね,映画批評家の攻撃のタネになりますわね。
 タイヤンディエ(演パトリック・シェネ)は60歳を過ぎた老画家で,妻アリス(ミウミウ)とイル・ド・フランスの風光明媚な田舎に住んでいます。コローが描いたようなグリーンな環境にある田舎家です。子供たちと孫たちが時々やってきますが,老画家は不機嫌で,何を見ても不愉快で,その厭世観はただものではありません。画家として名声を得たにも関わらず,もう10年も絵筆を持つことができない状態です。インスピレーションの枯渇。何もかも投げ出したい。生きている意味などない。絵に描いたような鬱老人です。
 ここが私は弱いと思いました。全然芸術家の鬱に見えない。普通人のストレスとさほど変わりないパトリック・シェネの苦悩の演技。唐突に老画家は銃砲店に入り,猟銃を購入して,自殺を準備します。愛する妻に手紙を残して,自殺行に旅立ちます。ところが死にきれません。
 車での雨の夜の彷徨いの果てに,助手席のドアを開けて「乗せてってちょうだい」と闖入する少女あり。「家を追い出されちゃったの。町まで連れていって」。俺と何の関係があるのか。老画家はそれどころではない、俺は死にたいのだ、という神経衰弱の頂点(そうは見えない)で、強引な少女に押し切られて、車の同乗を許すのです。
 少女マリールー(演ジャンヌ・ランベール。新人。初出演)のバックボーンは郊外集合社会住宅(シテ)で、母親と二人暮らしだったのが、母親に暴力的な愛人が出現して二人の巣に入り込み、邪魔になった娘を追い出したのでした。暴力に弱い母親。しかもこの娘(15歳。溢れ出る青い色気)が、愛人を誘惑してしまうのではないかと疑う、 嫉妬深くも母親とは思えないような母親。この辺りの描写、とっても弱くて、単純化しすぎてますね。なぜなら、最後は母親と娘の愛情の復活という大団円があるわけですから、母親のこともっと掘り下げるべきでしょうが、どうなんでしょうか。
 この「溢れ出る青い色気」というところは、ひとつのリファレンスがあります。それはジャン・ベッケル自身の映画『殺意の夏』(1983年)のイザベル・アジャーニなのです。少女は蓮っ葉な装いと厚めの化粧が好きで、野卑な言葉を使い、無作法で激情的です。どこにでもあるような怖いもの知らずの不良郊外少女でしょうが、その野性的なところはアジャーニのクローンのようです。おまけにこの映画では『殺意の夏』が深夜テレビで放映され、母親の愛に飢えたマリールーが、映画の中のアジャーニに自己投影して、さめざめと泣くというシーンがあるのです。
 家に帰れない老画家と、家に帰れない少女。この共通項が二人を遠出させるのです。長い時間車を走らせ、着いたところは特定されていません。私は映画誌の資料で、そこがフランス西海岸、ポワトゥー・シャラント地方であることを知ります。未成年誘拐罪が立件してしまうこの逃避行をカムフラージュするために、タイヤンディエはマリールーを娘と称して、海辺の週貸し一戸建て別荘に住み込みます。同じく映画誌の資料で、私はそこがレ島(イル・ド・レ)であることを知ります。レ島、ラ・ロッシェル、ロッシュフォール、内陸湿地帯のマレ・ポワトヴァン... それはそれは美しいポワトゥー・シャラント地方の風景で、そこにポルナレフ『グッバイ・マリールー』の流麗なストリングス間奏部が流れたりするもんだから、まるで...音入り絵はがきのようなもんです。
 行儀の悪い少女、町で遊ぶのが好きな少女、扇情的な格好をする少女、タイヤンディエはこの少女との奇妙な共同生活で少しずつ変化していきます。そして 二人の共犯関係は、生を捨てかけていた老画家に、再び絵筆を持たせるという奇跡(そんな大げさな)を起こすのです。海水から上がってきた15歳の瑞々しい肉体が、レ島の砂浜に横たわった時、老画家はスケッチブックに多色フェルトペンで夢中になって描き始めるのです。「わお、おっちゃん、絵ぇうまいやんけ。これいっぱい描いて、日曜市で売ったらもうかるで。10枚やったら100ユーロはかたいんちゃう?」と事情を知らない少女は無邪気に言うのですが、著名老画家はその評価に反論して「いいや、200ユーロはいけるだろう」と言うのです。私、ここのダイアローグ、いいなあぁ、と感心しましたね。
 タイヤンディエの絵をレ島の日曜市で売る、この卓抜なるアイディアを実行するべく、スケッチブックを買いに行ったキオスクで一緒に買った新聞で、老画家はマリールーの母親が愛人に殴打されて瀕死の重傷を負ったという記事を見つけます。(これもあり得ないでしょう。こんな三面記事以下のニュースを新聞紙面の半分使って、被害者の大きな顔写真が出るなんて。弱いシナリオだなあ....)
 二人の共同生活はここで終止符を打ち、病院にかけつけ、マリールーは命をとりとめた母親と和解します。タイヤンディエはアリスの待つ家に戻り、マリールーを描く絵に取り組みます。母親の入院生活が終わり、マリールーを母親の住む郊外集合住宅(シテ)に送っていき、老画家と少女は別れます。それぞれの再出発。車を出発させ、バックミラーでマリールーの姿を見ながら..... われわれはここでミッシェル・ポルナレフ『グッバイ、マリールー』 をフルコーラス聞かされることになるのです! エンドマーク。
 いったい、どうしたらいいんですか、こんな映画。

(↓ 『われらの世界へようこそ』予告編)



(↓ Youtube アマチュア投稿によるクリップ『グッバイ、マリールー』)